01 危ない! 誰かが声をあげた時には、もうすべてが遅かった。 視界が空転し、背中を独特の浮遊感が襲う。 足元は頼りなく、踏みしめていたはずの硬いコンクリートも今や遠い。 驚きと現状把握できぬ事態に半開きとなった唇が、風を切って乾いていく。 あ、やばい。 悲鳴をあげる間もなく重力に抗えず落っこちる私の脳内は何故か落ち着いており、おかげさまで手も足も動かなかった。 硬直したまま傾ぐ体を投げ出せば、目の前には緑に茂る木の天辺と濃い青空が清々しく広がっている。 ※ 残暑という表現がこれ以上ないほど相応しい9月、いつまで夏気分だと悪態をつきたくなる燦々たる太陽にげんなりしつつ、海沿いの通学路で溜息をついた。 別に夏は嫌いじゃない。むしろ好きな季節である。 海も好ましいし、冷たいアイスやバーベキュー、花火にお祭り、自由を満喫できる長い休みと、あげていけば良い要素しかないと個人的には思う。 でもこの長引く暑さは遠慮したかった。 好きな人などいるものかとすら真面目に考える。 砂浜を照らし反射する陽は眩しく、空気全部がじりじりと肌を焼いて来、額に汗が染みでてどうしようもない。 これで8月なら喜んで歓迎するのだが、9月という字面は秋を連想させるので、なんとも憂鬱な気分に陥るのだ。秋なら秋らしくして欲しいものである。 少しでも涼を求めようと海辺の道を選んで来たのだが、代わりに日差しを遮る木々がない為にあまり効果がないと今更悟る。 お天気お姉さんも、まだまだ暑い日が続きそうです、眉を下げて言うほどの陽気で頭が煮えているのかもしれない。 ぼんやりと目先を深い青へと向ければまるい水平線は彼方にあり、所々で船が浮かんでいる、ちいさな白波は寄っては帰ってゆき、見慣れた浜辺で跳ねていた。 潮の香りが近い。 校舎から眺める時よりもずっと綺麗で親しい海だ。 午後を過ぎても低くならない気温を忘れ去ろうと逃避した所為だろう、紺碧の手前、視野の下方で揺らめくものに気を取られた。 自然とゆるまった歩幅は、きらきらと細やかな輝きを見せる砂粒の上をゆったりとした速度で進む人影によって完全に停止する。 白い半袖と、学校指定の制服。 指先に引っ掛かったスニーカーが、歩幅に合わせて揺れる。 薄茶色の髪の毛が風に煽られ、あちこちになびいていた。 ズボンの裾を脛あたりまでめくりあげ、腹周りからは縒れたシャツがはみ出ている。 その昔ロミオを演じた六角中一黄色い声援を浴びている人は、だらしない恰好でも様になってしまうし、浜より上にある道にいてもわかるくらいには目立つ。 本人にそのつもりはなくとも、人の注目を集めてやまない何かがあるのだ。 サエ。 呟くには意気地が足りていない。 彼と私、というよりもテニス部の面々はみんながみんな幼馴染のようなものである。 家が近い人がほとんどだったから、小さい頃は暇さえあれば公園だの海だのに集まってひとまとまりに遊んでいた。 集合し過ぎてちょっと大仰な登校班みたいになった事もあるし、女の子も私一人ではなくたくさんいたので、個々人の付き合いというか、どちらかといえばグループで等しく仲が良かった、と言うべきかもしれない。 そんな線引きの存在しない輪の内、サエとは帰る方向が一緒でよく並んで歩く仲だった。 小学生、はては幼稚園まで遡る、本当に年端もいかぬ時から人に好かれる質なのだろう、ちゃんいいなあ、と羨ましがられる日が多々あったのを覚えている。 宿題の話。 遠足に持っていくおやつの話題。 給食が美味しかっただの、算数のプリントが難しかっただの、25m泳げるようになっただの。 他愛ない言葉たちで埋まる帰り道が、私は好きだった。 