03 実行委員の腕章を付けた何人かの生徒が慌ただしく駆け回っている。大騒動にまで発展していないものの、気に掛かる程度には騒がしい。 学校周辺ではちょっとした名物行事である収穫祭、もとい六角祭当日はこれ以上ない晴天に恵まれ、在校生徒ばかりか先生や各部活動の顧問まで混ざり、文字通り総当たりで泥や土にまみれながらすくすく育った農作物を粗方収穫し終え、後は種類ごとに分け大きさや重さを測りランキング発表を待つばかり。 つまりはみんなが楽しみにしている昼食の時間が差し迫った頃合だった。 Tシャツにハーフパンツとまるきり運動会の装いでプレハブルーム近くを通り掛かって、クラスの子達と話すさ中で覚えがある顔を見つけた。転校してしまった一番の友達の代打で委員会の仕事を請け負い、その流れで何度か手伝った事があった為、たまに鉢合わせれば話をするくらいの仲になった後輩だ。 何事かと声を掛けようと唇を開き、 「どうかした? 何か慌てているみたいだけど…?」 少し前を行くクラス委員の女の子が口火を切った為、空振りに終わる。 後ろから覗き込む形となった私を見つけた‘顔見知り’の表情がぱっと様変わりした。 驚きに見開かれる目と縋るような視線、混入された絶望。複雑な顔色にアクシデント発生の予感がした。 「ごめんなさい! わ、わたし…わたしがちゃんとチェックしなかったから……」 青ざめる実行委員らしき女子生徒は、大きな目に涙を溜めつつもどうにか堪えている。 落ち着いて、と私の後輩に背中を撫でられたその子が発した、動揺しきりであちこちつっかえている言葉を整理すると、調理器具や調味料の発注ミスをした。今からどうやって間に合わせるか一,二年生だけで顔を寄せて知恵を出し合い、やっと不足分を確認した所で私達が通り掛かったのだ。 運動会や文化祭より六角中の特色に溢れ、ひょっとしたら学校一の大イベントかもしれない収穫祭を成功させようという重圧は、のんびりとした校風に馴染んだ下級生にとって相当のものだったのだろう。三年生は部活動と一緒に委員会の方も引退、まではいかないけれど、ある程度の仕事は次世代に譲るから、一、二年にとって初の大仕事のようなものだ、いっそう気合を入れていたのかもしれない。 「どうしよう…実行委員の先輩にも、協力してくれた生徒会の先輩達にも色々助けて貰ったのに、こんな…当日になって、」 「…まあミスったのはもーしょうがないって事で! 足りてないものはなぁに?」 半泣きだったり焦っていたりでひと固まりになっている輪へ、あえて軽い調子で近付いていくクラスメイトを追おうとし、 「生徒会長だけじゃなくて、副会長……佐伯先輩にいっぱい迷惑かけっちゃったのに、わたし」 ついに目のふちから透明な雫を滴らせた子の唇から転がった名前の所為で、つま先にブレーキがかかってしまう。 私の体を引き止めた感情の在り処について、上手く説明出来ない。というより自分自身にあるのではなく佐伯虎次郎その人にあるようにも思われ、はああ……と感嘆の溜め息まで出てきそうだ。 佐伯くんはこんな所でも慕われているのか。 そして察するに、多分というか絶対モテている。 探してはだめかと問うて来た彼こそ一体今どこで何をしているのだろう、疑問が浮上し、人気者の宿命、引く手数多の状況に陥っているに違いない、即座に沈下した。 お腹に気合と力を入れる。 ほんの僅か躊躇ったがしかし、休戦中なのだから気遣いや注意を払う事は不要、心に決めて踏み出した。 私より先に足りないものを書き出したリストへ目を通している子の横に並び、ざっと流し見てみたら、こう言ってはなんだが拍子抜けしてしまう。 「なんだ、これなら買って来られる量じゃない」 私の口出しに、そうだそうだとその場にいた三年生らの同意が続く。 先輩、と両の目をうろたえさせる後輩に向かって笑ってみせた。 「もっと大変な事になってるのかと思ったよ。大丈夫、そんなに慌てないで。とりあえず今ある分の器具とか調味料を準備して、料理始めちゃいなよ。