01




私は佐伯虎次郎という人がわからない。


サエはいいヤツ、とにかくモテる、テニスも強くて生徒会では副会長を務める人格者。
六角中に在籍している子は口々に彼を褒め称える。
もちろん、それについての異論はない。
実際間違いないと思う。佐伯くんがいい人でなければ私の目論見は外れ計画も台無し、友人の恋もさぞや惨たらしい形で終わっていただろう。
かなり一方的にこちらの事情を慮れと突きつけた上に黙秘を強要したにもかかわらず、彼は嫌な顔一つしないで応じてくれたのである。
自分にはなんの得にもならないのに約束通り私の秘密を守り、時々あの爽やかな笑顔で、どう、尾行は上手くいってる、なんてからかうように聞いて来て、まだ本格的に暑くなる前、夏の早朝に似合いの声が軽過ぎず重過ぎずちょうどいい調子だったから、私は張り詰めた肩をほぐして答える事が出来た。
ついこの間まで存在は知っていても口を利いた覚えなんかまるでなかったのに、すぐ普通に話せる間柄になったのが不可解で、だけどすぐに佐伯くんの所為だと気づく。
自分は人見知りする方じゃないし、あがり症で気弱なタイプでもないけれど、それでも相手は六角一の有名人。
遠くで見ても恐ろしく整った目鼻立ちは近ければ一層煌めいて映る、だというに、佐伯くんは心臓が竦むほどの緊張感やつい身構えてしまう類の圧、挨拶の一つもなかなか出て来なくなるような気詰まり、いわゆるかっこよ過ぎる人を前にした時に大抵の女の子が陥る危機を与えない人だった。
別に私がとびきり図太いわけじゃない。
断言が叶うのは真夏の手前、まだ涼しく感じる夜さえあった頃から灼熱地獄の八月が終わるまで、目立つかの人を避ける為に観察していたからだ。
今にして思えば本当にただのストーカーで気持ち悪い、多方面へ申し訳ありませんでしたと謝りたくなるのだが、とにかくあの頃は必死だったので自覚する暇がなかった。込み上げる羞恥心やら罪悪感を、過ぎた事は仕方ない、と無理矢理抑えて過日を振り返れば、佐伯くんはいつも人の輪の中にいたように思う。
大口を開けて思いきり笑い、かと思えば六角中の女子がうっとりするような眼差しで微笑んだ。海辺に建つ校舎に降り注ぐ陽射しを目一杯浴びた薄茶の髪は、漫画みたいにきらきらと輝く。
ある時は悪ふざけが過ぎる誰かを至極真っ当に嗜め、ある時は左の掌をポケットに突っ込んだまま肘だけで隣の友達らしき男子を小突き、白くまばゆいシャツに包まれた肩を揺すりながら笑声を零した。
また別の日、新記録を叩き出した最高気温によほど耐えかねたのか、重ねまとめた下敷きとノート、それから教科書を団扇の代わりにしつつ、あらぬ方角をぼーっと眺めている。
階段を一段飛ばして上る最中、体勢に気を配らなかったのかもしれない、制服のズボンのポケットから何かしらを落として、行き違いの生徒に呼び止められる。なーにヘマしてんだよロミオ、友情の籠もった揶揄を受け、俺まだロミオって呼ばれなくちゃダメなのか、笑いながらごめんとありがとうを順番に返していた。
おおよそスマートとは言えぬ仕草でも佐伯虎次郎という稀代のイケメンにかかれば、何もかもが人前にお出し出来るレベルへ達してしまう。
そんな風に整ったままで自然に六角中へ溶け込む彼へ、憧れや好意でいっぱいの視線を向ける女の子は相当数いて、みんながみんな透き通って青い空に弾けるような笑い声を跳ね上がらせていた。
遠巻きにされる事もなく空気全部が楽しげに撓み、佐伯くんの傍にいる子達は嬉しそうにはしゃいで、降る光ごと周囲が明るくさざめく。
だから怖いのだ。
近寄り難さがないのに以前私が口にした通り身も心もイケメンで、欠点らしき欠点が見当たらず、思い違いをしてしまう可能性は高まる一方。
彼がもっとそう易々近づけないような雰囲気を持っていたらこちらも相応の覚悟をして臨むけれど、幸か不幸か正反対なので、中学最後のひと夏、第一の目的で脳がパンク寸前だったとはいえ単に通り掛かっただけの所、協力を強いた割に不義理にも報告をせず、終いには愚痴を聞かせるなどというとんでもなく勝手な騒動に巻き込んでしまった。
迷惑の二文字がぴったりと当てはまる。
おまけに言わなくていい事まで明け透けに話し、こいつめんどくさいヤツだなと思われて当然である一種の告白までしたものだから、帰宅して我に返った時は今ここで死んだ方がマシだというくらい本当に恥ずかしかった。佐伯くんも佐伯くんでよく付き合ってくれたなといっそ尊敬の念を抱く。
ともかく、これ以上の醜態を晒したくなくば、私はもう限界まで高めた注意力を保ち言動にも気をつけるしかないだろう。
同じ轍は踏むまいと背筋を正し、これまで以上に気配を消して、残り少ない中学生活を堅実に過ごそうと心に決めた。

