隣に座ってノートやプリント、参考書の類を覗き込むと不思議な心地に包まれた。 佐伯くんとは一度もクラスメイトになっておらず、必然的にこうも近くで机に向かった覚えがないのだ。 右利きの私とペンを持つ手がぶつからない方の椅子を、左利きの彼が選ぶ。 それは多分、15年間生きて来た中で培われたすべなのだろう。 大雑把な所があっても気遣いを知ってい、優れた視力に相応しい観察眼も備えている。 常ならば掬い切れないほど溢れる感心、感嘆がちらとも姿を現さない。 喉奥にじっとり張り付くものを振り切って、机上の小テストと過去問へ意識を移した。 目指す高校はわりと内申点を重視する方だから、根を詰めて勉強に励まないといけないわけじゃないでしょ、唱えつつも頭に叩き込んだ方程式と解き方のいくつかを口ずさむ。 心持ち鼻先を落として聞き入る横顔を盗み見、すぐさま戻した。 他の教室に比べ分厚い窓に寄り添う儚い陽射しが、意外にしっかりとしたつくりの輪郭を真白く縁取っている。腰を下ろした場所の関係で端整な顔立ちは逆光の状態で、余分な肉の削げた頬がうっすらと影を帯びていた。生え揃った睫毛に細やかな光の粒がまぶされ綺麗だ。上向いている事の多い唇は強く引き結ばれても尚、美しく整っている。 寄せ合った肩はぎりぎりの所でぶつからず、確かに近くはあるけれど、でもそれだけ。 数字だらけの紙の上に置かれた手の甲が大きかった。 青白い血管と骨の浮く皮膚の表面は乾いている。軽く握り込まれているから、爪先や節くれだっているであろう指は見えない。 意識するべき場面でないとわかっていても、自らのそれを並べる意気地はなかった。 口だけが勝手に音を吐く。 上滑りする一方の説明はしかし、脳裏に刻まれた授業通りに正しかった。 ゆっくりと逸れていく思考が、そんなに勉強しなくても大丈夫だよ、呟き、だって佐伯くんなら部活動での功績があるじゃない、無策に奔って躓いてしまう。 所在無く腿上へ放っていた左手を力いっぱい握り込むと、マメもなく単に柔らかいだけの無駄肉がじわりと湿った。 肺の中身が膨張してゆき、呼吸のタイミングを逃し始め、心臓は空転し軋む。 ここ最近ずっと浮き沈みの激しい気持ちに振り回されてばかりである、遂には目が眩む錯覚に襲われた。 自分のペースというものが掴めない。 思い込んだまま走ってなりふり構わず行動に移していた頃のやり方も、真冬に白く染め上げられる吐息のようあえなく消える。 とうとう私は黙っていられなくなった。 「………佐伯くん。あのね」 粗方の傾向と対策や復習を終え、辿り着いた昇降口。 俺に付き合わせちゃって悪い、日が落ちる前に帰らないとな、清しい声をのんびりと奏でる人が、トントンとスニーカーのつま先を立て踵を整えている所だった。 薄く曇ったガラス扉の数歩手前、学ランが立ち止まる。 半端に振り返りながら不思議そうにまばたきをする佐伯くんの背中は今日も軽い。彼の相棒たるラケットバッグを最後に目にしたのは一体いつだったろうか。 たまには顔を出してよサエさん。引き続き部長を務める葵くんから無邪気に縋られ、出すのはいいけどその前に剣太郎、オジイにラケット見て貰った方がいいぞ。穏やか極まりない微笑みで先日の練習試合で打った時のインパクト音の微妙な差異についてアドバイスしていた。 え、佐伯選抜行かねえの!? マジかよなんで。私と同様の疑問を抱き驚く男子。 ねえ最近テニスしてるとこ見た? そういえば見てないよね。下級生の女の子達が気遣わしげに眉を下げ、北舎の廊下の窓辺に並んでテニスコートを眺めている。 様々な言葉達が日を追うごとに降り積もり、体の底へと沈んで途轍もなく重い。 