いばら




いよいよ意味を聞けなくなった。
勘違いしたくない、一人ぼっちは嫌、海辺での夕暮れを失くしたくない。
そういう今までの、大きな理由が抜けた恐れとは少し違って、自覚したからこそ口を噤むしかないのだ。
気付いてみればこんな簡単な話もないだろうに、どうして深追いせず目的のみを際立たせてしまったのか。流石に一生の後悔とまではいかないものの、己の馬鹿さ加減や現実が見えていないにも程がある事実にショックを受けてしまう。
友達に協力する為なら思い切り走りもしたし、可能な限り情報を集めた上でこのタイミングはどうか、あっちの場所の方が話すには良いのでは、諸々の提案が出来たのに、いざ自分の側へ困難が打ち寄せて来た途端、身動き一つ取れなくなる。
(……ごめんね)
心の中で、もう六角にはいない親友へ頭を下げた。
親身に考えていたつもりだったけど、本当の意味では好きな人に気持ちを伝える努力や頑張りを理解していなかったのかもしれない、と遅すぎる懺悔は日に日に増してゆき、棘になって体を内側から刺して来る。
それなりのデータがあって友達の応援も受けているからといって、飛び込んでいく勇気に繋がるかというと別問題なのだ。
この時間なら会えると思う、機会が今しかなかったらどうするの、きっと大丈夫だから言ってきなよ、叱咤激励を繰り返したかつての私の首を掴んで問い詰めてやりたかった。
そんな簡単に行動に移せたらみんな悩んだりしない。
他人からしたらどうでもいいような言葉に一喜一憂し、ちょっとでも嫌われたくなくて、本当は好きになって貰いたいのに怖くて蓋をしてしまい、到底堪え切れず、息をするのも切ない日。
味わって初めて思い知った。


佐伯くんは文句なしにかっこいい。
爽やかという表現がびっくりするくらい似合っていて、いつもきらきらしているし、だけど気取った所のない人だ。
優しい人格者で、みんなから頼りにされている。
元生徒会副会長で、テニスも強く、男女問わず慕っている後輩は多いのだろう。
絵に描いた王子様要素に溢れていても近寄り難くないのは、意外と雑で、同い年の男の子なんだと感じる瞬間が確かにあって、誰に対しても壁を作らないから。
笑い声が響く。
凛とした光を灯す瞳に見詰められ、たちまち何も言えなくなった。
嘘の感じられない物言いで、真っ直ぐ投げ掛けて来る。

「けどさ。俺は朝、ああやって話す子はキミがよかったよ。きっとキミじゃなきゃ、こんな風に海まで来る事はなかったと思う」

思えば私だって佐伯くんじゃないとだめだった。
わざわざ海まで行って好きなだけ正直に愚痴る気なんか、全然なかった。
あっという間に遡った時間が、風の強い日に立つ白波のよう騒いでいる。
スマートなやり方で悠々と上を行かれ、面白くなかった。癪だとさえ感じた。
でもそうやってこちらを出し抜いて来る人は嫌味なく、眩しいばかりに輝いているのに何気なさがあって、いつも優しかった。
同時に図太い所があり、勝ちたいのか負けたいのかわからないから、本当の事が掴めない。
気のせい、思い込みが激しいだけ。
呪文じみた言い聞かせも通用せず、途方に暮れる。真正面から見据えて来る、意志の強さを秘める瞳を繰り返し思い描いてしまう。
私にとっての一大事をなんでもない事のように扱われて落ち込んだのは、意識されていない証拠で、滑稽なほど一方通行だと突き付けられたから。
分け隔てなくみんなに親切で慕われる彼をびっくりさせてやりたい理由なんて、この期に及んでしまえばもう一つしかなかった。

