05 どれほど悲惨な状態になっているか知れぬ輪郭を押さえる。 熱いからじゃない、感触が残っていた所為だった。 学ラン越しの背中。 骨っぽく張り締まって、分厚い木の板に似ている。 彼特有の雰囲気やイメージと噛み合わない筋肉が制服の下にきちんと存在してい、私の左頬をぐにゃと崩したのだ。 心臓は限界まで膨張している。一秒後には弾け飛ぶんじゃないかと思った。ほんの僅か掠った自分以外の人のにおいが心を乱しに乱し、顎の周りを支える掌が震えて、這う指はもっと顕著だ。 冷えた空気の差す廊下の片隅で立ち尽くす。 内側からふつふつと煮える熱のお陰で冬らしい寒さを得る事が出来なかった。 閉められた扉の色は変わりなく、淡いクリーム色だ。横の壁は少しだけ濃くて、所々に何かで引っ掻いたような傷がある。細長い標識に記された、生徒会室、の文字が過ぎた年月を連想させるくたびれ具合だっていつも通り。 まばたきのタイミングも忘れた両目はどうでも良い事ばかりに見入って、その一方頭でついさっきの光景を飽きもせず追う。 ごく近くで翻った佐伯くんの横顔と、先を行き振り返った時の表情に、声の揺れる響きや目の端に乗った紅の淡さ、繰り返し再生させていれば全部が体の奥深くまで沁み込んだ。 もう一度、片側の顔を摩る。 佐伯くんの背中は硬くて、でも優しい体温を帯びていた。 ※ いつだって季節を無視して五月の清涼な風を吹かせている彼は、当然ながら無理強いなどしない。無遠慮に押し入って力任せで引っ張ったりなんてもっと有り得ない、でもそのまま通り過ぎて行かない為心に残り、色々と気になってしまう。 (どういう意味?) 率直に尋ねてみたところで彼は怒りはしないだろう。きっとすぐに、はっきりと答えてくれる。誰かを騙したり、自分の意思を偽ったりする人なんかじゃない。 わかっていても、時々簡単に頷くだけで精一杯の私は土壇場で怖気づく。 聞きたいと願う訳も聞けない理由もわからない。 特に深い意味はないと思い知らされる瞬間を想像するだけで気分が落ち込み、ならばと思考の方向転換をしたはいいが、まさかそんなわけないでしょ、と身の程知らずな可能性を打ち消す破目となり、結局一歩も動けない。 たくさんのなんでとどうしてに振り回され堂々巡りである。何度も何度も、同じ場所で繰り返す。まるきり同じ思考回路で迷い、同じ事を考え、足がもつれた。 私は多分、聞けば最後だと思っているんだ。 何かが変わって、あの夏までなくなっちゃいそうなのが嫌だった。 一人ぼっちの寂しさや恥をかいて傷付く事より、意識しないまま積み重ね織り込まれて来た、有り触れた日々を特別な色でじんわり満たす佐伯くんとの思い出を失うかもしれない未来が、殊の外怖かった。 陽射しや気温が厳しさを増す前の早朝、滲んだ汗を拭う感覚を思い出す。 蝉の鳴き声のシャワーが耐え難く、首筋に張り付いた髪は鬱陶しい。 焼かれた空気が孕む高熱に青々と茂る草の蒸すにおい、停滞し流れていかない風や、真っ黒に染まった影の濃さに気力を削がれ、けれど陽の光はお構いなしにそこら中で煌めき跳ねていた。 在りし日の光景が目の裏で輝きやまない。 海鳴りが耳裏でこだまし、鼓膜を下って胸まで覆い、いっそ気が遠くなる。 絶え間なく打ち寄せては引いていく波に、知らないどこかへと攫われる錯覚に惑わされた。 涼しげな声音が何気ない調子で名を紡ぐ。 印象的な目元は端まで整っていて、光を弾く瞳はどんな時でも真っ直ぐだ。 まるでそこに在る事が当たり前みたいにみんなの傍で笑っている。 