整った顔立ちをしていようとも、そんなこととは全く関係なしにサエ自身はとても朗らかで話しやすく、一緒に帰ろうよ、と口にしたとて周りにからかわれる妙な間だって生まれぬいつも自然体の、とんでもなく爽やかな子なのだ。嫌いになるほうがおかしい。 おまけにスポーツ万能、成績優秀とくれば非のつけ所がなかった。 もっと子供だった頃はなんとなく、サエってすごいなあ、程度のものだったのが成長するにつれ、この身近な幼馴染はものすごい恐ろしい人材なのでは、と慄き冷静になっていく。 それでも、断ち切れてしまう日までは素直に感心していた。 最も思い出深いのはいつだったか、親とケンカをして飛び出した夕暮れのことだ。 今となっては何が原因だったのか覚えていないが、とにかく激昂した私はろくな考えも持たずあかね色に染まる街をひた走り、帰る道すがら目端に入れているだけであった公園へと駆け込んだ。 大勢で遊ぶには狭すぎたたし、実際自分も通りすがるだけだったので、万が一誰かが探しに来ても見つからないとあたりをつけたのだった。 滑り台とベンチ、それから小さな家に似た遊具があるだけの、ささやかな空間。 真っ先に隠れ場所となり得るプラスチック材で作られた家の中へと進んで座り込む。 正式な名称は知らないが、今思えばダンボールハウスに近いものがあったかもしれない。 土と砂のはびこる床だろうがお構いなしに足を伸ばすと、ざらざらとした感触がふくらはぎを障った。 もういい。 もどらない。 今日はここで寝る。明日の学校だってサボってやる。 しょうもない意地を張り、抱えた膝小僧がかすかに擦れているのを見つけたその時。 「こんなとこで何してるんだよ、」 傾いた陽を背に、入り口付近で目を丸くさせているサエがいた。 柔らかそうな髪が揺れ、輪郭にはひと筆書きで塗られたような淡い光が走っている。 いまだ残っていた涙の余韻を乱雑に拭い、そっけなく答えた。 「何もしてない」 「かくれんぼ?」 「…違うよ」 「なんだそっか。すごいスピードで走ってくから、なんかあったのかと思った」 って足速いよなあ。 言いながら、当たり前の行為だと勘違いしかねない嫌味の見当たらぬ動作で中に入って来て、私と同じような恰好で腰を下ろす。 文句をぶつける余裕のない私は、笑うサエの顔を黙って見つめていた。 「それで、お前はいつ帰るの?」 「…………帰んないよ」 腕に力を籠め、ぐっと足を引き寄せる。 小首を傾げる彼の仕草はあくまでも自然で、裏も何もなさそうだった。 「え、なんで? ケンカでもした?」 一発で当てられては、素直に頷くこともできない。 無言で唇を引き絞っていると、胡坐をかいたサエが自分の足首を掴んでゆらゆらと揺すり出す。 「俺、ここじゃあ寝られないなあ」 「サエは帰ればいいよ。私は平気だもん」 みっともなく尖る声にも気にする様子が窺えなかった。 「夜になったら真っ暗だよ。、昔から暗いの嫌いじゃん」 「…平気だもん」 「お化けが出るかもしれないぞ」 「出ない!」 「じゃあ人間のヘンタイが出たらどうするんだよ。危ないだろ」 売り言葉に買い言葉というのもあっただろうが、出ていけと叱咤した親と大違いだ。 この出木杉くんめ。 恨めしげに睨んでみても、サエの顔色はまるで変わらない。 小学生の男の子なんてみんな腕白、女の子のほうが大人よ、と母親達が話しているのを耳にした覚えがあるけれど、絶対嘘だと思う。少なくともこの幼友達は、狭苦しい公園で一夜を明かそうとしている私なんかよりずっとしっかりしている。 「……隠れてるから、危なくない」 俯いてこぼした途端、お腹の虫がぐるぐると鳴いた。 空気読め。 