02 息巻いて突き返したのはいいが、翌日には平静を取り戻し、単刀直入かつ率直にすぎる商品を、さぁやるぞ! といった熱意で手にする事への疑問が噴出した。 よく考えずともおかしいだろう。 意味がわからないし、一連の行動が相手に露見したらその場で死を選ぶと真剣に熟考するくらい、とてつもなく恥ずかしい。 そもそも付き合いは長くても経験が豊富かと問われれば‘いいえ’一択、初めてした時から今に至るまでを数えると両指をちょっと越す程度で、姉や友人へ打ち明けたら散々なリアクションを頂戴する事間違いなしである。 正気か、普通になんでよ、いや逆に大丈夫なの、と現実味含む幻聴が頭の中を駆け巡っていく。 要するに私は刺激がどうのこうの言える段階では全くないし、お姉ちゃんの助言を活かせる段階でもなく、毎回ドキドキしてしまって、緊張やら何やらで精一杯なのだった。 だからしょうがない、なんて言い訳するつもりはないけれど、ハンデと時間が欲しいのは確かだ。 認識そのものがすっぽり抜け落ちてい、コンビニやドラッグストアとどこでも売っているものにもかかわらず眼中になかった。 見止めた所でどんな顔をして買えばいいのか悩み出す。慣れぬあまり不審人物認定されたら嫌だ、いらぬ気鬱に苛まれ、佐伯くんはいつもどうしていたのだろう、ふと考え付くが早いか首から上が羞恥に染まり、ひと欠片も想像せずにいた己の意識の低さと沸き出る罪悪感に押し潰されかけた。 彼女失格なのかもしれない。 もっと色々上手に出来て、面倒臭くない子の方がよかったんじゃないか、 急降下する感情で体が鉛めいて重くなっていく。 一方で、なんでもない事も私が明後日の方角へ捻ってしまっているだけ、とも思う。 たかがコンドームだ。誰でも手に出来るし、多分使わない人の方が少ないはずで、逐一立ち止まり迷うのが悪い。 (こんな風に馬鹿正直に考える私がおかしいのかな) ぎゅうぎゅうに詰め込まれもみくちゃにされる満員電車から解放された後も応えのない問題と延々向き合っていたらば、一人暮らしを認めさせた方法や経過、データの集め方を一から十まで聞きたがり、遂には大笑いし始めた人の声が脳内でこだまする。 「だってさ、相変わらずかっこいいじゃん? こうと決めたら一直線! おまけに結果まで出すんだもんなあ。俺も負けてらんないって気合い入るよ」 尋ねておいて笑い飛ばすとは何事かと咎めた私へ、やけに弾んだ口調が届いた。 蛍光灯のまどろみに溶ける眦はやわく、上下する喉仏が機嫌の良さを表していて、端も綺麗に整った唇に名前を呼ばれる。 青々と燃える海が日付の上に添えられた佐伯くんの部屋のカレンダーは、まるで写真集だ。 「実績、根拠、裏付け、キミがずっと気にして来た事だ。で今は、そうだな……理由が必要なんだろ、ホント理論派だよね! 俺は結構ね、感情で動くよ」 楽しそうに跳ねた、あたたかい響きだった。 彼が下した自己評価にちっとも納得がいかず、そうかなぁ、と首を傾げ眉間へ皺を寄せたら、何年聞き続けていても爽やかとしか言い様がない笑声が鼓膜へ馴染む。 何気なく、ぽん、と頭に手を乗せられ自然視線が上向いた先には、強かに光る揃いの瞳が在った。 「けど、お陰でと付き合えたんだって思ってる。……おめでとう、一人暮らしが決まって良かったな。あ、だけじゃなくてさ? 俺も良かった」 耳元へ滑り髪を梳く掌は真ん中辺りが熱く、指先はいつもより温もりが薄い。 心地好い声は最後まであまやかに続いている。 なぁ、。 ほんの少しだけ低くなる響きで、心臓の一番柔らかいところが縫い止められた。 「電車……あと四本くらいなら遅いやつでもいいんだよな」 だからまだここにいて。大丈夫、キミが帰れなくなるような真似は誓ってしないさ。キスまでにしておくから。 ※ とはいえ突っ走りすぎたかもしれない。 昔からの悪い癖だ。思い込みが激しい上、即行動に移してしまう。 キッチン用品、服、大学関係、雑貨、記されたダンボールを仕分けし開封を試みる。 大きな家具や重いものを昨日の内にひとまず運び入れて貰って、残りの荷解きは自力でやると決めていた。 経費削減、貯金の死守。 主な理由はその二つ、以外は仕事が忙しい両親にはなかなか気安く頼めない、母や姉を本格的に引っ張って来たらあれは何これはどこそれいらないでしょ合戦が始まり片付けが進まない、等々家族に関する問題である。 佐伯くんを巻き込むつもりも最初はなかったのだが、男手が必要だろ? 手伝うよ、とかなり前から申し出てくれていて、突っ撥ねる理由なんかないし、何より気持ちが嬉しかったから、じゃあお願いする、とお言葉に甘えたのだった。 あの時の選択は正しかった、息を吐く。 風のように颯爽と付いて来、嵐の如く騒がしく去っていった母の助言は間違っていないもののどこかズレており、ベッドだけでなくテーブルやソファなんかも微妙な配置換えが必要である事に生活用品を仕舞う途中で悟ったのだ。 じゃあお母さん帰るけど、なんかあったら佐伯君に手伝って貰いなさい。