だけど肝心要の部分が掴み切れないのはどうしてだろう、と考える度に胸がざわついた。 嘘をつかない人のはずだが、言葉の真意は露わになっていない気もする。 過ごす時間はクラスメイト以下だ、しかしその短い一寸の間にも無数の疑問符が沸く。 恐ろしくモテているに違いないが、想いを告げられている所や黄色い声援のさ中で芸能人の如く手を振るワンシーン、下駄箱に有り得ない枚数の手紙が入っている、等々わかりやすい場面に遭遇した覚えは一度もなかった。 付き合っている子は――いないみたい。 本人が公言したわけじゃなくて、思い切って告白したら優しく断られた、彼女がいるのかと勇気ある子が尋ねればいないよと否定された、あらゆる場所を周り巡った噂じみた事実が元である。 教室の片隅や行き過ぎる廊下で耳に入れながら辿ると、私は佐伯くんのほとんどを他の人や伝え聞いた出来事でしか知らないのではないか。もしもの気付きにちょっと愕然とする。 お花見会ではロミオを演じ、古豪テニス部のレギュラーで生徒会副会長、簡単なプロフィールでさえこちらから得たもので実に一方的、佐伯くんが手ずから教えてくれたものでは決してない。 纏わる様々を知らない誰かから知らされる都度、やっぱり本当はとてつもなく遠い人のよう思えて来、だけど近くで話してしまえば一気に身近な同級生となった。 「聞いてる?」 間違いなく気遣いが出来るくせして、たまに時と場所を選ばない。 体育の授業後、更衣室へ向かう途中で呼び止められた私は、驚きと少しの好奇心に満ちた目の級友に置いていかれた。 佐伯くんは自販機へ寄った帰りのようで、片手にアクエリアスのペットボトルをぶら下げている。ここ数日冬に近い気温が続いているのに心はまだ夏なのか、冬服と不釣り合いのラベルを視野の隅に入れつつ脳を支配する回想を振り払い、曲がりくねった思考の迷路から抜け出した。 「う、うん。聞いてる。じゃあ、あの子達に混ざってテニスしてるの?」 「ああ。と言っても自分のラケットを持っていないから、まだ本格的にじゃないらしいんだけどね」 六角中予備軍を通し迷子の顛末を聞いたという佐伯くんが、一応の当事者である私にまで話を持って来てくれたのだ。 最後の最後で起きたすれ違い以外全ての連携が上手くいき、大人の間で交わされたであろう事柄にも齟齬はなく、迎えに来たお母さんと無事字帰宅した幼い姉弟は翌日から手作りのテニスコートへ姿を現したらしい。 人見知りをする子など皆無、よって打ち解けるのに時間は掛からなかったそうだ。遊びついでにテニスまで始めたようで、盤石の土台とひらかれた環境あっての六角中テニス部なのだと再納得する。 曇り空でくすんだ心細そうな表情や泣き顔、佐伯くんに抱っこされた女の子と私と手を繋いでくれた男の子のぬくもりが蘇り、姉弟の二人共が賑やかな輪の中で目一杯笑う姿が瞼に浮かんだ。ほっと息をつく。 「そっか……なんか、じーんとしちゃった。みんな仲良くていいね」 「安心したかい。初恋のお姉ちゃんとしてはさ?」 「……そうだね、初恋のお兄ちゃんと同じくらいには安心したかな!」 「アハハ、うん、そりゃよかった」 単なるいい話で終わらせないのが、我が校のロミオの特色である。 加えて、 「あとは朝礼で名指しで褒められるだけだね、佐伯くん」 「取り上げて貰えるほどの事はしてないさ。他にもっと褒められるようなヤツとかしなくちゃいけない話、いくらでもあるだろう」 絶対に親御さんから感謝されまくったはずなのにその辺りの詳細は語らない。あえて割愛したに決まっている。一体どこまでスマートで居続けるつもりなのか、最早憤りに近い感情が生まれて暴れ出しそうだ。 