04 案内された先、木板が互い違いに組み合う手作り風正方形のベンチで、心細そうに縮こまる二つの人影。 姉弟なのだろうか、涙の跡でかさつく頬の男の子の手をお姉ちゃんらしき子がぎゅっと強く握り締めており、引き結ばれた唇はへの字に曲がっていた。 道中、ねえねえお姉さん誰、六角中の人なの、テニスはしないの、興味津々で私に尋ねて来た六角予備軍や応援団の子らも、強張った迷子二人の前では気遣わしげな視線を泳がせ、持て余している様子だ。 佐伯くんが長い足をゆっくり折って、目を合わせる――というよりやや下から見上げる恰好で、うっとりするほど優しく声を揺らす。 「迷子になっちゃったのかい?」 同じ年代の見知らぬ子供ではない、背も高くしっかりしたお兄さんに話し掛けられて安心したのか緊張の糸が切れたのか、頑として表情を保ったままだった女の子が泣き始めしまった。次いで男の子の目にも見る見る大粒の涙がこんもり溜まっていくので、ただ立っているだけだった私も慌ててしゃがみ込み、ポケットから出したハンカチで小作りな顔を拭う。先に震えるお姉ちゃん、それから何とか堪えている弟くん。ぐすぐすと鼻を啜りしゃくり上げる姿が痛ましい。 どうしよう、キャンディかガムか持ってたかな、だけどいきなり渡したら警戒されるかも、思案しつつ脳内で鞄の中身を探っていたら、どんな相手でも聞き惚れる事間違いなしの声遣いを無意識にだろうが駆使する佐伯くんが、涙色に染まる女の子からいとも容易く事情を話して貰っているから驚きだ。舌を巻くとはこういう場面で使うのかもしれない。 感銘を受けたと同時、ほんのちょっと水気を含んだ布を握ったままの右手を、畳んだ足とお腹の間を滑らせて耳を傾ける。 つい先刻まで気丈に振る舞っていた事が窺える女の子は我慢の分止まらないらしく、依然として泣き濡れていたが、男の子はといえば繋いでいない方の手でぐいと目元を擦ったきりしょっぱい水の粒を流さない。 素直にすごいと思った私は、偉いじゃん、強いね、後で顔洗いに行こうね、と笑った。小さな靴の先を照れ臭そうに動かして俯き、上目遣いでまばたきを繰り返す仕草が可愛い。 この子は大丈夫そうだ、頷いてすぐ横のお姉ちゃんの方へ視線をスライドさせる。 つっかえひっかえ鼻声で語られた事を整理すると予想通り、だった。 引っ越して来たばかりで知り合いや友達もおらず、両親は仕事や手続きなどで忙しく、ならばと姉弟二人で探検しようと玄関を出る前に家の近くで遊びなさいと釘を刺されたのだが、好奇心に駆られ初めての風景に興奮していたら自宅からどんどん遠ざかり、場所も来た方向もわからなくなってしまった。 歩き疲れた頃合いで弟が泣き出し、一生懸命宥めすかしたものの途方に暮れているのは自分も同じ、困り果て不安に押し潰されそうになっていた所、六角予備軍の子達に話し掛けられたそうだ。 あれこれ尋ねられても口を開かなかったのは、帰る道を失った恐怖に加え、真実答えようがなかった所為なのだろう。どこから来たの、おうちはどっち、なんて言われても本当にわからないのだから黙るしかないはずだ。 「お、っうち…帰り、たい、ひっく、ママ……っう、ぅ」 「もう大丈夫だから。ママんとこ帰ろうな」 堰を切ったように止まらない嗚咽を受け取った人が、スカートの裾ごと固く握り込む小さな拳をぽんぽんと柔らかく叩く。 「……どうしよう、やっぱり交番まで送ってくのがいいかな?」 「うーん、そうしよっか。ここからだと歩いてすぐだしね」 「じゃーおれらダッシュでケイサツの人に話してくる!」 