差し込む痛みは強烈、塩辛い水分で気管が満ち、息苦しさで胸が埋まる。 気になっていた事、持て余す感情、一人では抱え切れない衝動、私にだって色々あったはずなのに、あの朝礼以降全てどこかへ行ってしまった。 口腔内が異様に渇いて、唇から潤いの抜けていく感触が落ち着かない。 己の学力と自宅からの距離を考慮して決めた志望校にスポーツ特待生枠があるとの情報は仕入れていたけれど、どうせ自分には関係ないと学校案内を読み流していたからテニス部が強いのか、六角中と比べ同じくらい力を入れているのか私にはわからなかった。もう一度読み返す勇気もない。 強豪校じゃなかったら。 テニスを続けるにあたり充実した環境とは言い切れなかったとしたら。 知るのが怖かったのだ。 (だってあんなに楽しそうだったのに) テニスに恋してるみたいと本当に心から感じた。 宵闇に浮かぶ一番星のよう煌めいて、太陽にだって負けない輝きを放ち、傍観者の私ですら散りばめられる光に目を細めた。いいなぁ。羨ましさに人知れず独りごちた日もある。 瞼のふちに宿った小さな雫の気配は、今ならまだ淡い。 終わらないで。 終わりにしないで。 たくさんの人を惹き付けてやまない笑顔の佐伯くんを、ずっと見ていたい。 「テニス、やめちゃうの?」 「え?」 ほとんど勝手に転がり落ちた問いを受け取ったと思しき声はやや素っ頓狂で、凛々しい眉下の瞳がキョトンと瞬いている。 鼓動が一気に蠢いた。重力に負けつつある視線を決死の覚悟で保ち、神の審判を待つ哀れな子羊の如く立ち竦む他ない。 と、肯定か否定か考え恐れを抱くより早く、ぷっと吹き出した音が鼓膜を優しく割るので、今度はこちらが目を見張る番だった。 口元を左手の甲で押さえ、幾らか顔を背けた佐伯くんは、 「ハハ、アハハッ! 、どういう表情だよそれ」 愉快げに笑声を立てている。 頬どころか目の端までなだらかに撓ませて、少しだけ上目遣いのまま続けた。 「そっかそっか、なるほどね、なんとなくわかったぞ。また変な方に考えたもんだな」 顔面の筋肉がどういう状況なのか自分の事にもかかわらず掴めないし、靴底を瞬間接着剤で貼り付けられたよう動けない。 よっぽど神妙な表情を浮かべていたのか、それとも今にも泣きそうな子供同然だったのか、佐伯くんが大袈裟に肩を竦める。私を安心させる為だったのかもしれない。 「ホント、なんでそういう話になるんだか。しかも思い詰めた顔してさ? 一体何を言い出すつもりなんだってちょっとドキッとしちゃったよ。やめるわけないじゃん!」 快活な笑顔が飛び出した上、乱暴じゃないけど強い否定も付いて来、膝小僧に弱い電流が走ってぴりっと震えた。不快感はない。吸って吐いての順番がこんがらがっていた呼吸は、単純にも元の調子を取り戻しつつある。 完全に私へと振り向いた彼が、そうだなぁ、静かに呟き、睫毛をほんの僅か伏せて言った。 「勉強見て貰って、この上更にの時間貰っちゃう事になるんだけど、ちょっと海まで行かない?」 間を置かずして持ち上がる眼差しは真っ直ぐに人を射抜く。 かたい意志を含み、でも圧迫感のない、正々堂々とした光に溢れたいつも通りの佐伯くん。 つい先日まで喉や胸を塞ぐ原因だったというに、今度は何故か安堵を覚えて全身がほぐれていった。 滞った感情が栓の抜かれたお風呂の水みたいにすんなり流れ始め、吸い込まれるまま頷こうとした一拍前、 「受験生にも息抜きは必要…って、前にも言ったか。しまった、これじゃなんだかサボりの口実にしてるみたいだな、ハハ」 気負いなく揺れる肩やのんびり奏でられる音色が、心のささくれ立った部分と溢れ零れる寸前の衝動をなめらかに癒す。 