すぐなくなっちゃう量じゃないでしょ? 買って帰って来るまでに間に合いそうだし、けど心配ならどっかから借りて来ちゃえば?」 「おーそれでいんじゃね、の案でいこーぜ!」 「あっ、じゃあ私見て来るよ」 まとまり始めた空気に懐かしさが込み上げる。 自分以外の誰かに助言をし協力するのは久しぶりだ。 やる気が満ちると同時に、意味もなく気配を消し続け一人で腐っていた時間がとんでもなく身勝手だった気がして来る。 よしこうなったら乗りかかった舟だ、と罪滅ぼしの意も込めて買い出し係を申し出ると、 「えー! でも、もう調理始めちゃうんでしょう? 今日のお昼ご飯それなんだから、食べ損ねたらやばくない?」 「そうですよ、先輩にそこまでして貰うわけにはいかないです! ミスしたのは私達なんですから責任を持って……」 「実行委員が抜けたら収穫祭の方が回らなくなっちゃうんじゃないの? いいよ、私が行くのが一番早いもん」 引き止めの言葉をわざと厳しく跳ねのけ、横合いから不足分リストのメモを掠め取って、プレハブ脇に置いてある何部の誰の所有物か知れぬ、相当古びた自転車の方へ歩を進めた。運動部に縁のない私がどうして知り得ているのかといえば、佐伯くん以外には気付かれなかった尾行と行動パターンを集めた日々にて培ったからである。 バカそのものの行動をしたなと自省はいまだに尽きないが、ともかく人の役に立ってよかった。 独りごち、ひどく錆び付いたママチャリを押す。あまりにも古い為に盗難の心配がなく、鍵も何も付いていないのだ。 じゃあいってきます。 普段、大人しく地味に暮らしている私の行動に驚いている同級生へ告げる。 「え、え、さん、ほんとに行くの!?」 「うん、一番近いスーパーまで行って来る。あ、領収書あればお金出して貰えるよね?」 「は、はい! 大丈夫だと思います、けど、先輩」 秋祭りに似た空気や心地好い騒がしさ、おたつく何人かの気配を耳に入れつつ、まずは財布を取りにロッカーへ寄らないと、と校内敷地図と最短距離を脳内に浮かび上がらせ、思い切り良くペダルを踏んだ。 ひと漕ぎでぐんと景色を置き去りに出来、思わずほくそ笑んでしまう。調査対象が陸上部だったお陰で追った私にもそれなりの体力と筋肉がついている、夏の奇行の賜物だ。感慨に浸っている場合じゃないけれど、やけに誇らしい。 「あ、ちょ、オイ…!」 「大丈夫ー! 私近道知ってるから! 任せて!」 いっそ浮かれた声色を返した後で気恥ずかしさが滲んで来、背中側へ巡らせていた首を戻す。 もしかしたら私、忍者ぶって隠れて暮らすより人助けに走る方が向いているのかも。 自分でも気付いていなかった新事実を胸に、恐ろしくがたつく車輪を動かし始めた。 ※ 醤油のボトル数本と塩と砂糖の袋、それからバターにサラダ油。 かさ張って相当重い。 真昼間のスーパーにおおよそ自宅用とは思えぬ数の調味料を抱える中学生は、良くも悪くも目立ったのだろう。親切なおばさんや店員の人に声を掛けられ、六角中の生徒だと答えたら今日が収穫祭だと知っていた様子で、とても親切にしてくれた。 よかったら車で送るわよと優しい気遣いを丁重にお断りし、年代物の自転車まで荷物を運んで貰って、手を振りながら店内へ戻っていく売り場担当の人に頭を下げる。 ハンドルを掴んで引く。 やはりというかなんというか、重みで前輪がふらつく。 帰り道変えなくちゃだめかも、と見慣れた県道沿いの風景へ思いを巡らせ、駐輪場を出るまではと跨がずにいたサドルに手を掛けた、その時。 「おーい、!」 チリリン、と自転車のベルが鳴り響き、鼻先が勝手に釣られてしまう。 広い車道を挟んだ向こう側、横断歩道の手前で上がっているのは左手だ。 変わらぬ笑顔のその人は、ママチャリに乗っかっていても放つオーラが夏の陽射しの如く煌めいている。 「え…佐伯くん!」 