02 真冬の潮風は毎年味わっていてもきつい。 ばらつく髪を押さえ、どうにか耐えようと時には目を瞑り、冷え切った空気の刃で肌が擦り切れる痛みに身を竦ませ、同じ環境にいるはずでも頬や鼻の頭を薄赤く染めるに留まり常と変わらぬ様子で先導する人の後ろをついていく事、十数分。 実際には見てもいないのに、いる、と断言した彼が正しかった事を知る。 はしゃぎ騒ぐ気配を感じながら緑色の金網で出来た入口をくぐり抜けた直後、遠くから弾んで来たのだ。 「あーっ! サエさん! と、あの時のお姉ちゃん!」 よく通る声だった。 左手を軽く上げ進む学ランの黒色に淡い陽射しが乗っかっている。 数歩遅れて足を動かす私は、なんとなく照れ臭くて上手く返事が出来ず、曖昧に笑うしかない。 元気のいい第一声を皮切りに、会ったのは一回きりだったけど見覚えのある子達がそれぞれのラケットを手にしたまま走り込んで来、案の定佐伯くんに抱き付いたり飛び付いたりで辺りは一瞬の内に華やぐ。相変わらず、どこへ行っても人気者だ。 「おべんきょう終わったの?」 「じゃー遊ぼうよ!」 「テニスがいい!」 「サエさんにサーブ権あげるから僕とやろ!」 細身でも骨っぽくて硬く分厚い背中を中心に、輪っかが生まれ始めている。 わかったから順番にな、と困り顔で笑うのもなんだか板についている人の輪郭を斜め横の位置で目に写し、陽のあたる場所だからか白く染まらぬ息の音を鼓膜で受け取った。左腕の袖にしがみ付かれて、少しばかり丸まった姿勢がなんだか可愛い。 遠目から見ても微笑ましい構図だけど勢いが想像以上で圧倒されていたら、 「ねえねえママに言っておまわりさんに助けてってお願いしたの、わたしなんだよ。お姉ちゃん、おぼえてる?」 制服のスカートをちょんと摘まれるので、目線を六角随一の人気者から剥がす。 大きな瞳を誇らしげに輝かせて見上げて来るのは、あの時、憧れのお兄さんに頼まれ事をされて嬉しそうにしていた女の子だった。 笑って頷く。 「うん、覚えてるよ。こないだはありがとね」 小さなまん丸の頬が満足げに緩むや否や、 「わたしもお礼する! ありがとうございましたっ」 軽い足音がもう一つ飛び込んで来、 「ぼくテニスできるようになったんだよ、すごい?」 続いて、腕を目いっぱい伸ばしジュニアサイズのラケットを全面に押し出す男の子。 今日は涙の気配や気後れしている雰囲気も纏っていない、いつかの迷子の姉弟だった。 ありがとうしなさいってママに言われたでしょ、眉を顰めたお姉ちゃんをよそに、まるで宝物みたいにラケットを抱き締めた弟くんがはにかんで首をのけぞらせる。身長差もあって話しにくいのかもしれない、膝を折り畳み同じ視線へしゃがみ込んだ途端、八重歯を覗かせた子が恥ずかしそうに靴裏を砂地に繰り返し滑らせ始めた。 「…ありがとございました!」 「ふふ、はい! どういたしまして」 「あのね、ぼくまだ元気だよ。かけっこ速いの褒められた! 今日さむいってママは言ってたけどさむくないー!」 脈略のなさに吹き出してしまい、傍近くで元気の有り余っている予備軍や応援団の皆に囲まれている人を思わず仰いだら、太陽を背にしている所為で影の落ちた顔が微笑む、ちょうどの瞬間だった。 綺麗な目尻がすっと弧を描き、やわい角度で細められる。 肩を軽く竦めた仕草から、今、佐伯くんが言いたい事が伝わって来た。 な? 俺の言った通り、キミの事を気にしてただろ。 別に何でもないワンシーンだったのに心臓が締め付けられて甘くなる。体の軸がたわんで崩れかけたのが自分でもよくわかり、慌てて鼻先を元に戻す。 「おねえちゃん、たのもしい?」 「え?」 「ぼくのことたのもしくなる? かっこいい?」 ラケットを抱え込んだまま体を僅かに捻って左右に振る様子に、決して遠くない過去を一気に思い出した。 佐伯くんと一緒に迷子の二人を交番まで送り届けた賑やかな時間の、繋いだ手の柔らかさや子供らしい体温も連鎖して蘇り、いよいよ本格的に声を出して笑ってしまう。 「あはは! すごいね、ちゃんと覚えてたんだ」 「たのもしいのはいいことなんだよ! パパに聞いた!」 「うん、いい事いい事」 「だからぼく、たのもしくってかっこいい?」 「うん、頼もしいしかっこいい!」 繋がっているようで繋がっていない会話にまた笑いが込み上げる。 「うっそーかっこよくないー昨日ママに怒られて泣いてたー!」 「ちがう、泣いてないもん!」 「ケンカしちゃだめなんだよ、ここみんなでテニスする場所だもん」 「ねー早くワンゲームマッチー!」 「サエさんラケット持ってないの? オレの使う?」 「今度サウスポーのやつとダブルス組むんだ、どうすんのが一番いい? サエさん教えて!」 