発熱に伴う発汗、関節痛。せき、のどの痛み、鼻づまり。くしゃみに痰、悪寒。
薬の箱に書かれた症状の三分の二は、まるきりあてはまってしまう。
ピピピ、とちいさな音を立てる体温計を脇の下から外し見遣れば、あまり直視したくない現実が映し出されている。何やら頭痛までしてきた。
つまりあれだ、私は風邪をひいたのだ。


あの後、昇降口に放置していたコートと鞄を取りに戻って、もう帰ると言う雅治と一緒に学校を出た。
幾度も並んで歩いた通学路なのにまったく現実味が沸かず、尚もぐずぐずと詰まる鼻のおかげで呼吸がしにくかったし、泣きはらした目蓋は腫れぼったく、靴底で確かにコンクリートを踏みしめているはずだが浮ついている。
夢を見ている時よりも、夢じゃないかと疑った。
なんでもない会話をニ、三交わし、沈黙が降るととてつもない勢いで空気がから回って、声が聞こえていればちっとも気にならなかった心音は体中でがなり始める。
照れくさいというのも勿論あるが、それだけに留まらぬ感情の波があった。
なんだろう。
なんて言えばいいんだろこれ。
呪文のように繰り返したところで、解決には至らない。
ぐるりとお腹の真ん中を巡り、両足を鈍らせ、ついには肩まで縮こまらせる熱が苦しい。
だというのに、ひとつも嫌ではないから対応に惑いが生まれる。
吐く息を震わすまいと慎重になるので精一杯だ、幼馴染の様子を窺う余裕などなかった。
視界が白ばむ。車の行き交う大通りから少々灯りの乏しい住宅街へと入り込んで、頬の赤さを追求されぬであろう暗がりにほっとしたのもつかの間、指を絡めとられて心臓が止まりそうになる。
雅治のそれは氷みたいに冷たい。
……この人、生きてる?
などと混乱するほど低い体温に慌てふためき、思わずぎゅっと握り返すと即座に応じられて一瞬こわばった肩がゆるんだ。
しかし、あ、大丈夫、生きてる、と胸の内で呟いたので、相変わらず錯乱しているのだろう。
致し方ない、何せ冷静でいられない事が続けざまに起きたのである、落ち着き払い普段通りに過ごせる方が異常だ。
指を重ね、掌と掌を合わせている内、触れる爪に温度が宿っていくのがわかり、ようやく人間らしい様になってきたのは良いが、その代わり気恥ずかしさが圧倒的質量でもって襲いかかってきた。
たまらず、唇を開く。
プ、プリントは、誰かから借りたの。
思い切りどもった。
借りとらんよ。語学準備室行って、直接貰うてきた。
聞き慣れた声だった。
あ、ああ、そう、それはよかった、よかったけど、あの…ご迷惑おかけしました。
いんや。
……あの、色々ごめんね。
返事はなかったが、繋いだ指に力が籠もったので、怒ってはいないらしい。
間で横たわる静寂が耳に痛く、これなら黙っていた方がましだった、後悔がどっと降り注ぐ。
私も雅治も変だ。
今まで生きてきた中で一番と言っても過言ではない。
否定的な意味でなく、これほどまでに不自然な幼馴染も覚えがなかった。
だから多分、幼馴染は幼馴染じゃない。正確には、幼馴染でありながら別のものになっている、そう表現するべきだろうか。
ひずみの所為で、より強い自覚がやってくる。
私、雅治が好きなんだな。


