02




危ない!
誰かが声をあげた時には、もうすべてが遅かった。

私や友達、その場にいた全員が足元も現在位置も確認していなかったから、ふざけ笑いながら軽く押し合うことになったところで止める子は一人としておらず、危ないことをしている自覚なんて当然あるわけがない。
前方不注意、完全過失で歩いていた私の肩を誰かが一層強く突き、振り返って反撃しようとした瞬時、真っ逆さまに落ちたのだ。
道は階段に差し掛かっていた。
一番先頭にいた私も、隣にいた子も、私を押したであろう子も、少し離れたところで話していた子も、誰も知らなかった。
だから誰も悪くない。
地面から外された足の裏が異様に軽く、悲鳴をあげるより先に、あ、やばい、これなんかやばい、思ったはいいが目線すら動かせず、重力に引かれた体は短い段数のわりにものすごく長い体感時間を経て宙を横切った。
手加減なしに叩きつけられた衝撃。
遅れてわななく女の子たちの悲鳴。
痛みよりも呆然としてしまい、声がでない。
無数の慌ただしい足音で鼓膜が汚れ、やっと体の自由がきくことに思い至って、地面と思わしき位置で肘をつく。
痛い。
引き攣れた背に、あたたかい感触。
なんだろう、追う間もなく声が降る。
おい。
大丈夫か。
二人とも。
皆余程うろたえていたのだろう、意味のわからない音やどもりを取り除き、掛けられた言葉を探れば、この三つのみが残った。
おい。これは私に対してだ。
大丈夫か。これも私に対してだ。多分大丈夫だと思うけど、確かめないことにはわからない。
二人とも。これが全く理解不能だった。つい数秒前の記憶が正しければ、私は一人で落ち一人で転がったはずだ。
とりあえず答えないと、とよれよれになった手足を伸ばし、体勢を立て直したところで息が途絶える。
俺は…大丈夫。……は?
想像し得ぬ近さで響く、こちらの倍苦しそうに歪んだ声に驚くあまり、隅々まで駆けていた痛みも忘れ神がかった速さで飛び退いた私の目の中には、片肘を軸にして上体を起こすサエがいた。
呆けて座り込んでいると、その頃からすでにテニスコート内で実力を発揮し始めていた面々がしゃがんで気遣いの言葉を掛けてくる。
巻き立つ砂煙でよく見えない。
下がコンクリートじゃなくてよかった。
今抱くべきでもない感想を大層ゆっくり噛みしめていたら知らず知らず無言になっており、訝しんだらしいサエが小首を傾げる。
と、拍子にはだける髪の狭間から、赤々と擦り切れ滲むこめかみが現れ、体の全部が慄く。心臓によって送り出されていた血液が一気に引く音を聞いた。
巻き込んだ。
落ちた私に、階段の下にいたサエは巻き込まれたのだ。
どうしよう。怪我。頭打ってたら。テニス。どうしよう。
とてつもないスピードで脳内の端から端を巡って、警鐘は鳴り止むことを知らない。
私の顔色がすこぶる悪かったのだろうか、誰かが、最早判断できる余裕がなかったので誰かと言う他ない誰かが、どうした、どっかぶつけて痛いのか、と問うている。
だが真っ白になっているに違いない頬は、凍りつきいつまで経っても動こうとしなかった。

地面と激突した弾みで横倒しになったのか、私は右半身、サエは左半身を恐ろしく擦り剥いてしまい、子供の手には負えないレベルにまで達していた。
巻き添えを食らった可哀相なサエはもっと可哀相なことに、勉強せず臨んだ小テスト用紙のごとく白色の人間離れした顔色である私を水飲み場まで連れていき、ほとんど唇を縛っている、時たま開いたかと思えばごめんなさいしか発しない、誰がどう見ても常軌を逸した状態の人間にも躊躇せず、傷口を丁寧に洗うよう指示するはめになったのである。