浸る間もなく輪が広がり、どんどん収拾がつかなくなっていく。 予備軍の子達に比べれば年長者の私が宥めなくちゃいけないのだろうけど、全部がおかしくてろくに紡げられない。 天気予報通りの低気温でも、心があたたまる。 ぴょんと真横に飛び込んで来た気遣い屋さんの女の子がふくふくとして丸っぽい指をこちらの肩に預けたと思ったら、背中へ回って逆側の肩先に向かい同じようにジャンプした。特別意味もなさそうな行動がやけに面白くて、緩む一方の頬がいつまでも締まらない。ツボに入った、とはこういう時にこそ使うべきでは。笑いひくつくお腹を押さえ、‘頼りになるみんなの憧れのお兄さん’へ救助要請をする。 「佐伯くん助けて、息抜きどころじゃない」 「おいおい、が自分で巻き起こした騒ぎだぞ。どうにもなんなくなってから俺に振るなよ」 人聞きの悪い事を爽快な笑顔で放っておきながら、きちんと手を差し伸べてくれるのが佐伯虎次郎という男の子だ。 テニス部副部長と生徒会副会長を務め上げた実績と経験を元にしてか、方々へ散らかるばかりだった大騒ぎをひと声でまとめ始めた。楽しげな雰囲気を損なわぬまま皆を導く様は、幼稚園か小学校低学年の先生に似ている。 陽の落ちる時間が早い季節だという事と小さな子達の門限を盾に、各自しばらく練習なり遊びの約束なりをこなした方が良い、俺とテニスするのはそれからだ、と例の眩し過ぎる笑みで場を収めた人は、素直に言いつけを守る為に走り出した子達を少しの間眺め、前触れもなしにくるりと踵を返す。 立ち上がって色んな意味で見惚れていた私は凛々しい眉の下で輝く瞳とほぼ真向いでかち合い、反射的に肩を微かに竦ませてしまった。 おそらく一秒にも満たない視線の交わりが、全部の音を遠ざける。 心臓が脈を打つ気配すら消えていた。 「嬉しそうだったな」 だけど、その澄んだ目を揺らして笑う佐伯くんのお陰で一気に取り戻す。 黄色いボールのインパクト音やきゃあきゃあと高く伸びる声、吹く風の冷たさ、指先に集まった熱、様々が私の呼吸に息を吹き込んだ。どうも無意識に止めていたらしい。 主張し始める動悸を抑えながら、肺を膨らませる。 鼻を通った空気が凍り掛けていて瞼が薄く濡れた。 「嬉しそう?」 「初恋のお姉ちゃんに会えてさ」 またよくわからない事を言い出している。 「あの子が助けて貰ったのを忘れてない、いい子なだけでしょ! 私は……そこまで助けてあげてないけど」 「それだけだったら、あんなに褒められたがったりしないだろ」 「そうかなあ…あれくらいの年頃って、誰が相手でも褒めて貰えたら嬉しいんじゃないの?」 「え、、まさか聞いてなかったのか? 俺は横で聞いてて感心したのに」 何が。どれを。どういう意味。 溢れる疑問は投げる前に片付けられた。 「小さくても男だからカッコつけたいんだ」 気付いてやれよ、と優しくなびく呼吸の跡で空気がうっすら染まる。 「あれもこれも出来るようになった俺はもう大丈夫だから、ってさ。安心させてやりたいんだろ。で、その上でカッコいいって褒められたいんじゃん?」 薄着でも不思議と寒くなさそうな彼が、ズボンのポケットへ両手を突っ込みながら両肩を竦める。まるで自分の事みたいに語る唇の端は穏やかに持ち上がり、覗く白い歯が夏より陽射しの弱まる十二月でも眩しい。 どうしてか鼓動が半端にずれ、返す言葉が少しだけつかえて、いつも通りに始まってくれなかった。 「…でも、別に、色んな事出来なくて…大丈夫じゃなくたって、かっこいい事あるでしょ?」 「そんな風に言ってくれる相手にこそ思われたいな、俺だったら」 「……ややこしいよ!」 「そう? すごいシンプルじゃん。好きな子に好かれたい。それだけの話さ」 片想いをしている人に、好きな子、と紡がれ心臓が踊ってしまう。 突然転がり出て来てはいないし、話の流れで自然に繋がった音だ。自分に向かってのものじゃないのに、胸が切なくきゅうと締め付けられた。視界が狭まって潤む気配がする。ただ立って聞いているだけなのに酸素を上手く吸えない。 いいなぁ。 佐伯くんの彼女になれる子は、この涼やかな声で好きって言って貰えるんだ。 胸の内に呟き落としただけで心が震えた。 テニス部のみんなが通い詰めたらしい練習場は海岸沿いの道から外れている為、吹き込む風は凍えていながらも緩やかで、揺れる髪の毛先がコートの襟に引っ掛かって黙り込んだ。 陽の差す方で、小さな背のいくつかがはしゃぎ駆けている。 「…さて! じゃ、。早速やろう」 利き手の左でうなじを雑に掻いて払った佐伯くんが目線を下に落としてから、一歩二歩と進む。 浸っていたのと説明不足な言葉の所為でついていけない私を振り返り、破顔一笑。 