明日手伝いに来てくれるんでしょう。しっかりね、これからも逃がさず捕まえとくのよ! あんたの彼氏はあんたよりずっと頼りになるんだから。ホントなんであーんなイケメンがうちの子なんかと付き合ってるのかしらね。ちょっと、明日理由聞いといて。 色々とツッコミどころのある言葉を置き土産に騒がしく帰っていった人へ、呆れ半分不満半分の文句を脳内に並べる。 佐伯くんに迷惑かけないでよ、少しは遠慮して。確かに私一人じゃ頼りにならないかもしれないけど、お母さんだって似たようなものでしょ。 しかし所詮は独り言、ぶつけたい張本人がいなくば気も紛れない。 ちらと手元を見下ろすした先、大きめのサイズのダンボールの中には小箱がいくつかあり、その内の一つがちっぽけな第一歩だった。 わざわざ引っ越し前に買う事はない、新しい生活に慣れてからでもいいだろう、考え至ったのは先ほどシャワーを浴びた後の事で、自分のバカさ加減に悲しくなる。 その気はなかったとしても、これじゃあ念願の一人暮らしに浮かれ意気揚々と用意したも同然だ、万が一見つかりでもしたらお願いですから忘れて下さいと床に頭を擦り付けるしかない。 思い切りつきたかった溜め息を我慢して、畳んでいた足を伸ばした。 (さっさと仕舞おう) ふっ、とお腹に気合いを入れて立ち上がり、ベッドサイドに置く勇気や根性は無かったので、テレビ台代わりにした背の低いキャビネットの引き出しへ落とし込む。引っ越しを機に買い入れた家具からは、木材の新鮮なにおいが仄かに香っていた。 ひとまず問題は解決したと片付け、意識から押し遣ったのち、黙々と孤独な作業を続けた。 エアコンを稼働させていても室内はじんわり暑かったが、寝室と呼ぶにはあまりにも小さな空間と狭いキッチンの仕切りを冷房の効きをよくする為に閉めると、埃っぽくなってしまうのだ。引っ越したばかりで仕方のない事とはいえ、これから訪れる人の存在を思えば空気は出来るだけ籠もらない方がいいに決まっている。 二つ目のダンボールを空にし、考え付かなかったけどこれをまとめて捨てるのはひと苦労なのでは、降って沸いた懸念に眉を顰めたとほぼ同じタイミングで耳慣れぬチャイムが冷風を割った。生活に必要な物のすべてが設置されていない所為か、やたら爽快に天井まで高々と響く。 はっと携帯端末を確認すれば約束の時間だ。 私の意志を無視して跳ねる鼓動に気圧され、申し訳程度に服を払い、頭の天辺の髪を撫で付け軽く整える。悪あがきだとしても気にせずにはいられなかった。 丸まったガムテープや包装紙の残骸と、一応分けてみた必需品と雑貨類、方々に散らばり転がるものを避け小走りで玄関へ向かう。 人をお招きする状態でないのは百も承知だが、向こうだって引っ越したてだとわかっているはず、言い聞かせ鍵を回しチェーンも外すと思いがけず息が弾んだ。 実家のものより僅かに重い扉を押し開けるや否や、目を焼く光と気管にこびり付く熱気の両方が体の前面へぶち当たる。 どこにいても届く蝉の声が大きくなって喧しい。 「ダメじゃん? ドアは相手が誰かちゃんと確認してから開けなくちゃさ」 燦々たる夏の所為で細くなった視界が、それでもただ一人の輪郭を正確に捉えた。 ニコッという擬態語がぴったりの笑顔で至極真っ当な指摘をする佐伯くんは、外廊下に差し込む陽射しを斜めに浴び、明暗の太い縞模様に染まっている。色素の薄い髪色は記憶の通り変わらない。 何も長い間会っていなかったわけではないのだから感慨を抱くシーンでもない、わかっているのに胸の内側が甘い音を立てながら軋んだ。 ごめんなさい、謝るべきか、久しぶりの第一声がそれなの、ツッコむべきか迷う内に、 「お邪魔します」 飾り気のない声音が転がり、玄関の狭苦しさなど物ともせず爽やかに響く。 目が覚めるよう我に返った。 「うん、どうぞ…って、あ、えーと散らかっててごめん」 「アハハ、だから手伝いに来たんだって」 ドアクローザーがゆっくり室外と屋内を区切って鉄製の扉が閉まった瞬間、きつい陽光は途絶え、腫れぼったい空気も和らぐ。 履物の類はまだ手つかずでダンボールに詰め込まれているお陰で、佐伯くんみたいに平均値身長を越す男の子が靴を脱ぐスペースは十分にあるが、いざ収納する時に工夫をしなければ上がりにくい部屋になってしまうだろう。実際目の当たりにして浮上した問題点だった。 不思議な緊張でむず痒いお腹の裏を忘れようと昨日確認したシューズボックスを脳内で蘇らせていたら、うっすら日に焼けた左手に白いビニール袋を差し出される。 「はいこれ」 「え?」 促されるまま覗き込む。 ペットボトルに入った飲み物やアイスにプリン、簡単につまめるサイズのお菓子のパッケージが垣間見えた。 「差し入れ! 陣中見舞いってヤツかな」 どうしたの、と率直に投げた問いに対し端的な解が寄越され、慌ててお礼を口にすると同時、佐伯くんがぽんっと私の肩を叩いて雑然とした部屋の奥へと進んでいく。 