その後、どの子かに呼ばれた大人の判断で私たちは仲良く病院行きが決まり、駆けつけた親を見た時はとんでもないことをしでかしたなと死ぬほどお叱りを受けると覚悟したが、のちのち日記などに特筆すべき苦言の類いは降ってこなかった。
想像するに、茫然自失も通り越して灰と化していた私の有り様があんまりにも無惨だったのだろう。
私はあの日、一生分のごめんなさいを口にしたと思う。
サエにも、サエのお母さんにも、心配して様子を見に来てくれた友達にも、泣きながらうわごとのよう繰り返していた。
恐ろしかったのだ。
二度は味わいたくない自らの災難より、腹の底がひっくり返る不快な浮遊感より、じくじくと沁みる痛みより、サエに怪我をさせてしまったことがとてつもなく怖かった。
誰も私を叱らない。
気にしないでいいと許し、押してごめん、気づかなくてごめん、と涙ながらに謝ってくれさえする子だっていた。
周りの人は、ひたすら優しい。
だから余計にか、段数が少なかったからいいもののこれが学校の階段であったらタダでは済まなかった、考える都度怖くて眠れなくなった。
念のため受けた検査も異常なし、擦り傷で済んだのは不幸中の幸いだ。
けれど利き手に張りついたガーゼを目にすると身が竦む。いつ不幸中の不幸が起きるかわかったものではない。
どうってことはない、とでも言うかのよう変わらず爽やかな笑みを浮かべるサエも怖かった。
私が気を張り、細心の注意を払っていなければまたあんな事態を招いてしまうのでは、怯えて何もできなくなった。
仲間外れなんてされていない。
無視などもっと有り得ない。
気まずい空気は漂わないし、声がかからなくなることもなく、しばらくは自粛の憂き目にあったやんちゃな遊びも私たちの腕や足から包帯が消えていくと同時に再開され、跡も残らず綺麗に治った頃にはすっかり元通りだ。
ねえちゃん、今日はみんなテニスやるんだって、行こうよ。
笑顔の内に呼びかけてくれたのを、手厳しく断ったりせず、やんわりと、当時にしては上手い理由を見つけては徐々に輪から遠のくようになっていった。
意識していたのかもしれないし、無意識だったのかもしれない。
明確な訳などなくて、単に胸を張って駆け寄る勇気がなかっただけなのかもわからない。
本当に誰も私を責めなかったから、勘違いだと罵られたとて受け取るしかない。
けれど、どうやったって消えそうにない罪悪感と恐怖を抱えたまま、そ知らぬ顔でみんなの中に混ざったりはできなかったのだ。

付き合いはどんどん薄くなり、並行して過ぎゆく時間に揉まれ、真新しい制服が身を包む年が来て、男子も女子もそれぞれ部活や習い事に没頭、もしくは忙殺され、集合場所だった浜辺近くの広場には行かなくなった。
だいぶ前から訪れずにいた私は私で誰とも被らぬ部活に入り、益々疎遠が進んでいく。
それでも尚、完全には途切れない。
顔を合わせたら軽い会話をする。
お昼休み、廊下ですれ違う。
テスト勉強の方法を模索し、情報交換する。
男の子たちと鉢合わせしなかったけれど、女の子たちとは行き帰りの時間が合えば一緒に歩いたりもした。
向かう先は最後まで重ならない。
家の方向が違うから、どの子とも途中で別れる。
私と同じ道を通るのは一人しかいない。
暮れなずむコンクリート、夜に沈む電柱、漆黒の中でぽっかりと浮かぶ外灯。
時々、胸が締めつけられた。



「……落ちないよ。気をつけてるんだから」

怖かった。
二度と繰り返してはならない。
呪文のように繰り返しては、かつての幼馴染を遠巻きに眺めてきた。

「わかってるって。俺が勝手に心配になっちゃうだけ」

でも同じくらい寂しかった。
寂しくて仕方がなかった。
一人の帰り道が一番辛い。嫌でも思い出してしまうからだ。隣にいた人、楽しかった時間、戻れぬ心地よいざわめき。
こぼれそうになる涙を、食いしばって飲み込んだ。
壊したのは誰でもない自分なのだから、泣く資格なんてない。
泣くな。自業自得。泣くな、泣くな、絶対泣くな。
唱えて、好き勝手わき出でる悲しみを殺し、皆勤賞並の規則正しさで通いとおした。
蘇る苦々しい記憶は走馬灯のように駆け、体の隅から隅までを侵していく。
捕らわれてぎこちなくなった指が動かしにくい。真夏に似た気温のはずなのに、冬風にさらされたみたく冷たく固まってしまった。
不自然な震えを隠せず、息をひそめながら引き抜く最中、サエがおもむろに言葉を響かせる。

