「楽しいよ」

テニスって楽しい?
収穫祭の日、鉄板やバーベキューコンロを一緒に片付ける最中、何の気なしに尋ねる。
飛び入り参加した私は調味料の件もあって免除されかけたのだが、食べるだけ食べてハイさようならではいくら何でも自分勝手過ぎるだろう、と手伝わせて貰う事になったのだ。
赤いTシャツを袖まくりし、筋肉が綺麗に付いてすらりと伸びた腕を惜し気もなく晒す六角中のロミオは、投げ掛けるべきではなかった問いにも誠実に答えてくれた。

「何? 、テニスに興味あるんだ?」
「興味っていうか……」

どちらかといえば、テニス部のみんながすごく楽しそうで、朗らかなイメージのある佐伯くんが情熱を傾ける理由が気になる、という方が正しい。

「もっと早く言ってくれれば、テニス部の練習見においでよって誘えたのにな」

屈託なくさっぱりと笑う。
彼らしい、嘘のない声と表情だった。


お陰で私は間抜けにもだいぶ時間が経ってから後悔したのだ。
夏の終わりを味わい、部を引退した人に聞く事じゃない。
自分の気持ちや事情に精一杯で、テニス部の存在や全国大会出場が決まった事を知ってはいても、やっぱり強いんだなあ、と簡単に通り過ぎるだけだった私なんかが、無遠慮に踏み入っていい領域じゃなかった。


冬へ近付けば近付くほど異様な寒さに支配されるだだっ広い体育館、音量調節が適当な所為で時々ハウリングしたり雑音が紛れたりするマイクから響き渡る、校長先生の話を聞きながら立ち尽くす。
我が校が誇るテニス部の黒羽くんと天根くんがU−17代表に招集されました、功績を讃え皆で応援してあげましょう、至極当然で実にあたたかい話だった。
迷子を送り届けた彼の表彰式だと勝手に決め付けていたから拍子抜けしたけれど、祝うべき慶事で素晴らしい栄誉に違いはなく、何より素直にすごいと思った。
高い天井にまで拍手が届く。
大雨が屋根を打つ音とそっくりの喝采に耳を打たれ、どことなく熱に浮かされた空気を吸い、えー! マジか、それって日本代表って事、密やかにはしゃぐ話し声に釣られ両手を忙しなく叩き、収穫祭で知り合ったテニス部の人の顔を順番に巡らせる最中、はたと思考回路が停止した。
(ちょっと待って……)

佐伯くんは?

心に滲んだたったの一言で、指先までさっと冷たくなってしまう。
部員に慕われる副部長、サエは決める時に決めてくれる奴、最後の最後頼りに出来るのはあいつ、部のみんなが自分の事みたいに嬉しそうに胸を張って語っていたその人の名前が、いくら待ってもどんなに耳を澄ましたって聞こえて来ない。
言い様のない焦りが生まれ、どの列に並んでいるかもわからない色素の薄い髪を探す。
首を左右に振り少しだけつま先立ちして、ステージに向かっていたり後ろの友達に話しかけたりの色んな後頭部を目で掻き分けていく。完全に動転した変な子だ、自覚していても止める事が出来ない。
心拍数が嫌な感じでぐんと上がり始めた所で、不意に穏やかな口調がよぎった。
取り上げて貰えるほどの事はしてないさ。他にもっと褒められるようなヤツとかしなくちゃいけない話、いくらでもあるだろう。
すっかり拍手を取り止めた私は、彼の何気ない仕草や煌めく笑顔、爽やか極まりない声調、悔しいくらい整った目元、想像以上に硬い背中とそれから頬と耳の赤さを順繰りに、ごく丁寧に頭の中で辿る。
100%善意でもたらされた吉報が、自分でもびっくりするくらいショックだった。ショックを受けている事にまた衝撃を食らってしまって、一歩も動けない。
己の功績を否定した時にはもう、佐伯くんは知っていたのだろうか。先生方に伝わり、全校朝礼で話す事が決定するまでテニス部に情報がいかないというのは考えにくく、可能性は高い。
半端な位置で固まった掌の置き場を見失う。どこに目を遣ればいいのか戸惑った。仕方なしに俯くと、ちょっとだけ内を向いた上履きの先が見える。三年生の学年色は使い古した風味を帯び、薄汚れたとも新品同然とも言えぬ独特の掠れ具合だ。
万雷の祝福はまだ鳴り止んでいないのに、和やかな歓喜に包まれた空気と色めく気配がどんどん夢まぼろしと化していく。
まるきり他人事で、嘘のよう身近に感じられない。
聴覚や肌はしっかり機能しているにもかかわらず、一人取り残されたみたいに遠かった。

彼は楽しいよと言った。
テニスしたいんだけどさ、六角中予備軍の子達へ微笑み、春になればテニスが出来ると話してあげていた。
私では背負い切れるかどうかも怪しい大きなラケットバッグと一緒にあの夏、一日だって休まず、朝早くから部活に励んでいた事を知っている。
全国大会へ出場したというだけで感嘆し遠巻きに眺めていた頃は、薄情にも考えた事もなかった。
六角中テニス部は――佐伯くんは、負けたのだ。