特別になりたい。
本当はずっと前から特別だった人の、特別になりたかったんだ。

シンプルでも難しい答えに鼻先を下げると、顔中の血液が集まって皮膚を破り、地面へ滴り流れていきそうだった。
頬が焼けて熱い。
悲しくもなければ泣く理由もないはずなのに、目の奥や鼻の付け根がつんとして、涙の気配に侵されている。



とは言っても、毎日俯いて暮らすわけにもいかない。
何食わぬ素振りでやり過ごす。
一方、反芻するみたいに思い返し数えていくと、自分のおかしさに打ちのめされるばかりで、猛烈な恥ずかしさが込み上げた。
驚かせて特別になりたいなんて、今時、小学生の男の子でも考えないだろう。幼稚としか言い様がない。どうしてそこで、好きになって欲しい、と願って自覚しないのか。バカ、私のバカ、大バカ、自虐じゃなくって事実としてバカすぎる、顔を覆って倒れ込み暴れたい夜もあった。
人知れず身悶え、時として態度にも出てしまう私と違って、佐伯くんは変わらない。
間違えて抱き付いた放課後、耳まで真っ赤になっていたのは幻だったのかもしれない、己の記憶を危ぶむほど何事もなかった振る舞いだ。
なんの垣根もなく、気さくに接して貰える都度、ふっと頭の芯まで冷える感覚に襲われた。
浮ついた思考が凍る寸前の水を被ったみたい、漠然と思いを馳せる。
きっと私の願いは叶う可能性が低くて、望みも薄い。
好きな人と話したり、手を振り合ったり、笑い掛けられると当たり前に嬉しい、心がはしゃいだ僅か一秒後、我に返る。
誰に対しても気持ちよく接する佐伯くんの事だ、別に‘私だから’優しいわけじゃないんだろう。
不意に目の隅が水滴で濁る。
手遅れの深い傷がつく一歩手前で、すぐさま振り払った。
とんでもなく高望みだし、いっそ傲慢だ。自分なんかがあんなにかっこよくて、色んな子から好かれている人の一番になれるわけがない。
有り得ない、夢物語、そんはずない、考えると何故か気が楽になり、テニスコートにはもういない佐伯くんの姿を偶然にも校庭や昇降口で見掛けた時は、得意な尾行術を駆使してこっそり眺める事が出来た。ストーカー、の五文字が脳内を駆けるも無視の一択でやり通す。
茶がかった髪の毛が十二月の弱い陽射しに透けてなびいている。
通った鼻筋と、きりりとした眉毛に、整い尽くした目元。
大口を開けて笑っていても崩れない顔のつくりに、羨ましいを通り越して呆れた。
クラスメイトだろうか、背中から結構な勢いで肩を組んで来る男子を振り返った時の、よく観察すると意外なほど太い首筋の張り。なんだよ急に、痛いって、と軽くいなす声は低いけれど怒ってはいなかった。薄い光を弾いた揃いの目が楽しげに細められる所を、最初から最後まで見届けたのち、息を詰めて、ゆっくり吐き出す。
踵を翻し凍えた壁へ背を預けた。
冷たい。
寒い。
スカートから伸びた両足が気温の低さに震えそうだったというに、体だけは無闇に熱かった。
海辺の街に降る薄日も遮られれば有り難いものだったのだなと気付かされる。
年季の入った廊下の壁が生み出した影に紛れるさ中、夏の朝の風景が混じり込んで来、しかしあぶくに似たあっけなさで消えていく。まるで真逆の季節のせいなのか、自分の気持ちが変わり過ぎているからなのか。よくわからなかった。
擦り切れた色の上履きの先へ目線を落とす。
好きになった相手が六角一の有名人だったお陰で、噂話や誰かの体験談が耳を澄まさずとも情報として入って来る。
元々モテていたけれど部や生徒会を引退してからはいよいよ度を越し始めたらしく、今月に入って何組の誰誰が告白した、勇気を出したけれどフラれた、最後に手だけ握って貰った、試しにでいいから、一週間だけでもいいから私と付き合ってと必死に食い下がったのをごく誠実に断られ、誰が相手でもそんな事言っちゃダメだ、優しく諭された等々、彼自身は決して語らぬ武勇伝を人づてに何度聞いた事か。途中から数えるのを放棄した私は詳細を知らない。
そうやって付き合う気のない子にも優しくするからモテちゃうんでしょ。
責める権利も資格もないくせにむくれて、おはよう、と例のきらきらオーラで笑い掛けられた朝、心底恨めしくなったりもした。
佐伯くんはすごくいい人だけどとんでもない罪作りだ。
私は、想いを叶えられなかった女の子を可哀相だと思いながら、どこかでほっとしている嫌な子だ。
沸いて噴き出る嫌悪感に消えて無くなりたいと苦しくなる度に、こんな風に自分本位の考えを捨てられない私が好きな人の特別になれるはずがないと思い知らされる都度、佐伯くんの無意識に違いない声や態度に引き止められてしまう。
なんでもない会話を持ち掛けられ、気付いてくれた時はほとんどいつも手を挙げて挨拶してくれるし、あからさまなからかいを含ませ、今日は誰の尾行中、もしかして俺? なんて軽口を叩いて来る。
掃除当番のゴミ捨てを手伝ってくれたりもした。受験生だというに遊んでいたのか、学ランを羽織らずに寒空の下ワイシャツ一枚の人が、持とうか、さらりと言う。
差し出された左腕は肘の近くまで剥き出しになっており、本日は晴天だがかなりの真冬日、信じられない事に袖捲りをしているのだ。色んな意味でぎょっとした私は、押し付けがましくない親切を受け入れるか断るのか、判断し忘れた。
佐伯くんが目元を和らげる。言ったろ。俺、普通に歩いてるだけで暑くなるタイプなんだって。最後に、ハハ、と爽やか極まりない笑声をくっつけてから、一歩も退かずに押し切った。。頼むから、半分貸して。多分、彼なりの譲歩だった。
参考書を開きつつ隣を歩いた廊下で、手元の問題を覗き込まれた時の近さ。
心臓の高鳴りを死にもの狂いで抑えて語った解き方を真剣な面持ちで聞き、わからなければ、待った、と左手で制し、もっと距離を失くした上で黒文字の並ぶ白面へ指を差す。
あんまり突然だったものだから、視界を割った左の人差し指の長さやでこぼこした関節、かさついた甲の部分、四角い爪の形、甘皮がちょっとだけ剥がれている所、まじまじと見入ってしまい、動揺という言葉じゃ追いつかないほど動揺した。
ご、ごめんなさい。
わけもわからず口走り、不思議そうに目を瞬かせた佐伯くんに、どうしてが謝るんだよ、謝らなくちゃいけないのは説明してくれてるのにわかんなかった俺の方じゃん、柔らかく笑われる。