「迷子の子達のお母さん、にもお礼がしたいって言ってたよ」 こちらの複雑な胸中を知ってか知らずか、キラッという効果音がぴったりの笑顔で話題を方向転換させる。 「え? 私?」 「そう、キミ」 「な、なんで? てかいいよそんな…別に何もしてないもん」 「だからしてたって! 手繋いであげたのだけじゃないぞ、がしてやってた事ここで全部言おっか? 大体交番まで行った時点で十分してるじゃん」 謙遜した分だけ褒め言葉の追撃を食らう気がして、それは佐伯くんのお手柄なんじゃ、口にする寸前で噤んだ。 「…わかった。でもほんとにお礼とかいいんだ。朝礼で取り上げるような事じゃないって今佐伯くん言ったでしょ? それとおんなじ。大したお手伝いもしてない……っていうか、私より褒められなくちゃいけない誰かさんがいるし!」 「粘るね、」 「佐伯くんほどじゃないよ」 「だってそこが俺の持ち味だしな」 爽やかに断言され常ならば降参する所、気管が軽く押し撫でられる悪寒に見舞われた。 三秒ほど呼吸を忘れ、肺の裏が静かに痛む。 佐伯くんのプレイスタイルを、私は知らない。 正確にはデータとして得てはいても目にした事がなかった、というべきか。何もかも遠回しの伝聞なのだ。至極当然の現実が首の後ろと肩に重く圧し掛かる。 変だな。 胸の内で呟く。 なんでちょっとへこんでるんだろ、私。 制服、学校指定ジャージ、襟がよれたTシャツ、何を着ていても王子様オーラの途切れぬ彼と、その気になればあっという間に雑踏へ溶け込める十人並の自分。 形なき壁に隔たれた気分は、あまり心地好くない。 体育用のジャージとハーフパンツ姿を周りに好かれてしょうがない人の前で晒していると気付けば、尚の事後ずさりしたい衝動に駆られる。 「……何も私で活かさなくたっていいじゃない」 「活かさなきゃは俺と話してくんないじゃん」 さらりとした一言に撃たれ、体が上履きの底で廊下を踏み抜いてしまうんじゃないかというくらいずんと重くなった。突然降りかかったとんでもない弾丸だ。特に心臓の嵩は倍以上に増した気がする。 耐え切れず独りでに俯く鼻先をどうにか維持し、ゆったり構える学生服を睨み付ける勢いで見上げる。 「ひ、人聞き悪い、私、そんなに感じ悪い態度取ってないもん…」 「ハハッ! 違う違う、。俺は感じ悪いって言いたいんじゃない。そんな風に思っていないし、思った事だって一度もないさ」 「……じゃあ、何?」 「気配消して隠れようとしないでくれ」 眼差しと声の両方に誠実な色が宿っていた。 「キッカケは何しても、だ。問題解決して用が済んだらハイさようならって、それじゃあんまりだろ? せっかく知り合えたのに」 どこをどう切り取っても嘘が見当たらない。 同時に、卑屈な曲解を試みたり反対にふざけて軽い方へ乗っかってみるだとか、自由な振り幅も存在していなかった。 佐伯くんの言葉にはいつも彼自身の意志や想いしか籠もっておらず、余所事の滑り込む隙がないのだ。 真っ直ぐ過ぎて他にどんな解釈をしたらいいのかを見失い、嫌じゃないのに困るのが困る。受け取り手たるこちらの気持ちを簡単に浮き彫りにしてしまう。 押しが強いと言っても良い領域かもしれないが、例えば実際口にしてみたとて違和感を覚えるのだろう。 自然体のまま生きる姿に、強引、無遠慮、なりふり構わず押し通す、といった表現は似合わないし、何より私が彼に悪感情を抱けないのだからどうしようもない。 返答に困ったわけではないけれど押し黙るしかなかった私に対し、ふっと肩の力を抜いたような微笑みが柔らかく降った。 