01




鉛色の海を見ている。
今にも雨が降り出しそうな雲の敷き詰められた空は、どんよりと低い。
陸地にまで押し寄せた荒い白波が砂を叩き、いっぺんに覆い被さって、浜辺を薄黒く染めながら引いてゆく。例えばすぐ横に誰かがいたとして、うんと大きな声を出さなければ聞き取れないくらい潮が騒いでうるさかった。
頬を切る風には、湿った冷たさがうっすら忍び込んでいる。
耳の奥まで染みるのは海鳴りだ。
今日は微かな心臓の音を掴んで一緒くたに混ぜ、境を曖昧にし、体の内側から凍らせて来るみたいだった。
冬めいて波立つ情景が暗い気分を蹴散らすのでしばらくは無心でいられたけど、一人きりで突っ立っている内ふと砂の感触が恋しくなってしまう。
ひと度踏み締めると足の裏にくっついて取れない、しっとり濡れると同時にざらざらしていて、波打ち際まで進むと素足の下の地面が持っていかれる、今はもう懐かしい感覚に揺さぶられる。
すぐ消える足跡。跳ねてこびりつく飛沫と砂の粒。思い切り蹴飛ばしてしょっぱい水をばら撒く。気を抜けば足を取られて転びそうなほど、引き波は容赦ない。
両手の中で掴んだ棒の肌触りも辿り始めてみる。
一番の友達と将来住む家の間取り図を描いてみせ、自分ではどうしようもない寂しさに沈んだあの日は、佐伯くんが後ろから来てくれていた。
でも今は背中が寒い。
誰の何の気配も感じられない。
びゅうと呻った空気の鎌が髪を切り落とさんばかりに通り抜けてゆき、思わず瞑った片目の裏は頼りない光の余韻でちらついて、潮のにおいが鼻の付け根を痛めつける。泣きたくもないのに目頭が潤みぼやけた。

逃げ回り、意識的に避ければ、不思議なくらいすんなり会わなかった。
見掛ける事は一度もなく、声を掛けられたり、手を振って来られたりもなかった。

本当に簡単なんだ。
唇を引き結んだまま呟く。
佐伯くんにその気がなければ、私が今までの情報や経験を駆使すれば、こんなにもあっけなく途切れる。
凍え始めた脳で考えた分だけ腐り落ちていく錯覚に襲われ、肺から冷めた空気を追い出した。代わりに込み上げた欲求に従おうかとぼんやり思う。
荒波が陸地の先を叩く。
私は背負っていた通学鞄を下ろし、脱いだローファーを乱暴に放って、長く風に当たりほとんど感覚のない肌から靴下を引き抜いた。
粟立って暗い水面へ思い切り良く踏み入った途端、一瞬で鳥肌が立つ底無しの冷たさに足の爪が締めつけられ、きゅうと縮こまる。
細かい飛沫が膝から下までを覆い尽くし、匂い立つ冷気は太ももまでをも凍らせようとして来、留まらない波の所為で冬の空気も一緒くたになって混ぜ返される。
半歩進み、脛まで浸かっていく。
当たり前だけど恐ろしく寒い。
傍目から見たら入水自殺寸前の女子中学生かもしれない、不自然に冴える頭で呟いた一拍後、時間が勝手に遡る。
いつも爽やかに笑っていて、頼まれ事は無理難題だとしても嗜めながら気さくに引き受けるし、男女年齢問わず分け隔てなく接するから嫉妬も敵意も向けられない。
荷物の重さに困っている女の子に助け舟を出す。
嫌味なくドアを開けてあげたり、少し大変そうな作業は代わろうかと声を掛け、何事もスマートにこなしていた。
話した事もなかった二年生の頃、恐ろしい数のチョコを貰っていたバレンタインデー。
僻んだ男子から攻撃を受けてもおかしくないところ、実際は羨望と憧れの的でしかなく、先生にまで、佐伯ーお前は我が校の王子だなあ、なんてからかわれたりしていたのを今になってまざまざと思い出す。
佐伯先輩にだけは迷惑かけたくないんです、後輩の子が素直に口にする、絵に描いた良い先輩だ。
みんなに頼りにされている、誰かに意地悪したり乱暴に跳ね除けたりしている所を見た覚えもなければ、ちょっとした悪い噂の一つも耳にしなかった。
告白されても丁寧に返事をしてあげて、絶対無下にはしない。
あんまりにも好かれるから本心では困っているのかもしれないけど、それでも冷たくあしらう人じゃない。
そんな風に人との垣根を作らず、みんなに優しくて誠実な佐伯くんが好きなのに、どうして苦しくなるんだろう。
佐伯くんが優しい人じゃなかったら好きになっていないはずなのに、私だけがいいって思っちゃうんだろう。
――たったあれだけの事で、余計な首を突っ込むなと拒絶されたわけでもないのに、選んで貰えなかったような悲しい気持ちになるのかな。
胸底から込み上げた重たい熱の塊みたいなものが喉や鼻の裏を塞いで、息が詰まる。
目の端に変な力が籠もって歪んだ。
堪える為に深呼吸を心掛け、改めて自分の浸りっぷりに羞恥心が沸く。
真冬の海辺でぼんやりとかどんだけ構ってちゃん、めんどくさ過ぎる、って悩んだりして尚更鬱陶しい、脳の冷静な部分に次から次へと問題点を突きつけられへこんでいってしまい、ついに首の後ろが曲がりに曲がる。
支え切れず俯けば、やまない海鳴りの元が眼下で打ち寄せていた。
私の両足を避けて渦を巻き、押し切った後で力強く引いてゆく。
ひどい荒れ模様と麻痺して何も感じなくなる冷たさのお陰で、馬鹿になっていた頭も少し平静を取り戻して来た。
もう一度、潮の香りを吸い、肺で変換して吐き潰す。
一人で悩んでいても解決するわけじゃなし、覚悟を決めて謝ろう。
声を掛けるのは怖いけど、このまま話せなくなる方がずっと嫌だ。
関係ない私が余計な事をしてごめんなさい、無神経だったよね、これからは気をつけます。
謝罪の言葉を掴み並べていくさ中、あんな風にいつもの佐伯くんじゃなくなったって事は好きな子がいるからなのかもしれないし、と辿り着いた仮定にものの一秒で打ちのめされ、投げ出していた指先が独りでに強張った。
喉元からお腹の底まで凍りつき、今にも心臓が止まりそうだ。
落ち着け、言い聞かせつつ噛んだ唇の力を抜いた所で、垂れ下がった髪の毛が湿り気を帯び濡れている事に気がつく。
はっと天を仰げば、雨と呼べない霧めいた細やかな雫が黒い雲からばら撒かれていた。