「俺とテニス。今、向こうの倉庫からラケット取って来るな」 まばたきが途中で見事に固まった。 「えええ!? 待ってよ、出来ないよ! ていうかそれ、誰もいなかったらって話だったじゃない!」 「よく言うだろ? 最初は誰でも初心者だって」 「そういう事を言ってるんじゃ、」 「いいからいいから。大丈夫、キミは足が速いし運動神経だっていいんだし」 「は、話が違うー!」 悲鳴にも近い抗議は、高らかに伸びた笑い声に打ち消された。 ビジュアルだけならきらきらの完璧な王子様なのに、どうも一度言い出したらきかない頑固な所があるようだ、私の切実な訴えを背中で聞き流したあげく、すらりと長い足で倉庫とやらを目指し歩き始める。 引き止めようと慌てて踵を持ち上げたら、勘も視力も良い人はいち早く察したのだろう、爽快に笑い飛ばし、あまつさえ勢い良くバッと走り出す。 驚きが舌上を転がって弾んだ。 ポケットに仕舞い込んでいた手を抜いて腕を振る体育の授業中に見せるようなフォームに、逃げ切りへ対しての本気加減が窺える。そのくせまた声を上げて笑っているのだから、辺りを元気に駆け回っている予備軍の子達とやっている事が変わらない。 佐伯くんのバカ! 悪ふざけやめて! 焦りと怒りめいた感情に捕らわれ、遂に叫んでしまった。 そうして人の足を速いだなんだと評したくせに、何倍も上をいくスピードで遠ざかっていった背にやっとの事で追い付いた時、今までで一番いい笑顔なんじゃないかと思うくらい晴れがましく私を迎えた人の両手には、ラケットが二つ。 最早言葉もない。 なし崩しに決行された佐伯コーチのテニス教室は、想像よりハードじゃなかった。 苦笑気味にすぐに暑くなると助言されたものの信用し切れず、コートを羽織り着膨れた私にも出来る簡単な基本の構えと打ち方を丁寧にわかりやすく教えてくれて、古びたネット越しに誰が見ても当てやすいボールを打ちこむ彼は、始める前から学ランを脱いだワイシャツ姿だ。 見てるだけで寒い。 率直に訴えれば、ハハ、と煌めく笑顔で封殺された。 左手で振るわれる誰の物なのかわからないラケットが引き続き、使い込まれた風合いのボールをぽん、ぽん、と柔く弾ませる。 山なりのカーブを描きやって来るそれを最初は目で追うだけで精一杯だったけど、繰り返していく内にフレームを掠めるようになって、当たる箇所が徐々に中心の方に寄っていき、上手いよ、ホントにテニス経験ないの、何の含みもなく賞賛して来る爽やかさに唆され、珍妙なインパクト音が減っていった頃。 快音と称しても怒られはしない程度の響きと一緒に、返した黄色が手作りテニスコートの隅へ良い具合に跳ねたのだった。 「おっ、今のいいじゃん」 「やった打てた!」 ほとんど同時に声と声が転がる。 頭の後ろで方々へ散らばるか手前でツーバウンドするか盛大に見逃すか。 ともかくまともに向こう側のコートへ辿り着けていなかったボールが初めて彼の横をすり抜けたので、思わずバンザイの恰好で喜んでしまった。 首から上を捻り初心者の軌跡を追っていた佐伯くんが、おかしそうな表情でシャツの袖を捲り、ややあって目を細めてにこっと笑う。 「おめでとう、記念すべき第一打だな!」 「記念なの?」 「ああ。少なくとも俺は嬉しかったよ。昔、自分だけのラケットを貰えて、初めて相手コートにボールを返せた時はさ」 「……佐伯くんのテニス出来なかった頃って、あんまり想像つかない。ずっと上手な気がしてた」 「アハハ、そりゃ光栄だ。けど買い被りすぎ! 出来ないまんまの事だってまだまだあるし」 佐伯くんがまだまだだったら私なんかスタートラインにすら立てていない、それ以前の問題だ出直せと叱責を受ける所だろう。 今の逆に嫌味です、よっぽど言ってやろうかと思ったが、じゃあ次は、と喜びもつかの間さっさとレッスン内容をステップアップさせて来るので、機会を見失った。 まんまと暑さに負けて分厚い上着の前を開け放っていた私はもう反論しなかった。 吐く息が少し荒れて熱を持つ。 冷えた空気を浴びた頬も同じくらい熱い。 佐伯くんはあえて軽くて持ちやすいラケットを選んでくれたのだと、疲れを訴えない右腕が証明している。 こちらがどれだけ飲み込んだのかを見極め、教えのレベルを決めている様子の、ひょっとしたら体育の先生よりコーチらしい彼と、察するに六角中テニス部がこなしていた事に比べものすごく簡単な打ち合いを始めたら、当然というか何というか、練習や遊びの約束に励んでいた子達がサエちゃん達だけずるい酷い僕も私もと口々に集まって来た。 