「ところでもう時効だと思うから白状するけど」

時効、白状。
繰り出される単語が物騒だ。
尋ねる声も張り詰める。

「……な、何…」

砂浜へと流れる茶がかった髪のひと筋が、風に煽られ揺れている。

「あの時、が階段から落っこちた時さ、俺ホントは受け止めようとしたんだ」
「えっ!?」

予期せぬ告白に大声をあげてしまい、反動で掌が自動的に抜かれた。

「サエに怪我させちゃった、とか思ったんだろ? お前のせいじゃないよ。むしろ俺が自分から突っ込んでったようなもんなんだから」
「え…え……ええー!」

非難めいた叫びを浴びた幼馴染が、相変わらずこうべを垂れたままで肩をふるわせる。
つらなる音は笑声だ。

「俺言ったんだけどな、病院行った次の日に。のせいじゃない、俺がぶつかったんだってさ」
「聞いてないよ!」
「なら聞こえてなかったんじゃない?」
「き、聞こえてたって、そんな言い方じゃあ気を遣って庇ってくれてるものかと思うよ、普通!」
「そっか、ごめんな」

明かされた数年越しの真実に責め立てるも、あえなく謝罪されて話の腰を折られた気分だ。
ぐっと喉が詰まった。
のんきな様子にふつふつと沸き出でるものがあったはずなのに、気持ち良く吐き出せない。
舌の上で転び、ほつれ、もがいた声音はみっともなく萎れてしまう。

「……なんでそんな無茶したの……。落ちてくる子を受け止めるなんて、大人だって難しいよ……」

大体あの頃はサエより私の背のほうが高かったはずで、言いたくはないが体重だって重かっただろう。
そういった事情を抜きにしても、一瞬の判断で落下してくる人間を庇おうとする神経が信じられない。小学校低学年を卒業するかしないかの男子がとる行動ではない。
漫画だ、漫画。
無茶苦茶にもほどがある。
どういう思考回路なのか。
心の中で広がるぼやきが両肩を落とさせた。

「うん、ごめん。体が勝手に動いちゃってさ。無茶とか無茶じゃないとか考えること自体、してなかった」
「ごめんじゃないよ! もう! すっごい気にしてたんだからね!」

尚も朗らかな言い草にこらえていた感情が破裂し、従順にも首を曲げてから持ち上げないサエのつむじあたりをもみくちゃにしてやる。
さらさらの髪の毛がどれだけ酷い有り様になったところで知ったことか。
小さな毒を吐きながら、私は泣きそうだった。

「イテッ、こら待った、痛いって!」
「知らないよ、サエのバカ! もっと早く言って! ていうかそんな無茶二度としないで! むしろなんでそんなことしたのほんとに!」

半ば押さえつける形で頭をかき乱したので、サエは大きく背中を湾曲させながら手荒い攻撃に耐えつつ、縦横無尽に動き回る私の指先を捕まえようとしている。
けれども語尾は楽しげに跳ね、私を追う手の甲だって本気の速度を見せていない。
じゃれ合いに他ならなかった。
その態度が腹立たしいのに責める気にはなれず、それがまた涙腺の決壊に拍車をかける。
目蓋の裏、瞳の端が熱く滲んで、胸底があらゆる感情でない交ぜになり、あれほど寂しかった時間が跡も形も残さず消えていってしまう。
たくさんのことをふいにしてきた自分が馬鹿馬鹿しくなったし、責任を取れとなじってやっても許されるであろうものだがしかし、サエのたった一言で一切合切どうでもよくなった。
安堵の息が気管を占め、積もり続けていた重たい枷も砕ける心地だ。
もう泣き出したい。
よかった、ほっとした、馬鹿のひとつ覚えで連呼して、なりふり構わずわめきたい。
周りの景色も視界に入らぬほど、開放感に踊らされていた。