海から上がり、放ったらかしにしていた靴下とローファーを身につけ、砂浜の上を通る道へ出た頃には、散々波飛沫を浴びたのもあって、見るも惨めなしなしなの萎れた有様である事は、鏡なしでもはっきりとわかった。
大きめのタオルなどなく、持ち合わせていたハンカチ一枚では当然満足に拭けず、両足共に濡れてべたつき砂粒も取り切れていないし、張りつく靴下は伸び切らず左右で長さが違っていて、髪は上から下からの水分にあてられプールの授業後の様相だ、かじかんだ手や足は上手く動かないで震える始末。
馬鹿そのものである。
自分がしたくてやったくせに、とことん悲しくなって来た。
寒さのあまりみっともなくぶれる口元が流す呼吸の白色にぞっとしながら、ひとまずこの煙る雨を避けようと車の通る気配のない県道を渡り、子供の頃から慣れ親しみ、遊びに行く際の集合場所だった市民公園の入り口にある東屋前まで無心で歩く。
ゆったり吹く雨風が呼び込み続ける冷気を少しでも軽くしたい、落とさぬよう胸の前で抱えた通学鞄に唇を埋もれさせ、首を竦めた瞬間の事だった。

!?」

突然投げられた声に肩がびくついた。
一も二もなく鼻先を向けると、長い間走っていたのか、薄茶の髪を乱した佐伯くんが驚いたとばかりに目を見開いている。
頭の天辺から血が引いて、脈拍が嫌な感じに唸って乱れる。
あ、とも、う、とも言えずにたじろいでいたら、速度を上げて駆け込んで来た人に距離を詰められる。

「どうしたんだよ、一体何が……」

十二月の低気温に頬をうっすら赤く染め、珍しく弾ませた呼吸を掻い潜る声が本当に心配していて、一層身の置き場がなくなった。
落ち込んでヤケになって海に入っちゃいました、等とここで正直に告げる勇気はない。
佐伯くんの綺麗な瞳が気遣わしげに揺れている。

「そんな濡れるほど酷い雨、降ってなかったよな?」

わかりやすく何故と聞かない優しさで脳天をはたかれた気分だ。
衝撃よりも申し訳なさが先立ち、ああ無理だ、上手く誤魔化せる言い訳も思いつかない、このまま黙り通して心配されればされるほど居た堪れなくなる。
即座に諦め、凍れる寒さの所為で心なしか舌ったらずになった声をどうにかして繋ぐ。
初めは真剣に聞き澄ましていた佐伯くんも、肝心要の原因を抜かした私のしょうもない告解が進むにつれ顔色を変えていった。
あの時みたいに海に入りたくなって入りました、ぼんやりしてたら降って来た雨に気づきませんでした、拭くものを持っていなかったので微妙に濡れています、流石に寒かったから東屋まで歩いて来た所です。
我ながら情けなくなる経過報告に対し当の佐伯くんはといえば、唖然、呆然、呆れ顔。
とてつもなく恥ずかしい、なんで後先考えないでやらかしたの、私のバカ、可能な限り小さく縮こまりたい衝動と戦い最後まで話し終え、

「…あの…だから、別に深い理由はなくて、自分が悪くて濡れてるだけだから……」

ごめんなさい、頭を下げるのもおかしい気がして言い淀む私の耳を深い深い溜め息が割り、釣られて目の行く先を傾ければ、利き手の左で前髪の下、おでこを掴むよう抱え眉間に深い皺を刻んだ男の子がいた。
険しさに息を呑む。

「なんでそう……っ、放っとけなくなるような事をするんだ!」

聞いた事もない激昂に近い大きな声で寒気が吹き飛ぶ。
手をどけた佐伯くんが真正面からぶつけて来る視線は強く、もう揺れてもいない。キッと睨まれたようなものだけれど、どうしてか怖くはなかった。
ただびっくりした。
私の中の佐伯くんは大らかで、気さくで優しく、間違っても声を荒らげて怒る人じゃなかったからだ。