気にするな、片付け頑張ろう、二種類の気さくな言葉が詰まっている仕草だ。 とりあえず常温で置いておけない分を空っぽの稼働したばかりで独特に冷え切ったにおいのする冷蔵庫へ仕舞う私の耳に、へえ、思ったより広い部屋だな、こだわりのない声が届く。 「が狭い狭い言うからそんなにかって思ってたけど、別にそこまでじゃないじゃん。俺んちより過ごしやすいかもしれないぞ」 「まだ荷ほどきしてないから広く見えるんだよ」 「そう?」 「うん。多分荷物整理終わる頃には、あれこんな狭かったっけ……ってなるよ」 「片付け始める前からガッカリした声出す事ないだろう?」 暢気とも取れる笑んだ響きの端々に、変わらない佐伯くんを感じる。 彼の方は言わずもがな忙しく、私も私で引っ越しの準備があったから、最近は以前よりもきちんと会えていなかったのだけれど、久しぶりのひの字も交わされなかったのは良い事なのか悪い事なのか。 数年離れていたわけじゃなし感動的な再会など有り得ない、第一望みもしていなかったとはいえ、あいていた距離と時間の経過どちらともほとんど匂わせない彼の大らかさが時々悔しくなる。 私なんかちょっと顔が見れないと寂しくなって、ただ家で一緒にいるだけでドキドキするのに。 胸の内にのみ留めた文句とも言えぬ文句は、季節を問わず涼しげで爽やかな面差しへ真っ直ぐ向かうも、一歩手前できらきらした瞳にあえなく撃墜されてしまった。 「よし、じゃ早速やろう! とりあえず俺は何すればいい? 指示、出してくれよ」 肩越しに振り返った輪郭が、窓から差す強い陽射しに縁取られている。 ※ 大物である家具の移動のほとんどを任せる形になったのは本当に心苦しかったのだが、見掛けよりずっと力持ちの人は気にする素振りを一切見せなかった。 「その為に来たんだからさ。は俺に何もするなって言うわけ?」 冗談めかした音が、それにホントは昨日合流するはずだったのに俺の都合で日にちがズレたろ、お詫びにっていうんじゃないけどちゃんと手伝わせて、さり気なくも有無を言わせない調子で奏でられるので、申し訳なさを表に出せなくなる。かといって気詰まりや困惑からはほど遠く、心臓がことことと煮え始めるような感覚だ。 有言実行の彼が元運動部の片鱗を垣間見せてきぱきと行動し、指示を出せと口にしておきながら自ら効率の良い方法を取って、私一人じゃやり切れなかったであろう事に手を貸してくれるものだから、仲の良い人ならギリギリお招き出来るレベルまで当初の予定よりだいぶ早く達しつつある。 小さめのチェストや半透明の収納ケースを箱から取り出してどこに運ぶか尋ねて来る人を、気付かれない角度から見遣る。 片膝を付いた後ろ姿は、懐かしくはないのに記憶を巻き戻すだけの存在感を放っていた。 ダンボールを畳みながら散らばったガムテーム類をまとめ、六角中の古びた校舎、方々で話し声や笑い弾ける音の響く廊下で追った背中を思い出す。 テニス部のエースだった佐伯くんは部活三昧の日々を過ごしていて、中学高校と練習で忙しく、普通ならいっぱい遊べるはずの長期休暇も合宿へ赴いてしまい、行き先があまりにも山奥だった時は携帯での連絡も満足に取れなかった。 大きな不満は感じなかったけれど、会えなくても平気と言えば嘘になる。 あの頃の私は大人になれば色々な事が自由に出来て、もっと上手く時間を使えたり自分自身で決められる分野が増えると信じていた。 ちっぽけながらも抱いていた理想がひっくり返ったのは、大学へ通い始めてからだ。 同じ敷地内で学生生活を送っていた日々の幸運を思い知らされ、歩ける距離に互いの家があり、海沿いの道を並んで帰るなんでもない放課後や、今の時間ならテニスコートだなと端末の時刻表示を確かめる片手間会いに行ける近さ等々、振り返ってみると本当に恵まれた環境だった。 大学でこれだけ会えなくなるのなら、まだ先の話だけど、就職して働くようになったらもっとなのかなあ。 影も形もないもしもの未来に気分がやや落ち込むも、社会人になるまでどころかなった後も一緒にいるものだと考えている自分に意識が向いて恥ずかしい。 私の気持ちは別としてずっと傍にいられるかどうかなんて正直誰にもわからないのに、とてつもなく自然に佐伯虎次郎という人を先々の道筋へ織り込んでいる。 (……でも佐伯くんは) 昔から離れるとか別れるとか冗談でも口にしなかったから、いつの間にか影響を受けていたのだろう。 東京へ越す時でさえ、じゃあね、とは言わなかったし、会う場所が都内に変わるだけだよ、気休めでも何でもない誠実な音を響かせた。 そこまで揺らがぬものを差し出されると、普通は困惑してしまうのかもしれない。 真面目なだけ男。 姉の悪気のない一声が脳を僅かに刺激したがしかし、倍以上強い感触が塗り替えてゆく。 簡単に会えなくなる日常の始まりを耐えようと握った掌へ滑り込んで来る、乾いた皮膚の熱さ。やんわり開かれ組み込まれて、丸ごとコートのポケットへと持っていかれる。