うん、とあどけなく頷き両腕をハンドル部分へ預けて、やや前屈みの姿勢を保ちアスファルトについた片足でバランスを取る、何気ない佇まいさえ様になっており、私は本来続けるべき言葉が生み出せない。 頭上で点灯していた赤が青へと変化し、向こう岸の佐伯くんが歩行者用の信号を見上げた所で正気付く。 色々と聞きたい事はあるがひとまず置いておこう、待たせてはいけない、行きよりずっしりと重量のある自転車を駆け足で押し渡る。 ――と、道路に描かれた縞々が潰えるゴール直前、右に大きく振られてしまった。メモ通り買い入れた大量の品物が所以だ。 撓んだ唇から短い悲鳴が零れかけ、瞬く間に消え散る。ともすれば転倒の惨事を招く揺らぎが、横合いから現れた左の掌で止まった。 経年劣化で端の方が曲がり掛けている金属製のカゴをがっと力強く掴まれ、斜めに傾いていた体勢も元に戻る。 「大丈夫?」 気を付けて、と場を繋ぐ人に間髪入れず歩道まで引き上げられ、ハンドルを握りっ放しだった私は半ば強制的に二歩分歩く事となった。見かけによらず力持ちだ。 歩行者用信号が赤く染まったのだろう、背後ろを車のエンジン音が駆け抜けていく。 佐伯くんはびっくり顔の私を見下ろし、瞳に宿らせていた真摯な光をほどいて、外国の人みたいに両肩を竦める。柔らかい苦笑が晴天の光と色彩に晒されており、なんとも言えない心地に陥った。 テニス部のウェアと同じ色をした半袖のTシャツから伸びる腕が長くて、ぎりぎりまで荷を積んだカゴを支える手の甲は私のものより一回り近く大きい。 「も、申し訳ありません……」 「アハハ! なんだよそれ? 急に敬語使う必要なんかないって」 「う、うん。ありがとう」 「それはこっちのセリフ、かな」 話しながらちょうど向かい合わせとなった車輪を近付け、私の側にあった調味料を手際良く移すので大いに慌てた。 手の面積の差が簡単な作業に影響を及ぼし、止める前にほとんどを持って行かれてしまう。残ったのは仕入れた中でもそう重くない塩やバターの類だ。 「いっ…いいよ佐伯くん! 私も持ってくから!」 「俺のチャリの方がカゴでかいし。それにこれ結構重かったろ。手伝うよ」 とは言っても分量的に不公平だった。 主な作業主は佐伯くんで、むしろ私がお手伝い。いや、いてもいなくても変わらない付き添いである。全部任せたら手持無沙汰だし、何よりここにいる意味がない。 「せめて半分こにしようよ?」 「俺ってそんな非力に見える? これでもテニス部じゃ副部長だったんだけどな」 「え!? いえあの違くて」 「よりにもよってに俺と同じだけの荷物は持たせられないよ。いいから行こう、ほら。収穫祭のメインイベントに間に合わなくなるぞ」 食い下がる私の前で方向転換をする佐伯くんはナチュラルに問答無用、膝辺りまで引き上げたジャージの足をさっさとペダルに掛けた。漕ぎ出しのひと踏みが私の比じゃなく逞しい、突っ立っていたらあっという間に置いてけぼりを食らう、助走をつけてサドルに飛び乗り急ぐ。 平日の昼間、幅広の歩道を行く人影はない。 まるで荷物なんか存在していないかのよう悠々走る自転車の隣へ追いつくと、佐伯くんが横目で私を見る。風は秋らしく乾いていて、夏より少しだけ冷たい。 「みんな止めたのに、一人でプレハブんとこの自転車で行っちゃたって聞いてさ。すごいな、行動力だったらきっと六角の女子で一番だ」 笑い声が零れると出っ張った喉仏が上下した。 青空を割る光は十月も終わるというのに暖かく、全速力でペダルを踏めばうっすら汗が滲んで来そうだ。実際、行きは可能な限り飛ばしスーパーへ入る前に額の隅を手で拭った事を思い出して、今は平気だよね、と些か不安になった。六角が誇るロミオの隣で汗なんか万が一にもかきたくない。 「しかも自転車漕ぐのも早いじゃん? 俺、が行った後わりとすぐに追っ掛けたんだけど…結局帰りの荷物持ちくらいしか出来てないし」 「そんな、いいのに! 全然充分だよ。すごく助かった」 「そう?」 「うん、ほんとにありがと。でも、あの……なんで佐伯くんが?」 