「そんな怒んないでって。かっこつけたい年頃だったんだ」

そんなも何もくそもない。
男子の見栄に振り回された身にもなって欲しい。
濡れた瞳を細め、抗議しかけたと同時。

「でもいくらかっこつけたって、いいとこ見せたい子に避けられたんじゃ意味ないよな」

指の下の頭がにわかに持ち上がる。
大人しく垂れていた髪も追従して動く、おかげで垣間見え始める肌の色は日に焼けており、幾筋かに分かたれた前髪と前髪の間では知らない男の子の目がじっと光を湛えていた。
鋭くなく、けれども決して弱くはない眼差し。
私を見上げてくる角度はやわい。
投げられた言葉の真意を熟慮するより早く腕を引いた。
反射神経が下したような命令だ、いつもの自分以上に素早かったはずなのに、体の横まで後退させるどころかかなり手前であるサエの頭上近くで縫いとめられる。
思わぬ力の強さに呼吸が引っ込んだ。
慄いた体がコンクリート化し動かない内に、ゆっくりと背を伸ばした眼前の幼馴染が一秒、瞳を閉じた。
まばたきだと気づいたのはゆうに数秒経ってからだった。
時間が遅れる。
混乱しきりの脳で訳を考えれば先刻聞き届けた言葉がまざまざと再生されて血が上り、無性に焦った。
過去を辿れず未来も予測できない頭が、とりあえず腕だけでも自由にさせろと指令してくる。動かない。
掴まれた手首は熱かった。サエの大きな掌の温度だった。
洗った後拭くどころかろくに振るってもいないから、少し濡れていて、肌と肌の間になめらかな水の粒が這っている。
感触を知った途端、息苦しいくらい心臓ががなり始める。
引き結んでいないと飛び出してきそうな勢いだ、思わず固く絞った唇が痛い、息継ぎすら忘れている私の耳にどこぞへ放られた声がぶつけられた。
あーあ。

「せっかく久しぶりに話せたっていうのに、呆れられちゃったな、俺」

体勢と共に座り方を直したサエは、胸元あたりで私の手をひとまとめにし、片方で支え、もう片方でそっと蓋をするよう包んでくる。
至極大事なものを扱う時の仕草だった。

「ずっとかっこ悪いままだ。ばっかがどんどん大人になって、綺麗になってる」

焦げた喉がおおいに動揺し、正しい場所から逸れた声帯はいやに頼りない。

「な……な、何、なに言って、じょ、冗談」
「じゃないよ」

食い気味に言い切られて次の台詞が飛んでいった。
中途半端に開くしかなくなった口元が我ながら恥ずかしいのだけれど、閉じることも叶えられず、こちらを見上げてやまない双眸に惹きつけられるばかりだ。
気温より、肌をなぶる風より、体の内側がうんと熱い。

「だからさ、挽回させてくれないかな」

オウム返しに尋ねることもできない私を置き去りにして、和やかでも朗らかでもない真剣味を帯びた声が響いた。

「あの時のことは、のせいじゃない。助けられもしないのに突っ込んだ俺が悪いんだ。また怪我する奴が出るかもしれないって、怖くてみんなと遊べないって言うなら、もう大丈夫だよ。みんな昔より大人になってるんだから、馬鹿な真似はしないさ」

ああ、ずぶ濡れになってはしゃぎはするかもしれないけどね、付け加える人は小首を傾げて微笑む。

「前は俺のほうが背も低かったし、誰かを支える力だってなかったけど、今は違う。もし万が一何かあっても、今度はきちんと受け止めるから。……。俺を信じてよ」

心のやわい所を突かれた所為でひとつも返せなかった。
待って。
サエ、待って。
一か所に押し込み、見ないふりをしてきた気持ちが溢れるばかりで、言葉が追いつかない。
台本で用意しているんじゃないかと疑いたくなるくらいサエがすらすら言い募るものだから、余計にじれてもどかしい。
もたもたと停滞し続ける時に首根を掴まれ、身動きの取れぬ体がふと震えた。
座り込んでいたサエが私の手を取ったまま立ち上がり、引かれた己の腕は伸びている。
この期に及んでもまだ、スカートは階段に貼りついて離れない。膝に力が入る気がしなかった。

「…強引なこと言って、ごめん」

上を向かされたおかげでセーラー服の袖がめくれる。
日光を直に叩きつけられた二の腕はじりじりと熱く、私を見下ろすサエの顔は陰っていて、けれど美しく整っていた。
少し首を曲げた体勢だからだろう、流れ崩れる前髪が私の方へと落ちてきている。
陽光を纏う髪の輪郭が淡く、青々とした空を背にして映り、露わになった額が珍しい。
揃いの瞳はあまやかに揺れたかと思えば、意志の強い輝きをも放つ。
前触れなく、封代わりの掌が退き、籠もる一方の湿った熱を風の中へ解いた。
別れがたい気持ちに襲われ、所以を辿りかける一寸前、ひとまとめだった私の手がばらつきそれぞれ優しく握り直される。
人差し指から小指までの甲はサエの親指に包まれ、第二関節あたりのやわい腹を自分のそれよりずっと硬い指が支えてくれていた。あたかもパーティーにエスコートするような、ロミオを演じきったこの幼馴染の才能が遺憾なく発揮された、乱れ散らかった制服とはちぐはぐの、優雅でしとやかな一挙だった。
爪先が血で沸騰する。

