01




さて、どこから手をつけよう。
やや途方に暮れながら雑然とした部屋を見渡す。


間違いに気付いたのは寝入ってからの事だ。
エアコンの真下では風邪を引くと言ってきかない母の指示に従ったところ、弱い冷風しか届かぬ位置だったらしく、真夏の一室は熱帯夜に飲まれた。
完全な配置ミスだった。
暑い、寝苦しい、生き地獄にうなされ喉の渇きと背中を濡らす汗で夜中に一、二度起きてしまい、太陽が上がった時刻には酷い状況になっていたのは当然の結果と言えるだろう。
最低な目覚めの朝、ベッドではなくフローリングの床に転がっていた自分が自分で恐ろしい。まるで記憶がないのだが、いつの間に移動したのだろうか。
ともかくこのままではいられないと僅かに痛む背や肩を動かし、シャワーを浴びて動きやすい服装に着替える。
最優先事項であるベッドの配置換えは、残念ながら私一人の腕力では無理だ。
ベッドだけじゃなくて家具系の大物も手伝って貰おう、と引っ越しが決まった頃から約束してくれた人の顔を頭に浮かべた。


都内の大学に合格したら一人暮らしが出来るものだと信じ込んでいた。
確認しなかった私も悪いのかもしれないけれど、すっかりその気でいたところに、何言ってるのうちから通いなさい、落とされた一言は衝撃的だったといまだにしみじみ思い出す。
通学に時間もお金もかかるし、これを機に独り立ちしてみたいのだと熱心に訴えても梨の礫、駄目ったら駄目、の一点張りで埒が明かなかった。私の味方は、まあ本人が言うならいいじゃないか、やりたいようにやりなさい、と大らかにちょうどいい距離で見守ってくれるお父さんくらいで、お母さんもお姉ちゃんも頑として譲らず許しを得られなかったのである。
渋々諦めた私は大学二年の今に至るまで、さくっと志望校に受かりさくっと東京での一人暮らしを始めた好きな人へ、溜め息を流す事数回。

『そんな急がなくてもいいんじゃない?』

その都度、電話越しに優しくなだめられた。
直接聞いているわけじゃない、佐伯くんの声は機械を通していても心に染みて困る。
思わずむくれたのだが、見えずともこちらの気配か何かで察したらしい、やわらかな笑声が耳をついた。

『アハハ、電話口で黙らないでくれよ。俺、何も出来なくなっちゃうじゃん』

早く一人暮らしがしたい、どうしてだめなの、通学時間が長くて辛い、つらつらと語った事情を綺麗にくるんでしまう、悪く言えば無に帰す大人のたしなめだ。

『そりゃ俺だって家が近くなって、ともっと会えるようになったら嬉しいけどね』

面白くない。
実に子供っぽい感情だとわかっていても、歪む眉間を正せない。

『お母さんもお姉さんもキミの事が心配なんだって。わかってやれよ』

佐伯くんは時々ものすごくそつがなくて、首を縦に振るしかない、そうだよね、わかった、うん、以外の返事をやんわり禁じるような答えを寄越してくるのだ。
そんなの私だってわかっている。
だから家を飛び出したりしないで、バイトがあっても毎日真面目に帰り、寄り道もそうそうしないんじゃないか。
あなたの身を案じているのだから理解しろ、家族に言われるのならまだ良い、頷きようもあるけれど、仮にも彼氏の口から零れるにしては正論すぎる。
もう半歩、いやほんの少しだけでいいから、もやもやして身動きが取れない気持ちに寄り添って欲しかった。
会えたら嬉しい事は嬉しいけど、絶対に会いたいとまではいかないのか。
家族が心配しているなら仕方ない、言い聞かせればすんなり納得してしまえる程度なのだろうか。
溢れる寸前でいつも押し留めてきた。
だいぶ間を置いて、はい、の一言を絞り出し、おいおい今のすごい嫌々に聞こえたぞ、とびっくりするほど爽やかな声で笑われる。
我が侭を言って困らせたくない、嫌われたくない。
その一心で我慢をして、呼吸や唾と一緒に全部飲み込んでいれば、段々悲しくなっていき、胸の奥が切なかった。