「…悪い、俺が怒鳴ったって仕方ないよな」

瞬きの直後、こちらから逸れた瞳が下へと這い落ちる。
急に静まった調子に言葉が追いつかず、慌てて首を何度も横に振った私を見、佐伯くんが仕切り直す為にか、ふう、と息をついた。なびいた色はやっぱり白い。
展開と切り替えの早さについていけていない私を置き去りに、リュックみたいに背負っていたスクールバッグをさっさと下ろしたのち、中から学校指定外の色をしたマフラーを引っ張り出す。
元生徒会副会長じゃないの、校則はいいの、と場違いな困惑に固まっている内、鞄を片足で雑にずらした佐伯くんが、抱えていた荷を手先へ引っ掛けるにまで落としていた私の襟元へ見るからに暖かそうなマフラーを添えてくれるので、呼吸が唾と一緒に引っ込んだ。

「え、えー!? え、い、いいよ! そんな、佐伯くん!」

手際良くぐるぐる巻かれて、辞退しようにも鞄の紐を掴んだ指の離し方がわからなくなってしまい、足裏を無闇に浮かせ慌てふためく他ない。
男物だから大分余った毛糸の端をやんわり巻き込みながら、両の目に凛とした光を取り戻した彼が白い吐息を流す。

「申し訳ないって思ってるだろ? ならじっとして、俺の言う事を聞く!」

決して強引に押しつけられていないものの、嫌ですと拒む隙と語気の弱さはなかった。
はい。
先生に怒られた子供と同じに頷く。
そこで今日初めて、何日かぶりに、佐伯くんがにこっと笑った。
いつものきらきらして眩しい笑顔。

「よし、いいな。ちょっと待ってて」

心臓を鷲掴みにされた私の答えを待たず踵を返し駆け出すので、裏返った声が漏れる。
引き止める所か訳を問う暇も与えない彼はあちこち錆びたガードレールに手を掛け、軽々と飛び越えてすぐ広い車道を豪快に斜めに横切っていく。
ひょっとして横断歩道の存在を忘れているんですかとツッコミたくなる思い切りの良さだ。
六角予備軍の子達には危ないから気をつけろと言い聞かせていたくせに、お手本にならなきゃいけないはずの憧れのお兄さんがそれでいいのだろうか。
やがて向こう岸へ渡り切った学ランの背中が、砂浜へ続く階段に吸い込まれて消えた。
結果として見送るだけだった私は腕の中の荷物を持ち替え、地面に投げ出されたままの佐伯くんの鞄も一緒に三角形の屋根の下に入る。
完全に外と仕切られていないものの、音が一段階静まったようで落ち着かない心地だ。
壁際に取りつけられた木製の座るスペースへ、二人分の荷を預ける。
空になった手が小さく震えて息をついた。
うっすら湿った指先から体温が滲み、冷え切った空気に溶け出していく感覚で胸が切なく揺らぐ。
恐る恐る触れてみた私のものじゃないマフラーは掌や指の皮膚を優しく迎え入れてくれて、佐伯くん自身に近づけたりはしていないにもかかわらず骨を突き破るんじゃないかと不安を抱くほど胸が高鳴った。
特別扱いじゃないと思う。
あまりにも哀れで惨めな恰好だから、親切心で貸してくれただけ。
他の子にも同じだけ優しくするだろうし、大変じゃん早く帰りなよ、のひと言で済ます佐伯くんなんて佐伯くんじゃない。
自信を持って断言出来るのに、このマフラーの感触を知っている女の子がいたらきっと私は勝手に傷つくんだろう。
嬉しくてドキドキしていても些細な事で逆転すれば簡単に落ち込む。
かといって優しくして貰えなかったら悲しくて仕方ないし、だけど私だけにくれる優しさじゃないといつまでも引きずって素直に喜べない。
わがまま極まりないという自覚もある、どんな風に佐伯くんと関わるのが一番いいのか自分でもわからなくて、何があっても好きなのは変わらないし変えられない。
薄霧じみた雨が音もなく周りの色彩を濡らしており、風の遮られた空間は多少なりとも凪いで暖かく、心臓の拍が反響する静けさが揺蕩っていた。
間近にあるはずの海が遙か彼方に聞こえ、陽光の乏しい午後、屋根の下にいれば尚の事ほんのりと暗い。
冷気に身震いし顎と唇の半分を柔らかな毛糸の波へ埋めると、知らないにおいがほのかに香る。
親しんだ覚えがなくとも記憶は鮮明だった。
硬い背中にはからずも抱きついてしまった放課後。
慣れた香りではないし自分のものでもないのに嫌じゃなかった。
むしろ心地良い、あたたかな体温と男の子の体の感触。
(……そっか。これ、佐伯くんのにおいだ)
目の隅が柔らに潤んだ。
喉の奥は切なく渦巻いて鳴り、肺の中が静かに熱い。

「お待たせ、

ぬくい呼吸をこくんと飲み込んだちょうどのタイミングで、私の苗字が奏でられる。
背後ろを振り仰ぐと、すっかり元の様子を取り戻した人が唇と目端に笑みを灯し、実に落ち着いた何気ない仕草で掌中の物を手渡して来た。
凍えた手にじんじんと染みるのは、あたたかいミルクティーの缶だ。

「寒かったろ」

瞬間、突かれた胸の奥がわっとざわめき涙で歪む。
間違いなく優しい気遣いで百人中百人が、これだからサエはすごい、口々に褒め称える行動だったけど、私はといえば浮かれて喜んでいる場合じゃなかった。
こっちがバカみたいな事をしたら真っ当に怒りもするのに、結局いつも優しい。
マフラーだけに留まらず、大した雨じゃないにしても濡れて冷たい事に変わりはない中わざわざ自販機まで走って向かい、スポーツマンの佐伯くんとは縁遠いだろう甘いだけの飲み物を、ならこれかな、と考えて買って来てくれたのだ。
おまけにたった今掛けられた声音が底無しにあたたかく、優しいのひと言じゃ追いつかないくらい優しいのだからどうしようもない。
佐伯くんがじゃなくて、私がどうしようもない。
もうだめだと思った。
気持ちが溢れ零れて、何がどうだめなのかわからないままもうだめと頭の中で延々呟く。
プルタブをじっと見詰めながら両手で握り締め、泣きそうなのを必死に堪えて、