ゲーム感覚の試合形式にも達していなかったのに、子供達の目には鬼監督としごかれる初心者に見えでもしたのか、ハンデをやらんとはどういう了見だ、とばかりにそれぞれのラケットを手に駆け寄ってくれて、肩を怒らせ意気込み、困ったふうでもなく口元を緩ませる六角が誇る男前と対峙する。 こういう企画、テレビで見た。 とっくにコートを脱ぎ捨て制服で立ち向かっていた私が堪え切れず笑い零すと、そっちの助っ人の数多すぎないか、と居もしない審判へ抗議するポーズを取った人は大らかに肩を揺らす。鏡がないからわからないけれど、多分私と佐伯くんは同じ顔をしてコートにいると思った。 大乱闘の名に相応しい男の子達の暴れっぷりと盛り上がり、サーバー・レシーバーもごちゃ混ぜになったルール無視の打ち合い合戦、お正月の白熱した羽子板、もしくは延々と続くバレーのトス上げ、色々当てはめようと試みたがどれもしっくり来ない。 俺とテニスしよう、の言葉が正しいのか正しくないのか考える暇もない無茶苦茶な展開が本当におかしかった。笑い過ぎてお腹が痛くなる。 佐伯くん対予備軍プラス私、とこちらが数的優位に立っていたにもかかわらず、元六角中テニス部のエースは鮮やかなボール捌きを見せ、付け入る隙を与えない。 かといって初心者の穴を狙いはせず、私がかろうじて打ったボールもあからさまな手心は加えずちゃんと返してくれて、子供達の容赦ないショットによる左右への振り回しに、うわちょっと待った、言いつつも笑いながらギリギリの体勢で凌ぎ切り、時には僅かにあいたスペースへ知識不足な私にもわかるくらいの、それはもう綺麗なボレーを決めて、やっぱサエさんすっげー! と目を輝かせた将来テニス部を担う男の子達に羨望の眼差しを送られたりと、散々すごさを発揮した後の事だった。 一旦休憩するとか今日はお終いと言えば不満が噴出すると考えたのかもしれない、どう見たってこっちのが不利だろ、俺にも作戦を立てる時間をくれないか、と、いかにもまだこのゲームを続けるような口ぶりで場を落ち着かせた人の、中学三年生にして既に出来上がり過ぎている人間性に声どころか呼吸も一瞬忘れた。 あまりにもスマートなやり口に驚きや感動が却って生まれない。 じゃあオレらも作戦会議だ、今日は絶対サエさんに勝つ、飛ぶように走り去ってコートの外で団子になる子達を眺め、いつの間にか弾んでいた肩やら息やらを整えようとしていたら、 「、大丈夫? ごめんな、ここまで付き合わせるつもりなかったんだけど……少し休もう」 ひょいと軽々ネットを飛び越えた佐伯くんが気遣わしげに言う。 終いには、何か飲む、お詫びに俺買って来るよ、とまで付け足すので、思い出し掛けていた呼吸をもう一度忘れてしまった。 走り回った所為じゃなく、心臓が苦しい。跳ねて踊って頭のてっぺんまで熱い血液を押し出し、肺に収まっていた空気が切なげにわめく。体のあちこちで高熱が詰まり昂ぶっていた。 だけど最後に残ったのはごく単純な気持ちだ。 「ううん、平気。楽しくて喉乾いたとか疲れたとか思わなかったよ。でも髪ゴムくらい持ってくればよかったな、汗かいちゃった」 好きな人に、佐伯くんに優しくして貰えるのが、一番嬉しい。 浮き足だった心が口を軽くする。 なんとなくじっとしていられなくなってしまい、へらへら笑いながら乱れた髪の毛を頭の後ろで束ね結わえてすぐ流した。冬の温度とまともに触れたうなじにうっすら張り付いていた汗が一瞬で冷える。このままでは風邪を引きそうだ。冷静な自分の苦言を黙殺する。 休まなくてもいいから、もっと知りたい。 今の六角中予備軍の子達の事も、かつて六角中予備軍だった佐伯くんの事も、これまで聞いて来なかった、佐伯くんが楽しいよと語ったテニスの事も、もっとたくさん。 凛とした眦からふと力を抜いた私の好きな人は何事か答えようとしたのだろう、唇を開き掛け、 「ねえねえサエちゃん、手見せて!」 横合いからの低い背によって振られて傾いた。 同年代の男の子より早く大人になるのが女の子というもの。先ほどの少々荒っぽい遊びには参加していなかった、例の佐伯くんに憧れている子が一生懸命に背伸びしている。 話の腰を折られたといえば折られたのかもしれないが、微笑ましさが勝った私としては不思議そうに首を傾げる彼を目にしてただ笑う。 微かに腰を屈めるだけに留まらずきちんと視線を同じ高さに合わせてあげてから大きな手を差し出す人と、お姫様の前で膝を付く騎士然とした姿勢の‘お兄さん’の肩に腕を乗せ覗き込む女の子の影が繋がり、でこぼこ型のオブジェのようになって、時間の流れを感じさせるテニスコートへ落ちていた。 「やっぱりー、マメなくなってないもん!」 後ろで手を組み上の方からお邪魔した私をよそにふっくらとした人差し指が仰のく幅広の掌を指し、持ち主はというとまん丸の頬にえくぼを作る。 