黙っている時はとんでもなく精悍な顔立ちがふやけているので、強張りを忘れついつい笑ったら、元から綻んでいた佐伯くんの口角が見事な半月型をかたどった。 甘く細められた一対の瞳には、平均的な視力の所為でここからじゃ見えないけれど、きっと情けない笑顔の私が映っている。 ゆったりと血液を押し出す心臓にはもう不穏な気配など存在しておらず、代わりに脈の間隔がごく自然に、胸元をあたためる緩さで狭まっていくのが自分でもわかって、糊付けされた上履きが床から解放された。踏み締めたすのこが微かにかたついたが、変な風には響かない。 先んじてコンクリート部分に下りていた人はいつの間にか靴を履き終えており、ポケットに手を突っ込んではいるものの、じっと私を待ってくれている。 場所や状況、抱く感情の何もかもが違う。 だというに記憶はいつかの海を辿って、色彩豊かにまざまざと浮かび上がらせた。 並んで眺めた十月の暮れた頃。 混ざり込む藍のグラデーションが目の底を浸し、夜の境にさざめく海の色はとても静かだ。水平線は沈みゆく太陽によって一筆書きされていて、自由気ままに吹く風が髪の毛が振り回す。慣れ親しんだ潮の香は鼻腔を通り、肺の中身を満たしていくさ中、ただ一人が剥き出しの素足から温度を感じる機能をいとも容易く奪った。 俺は朝、ああやって話す子はキミがよかったよ。きっとキミじゃなきゃ、こんな風に海まで来る事はなかったと思う。 いまだに忘れられなくて、離れていかなければ欠片も薄れやしない声。 本当のはじまりはあの夕べ、傍にいてくれた人の隣からだったのかもしれない。 予感と言うにはあまりにも揺るがない強さが芽吹く。 「なんだろうな……俺さ、正直寂しくないんだ。いや、寂しいと思えないってのが正しいのか」 女の子を遅くまで連れ回せないだろ、と大体において鷹揚なくせして妙な頑固さを持つ佐伯くんは近場も近場、校門からほぼ直結の海辺を選び、向かう途中でゆったりと大きく響いていく潮騒に溶かし零した。 「前のみたいに、人と離れていないからなのかもしれない。テニスから離れたつもりだってないよ。けど本当に離れてしまった時、寂しくなったりしんみりしたりはすると思う。そういう気持ち、誰だって味わいたくないじゃん? 少なくとも俺は嫌だし、そうならない為にやっていきたいんだ」 誠実な声音が耳裏を打ち、やがて鼓膜をすり抜け首の横を伝い落ちていき、胸元には温もりが灯って優しい。 泡立つ白波に眼差しを当てる彼は前だけを向いているから、当然視線なんか絡まなかった。でも遠く、声も届かぬ彼方へ意識を遣っている気配はなく、やっぱり私の傍にいる。 芸能人じみた派手さはなくともあからさまに目立つ人なのに、六角中のみんなにとってはすぐそこで笑っていて当たり前の存在なのだ。 ――勿論、私にとっても。 不意に耳の下、顎の骨の付け根がしょっぱくなって、込み上げた何かが唾を引き出した。急な事だった。 目には見えない冬が頬や髪に触れ、コートの隙間へ忍んで来る。 佐伯くんを身近な男の子に感じ、手を伸ばせる距離で話せるのは私だけがいい。 温度、色彩、感触、あらゆる全てを含んだ願いは体中へ行き届き、静かに脈打ち出して、だけどどうしてか痛くなかった。喉の奥や心臓は柔らかに締め付けられるのみ、呼吸の都度形を変える肺が濡れた切なさを滲ませるも息苦しくはなくて、とても自然に気持ちが馴染んでいく。 揺蕩って打ち寄せる。 波打ち際に細かな泡が残され、完全に消える前に次のうねりを被り飲み込まれてしまう。 繰り返される海の調べに重なっては離れ、かと思えばぴたりと寄り添い、また少しだけぶれた。