(……でも)

そういの、ちょっとずつやめるんだ。
改めて決意をする。
固い意志を体の芯にくくりつけ、ひとまず自分一人の手に負える片付けから始めるべし、と作業の邪魔になる髪を結んだ。







切っ掛けは皮肉というか、一体どっちなんだと問い質したくなるというか、ついこの間まで独り立ちを強く反対していた内の一人だった。
充実した大学生活を送っている様子の佐伯くんには用事があるそうで会えず仕舞い、私はといえば数週間前に一人暮らしに関する一番の山場を越えたばかりで気が抜けてい、完全に持て余した日曜日。
駅前まで出、本屋さんやスタバで暇つぶしをしていたら、会社帰りの姉と出くわしたのだ。朝、家では休日出勤に対する不平不満を並べていたのだがお昼すぎに叶った帰宅が嬉しかったらしく、大変テンションが高かった。
つまりわりと面倒な状態。
予想通り無駄に絡まれ買い物して行こうと手を取られ、抵抗する間もなく引きずられる。
嫌だ帰ると突っ撥ねるのが常なのに、その日ばかりは大人しくお付き合いをした。
電車に乗って少し遠出して、海辺をぶらぶら歩いたり、服や小物を見にショッピングモールまで足を延ばしたり、疲れたからとカフェでお茶なんかしている間に元気が復活してゆき、そろそろ帰るかという空気になった頃には日暮れ時、最寄駅に降り立てばすっかり夜のにおいだった。
お姉ちゃんには今まで散々傍若無人に振る舞われたし、あれやれこれやれと言いつけられた事もある、本気でムカついて大ゲンカもしたけれど、やっぱり家族なので一緒にいたら気も紛れて、何より楽しい。
だから、ドラッグストアに寄りたいと急に進路変更されても大して気にならなかった。
じゃあ私もついでにと買い足しておきたかった商品を取ってレジで会計しようとし、

「これもお願い」

横合いから割り込んだ腕に何かの小箱をぽいっと放り込まれても承諾したのだ。
ええー、自分で買いなよ、意味わかんないんだけど。
諸々の文句は勿論沸いたが不思議と怒るまではいかず、自動ドアをくぐってすぐの薄暗い駐車場でごく普通に渡す事が出来た。
はい、これ。後でちゃんとお金ちょうだい。
煌々とした店内の灯りが、闇夜を濁らせている。
私を一瞥したお姉ちゃんはこれみよがしに溜め息をついた。

「あんたダメだわ」

突然斬り付けられ理解が追いつかない。
何が、と眉根を寄せて首を傾げたら、

「ぜーんぶ相手任せ?」
「……は?」

益々わけがわからない文言で追い打ちをかけられてしまう。

「今カゴに入れて会計してもらったやつ」
「はあ」
「コンドームだかんね」
「えっ…は、はああ!?」

想像の遙か斜め上をいく衝撃の事実に大きな声が転がった。あいた口が塞がらない。周りにいた幾人かが一瞬動きを止め、何事かと密かな視線を寄せてきているのが目の端に引っ掛かってはいたけれど、気にしている場合でなければ余裕もなかった。

「パッケージでピンと来ないってさぁ……さすがにどうなの? おねえは心配だよ、色んな意味で。よく見てないし自分で買った事もないんでしょう」

とんでもない切り口で、触れられたくないプライベートに踏み込まれたのだ。
タチの悪いイタズラを仕掛けるなと怒っても許されるはずの場面、こんなにも図星という単語が相応しい瞬間があるかというくらい正解を打ち抜いているから何も言えなくなった。
手に収まるパッケージへ目を遣る事も叶わず、かといって仕舞う場所もない、うろたえて唇を閉じては開き、開いては閉じを繰り返すのみ。

「前から思ってたんだけど、同じ男とずっと付き合うとかつまんなくないのは」

それともそんなにいいとこあるわけ。
パンプスを慣れた風に鳴らし歩き始める細い背中が、夜陰の黒に塗りたくられた道路へと向かっていく。
呆然としてはいても見送るわけにいかず、慌てて追い掛けた。