「昨日はごめん」

数秒。
浸る間もなく真摯な物言いに心が引き寄せられた。

「俺、態度悪かったよな」

佐伯くんが少しだけ困った風に言い連ねる。
右手をポケットへ潜り込ませ、左の手は居心地悪そうに顎のラインと首の横筋を掻いていた。
缶を掴む指の全部が震え立ってしまう。
答えたいのに言葉が出ない。息すら続けられない。体中が痺れて動かなかった。
だけど首を横に振るくらいはしなくちゃ、頑張って力を籠めた私の頬を、佐伯くんの更に後ろ、東屋の入り口のずっと遠くから届いた音が叩く。

「おぉーい、サーエー!」
「あっほんとだー、佐伯くーん!」
「何してんのー? 帰らないのー!?」
「一緒に帰ろーよー!」

車道を挟んだ向こう側の呼び声に、盛大に冷や水を掛けられた。
みんなに優しくて、みんなから好かれる、みんなの佐伯くん。
何度も思い知った現実を僅かな間でも忘れていた自分が恨めしい。
身に染みて理解していたはずだったというに、男の子の声に混じっている弾んだ高い声色に突き落とされ辺りが真っ暗になった。
友達だろうかクラスメイトだろうか、私にはわからない子達の輪の中心で楽しそうに笑ういつかの佐伯くんが目の奥を焼く。
私だけじゃない。
優しくして貰えるのも、佐伯くんを好きなのも、好きだから苦しくてちょっとの希望に縋りたくなるのも、私だけじゃないんだ。
昨日の綺麗に包まれた贈り物が蘇って体の軸を揺らし乱す。
しらずしらず止めていた息を吐き出し、しっかりしろ、私は別にだめじゃない、全然平気、叱咤しながら片想いの相手を見据えた。
顔だけで自らを呼ぶ声の方を振り返った彼は肩を小さく竦めたのち、人の好い笑みで片手を挙げて応じる。
仲のいい子達の所へ行ってしまう前に、せめてお礼だけでも伝えよう。
決意を胸に結んだ唇を開きかけた所で、ひらひらと手を振った佐伯くんが私の方へ向き直り、ごく自然な振る舞いで一歩分距離を詰めるから心底驚いた。
ぽかんと口を開けて間抜け面を晒していたからかもしれない。

「ん?」

おかしそうな笑みを瞳に湛えつつ、どうかした、問い掛けられて、喉とその下の気管が跳ね飛んだ。

「う、ううん……。……あの、いいの?」
「え、何が?」
「………あっちに行かなくて……。佐伯くんの事、呼んでたよ?」

萎む語尾を取り繕えない。
言わなきゃ良かった、なんだかより惨めだ。
私の心境を知ってか知らずか、六角中の有名人かつ人気者は、ああ、とさり気なく頷き、こう続けた。

「いいよ。俺は今キミといたいしね」

血が燃えた。
逆立って煮える。
カッと盛った音が打ち響いた気さえした。
全身が戦慄きあまりの事にぶるぶると震え出す。
体を貫くのは喜びなんかじゃない。なんにも嬉しくない。
怒りにも近い激情というか、これは多分、人生で一番腹が立っている証拠だ。

「……。あの、さ」
「なんですぐそういう事言うの?」

続きを待たずに取って返して力任せにぶつける。

「色んな子に言ってるの? 私にだけ? それとも他のみんなにもそうなの?」

捲し立てる私の勢いに佐伯くんがびっくりしている。
黙っていられない。

「佐伯くんにそういう風に言われるとすごく混乱するんだよ。今の事だけじゃない、ずっと前から、ずっと…色んな時に」

分厚い缶が変形しかねない力で握り掴んでしまう、素手で触れる温度は火傷しそうに熱い、唇がぶれた所為で声は妙にひずんで滲む。

「せ…せっかく、頑張って、気にしちゃだめだって思ってきたの…っに、お、落ち込んだり、迷ったりとか、なんで佐伯くんが私に話しかけてくれるのか…わかんなくなっても、自分で考えて、一人でもなんとかしてきたのに」

