04 足の下から冷気と共に這い上がる恐れに目を瞑り、静まり返る無人のテニスコートへ傾けていた首をぐるりと回して、ささめく竹林の影が耳奥で反響したと感じた瞬間、ブレザーのポケットが低く唸った。 予期せぬ振動に背が張り、ついでに呼吸も止まりそうになる。 驚いた心臓が脈を乱れさせた。 マナーモードにしていた端末が着信かメールか、どちらだろうか、無機質に告げている。 先程無理矢理に別れた友人かもしれない。 急ぎ慌てプリントで塞がっていない左手で摘んだのが良くなかった、動揺を重ねた指は思いきりよく滑った。 え。 呆けた呟きが掌から飛び抜けていく唯一の通信手段を追って落ちる。 震えながら軽く弧を描き舞う携帯は、広場と煉瓦道の間に作られた排水溝へと無音で消えていった。 偶然にも、蓋代わりの灰色の金属格子にぶつからず、それはそれは美しく真っ直ぐ吸い込まれていったのだ。 「う…嘘!?」 完全な独り言であったが、衝撃は大きく、表に出さぬわけにはいかなかった。 尋常ならざる俊敏さでしゃがみ、これ以上ないほどに注意深く底を浚うも、枯れた葉や乾いた土くればかりでよく見えない。 ここのところ雨が降っておらず、水は流れていないのが幸いだけれど、安心している場合ではなく、捜索には少々邪魔であるプリントを脇に挟んでもう一度確かめる。 両手両膝を地に付け、垂れる髪の毛も構わぬ有様は、傍から見ればすわ何事かと注目を集めるだろう。しかし、周囲に気を配る余裕など存在していない。 そうして念入りに視線を巡らせたは、暗すぎる溝の内にちかちかと光るわずかな明かりを発見した。振動はとうに止まっていたので、着信を知らせるランプのおかげだ。 ほっと息を吐くのもつかの間、頼りきれないとはいえ一筋の光明には違いない、光の消えぬ内に掬い上げてしまおうとグレーチングに両指をかけ握る。 ぐいと渾身の力を籠めて引いた。 1ミリたりとも動かない。 白く染まる息が弾み、だまになって浮かんだ。 がたがた音が鳴るほど乱暴に揺らしたが、外されぬよう固定されているのか本当にびくともしなかった。 嘘でしょ。 再度漏れた呟きは絶望している。 一寸、小枝でも拾ってなんとか出来ないか考え、クレーンゲームのアームでもない限り無理だと諦めた。 近い所でどこか格子の外れる箇所はないか探りかけ、後方の遠くから三、四人で騒ぐ声が響いたので思い留まる。 現在のの様相は四つん這いと表現しても間違いではなく、角度によっては下着も見えてしまうかもわからない、ようやっと気づいた少女が座り込みながら姿勢を正す。 時刻を考慮に入れるとおそらく校門へ行く途であろうが、方角が重要だ。 もし声の主たちが東門を目指しているのなら、好奇の視線を浴びる事は免れない。 親切にも話しかけてくれる人であった場合など余計に恥ずかしいし、かといって見て見ぬ振りで通り縋られても居た堪れない。 どうすべきか迷ったあげく、とりあえず座っているよりは立ってた方が怪しまれないかも、と根本的解決に至らぬ策を実行しかけ、 「どした?」 挫かれた。 はっとして声のした前方へ顔を持ち上げれば、ポケットに手を潜り込ませた仁王が寒そうに立っている。 体の芯が竦む。 「……あ、ま、雅治」 昼の言葉も、追っていた訳も、焦れた衝動も、抱えるプリントも、全て忘れて名を口ずさんだ。 一秒の空白だった。 呼ばれるままに白髪の男が同じ色をした息で応じ、の方へと歩んで来る。 どこかへ行く途中だったのか、それともどこかから戻る所だったのか、コートもマフラーも身につけていない。 膝から下をぴったり地面へ寄せながらへたり込むのすぐそばで腰を下ろし、普通にしていても鋭い目付きで排水溝を覗いた。 「あの、け、ケータイ、落とした」 ともかく説明しなければと熟考せずに口を開いたのが原因で、覚えたての言語で話しているような違和が生まれたが、仁王は何故だか追求せず、あの唇の端だけを上げる笑みとて見せず、ああそうか、ただ得心したと言わんばかりに顎で頷くだけだった。 