左膝を地面へ付き騎士風に跪いた広い背中に半ば乗っかる形で取り付いていた男の子がびょんと跳ね上がり、隆起した喉仏のある首辺りへ回し組んでいた腕も即座に離し元気一杯に宣言した。私が、えっ、と一単語漏らす頃には既に駆け出している。 ちょっと待って。言う間もなく、我も我もと六角予備軍の男の子達がテニスコート横を全速力で走って行き、何故か取り残された心境に陥ってしまう。 意味もなく反射的に立ち上がったら、下方より響く息の音に気を取られた。堪え切れない、と言わんばかりに吹き出したのだ。勿論、佐伯虎次郎その人が、である。 眉をひそめて下目遣いをすれば、 「だって収穫祭で似たような事してたじゃん」 暗に問題ないよと諭され、扱いが小学生と一緒ってどういう事、打ち返す。だが、すぐさま爽やかに笑われた為どうやら効き目ゼロの模様。 「ねえねえ、サエちゃんお姉ちゃん。わたしママに話してくる。それでね、近くに引っ越してきたおうちのこと聞いて、おまわりさんのところ行ってねってその子のママに教えてあげるの」 後先考えず飛び出した集団にはついて行かなかった女の子が、見た目から想像する年齢にそぐわぬ大人びた発言をする。おたつく私より余程しっかりした頭脳明晰な気遣い屋さんだ、突っ走った己の行いが恥ずかしく思えてならない。 「ありがとう助かるよ。じゃ、お願い出来るかい」 「うん、わかった!」 「けど気を付けて。慌てて走らない、転ばない、それから車道に飛び出さない事! いいな?」 「はぁい! だいじょぶだよ、私ちゃんとできるもんー」 きっと佐伯くんは憧れのお兄さんなのだろう、頼まれ事をされたのが心底嬉しい様子で、一対の瞳が誇らしげに輝いている。 いってきます、と大きく手を振り、先ほど男の子達が駆け抜けた側とは逆の出入り口へ向かう背中が小さくなってゆき、やがて冬模様に耐える巨木の下を通って消えた。 男女問わず逞しい小学生達だ。なるほど、六角中テニス部の強さはこういった下地あってこそなのかもしれない。 そしたら交番まで行こう、佐伯くん。 と、頭の一文字を紡いだ刹那、小動物めいたくしゃみが止んで久しい風の合間を割った。 くしゃん、くしょん、と二度響き、姉弟揃って口元を覆った後で鼻を啜る音が続く。 一体何時間探検をしさ迷っていたのかは知れぬが、陽射しもろくに差さぬ寒空の下では体温低下も当然の事だ、顔を洗おうと掛けた声を無言で取り消した。体格と防寒で勝る私ですらこたえた冷たい空気に曝されれば、こんな小さな子達なんてひとたまりもない。 放り投げていた鞄を引き寄せ、風が強い場所では止めておこうと仕舞っていたマフラーを取り出す。丸めてあったのを元の形へと伸ばし、目の前に座る男の子の首元からちっちゃな肩全体をぐるぐる巻きにする要領で掛けてあげていたら、佐伯くんがおもむろに学ランを脱いだ。二度見する所だった。 前触れのない行動に腰を下ろし問い詰めるも、俺風邪引かないって言ったろ、形の良い唇から覗く白い歯に颯爽と牽制される。 あいた口が塞がらない私を置き去りにし、いまだ涙の止まぬ迷子の女の子を慰めるよう上着でくるんであげていて、最早賞賛の言葉も出尽くし見当たらない。 そんなバカな。 ここまで出来た人だったのか。 初めはきょとんとしていた子も大きくて優しい掌が広げた制服で守られて落ち着いたのか、幼い指先で襟の内側を握り締めすんと鼻を鳴らしている。 はっと我に返り、しっかりコートを着込んだ己の姿へ意識を向けると、 「あの…ごめんね、なんだか格差が……。