走馬灯のように夏の朝からさっきまでの全てが脳内を駆け巡った。
時間を費やし自分なりに努力して得た気配の消し方や行動パターンの読み取りをことごとく引っくり返され、勝負をしようと吹っ掛けてきたくせして勝つ気があるようにはちっとも見えず、ない知恵絞った末の奇襲も上手くいかなくて見破られる一方だった。
気に掛けてくれるのは一番の友達を失くした私が寂しいだなんて零した所為で、副部長で副会長だった人の責任感の強さが原因だ、知り合ったばかりの私達の間に他に何かがあるとは思えない。
なのに、佐伯くんは私の根拠を覆す事を平気で言ったりしたりする。
折に触れさらっと爽やかにとんでもない発言をするので嘘か冗談なのではと怪しみ、けれどそんなタチの悪い人じゃないとよくわかっているから本心なのかもしれないと戸惑ってしまう。
見ようと、知ろうとすればするだけ、たくさんの女の子に好かれる人なんだと痛感する。
思い込みが激しい自分の事だ、安易に信じてはいけない、気のせい、勘違い、思い違い、深い意味なんてない。
呪いでもかけるつもりかというくらいしつこく何度も繰り返し、感情の波に掬われ崩れる足元を踏み固め自分の形を保とうとした。
傷つきたくなかった。佐伯くんとはただの友達でもいいから、時々一緒に帰ったり、運が良ければ六角予備軍の子達と混ざって遊べる距離にいたかった。
私だけがいい。
将来住みたい家も、意外とめんどくさがりな所も、確かな情熱で道を切り開こうとする強さも、自分が特別に思われていると勘違いしてしまいそうな甘い笑顔も、全部内緒にして欲しい。
みっともなく望んでは苦しみ喘いでいても、踏み出す勇気がなかった。
私だけじゃない。
言われなくたってわかってる。
人様からすればつまらない事でも、意地悪されていなくても、またねと言われなかったのがすごくショックだった。
弾き出されて好きな子がいるのかなと思い悩み、本当に辛いと身勝手に感じもしたけど話せなくなるのがどうしても耐えられず、ケリをつけて謝ろうと決めたが早いかまた翻されて挫かれる。
薄暗がりの東屋内の風雨に晒されて痛んだ壁、所々塗装が剥げている細い柱、色褪せた木枠、全部がぐにゃと撓んで崩れてゆく。
鼻と喉の奥が腫れ上がり厚ぼったい蓋で塞がれたみたいだ。
力を入れ過ぎた所為で真っ白に染まる指先が角膜をしきりに弾いてやまない。

「佐伯くんは、い、いつも……いっつも簡単に、私の努力全部無駄にする!」

っひ、と呼吸がか細く掠れる。
何を口走るか自分でもわからない、だから絶対これ以上喋っちゃだめだ。
制止する理性も余裕も残されていなかった。

「もうやだ、嫌だ、さ、佐伯くんなんかっ…、佐伯くんのことなんか好きだよ! もお意味わかんない……、好きだから、どうしたらいいのか、私、ずっとわかんない……」

湿った空気が白々と燃え、キン、と耳鳴りがして遠ざかっていく。
張り詰めた静寂が辺りを包み、霧雨の微かな気配だけが際立って耳に痛い。
ああ、終わった。
言うだけ言って熱の失せた脳が判じた一瞬後、涙腺が決壊して零れたものが頬を伝った。
ぴくりともしない目の前の彼を見上げる度胸なんかあるわけない、好き放題に流れる塩辛い水分も拭わず置いていた荷物を引っ掴み、最後になるであろう佐伯くんの優しさが籠もったミルクティーを鞄の外ポケットに仕舞い込んで、なりふり構わず手荒く担いで全速力で逃げ去ろうとし、

「待って!」

たかだか二、三歩目でしくじった。
腕を思い切り掴まれたお陰でぐんと勢い良く体が振られ、足首も捻りかけた上、新たに溢れていた涙が反動で宙を舞う。

「ごめん、泣かないで。ちゃんと話そう。ごめんな、俺がちゃんと言うから、だから話を聞いてくれないか」

ほとんど無理矢理に振り向かせられ、まるでらしくない強い力で乱暴に握られて、状況が状況じゃなければ顔を顰める痛みが走ったけれど、誰がどう見ても慌てて焦っている人の表情や声の所為で言葉が出ない。
逃げ出す為に曲げていた肘を下ろし、まだ零れてやまない瞳の雫を掴まれていない方の手で拭い向き合ってようやく、大きな掌が離れていった。
ちょうど指の形に添って熱が残っており、目に見えない跡が服の下の肌をやわくする。
完全に立ち止まり肩に掛けていた鞄の紐を緩めた私を目にし、あからさまにほっとした様子の佐伯くんが僅かに視線を下げて溜め息をついた。
長くはない。
人知れずひっそり落としたみたいな、近くにいないと聞き取れないささやかな呼吸だった。
その後、小さな咳払いが一回。
なんでなのか理由は全くわからないし見当もつかなかったけれど、緊張を誤魔化そうとしている風に見えて腰の傍の背筋がむず痒くなった。
鼓動が肺を圧迫し、種類や意味の違った涙で視界が再び濁る。もう本当にどうしたらいいのかわからない。こっちまで緊張して来てしまう。

「今までずっと意思表示して、俺なりに気持ちを伝えてたつもりだったんだけど」

そのくせ影響を与えた張本人は切り替えが早くて思い切りもよく、一切迷わず口ごもりもせず爽やかな声で切り込んで来る。
対して私は追いつくにもひと苦労、泣き腫らした顔を隠す事も出来ずじっと待つしかない。
込み上げたもどかしさが募って、必死で鼻をすすって目元を擦り、ともすれば滲んで煙と化す佐伯くんの形を留めようと見澄ました。
却ってわかりにくかったんだな、と耳に届くひたむきな音が胸の奥まで浚っていく。

「好きだ、。多分キミが今考えているよりずっと前から……いや、違うな。俺が自分で気付いていなかっただけで、初めて会った時にもう大分好きになってたんだと思う。俺と付き合って欲しい」