「佐伯君ってあんなにモテそうなのに、っつーか絶対モテんのに中身は真面目っぽいじゃん。けどコミュ力高そうでさー、もっと女の子の扱いこなれてる感じってか遊んでそうな感じあってもおかしくないっしょ? 正直私が男で佐伯君クラスの顔面に生まれついてたら遊びまくる」

ぽんぽんと投げられる言葉があまりにも明け透けで私は文字通り絶句した。

「真面目なだけ男って飽きない?」

さすがに黙っておけない謗りがさも当然の如く呟き落とされ、一気に怒りが噴き出る。

「……佐伯くんの事そんな風に言うのやめて」
「ハイハイ、わかってるってごめんね。別に悪口じゃないよ」
「でもやだ。すっごいムカつく。何も知らないくせに勝手ばっか言わないで」
「あんたほんと佐伯君の事好きね?」
「好きじゃなきゃ何年も付き合ってないもん」
「あっはは! そりゃそうだわ」

確かに佐伯くんは真面目な所もあるけど、絶対に‘だけ’なんかじゃない。
胸を燃やす憤りを抑えもせずそのまま口に出そうとしたら、いいからちょっと聞きなさい、と先手を取られた。二十数年私の姉をやっているだけあって鋭い。

「別にの気持ちも二人の事も否定するつもりないけど、それでもやっぱし刺激はないでしょ? だからハイ、色々用意しときなさいって話」
「……色々用意って何……」

いよいよ本気の眩暈に見舞われ始めた。

「あーいーのいーのその辺は。どうせあんたには無理ってわかってるし。というわけでせめてゴムを自分でも用意するくらいの事はしな」
「何がというわけなの!? ゴ、ゴムは…関係ない!」
「あるんだってば」

夜の帳が下りた狭い生活道路に自分の騒がしい声が響き、焦って唇を引き結ぶ。
あのねえ、と続ける姉は私より何年も先に社会人になった風格で、平然と落ち着き払っている。

「いい? 意識の問題なの! コンドームの事も頭にないってつまりノープラン、エッチする時何も考えてないわけでしょ? なぁなぁで済ましてたら絶対飽きるからね。そこつまんないの一番イヤじゃない。ただの作業にでもなってみなさいよ、私なんか想像するだけでうんざり。マジでないわ。もうすぐ家出て独り立ちするんだから、ほんとちゃんとしなさい」

ごく真っ当な説教なのか否か。
全く以ってわからない上、どちらにしても素直に聞き入れるのは難しい。
とにかく恥ずかしかった。有り得ない、信じられない、何言ってんだこの人、喉奥で暴れるツッコミが詰まって頬が熱くなる。

「意味わかんないお姉ちゃんのバカ一人で帰れ!」
「こっからだと同じ道通るしかないんだから、もう一緒でいいじゃない」

笑い飛ばされたあげく、あいている方の手を繋がれ、腹の虫が収まらないどころか一層存在感を増した。

「知らない。離してよ」
「ねえ、佐伯君と会いづらくなって、なんでもいいけど別の方法でコミュニケーション取ってる?」

気持ち良いほどの無視である。血を分けた彼女はいつだって自分勝手なのだ。

「お姉ちゃんに話す事なんて何もない。いいから離して」
「電話すんのやめた?」

ざっくりとした問い掛けだったのに呼吸を忘れ、首根っこを掴まれた心地だった。
反射的に開いてしまった瞳が、どこかニヤッとした含み笑いの姉を映している。

「家ででっかい声で話して楽しそうに笑ってるからだよ」

どうしてわかった、と漫画じみたセリフを発する前に解を投げられ動揺した。

「なのに最近…てかもうちょい前からだね、全然してないんだもの。どーっせ、あんたから止めたんでしょ? 悪いからーとか忙しそうだからーとか疲れてるよね佐伯君ーつってさぁ」

千葉と東京で離れて生活するのは、中学三年から佐伯くんとずっと一緒だった私にとって大きな壁だった。
お金も時間も限られる中、流石にまったく会えないわけではないしデートだって普通にしているけれど、どうしても以前の近さと比べてしまい寂しさは募るばかり、顔を見る事が叶わぬのなら声だけでも、と掛ける電話はいくつかある支えの一つだったのだ。
なのに、佐伯くんからの着信はあっても、こちらから呼び出し音を鳴らすのを止めた理由。