あ! マフラーじゃなくてコートの方が」 「ううん、ぼく寒くないよ?」 自分よりずっと年下の子に気を遣われた。 「は俺と違って鍛えてないんだから無理するなって。マフラーだけでも充分暖かいさ」 おまけに佐伯くんにまで窘められ居た堪れない。 どうしてこう一歩足りないというか、微妙に空回るのか。 わかりやすく意気消沈する様子を察したのかもしれない、佐伯くんが場の空気を嫌味の欠片もなくごく自然に断ち切った。 「よし。それじゃ、ホントに冷えちゃう前に行こっか!」 幼い姉弟の頬を支配していた涙も既に乾きつつある。どれもこれも彼の手柄だ。 複雑な感情の入り混じった溜め息をぐっと堪え、仲良く一緒にベンチから飛び降りる子達を見守り、最寄りの交番へ初めの一歩を踏み出した時。 ほどけぬよう端を縛ったマフラーを纏う弟くんではなく、誰がどう見てもぶかぶかの学ランを羽織ったお姉ちゃんの方がよろめいた。 危ない。 口から転がる前に砂地へ今にも触れる、というか引き摺りかけだった制服の裾がふと消え、気が付けばシャツの白色が寒々しい、長くてバランスの良い腕の中へと納まっている。私ばかりか抱き上げられた本人も驚きのあまり言葉を失っており、おんなじ顔してるぞ、と楽しげに細められた瞳の持ち主は事も無げに続けた。 「こうしてれば俺もあったかいし? おまわりさんの所へ行くまでの間、俺達二人して風邪引いちゃわないように手伝ってくれるかい」 佐伯くんと向かい合わせで数度まばたきを繰り返し、恥ずかしそうに頷いた子の頬が色付いているのは、きっと寒さだけが理由じゃない。 「そっか、ありがと。よろしくな」 私は本格的に縮み上がった。 千葉中の女子の心が奪われるのではと本気で危惧した。 老いも若きも分け隔てなく、とびきりの微笑みと凛としていながらも物柔らかな物言いまで惜し気もなく差し向けるこの人は何者だ、天下でも取る気なのか。 桁外れの破壊力に絶句していた私の視界の端、逞しくとも北風に対し無防備が過ぎる首へ小さくて可愛らしい指が回されうなじ辺りのシャツの襟を握ったのが映って、しらずしらず止めていた時間を動かす。 ここはこちらも抱っこしてあげるべきなのだろうが、筋トレなんか当然していないし特別子供の扱いに慣れているわけでもない。無茶をしてケガでもさせたら大変だ、早々に諦め頭を下げた。 「ごめん私抱っこ出来ない。歩いていける?」 「大丈夫だよ! ぼくかけっこ速いんだ」 「そうなの?」 「うん、前のがっこではね、クラスで二番目だった!」 今泣いた烏がもう笑うとは上手く言ったもので、ここに至るまでの間に好きなだけ感情を爆発させたのであろう男の子は胸を張って語り始め、私のスカートに縋りつつ子供サイズの靴をぶらぶらと遊ばせている。 「私も結構足速いんだよ、お揃いだね!」 「じゃあじゃあ、おいかけっこする!?」 「しませんー転んだら危ないでしょ」 「転ばないよ!」 「私が転んじゃうもん」 九十度の限界まで首を上向かせて話す子の肩に手を乗せ、私の半分もない大きさのスニーカーを踏まないよう注意しつつ気持ち大股開きで歩を進めていく。 歩幅にも余裕がある佐伯くんは唇と瞼の終いを緩めてい、すっかり元気を取り戻した男の子のお姉ちゃんはといえば頼り甲斐のあり過ぎる首元へぎゅっとくっつきこちらを見下ろしていた。 鼻腔にも一種の痛みをもたらす風が揺らぎ、冬空の下で鈍く光る金網製のドアを通る。ローファーの底が砂を擦る微かな音もぼやけ、ゆったり静々と消え失せた。 