「俺、あの時のお姉ちゃんは来ないのって聞かれててさ。みんな気にしてるみたいなんだ。特に…迷子の彼はね!」 な。俺の言った通りだったろ、キミが初恋の相手だって。 続く声も表情も、陰りがなかった。 「受験勉強があるからなかなか長い時間は取れないだろうけど、ちょっと顔見せるだけでも喜ぶと思うし。どう? 息抜きに。さえ良ければ、一緒に会いに行こう」 とてつもなくナチュラルに畳み掛けられては赤面する暇もなく、向かい合う澄んだ瞳に優しく射られてしまう。 この状況で断れる人がいたら今すぐ名乗り出て欲しい。 私ごときには絶対無理だ。 ※ 適度に息を潜め、単独行動も慎み、集団へ溶け込むつもりで歩いた。 踵を鳴らさずにいればわざとらしくて鼻につくだろう、避けるから妙な力が入るのだ。 色んな意味で目が良い人に悟られぬよう動くのは相当難しかったが、一つの覚悟と共に腹を括ると意外に集中する事が叶った。 (いい加減終わらせた方がいいんだ) 唱える度に決意は深まっていく。 続けて何の意味がある、相変わらず対戦相手に勝つ意思が見受けられなくて、でも勝ち負けが決まった所でどうなるか全くわからない。 夏からずっと、ことごとく出し抜かれた形の私はなんだか癪だった。 逸る鼓動を抑えつつ冷静に考えてみても不毛だし、きちんと白黒つけたい気持ちは確かに存在してい、分が悪いからこそ自分がやるしかないのだと強く感じる。 何より、これ以上続けたくなかった。佐伯くんが嫌だとか関わりたくないなんて事は100%有り得ないけれど、このまま六角中で最後の冬を迎えるのはとにかく良くない。 両足が萎えて震える。 背筋がざわつき震え、やがて体の内側を通って胸元へと差し込んでゆき、吐き出し口のない高熱に変わった。 脈打つ心臓は私のものなのに私以外の人の有り様でいとも容易く乱れ、酷い時は気管がぎゅうと狭まり酸素も薄まった心地に陥って、頭の中がぐらぐら煮立つ。十一月の気候のお陰で汗を掻くまでいかずとも、籠もる温度は受け流せるほど甘くないのである。何気ない仕草や言葉一つに影響を受けていては、いよいよ本当におかしくなると危機感を募らせた。 かぶりを振って自己を保とうとする最中よぎる感情があやふやで、もっと他に表現の方法があるのだろうが、よくわかんないけどなんかやばい、と言うのが最もしっくりる己の残念っぷりが悲しい。 知る中で一番の好青年且つ人格者、中学三年生にして出来上がり過ぎている佐伯くん自身に問題や一点の曇りはなく、おおよそ‘やばい’という単語からほど遠い場所で眩しい笑顔をたたえているだけだと肌で理解していたが、やっぱりどうしても怖かった。 一拍息を切り、お腹へ力を入れる。 勝とう。 心で何度か辿りなぞって、弾み始める呼吸を整えた。 いつかぼんやりと願った通り、みんなに優しくて誰からも頼られる佐伯くんをびっくりさせて、おしまいにしよう。 私の勝ちだねと胸を張り、困った風にか苦笑か、はたまた晴れ渡る青空の如しか、何にせよ彼はきっと笑ってくれるはずだから、そうしてひと区切りを付けるのだ。 目標が定まるや否やつま先の戸惑いが和らぐ。 いくら友達の恋路の為といえどもまるきりストーカー行為に走った日々あっての集中力だ、調子に乗って受け入れるくらい完璧な細心の注意を払い、近ごろじっくり観察する事を避けていた広い背中を追った。 堂々宣言するのもどうかと思うが、人の行動パターンにある程度のあたりをつけるのは慣れているのもあり、立ちはだかる難題ではない。 