時間いっぱい繋ぎ続け、指の一本一本が手放す事を渋るような剥がれ方をした。 力が籠められた所為かそれとも別の感情から来るものなのか、ほんの少しだけ震えていた骨っぽい指先をなるべく丁寧に思い出す。 春の宵を渡るさ中、暗がりに吸われた足音の潤みを耳の奥で蘇らせ、体中に広がった私一人じゃ立ち行かなくなりそうな衝動を辿る。 しゃがんだ背筋が、俺の部屋より眺めがいい、軽い笑声で揺れているのを目に入れ、同じ二階で眺めに違いなんて出ないでしょ、口元だけは理性的に動かした。 見るのも触るのも好きなんだと思う。 佐伯くんの背中はスポーツに励む男の子のそれで硬く、本当に分厚い板が入っているみたいなのに、不思議とやわく感じるのだ。 キスをしたり内緒話をする時、屈んでくれる角度と形が不意に胸を打つ。 ふざけて乗っかって抱きついて、お、どうした? と嬉しそうに笑う顔が見たい。 叶うのなら、今すぐにでも。 「うわ懐かしいなこれ」 真夏の陽に当てられた室内を割る声が、腑抜けた思考回路を叩き壊すかのよう零れた。 あたかも見計らったが如くのタイミングだ、ヒッと飛び上がる寸前だったのを飲み込んで堪え、どうかした、と赤ちゃんがはいはいする姿勢で隣へと辿り着いたら、 「…えっ、あれ!?」 「わざわざ持って来たんだ?」 同じ本でも一回り小さく見せる掌によって、実家で引っ越しの準備の際に見返した卒業アルバムが掲げられており、思わず正座する。 何気に重いしと本棚に仕舞ったはずなのに、なんで、疑問が沸くと共に霧散した。 「……お姉ちゃんだ……」 「お姉さん?」 「うん…荷物整理してる時手伝ってくれた、っていうか邪魔してくれたんだけど」 「また辛辣だな、ハハ」 「だってほんとに邪魔しに来ただけだったんだもん。その時ちょっと一緒に見てたの」 ちらと視線を流せば覚えのある装丁へ行き当たり、なるほど血を分けた家族はご丁寧に中学と高校両方のアルバムを手近なダンボールへ突っ込んだらしい。 虚脱と憤怒の合わせ技によって膝と肩をがっくり落としたくなった。 もう絶対今日中に電話で文句言う。 今頃千葉でニヤついているかもわからない姉を睨み付ける要領で眉間へ皺を寄せ、何故彼女が無駄に荷を増やすイヤガラセじみた真似をしたのか思い当たってはっとする。 寂しさや気を紛らわせる方法を察知され、うんざりするほど散々からかわれたのだ。 あんたってマジわっかりやすい、佐伯君写ってるとこだけ開きやすくなってるじゃない。ほら、見過ぎて跡ついてるし。 「んちは姉妹仲良いよね。俺の姉さん、引っ越しの手伝いなんかしてくれなかったぞ。東京行ったらあれ買って来いこれ調べて教えてって言うばっかでさ」 ぱらぱらとめくられていくページを待って下さいお願いしますなどといきなり止められるはずはなく、かといって溢るる羞恥心を隠し切れるだけのスキルもない、絶対気付かないでと心底祈ったところで意外と目敏かったりもする佐伯くんが見落としてくれるかは非常に微妙と来た、いよいよ頬の赤みを肌に添う熱で以って自覚し始め、焦りやら恥ずかしさやらで大人しく座っていられなくなった私は勢い良く立ち上がり、 「ついでだから一回休憩しよ! 私飲み物持って来る」 返事が戻るのも待たずに敷居を跨いで逃げた。 外廊下側のキッチンはエアコンの風が届き難い所為で多少蒸していたが、平然と彼の横でアルバム鑑賞する自信も勇気もないので致し方ない。 消極的にもほどがある選択に長い溜め息を吐いて、買ったばかりのコップをざっと洗い拭く。ぴかぴかのシンクに跳ね上がった水滴がやたら綺麗で、ともすれば艶めかしくもある。 逸らし、冷蔵庫の軽い扉を開くと、相変わらず真新しい電化製品のにおいがした。 いまだ驚異的な視力を誇る人にどうかバレませんようにバレませんようにバレませんように。 力強く三度唱えたのち踵を返し、氷入りの麦茶のコップを設置したばかりのローテーブルへ恐る恐る置く。瞬時に手元から目を離し、ありがとう、ときらきらの笑顔で述べる佐伯くんはいつもと相違ない気がする。 緊張や後ろめたさとも違った高鳴りを深い呼吸で殺し、下方へ素早く落ちた鼻先の整い具合を心に留めつつ腰を下ろした。 ざっと目を通した程度なのだろうか、つい先ほど手にあったのは六角中の卒アルだったというに今や高校のものへと移っている。 これなら見落としてくれたかもしれない、微かな安堵に胸が和らぎ、強張った肩も緩んだ。 市販のものより上等な紙面には高校時代の思い出が詰め込まれてい、覚えのあり過ぎる教室や校舎の風景、クラス写真などが佐伯くんの左手で露わになり、そういえばこの時、と口を挟もうとして、やはり開きやすくなったページまで一気に飛ぶので肝が冷えてしまう。 咄嗟に後退り、アルバムの中でも煌めく笑みを浮かべるその人の表情を確かめたら、思いがけず真剣な横顔に視界を割られ、一瞬息をするのも忘れた。 耳朶から頤までの骨や平らかな頬、窓辺から届く夏真っ盛りの太陽の所為で余計に影を帯びる睫毛と、凛々しい眉のすぐ下には冬の薄光さえ蓄える瞳がまたたいている。