泣きそうになりながら歯を噛んでいると、デリカシーがあるのかないのかわからない声が耳まで届く。 「ねえ、んちは今日の夜ご飯何?」 「………知らない」 「俺んちは湯豆腐なんだよ。まだ全然暑いのにさ、父さんが食べたいって言ったんだって」 9月の半ば、夏の残滓が漂う夕べだった。 ちらと視線を上げ、天窓のようにあいたところを眺めるサエの顎を見る。目を合わせたくなかったからだ。 「…別に、湯豆腐だっていいじゃない。サエのお父さんもお母さんも優しいし、帰ったらおかえりなさいって言ってくれるんだから帰れば?」 話すそばから喉に塩辛い水が絡んで、舌上を踊る声は歪み始めていく。 私なんか。私なんか。私なんか。 言葉にならない卑屈な気持ちが胸をかき乱し、どん詰まりになった息で口蓋が濡れた。 寂しいとも悔しいとも、苦しいとも言い切れぬ重たい靄が体中を支配する。 「は言われないの?」 「……言われ、ないもん…」 「それなら俺が一緒にお願いしようか。におかえりって言って下さいって」 「いいよ。いい。サエ、なんで帰らないの。帰ればいいのになんでここにいるの」 吐き出せない苦味の所為でえずいた咽喉が腐っていく心地だ。 こんなことを言いたくないのに、口にせずにはいられない。 目蓋が熱く、瞳の端には同じくらい熱い水の粒が蓄えられて、堪えきれなくなったらしく、ぽろとこぼれ落ちる。 「と一緒に帰りたいから、まだいるよ」 微笑むサエの声に、私はいてもたってもいられなくなり、涙を隠すのも忘れて叫んだ。 「バカ! サエなんか一生湯豆腐食べてればいい!! 文句言うな!」 幼馴染の顔が夕闇の内にゆるみ、潤む視界で溶けていく。 「たまにはカレーとか食べたいんだけど」 「私だって食べたいよ。焼肉とかステーキとかすき焼きとかいっぱい食べたいよ」 「肉ばっかじゃん」 「おなかすいてるの!」 「俺も空いたな」 ところで樹っちゃんから貰った飴があるんだけど、食べる? ポケットから透明な袋に包まれたパインアメを差し出す掌へ向かって、一も二もなくこう答えた。 食べる。 かくして色々とどうでもよくなった私だったが帰らない帰らないと散々言い張った手前、なかなか翻す機を掴むことができず延びに延びた雑談の時間は、陽が沈みあたりが暗く飲まれ、星の瞬く頃合いになっても終わらない。 大事に舐めていたはずの飴もすっかりなくなって、座りっ放しのお尻がじんじん痛み出し、服も顔も、サエの陽に透ける髪の毛も闇に染まるまで、ずっとお喋りをしていた。 私の癇癪に付き合わされているようなものなのに、どうしてだか帰ろうと切り出さないサエは、お願いしたら本当に一晩一緒にいてくれそうな優しい声で笑う。 クラス中、いや学校中探したってこんな男の子は他にいないだろうと思った。 結局、あんまりにも遅くまで行方不明の私たち二人を探しにきた大人によって、プチ家出はめでたく終了したのである。 途中からお泊り会時のテンションで盛り上がっていた私は両親の剣幕に気圧され、家を飛び出した理由も忘れてごめんなさいと謝り、サエはサエで素直にこれまでの状況を説明していた。 どうしてこんな暗くなるまで帰って来なかったの、出ていけと言った張本人から微妙に理不尽なお叱りを受け、でも少し涙まじりの語尾におろおろと狼狽えていた私の背を叩くやわらかな掌。 大人たちには聞こえない、穏やかな囁きがこぼれる。 「ほら、。一緒に帰ろうよ」 以降、私のお母さんはことあるごとに、あの時はびっくりしただの大変だっただの虎次郎くんに迷惑かけてだの、繰り返し話すようになった。 当時ほど付き合いのなくなった今でも、思い出話といえばこれ、と必ず口の端に上ってくる。 