「キミに仕事を押し付けて、俺だけ平気な顔で楽しむわけにいかないだろ」 「いや別に押し付けられたわけじゃ…」 自ら買って出た事である。 後輩達の名誉の為にも否定しなくては、とハンドルを握る手にも力が入った。 「折角一時休戦にしたのに、肝心の収穫祭ほっぽり出して行っちゃうんだもんな。こんな事なら勝負、続けとくべきだったか」 語尾に笑みが淡く被さっているから、本心じゃなくてちょっとしたからかいなのだろう。 佐伯くんはこういう所がすごい。 とても自然に耳へ馴染む、飾り気ない言葉のキャッチボールが上手なのだ。 持って生まれたものなのか彼自身が築き上げたものなのかはわからないが、どちらにしろ讃えられるべき長所だと思う。 錆びに錆びたチェーンが独特の音を立て、車輪を走らせる。 使われている素材が今と違うのか、ひと漕ぎにも相応の力が必要な自転車は引いても押しても乗っていても重い。 「休戦してなくても今みたく買い物に行ったよ。だって私が一番向いてるもん、最短距離で走ってけるしね!」 だけど必死に、目一杯の力で漕がなくて済むのは並走する人の速度がちょうどいいから。 「ハハッ、言うと思った! ホントかっこいいよ、って」 どの口が、と喉まで出かかったツッコミを何とか引きずり落とす。 自分で吹っ掛けて来たくせして勝負事を一度忘れよう、と佐伯くんが提案したのは、おそらく私への気遣いだ。 夏の経過と得た結末を知るが故に、私を引っ張り出そうとしているに違いない。 陽の一文字が似合いすぎる笑顔でこっちにおいでと招き、イメージ通りに明るい光に満ちた場所へ案内しようとしてくれている。 どれだけ友達のいない可哀相な子だと思われているのか、考えるだけで落ち込むので放棄した。それに、大事なのは私の気持ちじゃない。 私にとって最後の収穫祭と言うならば、彼だって同じだ。 ただでさえ人気者なのだし、友達や――付き合っている子がいるかはわからないが、とにかく一緒に過ごしたい相手はいるだろう、‘ほっぽり出して’来たのはむしろ佐伯くんの方ではないか。 クラスメイトでもない、友達かもわからない、少々事情と愚痴を聞いただけの仲でしかない女子を追い掛け、より重い荷を持ち、露骨に口には出さず態度で気にするなと語ってみせ、こちらが謙遜、恐縮してしまう称賛の仕方はしない。だけど走る速さを合わせてくれて、極めつけにかっこいいよと嘘の見当たらぬ明朗な声で紡ぐ。 (本当にかっこいいのは佐伯くんの方) 噛み締めたい感情が胸の奥でしきりに波打ち、しかし本人にぶつけるわけにもいかないから、溢れる分を熱っぽい手の内にスライドさせて握り込んだ。 道はゆっくりと下り坂になってゆく。 「……そんな風に褒めたりして、敵に塩送っちゃだめだよ」 「え、俺、敵なの?」 「勝負してるんだから敵じゃない?」 「勝負はしていても敵対しているつもりはなかったなぁ」 のんびりと流れる声に微笑みが混じり、二台分の車輪が回る音が間を取り持っていた。 今日は本当にいい天気だ。 昨夜のニュースで明日は秋晴れとなり行楽日和でしょうと語られた通り、青々とした空が高く何度見上げても尽きない。 発覚したミスに慌てふためき今にも涙を零しそうな彼女達の姿がよぎり、恵まれた好天に気付く余裕もなかっただろう、思うと気の毒になってしまう。一刻も早く帰還し、大丈夫だよと安心させてあげたい気持ちが芽生えた。 波音や潮の香はしなくとも、進むごと近付く海の気配はわかる。生まれ育った街を、肌で知っている。坂道の長さに比例し、心臓がどんどん温かい。 うん、敵対はしてないよね。 そっと心で頷いた。 佐伯くんは最上級の味方で、六角の男子で一番頼もしい。 私への優しさは今更語るべくもないが、例えばさっきの子達が彼の名前を出した事からわかるよう全方面から信頼されてい、また拠り所でもあるのだ。 強烈なリーダーシップを取るタイプでなくとも、みんなが最後に頼るのはこの人に決まっていると何故か断言出来る。 