「そんなん気遣いじゃないよ。健気でもなんでもないしー」

ほんの子供の頃から長年テニスに真剣に取り組み、厳しい練習もこなして来た人曰く、大学のサークルは楽しいし嫌いじゃないけど肌に合わない。
テニスコートが整備されたスポーツジムやテニスクラブの方へ通う事にしたと聞いたのは、去年のGW明けだったと思う。
大学の講義、バイト、テニス、友達や学友付き合いと、佐伯くん自身は疲れを見せないけど、どう考えても忙しいに決まっている。
無理に嫌々話している雰囲気は微塵もなかった。
ただ時折、眠そうな声で電話に出る日や繋がらない時間がある程度だ。
申し訳なくて掛け直すねと切り上げを試みる度、いやいい、やけに素早く引き止められる。でも、と尚も食い下がれば、そんな事言っといて掛け直して来ないんだろ? 静かな笑い声が揺れた。

だって……別に急ぎの用じゃないし、なんでもない話だから。
何でもなくたっていいさ、用がなくてもね。今日は俺、の声もっと聞いてからじゃないと寝たくない。

そうやって今すぐ会いたくなる事ばかり言う佐伯くんはいつも優しくて、誰よりも真っ直ぐだ。突然の電話を責められた覚えなど一度だってない。


「多少は気ぃ遣ってもいいけど。急に電話すんのやめたら向こうは気にするし、ヘタするとなんか怒らせたかなって不安にさせるよ」

却って心苦しくなってしまい、会えないのに話すのは嬉しいけど辛くて、でも一人暮らしへの切実な願いはやんわりたしなめられ、自分ばかりが望んでいるみたいで惨めだった。
何より多忙を極める佐伯くんの邪魔をしたくなかったのだ。
予想外の‘もしも’を浮き立たせる姉は追撃の手を緩めない。
情け容赦なく叩き付けられる言葉に心臓は冷たく凍り、生まれた弾みで体が震えた。

「そ…そんな、そんなつもりない!」
「あんたになくたって急にそーいう事されたら相手は思うの。あのさーいつも来てた電話がなくなるって、俺に飽きた? て思われる可能性大ってわかってるわけ?」

即座にいつか耳に落ちた声音が蘇る。
忙しいのか不意に問われて、独り立ちを認めさせる為の努力はしているものの忙殺されてはいないので否定し、けど最近電話して来ないじゃん? と軽く返され、向かい合わせで座った真昼のカフェの日向や、ささやかな喧騒、出来立てのパスタソースのにおい、迷惑を掛けたくないし疲れているだろうだから、といった真実を差し出したところで受け取っては貰えないとの直感を抱き、電車が遅延して時間がなかった、苦手な授業の後のバイトで大変だった、それらしくついていた嘘の数々も連鎖して浮上した。

「電話でもしないと話す機会、なかなかないんでしょ? それって、これからも付き合ってく為の努力でもあるんだから。え、まさか離れててもお互いを想う気持ちがあれば大丈夫、信じてる! とかバカみたいな事言う気? マジ幻想ねそれ。んなわけないから、ほんと」

先ほどものの数瞬で掻いた冷や汗が薄まり、

「なんか……実感籠もってるね」
「うるっさい。私の話はどーでもいいんだよ」
「お姉ちゃんが勝手に自分から始めたんじゃない」
「いーから真面目に聞く! お詫びと餞別も兼ねてるんだから」

口元を緩ませる余裕まで出て来た。
私が大学二年生へ進級するまで一人暮らしが許されなかったのは、社会人である姉が近さで就職先を選び、いまだに自宅で暮らしている事も関係しているのだ。両親の懸念が自らにも向いていると知りながら棚上げし、妹の独り立ち計画に反対した負い目があるのかもしれない。