引き締まった輪郭のラインは部屋の壁色とちぐはぐに思えてしまって、あまやかな違和感が苦しい。心臓にぬるい痛みが差す。 「なに?」 こちらの気管が固まった事に気付いたらしい佐伯くんがおかしそうに小首を傾げるので、油断のない反応速度にちょっと怖気付いた。 並の人より視野が広いのか、もしくは私が稀に見るわかりやすさなのか。 なんでもないです、とうろたえ子供じみた返答にも爽やかな対応。 「なんでもない事ないだろ、人の顔じーっと見てさ。なんかついてた?」 「……ついてない」 「ホントに?」 アハハと上機嫌な弾みの一つでも放り込まれかねない流れに抗おうと、先刻の短い間に抱いた感想を投じる。 「でも佐伯くん、ちょっと痩せた感じがする」 「え、そっかな?」 「うん」 「自分じゃ全然わかんないけど」 顎を摩ったり、片側の顔を覆ったりする左手の甲は大きくて、浮き出た血管の青さや指へ繋がる骨が、目の裏に得も言われぬ感慨を含ませた。 数年前の写真に写っている人と、今、傍にいる彼は同一人物だというに、何もかもが重なるかと問われれば、素直に頷けない部分がある。 フローリングの床にくっつけた足が落ち着かない。 佐伯くんは常に安定していて、そつがなく、変わらずに爽やかな人。 今日抱いたばかりの意識が早くも崩れ出したのだ。 「は変わんないよなぁ」 若干、しみじみ感じ入るような響きだった。 言い方がたまにおじさんみたい。 言葉にしたが最後、かなりの確率で複雑な表情を寄越されるとわかっていた私は、図星を指された不覚と現実を突き付けられた悔しさを堪え、大人しく乗っかる。 「…うん、自分でもあんま進歩してないと思うし」 「いやそうじゃなくてさ?」 ところが間髪いれずの否定をされ、地味な努力が颯爽と吹き飛んでいく。 じゃあどういう意味なの、聞こうとして眉を顰めつつ開かれたページから目線を持ち上げた。 「可愛いままだよ。あの頃からずっと、俺にとっては一番の女の子なんだ」 胸の中心を重たい一撃が貫き、全身の血液があっという間に沸騰してしまう。 ろくな瞬きも出来なかった。 当然、例のニコッとした笑顔でこちらを射抜く佐伯くんと目が合って、 「……そ……そ、う………」 無駄に長い間を挟んで、不自然極まりない上に冴えないひと言をやっとの思いで紡ぐ。 最早息も絶え絶えだ。 部屋の空気や涼風の両方が一気にしな垂れかかって来る心境に陥った。 唇は乾いているにもかかわらず口の中には唾が込み上げて、飲み下すタイミングがまるで掴めない。脈拍が乱れに乱れ、心音もまた平静を失いあちこちでつかえる。 重力に対抗するだけの余力さえ削がれ、再び俯く以外の選択肢がなかった。 滑る床に両手を付いて、陽の差すアルバムの白面を目に入れ、チノパンを穿いた長い足を見るとはなしに見る。片側は胡坐を掻き、もう一方は立膝の状態にしている、曲がった部位の皺を意味もなく観察し、名付けられない感情を持て余す。 顔が熱い。 いっそ呻き声を上げて突っ伏した方が楽なのでは、としょうもない空想へ逃避するさ中、肋骨を目いっぱい揺する想いが徐々に形作られてゆく。 佐伯くんも私の一番だよ。 嬉しい。 ありがとう。 数十秒あれば充分に伝えられる言葉達はしかし、一向に出て来そうになかった。 胸と言わず喉と言わずあらゆる器官が詰まって、速まるばかりの心拍数に気圧されるだけだ。 なんでもない風に言おう、佐伯くんだって当たり前みたいに口にしていたじゃないか、意識するからいけない。 必死で自分自身を説得していたら、ふと淡い影が降った。 熱を帯びた掌が所以だと気付いたのは、筋張った人差し指と中指に耳朶を挟まれ、首筋を穏やかな手つきで撫でられた後の事だ。 怖くないのに肩がびくついて、急に際立った静寂で耳鳴りがする。 高鳴りの頂点と薄茶の前髪の奥で揺らぐ双眸、近付く気配や体温の全て、ごく一瞬しか味わえない。わかっていても上手く出来ない。 きっと先に目を閉じたのは私だった。 緊張と歓喜で震える唇が呼吸をやめ、小さく擦れた肌に微かな眩暈を覚える。 こめかみを通る太い血管はどくどくとがなって裂けそうだ。 裏腹に、ゆっくり触れて来た熱は静かで、とても優しかった。 「……こんな風にとキスするの、なんだか久しぶりって感じだな」 私が抱きつきたくて仕方なかった広い背中を元の位置まで戻し、 「ちょっと緊張しちゃったよ」 はにかんで髪を掻き上げる仕草に時間が逆流する。 幾度となく目にした、照れている証拠。 頭の天辺から足の爪先までくまなく駆け巡って揺れ、今度は形にも言葉にもならなかった。嬉しいもありがとうも何もない。本当は握り拳を作って皮膚の下を這い回るどうしようもない衝動と高熱を逃がしたかったけれど、指一本ぴくりともしてくれず無闇に黙り込む。 (佐伯くんに会いたかったよ) 気持ちだけが先走り喚いてうるさい。 今日、顔を見て一秒で久しぶりだと感じた。彼がどんな風に捉えていたかは明白だ。