「ちっとここで待っときんしゃい」 そして軽々立ち上がると二の句を継げないを置き去りにして、翻った背の余韻を残し深まる暗へ混ざり溶けていく。 足先を見るに、部室棟に向かったのかもしれない。敷地内の管理人か、顧問の先生でも呼びに行ったのだろうか。 最後まで吸収されない白が闇へ埋もれたところで初めて強張りがほぐれた。 鈍っていたらしい認識能力が蘇り、痛む鼓動で胸が苦しくなる。 息を吸おうが吐こうがちっとも身に入る気がしない。 長い間低気温にさらされた煉瓦から伝わる感触は恐ろしく冷たかった。 凍えているむき出しの膝を摩りつつ排水溝へ目線を落とし、仁王がどこから見ていたのかを考えると羞恥が走る。 他人でも幼馴染でも友人でも、できればあのような格好は目撃されたくない。 己の至らなさが悪いのだが、だからといって冷静な対応でこなせるはずもない、誰に強要されたわけでもないのに、無茶苦茶を言わないで、などと姿なき叱責を突っ撥ねた。 たとえば責めたとて、許容してくれる拠り所がどこにもない。 夕闇と影の中に置いていかれては、尚のこと心細かった。 ほぼ無人の庭内に反響していた声の数々は、知らぬ間に失せている。 見ず知らずの誰かに気づかれなかったのは良いが、はたして仁王に見つけて貰ったのを快く安堵出来るだろうか、不確か極まりない心境では断言が叶わない。 緊張に凝った背筋が不和を奏でた。 昨日といい、昼といい、今といい、間の抜けた醜態を晒してばかりだ。どうして格好悪い所ばかり知られてしまう。 取るに足らないプライドが口をつき、幼馴染である証拠の記憶が理性を呼び覚ました。 他人だけれど、まっさらな他人ではないからややこしい。 (別に、避けたくなんてない) むしろその逆である。 名を呼ぶなと告げられるまで、距離の幅は広がるだろうが別れにまでは達しないと暢気に構えていた為にわからなかった。 彼がどれだけ幼馴染であったのか、知ろうともしなかった。 それらを考慮すれば、現状は決して凶兆を示していない。 手酷く突き放された覚えもない。 紡がれる唇は曖昧なれど不吉と言えず、歪曲が甘やかだ。 でも。 だったら、どうして。 答えの得られぬ問いがゆるく風に吹かれ、辺りよりも一段濃い影を呼ぶ。 声もなく音もなく戻った仁王がの上に暗闇を生み出していた。 見つめても表情がよく認識出来ない。 長い影は今度はしゃがみ込まず、少々膝を折りながら落ち窪んだ携帯端末へ左指を伸ばす。 手先には太めの針金のようなものが握られており、端の部分が釣り針型となっている。 食堂でのわり箸もそうだが、仁王の行動に理解が及ぶ事など滅多にないのだと思い知らされた。わけがわからない。 「……何するの?」 立ち上がる事を忘れたは率直に尋ね、問われた側が苦笑で応じた。 まあ今にわかるぜよ。 言葉少なにするすると金属の線を降下させ、格子と格子の隙間へ沈めていく。 行方が気になって思わず身を乗り出すと、曲がった先端がちょうど取り付けていたストラップの輪に引っ掛かる所だった。 仁王が指先ひとつで細い釣り針を手繰れば、よい按排に本体が持ち上がる。 は歓喜と驚愕の声をあげた。これまでにない程その器用さに感謝し、心からの賛辞を送りたくなったのである。 行きと同様難なく引き上げられた針金に、成果がしっかりと吊られていて、自然、視線が追いかけた。救いの糸を摘む人差し指と親指が生白く寒い。 つやつやとした爪は暗い所為でいつもより健康的に映る。 引かれた肘に通ずる裾から、ボタンが外れたシャツとリストバンドが垣間見えた。 ぼんやりと降る外灯に照らし出され、翻った携帯カバーが光を一瞬反射したかと思えば、のものより一回りは大きい掌へ収まっていく。 下の方、座り込む側を向いた手の甲に青と緑の境色をした血管が薄く透け、指の付け根は骨張っている。 そういった細かなひとつひとつを、乏しい光源の中でも見失えない。 