数ある部活動の中でも敷地内にテニスコート三面を与えられているテニス部は、やっぱりどこか特別だった。
陸上部に所属している調査対象は数時間はグラウンドから離れないだろう、集めた情報を元に今後の尾行計画を立てつつ、なるべく日陰を選んで歩いた夏の午後。
地表近くの空気が熱で揺らぎ蜃気楼まで見えて来そうだ。灼熱の太陽が木々のふかみどりや校舎の壁を焼き、屋上に張り巡らされたフェンスを溶かす勢いで燃えている。真っ白な入道雲はとてつもなく大きく、これでもかというほど青い天へ向かってそびえ立つ。
学校までの道すがら目にした海がどの季節より強く煌めき、うねる水面には砕かれたガラスの破片がばら撒かれているようで、眩しくてずっとは見ていられない。
鼻をくすぐる香りがしょっぱい潮から砂っぽいものに変わる。第二グラウンドの畑から漂ってくるのかもしれなかった。土のにおいは高熱が混ざるといっそう濃くなるのだ。
ふと、勢いよく流れ出す水音が耳朶を涼しくした。
目を差し向ければ、真っ赤な人影が視界に入る。
蛇口を一気に回し過ぎなのね、バカそっちの端のは緩くなってるっつったろ、だってみんなが急かすから、水道の傍で言い合う男子達は肩口やお腹周り、それぞれどこかしらに水染みを作りながら大騒ぎだ。と、賑やかな輪の中に知った顔を見出し、ものの一秒で気を取られた。
(佐伯くんだ)
運悪く頭のてっぺんから被ってしまったのか、日に焼けた薄茶の髪はお風呂上りレベルでびっしょり濡れている。察するに水しぶきが襟元にまで達したのだろう、ユニフォームの赤も白も等しく一風変わった色合いである。
思わず足を止めた。
災難と言っても過言ではない被害を受けているにもかかわらず、掻き上げられた前髪の下から覗いた表情は爽快感に溢れ、誰がどう見ても楽しそうだった。眦が健やかな微笑み型に閉じられており、垣間見える白い歯は弾む声音によく似合っている。
太い木の幹越しに騒動を眺めている私に、彼は気付いていない。
風が吹かない所為で影が揺れなかった。
押し黙っていた蝉がごく間近で鳴き出し、真夏の様相を加速させる。
部活の休憩時間に寄ったのだろう、タオルを肩に掛けたり、頭に巻いて大工さんの風貌になっていたり、首筋を守り喉の辺りで結んだおじいちゃんスタイルの人、みんな様々に汗や水を拭っていて、当の佐伯くんはといえば何がそんなにおかしいのかまだ笑っている。
かと思えばぶるぶると犬みたいに首を振るい、チームメイトのみんなに窘められていた。オイ、サエこっちにまで飛ぶだろうが。厳しめの指摘をされても返事は実に軽快だ。あぁ、ごめんごめん。言った人がさり気ない仕草でばらけた前髪を後ろへ流しオールバックの形へと持っていくと、特別な眩しさが乱反射してびっくりするほどかっこよかった。お金持ちの私立校風とはお世辞でも言えぬ庶民派中学の片隅が、いわゆるイケメン俳優特集の紙面と化す。
生い茂る木の葉で出来た陽射し避けの下にいたら、撒かれた細かな光が瞼の裏へひと際強く残ってしまう。佐伯くんが無邪気に髪を散らしたと同時、毛先や襟足から汗と水が飛ばされ、きらきらと光った所為だった。瑞々しいにおいがこちらまで届くよう。
不快指数はとうに100へ達しているのに涼やかな風が吹き込んだ錯覚に捕らわれ、一瞬の内に茹だる暑さを忘れる。

いつだってそうだった。
佐伯くんはどんな時も、何事にも大抵朗らかに構え、爽やかに笑っていて、ラケットを握っている時なんか本当にとても楽しそうだった。
転校してしまった私の一番の友達が脳裏を掠める。
好きな人について情熱を籠めて語る時、瞳を輝かせ、頬に健やかな色を灯し、生き生きと声を弾ませていた。
(佐伯くんって、テニスに恋してるみたい)
二人に何の断りもなく面影をだぶらせる。深く考えもせず、感じたままに心を揺らす。寄せては返す波と同じに。







私の心には重く圧し掛かった祝事から幾日も経たぬ放課後、普段通り血色のいい頬と何の陰りも見当たらない笑顔に乞われ、自習室で受験対策の小テスト結果を見直し志望校の過去問に向き合っていた。
発端は偶然行き合った廊下での一言だ。

って数学得意? 俺あんま自信ないんだ。問4がイマイチわかんなくてさ、簡単にでもいいから教えて」

こんなに嫌味なく厚かましさも感じさせず人の懐へするりと入り込む男の子、佐伯くん以外に知らない。
たじろいだ口の端が震えた。

「い、いいけど…私だって特別数学出来るわけじゃないよ?」
「だとしても俺より得意だと思うぞ」
「……何を根拠にそんな」
「ほら、それだ! 実績、根拠、裏付け。やっぱ理論派じゃん