知れた途端、異様なまでの質量を孕んだ実感が体の軸を浸食する。沸いて溢れ、込み上げて、舌の根に絡んで潤む。 時間が思うように使えなくて、気持ちさえ上手く伝えられなかった。 積もり積もったものがひと塊になって混ざり合い渦を巻き、ここから出せとばかりに喉を叩く。 息を吸って吐く。 吐き切ってまた吸い込む。 普段無意識に繰り返している呼吸の方法や機を見失い、お腹の下でにごり揺蕩う熱で肩が強張った。 少し迷っている仕草で、どことなく照れ臭そうに後頭部から襟足にかけてを掻く横顔を、ただ見詰める事しか出来ない。 「ん?」 「………ううん。……あの…あのね、」 自らに送られる眼差しを目端で受け取ったのだろうか、首を捻った佐伯くんは不思議そうな面持ちで、どんな一挙一動も受け流せない私はそれだけで次へ繋げられなくなる。 視線の行く先は逸らせず、渇き続ける唇の内側がもどかしかった。 途切れた声をじっと待ってくれる人の名前を心に何度も描く。 (誰に言えばいいんだろう) この人の事が本当に大好きだと。 ようやく、今になって本当の意味で気が付いた。 自分で考えているよりずっと会いたかったんだ。 なんの憂いもなく笑いながら背中に抱きつき、理由なんかなくたって触れたくて触れて欲しくてキスがしたくて、裸になって抱き合う事も季節を無視してブランケットを被りベッドの中でじゃれる事も、一番近ければもう何でもいいから傍にいたい。 キスまでにしておくから。 誠実な上あたたかな心遣いしか存在していない、時として冷静にも思えるその優しさが嬉しいのと同じくらい寂しかった。 肯定も否定も選べないままだった自分がもどかしく、切なくてどうしようもない。 せっかく一緒にいるのに、帰る時間を気にしなくちゃいけないのが嫌だった。 でも――どういう言葉で表せばいいのか、第一声に出しても許されるのか、躊躇うというよりわからない。 チ、チ、チ、と一定のリズムで部屋を支配する時計の音はメトロノームじみている。 時折、街の雑踏や生活音が窓を打つも、些細なはずの針の動きの方がどうしてか全てを上回った。 「」 時間の流れが緩やかになる。 差し込む陽射しに透かされ空中を舞う埃や塵の一つ一つが美しく煌めき、その細やかな光の粒子が佐伯くんの端正な顔立ちを彩っている所為だ。 「続きは」 背筋に電流が走る。怖いくらい静かな声音だった。 あのね、の後を望まれていると深く理解したにもかかわらず、喉は微動だにせず視界が淡く濁って危うい。泣きたくなんてない、だけれど確実に目の隅は腫れぼったい雫で突かれ始めていた。 不安定な胸元をやっとの思いで膨らませようとした刹那、エアコンによって冷やされた床へ置いた手が高熱にくるまれる。 掌型のそれは逐一確認するまでもない、佐伯くんのものだ。 割合重厚なつくりのアルバムが放られた音がした。 知らぬ間に手の甲から離れていたらしい左手に、耳へ降り掛かった髪の幾筋かを避けられる。 気を張らなければ逃しそうにささやかな衣擦れは鼓膜を撫で、次いでごく薄い影が網膜を染め上げ、終いに底光りする瞳に射止められて息も出来ない。 照れてもいなければ小首を傾げてもいない彼の、本当に整ったかんばせが私を見下ろしている。 鼻先を寄せられた後の一瞬だけ走る下目遣い。 たったの一動作で心臓が捩じ切れかけたのに、何も紡げない役立たずの唇をほの熱い吐息で舐められるからもう死んでしまうかと思った。 重なる感触は柔らかく、口の中で溶けた温度があたたかい。 閉じた瞼の裏で想いが滲む。 うっとりと受け入れる間もなく強く抱き竦められるので、胸の軸から背骨にかけてがひくついた。 服と服が擦れ合わさる気配は耳奥を炙る。 背中へと回った大きな左手に左の肩を包まれ、ぐいと引き寄せられ、一方の右手には頬を覆われ鳥肌すら立てられなくなった。 耳元に当たる男物のごつごつした腕時計が硬くて冷たい。左利きの佐伯くんはいつも右の手首にしている。どうという事もない些末事が脳裏を巡り止まず、体の中も外も一人の人で満たされていく。 苦しさに喘ぐだいぶ手前で息継ぎのタイミングが生まれた。 は、と薄まった酸素を吸うや否や塞がれても心地よさしか残らない、唇をゆるゆると撫でるようなキスは私から思考能力を奪う一方だ、優しく食まれてお腹の底がざわついている。 佐伯くんのぶ厚い肩に置いていた掌を握り締めるのと、私の顎を支える同じく厚い右の掌が落ちていったのは、ほとんど一緒だった。 薄手のTシャツの上をなぞり、腰まで届く。目を覆う幕の裾と睫毛が勝手に震えたのがわかった。脇腹の周りを上る手の熱が高い。くすぐったさに身をよじるより先に、佐伯くんの幅広の手は迅速に、でも穏やかに動いた。 小さな丸を描くよう、私を撫で摩る骨っぽい指が行き詰まった所。 他の四本は脇をやわく押し、親指だけが布越しの胸のすぐ下で留まっている。多分、ブラのワイヤーの辺りだろう。乱暴なんかじゃ全然なく、やらしい触り方でもない、求められていると芯から思える手つきに全身が熱く総毛立った。 