最近ではうんざりを通り越し、また始まった、で流している私だが、唯一同意できる見解もあった。 「でも本当、びっくりしちゃった。虎次郎くんって、小学生の頃からしっかりしてていい子なんだもんねえ。おっきくなったらもっとモテるわよ、あれは」 頷かざるを得ない。 彼のすごさは年を追うごとに際立つものだった。 ただ、ちっちゃい頃から可愛い顔してたもの、絶対イケメンに育つと思ってたのよねえ、とうっとりするのはちょっと危ない人みたいだからやめて欲しい。 そのサエを、中学三年生になった私はただ眺めている。 声の届かぬ距離で、話しかけるでもなく、通り過ぎるでもなく。 潮風が髪を混ぜ返したと思ったら足早に流れ去り、波音は耳の内側にまで侵入してきていた。 ――やめよう。 こんなの、ストーカーっぽくて気持ち悪い。 海へと降りる階段のそば、壁に沿って作られた水道を目指しているのだろう、波打ち際からこちらに向かって歩く姿をじっと見つめているだけの自分は、客観的に考えた場合学校一の有名人に片思いしている女子生徒Aと分類されてもおかしくない。 留まり続けていた靴裏をあたかも灼熱模様のコンクリートから剥がそうとした瞬間、眼下の人影がぱっとこちらを仰ぎ向いた。 ぎくりとする。 目が合った、と表現できるほど近くはないので、顔の角度が重なった程度だと判断したいところだが、背後に耳目を引くようなものはなく、じっくり数秒はお互い静止していたのでどうにも苦しい理由付けである。 割合冷静沈着な状況分析を振り払い、気のせい気のせい、言い聞かせながら一歩後ずさりすれば高々とあげられる左手。懐かしい仕草だった。 恐る恐る左右に視線を巡らせても、誰もいない。 いやもしかすると私がだということを認識していないのかも、考えかけ、相手は驚異的視力の持ち主だと思い出して頓挫する。 首を戻し、自分のことか、微妙なニュアンスを含んだ雰囲気を醸し出すとサエが、そうそう、と肯定するかのよう頷いていた。 ああ、やってしまった。 大人しく帰っていればよかった。 後悔したって無視なんかできるはずもない、ずっしり肩に食い込む鞄の紐を握り、輝かしい太陽の降る浜へと踏み出す。 むわっと膨張した空気が肺を焼いた。 年季の入った階段を下れば下るだけ遠かった距離が近づく。 私より数秒先に目的地に到着したサエは、ぽいと軽い動作で持っていたスニーカーをその辺に放り投げ、沈む砂地の上でバランス良く立っている。朝に夕にこの辺りで走り込みをしているのを目撃したことがあるので、その成果かもしれない。 あと残り数段という場所まで来ると表情どころか目の色までよくわかって、息が止まりそうになってしまう。 「」 元々滲ませていた目蓋をなめらかな線にし、とびきりの笑顔で人の名前を口ずさむサエはTVの中から抜け出してきたアイドルみたいだ。 明るい海がよく似合う。 こんなに素で眩しいという単語が似合う人、見たことない。 緊張からか指先が震え、ただ呼ばれているだけにも関わらずどうも胸が騒いで仕方がなかった。 でも同時にほっと落ち着く。 声は昔より低くなっていても、紡がれる名はそのままだ。 なんのしがらみもない。 たとえば再会にはしゃぐ高さでもなく、或いは気まずさに突っ掛かることはない、ありのままのサエだった。 どんなに背が伸びても、お母さんの言う通りイケメンの六角中一モテる人になっても、根っこの部分はきっと変わっていない。幾度となく重なった帰路で、じゃれ合うよう日常を織り奏でた頃の面影が確かにある。 それだけでさっきまで全く足りていなかった意気地が満杯になるのだから、私ってどうしようもない。 まあ単純に、時間やブランクを感じさせないサエがすごいっていうだけなのかもしれないけど。 