02 明けて翌週も攻防は続いた。 勝った所で賞品があるわけじゃなし、私の負けでいいよの一言で終わらせられる他愛ない遊びだと思う。 なのに私は敗北宣言を口にしなかった。 自分を諦めの悪い子だと思ってはいなかったけれど、考えてみれば友達の想い人をしつこく見張り行動パターンまで読もうとしていたのだから、実はかなりしぶとい方なのかもしれない。 全部、佐伯くんと一緒にいて知った事だ。 自分が変わったというより、元々の性を呼び起こされ気付かされた、と表現する方がしっくりくる。 「前は本当にがどこにいるかわからなかったんだ。何かコツがあるのかい?」 正面切って問い掛けて来る一対の瞳がぶれずに私を射抜いた。 ちっとも睨まれていないのに心のどこかが緊張してしまうのは、佐伯くんの目元があまりにも整っていて綺麗だから。 飾り気のない笑みを零し、風にそよぐ前髪とその奥で瞬く睫毛は太陽の光に紛れ煌めく、良い意味で人目を引くつくりはなかなか手強い。 後はもう収穫の日を待つばかりの作物が実る第二グラウンドを尻目に、コツかぁ、と独り言めいた呟きを漏らす。佐伯くんとの勝負を始めなければ、じっくり向き合わなかった事だ。私は調査の最中に心掛けていたあれこれを頭の中で数え上げた。 「あのね、完璧に誰からも見られないようになんてしちゃだめなんだよ。だって一人ぼっちの方が目立つもん。適度に集団に溶け込んで、先頭を歩いたりしないようにするの」 腕組みした佐伯くんが神妙な顔で聞き入っている。 「後つける時は流石に一人行動で誰にもバレないようにするけど……でもそうやってずっと隠れてたら万が一見つかった時に言い訳出来ないでしょ? 人通りの多い道に出たら通行人Aのフリしてた」 「学校では?」 涼しげな声に催促され、人差し指を地面へ向けた。 「廊下でもグラウンドでも足音立てないように気を付ける。歩くスピードはゆっくりでも速過ぎてもだめ。とにかく目立っちゃだめなの。ごく普通っぽい生活を送りながら、いかにも隠れてます! って雰囲気出さないで気配を消すんだ」 あとは大きな声で喋んない。クラスの子とか友達と一緒にいる時も、適度に会話に参加しつつ空気に溶ける感じ。 「難しそうだなぁ」 つらつらと語る私を見た彼が、ちょっと困った風に笑う。 つい真剣に答えてしまった、呆れただろうか。いや、引いているのかもしれない。 たじろぎながらも、ぐっと唇に力を入れる。 「…そうだよ、難しかったし苦労したよ! なのにあっさり見抜いちゃうんだもん。自信どっかいっちゃった」 「じゃ、俺の勝ちでいい?」 「だめ、よくない! 私勝ってないけど負けてもないよ」 「アハハ、確かにそうかもな。何せ俺も勝ててないし?」 「……じゃあなんで今、俺の勝ちでいいって私に聞いたの?」 「あわよくば勝ち取れるかなぁってね」 「あわよくない! 正々堂々勝負して!」 男の子らしく角張った肩を楽しげに揺らす六角中の有名人は、からかったり冗談を言ったりするけれど本質はとても優しいのだ。 隠し事という単語が似合わず、存在そのものが爽やかで、常に周りをよく見ている。体育の授業中とテニスコートで友達やチームメイトへ声を掛け、励ますよう肩を叩いていた場面は、あまり交流のなかった時の私でさえ何度も目撃した覚えがある。 (だから……) 副会長や副部長を務め上げた責任感の強い佐伯くんの事だ、同い年で同じ学校の女子がへこんでいるのを放っておけなかったのだろう、とわからないなりに手探りで結論付ける。たまたま事情を知ってしまっただけの彼にしてみれば、とんだ貰い事故である。 寂しいなんて言うんじゃなかった。 情けない泣き言を吐かず死ぬまで耐えようとまでは思わないけど、少なくとも佐伯くんにぶつけるべきではなかったのだ。 もう大丈夫かい、一番の親友がいなくても平気なの、一人でいちゃダメだぞ。 実際には投げ掛けられていない。いないが、眼差しや仕草の端々に包むような気遣いを感じて時折途方に暮れる。 夕闇に染まる海辺が瞼の裏で繰り返し蘇り、芯を腐らせる暗い気持ちや、それらを言葉にして溢れさせた後の感覚、全部が鮮やかに脈を打つ。 落ち込んだ日、誰かに傍にいて貰える事がこんなに胸に染みるだなんて知らなかった。見えない心遣いがとても温かくて、本当に気を張らなければ寄り掛かってしまいそう。 ぐらつく都度、目一杯首を振る。 男女問わず人望があって、賑やかな輪の中心で朗らかに笑い、たくさんの女の子から特別な意味が籠もった視線を受けていた姿を思い出す。