佐伯くんは、え、と無防備に呟き、普段は意志の強さを秘める瞳をしきりに瞬かせた。 「ママがね、テニスしにいくとこいっつも見るっていってたよ! 朝もね、寒いのにいっぱい走っててね、トレーンニング? して偉いねーっだって。サエちゃんはどうしてみんなにないしょにしてるの? ばれたらお勉強しなさいって怒られちゃうの?」 あのね、でも大丈夫だよ? わたし誰にも言わない。ひみつにするからね! 極めつけ、心なしかボリュームの下がった内緒話めいた囁きを零し、ひと言返すより随分素早く駆けて行ってしまう。 置き去りにされた独特の雰囲気に一拍の間が出来る。 呆気に取られた私は、佐伯くんがあちゃーと言わんばかりに手荒く前髪を掻き上げるまで、すっかり立ち止まっていた。 「……バレちゃったな」 膝小僧に手を当て折っていた足裏を伸ばし、少しだけばつが悪そうな表情で両眉を持ち上げる。 「でも、これで信じてくれた? 前にやめるわけないじゃんって言ったろ。俺はテニスから離れたりなんかしないさ」 強くなりたいから…強くなる為に学校やいつもの練習場所じゃない所へ行ってるってだけだよ。 続く明るい口調に釣られて、糊付されていた唇が潤いを含む。背中の下で組んだ指先に自然と力が入った。胸の奥で高鳴ってはやまる。 「………武者修行してるみたい」 「ハハッ! 渋くていいね、それ!」 「みんなに言ってあげればいいじゃない。葵くんとか心配してるよ」 今日相手してくれるって約束だったでしょ、たまには顔を出してよ、言い募る現テニス部部長さんの顔が脳裏に浮かんだ。 「だとしてもあんまデカい声では言いたくないな。だってさ、カッコつかないじゃん?」 ポールに立て掛けてあったラケットを拾う横向きの鼻筋が恐ろしく整ってい、微かに俯いた分だけ下がる前髪の向こうに真っ直ぐな光を宿す瞳が垣間見えた。 カメラのピントが急に絞られて合っていく感覚に、眩暈すら覚えてしまう。 見えない位置で曲げて握り締めた掌が熱い。 喉に腫れぼったい空気のだまが集まる所為で呼吸も危うくなった。 (そんなの、全然気にしないのに……佐伯くんはそのままでかっこいいよ) 本当に心の底から強く思ったけれど、口に出来るはずがない。 振り切るつもりでわざと弾ませてみる。 「かっこよさにこだわるんだね、我が六角中のロミオって!」 「いつまでそのネタ引っ張るんだよ? 俺がロミオってガラじゃない事くらい、キミならもうわかるだろ」 「だけど佐伯くんすごく似合ってたよ」 「褒めて貰えるのは有り難いんだけどさ。悲劇で終わる男が似合うって言われるの、微妙な気持ちになるんだぞ」 「ハッピーエンドがいい?」 「そりゃあね、誰だって恋人とバッドエンドなんて迎えたくないじゃん。散々ジュリエットに私を愛しているなら一緒に生きてって言われたのに、結末あんなだし。話や舞台としては傑作なのかもしれないけど、俺は嫌だな。ロミオもジュリエットも俺達とそう変わんない年だったんだぞ? 、自分の身に置き換えて考えてみろって。今この年で大事な人達と死に別れたいか?」 「それは……嫌かも。言われてみればロミオって死んでも構わないとか死ぬ時は一緒だとかすぐ言ってたもんね」 あぁそうそう、よく覚えてるな、と何気なく相槌を打つ笑顔の佐伯くんは、あのお花見会で一体何人の女子がざわめいたか、遠巻きに眺めているだけだった私が覚えているほど、学内が自らが演じるロミオの話題で持ちきりだったのかを、きっと知らない。 ※ 「はあ? やだよ!」 何年か振りに話し掛けられたのは、迷子の姉弟と再会を果たして三日後の放課後だった。 長らく挨拶さえ交わしていなかった小学生からの同級生に呼び止められ、結構な勢いで頼み込まれたのだ。 好きな人とは幸せになりたいと普遍の望みを爽やかに語った彼に、彼女がいるのかいないのか、24日に予定があるのかないのか、聞いてみてくれないか。 唐突過ぎる上、数ヶ月前ならまだしも今の私ではかなり躊躇する難題である。開口一番に断った。 「そこを何とか頼むってマジで!」 「嫌だよ、聞きたいなら自分で聞けばいいでしょ?」 「オレらみたいな外野が聞いたってサクッと流されるだけなんだよー」 「佐伯くんがサクッと流したい話題をなんで私が持ち出さなきゃだめなの。絶対やだ」 師走も半ばをゆくと校内の雰囲気はどことなく浮つき、受験生とて我慢しつつも意識してしまう。それがクリスマスというものなのだ。 薄曇りの廊下はキンと底冷えしており、耳の奥、鼓膜まで痛みを訴えて来そうな冬の様相に軽い足踏みをする。寒くてじっとしていられない。 