「」 煙る吐息の奥から呼ばう声が遠い。 すぐさま反応出来ず、慣れたフォルムを差し出されようやく答えられた。 弾かれて立ち、よろめく足で固い地面を押し返して右手で受け取ろうとしたところ、 「あ……、うん、ありがと!」 勢いはずんで、仁王の指ごと掴んでしまった。 生まれた拍子に、声の尾どころか体までをも唆されたらしい。 喉が事切れて空気を吸えない。 触れ合うところが隠しきれぬ震えに覆われる、冬に弱り温度を奪われていた頬は血で燃えた。 呼吸が止まる。 視線だけは手元に置いてあった為、都合のよい事に目を合わさずに済んだ。だがその分、仁王のそれがわずかながら揺らいだのを否が応でも認めなければならない。 の指の腹に伝わる爪先はひやりと凍えていた。 申し開きようがない熱を持つ掌の位置を急いで下げ、彼の指と同等に冷えた携帯を引き抜けば、いとも簡単に明け渡される。 視界の上限に、薄く開かれた口許とほくろが映り込む。 頬の血だまりは耳へと領域を広げており、この様子ではいかなる暗闇にあっても染まった赤が露顕しているだろう。 焦げる爪の痛みを堪えたが半端な唇でなにか告げようとし、白い呼気で仁王との狭間を切った。 だが声は形にならない。 無為に横たわる時間が腹を炙る。 踵ひとつ分が後退った一瞬後、低い響きはその弱腰を引き止めた。 。 いつか耳にした覚えのある声音だ。 ごめん、ちょっとびっくりして。 ひしゃげる背中に翻弄されるさ中、なんとか弁解を試みたが暗がりへ転がり落ち消え、入れ替わりに仁王がきざしもなく零した。 「好きじゃ」 いっそ呆然とした響きだった。 聞き返そうとしたのかもしれない。 鼓膜には届いていたものの、真実聞き取れてはいなかったのかもわからない。 え、の形で留まった唇を上向かせようとし、けれど目が合う前に引き寄せられる。 わななく膨らみを別のぬくもりが塞いだ。 からからと甲高い音が足先から鳴り、数拍経ったところで針金が転がったのだと知る。 さっきまでと打って変わって火のような指はこめかみを性急に通り、髪に分け入り、地肌を撫でつける。そうして耳の後ろまで差し込まれた所為で、首に出来た窪みが過敏に反応した。 瞬きの途中で閉じた瞳が開けられない。 空いたもう片方の手はの腰を抱く。 力づくでねじ込まれた携帯とプリントが、仁王の締まった胸に縮こまり押しやられていた。 「う」 されるがままだったがキスに気づいたのは、脱力しゆるんだ唇を潤む舌によってこじ開けられたからだ。 口内を熱っぽくさぐられ全身がひくついた。 絡まる水音が耳の奥を痺れさせる。 限界まで触れ続けるのをやめない唇は、小さな隙はつくっても離れたりしない。 寒いはずの冬がぬくい息に埋もれる。擦られ混ざった唾液は最早どちらのものなのか区別がつかなかった。 喉が溢れる。 奥へ奥へと染みていく。 幾重にも及ぶ口づけを押し留めようと、固まっていた指で握りこぶしを作り、抗議すると、手の内にあったプリントがくしゃくしゃに丸まった。 かさつく音に気が削がれたのか、仁王は舌を猶の事ゆっくり引き抜き、触れるそこかしこはの内面を粟立たせる。 足がふらつく。 眦にこびりつく水滴を確かに感じながら口をくつろげると、思ったより近いところで湿り気のあるささめきが落ちた。 「文句なら、後で全部聞いちゃる。…から、黙って。声を……出すな」 甚だしく熟れた声だった。 語尾など崩れてほぐれ、今のよう近くなければ聞き漏らしていたに違いない。 濡れた唇がやわく重なる。 息が詰まって熱い。 引き絞った唇で、だめ、は訴えたが、そこを舌で舐められてしまえば拒絶など儚く壊れた。 すっかり忘れていたはずだった、ひりひりとした痛みが舌の上に蘇る。七味唐辛子の味はしない。撫でこすられると、膨れた疼痛はあまい唾液にくるまれた。 出そうにも、与えられる感触に精一杯で、声が出ない。 