緩い斜面に合うブレーキを掛けると、大して力を籠めてもいないのに、自転車から発せられる金切り声がのどかな空気を切り裂いた。間近での会話や傍を行く車の走行音もかき消すほど凄まじい。 「いい加減買い換えなきゃダメだな、一体どこの誰のチャリなのか知らないけど」 オンボロ過ぎる、と笑い飛ばす人の頬が十月の日光を浴びて明るい。 私だって出来るなら騒音を立てず静かに漕ぎたかったけれど、生憎のん気にサイクリングを楽しんでいる場合でもない、佐伯くんが荷物持ちを引き受けてくれたお陰で必要だったはずの時間は随分短縮されたものの、急ぐに越した事はないのだ。時間帯も相まってお腹が減って来たし、と過ぎ去る風景を流し見つつ、いまだ脳裏に焼き付く町内地図を辿った。 陽の光に暖められた坂道が終わり、平らな地面へと変わる。 いよいよ海が視界を目映くさせるかという手前で急停止し、 「佐伯くん待って!」 先へ進もうとしていた背中を呼んだ。 止まって振り返った真ん丸の目は、普段の彼を思うとやや子供っぽい。 不思議と独りでに和らぐ胸の中や口元を堪え、伸ばし差した指で、こっち、と伝えた。 「近道」 佐伯くんがサドルに跨ったまま、コンクリートについた両足でバックして来る。 「ちょっと狭いんだけど、この通りからだったら一番早く学校に着けるの」 ついて来てね。 呆気に取られたと言わんばかりの面差しが気恥ずかしく、返事が戻る前に舵を右に切った。 後にも先にも車の来ぬ広い道を渡り、地元に住んでいても見落としかねない抜け穴めいた狭間へ向かう。 砂と土にまみれた未舗装の路地は記憶の通り走り辛く、何ヶ所か降りて通行しなくてはならなかったし、伸び放題の下草や立ち木の葉を避けて駆けもした、間違いなく悪路だが背に腹は代えられない。 落ちた小枝を踏んで割る。 葉陰に太陽が遮られると薄暗く、腕回りに当たる空気は冷たい。 途中、後ろから来てくれているはずの佐伯くんが酷い目に合っていないか気になり、声を掛けようと首を捻る寸前、俺は平気だから前を見て、危ないぞ、と先手を打たれてしまう。 男前度ナンバーワンの顔にひっかき傷が一つでも出来たら大変だ、私が六角中の女子から恨まれる、不安や懸念と戦いながら突き進んでいたら、唐突に目の前が開けた。 うっそうとした藪と言っても過言ではない道なき道が途切れ、通りを挟んだ向こうには慣れ親しんだ校舎が佇んでおり、たくさんの楽しげな声やはしゃいだ雰囲気が風に乗って届いて来ている。 速度を落としたのち、ほっと息を吐いた。 腕時計へ目先を落とし確認すれば、想像に違わず普通の道を選ぶより格段に時間が掛かっていない。 嬉しさが込み上げ、すぐ横に現れた高い影へ首を振ってしまう。 「ね、近かったでしょ! 間に合ったよね?」 お腹の虫も騒ぎ出すいい匂いが微かに鼻をくすぐる。調理は既に始まっている様子で、じゃがバターとコロッケ、大学いもにスウィートポテト、大学かぼちゃやポタージュといった人気メニューは残っているか微妙な線だが、時間的に全て食べ尽くされたわけでもなさそうだ。 耳障りなブレーキ音も立てずにスッと止まったその人は、我を忘れて肩を弾ませる私へ通った鼻筋を差し向けた。 「、いつこの近道を知ったんだ? やっぱり夏の頃に…かい?」 「うん。朝の練習で陸部が外周してる時とか、あとは自主練で走ってるとことか追い掛けてたら見つけたの。とにかく行動パターン掴まなくちゃって必死で……それ以外何も考えてなくて。初めはロードワークにくっついてった時もあってね、もう無理走れないって死にそうになってたんだけど、今日役に立ったからよかったよ! 尾行って体力つくんだねえ」 「……なるほど、そんな事までやっていたんだな」 穏やかであると同時にどこか落ち着き払った返答だ、冷水を被った感覚に襲われる。 無駄に上がったテンションをあまりにも生かし過ぎた、人目を憚らず公言して良い過去でもないだろう、流石の佐伯くんも呆れてしまうかもしれない。 