耳元をくすぐる波音とはっきりとした輪郭を持ち始めた想いが徐々に溶け合って、何もかもが穏やかだ。 スニーカーやズボンの裾へ濃い色の砂が飛んでも一切気に留めない佐伯くんは、どこから流されて来たのか浜辺に転がるなかなか強度がありそうな太めの枝を拾い上げ、ちょうど真ん中辺りを力任せに叩き折った。 ボキッと小気味好い音を奏でたそれは当然ながら砂まみれである。簡単に払う事もしない大きな左手が些かよれた線を引いていき、ただ見守るしかなかった私が間取り図だと気付いたのは、小さな四角の中にTVの二文字が書き足された直後だった。 一階と思わしき図面は正直に言って相当にいびつ、正方形でも長方形でもなく微妙な末広がり型になっており、これを元に家を建てたら欠陥住宅間違いなしだろう。片手一本で適当に描くからいけないのだ。 「と違って俺は料理してる時にテレビ見えなくても気になんないけど、その代わりすぐ海へ出れるようにしたいからフラットなウッドデッキにしよっかな」 ブレにブレた直線で出来た図形の内へ、デッキ、とこれまた歪んだカタカナが並ぶ。謎の空白地帯はどうやら庭だったらしい。 「玄関から出るんじゃだめなの?」 「リビングから廊下通っていちいち玄関まで行って…なんてめんどくさいじゃん。デカい窓から直接がいいよ」 絵心のないロミオは結構横着である、段々面白くなって来た。 「あそうだ、俺犬が飼いたいから庭をもっと広くするか、っと」 靴の先で雑に掻き消した所へ棒切れを突き刺す。均さぬまま手前へ引いた所為で敷地の囲いはでこぼこな上に不格好。 指摘する間もなく奇怪且つ無理矢理な拡張スペースが作られ、ガーデンテーブルめいた物体と大きな木に似た何か、ウッドデッキに対してサイズ感の狂ったサンダル等々が浮かび上がった。 いよいよもって佐伯画伯の本格的なお出ましである、込み上げるおかしさが抑え切れない。 「なんだよ、笑うなって」 「っあは、だって…あはは! 佐伯くん、美術2って感じの絵だよ!」 「そこまで言う?」 「うん、言う。美術の成績良くなかったでしょ?」 「そうなんだよなあ。サエお前砂の城作りは引くほど上手いのになんで絵は下手なんだよ、ってみんなから散々言われてさ」 当たり前に海が近かった。 すぐ傍で聞く声は海鳴りに紛れ消えてはいかず、凛とした響きを保ちながら私を揺らす。 「犬は庭で飼う? 家の中じゃなくて」 「うーん、折角飼うなら出来るだけ一緒に過ごしたいし……家ん中でも外でもどっちでもいける感じにしよう」 「佐伯くんて毎日犬と一緒に海まで飛び出してっちゃいそう」 「お、それいいね。理想的だ」 「じゃあ窓のとこに洗い場作らなくちゃ」 洗い場ってどういうヤツ、普通の水道でいいのかい、あやふやな知識が生み出す製図は控えめに言って酷い有様で、笑みを押し留めるのに随分苦労した。 佐伯くんが少し困った風に首を傾げ、どことなく照れ臭そうな雰囲気でこちらを気にしているのがわかったけれど、私にだってどうする事も出来ない。 王子様みたいにきらきらしている風貌と大違いに乱れ崩れた未来予想図がおかしくて、速まっていくのと同時に和らぎもする心音が目の裏に染み込み、今がずっと続けばいいと願うあまり思わず泣き出したくなってと、自分の事なのにコントロールがまるきり利かなかった。感覚器官も影響を受けている様子で、風が冷たいのにちっとも寒くないのだ。 スカートの裾はうっすら湿って重たげにはためく。腿裏が布地に触れると氷の温度だったが、裏腹に肌は熱を持って腫れぼったい。 「………テニスコートは?」 「そりゃあったら最高だけど。