だから好きでいる事がやめられなかった。
ロミオのあだ名が板についた人に相応しくない、暗い感情を抱えていても、諦めよう、もうやめよう、気持ちを忘れようとは全く思えず、更に落ち込んで縮こまる。
なのに傍にいると背筋が伸びてしまう。
名前を呼ばれるだけでも嬉しくて、ドキドキしてたまらなくなった。
口元がたるんで状況も忘れて喜びかけていたら、横合いで話す人の輪郭へ熱っぽい視線が向けられているのを肌で感じてしまい、足の裏がぐにゃと曲がって胸の軸に重りがぶら下がった。少しばかり首を捻れば、佐伯くんを一心に見詰める子が誰なのか、簡単に知る事が出来るだろう。
気持ちが天と地を行き来し続け、揺さぶられ翻弄され続ける。
(誰か助けて)
携帯端末に手を伸ばし、連絡先まではっきり浮かんでいるにもかかわらず、途中も途中で腕が萎えた。
なんでも言い合えたはずの友達にさえ話せないのが薄情者の証みたいで、情けないやら自己嫌悪やらで胸が塞いでどうしようもない。
苦しいのに苦しいと訴えられないのが辛くて、私は時折、秋の砂浜を大事に振り返った。
藍色に混ざった青、赤、紫、桃、朱。
折り重なって、やわらかな層になる。
滲んだ夕陽の色が瞼に染みた。
極限まで薄くなった雲の白が、灯りの元に向かって伸びている。
夜の暗さが背中から迫って来ていて、波音は絶え間なく鼓膜に打ち寄せ、潮のにおいが鼻を通ってしょっぱい。髪が撓って湿り気を帯びてゆく。
同じ景色の中で同じ海を見ていた佐伯くんは、最後までちゃんと私の話を聞いてくれた。
海風に浚われた時間は長かったけれど、傍にいる彼が纏う空気に冷たさはなく、押し黙られても変に重くなかった。
今でも鮮やかな夕暮れをシンプルに辿るだけで胸が詰まり、声にならない衝動で体に張り巡らされた脈という脈が暴れ始め、思い出に出来るのかなと不安に揺れる。
望み薄である幸せな結末を迎えられなければ、どうしたって自分でエンドマークをつけるしかない。
懐かしいな、かっこよかったよね、中学の頃は本当に好きだったよ、佐伯くんの全部を過去形で語るであろういつかの事を考えなくてはならないのだ。
一番の友達をなくしたと落ち込んだ時、本人にその気はなかったとしても支えてくれた存在なしで、果たしてまともに歩いていけるのだろうか。
恐怖に足が竦む。
けれど凛々しい声がどこからか届けば顔は勝手に上がるし、目はしらずしらず学ランの背を追った。
誰にも言えない事が増えていく。
堂々巡りの毎日をいくらか越えて、やっぱり無理だと唇を引き結ぶ。
好きという気持ちを捨てるのも、両想いになれる確率を弾き出すのも、叶わない未来に心を明け渡すのも、今の私には出来そうにない。