、見えてるぞ」

なのに早々、翌日の朝にはあっさりと挫かれたのである。
想像だにせぬ呼び掛けにびっくりした私は靴の裏を数ミリ地面から浮かせてしまい、後ろから歩いて来ていた様子の佐伯くんに笑われた。

「え…な、なにが!?」
「気配ってヤツ?」

消そうとしてただろ、落ちる言葉が柔らかい。

「なんで隠れようとするかなぁ。友達、上手くいったって言ってたじゃん? もうキミがそういう努力する必要ないと思うけど」

隣に並ばれると平均身長より高い背で影が出来る。
そこで初めて、佐伯くんと学校の敷地内で話したのは結果報告をしようと赴いた下駄箱でだけだと気がついた。
吸い掛けの息がはっと慌てふためいた末に詰まる。
人目を避けて生活して来たから、半分癖になっていたのかもしれない。
しまった目立つ、退却しなくては、今からでも隠れれば間に合うか。
場違いの焦燥に駆られ、条件反射的に周囲へ目を配る私の耳に、初夏の風めいて吹き通る声が触れた。

「よそ見しない。は今、俺と話してるんだからさ? 俺の方見てって」

世にも奇妙な叫びを上げないでいられた理由はいまだにわからない。
詰まっていた呼吸が喉の奥で更にこんがらがって酸欠寸前の顔つきになっていたはずだ、にもかかわらず目の前の人は目尻を和らげつつ、無様な私を嘲笑う素振りは微塵も見せずに、ごく真面目なトーンで話す。

とは今まで何回も話してたのに、こうして真正面から目を見た事なかった気がするよ。不思議だな、なんだか初めましてって言いたくなる」

そっちはどう、目が落っこちそうなくらいビックリしてるみたいだけど。
滲んだ物言いでようやく息の仕方を思い出す。絶対に頬が赤くなっている、とても見せられる状態ではない、わかっていても睨まずにいられない。

「やめてよヒトタラシ!」
「ハハッ! じゃ、の図鑑に登録しておいてよ。一番上にね!」
「ポケモンネタはもういい!」

夕闇迫る砂浜が鮮やかに再生され、同時に沸き出す緩くもあたたかな心音で背中の裏をよじりたくなる。
結局、昨日は辺りがとっぷりと暮れ暗く沈む頃まで一緒にいてくれた佐伯くんは、秋の深まる十月とは思えないほど麗らかな陽光へ一度聴いたら忘れられない声を溶かし込んでいた。
おかしそうに笑ったりなんかして、結構な事だ。横顔まで綺麗で嫌になる。あまりに何をしていても様になるから、羨ましいとか憧れちゃうだとか夢見心地の域を超えてしまう。
前面のボタンから解放された学ランが、海からやって来る風でなびいている。
いくら暑くてもセーラー服じゃ佐伯くんを真似る事は不可能だ、ああも豪快に開け放つ度胸はなく、そもそも女子制服にはボタンがついていない。仮に私が男子だったとしてもあそこまで全開には出来ないだろう。空気抵抗に邪魔されて歩き難い気がするし、何より真面目に制服を着ろと怒られかねない。
佐伯くんだったらそこのところ上手くやるんだろうな、いやでも私だって気配を殺せばなんとか、しょうもない仮定の話に思考能力を割いていたら、片頬や顎のラインにぶつかる視線を感じた。
誰のって、一人しかいない。

「試してみるかい?」

意味がわからなくて、私は眉を顰める。

「俺は別に誰もたらし込んだりしてないけど、キミの言う通りヒトタラシだったとしてさ」

相変わらずにこやかな表情で続ける佐伯くんも、どうやら似たり寄ったりで生産性ゼロの思索に耽っていた様子だ。

「だったとして、じゃないよ。ヒトタラシ確定だよ」
「まぁそう言うなって」

俺まだ最後まで話してないじゃん、と両目をなだらかな笑みの形に変える人が、学ランの一番下のボタンを留め出した。校舎へ足を踏み入れる前に一応整えるつもりらしい。
鼻先を私の側へ向けながら手元を進めてゆき、一秒たりとも俯かぬ様は馴れたもの、きっと制服着崩しの常習犯なのだろう。
釣られた私の方が見入ってしまう。
佐伯くんは左利き。
データとして頭に入っていた事でも、実際目の当たりにすれば物珍しかった。