夢かと思った。
だって現実味がなさ過ぎる。
嘘だと言い返そうとして、嘘をつく人じゃない、誠実で優しい、散々繰り返した自分の声が追い被さり反論の根拠を打ち砕いていく。
心臓が耳のすぐ傍にもう一つ取りつけられたみたい。一拍ごとに爆発してうるさい。体の軸から始まった高熱があっという間に全身を駆けて膨れ上がった。胸の真ん中から喉の奥にかけてが詰まって何も出て来ない。
佐伯くんが真っ直ぐに私を見ている。
射抜くほど強い眼差しはただの一度も逸れず、頼りなく揺れてもいない、けれどどれだけ一生懸命確かめてみても真剣な光の宿る瞳から強張りが消えていかない、息を殺して答えを待つ人に見えて仕方がない。
う、と声にならない声で空気が焦れた。
籠もった溜め息が長い時間を使って伝い落ちる。
死んじゃうくらい嬉しいはずなのに唇はひん曲がって涙も塩辛いままだ。
(ほらね、ほんと簡単に全部無駄にするんだよ)
昂ぶる脈の間を縫い、胸の中で呟く。
(でも……勘違いじゃなかった。気のせいじゃなかった)
しつこく何度も重ねがけした呪いがさっさと崩れ去り、やっぱり無駄にされた、こんな汚い気持ちまで綺麗に掻き消すの、私あんなに悩んだのに、なんで佐伯くんっていつもそういう人なの、しゃくり上げそうになるのを抑えながらぐちゃぐちゃになった言葉を我慢する。
夢でいい。
もしかしたら嘘だって構わない。
それでもこの先ずっと忘れない。
強く想いを込め、相変わらず冷たく湿った酸素を吸う。
ところが思う事と口に出来るものは違っていて、放っておいたら無限に垂れてきかねない鼻を引き鳴らした後のひと言は、迷わない彼と正反対にぐずつき冴えないものだった。

「……私、ストーカーみたいなの得意な忍者なんだけど…そんなのでいいの?」

ごく真面目に構えていた佐伯くんが虚を衝かれたと喩えるに相応しいキョトンとした表情で両目を瞬かせ、かと思えば間を置かずに破顔一笑。

「ハハッ! それ、まだ言うか!」

上向いた口元を薄くぼやけさせる白が、笑んだ形に変わってゆく。

「俺はどっちがいいとか特にないって言ったろ?」

真夏の公園が我ながら滑稽になるほど鮮やかに瞼の裏へ浮かぶ。
友達の為の張り込みの真っ最中、訳を尋ねられ、二人してしゃがんで話した朝の事。
思い出には出来ない、大切な記憶だ。

「うん……言ってた……」

目の端で涙の粒が落ちまいと耐えているのが、なんだか無性にくすぐったい。
だったらその質問には答えが出てるよな、と嬉しそうに続けられ、私は小さな子供と同じに頷きながら濡れた頬や下睫毛の近くを拭う。

「じゃ次だ。俺の好きな子の事を‘そんなの’なんて言うの、やめてくれ」

今度は素直に首を縦に振れなかった。
急に変わるわけがない気温がぐんと上がり、凍りつく寸前だったの風や雨があたたまって、体を包まれる錯覚に捕らわれてゆく。
さっきとは違った意味でどうしたらいいのかわからなくて肯定も否定も出来ずにいると、佐伯くんが出会った日の青空みたいに晴れやかに、にこっと笑って瞳の色を輝かせた。

「でもな? には好きだって思って貰えるだけじゃ嫌だ。そりゃ勿論、すごく嬉しいけどさ。もう頑張らなくていいから、その代わりもっと気にしてよ。俺を見て、俺の事だけ考えてて」

……ものすごい事を言われている気がするのは私だけだろうか。
もっと落ち着いて冷静に考えるべきだと思うのに、脳が体ごと痺れてまともな答えを導き出せず、消化し切れない熱の波はいつまで経っても引きそうにない。
着実に速度を上げてゆく心音に気圧された唇が、まるで自分のものじゃないみたいに動く。

「…………うん。わかんないけど…わかった。から、お付き合いする……」

声にしてから酷いというレベルに留まらぬ‘お返事’に我ながら愕然とした。
情けない、かっこ悪い、可愛くない、ちゃんと気持ちを言葉にしてくれた彼に申し訳ない。
重たい後悔に絶え間なく襲われがっくり肩を落とす寸前、視界の端にこれまでにないくらい表情を綻ばせる佐伯くんが映り込んで、息が止まる。
うぐ、だか、ぐぅ、だか聞き取れなかったが醜く潰れた鳴き声が喉の下で蠢き、隠せと指令を下す本能に従おうと足を引いた所でとても自然に抱き寄せられた。
乱暴でもなければ力いっぱい掴まれたのでもないのに抵抗する暇はなく、寒さに慣れたといつかの帰り道で語ってみせた人の腕が背中に回るまで本当にあっという間だった。
文字通り肌で感じるあたたかさに却って鳥肌が立ったものの、震えた胸の芯はいとも容易く和らぐ。
佐伯くんの全部が優しいせいだ。

「すまない」

今までで一番近くで奏でられる声音が満ちて深い。

「焦ったんだ。キミが彼といる所を見た時…こっちが地道に縮めてた距離を一気に抜かされたみたいな気持ちになって」

あの時迷子の子を包んでいた、あたたかい毛布に思えた学ランに片頬を預けながら、じみち、と舌の上で転がしてみる。
地道。手堅く着実に進み人目を引かない事、地味で真面目な様。
全く以って何もかもがしっくり来ない。
(佐伯くん、地道の意味を辞書で引いて……全然地味じゃなかったよ……)
一種のぼやきがよぎり、出損ねた溜め息もお腹の中で丸まった。