背中を曲げながらスニーカーの踵に指を引っ掛けていた佐伯くんが人影に気付いたのか、上目遣いでこちらへ視線を寄越した。
直前まで姿を認識していなかった私は喉をつかえさせ、心臓はといえば一瞬で限界まで膨れて、上履きのつま先で急ブレーキをかける。



古びた簀子の横にただ立っているだけで絵になる人が、何気なく笑った。
びくついて突っ張った両肩がすとんと落ち着いて、止まった呼吸も吹き返す。
広い背には相変わらず通学鞄しか乗ってない。
バレないように唾を飲んで一歩ずつ近付いてみる。

「佐伯くん。今から帰るとこ?」
「そうだよ。あ、言っとくけどテニス、やめてないからな?」

ラケットバッグ背負ってないからって勘違いしないでくれよ。
続けた彼の顔色が、立ち並んだ下駄箱の影になっていても明るかった。
もうわかってます。
何か釈然としないまま答えると、そりゃよかった、とポケットに手を突っ込み、靴先を二度、三度とコンクリートに当て整えている。
廊下を流れる冷たい空気が下から立ち上り、緊張に負けそうな私をそびやかす。
舌の根が急激に渇きを訴え始め、今出したとしたら声は完全に枯れている、様子がおかしいと怪しまれるかもしれない、猛スピードで起こりうる最悪のケースを押し並べ引き止めようとしたのに弾みが飛んでいった。

「あの、途中まで一緒に帰ってもいい」
「えっ?」

すっかり口に出してからどっと後悔が押し寄せる。
自ら響かせた声音は少し掠れており、情けなくなるほど弱々しい。
佐伯くんが目を軽く見開き、え、の形のまま唇を開けっ放しにしている所為もあって、変な汗が頭の後ろやうなじを滑り舐めていく錯覚を抱き、肩に掛けた鞄の紐を力いっぱい両手で握り締めてしまう。全速力で逃げ出したくてしょうがなかった。
ごめんなさい、何でもないです、なかった事にして下さい。
早口で捲し立てて今すぐ走れと本能めいた衝動が狂い大騒ぎする心臓の音によって増長し、視線は重力に引き摺られ落ち始め、撤退の後ずさりをしかけた、その時。