「いや、は転ばないじゃん?」 「……忍者みたいだからって言ったら怒る」 「忍者なの?」 「ああ、そうそう! 誰にも見つからないでこっそり歩くのが得意なんだ、すごいだろう」 「この子に変なイメージ植え付けるのやめて!」 比較的大きな通りへ出、佐伯くんのつま先の導きに従い歩く。 場所と時間帯の所為か人影は見当たらず、反響する波音も今は遠い。四人分の白い吐息がそれぞれ零れ、コンクリートを跳ねる靴音は三人分、乾いた空気を淡く裂いた。 自転車二台が並んで走れる幅広の歩道だが、すぐ横を車に行き来されればそう安心してもいられない。 私のスカートの裾を子供らしく掴む手を取り包んだら、高い体温とちっちゃな爪の形が肌越しに伝わって胸の裏があたたまる。 嫌だ離して、とぐずる子供と宥めるお母さんを見掛けた覚えがあるので振りほどかれるかな、心配したものの黙って握り返されたので杞憂と知った。それ所かあいた側の掌まで私の手の甲へ添わせ、一生懸命に話そうとしている所為で心ばかりか全身が和んでしまう。 「おねーちゃん疲れちゃったって?」 「そうだね、さっきまで新しい家はどっちだろうって探してたみたいだから。ちょっと頑張り過ぎちゃったんだな」 「ぼくたち今日いっぱい歩いたよ? おうちの道ずーっと行った先のかどっこのお店の前に猫がいてね、撫でたらしっぽ振っててね、そこで走って海を見にいこうとしたの」 「なるほど。で、迷子になったわけか」 「ううん、途ちゅうで公園のブランコにも乗ったし!」 「アハハ、そっかそっか。二人でかい?」 「はじめは一緒! 終わったらかわりばんこで押したんだ」 話題があちこちへ飛ぶ、はっきり言って要領を得ない話も佐伯くんは上手に受け取り、そうとは悟られずにこやかに会話の舵を取る。絶妙と言う他ないテクニックだ。 低い背に合わせ傾く鼻先がどの角度から見ても整ってい、下瞼を僅かに超えてなだれる前髪の影はやんわりと濃く、傍にいるのに私へ向けられぬ視線やまばたきが新鮮だった。 佐伯くんって弟か妹か下に兄弟がいるのかな、考えとは呼べぬ単純な感想を胸中で漂わせれば、十一月の弱々しく儚げな日光を吸ったあどけない目がくるりと翻る。い、の形を保ったまま広がる口角の近くで、米粒よりは面積のある八重歯が見えた。 「あのねーぼくもう元気なった!」 褒めて褒めて、言わんばかりの眼差しと声の調子につい笑ってしまう。 「おおー頼もしい。流石男の子だね?」 「たのもしいってなあに?」 「あはは、かっこいいって意味!」 繋いだ手を揺する迷子その二の彼が、つぶらな瞳を明るく輝かせはにかんでいる。嬉しいけれど恥ずかしい、でももっと褒めて欲しい。これ以上ないくらい強く伝わるまじり気なしの幼心に絆されて語尾が弾んだ。 さっきからうるさいバカ、ずーっと泣いてたくせに。 すると、力持ちの腕に守られているお姉ちゃんが不満を含んで呟き、浴びた方は泣いてないもんと意地を張る。 うそつき、うそついてない、じゃあおうちまでの道言ってよ、おねえちゃんが言えば。 上下に分かれての姉弟ゲンカだ。寂しげな冬の情景があっという間に賑やかさで満ちて、涙の残り香も綺麗さっぱり蒸発し、一方は結んだ掌、もう一方は襟元のシャツを握りながら激しい言葉のキャッチボールを続けていた。 コラ、ケンカするなよ。 みんなに好かれているに違いない‘お兄さん’が声を立てて笑い、抗議の声を上げた女の子を軽く抱え直す横で、ケンカするほど仲が良い、と呟いた私は幼い姉弟揃っての猛反発を受けてしまう。