逃げの一手を打っていた頃と逆さまに、攻撃の隙を見いだす為にではなく、例えば佐伯くんに片想い中の女の子と同じよう、眼差しを寄せて焼き付ける。 友達やクラスメイト、担任の先生、テニス部のメンバー。 接する人によって、ほんのちょっとだけ様変わりする。 男子同士でいる時にだけ見せる表情で肩を揺すり、体育の授業、ハードル走の順番待ちの最中はジャージのポケットに手を突っ込みながら隣の誰かと話していて、テニスというスポーツで強く結ばれた人達の輪に加わっているなと視線を流せば、群を抜いて背の高い黒羽くんに背中を叩かれ、私に向けてくれるものとは少し違った笑い方で口元や頬を和らげていた。 何故、どんな権限があって、こんなにかっこいい人を巻き込んだあげく愚痴を聞かせる相手に出来たのか。我ながら本当に意味がわからない。 持てる限りの力を尽くし、人生で一番気を遣ったとのちのち語れるレベルで懸命に貫いた為か、佐伯くんは私の目論見に気付いていない様子だった。 人好きのする笑顔で手を振って来、偶然昇降口で出会えば挨拶してくれて、頭から端まできりっと締まった目を甘く撓らせ、私を呼ぶ。 無意識でやってるのだとしたら釈明の余地なく有罪、モテる理由が理解出来るあまり呆れやら畏敬の念やらは沸かず、ただじっと見入ってしまうばかりだ。 今に見てろ、なんて思わなかった。 驚かせて勝つのはこちらだと心に決めてはいても、勝負所に至る前の緊張や高揚感、不安も何もなく、想像以上に落ち着いて計画を進めていける。 余計な事を視野に入れぬよう心掛けないと、追えないだけなのかもしれなかった。 長引かせても勝ち目が薄くなる一方だと短期決戦を望み、数日の間に大まかな行動範囲や予定を絞る。 引退しても尚、部や委員の下級生に頼りにされている立派な生徒が放課後生徒会室に顔を出すという情報は、収穫祭の折私を心配してくれた後輩からもたらされた。 佐伯先輩、本当に人気があるんですよ。あ、もちろん人望もです。 はい、私はよくわかります。 下手な和訳めいた返事を脳内に留め、無関心、興味津々、どちらでもない反応を意識し相槌を打つ。状況が許すのなら貴重なデータをありがとうと手を握りたい所だったが、今度こそ一人きりでやり遂げなければならない真剣勝負、無言の内に感謝と謝罪を述べた。 いつも通りに午後の授業を淡々と受ける。 顔に出すなと気を張れば張るだけ調子が狂うから深く考えないようにした。 お昼休み以降は対戦相手と会わずに済み、気楽に機を待つのみとなった事は幸いだ。ツキはこちら側に傾いているのかもしれない。 佐伯くんの教室から生徒会室へ向かうとなるとこの道順だろうと抜かりなく予想し、ちょうど死角になるはずの位置で肩を縮こまらせる。一般的な教室の並ぶ廊下と異なり、生徒会室や図書室しかない階に人影はなく、準じて気温も低かった。 階下より生徒達の気配がうっすら伝わる階段の踊り場、防火扉にぴったりとくっついて息を殺す。金属製のそれは氷めいて冷たく、頬で触れた瞬間などは小さく飛び上がりそうになったが、耐えて堪えて我慢した。大一番を台無しにするわけにはいかない。 身軽の方が何かと都合が良い、とコートやマフラーは当然、セーターすら脱いだ薄着での参戦である、いくら師走に突入していないとはいえ普通に寒かった。 立つ鳥肌を抑え、目を閉じた途端に襲って来る、何してんだ私六角中一のバカでしょ、といった客観的思考も払いのけて、靴底を引き摺ったりせずしっかり歩く所為で実際大雑把な部分もあるのに、所作がやたらと整って見える彼をひたすら待つ。 研ぎ澄ませた神経が過敏となり、普段は拾えぬ音や光の色も吸収していった。 