ジュリエット役だった子が佐伯くんに想いを告げたものの叶わぬ恋に終わった、と噂で耳にした時は心底驚いたものだ。 ロミオという大役に抜擢されるほどの人だから一方的に知っていただけ。一度もクラスメイトになっていない私は、夏がもたらした偶然がなければきっと挨拶すら交わさないまま卒業していたに違いない。 場違いの不釣り合いに分不相応、次から次へ湧きいずる限りなく事実に近い自他問わずの評価に俯きかける寸前、いつも引き止められた。気楽で気軽とは口が裂けても言えないのに、佐伯くんが私だけじゃなく他の誰との間にも距離を作らないお陰で、抱いて然るべきの劣等感は一緒にいると綺麗に拭い取られてしまう。 実の所とっくに負けているのではないか、思い悩む瞬間はままある。 たった一人の友達の事で頭がいっぱいになっていた私と、ゆとりがあって分け隔てなくみんなに優しい彼。 人間としての出来が違い過ぎる。 「、今度の収穫祭では一時休戦しよう。中学最後なんだからさ、勝負の事ばっか考えてちゃ勿体ないだろ? 変に気にして隠れようとするなよ」 ほら見て、佐伯くんって私のお兄ちゃんか先生みたいでしょ。同い年に思えないよ。 誰にともなく心の中でのみ言ってみせる。 「………わかった」 「よし、決まり。あ、作戦考えたり分析したりってのもナシだぞ。全部忘れて楽しむ事!」 「うん、わかったよ。そっちこそ私に忘れろって言ったんだから、おんなじように全部忘れてね」 「え、全部?」 「いや…え、って何? 全部だよ、全部に決まってるじゃない。ていうか今佐伯くんが自分で言ったんでしょ? ズルしないで。抜け駆け禁止だよ!」 「それはまぁ、するつもりなかったけどね。そっか、全部か。……がどこにいるかも?」 「えっ?」 「探しちゃダメだったりする?」 全学年総出で作り上げた肥沃な畑の畝の間を、世話係らしき生徒達が行き来していた。太陽をいっぱい浴びた葉や茎の緑が目に滲み、カキーンと金属バットで高く打ち上げられたボールの音が、今か今かと収穫を待つばかりの作物郡の向こうの第一グランドから響いて来る。 またしても学ランのボタンをお腹辺りまで開け放っている佐伯くんは両手をポケットに突っ込み、こちらを覗き込むような恰好を取った。 「え、あの……だ、だめじゃない、けど……」 さらさらした前髪の奥で密かに息づく瞳が強かだ。放たれる視線はきつくもなければ、敵意や悪巧みの類も何もない。 そのはずなのだが、私はどうしてか半歩ほど後ずさりをしたくなって、きゅうと握られ絞られた心臓に動揺する。舌は震えわななき、中途半端にずれを起こした声が、秋晴れの風へ不自然な渦を招いた。 体の一部が自分の意志を無視して動く違和感が気持ち悪い。 うっと口を引き結ぶより先に、全て上回る速度で縫い止められて、だけれどちっとも不快感を覚えずひたすら戸惑った。 「そう、ならよかったよ。考えてみたらさ、と普通に勝負とか関係なしで喋った事ってあんまりないんだよなぁ。ああ、七、八月の間はちょっとあったね」 それだってキミは友達の為に奔走してたもんな、やっぱノーカンだ。 転がって弾む声音が明るい。高い空から降る陽射しは柔らかく、快晴の青をより引き立てる。私はお腹の裏が変に温められたような、ふくらはぎがぴくぴく震えてきちんと伸ばしていられなくなるような、相応しい表現の一切見当たらぬ不可解さに飲まれてしまう。 喉がむず痒い。 上下共に張り付いた唇をこじ開け、恐る恐る目の前に立つ人の名前を紡いだ。 「…佐伯くん」 「ん?」 「私別に面白い事言えないよ」 呼ばれた方はといえば、私の心中を知ってか知らずか置かれた一拍の内に目を丸くし、ややあって吹き出す。抑える為か口元へ申し訳程度に運ばれた左手の甲には、そう強く握り込まれていない割に血管と骨がうっすら浮き出ていた。 「あれ、自覚してなかったんだ。は面白いよ。というより、一緒にいて楽しい子って感じかな」 遠慮のなさに思う所がないわけでもないが、とりあえずバカにされてはいないみたいだし、褒めてくれている気がする。 「……一応ありがと。でも、具体的にどこが?」 「真面目に尾行の仕方と気配の消し方を教えてくれる子が、面白くないわけないじゃん」 「…前言撤回する、今のありがとうは聞かなかった事にして」 「ハハッ!」 「爽やかに笑ってもだめ、誤魔化されないもん。佐伯くんが私を面白がってる事はよーくわかった、もう絶対に教えたりしない!」 「まぁそう言わずにさ。もっと色々教えてよ」 「やだ! 絶対やだ!」 