どう考えても大金持ちにならなきゃ無理だぞ」 十一月も終わろうという今、時期外れの五月晴れに似たからりとした笑顔が戻り、不安と緊張の組み合わさった脈の前触れがほだされる。 でも作るとしたらやっぱハードコートがいいかな、俺としてはクレーコートもやりやすいんだけどね、もしもの話を真面目くさった顔つきで繰り広げる彼は長い指揮棒めいた棒切れをそのまま肩に担ぎ、学ランの黒には目立つ無数の砂が散らばった。はたいて取り除ける類の汚れに無頓着なのだ。 間取り図を見下ろす横顔が、海岸線の情景に浮き立つ。 約ひと月前、ままごと遊びを未完成の内に放り投げたのは私だ。 あの日の続きを佐伯くんは引き取ってくれたのかもしれない、ふと思う。 二人して裸足でしっとりと濡れる砂地を踏んだ感触。夕焼けが眩しいくせして優しげな色を湛えているから、余計に寂しい。思い込みの激しさで以っていじけていたのを無遠慮に触れないで、かといって放ってもおかず、真っ直ぐな声で拾い上げてくれた。 晩秋の日暮れ時はあっという間に終わってゆく。 夜の漆黒がやって来るのだ。 丸い朱色はまだ沈んでもいないのに、頭上の空が暗く濁った錯覚を抱いてしまう。 ろくな返しひとつ紡げない私はそれでもじっとしていられなくて屈み込む。体育座りの恰好を取り、手近な位置に落ちていた小枝で細い線を引いてみた。美術の成績に自信があるわけではないが、隣の画伯よりはましなはずだ。 本物の何百分の一かのテニスコートとデフォルメされた犬を伸び伸びとして自由な間取り図のすぐ下に描けば、へえ、上手いもんだな、と素直な感嘆の声が落ちて来、なんとはなしに膝を伸ばす。 近付いた目線を横に遣り、いつの間に絵筆代わりの切れ端を手放したのだろうか、ポケットへ仕舞われた彼の両手に気付いて、潮の流れが変わるのと同じに辺りの空気が黙り込んだのを肌で感じた。 波の数だけ轟く音は深い。 二人分の影が細長く引き伸ばされ、夢物語でしかない図面や暮れかかる陽に焼けた砂浜と重なっている。 気詰まりというにはしなやかで、心地好いと感じる為には何か遠かった。 なぶられ揺さぶられる髪の先が頬を掠めていき、渇いた唇に張り付いた所で、淡いしじまが剥がされる。 「……確かに悔しかったさ」 しんと静まる声だ。 心臓が内側から叩かれて、一瞬だけ胸が詰まり、頬には痺れが走った。 佐伯くんは通った鼻筋を眼下の自らが思い浮かべた未来絵図へ向けてい、だけど決して俯いてはいない。 「中学テニス生活の集大成があれじゃあな。不完全燃焼どころの話じゃないだろ。納得なんかしてないし、出来そうにないよ。結果に、とかそういうのとはちょっと違って……自分の力の無さにだ」 言葉自体は後悔の形をしているのに伴う響きが落ち窪んでおらず、むしろひどく真摯に息づいており、俺自身まだ消化しきれてない気持ちだってある、と粛々と繋がれていくから、背中をぽんと押されて励まされたような、不思議な心地だった。 「でも! 一度や二度挫折を味わったくらいでやめたりしないって、俺はね。その程度でやめるなら初めから好きになってない。それか中3になる前にテニスやめてたんじゃないか。だから時々苦しいし、悔しくてしょうがなくなる。前にも言ったろう? 何より俺は勝ちたいんだ。好きだから……勝ちたい。楽しいのが一番だってのは勿論大前提としてあるけど、それと勝ちたいって気持ちは、多分別だ」 朝に夕にきらきらと輝いてやまぬ瞳が私に囁く。 かち合って一、二秒。 ひた走った沈黙の間で海が鳴いて、ざわめきに体ごと心を攫われる寸前、佐伯くんは一等賞の笑顔を咲かせながら殊更しっかりと結んだ。 「俺は何も諦めないよ。だって粘り強いのが取り柄だしね!」 