冬混じりの空気はひどく乾燥していて肌に刺さる。見知らぬ誰かの足音は遠く、校舎から自分以外の人間が一人、また一人と消えていくようだ。 (……そろそろのはずなんだけど) 時計で確認したい衝動と戦い、無心で壁になるべしと張り詰め掛けの肩をほぐした時、冷え切った扉に添う方とは逆の鼓膜が異変に弾かれた。 一人分の足音である。 ふくらはぎが瞬時にぴんと伸び、否でも応でも先走る気持ちを押し込んで、背中をこの目で確認するまではだめ、言い聞かせぐっと踏み止まる。 覚えのある歩調。 奥の廊下から歩いて来る。 足が長い彼は、大体にして急がない。 段々と近付く。心拍数は無視した。体にブレない軸を与えて立ち、いつでも走れる体勢のまま潜む。 そう間を置かずして、ごく近くでプリントかノートか紙のめくれる音がした。 一秒後、分厚い扉から抜け出ふっと現れた髪は陽に焼け茶色、見慣れた学ランは艶めいて黒い。 私が佐伯くんと他の人を間違えるわけがなかった。 ――勝った! 我得たり括目せよとどこぞの武将並に胸中にて名乗り上げ、足音を限界まで消せる走法で飛び出して、今度は教科書でなく両手で背を押し遣ってやる。 練った計画を信じられぬ速さで振り返り上履きで床を叩いた。わっ、と子供の遊びじみた掛け声が舌の根まで届いている、後は唇を通すだけ。 今のは見破れなかったでしょ、佐伯くん。 颯爽と言い切って、勝利宣言と共に幕は下りる。六角中のロミオはこんなつまらない事でいちいち怒らないだろうし、何にしてもきらきらの笑顔で受け取るに違いない。後は爽やかに互いの健闘を讃え別れれば良い。私が考えたにしては綺麗な結末で、問題は起きないはず――。 だったのに、息を詰まらせる事件が起きた。 攻撃の標的たる佐伯くんが一番近い窓の前で立ち止まり、伸ばした利き腕でガラス枠に触れていたのだ。ひょっとすると誰ぞの手抜かりで、この寒い中開けっ放しだったのかもしれない。 完全な想定外。 計画破綻の瞬間だった。 意気揚々と吸った空気が喉奥で固まり、慌てた両足が面白いくらいもつれる。 気をつけよう、全力ダッシュは急に止まれない。 交通安全標語じみた文言が猛スピードで脳内を駆け巡った時には何もかもが手遅れ、つんのめった私の声帯は佐伯くんの、さえ、までを奏で、後は上擦った短い悲鳴を零した。目の前が暗く閉ざされる一寸前、え、と言わんばかりの形の良い唇と見開かれた片目、それから半端に捻られたどちらかというと細身の上体が瞼の裏に刻まれる。 直後に私はぶつかった。 右足が左の脛に絡まり、結構な勢いで飛び込んだ形である。漫画だったらドン、と重めの擬音が書かれていただろう。おまけに転んだと同等の状況が災いし、佐伯くんの背中を優に越え肉付きの薄い横腹へしっかりと縋ってしまった。 両手は私の意志を無視して、学ランを握り締めている。 初めに得たのは、びっくりするほど硬い感触。お母さんやお姉ちゃん、友達とふざけ合う時に感じる背中とは大違いの逞しさだった。 次いで、自分じゃない人のにおいが自然に鼻腔を撫でる。知らない香りなのに、不思議と嫌じゃない。心地良くさえあった。 布越しにじんわり伝わるあたたかな体温は最後、防火扉にぬくもりを奪われ危機に硬直した私を淡く溶かす。 間があった。 無意識についた息はすぐ傍の制服をうっすらと湿らせ、籠もった温度が唇や顎周りで漂い静々と消えていく。真っ白になっていた頭が急速に蘇った。 抱きついたのと一緒だ、これ。 認識した直後、全身が強張って凄まじい筋力を呼び覚ました。 