違うもん、仲よくないもん。声の調子といいタイミングといい全てがぴったりで、本人達の意に反し睦まじさの証明と相成り、絵に描いた好青年がこれまた絵に描いた微笑みを爽やかに流す。端整な顔立ちが周りの空気に細やかな光の粒を散らし、乱反射を起こしている風に見えるのだから重症だ。 私は耐え切れず眇めたくなる胸の芯をぐっと掴みながら、子供らしさ溢るる肩や背中を包む佐伯くんの大きな学ランの丸みへと目を遣り、なんだか毛布みたいだと思った。 見ているだけであたたかい。 ※ 制服でどこの学校の生徒か警察の人は察したらしい。快く出迎えて貰い、お礼まで言われてしまった。 お手柄だと褒められるべきは人望厚く行動力のある佐伯くんだけで、私はほとんど何もしていなかったから否定するのに忙しく、先に交番へ駆け込んだはずの六角中予備軍の子達がいない事にもなかなか気付けなかったくらいだ。六角中の王子様と言っても過言ではない彼が尋ねた所で初めてはっとする。 曰く、来た事には来たが伝えるや否や踵を返し、サエさんとお姉ちゃんを呼んでくると飛び出して行ってしまったそうだ。 ここまで見事なすれ違いもそうそうない、思わず顔を見合わせる。 悪いけど復路も頼むよ。 今後控えているマラソン大会を彷彿とさせる言葉には苦笑が混ざっていたが、私は何かおかしくて、ひょっとしたら能天気だと取られかねない苦味ゼロの笑顔で頷いた。 短い復路だね、決着つかないかも。 笑み揺れる幅広の肩に守られた迷子の女の子が、不思議そうに小首を傾げている。 幼い姉弟二人は名残惜しさを頬や眉に宿らせてはいたものの驚くほど素直に警察官のお兄さんに従い、最後まで懸命に手を振ってくれた。 涙の余韻も兆しもない表情に安堵して同じように振り返し四角い部屋から出るや否や、低気温が剥き出しの腿や膝を打つ。おまけに北風に容赦なく吹き込んで来られ、首を引っ込めるしかない。身震いものだ。 ほどいたマフラーを首元へ引っ掛けつつ、大きなドア窓の下方、精一杯の背伸びをしてこちらを覗く二人の瞳に見入った。ばいばい、と唇のみを動かし、左右に振るわせた利き手で別れを告げる。 先に受け取ってくれたのは弟くんの方だった。 関節がしっかりとは出来上がっていない、短くてふくふくとした指をガラスにぺったりくっつけ、そのまま何度も滑らせている。薄白く濁った指紋の跡が無邪気だ。普段はしっかり者であろうお姉ちゃんは遅れる事数秒、入り口からやや離れた位置で手を振っている。 健気な姿が完全に見えなくなるまで時間は掛からなかった。 一緒に過ごしたのはほんの僅かだというに後ろ髪を引かれ、数回後方を見遣る最中、ラフな仕草で学ランを羽織る姿が視界へ割り込む。 初めは片隅で捉えていたはずがあっという間に中心へ据えられるので、かっこよすぎるのも問題だ、胸の内でぼやく。こちらの言いたい事や思考の中身を打ち消し、全部ひっくるめて持って行きかねない。 迷子の小さなお姫様を下ろした時、なだれる前髪の流れと日に焼けた色彩が瞼の裏でちらついた。優しく丁寧で、でも仰々しくはなかった、屈んで少し丸くなった背中の角度と、黒い上着の上から抱っこしていた手の甲。 何気ない振る舞い一つにも、彼らしさや人となりが表れていた。 なんでこんなに真っ直ぐ伝わって来るのだろう。 マフラーの巻き具合をチェックしぼんやり思いを馳せていたらば、長い袖に腕を通し襟を掴んで払う王子様然とした人が自らに送られる視線に気付いたのだろう、ボタンを掛ける左手をわざわざ止めて口の端へ笑みを灯す。 