幼なじみと言えるほど親密でないものの幼稚園の頃から見知ってはいた相手に、私はあまり良い思い出がなかった。 「お前も話逸らされたら逸らされたでそんでいいから! 聞くだけ聞いてみてくんね? ほら、アレだよ、幼なじみのよしみってやつで!」 「名ばかり幼なじみじゃない。昔、私の事散々サルとかつまんない真面目人間とか言って来た人の頼みなんて聞きたくないもん」 そこそこ薄れていた嫌な記憶が一瞬蘇るので、つい眉間へ皺を作ってしまう。 中学生に上がって繋がりが希薄になり、互いの交友関係も重ならなかったお陰で忘れていたのに、無茶苦茶なお願いに影響され苦味が舌の付け根をつつく。 「そう言うなってぇー」 「やだ」 「えー? おいー昔の話じゃねーかよ、そんくらいもう許せよ」 こういうとこが本気で腹立つ。 不毛だとわかっていた為、口には出さずに飲み込んだ。 平気で厚かましい事を言ってのける目の前の彼を極悪人認定しているだとか殺したいほど憎んでいるわけではないけれど、佐伯くんと同じ人類で同じ男子で同い年なのか真剣に疑いはする。どうしてこうも差が出るのだろうか。 「お前しか思いつかねんだって、オレが知ってる女子で佐伯と仲良いの」 「えっ!?」 思いがけないタイミングで落ちた私じゃなきゃだめな理由に喉が引っくり返った。 なんだよ、と訝しげな微妙な幼なじみの存在を忘れるくらいの動揺が心臓を走る。 仲良い、女子、私しか思いつかない。 抽出された簡単な単語のみが頭をぐるぐる巡り離れず、喜んでいる場合じゃないとわかっているのに浮足立つ。 周りに仲が良いと捉えられる程度には、近付けているのかもしれない。 「えって何、良くねーの? 友達じゃねえのか」 「佐伯くん、は……友達。……友達…友達? なの…?」 「いやオレに聞かれてもな」 じゃあ今日から友達ね等と言い合っていないし、連絡先を知ってはいるが別に私だけの特権でもないだろう、私服で遊びに行った事なんてあるはずがなく、何より私の気持ちがとっくに友達を通り越している。 諸々の否定材料が生まれ素直に頷けなかった。はいともいいえとも答えられない。どっちにしろ嘘つきになるような気がする。 「なーほんと頼むって!」 沸き出した悩みを乱雑に断ち切る声に引き戻された。 「お願いしますさん!」 「…ちょっと…」 「いや大明神、神様様仏様!」 「もう、うるさい! 変な事おっきな声で言うのやめて!」 今すぐ全速力で振り切りたい衝動に駆られる。 「言っとくけど頼んでんのオレだけじゃねーぞ! 色んな人助けると思ってさあ、恵んでくれよ慈悲って感じの、なんかそれっぽいやつ」 「……どういう意味?」 「オレの友達の妹が佐伯を好きなんだって」 「…………別に、言えばいいじゃない。どうしてわざわざ私を通して、そんな遠回しな質問しようとするの?」 「その子他校生なんだよ。しかも県外の寮生っ! どーにか抜け出して会って告りたいんだってよ。んなもんで暇な日とか、あ、できればクリスマスな、彼女いんのかとか聞いときたいみたいでさ」 絶句した。 佐伯くんがどれだけモテているのか嫌というほど思い知っていても、まさか本当に千葉を飛び出しているとまでは考えつなかった。 千葉の古豪として名の通った六角テニス部は他県の学校とも練習試合をさかんに行っているし、大きな大会には必ず出場し活躍もしていたから、おそらく妹さんはその時に好意を抱いたのだろう。 わかるけど、少し怖気付いてしまう。 落ち込む、へこんだ、と言い換えても良いかもしれない。 そこまでたくさんの女の子に好かれる人へ片想いしているだなんて、絶対に射止めてやろうだなんて大それた決意はしていなくても、身の程を知れと一刀両断されるのでは。 急に肩身が狭くなって縮こまる。 例えば夜の砂浜を歩き、波打ち際が暗闇に飲まれ陸地との境が見えないような、頼りなく心細い気持ちに襲われた。 他愛ない話が出来る距離にいる私ですら身が竦むのに、顔を目にする機会もない他校生にとっては、決して大袈裟な表現じゃなく、それこそ藁にも縋る思いでお願いしたに違いない。 関係ないと断るのは簡単だ。 私だって佐伯くんが好きなのだから叶えてあげられない、貫いたって構わないだろう。 「そんでさ、もし佐伯がはぐらかさねえで色々答えてくれたらコレ渡してくんね? その子の連絡先とか手紙とか入ってんだ。迷惑だったら返事しなくていいし読むだけでもいいから、って」 と、預かり物と思しき慎ましい紙袋が差し出される。 一目見ただけで胸が痛んだ。 激しい主張はしていない品の良い可愛さ。でもすごく気を遣った事が伝わる、精一杯の贈り物。気持ちのいっぱい詰まったラッピングが、袋の開け口から微かに覗いていた。 佐伯くんの笑った顔が頭をよぎる。 