「あのね、あんたの彼氏はそーいう努力とかちょっとでもいいから話したいな、声聞きたいなっつー彼女のお願いをウザいめんどい眠いって無下にするような男なの? 違うでしょう、佐伯君ってやつは。見ててなんとなくわかる。遠慮なく我が侭になりなさいよ、勿体ないな。物理的に離れているのに遠慮なんかしてたらもっと離れちゃうじゃないの」

うっすらと濡れた夜の空気が肌をくるむ。梅雨の気配は濃く、海辺特有の潮騒は聞こえて来ない。
入学以降の一年間、自宅からの通学がいかに不経済で無駄な時間を浪費しているかに加え、都内に住んだ際の利点や問題点、こまごました計算とデータを会社のプレゼン並に気合を入れて提出し、執念で家族に認めさせた私は、夏が来れば生まれ育った街を出ていく。
佐伯くんと同じ中学に入り、はじめて話をした朝。
あ、と気付くより先に好きになった。
絶対に片想いのまま終わると思っていたのに、付き合って欲しいと告げられた冬の白い息は今でも鮮明だ。
たくさん泣いて、でもそれ以上に笑い、楽しい思い出の詰まった風景の全部が胸を柔らかに叩き、三年目の六角祭を迎えず転校してしまった、あの頃一番の親友の面差しが前触れなく脳裏をよぎって、心の深いところをギザギザに傷つけていく。
どうしようもない寂しさと上手く付き合っていく事が出来ず、変に気にしすぎて遠慮もした、色々な事が積み重なり結局、もう前と同じに話せない、と縁は途切れてしまった。
一人では到底堪え切れない寂しさを、もう二度と味わいたくない。
しかも、よりによって佐伯くんとあんな別れをするだなんて、考えるだけで怖くて足が竦む。
お姉ちゃんの言葉は正しく、付随する意味についてはとうの昔に思い知っていたお陰で、頷く以外のリアクションが取れない。
暗い夜道の傍らに、ぼんやりとした外灯が滲んでいる。
湿気た風が髪を舐めた時、私は呼吸を切って立ち止まった。

「これ返す」

仕方なくドラッグストアのビニール袋へ突っ込んでいた四角いパッケージを取り出し、繋いでいない方の手元へ押し付ける。
戻るのは虚を衝かれたと言わんばかりの表情だ。

「自分で買わなきゃ意味ないもん」

生まれたその日から今までずっと年上のまま、私のお姉ちゃんのままでいた人はすぐさま相好を崩した。

「あっらーやだーちゃんたら偉いのねえ」
「いちいちムカつく! お姉ちゃんのバカ! ……でも、ありがとう」
「おやツンデレ」
「ほんとにバカ!」
「そーいうとこ彼氏に見せてみなさいよ」

ご近所迷惑にならないよう気を付けつつ、慣れ親しんで当たり前となった道をかしましく帰ってゆくさ中、約一年前のまだ少し肌寒くとろとろとした春の夜、並んで眺めた思い出深い海が瞼の裏で音もなく満ちる。
佐伯くんが明日には東京へ引っ越してしまうというのに、交わした会話のほとんどが他愛なく、取るに足らない、いつも通りの調子だった。
お尻の下の硬いコンクリートのざらつき。階段に腰掛けていると足の長さの差が如実に現れ、神さまの無慈悲な仕打ちに項垂れたくなった。
大きな掌に握られて高い体温が直に伝わった事、潮香でほのかに湿った頬の感触と好きな人のにおい、寒くないかと聞きはしても風邪引く前に帰ろうとは言い出さなかった低い声の近さに、何度も繰り返される波音が混ざる。
触れるだけのキスをして、なんでもいいから話していたいと言葉を紡ぎ折り重ねた、あたたかくてなだらかな時間が今になって胸に甘く、だけど同じくらい切なかった。

会いたいとお願いすれば佐伯くんはきっと、いいよ、何なら今から行こうか、笑って答えてくれる人なんだろう。
わかっているのに口が裂けても言えない、意気地なしの自分が嫌になる。
ポケットに落とし込んだ携帯端末の重みを過剰に感じ取ってしまった私は、電話を掛けたい欲求を蹴散らすのにそれなりの時間を費やしたのだった。






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