「実力、確かめてみて」
「……誰の?」
「俺の」
「………なんの?」
「キミに気付く実力…かな! 気配を消されてもわかるよ、俺はね」
「…………けど前は全然気付かなかったよね、佐伯くん?」
「お、やる気だ。ひょっとして負けず嫌い? そんなに癪なら勝負しようか」

胸の少し上まで閉められた学ランの黒が、季節外れの高気温をもたらす日光でてらてらと光っている。部活は夏に引退済みの受験生なのにラケットバッグを背負っているから、放課後にどこかで打ち合う約束をしているのかもしれない。
いつかの時と立ち場が逆転だ。
人知れず呟く私の脳裏に打ち明けた日の光景が浮かぶ。
黙秘の理由を教えて欲しいと乞われ、ありのままに語り、ちょっと呆れ顔で普通に言えばいいじゃんと返されたのだった。遠い昔の出来事ではないはずだが、やけに懐かしく感じられて落ち着かない。
今、意気揚々と言うのが相応しい表情の佐伯くんは、初めてきちんと会話したあの朝を覚えているのだろうか。
無策に尋ねようとして、体の中心で膨張する心臓に阻まれる。

「しょ…っ勝負、勝負ね。いいよ? 言っとくけど私には気付かれた事ないっていう実績があるんだからね!」
「だったら俺の実力がの実績を上回るって所をしっかり見せなくちゃな」

気を紛らわせないと昨夜味わった潮騒や混じる低い声、暮れかかる頃から夜になるまでの様々な色、鼻を掠めたにおいまで溢れてきそうで怖い。
日陰の昇降口に入って、年月を感じさせるロッカー群の手前で立ち止まった。
佐伯くんは人気急上昇中のアイドルも裸足で逃げ出す煌めく笑顔でこちらを見下ろしている。
慎重に息を吸って、吐くついでに紡ぐ。

「……どっかで修業でもしたの?」
「え? いや修行って、なんの修行だよ」
「だって根拠がないとそんな自信満々に言えないでしょ」
「んー、修行はしてないけど」
「何もないのに勝負とか言い出したの!?」
「あ、待った待った根拠はあるよ、意味もなく吹っ掛けてるわけじゃないし、何より俺は勝ちたいんだ。その為に最大限の努力はするつもり。にしても……」

私に宣言しているのか自分自身に言い聞かせているのか、どちらかよくわからない口調で押し並べた直後、佐伯くんがふっと黙った。
喋っていてもかっこいい顔をしているけど口を引き結ぶと更に度が増すようだ、あの子はホント男前ねえ、六角中周辺のおばあちゃん達が異口同音に評する人に見澄まされ、私は思いきりたじろいでしまう。
微かな耳鳴りまで響いてくる。
怖い顔なんかじゃないし睨まれてだっていないのに、空気が張り締まる感覚に捕らわれた。佐伯くんはいつだって心の垣根を感じさせない人だから、これはとても珍しい現象だった。
きりりと凛々しい眉とCGみたいに美しい弧を描く二重の間は狭く、角度と見ようによっては彫の深い俳優さんと見間違える可能性がなきにしもあらず。通った鼻筋にかかる光の粒子は出入り口のガラス扉で乱れており、細くても痛んでいる様子がない綺麗な髪をより明るい茶へ染め上げ、瞳の白い部分を甘く濡らしている。
唇は薄くも厚くもなく、特別目立つ印象を与えるものではないかもしれないけど、それすら彼という一個人を引き立たせる長所としか思えない。
音もなくまばたきを重ねる揃いの目が真っ直ぐに向かって来ている。
耐え切れず息を呑んだ。
佐伯くんはどう考えても東京向き、千葉の片隅に生息していい男子じゃない。こんな場所でこんな私と立ち話している場合か。

「実績、根拠、裏付け。そういうの気にするんだな、って。結構理論派?」

罵倒に近い感想が飛び出す手前、昔っぽく言うと‘二枚目’の彼が相好を崩す。
瞬間、何故だか空気が和らぐ錯覚に撫でられて、悟られぬ程度に脱力した。籠もった溜め息が熱い。
そんなわけないじゃない。理論派だったらもっと整然と自分の気持ちや考えを説明出来るし、言葉に詰まったりしないもん。