零れる笑い声に胸を突かれ上手く答える事が出来なかったのに、彼の方はどこ吹く風、自習室でいいかな、軽やかに言い置いて歩き出す。
変わらない態度のお陰で助かっている部分もあったけれど、今となってはもどかしい気持ちが幅を利かせていた。
お腹の中や喉の奥にもやもやが留まり、思い詰めて苦い。脈が速まって流れる。
あちこちに気になる事が多すぎて混乱するしかなく、頼み事を断りたいわけじゃないのに、でも、だって、別に私じゃなくても、と言葉の先頭に付ける所だった。志望校が違っていれば、体のいい断り文句に成り得たかもしれない。
記憶を遡る脳内へお互いに赤面を晒した翌日のお昼休み、長い廊下に備え付けられた窓際を通った時の映像や感情がじんわり浮かび上がる。


背中にぶつかってから初めてまともに顔を見た。
思い切り不意打ちの出会いで、確実に全身が硬直していたはずだ。
ガラスの向こうからこの時期にしてはあたたかな陽射しが降っている。賑やかな事の多い校舎内はお昼時だともっと騒がしくて、たくさんの話し声が行き過ぎ、どことも知れぬ場所で反響しさざめき合っていた。
ひょっとしたら頬や耳が赤々と染まっていた可能性もあった私に対し、進路指導室の扉から出て来た人はたったの一秒間綺麗な目を見開いただけで、

「やぁ、。キミも進路指導の先生に用事かい」

後はにっこり笑って話し掛けて来る。
恐ろしく自然過ぎて、うん、とバカみたいに素直に頷いてしまった。うろたえる暇さえない。

「そっか。ちなみにどこの高校を受ける予定?」

昨日の一件は私の夢か幻かはたまた見間違いかと疑うくらい、まるで何事も起きなかった振る舞いだ。
普通、普段通り、日ごろと変わらず。
本格的な緊張を味わう前に穏やかな物言いで撫でられた心地である、肩から力が抜けほっと息を吐くや否や、上履きの底が重く撓む。
ふくらはぎの裏筋を駆け上がり腰からお腹へ染み込んだのは、薄暗くやんわりとした衝動だった。
いつもと同じに話せたのは良い事だろう。
度を越して気にするあまり会話も出来ない展開なんて、決して望んでなどいない。
だけどつい昨日、人生で一番慌て焦り、泣きたいくらいドキドキして、佐伯虎次郎という人を痛いほど意識した長くて短いひと時を、丸ごと忘れ去りましたとばかりに片付けられるとは思ってもみなかった。
胸の奥底で嵐めいた渦が逆巻く。
燃える炭の鮮やかな赤を纏う火ばさみでぐちゃぐちゃに掻き回されたみたいだ。骨や肉は溶け崩れ喉が焼け、抉れた傷口から血混じりのとろついた水分が漏れて、何故か破れない皮膚の下に溜まって膨れ上がりどんどん体積を増していく。
鼻の奥がつんと響いた所で、涙が滲む寸前である事を知った。
平気な顔で笑ってみせる佐伯くんに、私は今、傷ついている。
なんで、どうして、どういうわけか、何もわからない。本当に理由を探せないし影も形も見当たらないけど、惨めな寂しさで胸が締め付けられて切なかった。
大事件だった。
少なくとも私にとっては忘れたくても忘れようがない、忘れられないひと時だったのだ。
なのに佐伯くんは違う。
一日経てばいつも通りに戻って、ごく自然に声を転がす事が出来る。きらきらの笑顔を携え、誰にでも分け隔てなく接し、さり気ない優しさも失くしてはいない。
数ある美点の内の一つだ、そういう所がすごい、好感を抱くしかない、散々褒め称えていたかつての己の声がこだまする。
彼特有の長所が束になって足元をぐらぐら揺するから、燻る感情の捨て場が消え失せた。

「あれ、じゃ一緒だ! 高校でもよろしくな」

淡泊に高校名を告げれば、驚きの事実が明朗な音に乗って届けられる。

「まだ受かってないじゃない」
「大丈夫、受かるさ。俺も、もね」

思わずツッコミを入れると一等賞の笑みで打ち返され言葉が出なくなってしまった。
じゃあね、と去っていく左手や学ランの背中を見送り、中身が空っぽのロボットみたいに佇む。冬も間近の寒さが蘇り、腿から下を通り抜け、なけなしの体温を奪っていく。無風にもかかわらず凍える空気の波で浚われぶたれた気分だ。緩やかに注ぐ陽の光だけが明るい。
受験が上手くいけば春からも一緒の学校。
心の内側で繰り返してみても、喜んでいいのかどうか判断に迷った。
昨日までの私なら、そうなんだよろしくね、お互い頑張ろう、くらいの返事は口にしたはずだけど凍り付いた声帯は溶けないし、体の真ん中が無闇に染みて痛い。





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