今にして思えば、とんでもなくネジの外れた思考回路だった。
当時は一世一代のシーンを終えたばかりの余波だと信じ込み流してしまったけれど、過ぎるとある意味風邪の前触れだったと言わざるを得ない。
淵に沈むあまり自宅を通り越して突っ込まれ、手を離した後も熱が残り、頭の天辺がふわふわと頼りなかったのも、おかしいと感じつつすべて己の心の問題と片付けたのがそもそも間違っていたのだろう。
家に入るや否や寒い、と呟き、胃が空腹を訴えないのを良い事にまずお風呂へ直行し、上がって体を拭いている時に本格的な違和を抱く。まさかね。振り払いながら、濡れ髪のままでリビングに向かい、一応計ってみようと体温計を手にしたところで、あんた顔赤いわよ、母親の一声。
さっさと髪を乾かしてあたたかくしなさい、と厳しくも優しいお言葉を頂戴し、部屋に戻ってドライヤーを動かしているさ中で力尽きた。体温計を駆使するまでもない。
くたばった私は、いつまでも出てこないのを心配した母によって発見されたのだった。

はたと目蓋を上げると天井が見える。
室内はうす暗く、何時だろう、思ったが、首を揺らす気力はまだない。
あれから強制的にベッドに入らされたあげく、ぶ厚い布団を掛けられたままで夜を過ごした。
朝の記憶が曖昧で、学校に連絡したのは誰なのかすら知らない。
毒々しい色をしたそばが最後の食事だったし、お腹は空っぽのはずだが沈黙しきりであったので、固形物を口にしたのは昼過ぎてからだ。
とろとろと美味しそうに煮込まれたおかゆだったが、まごうことなき風邪のおかげで味がさっぱりわからなかった。
薬を飲んで、やっと体温を測る。
額の冷却シートを張り替えてから、再び布団にくるまれた。
それからどのくらい寝てたんだっけ。
ぼんやりと瞬きをしていると、閉めきられたカーテンの向こうから雨の気配が漂ってくるので、はみ出た右肩がにわかに震える。
朝は余裕などなく、昼も昼でそこまで気にする暇がなかった、いつから降っていたのか。
わからない事だらけだ。
天からの滴りがしずしずと屋根に跳ね伝い、風向きが変わるごと窓は細やかな音の数々に打たれている。
煙る空気の遠くで、救急車のサイレンが濡れた街並みを切り裂く。
ゆき過ぎるのを聞き終えて、友達に連絡を入れ忘れている、気がついた。
慌しく別れたっきり翌日寝込みました、じゃあんまりだ。何事だという話だ。
そもそもタイミングが悪すぎる。
何も今日風邪をひかなくたっていいだろう、これではまるで阿呆そのものだと思う。
はしゃいで熱を出したようで恥ずかしい。
だけれど思い当たる節が多々あるので、言い訳のしようもないのはしかとわかっていた。
薄着で寒空の下ぼけっとしていた日もあれば、上にはワイシャツ一枚、素足でスカートといった目に余る格好でうろうろしていた午後もある、きわめつけに昨日のコート無しでの疾走だ、馬鹿でも風邪をひく。ひくと思いたい。だから私のせいじゃない。いや私のせいだけど。
こんがらがった脳内を正し、ともかく連絡、とサイドテーブルに置かれているはずの端末へ首をめぐらせ、はっと息を呑んだ。
伸びた襟足。ほとんど白に近い銀の、後頭部。
反射した舌が丸まった。

「……雅治?」

口にしてから驚く。
百人いたら百人は風邪だと判断するであろう、見事な鼻声だった。おまけに熱の所為で掠れているから、聞き苦しいことこの上ない。

「起きたか」

ベッドを背もたれにしてフローリングの床に座り込んでいるらしい雅治が、首から上だけを捻って振り返った。
片目。
判じるか判じないかの早さで、血液が燃える。

「誰ぞわからんが、あれはお前さんの友達か? これ持ってけあれ持ってけ、言われてのう。飴やらホッカイロやら、ああ、ノートとプリントも押し付けられたぜよ。で、そこまで来たらおばさんに会った」

開かれた私の目を確認し、首の角度を戻した雅治が淡々と説明し始めた。
沈下した一瞬の熱が少しだけ寂しく、人恋しいような気持ちを諌めて、学校帰りなら今は夕方くらいかな、判断する。