やばい、べらべら喋らないで黙っているべきだった。 「けどもう使うなよ、今の道。一人で通ったりしたら危ないぞ」 途端、凍り掛けた背筋が溶けて、両肩ごとふやける。 「平気、何度も使って慣れてるから転んだりしないもん。あ、佐伯くんは大丈夫? どっか切ったりしてない?」 「俺? いやないよ…ってそうじゃない、俺じゃなくての話! ホントに心配してるんだ、ちゃんと約束してくれ。特に秋は陽が落ちるのも早いし、近道だからって行かないように」 優しさに感謝するだとか胸を高鳴らせるだとか相応しい反応はいくらでもあったのに、色々と突き抜けて感心してしまう。 もう幾度となく繰り返し味わった実感だが、佐伯くんは他の男子に比べ視野が格段に広い。今のだって、周りが見えていなければ到底出て来ない言葉だろう。 早朝の公園に潜んでいた所を発見されたのも、偶然の要素があるのは勿論だが、彼だからこそという気さえして来る。そもそも私だったら、いかにも張ってます風の、怪しいにもほどがある人に声なんか掛けない。 などと感慨を抱いていたら、下半身のみで自転車のバランスを取る佐伯くんがこちらのカゴに残っていた商品を持ち去る。鮮やかな手際に声も出せず唇だけが驚きにひずんで、次いでこちらが何らかのリアクションを返すより早く、ちょうど入れ替わる形でサラダ油のボトルが一本静かに落とされた。 思わず見上げると、以前も目にした覚えのあるちょっと困った笑顔。 「が学校を出た辺りの頃かな。実は俺、テニス部から調味料借りて来ちゃっててさ、収穫祭の方はもう大体足りてるんだ」 瞬間に込み上げた感情はとてもじゃないが言い表せない。 脳天を鈍器で殴られ目の前に火花が散るような衝撃である。 「えっ…ええー!?」 「予備として必要そうなのは今渡したヤツくらいだよ。だからこっちのはテニス部に返す分」 続いて眩暈までして来た。 文字通り言葉を失う私を見、佐伯くんが胸深くまで響く声で男らしく続ける。 「悪い、最初に言うべきだった」 真摯極まりない眼差しと響きで暴発寸前だった感情が静まり、全身はタコの足みたいに腑抜けていく。 虚脱感は凄まじかったが却って冷静さを取り戻す事が叶い、スーパーを出た所から今に至るまでを猛スピードで振り返って悟った。 溜め息は籠もりもしない。 「……佐伯くんさ、私が重たいの持ってフラフラしてるのとか、意気揚々って感じのとこ見ちゃったから言わなかったんでしょ」 何も知らずに近道を提案したあげく間に合ったよねと胸まで張ったのだ、見当違いの勘違いに頬に熱を灯す羞恥が湧いて止めようがなく、ハンドルを握る掌に汗まで滲んで来る。 無駄足を踏んだのは間違いないのに不思議と怒りや落胆の類は生じておらず、むしろ貰った心遣いで胸がいっぱいだ。 参った、とばかりに後頭部をかく彼がくれたのは、思い遣り以外の何物でもないだろう。 「女の子って本当に勘が鋭いんだな。あー…いや、が鋭いのか」 「それは、わかんないけど。でも佐伯くんが謝る事なんてないよ。そうやって泥被らないで。みんなよそ見て借りて来るって言ってたんだし、私がしっかり確認してから買い出しに行けばよかったんだよ、変に張り切って慌てちゃってた」 こうも思い込みが激しくては本格的なストーカー認定されても反論が出来ない。 「私こそごめんね。私の所為で佐伯くん、収穫祭のご飯ちゃんと食べられなかったよね」 自分一人だけならまだしも六角中の有名人をしょうもない失敗に巻き込んでしまったのだ、己の間抜け加減と空腹具合がどうこうよりそちらの方が気に掛かり、心苦しかった。 「、大丈夫だ。そうしょげるなって」 「……大丈夫じゃないよ。だってお昼ご飯が」 「あるよ」 凛として涼しげな声音が独りでに下向いていた旋毛に降って、穏やかな陽光に伸ばされた車輪の影へと置いていた視線を持ち上げる。 「テニス部の皆が取っといてくれてるんだ。いや、今はもう元テニス部か」 「え、そうなの!?」 「そう。