と私を呼ぶ声、おはようの響き、いつも真っ直ぐに向かって来る眼差しと、たまに人をからかおうとする時の、特有の雰囲気。 体の一部みたいにラケットを操って、思うがまま自由自在に黄色いボールを跳ねさせる。 寒さの募る朝に夕に海岸沿いの道を走り込み、強くなる為に日々を重ねていく姿を、実際見てもいないのに幾度となく思い描いた。 どうしたらいいのかわからなくなるくらい好きな気持ちと、好きな人が自分以外の誰かに強く想われている切なさが混ざり、でも多分、みんな私と同じなんだ、確信出来るから見ないフリで拒めない。 いわゆる恋敵に理解されても嬉しくないだろうけど、どうしたってわかってしまう。同じ人を好きになった以上は仕方ない事だ。 私だって偶然が重ならなければ、佐伯くんが気性の良い、いくら親友の為とはいえストーカーじみた真似をする同級生にも親切な男の子でなければ、遠くで眺めているだけだった。 幸運の積み重なった先に今がある。 それ以外は、星の数ほどいるかもしれない彼を好きな子達と何ら変わりない。 傍にいたくて自分の力で勝ち取ったものなんてほとんど何もない。 思い切った行動を取る他県の寮生の子の方が、よほど努力しているのではないか。 間違いだったとは思わないし友達が幸せになれたのだから揺らいではいない、だけれどデータを集めた上で計画を立てた自分は恐ろしく打算的で可愛くない女子だと突き付けられたようで、気が滅入る。 胸底を突く嫌悪感がお腹の中までくまなく掻き毟り、肺や心臓を振り回した。 目には見えない圧力に肩の上からのし掛かられて体が沈んで重い。 一緒に帰ろうと誘っておいて、口にした傍から撤回し逃げ出したいと後悔する臆病者に、こんなに想われる佐伯くんを好きでいる資格なんかないとさえ思えて来る。 息が喉元で詰まって変に熱かった。 もし私が、勇気を振り絞った贈り物の持ち主だったとしたら、蜘蛛の糸に近い救いを断ち切られても落ち込まないし諦めない、とはとてもじゃないが言い切れない。きっと絶望するだろう。勘違いや思い違いをするなと戒める冷静さが残ると同時に、他の子の置かれた状況や感情を自分自身にまるきり重ね同調してしまうのも事実だった。 『好きな子に好かれたい』 ついこの間、奏でられた音色を静かに辿る。 彼の言った通りにシンプルで、でも叶えるのはすごく難しくて、とても大切な事。 人の流れが乏しくなった時刻の廊下に流れる冷え込んだ空気を吸って、覚悟を持っての決心とは取られぬよう気を付けながらゆっくり吐いた。 「………いいよ、わかった。聞くだけ聞いてみる」 「おおおマジ!? ありがと、助かるわ!」 引き受けた途端、やっぱり嫌だ、突き返したくなる己にいい加減愛想を尽かしそうだ、なんで私ってこんななの、悲しいやら情けないやらぐちゃぐちゃの胸の内を整えられぬまま右手を持ち上げ、やけに重く感じられる包みを受け取り――、 「そういう事は本人に直接言うべきだろう」 後ろで響いた低い声に背中の皮膚が慄いた。 「おわっ佐伯!」 振り返るより先に真横を事故とはいえ抱き付いた事のある学ランの黒が通る。 全身の血が凍り水になった。 私の指に引っ掛かっていた淡い色合いの紐がさっと引き抜かれていく。 持ち去ったのは、他ならぬ佐伯くんだ。 「周りを巻き込むなよ。あと俺は別に流してないし、はぐらかしたりもしてないからな」 「うええ、そっから聞いてたのかよー。人が悪いぜ、だったらもっと早く名乗り出ろよ」 「割って入ってって良い空気じゃないと思ってさ」 「だからって今来るか、ふつう?」 仰いだ横顔がいつも通りに整っている。 視線の行方はいつも通りじゃなかった。 「まーいいや。全部聞いてたんならワリィんだけどよろしくな! オレが言えた事じゃねーかもだけど、考えてやっといてよ」 「ああ、わかった」 佐伯くんが、さっきからずっと、こちらを見向きもしない。 どくどくと血管がうなって、緊張感に似てはいても確実に異なった重たい靄が胸に掛かる。心臓の拍に足元の覚束なくなる不安とほの暗い恐怖が注がれ体の軸がぐらついた。 うなじを冷たい何かが舐めさする。 口を挟もうとして、しかし形にすべき言葉が見つからない。 幼なじみ以下の同級生が行ってしまうと、車の通りどころか人影一つない深夜の県道みたいに場が静まり返った。 いくら授業の終わった放課後といえども校舎内にはまだたくさんの生徒や先生がいて無人であるはずがないのに、音がしないのだ。 恐ろしいまでの静寂で耳が震える。急激に干上がった喉や舌が空回り、肋骨を打つ不安定極まりない鼓動にマイナス思考を煽られた。 どうしよう、もしかして怒ってるのかな。 酸欠状態の脳を必死に動かし考えてみても、つま先もろくに動かせない。