「しかも、友達じゃないとか仲良くないとか言うし。俺メチャクチャ落ち込んだんだぞ」
「…そんな事言ってないもん」

身に覚えがない上に聞き捨てならなかったので即否定し、

「あそこで頷いて貰えなきゃ関係を否定されたのと変わんないよ」

同様の速さで打ち消されてしまう。
極端。
彼の発言に相応しい二文字が脳内に浮かび上がり、もう一度言い返そうとしたら少しだけ増した両腕の力で封殺された。
元からそうあいていなかった距離が縮んで、怖いくらいにぴたりとくっつく。
心臓に私じゃない人の体温や熱が差し込み声を失った。息も止まったかもしれない。強く抱きすくめられたお陰でいまだ湿り気を帯びた前髪がほつれ崩れて、学ランの生地は皮膚に当たってかさついていて、思い遣りの象徴たるマフラーの毛糸に顎や頬をやんわり撫でられる。

「ちょっとは意識してくれてるのかな? って思ってたからさ……完全に八つ当たり。好きな子泣かせたりして最低だ。ごめん、ホントに。カッコ悪いな俺」

知らない内に白煙めいたものから音を伴う雫へ変わった雨と静かに綴られる低い声とが混ざり合い、柔らかく滴って鼓膜に染みた。
破裂間際だった血管が穏やかに沈んでいくのが不思議だ。
凍てついていたはずの空気は冬の様相を引っこ抜かれてしまっており、最早ひたすらぬくいだけ。
どうして、と問うより先に上から折り重なるよう私をくるむ彼が原因だと気づいた刹那、底から溢れたあまやかな衝動が両の目に喉、舌の根と唇を濡らす。
次いで、鼻腔を掠める淡い香り。
悲しくもないのに何故だか泣けて来た。

「……佐伯くんのにおいがする」
「えっ!」

俺まさか臭い?
佐伯くんが慌て呟き、猫さながらびゃっと体を引く。
当然緩んだ腕が生んだ距離がもどかしい。
広くて硬い胸めがけ、思い切って飛び込んだ。

「ううん。いいにおい」

無遠慮に抱きついた恰好だったからだろう、私の好きな人は一秒だけ体を硬くし、それでもしっかり受け止めてくれた。

「香水とか、そういうんじゃなくて。さっきマフラー巻いてもらった時から……前に間違えて抱きついちゃった時も思ってたの」

緩やかに肺を膨らませて、丁寧にまばたきする。
見た目よりずっと大きな背中を握り締めていた手を外し、半歩後ろに下がったのち仰のくと、独りでに口の端が溶けて笑みが溢れた。
ぶれずに私を映す瞳を、想いを込めて見詰め返す。

「好きって言ってくれてありがとう佐伯くん。私も佐伯くんの事が大好きです」

かしこまった言い方をするつもりはなかったのにおかしな口調になってしまった。
失敗に気づけば羞恥心がじわじわせり上がって、顔どころか頭の天辺から足のつま先まで熱い。
いわゆる一世一代の告白がこれってどうなんだろう、どうしようやり直した方がいいのかな、決めた直後に迷い出した私の肩を、冬仕様の上着越しでも熱を訴える掌が引き止める。

囁かれたのかもわからない。

「キスしてもいい?」

熱も声も空気も音も感触も確かにここに在る、全身で感じ取っていたくせして曖昧に溶けていく。
乳白色の靄でぼやけるから近いはずでも遠くに思えてしまって、呼ばれたのか呼ばれていないのか判断がつかなかった。
上手く働かない頭で、やだって言ったらどうするつもりなんだろう、散々悩まされたお返しに意地悪しようかぼんやり考えてみたけれど、肩の上に置かれたままの重さが意欲を挫く。
注がれる視線が胸奥まで一直線に貫く熱を孕んでいて、ぐっと強く掴まれてはいなくても分厚い布越しに伝わるお陰で動けない。佐伯くんの大きな掌に囁かれ、一途に見詰められては余裕も意地も何もなかった。
意味を正しく理解する前に鼓動が暴れて騒ぎ、微かに震える唇から流れた声は潤みながら掠れる。

「……うん。いい」

さっきからまともに返せてない、ほんとにこんなのでいいのかな、どくどく脈打つ体や手足、指先に至るまでを奮い立たせ、口元辺りを覆うマフラーを下へ避けようと――した所で、生まれた僅かな隙間に左手がするりと滑り込んで来た。
熱い。
知らぬ間に落ち始めていた目線は一瞬で持ち上がり、間近で見下ろされていると気づいた途端うなじが甘く毛羽立った。
ほとんどいつも目映く輝いていた瞳が、今は艶めきしとやかに濡れている。
心臓が思い切り打たれ骨も軋んで痛い。息を吸ったきり吐けない。
厚みのある掌で顎と首の境に触れられでこぼこした肉刺の感触を得てしまい、ラケットを握り続けている人のものなのだと思い知る。
込み上げて喉が撓んだ。
薄い影がそっと降り落ちて来、周りの音が全部消えて途絶える。
瞼を下ろしても佐伯くんの事だけはわかった。
温もりが重なり溶けていく。
ごく短い間のほんの僅かなキスでも甘くて、息継ぎし忘れたと気づいたのは柔らかい唇が離れた後だ。
余韻めいた白色が流れて薄まり消えかかる頃、私の左肩から寒いはずなのに熱の籠もる頬へと右手を移した佐伯くんがふっと吐息を零し笑う。
呼吸のしるしが散って空気に混ざった。

「耳まで真っ赤になってるぞ」

ぐうの音も出ない指摘をされ、顔に火がついたよう熱くなる馬鹿正直な自分がちょっと嫌だ。

「佐伯くんだって前なってたでしょ!」

苦し紛れに打ち返し、

「あー……あれはさ、色々と不意打ちだったんだよ」

気まずそうに視線を横へ滑らせるくせしてどことなく涼しげな声に丸め込まれる。

「好きな子に抱き付かれて平気な顔してられるわけないって」
「……平気な顔して話しかけて来たじゃない」
「頑張って平常心を心掛けただけ! 変な空気になってと話せなくなるのが一番嫌だったんだ。今だから白状するけど、かなり苦労したし」