「佐伯ー! 今日の英語の和訳やって来ただろ!? ワリ、見せてくんね?」

思うがままぶつけるか否か迷っている内に、どっとなだれ込んだ声で流れが散った。
友達だろうかクラスメイトだろうか、佐伯くんよりちょっとだけ背の高い男子がパンッと小気味いい音を鳴らし手を打つ。
さて拝まれた方はといえば、俺達一応受験生だぞ、随分余裕じゃん、軽く笑って受け流していて、でもまるで嫌みったらしく聞こえないのが恐ろしい。
悪く受け取られていない証拠に、そこをなんとか、と続ける男子の声は頼み込んでおきながら軽快だ。みんなに頼られてる佐伯くんが、その都度応えてあげているからなんだろう。
会話を続行する隙も割り込む度胸もない、じゃあ私行くね、の一言を掛けようか躊躇し取り止める。わざわざ流れを止めてまで言うべき事などなく、私と佐伯くんはクラスメイトじゃないし、かといって友達だと公言するのもなんとなく憚られた。短い夏の間、一方的に私がお世話になっていただけだ。
窓枠型の影が伸びる灰色のコンクリートを目に入れ、自分のクラスのロッカーが並ぶ方へと数歩進み、

「あ、!」

背後ろから呼び止められ、またしても小さく跳ね上がってしまう。弾んだ勢いのまま振り向いた。

「勝負、忘れるなよ!」

差し込んだ明るい陽射しにも負けない眩しい笑顔が、事も無げに試合開始を告げる。
不敵な物言いのはずなのだけれど、どうしても爽やかに響くお陰で私は二の句を継げない。どんどん脈が速まっていく。
息詰まるさ中、違う、と口内で呟いた。
試合開始の合図じゃなくて勝利宣言をしているんだ。
感じるだけで言葉に出来ずに立ち竦む私を見た佐伯くんが、強い意志を灯らせていた両の目を緩ませ、にこっと笑った曲線に変える。
言うだけ言って気が済んだのか、後は特に付け加える事もなく友達らしき男の子と連れ立って行く。こちらに向けられた背中はそこまで広くなく、佐伯くん自身も筋骨隆々といった体格ではない、だというにしっかり男の人に見えた。
私はスクールバッグの紐を力の限り握り込んで、微かに震え出している足に鞭を打つ要領でぐんと床を踏み締める。突っ立っていても早鐘の手前で堪えさせた心臓が鬱陶しくなるだけだ。

夏休みの終わりからずっと気持ちが沈んでいた。
打ちのめされたと言ってもいいのかもしれない。
一番の親友に置いていかれた被害妄想に憑りつかれ、まったく関係もないし悪くもない人が恨めしく、自分自身、感情の整理の仕方がわからなくなってしまっていた。
寂しかった。小さな子供みたいにいじけて、結んでおくべき弱音をぼろぼろと零した昨日の私は本当にどうしようもない子だ。
己の不甲斐なさに唇を噛み締めれば、必然的に連鎖する。
キミがよかったよ。
キミじゃなきゃこんな風に海まで来る事はなかったと思う。
騒がしい海風や波音を跳ね除けるほど力強く嘘偽りのない声が、いつまでも消えてくれない。