ほとんど無理矢理に上を向かされた為、喉が苦しみに喘ぎ、伝い落ちたものでその中を通る管という管がしとどに濡れてしまっている気がした。 浸潤していく深みに震える。 骨が軋むほど脈動は激しく、芯まで達する感情の礫が焼けてぐちゃりと飛び散った。 呼吸を継ぐ間、待って、懸命に唱えようとするが、仁王には追いつかない。 両の拳で押しても、圧力は変わらなかった。かたい胸板がを捕らえている。 頤に触れる掌は暴力的なまでの熱を孕み、とても仁王のものだと思えないほどだ。 耳朶の裏をやんわりなぞられて、背と腰の間がちいさく痙攣した。 乾いた指がの目蓋の端を滑り摩る。 あたたかな水を送り出す舌先に唇の中、ある一点をまさぐられると咽喉が引っくり返りそうになって、出すなと禁じられた声の走りが鼻へかかりながら籠もった。 刹那、ふいに差し込む冷たい空気を吸う。と、胸が澄んだ。 唇は離れている。 濡れそぼる熱源もいつ抜かれたのかもわからぬくらい早々消えていた。 途切れる呼吸を噛み締め、一歩下がって限界まで畳まれた肘を伸ばそうとすれば、上回る速度で抱きしめられてしまう。 自らの意志と関係なく縋る格好で留められたの息は浅く荒い。 二の腕あたりで少女の唇を封じる仁王が、折った背で細い肩に覆いかぶさった。 強く掻きいだき、鼻先を首根へと寄せ、乱れた吐息で肺を動かす。 膨らんで萎む揺らぎは血の溢れ出そうな激しい鼓動を内包してい、背中へと回る腕の肉がわずかに震えているのだと気づいた時、は泣きたくなった。 頬にあたる銀糸のような髪が冷たく痛い。 それでも体を包む温度はあたたかく、返したいと願っても、携帯とプリントですべての指が塞がっている。 息すら絶え絶えだ、言葉など紡げるはずもなかった。 昂ぶる感情の所為で視界が潤み、仁王が着ているブレザーの色も滲んで霞む。思うまま呼吸がかなわず苦しい。なにかが喉の下でつかえて吐き出そうとするが、上手く転がせないのでとにかく焦がれた。 だんだんと鎮まる肩に反して、眼球の底へ焼け出されたものが溜まっていく。 痛みは切実だった。 うち振るえる唇が、泣いている。 「…………なんでよ」 荒さの抜けない声色は今にもしゃくり上げそうだ。子供じみた熱を放つ訴えにじっと黙っていた仁王だが、がきつく握った掌で鎖骨の下を突けばゆるゆると腕を外した。 顔や足にぶつかる風は凍っており、かぶさっていた体温が失せた途端、冬枯れの空気になる。 吹き溜まった暗がりに呼吸の跡がこぼれて溶けた。 押し潰された声帯が情けなく歪み、涙で明け暮れる。 「こわかったのに」 ひといきに言い切り、揺れながら消え入る深い息があまりにも掠れているので、は一人恥じた。 みっともない。 しかし、不細工な形に曲がった唇を噛んで眼前の人を見遣った一瞬後、なけなしの羞恥は憤怒へ様変わりしてしまう。 静かな灯りに降られた仁王の纏う色は仄白く、あえかだ。先程まで濡れ開かれていたであろう唇はかたく結ばれている。前髪の影が濃い。 叱られた子供。 闇の中で光に捕らわれた双眸は、そう表現するのが最も正しいように思えた。 似つかわしい例えがはじき出されるや否や、頭の中心が赤々と染まり、あらん限りの罵倒で埋め尽くされる。 目の縁にたくわえられていた涙がぼろぼろと大仰に溢れた。 どうして雅治がそんな顔するの。文句は全部聞くって言ったくせに。なんで私のたった一言に、傷ついた表情になるの。普通に考えて傷つけられたのは私だ。いきなり、有無を言わさずキスなんかしてきたのはそっちの方で、雅治が傷つくところじゃないでしょ。 無言のまま罵れば罵るだけ、どういうわけか熱は放出されずに籠もって息が膿んだ。 冷たい空気の通り道となった鼻は痛くてたまらない。伝う水滴で頬が痺れる。 「あの時、ま、雅治が、怒ったのかと、思って」 合間で浮上する声は、心の内を十分の一ほども表してはくれず、まるで勝手に動いているようだった。 尚も悪口雑言を連ねる。 ばか。アホ。最低だ。詐欺師。性格悪い。自分勝手。 