「なに?」 「…ううん。さっき名乗らなかったけどすぐバレるんだろうなーって」 「なんだよ、どういう事?」 「だって佐伯くん有名人だし。今度の全校朝礼で校長先生話すと思う」 六角中に二人といない好青年が、いつまでも人目を避けていられるはずがないのだ。 警察官に尋ねられやんわりと、そしてスマートに辞退していた様が不意によぎり、同じタイミングで軽く息を吐いたのは、迷子の女の子が黒目がちな瞳に宿らせていた光の色が所以である。こぼれた呼吸のもやがすぐさま流れ消えた。 「初恋持ってったね?」 はっきり言って大泥棒レベルだ。心底恐ろしい。私がもしあの子くらいの年で佐伯くんみたいなお兄さんにあんな風に助けて貰えたら、まず間違いなく好きになる。 制服を着込んだ初恋強奪犯はこちらの真意を図りかねているのか、ちょっとだけ困惑した表情で首を傾けていて、だけどそういう仕草すら加点対象なのだからずるい。 コドモタラシ。 いつぞやの我流学名を変化させ投げ付けると、 「ハハッ、それってなんだか逮捕されそうじゃん。犯罪者扱いしないでくれよ、酷いな」 強い意志を持つ瞳と歯ぎしりするほど美しい弧を描く唇、白く丸まった呼吸の証全部で笑う。 「大丈夫、犯罪者じゃなくてヒトタラシの進化前なだけだから」 「全然大丈夫に聞こえないぞ。ていうか進化前って事は、俺退化してないか」 「じゃあ進化後」 「じゃあって。、定義が雑だなあ。理論派のキミはどこ行ったの?」 通学鞄を背負う佐伯くんは、もう憧れのお兄さんには見えない。私と同い年で、ものすごくかっこいいけど傍にいる男の子だ。 あって然るべき壁や気圧される雰囲気が一切存在しておらず、困ったり笑ったりとごく当たり前の感情を隠さない、気取った所のない人。 「別に私、元々理論派じゃないもん。進化前とか後とかこの際どっちでもいい。どっちだって佐伯くんがタラシ込んでるのは変わらないでしょ」 「込んでないよ」 「込んでるの! そのままだとこれからもずっとヒトタラシ!」 「そろそろポケモンから人間の男になりたいね、俺としては」 「そしたらもっとちゃんと自覚を持って。さっきの女の子、佐伯くんが初恋のお兄ちゃんで間違いなしだよ? …まあそれが悪いわけじゃないんだけど」 「ならは初恋のお姉ちゃんだ」 「…………なんでそうなるの?」 想像もつかない方向へ話が転がった為本気で眉間に皺を寄せてしまった私に対し、両手をポケットに突っ込んだ彼が肩を竦め笑む。 あまり行儀のよろしくない恰好でも王子様オーラが掠れない辺り、本物だ。 「手、繋いであげてからさ」 「…それは……普通、繋ぐでしょ。ちっちゃい子だったし迷子だし、道路際なんか特に危ないよ」 「心細い時に助けてくれたお姉さんに手を握って貰ったんだぞ、どう考えても心に残る思い出じゃないか」 「でも……ちょっとしか一緒にいなかったよ。思い出になるかな」 「そういう気持ちに過ごした時間の長さなんか関係ないだろ」 やけにきっぱりと男らしく断言する横顔は目に映る吐息の欠片に埋もれ、かと思えばクリアに澄み渡り、有り触れた風景の中でも際立ち鮮やかだった。曇り空の薄い鈍色も、時々耳を塞ぐ車の走行音も、古びたコンクリートの壁も、ただ一人に溶け込んで一つの絵になる。 感嘆の溜め息も出ない。 突然、胸底で不穏とも言える感情が浮かんで来、俯く目線はにわかに行く先を失う。 「私はお姉さんじゃなくて迷子だと思う」 「迷子? ……が?」 「うん。