呼気の零れる狭間が微かに膨らむ。 全部離れ切らぬ内に角度を変えながら続く。 こちらの肩先に在った左手がとても自然に首の裏へと伝い、やんわり押し撫でられたかと思えば、不意にキスが深くなった。 私の項を包む掌に上を向くよういざなわれ、息と言わず口の中と言わず体中が甘い。 脈拍は一定の間隔を保ちつつ速まっていき、佐伯くんに触れている所から溶け崩れてしまいそうで少しだけ怖かった。 甘噛みし合うと周りの音が何も聞こえなくなる。 口づけながら下唇を濡れた舌でぺろと小さく舐め上げられ、乞われるまま隙間を作れば、酸素の代わりにざらついた熱が内側を這うよう入り込んで来、時間をかけて口蓋をひと撫でし、やわい肉を丁寧に摩っていって、気持ち良くなってしまう唾液が口腔内で染み零れた。 眩暈が甘い。 節くれ立った指に首の裏を幾度となくゆっくり擦られくらくらする。 背中を怖気に似た震えが駆け上がり、やがて耳下の窪みや喉の横にまで達すると、得も言われぬ感覚を得た肌がまるで自分のものじゃなくなった。大好きな人が私の体も心も一緒くたにしてまぜこぜにする。境がわからず、言う事を聞いてくれない。 懸命に堪えても物欲しげにうねる喉へ水に近いぬるさが落ち下り、でも溺れはせず飲み込めるだけの間があった。 初めは知らない感触に戸惑い腰が引けたが、今では味わえば味わうだけ増す愛しさで自分から口や舌を動かしてしまう。恥ずかしい事だと思うのに、すごく自然に許してくれるからどんどん止められなくなっていって、薄く瞑った瞼の裏が煮崩れる。 熱っぽく籠もった呼吸、やわらかい唇、滴り濡れそぼる舌の全部に、同じところで触っていたい。 息とキスのしやすい側に顔が傾く時、そっと剥がれても舌は繋がっている。もう私にはどうする事も出来なかった。見た目よりずっと太い首に両手を回し、あいていた隙間を潰す。布越しの体温がぐんと近付き益々揺らいだ。 他の誰かとした覚えなんかあるわけないし、経験や知識だって乏しいけれど強く言い切れる。 佐伯くんはキスが上手だ。 温かく優しくていつも気持ちがいい。無理をさせられた事だってほとんどなかった。仄かな酸欠に陥ってもずっと続けていられる気がするのだ。 時々思い出したみたいに空気へ伝う息の気配が皮膚に染み込む。 濡れたまま掠め戻り、しっとり擦れ合い、柔さと腫れぼったい熱が唇の内で膨らんでゆく。 舌が生むとろついた水音が脳を蝕み何も考えられない。強く弱く、深く浅い。不規則に繰り返されると心地よさが緩やかな渦を巻き、全身の隅々まで痺れて、閉じたはずの目が眩む。 とうとうあからさまに、ちゅ、ちゅ、と唇や舌を吸う音が零れ始め、たまらず震えた。 甘ったるいものが喉に絡む。 「…ん…ぁ……ふ、う、っ」 言葉どころか単語にすらなり損ねた声の最後を些か荒く塞がれて、元々破裂寸前だった心臓が締め付けられ詰まり、その一瞬後舌の上から肺までを涼しい空気が通った。 「……ダメだ」 潔く唇を離した人が、ぽつりと言い落す。 まだ呼吸は熱いのに余韻に浸る暇もない。 わだかまる四肢の表面とは反対に胸の内がいとも容易く冷える。 「え…」 「ごめん、いきなり。俺買い出し行って頭冷やして来るな。何か必要なものはある?」 力強くはあったけれど苦しさなど存在していなかった拘束がすんなり解かれ、あんなに間近だった体温も遠のいた。誠実極まりない響きを奏でた彼が立ち上がる為に膝頭で床を蹴り弾みを付けるのを見た途端、体の芯を駆け抜けた激しい衝動が私を急かした。 ぞっとしたのかもしれない。 「あ、ま、待って!」 思わず膝を立たせて追い縋ると、似たような体勢だった佐伯くんが目を丸くしつつも勢い余った私の肘の辺りを支え持ち、前のめりにぶつかるところを受け止めてくれた。 「どうしたの」 形の良い瞳のふちに生え揃う睫毛はしきりに瞬き、びっくりしている様子だ。 「あの、大丈夫。何もいらないから。だから……」 硬いフローリングに当たった膝小僧が微かに痛む。 困らせたくない、言うべきじゃない、本当はだめな事かもわからない。 あらゆる可能性や恐れが脳裏を足早に巡るも、堰を切って溢れる感情とシンプルな欲の方が格段に速かった。 休みなく連なる脈拍で胸が詰まって押し潰されそうだ。自分のそれとは大違いに引き締まって乾いた素肌を握る指先に力を入れ、緊張とじれったさに侵された息を慎重に、細心の注意を払い断ち切る。 「続き。し、たいです…」 血と心臓が一気に蒸発する錯覚を抱いた。 ひそめく願いは平静を取り戻した部屋にさらりと混ざり、予想より上擦った音にならなかったまでは良いが、代わりに妙に浮き立って聞こえてしまい、頬や耳がカッとが燃えた。おまけに目の前の人が今までになく強烈に固まったのがわかって、とんでもない羞恥が顔全体を蹂躙し覆い尽くす。 絶対に引かれた、ドン引きされた、どうして我慢できなかったのもう消えてなくなりたい。 