「…おかあさん?」
「買いもん行きたかったんじゃが、お前一人残していけんっちゅうてな。20分くらいで戻る言うとったぞ」

それはそれは毅然とした物言いで留守番を頼まれたらしい。
はいとかいいえとか答えるより先に玄関に押し込まれ、鍵をかけるよう言い残し颯爽と車に乗っていったそうだ。
私は別種類の目眩を覚えた。

「ごめん……迷惑、」
「ええよ、たかが20分じゃ」

本当にこだわらない音色が聞こえて来、腰を患ったにも関わらずゲートボール大会に出場したおじいちゃんがとうとう病院送りになった事を思い出したのだった。
父は勿論仕事、兄は大学、家には誰もいない。
そういえば昼頃、手渡した体温計を目にした途端しかめっ面をしたお母さんが、なんでこんな時にあんたまで、とぶつぶつ言っていたような気がする。
神様仏様、母なるお母さんごめんなさい。
気だるさの中、拝みながら謝罪した。
頭上のサイドテーブル前、私から見たらほぼ真横に座る雅治は、手元の雑誌に目を落としている。寝ながらの視界には首筋しか映らず、顔色など窺えない。
ぺら、とページをめくった音と同時、軽い咳き込みを覚えて喉をそむけた。
乾いた衝動と戦いなんとか耐え忍んだのち、かの名前を唇へ乗せれば、眼差しだけが投げ寄越される。

「……はなれて」

丸くなった瞳はなんだか可愛らしい。
こちらの意図を掴めないでいる様子の雅治は促すように、ん? と顔を傾けた。

「風邪…うつる……だめ…」

古びた漫画に登場する原始人、あるいは怪しげな中国人かといった言い草になった。
風邪、タイヘン、ウツル、ダメ。
きちんと聞いているのか、はたまた熱で湯だった人間の言う事だと受け流しているのか、雅治は息を吐いて笑う。

「ひどい声じゃの」

わかってるよそんなのだから離れてって言ってるんじゃん。
よっぽど続けてやりたかったが、生憎の喉模様でかさつく呼吸しか生まれてこない。
再度傾きを直し、真正面を向いて読書の一環に励む幼馴染は移動する素振りなど一切見せず、どっかり座り構えているのだ。たとえば立場が逆だったとして、自分は彼の部屋でこんなにくつろげないなと思う。
(私の部屋に雅治がいるの、久しぶりだ)
とはいえほんの幼い頃に数回招いた記憶があるだけだし、あの時と今では声に始まり体格やらその他諸々やら異なる事が多すぎる、ほぼ初めてに近いともいえよう。
身に巣食う病の所為かもわからないが、妙な感覚に包まれた。
恥ずかしいのとは違う。
嫌でもなく、かといって大歓迎したいわけじゃない。
面映い、がかろうじて当てはまる、かもしれない、おそらく、といった程度だ。
けれど、懐かしい気持ちも漂っているような気がした。
落ち着かないけどほっとする。そばに在る気配に健やかな睡眠を提供されかけて、ちょっと緊張しているから眠れない。
――熱が上がってきたのかもしれない。
余計な領域にまで達しかねない思索を取り止め、なんとはなしに彼の背後ろを見遣った。
雨音がひそやかに響いている。
髪ゴムをほどいたら、長さはどれくらいだろうか。そこそこの箇所まで届きそうである。猫の尻尾みたいな毛先は、制服の襟に乗っかっていた。
手首や腕を男の子だと認識した事はあったけれど、首を、それも後ろ側からまじまじ観察するのは初めてだ。雅治の、というより他人の一部分を凝視する機会などそうそうないだろう。
自分のものを想像するのは難しかったので、台所に立つお母さんを思い出したが、頭の中のみで比べてみても太い。筋張っていて、弛みなんか存在していなかった。ぱっと見そうとはわからずとも、スポーツ選手なのだから当たり前かもしれない。
雑誌を読む為に若干前かがみになった、いつも以上に顕になっているその首筋は、曲がりなりにも屋外競技者だというに憎たらしいほどほの白く、やはりどこか寒そうだった。
生え際は隠れていて、どこだかわからない。
縒れたシャツがブレザーから見え隠れする。
ふいに呼気の擦れる音が耳まで届く。
片膝を立てていた形から胡坐に変え、首筋を撫でさすり掻く左手の持ち主は、他でもない雅治だ。
視線の先は、手の甲にスライドした。
昨日みたく暗闇で目にするよりも、はっきりと骨の形や血管の色がわかる。
付け根には、当然のように黒いリストバンド。ラケットを握るにはその方がいいのだろうか、爪がやや短い。気にするタイプには思えないからおそらく何のケアもしていないに違いなく、肉を覆う皮膚は乾燥していた。
同性のはずなのに、兄のものとはまったく似ても似つかない。
血の繋がりもない他人である、あえて疑問を抱くところではないのかもしれないが、なにかとても不思議だった。
ただの手。
込み入った事情がなければ、みんな持っている。
私だって大体は同じ形だ。
でも、何故だか捨て置けない。
あの掌に髪を梳かれ、抱きしめられて、繋がれた。
それだけで、いっとう特別になる。
またあんなに冷たい指先でいるのかな。
呆けた頭で呟けば、