佐伯くんにいっぱい助けて貰ってて」 じわりと込み上げる衝動が歯痒くて、じっとしていられないような、もどかしさに焦れるような、とにかく説明し難い境地に陥った。 傍にいても苦なんかじゃ絶対ないし、彼の事は友情的な意味で好きだ。人として尊敬もしている。だからこそ同情なんてされたくなかった。 「佐伯くんって私の事気にしてるでしょ」 「えっ」 いつだって穏やか且つ自然体に構える人が、全身へ緊張を走らせた様子で固まった。 とても珍しい状況である。相当虚を衝かれたらしい。綺麗な眦の端まで見開き、口元だって同じく無防備だ、制服のポケットに仕舞っていた両の手も素早く取り出し、圧倒的視力を誇る目をしきりに瞬かせている。 私は今がチャンスとばかりに畳み掛けるつもりで唇をこじ開けた。 もし予想が当たっているのだとすれば、一刻も早く誤解を解かなければならない。 「気にして、見ててくれてる?」 「え? あ、いや……」 「違ったら恥ずかしいから聞かなかった事にして」 「待っ…、待った!」 佐伯くんにしては慌てふためいた制止をわざと無視し、でこぼこのアスファルトを踏みしだきながら必死で言い連ねた。 「心配してだったらありがとう。でも別に、私ほんとに一人じゃないし、もうぼっち飯してないからね! 確かに一番の友達はいないけど一緒にご飯食べる子いるし、気を遣わなくたっていいんだよ。あの時の海でいっぱい話聞いて貰ったもん。だからそれで……なんていうか、無理しないで欲しいっていうか、いつまでも一人ぼっちの可哀相な子扱いは色んな意味で悲しいというか。とにかく、もうすぐ受験なんだし佐伯くんは変な気を回さないで! そ、そういう事!」 決意の割に最後の方は理論派が聞いて呆れる、要領を得ない弁論になってしまった。 以上、私の言いたい事終わり。 叩き付けるよう吐いて、ぐらつきくず折れる寸前の気持ちに杭を打つ。勘違いしたくないと望んだからには例え恥をかいても、気合いを入れなくちゃ成せない事だってやり遂げ、自分自身で原因を取り除いていかなければならない。芽を潰さぬ限り、私の心に平穏は訪れないのだ。 「……はさ、俺にどんだけ一人ぼっちだって思われたくないんだ」 もし海岸沿いだったら潮騒に紛れ聞こえなかったであろう、微かな呼吸が滲んだ気配がする。ふと見遣れば、佐伯くんが目線だけをこちら側に下ろしていた。何とも言えない面持ちや溜め息とも受け取れる音色に違和感を覚える間もなく、真っ直ぐに投げ掛けられる事の多い眼差しがさっと掻き消える。 「キミが一人じゃないってのはもうわかってる。気も大して遣っちゃいないさ」 逸らされた事自体、稀有なのは当然として、逸らし方もまた妙だった。いやにぼやけた焦りをうっすら残しながら安堵したのち、何故か肩を落としたような風情。 気にするな、と一度耳にすれば確実に記憶してしまう声に背を叩かれる可能性は考慮していたものの、語る佐伯くんの表情が微妙にいつも通りじゃないので私は続きを落として失くした。そもそも伝えるべき内容は用意していたがその後の対応について一切考えていなかった、とんだミスを犯したのだと遅ればせながら思い知る。 肯定、否定。 どちらにせよ佐伯くんありきで、佐伯くんなしでは成り立たず、選択肢など存在していない。 「それともには俺が同情しているように見えてるのか? そんな誤解をさせてしまう態度、取って来たつもりないんだけどな」 「………ううん。あの…」 「…うん」 「み、見えない」 「だろ?」 