「…ああ、勿論!」

陽射しもないのに光に彩られた笑顔が、頷いて煌めく。
強張っていた全身が脱力し息をついた。
独りでに溶け出す頬や口の端をどうにか引き締め、じゃあ靴履き替えて来る、と言い置き自分のクラスの下駄箱目指して足を動かす。
妙にばたつかぬよう細心の注意を払いつつ出来るだけ急いでローファーを履き、汚れが付いていないか確認した。
羽織ったコートの襟や中のセーラー服の胸元までを整え、髪の毛先へと手櫛をかけ、最後にしゃがみ込み靴先についた砂を簡単に取り払う。
立ち上がって、よし、身だしなみ及第点、とひと呼吸。
いざ一歩踏み出したら、ほとんど同じタイミングでさっきいた場所のロッカーからひょこっと顔を覗かせた佐伯くんが、首を傾かせたまま笑う。
大した距離も走っていないくせしてにわかに息を切らせた私に理由を問う事もなく、いつも通りに歩み寄って来、空気をうっすら白く染める呼気の向こうで、印象的な瞳のどちらともを閃かせた。

「今日はきっとすごく冷たいぞ」
「え、うん。…ん?」

私の要領を得ない返事に、きらきらのイメージと違って分厚い肩が揺れる。

「ドア。びっくりして飛び上がるなよ。あ、俺が開ければいっか」

迷子の姉弟と出会った帰り道が一気に蘇って、大ごとに捉えていない語り口だとわかっているのに、不覚にも胸が熱くなった。
どんなに小さな出来事でも、佐伯くんは覚えてくれているのだろうか。
赤くなるなと唱えながら顔の筋肉を保つ為に頑張ってみる。

「いいよ、平気だよ、手丸めて指の甲で押すもん」
「別にそんな事しなくたって、俺に開けさせればいいじゃん」
「佐伯くんを顎で使う感じ悪い女子って人に思われたらどうするの? 私恨まれたくない」
「アハハ!」
「笑い事じゃない!」
「だからはさ、大袈裟なんだって。誰もそこまで俺達を注意深く見ちゃいないさ」

そんなわけがない。
この人は、自分がどれだけ女の子の注目を浴びているのかわかっていない。
というかおそらくあまり気にしていないのだ。普段の勘の鋭さを考慮すれば気付いていないはずがないので、それなりに悟った上で意外なくらいあっさり受け流している。
良いように取れば大らか、悪く言うと大雑把。
どうして皆から糾弾されないのか、思う一方で、でもそれが佐伯くんなんだよね、と不思議な納得をしてしまう。
考え方を変えれば上手く躱している風にも見えるけれど、無視するだとか好意を真面目に受け取っていないだとかマイナスなイメージがちっとも沸いて来ず、真摯に返しているのだろうなという想像しか出来なかった。
ふと、無数の棘が胸底をつつく。
決定的な場面を目撃したわけでもないのに、頭の中で浮かべるだけで痛みが差したのだ。
頬を薄赤く染める可愛らしい女の子に想いを告げられ、誠実で真っ直ぐに、柔らかでも強くはっきりと断る。佐伯くんの長所で、みんなから好かれる理由の一つだし、私だってそこが好きなんだと感じる瞬間があった。
でも、きっといつか優しい彼にピリオドを打たれるであろう自分自身を思うと、心が萎んで落ち窪む。