「……

呼ばれたので思考の泡がはじけて消えた。
用もなく口にするものでもない、大人しく続きを待つ。

「見るな。穴があく」

ある程度揃えられていた指はばらばらに広がり、本来なら顔や額を包み拒むところを仕方なしに後頭部で行っているような様相である。
正面きって睨めっこしているわけじゃない、見られて困ることもなかろうに何が問題だと内心首を傾げた。

「あかないと思う」
「あくんじゃ」

ぼやけた返しは、少し食い気味に跳ね除けられてしまう。
なんなんだ。首に弱点でも隠しているのか。大体、どうやって視線に気づいたのかも突っ込みたいがしかし、強行突破するべき案件ではないし、その気も沸かなかったので黙って目線を外した。
咳が肺の底から駆け上がり、口元を布団で押さえて我慢する。
飲んだ唾が風邪の味だった。
本日何度目か定かではないが、天井と顔を向き合わせる。
光の濃度が希薄なのは、雨の所為だ。
夏ならまだしも、初冬の雨雲は本当に暗い。
こんな中でよく字を読む気になれるな、電気つけなよ。
考えかけ、自分の状態を顧みた。
気づいた時には雅治がいたから、眠っている内に来たに違いない。そこで我が物顔で明かりをつけ堂々と好きに読書するなどという蛮行に走るほど、幼馴染は無遠慮ではなかったようである。
(気にしなくていいのに)
少なくともちょっと前、あるいは雅治の言う大昔、小学生の頃であったら、おそらく声をかけられていた。
大丈夫かとか生きちょるかとか、まあその辺はなんでもいい、とりあえず入室と共に気兼ねせず起こしてきただろう。私の中の小さい雅治は、得てしてそういうイメージだ。
些か意地悪。
可愛くない子供。
何にせよ扱いが雑。
時が経ったのだから、積み重なる差異は当然なのかもしれない。
でもなんとなく嬉しかった。
言おうかなと数瞬迷い、実際口にしたら、いつの話じゃ、またそん頃の話か、と不興を買いそうなのでやめておく。
雨だれがさっと窓ガラスを打ち、すぐさま大人しくなる。
外から忍びこむ湿気で心なしか室内はけぶり、馴染んだ壁もしんなりとたわむ錯覚に陥った。