俺が焦っている所を見るに見かねたみたいで、いいから早く追い掛けろってさ」 「な、なんだ……そっか。よかった…」 胸を撫で下ろし、即座に強張った。 ごめんなさいテニス部の人達にまで迷惑を。 「もおいでよ」 泡を食って言い掛けた所、やたらとスマートに押し留められてしまった。 ぽかんと口を開けた私はさぞ間抜け面だったろうに、目尻を滲ませた上で白い歯を見せる佐伯くんは爽やかなままだ。 もしかすると知る限りで一番きらきらしているかもしれない。 「……え?」 「食いっぱぐれた俺とキミの分。来てくれないと無駄になっちゃうじゃん?」 「え、わ、私のも!?」 「俺達毎年、収穫祭にはアサリとか海産物を提供していてね。流石に全校生徒に行き渡る量は無理なんだけど、そこはオジイの…あ、テニス部の顧問な、特例措置みたいな感じで少し優遇して貰えるんだ」 内緒だぞと人差し指を唇の前に立てる、揃いの瞳が輝いている。 「だから、テニス部はテニス部なりの収穫祭。まぁ、よその部もそれぞれあるんだろうけど。というかクラスや班ごとに作る野菜も違うしね、きっと皆自由にやっているさ。あまり気にしないで気楽に考えてみてよ」 最後なんだし、去年とも一昨年とも違う料理は如何ですか。 芝居がかったセリフにロミオ経験者の強みを見た。 私も佐伯くんも足で自転車を跨いでいる恰好なのに、この様になる感じや浮き立つ空気はどういう事なのだろう、謎過ぎる。 「でも…いいのかな?」 「いいって。それに、ちゃんとメシ食えないってさっき自分で言ってただろう? 今からじゃどれだけ残ってるかわかんないぞ」 「……ですよね」 「どうする?」 「うん。じゃあ、折角だしお邪魔します」 「オッケー、なら俺はこのままテニス部の所までが買ってくれた調味料持ってくな」 「なんか結果的に私、テニス部のお手伝いみたいになっちゃったね」 「ハハ、確かに! 俺達全員に助けて貰った形だ、ありがとう。それじゃ悪いけど、はそれ実行委員の本部まで届けてくれるかい?」 「わかった」 「どうしよう先輩大丈夫かなって青い顔してる子がいると思うから、出来たら声掛けてやれよ」 さり気なく付け足された言葉に私は驚き、加えて一秒間ほど瞬きも忘れた。 最早出尽くした感嘆の息は在庫切れもいい所だ、一緒にいたら際限なく仕入れなければならないのでは、と恐ろしくなる。 「……佐伯くん、どうしてそんなに気が回るの? 絶対食べてるもの私達と違うでしょ!」 「そんなわけないじゃん、皆と変わんないって! それより、こっちの準備が出来た時に連絡するから番号を教えて貰ってもいい?」 明るい笑い声を漏らす人が適当に躱したのかあるいは本心なのか、私ごときには判断がつかずお手上げ状態だ。ジャージのポケットから携帯端末を取り出す佐伯くんの左手を目に入れつつ、ゼロから始まる己の電話番号を告げるしかない。 伝え終わるまでのほんの僅かな時間、小さな画面へ向かって伏しがちになった瞼でさえ綺麗に映えた。 頬骨と下瞼へ降った薄い影が儚げに揺れ、清しくもある。 見えないはずの、夕闇に輝く海がよぎった。 佐伯くんはいつも真っ直ぐ話してくれるから、近くにいて別の方向に向けられている眼差しや鼻先をそういえばじっくり見た事がない、気付くが早いかおかしな緊張感がわっと涌く。 心臓が熱い定規で刺された心地だ、耳鳴りは頭の中にまで染み渡り、すぐそこでうなる海の声や校舎から聞こえるお祭り騒ぎと混じって体中がざわめいた。 まろやかに肌を包んでいたはずの秋の陽がじりじりと強まった錯覚を抱き、あんなにもかきたくないと願った汗の気配を感じて余計に焦ってしまう。 なんで? どうしてこんな、よくわからない気持ちになってるの? 無言の内に問えば問うだけ空回り、視線の行方も定まらない。明らかに挙動不審。 爽やかな顔して抜け目のない佐伯くんに突っ込まれる前に整えなくては、いつの間にか渇いていた喉が微かに痛む、かといって唾を飲み込むのも躊躇われ、 「よし。