「サエ」 「久しぶり! ビックリしたよ、ふっと見たらいるんだもんな」 「学校で顔合わせてるじゃない」 「そうだけど、学校の外では会わなかったからさ」 すんなり喉を通る自分の声にも驚いたが、それ以上に砂まみれの様相へ目が引き寄せられた。 「……どうしたの、その恰好は」 何事、付け加えると、テニス部のみんなで遊んでた、小さな子供と相違ない返答がやって来、肩の力が抜ける思いだ。 細かい砂粒は彼のあらゆる部分に降りかかっている、裾を見遣れば水しぶきを浴びた跡、中には泥状になって綺麗さっぱり落とすには困難が予想される染みもあり、両肩や胸元には数ミリほどの木くずのようなものまで引っ付けていた。 一体どこでどんな遊びをしたら、こんな全力ではしゃぎましたという出で立ちになるのだろうか。 そもそも替えがきかない制服での海遊びは難易度が高い。 私に限らず大概の女子なら躊躇するが、当のサエにはそういった可愛らしい思考回路が備わっていなさそうだ、楽しげに緩んだ唇が朗々とした音色を紡ぐ。 「、ひいてる?」 「ひいてるっていうか……何して遊んだのかが普通に気になる」 「何してって、いつも通りさ。言っとくけど俺が一番汚れてないんだからな」 「えーっ! みんなどんなことになってんの!?」 サエの制服の今後に不安を覚えているさ中、これ以上酷い有り様を想像し思わずリアクションが大きくなった。 私の一声に肩を揺らして笑んでいる人が、とても雑にシャツを払う。 二、三振るったと思えばさっさと次の場所へ向かう掌は大きく、その庇のような影の下で取りきれずに残った砂がちかちか光っている。 そりゃあ洗濯しなきゃ綺麗にはならないだろうけれども、だからといって手抜きが過ぎる。 ほとんど払った意味がないではないか、完全に形だけだ。もし私がサエみたいな恰好で帰ったら、家に入った途端に怒られる。 などというこちらの胸中などお構いなし、限りなく大雑把に全身をはたき、どういう基準で判断しているのか謎だが制服周りの汚れ審査はクリアしたらしく、次いでむき出しになった腕へと手が伸びた。 肌と太陽に焼かれ水分を失くした砂の大群は乾いてこびり付き、足元のそれらより薄い色で纏わりついている。 指に繋がる骨の浮いた手の甲がまたしても杜撰な動きで上下し、ものの数秒で行き過ぎて、サエは私の立つ階段横、何年物ですかと突っ込みたくなる錆びついた水道に体ごと近づけていく。 やがてなんとも開けにくそうな独特の音と共に蛇口が捻られ、限界まで回しても勢いのない水がささやかに流れ始めた。 飲み物買ってくる奴をじゃんけんで決めることになったんだけど、一発で負けちゃってね。 話しながらしゃがんで、指先から二の腕あたりまでばっちり取り付く海遊びの代償を洗う。 踊る水滴が焦げた肌を滑り、古びたコンクリートに落ちて、錆びのはびこる排水溝へと消えていく。 タオルなどは見当たらないから、素足のまま水場内に踏み入った人がどうやって水気を切るつもりなのか定かではない。 まさか拭かずに靴を履くのか、と転がっているスニーカーに目を移すと、制服とは真逆に汚れ知らずの状態だった。遊びの激化を想定しあらかじめ脱ぎ捨てておいたのだろう。 ……その配慮をもうちょっと、別のところにも向ければいいのに。 なんとなく身の置き場に惑うたのと、相手が屈んでいるのに棒立ちだとおかしいかもしれない、判断した私は相槌を打つついでに段上へ腰を下ろす。 「珍しいね。サエってじゃんけん強くなかったっけ?」 海辺の風に削られたとしか思えぬ丸さの階段は嫌というほど日光にあたためられたのだろう、間に挟むのがスカート一枚だとお尻が熱い。 