気温が下がり始める夕暮れの砂浜を裸足で駆け、子供じみた遊びに耽って、足が速くなったと胸を張る。
どうしてああもはしゃげたのかが自分でもわからず、何かよからぬマイクロ波的なものでも浴びた所為としか考えられない。
繰り返し自動再生される失態に悶絶する状況下で受けて立った事を、私はすぐさま後悔した。思い出した分だけ訳知れぬ羞恥心で叫びたくなる理由の一つでもある対戦相手は、自らの発言に責任を持つ人だったのだ。
決死の覚悟で隠れたりはしていないけれど、目立つ行いもしていない。あくまでも地味に過ごしたつもりが、悉く看破されてしまう。ひとまず最も馴染んだ行動パターンを、との心掛けが木っ端みじんに砕かれた心地である。
かくれんぼや鬼ごっこというようないかにもお遊びの雰囲気はなかったし、かといって鬼気迫るものもなく、偶然のすれ違いざまごく自然に手を振られる。
今まで味わった覚えのない事態だ、私は佐伯くんと目が合う度に驚き、隣で並んで歩くクラスメイトに心配された。
探されている様子や気配はほぼないと言っていいだろう、だけどどうしてか見過ごされない。目標を掲げひた走っていた頃はただの一度も起きなかった異変がいとも簡単に続く。日を跨ぎ、まぐれじゃない事を思い知った。
私は段々面白くなくなっていく。
くだらぬ矜持と鼻で笑われても構わない、数ヶ月かけて磨いたテクニックや築いた自信を綺麗に覆されるのは、佐伯くんの言葉をお借りすると癪なのだ。別段秀でた所もない私の唯一の特技だったのに、コツを掴むまでそれなりの時間が必要だったのに、さらりとスマートに塗り替えられてむくむくと意地が沸き出した。
同じ戦法を取ったところで勝ち目なんかないのかもしれない、自分なりに知恵を絞り気配の消し方を変え、しかしあっさり見破られてしまう。
いっそ避けてやろう、通る道筋や昼休みの居場所を毎日取り替えてみたが、佐伯くんは意外に行動範囲が広いらしくどこかしらで鉢合わせる。
だったら会わなければいいのだと逃げ回るも、却って悪目立ちをし笑われた。
敵を知らぬ所為で上手くいかないのでは、と少し離れた位置で観察すれば、本当に男女関係なく慕われている人なのだと目の当たりにするばかり。ふざける時はあっても大抵落ち着いていて、怒ったり不機嫌になったりしない。普通に暮らしているだけなのに目立つ、遠目からでもかっこいい、春夏秋冬どの季節でも海が似合う、等々褒めざるを得ない方へ思考が傾いてゆき、慌てて首を横に振る。
もういい、逆にこちらから仕掛けてやれ。
半ばやけくそに秋の空気を縫うよう移動して、斜め後ろから束にした教科書とノートでつつこうとした寸前、パシッと軽い音が転がった。
佐伯くんは私が突き出した平らな先端部を器用にも振り向かないままでひと掴みにし、首から上だけを捻り白い歯を見せて微笑む。

「バレバレだって! 今の、最近の中じゃ一番酷かったぞ。絶対俺の死角をついてやるって思いながら飛び出したろ」

気合入れ過ぎ。
語尾は楽しげに跳ね弾んでいた。

「…佐伯くん背中にも目がついてる?」
「アハハ、ついてないよ。ま、ついてたら便利だったかもね」

渾身の一撃を躱されやはり愉快と言い難い気持ちに捕らわれていく私は、突き付けた威力のない武器を退かせずぐいっと遠慮なしに押す。
受けた彼は声を立てて笑い、こちらが勢い余って転んでしまわない程度にいなした。軽々とした仕草は何気なくて、欠片ほどの悪意も感じられず、否が応でも気付く。勉強用具がしわくちゃに折れ曲がらないよう気遣ってくれているのだ。
益々面白くない。眉間が強張る。

「何その余裕、私本気で考えて動いてるのに!」
「だから言ったじゃん? 俺にはわかるよって」
「なんで!? 目がよくて動体視力もいいから!?」
「いや……うん。そう来たか」
「違うの?」
「違わないけどさ。それもある、ってのが正しい表現かな」

伸ばしていた腕をほんの少し緩めたら、何の抵抗感もなくすんなり引く事が叶う。
手加減、の三文字が脳内に浮き上がって、なんとも言えない気持ちが胸底で滲みぼけた。
勝ちたい、最大限の努力はする、勝利宣言の色を纏う瞳。
散々積み重ねておいて、本気で私に勝とうという気概があまり伝わって来ないのだ。力を尽くさずとも楽に勝てると舐められているのだろうか。
不意に悲しくなって唇を捻じ曲げると尚更虚しい。
佐伯くんはそんな風に誰かを下に見たりしない、多少なりとも知っているから自分の立てた仮説を自分で崩す羽目になる。
渦巻く感情が私にとっては複雑怪奇過ぎてどんな顔をすればいいのか戸惑うと同時、負けたくないという割合強固な意志も溢れて来た為、相当珍妙な表情を浮かべていたに違いない。堪え切れないとばかりに吹き出した佐伯くんが、あのきらきらの笑顔で爽やか極まりない声を転がした。

、かなり負けず嫌いだろ。それから自分自身が説明出来ない事は曖昧なまま口にしないし、やっぱ裏付けや理由を大事にするよな? …って俺に言われるのも嫌そうだね、ハハ!」

別に弱点を突っついてるつもりなんてないさ、のそれは長所でもあるんじゃない。
佐伯くんが奏でる言葉達は、どこをとっても誠実だ。
昼過ぎの六角中は秋の気配に溢れ、親しんで三年目の校舎の壁が煌めいている。海鳴りが遠くから微かに届き、胸の内をざわつかせた。

「けどだからこそ、あっちこっち行っちゃいそうで見てらんないんだ。くれぐれも気を付けて。もうよそ見しないでくれよ」


――私は佐伯虎次郎という人がわからない。





top  ×