おたつく足や腕は完全に行き場を失っていた。 不意に、びくっと背筋がたわむ。 紙袋がかさつき擦れたからだ。 気付いた後で原因を知る。 体の反応が数秒早く自覚はかなり遅れた。 贈り物を持ち替えたらしい人が、あいた掌をポケットへ突っ込んでいる。 「関係ないにも迷惑かけたね」 答えられなかった。 文字に起こせば末尾にごめんねと謝罪の一つでも付いていそうなものなのに、全く以って気遣いには聞こえなかった。 ぱん! と目に見えない透明な壁で仕切られたみたいだった。 近寄るなと跳ねのけられたのでも言外に訴えられたわけでもないけれど、絶対に普段の佐伯くんじゃない事だけは確かだ。 どんどん温度を失っていく脈が体の裏を叩く。いやに打ち響く鼓動で指先から凍り始め、底冷えした手で胸の芯を握り込まれた心地に追い詰められてしまう。潤いの失せた唇が開いてくれない。突然訪れた不穏な空気に思考が追いつかず、困る事さえ出来なかった。 もう一度繰り返す。 どうしよう。 ちっとも熱くない汗が背後ろを滑っていく。 恐れをなして引っ込んでいた唾を無理矢理呼び戻し、あるだけの力を掻き集めて、いつの間にか錆び付いていた声帯をぎこちなく動かした。 「ぁ、あの………佐伯くん」 「何?」 予想に違わず酷い響きを、無きものとして扱う返しだった。 どうしたと尋ねて来てはいる、無視されてもいない。 でもそれだけだ。 明らかな不快感や怒気は感じられない顔色なのに、かっこいいなと見惚れた顔立ちも変わらないのに、私の答えをじっと待ってくれている所はいつも通りのはずなのに、凛々しい眉の下で光を吸う揃いの瞳に強い意志も熱も映ってはいなかった。 無感情では決してなく、何かが渦を巻いて揺蕩っている。だというに明確には伝わって来ず、眼差しが重なっていても本当の意味で合ってはいない、間違った言い方なのかもしれないけれど――怖い。 傍で声を聞くのを躊躇うほど、怖いのだ。 こんな佐伯くんは初めてだった。 「……そ…それ、も、持ってく、の?」 脳が警鐘を掻き鳴らしている、口元は勝手にわななく、いよいよ肘の下まで血液が後退し寒かった、剥がしたくとも目を逸らせない、めまぐるしく回り回る。 主語のない問い掛けにも理解を示したのか、ふっと鼻先を下げた人が顎をしゃくるようにして、うん、と頷いた。 「どっちにしろ俺が応えなくちゃいけない事みたいだしね」 頭の天辺を鈍器で殴られた衝撃で視界が真っ暗になる。 黙っておけばいいものをわざわざ聞いておいて、先ほどまでは自分の手で渡すつもりだったくせに、いざ受け取る意志を目の当たりにし、浮き彫りとなった可能性の濃さに奈落の果てまで落ちていく。 ついさっきも、考えてやっといてよ、乞われ、わかったと受け入れていた。 (受け取ってどうするの? わかったって何が。何を考えとくの。応えるってどういう風に。佐伯くんは、自分の事好きだって言ってくれる子と……付き合うの?) 次から次へと喧しいざわめきが体中へ散らばり一つにまとまってくれず、背中を内から外から掻き立てて縛っては痛め付け、込み上げた怖気が呼んだ鳥肌に支配される。 見知らぬ女の子の隣で嬉しそうに笑う佐伯くんが脳裏で無情に煌めき、胸の奥深くを刺された感覚に思わずえづいた。 「それじゃ。俺もう行くけど、一人じゃ危ないし暗くなる前に早く帰れよ」 言い落とした直後、足早に去って行く。 立ち尽くす私をちらと横目で確かめたのが最後で、後は一度も振り返ってくれなかった。 廊下の角を曲がって消える背中を呆然と眺めて終わる。 白昼夢かと疑うほどあっけない。 うなり猛る心臓の音ややたら大きく反響する呼吸と差し込む強烈な痛みが、夢でも幻でもない事を証明していた。 私、またねって、今聞いてない。 だって佐伯くんが言ってくれなかったから。 気付いて数秒も経たぬ内に両目のふちをぶ厚い涙の走りが取り巻き、塩辛い蓋のようなもので喉や鼻の奥が塞がって苦しい、なんで、とみっともなく喘ぎ、しくしくと痛む心が膿んでいく。 なりふり構わず泣き出したいのにどうしても泣けない。 何もわからないし思い付かないけど、ひょっとして私は取り返しのつかない失敗をしたのだろうか。 慣れ親しんだ校舎の窓や傷のついた柱、廊下の淡色が濡れて歪み、ぼやけ撓んで遠のいた。 味わった覚えのある孤独が胸の中身を何度も刺して来る。 一番の友達じゃないのかもしれない、考える度に悲しくて、私じゃなくちゃだめな事なんか一つもないんだ、悟った時は寂しかった。 繰り返し、繰り返し、過去が海鳴りのようざわめく。 人と人の縁なんて簡単に途切れてしまう事を、私は知っていたはずなのに。 ← × top |