「ごめんなさいっ!」 外敵と鉢合わせた野生動物か何かか、という速度で飛び退く。思い切り衝突した鼻を押さえ、開いたり閉じたりを無意味に繰り返す口は隠す事も叶わない。 顔のみに留まらず色々と当たってしまった。言いたくないけど胸だとかお腹だとか上半身の前面ほとんどが密着しただろう、首から上に体中の血液という血液が集まっていくのが自分でもわかった。 猛烈に恥ずかしい。死にたい。誰か時間を戻して。 いつの間に振り返ったのか、向かい合わせとなった佐伯くんは見た事もない表情を浮かべ、揃いの瞳を瞬かせている。口元なんかぽかんと大開きだ、黙っていれば大人びた印象を抱かせる人なのにどことなく子供っぽく思えて、更なる羞恥が身の内に吹き荒れた。 「あの、驚かせようと思って、今日生徒会室に行くって知ったからそこに隠れてて…それでその、佐伯くんが急に止まったものだから」 焦って滑り、みっともなく震える言い訳が耳の底で反響する。 「しょっ…勝負が、勝負しなくちゃって、だって私ずっと勝ててないし、勝たないと……さ、佐伯くんに勝って、それで」 勝手に空回る唇がみるみる渇いて、変な汗まで出てきそうだった。 逸らしたいのに動かない視線の先が、徐々に平静を取り戻す元生徒会副会長の面差しに辿り着いてしまう。 突発的な眩暈に見舞われ、そのままくず折れたい衝動が足の裏から天辺までを貫き、顔の半分を覆う指先はあからさまに震えている。 「、大丈夫だから落ち着けって」 常と相違ない涼しげな声が却って痛い。 目尻には涙に似た水分が這い寄り始めており、鼻の付け根がつんと染みて、ぎゅうぎゅうに引っ掴まれた喉から生まれる声は酷い有り様だ。 「ごめん……ごめんなさい……」 「うん、わかったから。とりあえず今は気にしない! いいな?」 「……ほんとにごめん」 「俺に謝る事ないよ。それより、ケガない? 足、捻ったんじゃないか」 痛くしなかった、とこの上なく慈愛に満ちた気遣いを真っ向から貰い、余計に泣きたくなった。情けないわ自分のバカさ加減が際立つわで救いようがない。視界の端が羞恥で滲む。 「平気です…どこも何もない。ごめんなさい、すいません」 「アハハ、なんだよその他人行儀? 俺はにケガがなけりゃそれでいいんだって」 「さ……佐伯くんは」 「俺?」 「私思いっきりぶつかったよ、痛いとことか…ケガは」 「するわけないじゃん! キミみたいな女の子一人ぶつかったくらいで…何ともないさ。俺ってそんなヤワに見える訳?」 こだわりない笑顔が、でも、と前置いた上で紡いだ。 「今のは俺にぶつかったからいいけど、上手い事衝突しなかったらコケてただろうし普通に危ないぞ。だって顔面からダイブしたくないだろ」 ぐうの音も出ない正論で柔らかに諭され、益々肩を縮こまらせるしかなかった。穴を掘って埋まりたい。二重三重に申し訳なくて、首を縦に振るので精一杯だ。 まず間違いなく顔全体が熟れたリンゴより色濃く染まっている、実際に確認したわけではないが肌の火照りで察知した。心臓は子供が駄々をこね足をばたつかせるような勢いで跳ね回っており、胸に限らずお腹や喉がまとめて苦しい。 「じゃ俺行くな。また明日!」 ドンマイとばかりに明るく気さくに手を上げる彼は実に爽やかだ。 一方の私は益々以って沈んでいく。 渦巻く数多の負の感情に打ちのめされ、すぐさま窓をぶち破って飛び降りたい衝動に身も心も掻き乱される。せめてポーカーフェイスでカバー出来る器用さが備わっていたらまだ良かったのだが生憎と逆を行くタイプである、ご覧下さいこちらが赤面のお手本ですと紹介されて当然の酷い様相に違いないというに、佐伯くんは一切触れずにいてくれるから居た堪れない。 