「どうだろうな。でもまあ、俺としては負けてよかったと思ってるよ」 「どうして?」 満遍なく濡れそぼった右腕から、左のほうに水流が移り変わっていく。 これだけ滴っているものをどう始末するのか他人事ながら心配しかけ、秋らしからぬ陽気に任せるに違いない、悟った。 うーん、と軽く唸る声が斜め横で伸びている。 「ちょっとね。他の奴じゃあ、でかい道出るには不向きだ」 「……なんでよ? 別に知らない場所でもないでしょ」 「あのままその辺歩いてたら通報されるかもしれない」 「え!?」 「はどう? ほぼパンイチの男がフラフラするの、セーフだと思うか?」 一体どんな恰好になっているんだ……ていうかどこまではっちゃけているんだ……。 若干眩暈を覚えるも、なんとか堪えて返事をひねり出す。 「が、学校の近くならセーフ…?」 「ホントに? 俺としてはアウトなんだけど」 「まあ……見たくはないよね」 「はは! そうだね、は見なくていいよ」 誰がほぼパンイチとやらになっているのかは定かではないし、追求する気もないけれど、万が一その人物が負けた時に発生する珍事件を避ける為、わざと負けたのだろうか。 だとしたらとんだ気配り屋である。いやじゃあヒートアップする手前で止めろ、と突っ込みたい気もするが。 けれどそういうサエだって夏休みにコンビニの前でだらだらと話している、ちょっと柄の悪い人たちみたいな座り方をしているから、丸まった背中の裾、腰より下にずれた制服の間から思いっきりパンツが見えている。 こういうところがとっても中学生男子だ。 大人びたしっかり者でも所々隙があり、しかしだからこそみんなに愛されるのだろうとも感じる。 多分、彼にまつわるすべては加点法なのだ。 普段カッコイイ人がたまに抜けたことをすると幻滅、ではなく、可愛い、と逆に評価が上がるとか、そういう雰囲気。 何をしても気流が上昇する、ちょっとどこかで間違えれば他の男子になんでお前だけ、と恨まれかねない、ある種の狡さが備わっている。 かくいう私も、別段がっかりしたり引いたりしていないので、もっとちゃんとしなさい、などと説教を垂れる資格は持っていない。 腿に肘をつき、顎を両手で支えながらあてどない考えに暮れていれば、腕の二本とも洗い終えた人がおもむろに首を曲げた。 何してるの、問う前に蛇口の下へ頭を丸ごと突っ込みかけるのだから、ぎょっと目を見開くしかない。 「ちょ…っ、サ、サエ!」 「え?」 「まさかそこで頭洗うつもりなの?」 「うん。砂だらけでざらざらするし」 頭から豪快に水を垂らしたまま、飲み物を買いに行くつもりだったのか。 他のみんなのことは公道に出るには向いていないだとかパンイチはありえないだとか酷評していたくせして、どうして自分の恰好には無頓着なのだろう、謎すぎる。 拭くものがないんだからやめなよ。 口を出した私に、不満の募る返事が投げられる。 だってほら、すごいんだぞ、この砂の量。 会話の為に伸ばしていた首を再び下げたサエがまたしても雑な動作で髪の毛を掻き、すると面白いくらいに連動して浜辺にもある細粒が水場へ降り注ぐ。ちょっとひいた。 「あのね、だからってここで洗ったらダメでしょ。濡れたまんま買い物に行くつもりだったの?」 「すぐ乾くよ」 「髪の毛だけじゃないよ、制服だって濡れるってば」 「それこそもっとすぐ乾くんじゃん?」 埒が明かない。 「夏休み中ならまだいいけど、もう学校始まってるんだからそんな今の今まで海遊びしてましたーみたいな恰好で歩かないで。サエが一番汚れてないんだったら、そのままでいてよ」 「あはは、は真面目だなあ」 のんびりと言い置き、額の生え際に指を差しこむサエの語尾はやわらかかった。 