脳裏を品のない言葉が跳ね回っていく傍ら、ひとつの雫が滴り荒れた水面が凪いだ。 こわかった。 己から生まれた響きのリフレインが止まない。 一度認めてしまえば、後はこうべを垂れて従うしかなかった。 「でも、なんか様子がおかしかったから、違うのかなってなって……。でも、やっぱわかんなくて、すごい悩んだ、のに。それからずっと、わけわかんなくって、ずっと……」 怒ったのかと思った。 嫌われたのかと臆した。 これ以上幼馴染を続けられない、拒絶されたと感じた。 は恐れていたのだ。それだけだった。関わりを他ならぬ仁王本人に断たれたら、もうどうする事も出来ない。 綺麗に消えてくれる質量でない気持ちをぶら下げたまま、引くにしたって遅すぎたし、進もうにも背を反されたら足が竦む。 からの入れ物と化した幼馴染という名称が残り、隣家の近さを憎らしく思いながらこれから生きていくなどと、考えるだけで気が遠くなった。 だからわずかに、けれど確かに送られてくるサインを逃がし、不幸を語らぬきざしにすら手を伸ばそうとしなかったのだ。 嫌われたくない。特別でなくとも構わないから、ずっといたい。 幼馴染にかこつけて、叶うものだと思い込んでいた。 心の奥底では願いながら、いつだって自分が可愛かった。 逃げて、避けて、でも離れられない。 気づいていたくせに、頑として追わなかった。 健気な誰かの影に自分を喩え、勝手に絶望する。 幼馴染の位置を手放せず、縋っていながら、寂しいなどと不平が募った。 見られたくない。恥ずかしい。 浮上しては奈落へ落ちる。 考えたくないのに考えてしまう。 怯えるばかりで一歩も動こうとせず、真意のわかりにくい人だから気のせいかもしれない、予防線を張り先延ばしにしていた。 そういうすべてを棚上げして、口には出していないといえども一方的に罵ったのである、今自己嫌悪せずいつすると言うのだろうか。 仁王へ向けた言葉の数々が、そっくり自らの元に戻って来、はその切れ味に喘いだ。 悲鳴じみた、短く切れる呼気が煩わしい。 「……なんで、今、言うの?」 苦境が歪みをつくり、素直になる機までも奪っていく。 逆さまになった心と体がもどかしく、ともすれば苛立ちへ姿を変えそうだ。 唇がひねり曲がり、声色は責め立て、理不尽な涙を止める余裕もなく続けざまに落とした。 滲む目元を擦り、クリアになった視界で見遣れば、仁王がいっそう傷ついた瞳で立っているものだから、内から外から体中が毛羽立つ。 言うなと戒める一寸後、火の走る速さで声帯が震えた。 「もっと早く言ってよ! ばか! そしたら、何ヶ月も、あ…あんなに……っ」 酷い言い草の上、八つ当たりに近い。 自覚があった。 ゆえに後続の声は転がらない。 代わりに喉奥が酔いそうなほど揺れる。 ふ、と無意識の内絶える息の音をしるしとして、なりふり構わずちいさな子供のよう大声で泣きわめきかけたが、あっけなく封じられた。 目蓋を閉じてから再び開けるまでのわずかな間、仁王に抱き籠められてしまったからだ。 喉から胸、肺と胃が押し潰され、呼吸するすべが絶たれたかのよう痛い。 細くなった気管がひゅうとかすかに鳴っている。 涙にまみれ、狂う感情を抑えられないが為震える体を包む仁王の腕は隙間なく絡められており、手加減知らずに力をこめてくるので、胸元の早鐘が自分のものなのかそうでないのか、判断がつかなかった。 ついにしゃくり上げ出した息を繰り返し、無理矢理押し付けられた感触の異なる制服から離れようとすると、ごく傍近くで直に肌をゆする音がしみて伝う。 「……そうじゃな。お前さんの言う通り、遅うなった。すまん」 散々これは知らない幼馴染だ、あれは見た事のない彼だ、などと記憶してきたの耳にまたしても聞いた覚えのない響きが入り込んだ。 静かだけれど、大人しくはない。 荒れていないが、いずこかに情感を残している。 謝っておきながら、誠心誠意の謝罪とは違う。 