あ、知らない番号から掛かって来ても無視しないで出てくれよ」 心で右往左往していたら、登録し終えたらしい佐伯くんが不意に顔を上げた。 陽射しに透ける髪と血色の良い頬が眩しい。 「しないよ。佐伯くんからの電話ならちゃんと出るもん」 動揺を抑え捻り出した割には平静な調子だったと思う。 にもかかわらず、目の前にいる男の子がきりっとした眉の下にて光る瞳を私に預けるから、心臓と肺が悲鳴を上げた。 熱を孕み膨れた酸素が体の中身を押し潰そうとして来て、呼吸もままならない。じっと見詰めるだけの彼は身動き一つ取っていないので、勝手に私が自らを窮地へ追い遣っているのかもしれず、対処法がさっぱり思い付かなくて困る。 感情と同様に迷い始めた目線が弱々しく下がり、瞬きのタイミングも計れなくなった時、張り締まった声に呼ばれハンドルを掴む両手がびくついた。 「髪」 「えっ髪、何、なに?」 彼らしからぬ素早さで打ち切られた簡素な単語へ一瞬で反応し、もしかしてボサボサで見ていられない状態なのか、だとしたらどこが、ていうかもっと早く言って、脳内で鳴り響く警報に踊らされながら風になびく前髪に触れる。 ペダルに掛けていた靴底をひと回しし、ちょうどいい位置で再度踏み固める佐伯くんが、爽快と称するに相応しい笑顔を零した。 「俺初めて見たけど、結んでるのも似合うね」 「あぇ、…え、え!?」 三種類くらいの驚き声がこちゃまぜになって、意味不明な叫びと化してしまう。混乱収まらぬ内にこめかみ辺りへ置いていた右手を後頭部の、可愛くアレンジしているわけでも何でもない、地味な髪ゴムでくくっただけの結び目へ移動させる。 慌てふためく程度が酷くてよほど可笑しかったのだろう、今度ばかりは遠慮なしに吹き出した佐伯くんが印象的な両の目でなだらかな線を描いた。 彼の人柄を考えれば笑う事自体は珍しくないかもしれないけれど、本当に芯から楽しいというような表情だった。 「じゃ、後で!」 真っ赤に染まっているに違いない顔面を冷ます事すら叶わず、しっぽめいた一つ結びの髪をびーんと引き伸ばすばかりでただ見送るしかない私を、赤いシャツの背中が置き去りにする。すごく速い。海辺へ一直線に突き進んで行く。砂浜にある夏期のテニス部部室に用事があるのか、と考えた少しの間に小さくなる影。本来出せるスピードが如何ほどのものかを語らずして語っていた。 ついさっき、並んで走っていた時の緩やかな風速が蘇り、お腹の奥や肺が突如発生した高熱で捻じれる。あれを手加減、優しさと呼ばずして何とする。 きゅうと舌の根や喉元が切なく締め付けられてどうしようもない。 一緒に海に行って以来ずっとこうだ。毎日毎分ではないにしろ、ままならぬ事態と感情で佐伯くんだけじゃなく自分の事もわからなくなってしまう。息を吸っても吐いても、どこかが詰まって苦しい気がした。 振り切り、唇を力の限り引き結ぶ。 呆けている場合ではないのだ、私を心配しているであろう後輩に声を掛け、突っ走ってごめんねと謝らなければ。 カラカラと寂しげに回る車輪に耳を傾けながら独りごちる。 (汚れるからいっかって、適当な結び方しなきゃよかった……) せめて髪留めにするとか可愛い色のゴムにするとか、と小さな後悔を引きずり、校門の前で立ち止まった。 音がする。 声も届く。 慣れ親しんだ海から、愛すべき学び舎から。 騒がしいのに心地好い、六角中の情景がとても近い。 有り余って溢れるほどの慕わしい日常に取り囲まれる時間や、生まれ育った街ののんびりとした空気が好きなはずなのに、たった一人の存在だけで全てが遠のいてゆく。 勝ちを望むなら逃げ隠れに徹するべきであるし何より最も確実なやり方だ、目立って仕方がない人相手に正面切って立ち向かった所でたかが知れている。 嫌というほどわかっていても、寄せては返す波のように絶えない。 (……本当に、なんでだろう?) みんなに優しくて誰からも頼られている佐伯くんを私は今とても、訳もなく無性に、びっくりさせてやりたくなった。 ← × top |