砂がぱらぱら落ちるのを見ているだけで、こちらの頭まで痒くなってくる。 普段目にすることのないつむじの近く、シャツにもくっついていたあの出所不明の木くずがばら撒かれており、本当に何をどう遊んだら天辺からごみをかぶるのかがわからない、呆れた。 出続けていた蛇口を思い出したよう閉め、中腰になりかけたサエを制止する。 「ねえ。砂だけじゃなくて、なんか木の欠片みたいなのもついてるんだけど」 「え、ホント?」 どこ、とごく素直に尋ねてくるものだから、ついつい真面目に教えてしまい、手さぐりで己の脳天をまさぐるサエに指示を送るのだが、何せ本人が目で確認できないのもあってなかなかうまくいかない。 私も私で右だの左だのがこんがらがり、だんだんと二人して混線のやり取りにはまっていく。 風が強い。 サエのシャツの襟や髪が、背後ろの海から来たその流れに押されはためいていた。 数秒迷ったのち、膝の向きを揃え、伸ばした指で毛先に触れる。 瞬間、あちこち動き回っていた大きな手の甲がぴたりと止まり、緩慢な速度で頭頂部から退くので慌てた。 「あっ、ごめん、ちょっと触るよって言えばよかった」 「いいや、大丈夫。俺がやるよりにやって貰った方が早いもんな」 悪いけど頼むよ。 言うだけ言って完全に諦めたらしい、両肘を立てた膝の上に乗せ、だらりと下げた手首で左右に宙を掻く。 自分から始めたくせに何やら変なことになったと躊躇う私は頷き、視点より低いところにあるサエの頭を覗き込むようにして、なるべく静かに指を差しこんだ。 差す陽光とは異なるあたたかさが爪先を包み、次いで訪れた感触に言葉が詰まる。 見た目と相違ない、枝毛に悩む女子が羨むくらい美しい髪だ。やわらかいし、滑りも良い。 炎天下で走り回ったり海で遊び通しておきながら、どうしてここまでのクオリティを保てるのか。ぜひ教えて欲しいものである。絶対ケアなんかしていないくせに。 ひとつひとつ摘んで取り除いていくよりは梳くようにして払ったほうが早い、判断した私はやや無遠慮かと思いながらも潜らせていた指先をこれまた丁寧に抜いていく。 端からぱらぱらと木くず、ついでにくっついてきた砂の幾粒がこぼれ落ちた。 下へと垂れて露わになったうなじが日に焼けて濃い。 もう一度、と伸ばした手で日差しにあたって熱を放つ髪へ辿り着いた時、それまで大人しく黙っていたサエが涼しげな声音を奏でた。 「なんか、妙な気分だな」 言葉尻に苦笑じみたものを見い出したが、笑みに揺れた肩が不快ゆえではないと知らせてくれている。 「妙って?」 「俺、小さな子供か犬みたいじゃん」 面白そうに転がった色合いだ、私も力を抜いて答える。 「嫌なら限界まで遊んだりしない」 「まさか、嫌なわけないだろ。に撫でられるの気持ちいいよ」 なんてことを言い出すんだこの人は。 驚きに筋肉や神経を支配され、私の時間だけが止まってしまった。 波音が遠く、けれども近く、スカートの下に敷くコンクリートの熱が伝染するよう全身へくまなく巡って落ち着かず、幻覚に違いないが指の皮膚が焦げて痛む心地でいっぱいになる。 渇いた舌はかすれる声しか生み出せない。 「なにバカなこと言ってるの。ほんと小さな子供か犬だよ、それじゃあ」 「はは、まあそう言わないでくれよ。女の子はわかんないけど、男なんてこの年になると誰かに優しく撫でられる機会、ないんだからさ」 それは、確かにその通りかもしれない。 男の子同士でなんて有り得ないし、もしあったとしてもサエは撫でる側だ。 事実、みんなが剣太郎の頭をぐりぐり押さえるみたいに撫でていた場面を目にした覚えがある。