幻でないのなら、語尾はひそかに震えていた。 いてもたってもいられなくなったが唇を湿らせる。 折り目正しくない制服の表を滑り、しかしどこへも流れない声音は、雅治、とくぐもって空転し、しっかり届いていた証拠に、仁王はいっそう強くを抱いた。 鼻が襟元へ埋もれると同時、目端が淡く混ざり、雨粒のような雫がこぼれ落ちる。 腰を折られるかもしれない、と埒もない、実現されるはずもない思考が片隅に沸くと、それまで失せていた体感が急激に舞い戻り、はひとつひとつ丁寧に確かめていく。 跳ね踊る心臓は自分のものだ。 しかし少しばかりずれていて、重ならぬもう一方の鼓動があった。 これは仁王だろうと思う。負けず劣らず激しく脈打っている。 涙がこみ上げ、塩辛い喉を飲んだ唾液でなだめる。 漏れる息は熱く、首元にかかる彼の呼吸も同等である。腕も、掌も指先までも、あたたかい。 視界の半分にかかる髪の白は闇に浮き、ぼんやりと明るかった。 ふいに香る空気が鼻をくすぐり、肺の下へと通っていくと、連鎖して網膜の奥でよぎった景色が物言わず語りかける。 ソファの色。 天井の高さ。 小さい頃だったからテーブルは少し高く、背後ろに本棚があった。 これは仁王のにおいだ。 そして、彼が暮らす家の。 途端、体全部がやわらかに脈動し、温度が上がっていく。 雨が降るとうす暗く、晴れていればやわらかな光の差す、かつて訪れたリビング。 いきなり吹き抜けた風にカーテンがひらめいて、通りがかりの猫が驚いた目で固まる。 冬には真白の絨毯が敷かれ、あまりの温もりに幾度となく寝入ってしまった。 辿れども辿れどもきりがなく、終わりも見えぬものだから、どんどんと速まっていく心臓の静め方がわからない。 体の深くまでしみこんだ記憶、感触、一人だけが持つにおい。 他の誰でもなく、自身が一番よく知っている。 幼馴染と過ごした今までを。 ひとりでには断ち切れぬ繋がりを。 こらえられなくなって、握ったままの拳でかぶさる背へ這わす。 そう乱暴でもない、静やかな動作だったのだが、仁王は肩ごとびくりと震えた。あたかも怯えているようで、それで、わかった。 彼もまた、恐れていたのかもしれないのだ。 本人しか知り得ぬ訳を抱え、どこにも行けず。 「…俺、聞いちょらん」 呼ばれたのち、返事をするより早く呟かれた。何のこと、と目だけで触れ合う人を見遣ったところで、意図を掴めるでもない。 ぐずぐずになった鼻をすすり、ブレザーに埋もれた唇が息苦しいのでとりあえず距離を置こうとし、だが頑なな両腕に阻まれる。 「言って」 主語が転げ落ちていたけれど、含まれた音に嫌でも気づかされ、縮んだ肺が更に萎む。 溶けこんだ熱はただ一声を求めていた。 仁王の声が、あまく掠れている。 応えようとしたが湿る唇を開きかけ、しかし躊躇い、何度か繰り返していると、焦れた様子の仁王が早急に乞うた。 「」 首のつけ根あたりにあった鼻先が、よりにもよって耳へと寄せられたのがいけない。 色のしみた囁きは、抗う気力を根こそぎ奪っていってしまった。 間近に接する吐息で、髪の生え際がほんのり湿って、胸の芯はぞわぞわと胎動する。 余韻に押された舌がすべり良く動いた。 「…好きだよ。雅治が好き。だから、やっぱり私は、幼馴染でよかった」 ほんとにそう思う。 やたらと明瞭な響きを含みながら、ささやか極まりない外灯を塞ぐようしなだれかかる背により強くしがみついても、今度は震えなかった。 ひと度言葉という形にしてしまえば、とても簡単な話だ。 久方ぶりの深呼吸をしたが、なんだ、つまりはそういうことで、それだけのこと、と恐ろしいほどの安堵に浸る。 こうして腑に落ちるのは夏が終わって以来だ。 好きだったから。 ものの数秒で言い終わる理由がすべてだった。それを、それしきの時間を惜しんで、なんて遠回りをしたのだろうか。 馬鹿みたい。 黙ったままで独りごちれば無意味に泣けてくる。 はじまりすら辿れぬ幼馴染に、いつからか恋をしていた。 