ウィンクの一つでも付いて来かねない調子に却って何も言えず、下唇のやわい内側を甘噛みする。 切ない、もどかしい、苦しい。 どれも当てはまらず、ただただ胸がいっぱいになった。 「……あのな? 。聞いてもいい」 尋ねておきながら答えを欲していない口調だ、事ここに来てほんの少し気圧される。 「キミから見て俺はテニスプレイヤーとして終わってるのか」 澄んだ眼差しに付随する色の変化にうろたえていたらもっと焦るしかない続きが放られてしまい、反射的に肩はびくつき、声帯もひっくり返って固まる。 「え! あの、さ…佐伯くん、えっと…」 「負けて夏が終わって、代表選抜にも漏れたら。もう全部おしまいで、俺の人生はそこで終わり? その後には何も続かない?」 違うだろ。 いつだって安定して穏やかな人らしからぬ、奥底まで芯の通った強かさが窺える一声だった。 「まだまだこっからだ。大丈夫、いくら夜が長くて暗くたって永遠に続くわけじゃないさ。それに夜が来なかったら朝焼けの綺麗な海も見れないじゃん。なんてのはちょっとクサかったかな! けどわりと本音だから……には信じて欲しい」 海風に撫で透かされた前髪の奥で底光りする双眸は揺るぎない。 私は、今まで起きたたくさんの事が連なり、涼やかな音色を立て、まっさらになっていく感覚に捕らわれてしまう。 佐伯くん、と今すぐ呼び掛けたいのに上手く声が出せなかった。 おまけに、 「俺のこと心配した?」 鋭い真剣味を帯びていた面差しを様変わりさせた人が鮮やかに微笑むものだから、伝えたい大事な一言が益々空回っていく。 歯がゆさにスカートの前で指を組み、意味もなく押し揉んでみる。胸が熱くてどうしようもない。目の前の人から逃げるどころか視線さえ逸らせず、そうこうしている内に角膜が潤み始めた。昂ぶりながらも形にならない感情の顕れだ。睫毛まで重たくなって来る。 優れた視力を思えば見落とすはずなどないだろうに、佐伯くんは何も言わない。 淡い陽射しを集め丁寧に濾し、透き通った光の粒子へと変えた虹彩や瞼のふち、優しく細められる目端は、特別に大切なものをくるむみたいにあたたかかった。 潮のにおいが頭の中をクリアにし、海の声だけが満ちて響く。 「……そんなの、すごいしたよ……」 私、ほとんど部外者だから出来る事なんて何もないけど。 実に冴えない、つっかえひっかえの酷い返事だったというに、戻った笑顔は晴れ渡り清々しい。 気にしてくれてたんだな。 紡がれる一音一音が、私に柔らかく触れてくれる。 「ありがとう。に心配して貰えて嬉しいし、すごく心強いよ。ま、情けなくもあるんだけどね。それもかなり!」 届くまで三歩もない距離を全速力で駆け出したくてたまらなかった。 「だって負けっ放しで心配されるより、どうせなら応戦されて勝ちたいよなあ」 でも、出来ない。 簡単に言葉や行動に移すには気持ちが大き過ぎる。遂に背中まで達した高鳴りは浜辺へ打ち寄せる波よりずっと速く、強烈に存在を主張して止まない。 一瞬でも油断すれば溢れ零れるに違いない感情を力いっぱい抱き締める。持て余しているとわかっていても、絶対に落としてしまいたくなかった。 もう何度目か知れぬ、声にならず辿るだけで切ない五文字を繰り返す。 さえきくん。 うっすら滲む涙で視界が濁ってゆく。 私、どうしよう。 どうしよう佐伯くん、どうしたらいいの? 息を吐いたが最後、雪崩のように崩れ自分が自分でいられなくなる気がして、呼吸も止め唇を引き結んだまましゃがみ込んだ。 砂地に放り投げていた鞄を避け、先ほど手にしていた小枝を再び握り、縒れた太い線を左手で埋めていく。