一秒と経たず情けない半泣きの状態と化した私はなけなしの気力を掻き集め、がたつく唇を動かす。 「ご……ごめん。なさい。だめだよね、やっぱり何でも」 ない、続けようとしたら、まるで時間を止められたみたいだった佐伯くんがハッとした表情で蘇る。 「え! あ、いやそうじゃない。じゃなくてその…俺もしたいけど、今日するつもりなかったからゴム持ってないんだ」 普段なら重たい一撃と化すストレート過ぎる物言いも、今この時に限っては救いの一手だ。 拒絶されたわけではない。 嘘をつかない人の事実が背中を押す。 その上ちょっと焦った否定まで重ねられるものだから、咽喉に我を失うほどの弾みが浮かんで飛び出ていった。 「私持ってる」 「……え?」 「任せっぱなしじゃだめだって。…それで、その……ちゃんとしたくて…し、しないと私、言いたくても言えなかったり出来なかったりするし、そういうの…もうやだったから。あ……あと、他にも色々考えちゃ、って、っわ!?」 口を回さなくば即訪れるであろう沈黙が恐ろし過ぎて必死に繋ぐ途中、知らぬ間に下がっていった視線を肘ごとぐいと引き上げられ声帯が裏返る。 まともに目が合うだいぶ手前で背中側へと逞しい腕が滑って、さっきまで私の唇や舌を食べていたものに言葉を奪われ、Tシャツの裾から忍び込んだと思った次の瞬間にはするする上って肩甲骨の傍まで進む大きな掌に背筋や腰元が粟立ってしまう。今度は私がびっくりする番だった。 「えぁ、す、すぐじゃな、い…っ! ま…待ってやだやだ、私いま汗」 ‘続き’のひと言に微妙な齟齬があるのではないか、場違いな焦燥に加え、事ここに及び引っ越し作業用という色気も何もない己の恰好へ意識が向いて怖気付く。 綺麗な仕上がりには程遠くともせめて簡単にでいいからシャワーを浴びたい、お腹の底の疼きを振り払いながら必死にかたい胸板を押し退けようと試みた。 「さ、佐伯くんだって嫌でしょ? 汗かいてる私!」 「いや、興奮する」 ところが全てを無にする声が鼓膜を舐め、熱の入った響きはおとなしやかなのに剛速球じみた威力があって、私は本当に卒倒しかけた。 佐伯くんが僅かに肩を竦める。 「俺は汗かいてるだって好きだよ」 あのなぁ、昔から俺を美化しすぎなんだって。 次に首を傾け少しだけ困った風に笑う。 筋の窪みを辿って背骨一つ一つを確かめるよう布の中で蠢く指が、想いを込めて語り掛けて来る。 うっすら汗ばんでいるそこをしかと触れられたくはないのだが、佐伯くんは気にする素振りも見せず口の端を和らげて囁いた。 「別に、キミが思うほど出来た人間じゃない。知らなかった? 俺かなり単純でバカな男なんだけどな」 凛と輝く双眸が傍近くに在る。薄茶の前髪の向こう。さらさらとなだれる音色さえ聞き取れる距離だ。 私を丁寧に摩りなだめる左の人差し指がブラのホックの下へ潜るくせに、一向に外そうとはしない。横へ横へと滑って、少しずつずらしていく。進むごとに喉が渇き心音もけたたましく煮詰まった。 「もっと好きになって欲しくて…いつも必死さ。だから上手い事カッコつけたいってのに、なかなか難しいもんだね」 弱々しく感じられる溜め息がらしくなさ過ぎて、状況も忘れて首を横に振る。 「そ、んな…事、ない」 「そうかな」 剥かれた腰裏を這う右手には、いつの間にか意味が含められ出していた。 細かな毛穴の奥まで過敏に反応し、舌の根や繋がる喉の底、果ては肺までもが潤んで滲む。一層力強く否定しようとしたら、素早くお尻の下で組まれた両手にさっきとは違う方法でグッと抱き寄せられた。 呼吸が一挙に干上がり止まりかける。 「だってさ。……こんなだし?」 お腹に当たるものの所為で喉が鳴って、体は嫌じゃなくても勝手にたじろいだ。 半ば押し付けられたも同義、にもかかわらず強引だとは思わない、思えない。 何もかもの軸がぶれる。 お互い服を纏っていても昂ぶりが伝わり、たまらなく焦れた。 腿の付け根の更に奥、じわじわ波立つ情動で泣きそうになる。 「キミはどう。汗かいてる俺は嫌い?」 無駄に柔らかいだけの私のお腹を押す熱の硬さとは大違いに穏やかで、けどどこか熱っぽく揺蕩う面差しに瞬きも出来なかった。 もういい、と込み上げる涙を引き止める努力を捨て去る。 恥ずかしくてもいい。 してる場合じゃなくたって、そんな常識はどうでもいい。 例えば大好きな彼を困らせてしまうとしても止められない。 本当に会いたかった。 キスでおしまいじゃなくて、ずっと‘続き’がしたかった。 「……ううん。好き…佐伯くんが好き」 佐伯くんが痛くならないよう距離を詰めて、私と同じくらいどくどく脈打っているしっかりとしたつくりの体を抱き締める。 虚を衝かれたとばかりに目を見張った人は、だけどすぐに眦を緩めてニコッと笑うから、澄んだ瞳に住まう陽だまりみたいな光が強まり、色濃く豊かに揺れた。 「ありがとう。俺もが……大好きだ」 今日重ねた中で一番優しい口づけが降りしきり、どうしようもなくあたたかくて目映い。 ← × top → |