「気配を消すのが得意なは忍者みたいでかっこいいって」 「それおだててるつもりなのかもしれないけど、全然効いてないからね!」 良いように受け取っていた分余計に頭に来て肩を怒らせてみたはいいが、爽快感溢るる微笑みの主には効果がないようだ。 夏の朝に交わしたものは私を気遣っての当たり障りない日常会話がほとんどで、海鳴りに揺れる砂浜では聞き役に徹してくれていたのだと身を以って知る。 本当はこんな風につつこうと思えば好きにつつけるだけのある種の図太さや鋭い観察眼、上手く言い返すだけの豊富な語彙とタイミングを見極める勘の良さを持ち、おそらく頭の回転だって速い。臨機応変な柔軟さがあるという事は、それだけ抜け目がない証拠なのかもしれなかった。 見くびっていたつもりなどないが、何から何まで端整なつくりの爽やかさんは想定を超えて掴めない人だ。いくら近くで話すのが心地好くたって、人との間に垣根がない男の子だとみんなが認めていたとしても、きっとそればかりじゃない。通り一遍からほど遠く、明らかにされていない手札の存在をひしひしと感じる。 休戦協定破棄の可能性も視野に入れつつ深く息を吸い、例のにこっという副詞が相応しい笑みを零す人を上目遣いで睨んだ。 「佐伯くんがコツあるのって聞くから一生懸命答えたのに」 「うん、ありがとう。参考にさせてもらうよ」 一体なんの参考、仮に佐伯くんが私のやり方をマスターしたとしても絶対隠れたりなんか出来ないよ、何してても目立つんだもん、用意していた返事を取り出そうとした所、さらりと打ち返される。 「それにしたって随分詳しく話してくれたけど平気? 手の内を明かしてもいいような、よっぽどの勝算があるとか?」 ……黙っていれば自分のやりやすいよう事を運べるかもしれないのに、やっぱり勝つ気があるのかないのかわからない。 「だってどうせ見破られちゃってるじゃない、今更隠したって意味ないよ」 「が考えてるほどは見抜いちゃいないさ」 「じゃあ今言った方法が佐伯くんの頭に入ってる内に違う方法で気配消してかく乱する!」 「アハハ、それ俺に言っちゃったら意味ないって、かく乱にならないぞ」 「わかんないよ? 合わせ技でいくかも」 「そりゃ大変、俺も気を引き締めてかかろうかな」 休戦を宣言した傍からその後の戦いについて息巻く私達は、もしや揃いも揃って好戦的なのだろうか。私の事を負けず嫌いだと評した佐伯くんだって、すんなり敗北を認めるタイプには見えない。こちらの態勢が少しでも崩れたと見るや否や、じゃあ俺の勝ちでいい、なんて軽く言ってのける人が気概に欠けているとは思えなかった。 一瞬、強く吹いた風がグラウンドの乾いた砂を巻き上げる。 煽りを受けたセーラー服の襟が宙を泳いで、散らばる髪が視界で乱れてしまい、わあ、と小さな声を上げてしまう。 これ私幽霊みたいになってるんじゃないかな、と指で捕まえた髪を耳にかけたのち佐伯くんの方を見遣ると、いまだ渦巻く空気が薄茶色をした髪の毛に絡み、執拗に掻き混ぜていて、結構酷い有様だ。 ぐしゃぐしゃに撫でられた犬みたい。 なんだか可愛くて狭まる目の隙でつい笑うと、片目を閉じて強風に耐えていた佐伯くんが器用にも左側の肩と首を竦めた。無造作ヘアとフォローも出来ないレベルで四方八方にばらついた髪を、ポケットに入れ通しの手は使わず首から上だけを振るって直そうとする。 いよいよ本格的に犬みたいだ、これはいけない。 六角のロミオにあるまじき振る舞いに、緩む頬と独りでに上向く口角をお供にして助言を試みた。 「髪すごい事になってる、佐伯くん。ちゃんと手で直したら?」 空気の強い流れが不意に途切れ、翻弄されていたあちこちもゆっくりと落ち着いていく。 二度三度と襲った風で零れた髪のひと筋を再び耳へかける私の目の前で、髪型が決まっていなくても変わらずにかっこいい男の子が左手で乱れほぐれた箇所を掻き上げた。ほんの少しだけ露わになったおでこが珍しかった。 「海風っぽかったな、今の」 「うん、うちの学校は海が近いしね」 「そうじゃなくてさ」 柔らかい否定に首を傾げる。 中学生にしては長身の彼は舞い散る砂から守ろうとしているのか、はたまた注ぐ日光の眩しさを躱す為か、瞳の両方共に細め、すごく優しい声を落とした。 「と行った海を思い出したよ」 風はすっかり収まっていた。 鼓膜を揺する振動が熱を帯びるから少し痛い。 佐伯くんが笑う。いつもの爽やかさが全面に出たものではなく、目の端を淡く滲ませ、穏やかな秋の陽射しへ心を浸すような面差し。 一度も見た事のない笑顔だった。 ← × top → |