まあ撫でるというより、どつくという方が正しいような気もするけど。 残った可能性たるサエのお母さんやお姉さんがいくら優しいからといって、中学三年生になった息子、或いは弟の髪を梳いたりはしないだろう。 となれば彼の発言は最もである。 深い意味はないと判じ納得すると同時、喉が震えて鳴いた。 撫でてくれる彼女いないの。 いくら幼馴染だって、まともに話すのも久しぶりな相手に触られるの、嫌じゃないの。 聞きたかった言葉は形にならず、消えていく。 せっかく普通に話せているのに、そんなつまらない事で気まずい雰囲気を呼び込みたくはなかった。 サエといる時はいつも、よくわからない感情で胸がいっぱいになる。 昔はわからないなりに消化して時間を共有していたけれども、そればかりか懐かしく思い、悔いる気持ちが加わっている今のほうがより複雑で、たちが悪い。 この幼友達にはおおよそ壁というものが存在していなかった。 すくすくと伸びた背や低くなった声に驚くことはあっても、時間の流れが感じられないのだ。 彼はいつも彼のまま、並んで帰った道中、飴をくれた公園、と呼んで笑う、過ぎた日に見ていた通り変わらない。 おそらく私に限った話でなく、他の皆も同じようなものなのだろう。 どこそこの組の誰誰に告白されたと噂で遠巻きに聞いても、そばにいけば気兼ねなく話せる。久しぶりに会ったというのに、離れていた期間などまるで初めからなかったみたく溝を埋めてしまう。 わずかな緊張とて例外はなく、声と声を行き来させている間に溶けていく。 ひとの唇を軽くさせるような、重たげに閉じていたところを無理なく綻ばせるような、何ものにも代えがたい空気を携えていた。 間で図々しく横たわる時間、距離、様々なしがらみをひと飛びにし、まばたきする暇さえも潰して戻りたいと願ういつかの心へと体の中身を引き寄せていくから、私はサエを前にした途端、無邪気な日々がすぐ近くにあるのだと信じ込みそうになり、あやういところで踏みとどまる。 たとえ話の上すんなり想像もできないが、10年経って再会する時でも多分同様の気持ちを抱くのだろう。今のまま笑っているサエがおぼろけに浮かんだ。 そんなわけはないのだが、彼の周りだけ時間は自由に漂い、行きつ戻りつ、一方通行で流れる波の狭間を泳ぐ。 錯覚に違いない。 けれどこれほどまでに続けばいいと思う錯覚もなかなか珍しい。 ――と、釣られる感情の背を強く叩く記憶。 ゆるんだ顔の筋肉が引き攣る。 はしゃぎ合う無数のこだまを断ち切った、血の気の失せた衝撃が蘇り、 「さっきさ」 ちょうどのタイミングで姿勢と同じく下向きに投げられるひと声で指先が跳ねた。 ぎくりと固まったのは声帯で、うまく返答が出てこない。 過去へ引きずられていた頭は思い出したくない情景に揺れ、目下の彼が言わんとしていることを計算できずにいる。 「階段の上に立ってるを見た時、ちょっとビックリしたんだ」 見えていないのだから当たり前だが、こちらの狼狽など意に介さず続けるサエは相変わらずのしおらしさで首から上を伏せてい、ようやく現状把握に追いついた私が差しこんでいた掌を撤退させると、垂らしていた大きな手で薄茶色の後頭部を軽く払った。 まだ砂や木くずが残って気持ち悪いのかもしれない、考えているようで考えてないまま再度やわらかな髪の渦へと触れる。 いや、そうじゃない。ビックリ……じゃないな。 声音は実に神妙で、元の位置に戻る途で止まり、耳横で速度を落とす左手首がやたらと目蓋に焼きついた。 「ギクッとした。一瞬だけど、体が硬直したよ。お前がまた落っこちたらどうしようってね」 背筋が空恐ろしい浮遊感と得体の知れぬ切迫で震えて気が遠くなる。 × → |