指先がざらつき湿って、所々に混ざった貝殻の欠片や大きめの砂粒で僅かに擦れ、火照った皮膚は一向に冷めない。 「何してるの?」 不思議そうな声音を転がす人が、こちらの手元を覗き込んだ気配がする。 神経は過敏さを増して、ぐんぐん下がる気温と触れ合う部分の肌が粟立ち、お腹の奥からせり上がった高熱が瞬く間に脳天を突き抜けていった。 指や首筋に唇と頬、あらゆる部位で血が燃える。 (誰にも言わないで、内緒にして。お願い) 夏が蘇る。 たった一度きり巡った、思い出深い季節の事。 初めて会った時、首を傾げる佐伯くんに木の幹に隠れながら頼み込んだ。私一人の問題じゃなかったから、それはもう必死だった。 今は――祈るような気持ちで希う。 「消してるの」 語尾がみっともなく歪んでいたかどうか、我ながらさっぱりわからない。 ただ、髪を伸ばしておいて良かった、と思った。 下を向いてラクガキじみた間取り図に見入るフリをしていれば、耳まで真っ赤に染まっていたとてすぐにはバレないだろう。もし気付かれたとしても、身を切る寒さに責任転嫁したら良いのだ。 「……何を?」 「佐伯くんが書いた線を」 「…………なんの為に?」 いつかのやり取りをなぞって再生させる唇の裏で、止まりそうな息の根をなんとか持たせる為、体にあるだけの酸素を必死に手繰り寄せる。 お願い。誰かに言ってたらやだ。 「ありとあらゆる可能性の為に! そうやってちゃんと先の事決めてるのに、どうして適当に書くの?」 将来住みたい家も、意外とめんどくさがりな所も、確かな情熱で道を切り開こうとする強さも、自分が特別に思われていると勘違いしてしまいそうな甘い笑顔も、全部内緒にして欲しかった。 他の子には色んな佐伯くんを知られたくない。 この期に及んで理由なんか一つしかなくて、だからこそ胸が押し潰されたみたいに苦しいのだ。 「適当になんて書いてないさ」 「ほんとに叶えたいんだったらこんなゆるい線にならないもん」 「俺の絵はそれが全力」 「……その辺にあった木の棒使って、しかも片手で書いた人が言うセリフじゃないでしょ」 滞りなく零れた笑声が近くなる。スクールバッグをリュックみたいに背負ったままの佐伯くんが、隣に腰を下ろした所為だった。 私がペン代わりの枝切れで以って細い溝を一直線に垂らしゆっくりと手直しをするさ中、彼は立てた膝上に両肘を乗せ、小さな子供と同様に腕組みする。興味津々、の四文字熟語が頭に浮かんだ。 きちんと視認していないくせに、どんな恰好をしているのか把握する私は本当にどうしようもないし、手に負えない。 指先の爪や甘皮の隅々まで、やわく痺れた。 「線引くのも上手いじゃん、。立方体の展開図とか得意だったろ?」 俺は昔っからダメだった。 続く声が私を振るわせる。何気ない語り口なのに、体の芯へと沁みて溶け込んでしまう。 どくどくとがなる心臓が口から飛び出るんじゃないかと怖かった。目の裏側はたわんで湿り、こめかみが痛い。 唾を飲んで堪えながら、今はまだ‘もしも’だとしても、いつか必ず訪れる未来を想う。疑いもせず心を預ける。 テニスに恋をしている人が底抜けに澄んだ青空に左の拳を突き上げ、ここ一番の勝負所を乗り越えた証に笑った時煌めく、光のさざ波はどんなにか綺麗な事だろう。 そんな風にして勝つ佐伯くんを、傍で見ていたい。 頑張れって手に汗握りながら応援して、おめでとうを一番に言いたい。 、と耳に残るあの声で私を呼んで欲しい。 どうしてこんなになるまでわからなかったんだろう。 なんで早く気付かなかったんだろう。 (私……佐伯くんが好き。大好き) もう引き返せないくらいに。 ← × top |