「あー…あとな、うすらでかい男にも声かけられたぞ。アンケート用紙がどーたらこーたら」

滲む世界にたゆたっていたら、なんともアバウト且つはっきりしない今日の出来事が語られ、濁りつつあった意識が鮮明に晴れる。
見るなと禁じられたのを厳守し、真っ直ぐ天井を目にしたまま繰り返す。

「…うすらでかい」
「でかいのう」
「雅治より?」
「そーじゃの」

誰、尋ねても、知らん俺が聞きたい、としか返ってこず、やや途方に暮れた。
情報量が少なく相手もアンケートとやらも思い当たらない。
急を要する用事はなかったはずだが、熱に浮かされた頭が見落としている可能性も捨てきれないので、引き続き絞りこんでいく。

「私と同じクラス?」
「そーやの」
「…名前、言ってなかったの」
「言うてないんじゃろ、多分」
「……何それ」
「覚えとらんから」

やる気があるのかこの男。伝言を正しく預かる気皆無じゃないか。
かなり脱力した。
いつ、どこで、身体的特徴、委員会名、何のプリントと言っていたか。
正解に近づこうと突き詰めていく途中で雅治が、どういうわけだか口にしたくなさそうな声音で教えてくれた。お前さんがそいつと話しとるとこ、何回か見たぜよ。聞き終えた十数秒後、いまいち要領を得ない数々の回答がいびつながらも繋がっていく。
私はそんなに男友達が多い方でもないし、背の高さやその他諸々を含めて考えれば一人しか浮かんでこない。

「わかった。きっと…だけど、それ松井くん。体育祭でね、出たい競技の希望とるって言ってたから……」

一応の礼として説明したものの、沈黙。
静寂の内に雨が降る。

「あれがどいつかとか、どーでもええ」
「……雅治が誰って聞かなかった?」
「いつ」
「さっき。知らん俺が聞きたいって」
「言うちょらん」
「言ったよ」
「誰とはな。そんだけで名前なんぞ興味ないんじゃ」
「…意味がわからない……」
「そうか。なら俺にもわからん」

じゃあ一体誰がわかるんだ。
雅治は時たま、いや結構こういう物言いをする。
何が言いたいのか掴み取れず、どうしたいのかもよくわからないし、大抵あの平坦な口調でいるため余計難しいのだ。声色から察するということができない。
だけれど今のは、どこか突っ撥ねた音だった。
夏の終わり、秋が始まる頃の例外を除いて幼馴染然としてきた雅治らしくない、投げやりとも取れる声。
話題を振ったのは私じゃなくてそっちなのに、判然としない気持ちで息を吸えば干からびた喉が掠れて苦しくなる。
鼻が詰まっているからどうしても口呼吸になり、風邪には大敵である乾燥を招くのだ。
雨で普段と比べ湿度はあるはずだが気休め程度にしかならず、ついつい嘆息をもらした。
昨夜から籠もりきりの布団の中が気持ち悪い。
寒い季節にそぐわぬ汗は嫌な感触をもたらし、遅ればせながら水分補給の欲求が込み上げてくる。
続けざまに喋っていた所為かもしれない、渇きは切実だった。もっと早く気づくものだろうが、風邪に加えて熱、すべてが鈍っているらしい。
お水、と砂漠で行き倒れかかった旅行者のよう頼りない声をあげ、ベッドのスプリングを唸らせながら身じろぐと、体中の関節がぎしぎし痛んだ。
のろい動作で上半身をシーツから剥がし、やっとの思いで起き上がるや否や目眩に襲われ動けない。やたらと頭が重かった。
その間にもさっと身を翻した雅治が今度はこちらを向いて座り込み、目端で認識した私はサイドテーブル上の、昨夜母が凍らせておいてくれたペットボトルの水へ手を伸ばしかけたが、届く前にリストバンド付きの左手に掠め取られてしまい、横になっていた時より格段にふらつく思考の軸が呆けた。
雅治も飲むの。
唇には乗らない発言をたくわえている内、先程まで目の先にあった手の甲がボトルのキャップを捻って開けていく。しゃりしゃりと不可思議な音がするのは、中身が溶けかかってシャーベット状になっているからだろう。
三度も回さずキャップは外れた。
同じくテーブルに置いてあったコップへと注がれる流れを見つめていたから、一連の動きが示す結末を描く事ができず、手元に差し出されるまで全く気がつかなかった。
内側に水滴の跳ねたコップを掴むのは、雅治の手以外のなにものでもない。