これだから佐伯くんって信じられる人なのに信じ難い。
普通なら隠したいはずの本音をさらりと口にし過ぎるのだ。しかも自然体かつ爽やかに。

「でもそっか。俺もも頑張んなきゃ良かったのか。そしたらもっと早く、」

さぞ恨めし気に見えたであろう私に、それでも笑いかける彼がまた嬉しそうに目元を滲ませ、

「こうなれてたのかも…なっ!」

力強く抱き込んで来たかと思ったら、

「えぁっ!? きゃあ!」
「ハハ!」

そのままぐるんと一回転半。
勢いの良さに両足が地面から浮いて後ろ側に振られる。なかなかの遠心力だった。目が回らなかったのは私を抱き締めつつ王子様もかくやという華麗なるターンを披露した佐伯くんのお陰だ。

「な、何……びっくりしたぁ」

優しく下ろされ着地した靴の裏が慌てふためき、急にバカみたいな事しないで、とつい捻くれた口調で動揺を走らせてしまっても、一方の彼は特に気にする素振りもなく凛々しい眉を緩ませ、瞳さえあまやかにとろかす。

「うん、ダサいよな。といると俺ダメだ。まーいなきゃいないでダメなんだけどさ」

またしても信じ難い、よく言う、どの口が。
瞬時に揃い並ぶ反論の方が絶対正しいはず、けれど見事に打ち砕かれた。

「だから黙ってて」

秘密の話をするトーンにまで下がった声音が耳をさやさやと揺らす。

「誰にも言わないで、内緒にしてくれ。頼むよ」

たくさんの感情と夏の日がフラッシュバックして煌めき、彩り豊かに波打って、体深くへ響き落ちていった。
大きな木の幹に張りつき気配を殺し、バレそうになって屈んで隠れれば、不思議そうに小首を傾げる人。
草いきれの緑香や早朝特有の陽射し、微かな潮のにおいまでもが鮮明に立ち上る。
私だけじゃなかった。
佐伯くんも同じように覚えてくれている。
それだけでもう胸がいっぱいになった。

「わかった。言わないよ。…約束ね?」

一番初めと逆の言葉を交わし合う奇跡に気が遠くなる心地だ、眩暈さえ舞い込んで来、籠もって潤んで目の前が見え辛い。
本当に、あの頃他意なく投げた言葉がたった今、喩えられないくらいの幸せに繋がるだなんて、どうやったら予測出来るだろう。例えば私が佐伯くんを張って情報を集めていたとしても、絶対に無理だったと思う。
目頭と鼻の付け根がつんとして痛み、泣きたくないのに滲んで震えた。
涙になる前の小さな雫を指先で掬いなぞった佐伯くんは、澄み渡る瞳を柔らに細め吐息で笑う。
その優しい形と穏やかな音、伝う温かさにもっとかなしくなってしまい、うう、と非常に可愛らしくない呻き声を上げれば、泣くなよとばかりに両手で私の頬をむにむに軽く摘んでまた笑った。
お兄さんかお父さんが小さな子供をあやす時のそれだ、憤慨すべき場面なのかもしれないけれど困った事にちっとも怒りが沸いて来ない。

、ほっぺたが冷たい」

密やかなささめきがくすぐったくて、男の子特有の骨張った手の甲へ指を這わせる。
寒空の下で霧雨に降られたのは私と変わりないのに、どういうわけか彼は指筋や爪にまでも高い体温を纏わせているのだ、男子だ女子だという前に一人の人間としての作りがまず他と違うのではないか。
神様どうしてこの人をこんな風に作ったの、誰にともなくぶつけようとした恨み言は、そっと触れるだけの口づけに飲まれて消えた。

「……けど唇はあったかいな」

なびいた呼気が肌をうっすら撫でる。
ついに堪え切れず、ぽろと溢れ零れた涙がしょっぱい。
泣くような場面じゃないだろうと実直な物言いで慰め窘められるかと覚悟したのに、私の大好きな人はまなじりを下げてじんわり緩ませるだけなので、

「じゃあ、佐伯くんが、全部あったかいのは…なんでなの?」

どうでもいい、今言わなくてもいい、要領を得ない疑問を投げるしかなかった。
とうとう本格的に吹き出した佐伯くんが首を傾け、楽しげに眼差しを煌めかせる。

「うーん、なんでだろうなあ。自分の事なのに……いや…自分の事だから余計に俺じゃわからない。が見つけてくれないか。ほら、自他共に認める理論派じゃん」
「…私自分で理論派ですとか言ってないし、認めたりしてない…。他って、誰がどこで言ってるの。佐伯くんしか言ってないと思う…」
「そこでそう返して来る時点で十分理論派だって」

納得出来ず詰め寄ろうと唇を開き掛けたと同時、私を見下ろす揃いの目から笑みが消え熱っぽいものへと染まり変わった。
一秒も経たず鼓動が壊れそうにはやまる。
体の全部がざわついてやまない。
遠くで見ても近くにいても端整な顔立ちにほのかな影がすうっとけぶり、身長差を埋めるよう首を下げて屈む人の為に私は黙って目を閉じた。
指と指とを絡ませて交わす人生三度目のキスは、今までの二回より少しだけ長かった。





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