「でももうのんびりしてる場合じゃないって思ってね。誰にも取られたくないんだ。俺はお前に好かれたいし、サエが一番かっこいいって言って欲しいよ。だって、好きな人の特別になりたいと思うのは当たり前のことだろ?」

私を見下ろすサエの目はとても綺麗だ。
きっちりとした二重。切れ長の形。
すぐ上をゆく眉だって凛と通っている。
夏の終わり、秋のはじまりの光彩は眩しいけれど、盛夏に比べれば陰影が混じり、大人しやかな一面もほのかに孕む。
呻る波音が繰り返し、鼓膜を浸した。
本来は白一色のはずなのに所々水滴の跡が残るシャツの襟がはためいて、幼い愛らしさを失った顎にかかる。
広くつくられた肩から繋がるのびやかな腕は逞しく、落ち転がったあの日、体の下に敷いてしまったもののと同一だとは思えない。
健やか極まりない色をした首の中心にある喉仏が、一体いつ現れたのか知らないことに気がついた。小学生の彼には見当たらなかった。帰り道、家出した果ての公園、向き合って話した夜、どれにも覚えがない。
どこもかしこも、すべてが男の子だ。
私とはまるで違う。
何も重ならない。
幼馴染だけど幼馴染じゃない。なぜかそんな風に感じてしまう。
そのサエが、今、なんと言ったのだろう。
空白地帯と化した司令塔たる頭の中を差し置き、心臓だけがものすごいスピードで跳ねているから、とんでもないことを聞かされた気がする。
だらしなくゆるんだ唇をこじ開けて、親しんだ呼び名を口ずさみかけ、やんわり細められた目縁に遮断された。
全開の笑顔が現れる寸前、目蓋で覆われて見えなくなる瞳の最後。
一番甘く、何より優しい微笑み。
声も出ない。

「………なんてね! 今のはちょっと、クサすぎたかな」

言下にあっけなく離された腕が、迷いながら膝上へと落ち着いた。
照れているのかサエの頬はわずかに赤く、じっと見つめていた私にもれなく伝染し、加えて血管という血管が膨張する感覚に包まれたので、彼の五倍は真っ赤になっている、鏡がなくとも胸中で断言する。

「そうそう、まだ日にちは決まってないんだけど、今度みんなで集まってバーベキューする予定なんだ。樹っちゃんの料理の腕、知らないだろ。ホント美味いんだぞ」

切り替え上手の幼友達は、いつかの未来について揚々と語り出す。
照れくささの証をしっかり残しているくせして、自分の気持ちを素直に表現するのも忘れない。
羨ましいほど器用で、まっすぐだ。

「迷惑ならもう言わない。けどそうじゃないなら待ってるからさ。俺も、みんなも」

話せば話すだけ、声を聞いたら聞いた分、体感温度が上昇していく。
夏じゃないのに夏みたいだった。
楽しいこと尽くしの、私が好きな季節。
サエは私にとって夏だった。
暑くて困る時もあるけれど絶対に嫌いになれない、過ぎると寂しく響き、抑えて耐えた憧憬は恋しい。
唇からようやく溢れた呼気の熱っぽさに酔いそうだ。

――もう、だめ。
とてもだめだ。

本音が肺の下で情けなくこぼれた。
よくわからないけど、なにかがだめになってる。
これ以上の我慢なんて耐えられそうにない。

「サエ」
「うん」

勢いづいて呼んだはいいが伝えたい言葉を選びきれず、奏でようとしては声が途切れて無に帰った。
海は近い。
夏が遠く、一秒ごとに過ぎ去ろうとしている。
時間の流れをうまく消化できない。
潮騒に飲まれ、混ざり、判別がつかなくなる。
しばらく待っていてくれたサエも、やがて困ったよう苦笑して、ポケットに手を突っ込んだ。