数拍置いて己の戸惑いに気付いたがしかし、不自然なくらい迅速に戻った視線や雰囲気に飲まれ、問われた事以外の思案がどこかへ飛んで行ってしまった。 立ち所に背筋と両肩が脱力し、喉奥は緩んで息がしやすくなる。僅かな隙を縫い漏れ出た呼気は淡く白く伸び、半分ほどがマフラーに掛かって埋もれた。 雲の切れ間からぱっと差す太陽めいて明るい、男の人っぽいのにすべらかな輪郭が胸の奥を押す。おかげで、だろって言うのはおかしいでしょ、入れるべきツッコミを忘れた。 気を遣われてないってのにどうしてホッとしてるの、と明らかに面白がっている笑声を耳朶で受けるさ中、心に奇妙な空白が生まれたのをどうしてか表皮で感じる。首筋や二の腕、指先と腿辺りの肌がほのかに騒いだのだ。 (……あれ?) 頬が熱を帯びる。指の腹に緩い痺れが生まれ、しっとり柔く滴り始めた。鼓動の気配はひどく儚いけれど、何処かに今にも破裂しかねない威力を隠している。 (じゃあ、なんで) もう一人ぼっちだとは思っていない。 気遣いでもない。 同情だってしていない。 じゃあなんで、仲間や友達が大勢いて話し相手にも困らないはずの、飛び抜けて出来た人が私なんかを構うんだろう。 「で、どうする? 決着、つけるのかい」 再びポケットへ掌を潜り込ませた佐伯くんは綺麗に元通りだ。さり気ない爽やかさを纏う微笑みや目元が眩しい。加えて、冗談を挟む余裕さえあるらしかった。 片や自分は芸もなく首を振る事しか叶えられない。 押し黙る私に向かって優しく傾けられる印象的な瞳が、冬の午後特有の薄暗さに在って閃き、冷たい風に濡れて透けている。 どうかした。 音も声もなく尋ねる温度がやたらとあたたかくて困った。 「…つけない。っていうか、つけられないよ。……待ってなんの決着?」 「うーんそうだな、マラソンのプレオープン大会?」 「……それなんか違う……」 「短い復路なんだし、なら意外と俺より先にゴール出来るんじゃない?」 「出来ない。私が佐伯くんに勝てるわけ、ないもん」 切れ切れの呼吸を全力でひた隠した上での発声はどうやら違和なく通じている様子だが、私の耳と脳には上滑りして響く。 佐伯くんありき。なしでは成り立たない。選択肢など存在していない。 たった今、自分自身で見出した真実が嵐じみた激しさで体の内側をなぶって痛いくらい。 かの名前を呼ぶ度に舌の根から干上がり、溜まった高熱が気管を舐めて焼いていった。 にもかかわらず唇は勝手に言葉を続ける。鼓膜が佐伯くんの笑う声音を捉えてしまう。目の二つとも、揃いも揃って一人だけをひしと追う。 ねじれそうなのは心の芯だ。 噛み合わない。ぶれて不協和音を生み、どこに気を払えばいいのかまるでわからなくなった。自分が自分じゃなくなったみたいだった。 「やってみなくちゃわかんないって!」 「流石にわかる……む、無茶振りしないで」 「夏からずっと隠密行動してたせいで足速くなっちゃったって言ってたのに?」 「一言一句覚えてないでよ!?」 「アハハッ!」 「笑うとこ違う!」 「しょうがないじゃん、かなりインパクトのある発言だったんだからさ」 だけど嫌じゃない。本当に、嫌ではないのだ。 だから――余計迷う。 「ま、それはともかくとして。風邪引く前に一緒に帰ろう。俺達別に、迷子でも何でもないしね」 「…………私は…迷子だよ」 「そう? じゃあ俺が助けになるよ。いくらでも、どんな事でも。大丈夫、見つけるのは得意なんだ」 簡単な行動一つ決められなかった。 ありがとう佐伯くん。 気負わずに頷こうとして、結局は動けない。 ← × top → |