ほんの一、二秒間の逡巡だった。 はっと正気付いて、そういえば勝負イコール後ろから驚かすって脈略があるようでないじゃないか、これ以上変な子認定されたくない、と今更過ぎる懸念に思考が及び、眼前を軽やかによぎってゆく高い背丈を見上げたと同時、映える色彩の所為で言葉を失う。 ファイルやバインダー類を左の小脇に抱え、右手を何気なく下ろした佐伯くんが踵を返す一瞬。 髪の毛を薄く被った耳と垣間見えるうなじが真っ赤になっていたのだ。例えばちょうど今の私と同じよう、誤魔化しも利かないくらいに。 えっ、と限界まで引っくり返った一声が立ち消える。 背筋の角度や歩みだけは平常通りに保ったかの人が、目指していたであろう扉をすんなり通り過ぎたからだった。 呼び掛けが転がり落ちる。 「さっ…佐伯くん!」 何とか裏返らずに済んだ声音に対し、私に比べればうんと広い肩が小さく跳ねた。 視線が交わるまでそう時間は掛からなかったと思う。 「生徒会室に行くんじゃ、」 なかったの。 最後まで連ねる前に振り向いた端整な顔立ちと少し離れた位置で鉢合わせ、唇や舌の動かし方を忘れてしまう。 ドアの上に掲げられた標識を仰ぎ、手持ち無沙汰の右腕を僅かにさ迷わせた末、顔というよりおでこ辺りを手で覆った佐伯くんの頬が薄い赤に染まっている。 遠くからでもすぐ見つけられる、目立つ色の前髪を困った風に掻き上げる仕草も何となく覚束ない。いかなる時も真っ直ぐ放たれる眼差しは柔く伏せられており、到底かち合いそうになかった。 爆発でも起こしたかと危ぶむ勢いで鼓動が跳ねる。 「あ、あぁ…そっか。そうだよな……何やってんだ、俺」 静寂が染みて耳鳴りと化し、放課後の校舎特有の遠いざわめきは一切届いて来ず、途方に暮れた気持ちで立ち尽くすしかない。 何か言わなきゃ、焦る分だけ唇が空回る。 不自然極まりない間が長く続いた。 掌に温度も知れぬ汗が滲む。 遂に目元までを赤々と色付かせた佐伯くんは、あの日、小さなお姫様を優しく抱っこしてあげていた右手で口元を覆い、その、と言い淀んだ。 続いて骨張って血管の浮いた手の甲を軽く広げ額へとスライドさせるから、印象深い瞳は完全に隠れてしまう。 かと思えば握った拳の人差し指部分を鼻の付け根へ当て、途絶えたばかりの綺麗な目元をまた覗かせる。 「…………ごめん。俺の方こそ、ホントに」 簡単に言い置くや否や行き過ぎた距離を戻り、生徒会室へ滑り込んでいった。古びたドアの開閉音もろくに聞き取れない。引き止める暇すらなかった。 あんなにも耳に残って凛と響き意志の強さが窺える声は、真実彼のものだと信じ切れないか細さだ。佐伯くんが謝る必要だってないだろう。物腰柔らかな雰囲気や大らかに構える姿勢も何もなく、相手側を置き去りにするといったらしからぬ、慌て乱れた歩調が目の底を細やかに切り付ける。 一つ一つ確かめる都度、全身が燃えた。 衝突の際に散らばったはずの髪を直せない。手も伸ばせない。どこもかしこも熱くて耐えられないのに、指の爪まで凍り付いたよう動けなかった。 硬い背中を覚えてしまった頬へ手を添わせる。 途端、視界が揺らぎ水気を帯びて、込み上げる理由に思い当たる節がない所か探す事も出来ず本当にわけがわからない。騒ぐ心臓から送られる血液に混じる衝動が恐ろしく熱い。 多分、初めてだった。 同い年の男の子に触れて、すごくドキドキして、だけど胸を打つ早鐘で泣きそうになったのは、佐伯くんが初めてだった。 ← × top |