「詳しい日時とか俺に聞きにくい時は、他の奴に聞けばいいよ。誰でもいい。が話しやすいと思う相手に聞いて」

だから。
静かに落ちた囁きと一緒に、砂へ沈む軽やかな音がする。
歩幅分、幼馴染の影が遠のいた。

「無理強いしたいわけじゃないけど、来てくれないか。俺はこのまま……との思い出がないまま、中学最後の夏を終わりにしたくない」

強い想いを隠さず言葉に乗せ、一拍の空白を置く。
瞬間、打ち寄せる波で耳の内側が溢れていっぱいになった。
私の上空で伸びていた背がふっと屈む。放ってあったスニーカーを揃え、つっかけて履いたようだった。
そんな何気ない身じろぎにさえ、ことごとく反応してしまう。
喉がひくつき、連鎖した腕は寒くもないのにわなないて、掌の抑止をまるきり無視する。
一秒にも満たない私の動揺を見過ごしているのか、見ないふりをしているのか、いつも通りのサエが、じゃあ俺行くな、とその昔帰り際によく聞いた口調を最後に体を翻した。
行きと違って波の近くには寄らず、砂浜の終着点に沿って歩いていく。
とてもじゃないが顔を見れなくなっていた私は踵のつぶれた靴と、まるく出っ張っているくるぶしを黙って送り出すだけだった。
木の葉を踏むより軽い足音が消えていく。
9月とは思えぬ強靭な日差しにさらされたこめかみから、ひと筋の汗が滑り落ち、そこでやっと自我を取り戻した。
噎せるほど大きく吸った息が、からの肺を一気に満たす。

動け。
硬直する両足に鞭打つつもりで命じるも、震え強張り言うことを聞いてくれない。

一日どころの話じゃない、ものの数分で私の重ねてきた日々が崩されてしまったから、体も頭も追いつけないのだ。
一方的な気詰まり。
拒むようなひとじゃないと知っていたくせして、ただ名を口にすることもできない意気地のなさ。
忘れえぬ夜の公園。
壊してしまった自分。
そばにはいけない。
ぽっかりと空いた胸の穴。
こぼれ落ちる寂しさを噛んで歩いた。
一言では語りきれぬ質量だろうとも、彼は私にすべて飛び越えさせて引き寄せる。
横たわっていたはずの長い時間なんて最初から存在していないかのように扱い、忌避なく、屈託のない笑顔でここまでおいでと招くのだった。
そうして、今も。
負い目の消えなかった過去を打ち消し、心安い思い出まで引き出すだけでなく、立ち尽くすばかりだった私を知らない時間に連れていこうとしている。
抗うすべも理由もない。
あるはずがなかった。
だって私はもう一度、サエやみんなとはしゃいでいた頃に戻りたくて、一緒に帰ったかけがえのない時間がずっと欲しかったんだ。

手のつけられぬ感情に翻弄される中、最も大事なところのみを抜き出し、なぞって確かめると呆けていた脳味噌も覚める。
走れ。
まだ間に合う。まだ遅くない。
何のための速いと褒められてきた足だ、今使わないでいつ使うんだ。
――走れ!


渾身の力を籠めて立ち上がる。
わずかに目が眩み、足元もおぼつかないが、コンクリートを踏みつけて耐えた。
視線を走らせれば、白いシャツがだいぶ小さくなっている。
砂浜に降りた。
ローファーが沈み込む。
飛び跳ね、狂わんばかりに内から骨を叩く心臓が痛くて苦しい。けれど気にしている余裕はない。
視界の端で波がうねる。
鼓膜にまで届いている潮のこだまは私の体へ入り込み、昂ぶる衝動の渦と同化し、強く一心に背中を押してきていた。
助走もつけず一気に加速をつけて駆け出す、風が裂ける、髪が散らばる。
校庭や競技場のトラックと異なり思うように走れない砂地でもがき、全速力で走らせる足のおかげで靴下やらスカートやらに何が飛び散ろうがもう構わない。
既に絶え絶えの息を切り、無意味な涙が滲む目を閉じ、すぐさま開け放つ。
背中がゆっくりと近づきつつあるのを確かめて、どうしてか泣きたくなった。
原因はわからない。なんでもいい。どうでもいい。
泣くなとは、唱えない。

簡単だ。
難しいことじゃない。
たった二文字を口にするだけで、彼は振り返ってくれるだろう。
その為だけに悲鳴をあげる鼓動を放り、せつなく鳴る胸も投げ打って、ばらばらになりそうな手足を振りながら吹きさらす風を目いっぱい吸い込んだ。
海のにおいがする。





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