幼馴染でなければこんな風に近くもない、気づきもせず、もっと離れた位置で通り過ぎていたに違いなく、何も知らずに十五年間を過ごしたのだ。 ぞっとする。 切り離せない思い出と、途切れない時間。 様々が今をつくっているのだとしたら、幼馴染であったのは決して間違いではない。 否定されても、そうであったが為に苦しんだのだとしても、容易く振りほどけないのだとは最早断じていた。 しかしながら、込めた想いが正しく伝わっているかどうかは少々不安である、言い連ねておくべきか、と引き締まった肩口から唇を抜け出させたら、首の側面から根にかけて接していた喉が低く唸る。 仁王が静かに笑っているのだ。 あたたかい、であるとか、柔らかな、だとか、心地のよい表現がまるで似合わぬ、いうなれば悪役めいた笑声だった。く、と捻られねじられ聞く者すべてに詐欺師の一単語を思い出させる反響だが、は動じない。 訝しみ、ちゃんと聞いてるの、などと強気に返そうとし、いち早く先回りした幼馴染によって阻まれる。 悪役の仮面を取り去った、いつもの声で、いつかの声で。 敵わんのう。これだから俺はお前が怖いんじゃ。 それから、こう続いた。 「…………もう一回」 首元の温もりがゆっくり遠ざかるので、先程のような言葉を乞われているのかと思い、衝動のままに口を緩ませたら熱の固まりがかぶさってくる。 驚きに息が止まったのは一瞬で、すぐに馴染んだ。 ほんの数分前が初めてだったというに、どうしたらこうも順応してしまうのだろう。殊更にやさしい、触れるだけのキスで霞む頭が、成すすべもなくぼやいた。 知らぬ間に闇が濃い。 落ちる影の厚みは廊下を駆けた時よりも増している。 下がる一方らしい気温の狭間で、しっとりとした熱が滴った。 耳上の髪を掻き遣る手に触れ、ふとこぼれた息の白さに紛れて名を呟けば、うすく開かれた仁王の瞳がぐらぐらと揺らぐ。それがどういうわけか、気持ちいい。 己の中を流れる情動に翻弄されつつあるは、呼吸よりもそばに在る彼をじっと見つめていた。 体温が淡く混じる。 違うものになる。 疼く痛みは、曖昧に背筋を押す。 どれくらいそうして唇を重ねていただろう。 校舎を越え、先の彼方までびっしり埋めている雲の一端が、わずかに薄くなっている。けれど月は見えない。 どちらからとでもなく離れ、吹き込んだ冬に震わされたが茫洋とした声で言った。 「……プリント貸せない…」 仁王の背でなく、ちょうど胸元で丸まった掌中には、無惨な姿と成り果てた紙切れがある。 教室に備え付けられたゴミ箱の中にあってもおかしくない有様だ。どこか愕然とした面持ちで、張りつき動かなかった掌を開く。 彼女にしてみれば単に事実を説明しただけであったのだろうけれど、全く場にそぐわぬ発言であり、仁王は三秒ほど言葉を失ったのち、やがて気の抜けた幼馴染へ対し微笑を漏らして答える。 「引きずり過ぎじゃろ。おまけに、今言う事じゃなかよ」 何ものも隠していない声だ。にはそれだけで充分だった。 プリントの残骸をどうするとか、寒いだとか、人に見られていたかもしれないだとか、今更恥ずかしくなってきただの、携帯を確認しなくてはだの、置いてきた鞄は大丈夫かだの、夏からの数ヶ月、この人をいつから、どこから、どうして好きになったのか。 思考のほとんどを支配してきたありとあらゆる物事が、なんでも、どうでもよくなった。 仁王はくしゃくしゃの皺だらけになった紙を端から広げている。 伸ばして、コピーでもしんしゃい。 そうしたら読めるようになるだろう、と使い物にならなくなったプリントを再利用した経験の有無を疑いたくなる、実感のこもった助言を寄越した。 涙にはつきものの鼻をすするが頷く。 うん、ありがとう。雅治が幼馴染でよかった。 礼を投げられた方はというと、やわく細めた目で返す。 お前それ、一生言い続けそうやの。 なびいた名残が笑んでいた。 ← × top おまけ→ |