「…ありがとう……」

たっぷり三秒は見入ったのち、ようやく礼が叶う。
ダメだ。今とても親切というか、優しい対応をされたはずなのに、正常な反応ができない。
重たい上に煙に巻かれているかのような頭で掌中にするそれは、ひんやりとしていて心地がよかった。同じ冷たさでも雅治の指とはちょっと違う。
などと明後日の方向に思考を遣りつつ口をつけ、息継ぎを繰り返し、しっかり飲み干す。
相変わらず味覚が狂っているのか常と異なる味がして釈然としないが、渇きを潤してくれた事だけは確かだ。いくらか気分が晴れる。
冷えて湿った唇を閉じコップを戻そうとすれば、またしても奪われるので動く必要がなくなった。
胡坐をかく雅治は座っていても猫背だから、ブレザーのお腹まわりが縒れてしまっている。
新学期と学期末では制服の皺の差がすごそうだ、脳内が霞む中で思う。
よたよたと病人じみた仕草で肘をつき、次に背が追い、最後は頭が横たわり、深い息をつく。布団に籠もっている間は決して気分爽快とは言えないのに、一度抜け出してから戻るとどうしてやっぱり楽だなどと感じてしまうのか謎である。熱って怖い。

「お前熱は」

ちょうどのタイミングで問われ少し驚き、知らぬ間に距離を詰めベッドへと片肘を引っ掛けているのにもびっくりした。さっきまで普通に離れていたはずだったのに。

「ん…お昼にはかった時は、八度七分」
「大層な数字じゃの」
「大層な…数字だよ。雅治、近い。うつる……」
「うつらんよ」

根拠なき断言だと思うが、そこまで言い切られると反抗のしようがないのも事実、口をつぐむしかない。
首を傾けて見遣れば、同じ高さにある目とかち合う。
肘どころか、その上に自分の顎まで乗っけている雅治の顔もまた傾いでいた。
垂れる前髪が双眸を揺らし、鋭い眼光は尚尖る。しかし、眼差しそのものはなだらかだ。
私がぼうっとしているから、他の人までぼうっとしてるみたいに見えるのかもしれない。

「…。俺な……うつったんは、お前さんの方じゃと思うちょる」

頭の中身に留まらず、聴覚をも病が冒しているのだろうか、聞いているはずでもなかなか耳に入ってこない。なんのこと。問いは唇と喉の狭間で消えていく。

「つられただけじゃろ。俺に。ほんにわかって言ったか」

本格的に何の話かわからない。
顔貌を斜めにしたままの雅治が、うすく開かれた唇で語る。
横に伸びる首筋のラインが張り、不健康に白い皮膚の上へと糸のような髪が降っていた。

「……釣り?」

どういう漢字をあてるべきか迷った私の腑抜けた囁きに、微笑する吐息がやわらかく食い込んだ。

「釣れた魚がお前なら、でっかい獲物じゃのう」

細くなる瞳が淡い。
ほのかに暗い室内では尚更だった。
笑む雅治には少しばかりいつかの面影が残ってい、ありし日の様々がフラッシュバックして重なる。
その情景を、目で、頭で、心で追いかけていると、自然無口になったので、聞いているようで聞いていないと思われたのかもしれない。
雅治がゆっくりまばたきをして言い連ねた。