「そうだ、今日行ってみない?」

暗がりへ引き込まれかけた思考を断ち切る、涼やかな声が鳴った。
ほとんど反射的に鼻先を持ち上げたら、

「ど、どこに?」
「六角中予備軍の皆がいる、お手製テニスコート」

深く沈む私にすら届く目映いばかりの笑顔が揚々と続ける。
他の人からするとなんて事ない日々の一片が、焼き付いていたところから鮮やかに浮き立った。
アクエリアスのペットボトルを片手にぶら下げた佐伯くんが、体育帰りでジャージ姿の私を捕まえて、一緒に会いに行こう、特別な意味も何も秘められていないような、自然体そのもののお誘いをして来た時の事だ。
ぱっと開く花の姿に似た高熱が体の芯を奮い立たせる。

「……息抜きに?」
「ハハッ、そうそう!」
「今日あの子達みんないるの?」
「いると思うよ」
「佐伯くん…そんなハッキリ言い切るけど、誰もいなかったら私やだよ、かなり居た堪れないじゃない」
「じゃあその時は俺とテニスしよう。どっかからラケット借りて」
「ええ!? む、無理無理、初心者もいいとこなのに、テニス部副部長でエースの人となんて出来ないよ!」
「元、な。大丈夫、俺が教えるからさ! まあでも、心配しなくても皆いるって」
「………何を根拠に」
「俺達が六角中予備軍だった頃、あの場所でテニスしなかった日や集まんなかった日がなかった…ってのが根拠かな。どう、納得して貰えたかい? 理論派のさん」

すらすら並べながら昇降口の大きな玄関扉を押す仕草が、恐ろしくスマートだ。
様になり過ぎているのにわざとらしくなくて、自分があともうちょっと鈍ければ彼の親切に気付くのは敷居を跨いだ後だったろう。
全部が全部、さり気ない。

「……しなくもない。でも微妙」
「え、ホント? これでもダメだなんて、相変わらずキミは手厳しいなあ」
「ううん違くて。佐伯くんの経験則に基づいた根拠については納得したけど、佐伯くんのヒトタラシっぷりには納得してない」
「それまだ言うか」
「言うもん。佐伯くんが今のまんまだったら、一生言い続けるからね!」
「…ッフ、一生って、、それ…ハハ、アハハッ! そっか、一生ね。なら俺は、のそこまでの決意を引っくり返すくらいの意気込みで、早く人間の男にならなくちゃな。……頑張るよ」

校舎の影から抜け出し歩き始めると、ほの白い呼吸が流れて小さな霧になる。
霞みがかった少し奥で、凍てつく寒さの中に何かあたたかなものを見つけでもしたようゆっくり表情を溶かした人は、散々大笑いして気が済んだのかこちらを優しく見下ろした。
悪口以下の子供じみた喩えを微笑ましいと思っているのかもしれない。
目の端が笑み滲んでいる。冬の陽射しを吸い込んだ瞳の二つとも、静かに――でも強かに輝いている。


一緒にいたくても近過ぎると却って遠い存在に思えるし、切なくて苦しい。
些細な事でもいちいち気になってしまい、もうやめよう、決心したいのに、たった一言で覆される。
楽しそうに、嬉しそうに、何でもなく、いつも通り、どんな風にでも笑ってくれると幸せだった。
絶対に気のせいだと言い聞かせておきながら、もし万が一にも気のせいじゃなかったらいいのにな、口を閉ざしたまま自分勝手に願う。
舞い上がっては叩きのめされるのをいつまで繰り返すつもり。
冷静な自分がどこかで厳しく呟いていようが、傍で話せる時に生まれる鼓動の熱や胸に甘く染みる煌めきには効果などなく、何者も敵わなかった。


佐伯くんは夏の海が似合う爽やかな男の子。
気さくで話しやすいし、きらきらの笑顔が眩しく、心配してくれたりもすれば、からかったりもして来るけど、やっぱりとても優しい。

――私にだけじゃなくて、みんなに。

私はそういう佐伯くんが好きで、そういう佐伯くんが、時々すごく憎らしいのだ。





top  ×