「…のう。おまん、もっと怒れ。そんで叱れ。いつもと変わらんことを言え。どうでもいい昔話をしろ。俺がうんざりするくらい、大昔のこと引っ張り出してきんしゃい」

ふっと切られた息は詰まり、切なく歪められる。
雨霧が空気を伝って濃い。
目蓋から浮いた睫毛がちいさく震えていた。

「…………そうでもせんと、」

現実と思えんのじゃ。
静かな告解なのに、どうしてか強く響く。
それから雅治は聞き入る私へ向けて、熱のせいにでもされたら敵わん、と続けて口元を絞った。肘に埋もれるか埋もれないかの位置で唇がしなる。
近いはずの双眸は遠く、指を差し出せば掴まれる距離なのに彼方だ。
胸底に生まれた弾みが病人にあるまじき速度で吐き出された。

「私は、夢だと思ったよ。寝てる時より、夢みたいだった」

映える瞳がじっとしたまま澄んでいる。
雅治の肩は呼吸の都度、やすらかに微動した。高熱のおかげだろうが、全身が腫れぼったい。癒えたそばから渇きが蘇り、違和を感じる水の味を思い出す。
潤す涼をついでくれた手も。
冷たすぎると案じた指も。
後ろ頸を覆った甲の大きさも。
確かに私の中で脈打っているのだ。
だから多分、夢じゃない。
言おうとしたけれど、上手に言葉を選べなかった。

「昨日…一緒に帰ってる時。夢なのは、雅治が好きだからだって思ってて、でも風邪でよくわかんなくなって……がっかりした…」

自分に。勿体なかった。もっと実感したかった。
途中でついえた言葉が咽喉でうろつく。
言い切る気力が尽き始めているのだ。
鼻づまりの声に力はない。
かさつく唇を噛み、なんとか紡ごうと苦心した。

「……ごめん…風邪ひくタイミング、間違えた……」

布に籠もって落ちる笑声は優しい。

「いつなら正解なんじゃ」

喉を鳴らしてからかう目尻がわずかに甘く、体の芯がほぐれ溶けそうになった。

「わかんない…けど、今じゃないよね……」
「……気にしなさんな。風邪ひきたくてひいたわけじゃなかろ」

舌が回らない。
目の前は揺らぎ、雅治だけがかろうじて形を保っていて、壁紙がうっすら滲んでまどろんでゆく。
そこで初めて、忍んでいた眠気に思い至った。
今頃薬が効いてきたのか、それとも風邪と戦った事で消費された体力の回復のため脳が目蓋を下ろそうとしているのか。
どっちにしろ眠い。眠すぎる。でも。

「…でも……夢だったら、困る……」

言う声こそ、夢見心地に似た音色だ。あとちょっとでいいから、きっぱり断言したかった。
悔やんでも視界はとろとろと流れていくばかりで留めようがなく、雅治が傾げていた首を立たせてなにか言っている気がしても応じられない。
弛緩する声帯がゆるく動きを失くすさ中、私は間抜けにも子供みたく、眠い、としか呟けなかった。ああでも、ごめん、謝ったかもしれない。
何もわからない。
急速にすべてが混ざっていく。
部屋のうすい闇よりほのかに暗い目蓋の内に光を遮断されたがしかし、鼓膜は最後まで空気の振るえを捕らえんと張っていたようだ、そば近くで温みのある声が響いた。
――そうじゃな。俺も、困る。
じっとり額に吸いつく冷却シートのかすか上を障るものが通り、なだれる前髪へ辿り着いて、やんわりと掻き分ける。見えない分、感触は粟立ちを生んだ。生え際に差し掛かると一瞬柔らかくなり、あとはすべらかに抜けていく。
雅治。呼ぼうとし、案の定曖昧な呼吸にしかならない。
けれどもまるで聞こえているかのよう、答えがあった。

「早う治せ。……おやすみ」

額が冷えない。触れている指は、気のせいでないのなら熱かった。





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