04




掬い上げてからくるむ。
まるく撫でられ体の底がじんと響き、掌全部で真ん中ごと押し揉まれると、置き場を失った手を握り締めて耐えるしかなかった。
くの字型に窪んだ左手は膨らみに触れながらも、硬さを帯びた先までは包んでくれない。時々擦れたりほんの数回淡く転がしたりと、至極優しくいたぶる。
首や鎖骨の近くを吸うのと一緒に交ぜ返されてお腹が波打った。
全身が熱い。
ふっと見下ろされて一秒だけ目が合う。
佐伯くんの伏しがちになった瞳の際へ儚くも色濃い影が寄り添い、震え始め、耐え切れないと言うかのよう揺れている。
一番強くてぶれないのは眼差しだ。
射抜き落とされる。

唇と唇が重なったと思ったら離れて下った。
クーラーの冷風を確かに感じるのにちっとも涼しくならず、汗と溶けた声と唾がとめどなく滲む。
また柔いところを支えられ、形のふちを濡れた熱が辿る。
やんわり手繰られ寄せられ、横の方を舐めながら食まれて、まばたきが途中で固まった。籠もった息を散らせない私を置き去りに肌へと口づけを降らせる彼の舌が膨らみをゆっくり這い上がって来、こめかみの辺りが膨張しうるさく脈打つ。
節くれだった指によって零された胸の下の方を、歯を立てずに甘く噛まれ、唇だけで食べるみたいに軽く挟まれて、不意に当たった鼻先の感触にすら背中が骨ごと跳ねた。
おかしい、いつもと違う、こんなの変、私じゃない。
単語がばらばらと浮かぶ傍から、違っても違っていなくてももうとっくにおかしくなっているし変だった、と思い直す。
足の裏で縒れたシーツを感じる。薄く湿り気を帯びてぬるい。佐伯くんに気づかれたくないのに腿が勝手にすれ合ってしまい、下着に染みていく。
息をつくのを見計らってかと疑うくらいちょうどのタイミングで、胸の尖りのすぐ下を親指の先で優しく押され、疼いた。
一気に吸い込まれた空気は肺に溜まって渦巻いている。
ぱらぱら降りかかった薄茶の前髪がくすぐったいと体を捩る前に、ぷくっと立ち上がったその周りだけを舌でなぞられると全部が吹き飛んだ。

「…っ、ふ……」

ゆるく揉み崩される。
もう片方の胸も分厚い掌に包まれ、まるで自分のものじゃないみたいにほぐれて腰がしなった。
吐息と水音しか零さぬ人は、中心を外して摩り濡らすのを黙ったままで何度か繰り返す。
わざとなのかもしれない。考え至るや否や頭の中身が赤く染まり、部屋の壁や天井の線が歪み濁って、滞った空気で内側から叩かれた喉はうねる。
本当に声が出ない。
いくら自分が上手な方では決してないとはいえ、今よりはマシな受け答えや反応が出来ていたはずなのに、一つも叶えられなかった。
佐伯くんたまに意地が悪い、言って精一杯睨み付けてやり、俺そこまでじゃないつもりなんだけど、とおかしそうに笑われる、幾度か重ねた夜は夢だったのかと戸惑うほど遠いのだ。大体、触れられ方自体がその時と比べ変わっている。
なんで、と焦りにも似た衝動が胸底に差し込み、我慢しようとしても余計に昂ぶり、何もかもに追い付けずくらくらした。
だから体が弓なりに反れた。

「はん…ぁ、あ! 」

佐伯くんが広げた舌で胸の先端を舐めた所為で。
やっとしてくれたと思ってしまう自分をやっぱり変だからやだと恥じる間もなく、びっくりするくらい過敏に応じてしまった。
頭の天辺から足先まで余すところなく総毛立ち小刻みに震え出す。肌が騒いで開く。抑えようと思うのに止められない。
もう一度舐め上げられ、今度はそのままちゅくちゅく吸い付かれて、声が勝手に崩れ零れた。
さっきのドアチャイムと同じに、引っ越したばかりで物が少ないから大きく聞こえてしまう。
慌てて唇を引き結ぶと、含まれて口の中であまやかに転がされる。
温い舌の感触に喉がやわく押し潰された。
背中の裏で淡い衝動が波打ってひくつく。
いや、と転がる寸前で飲み込む。
もう片方の先を緩く回し撫でる親指の皮膚が厚い。幾らか間を置いた後で思い出したみたいに摘ままれると痺れが体の深部を蹂躙してゆき、背中の湿り気が滲む速度にさえ変な気持ちが沸いて泡立った。
逸らそうとして心臓辺りにある茶色混じりの前髪に指を通し、掻き分けるつもりもなく無意識に横へ滑らせたら、当然だけど佐伯くんのおでこが見える。
脈に温みが足された。
そっと払いのける。
なだれた髪の毛を追った指先で、軽く汗ばんだ肌のしなりを得る。
男の人特有のかたい感触をそのままに夏の夜に似た濃さで潤んでおり、私は細く長い溜め息をつくしかない。
しらずしらず潜んだ震えが直に伝わったのか、幅広の掌が終いに柔い肉を撫ぜたのち下り始めていく。
胸元は汗と唾液で湿り気を帯びていて、空気に晒されると少し冷たかった。
反対に、呼吸へ差し込まれる熱は高まるばかりだ。
鳩尾に始まり、すぐ下へ進み、一度脇腹へ回って、さすりながら戻り、おへその上を通る。
大きな左手が私の体を確かめているみたい。
怖くはないけど何か不安になって、手元をさ迷わせた末に口を押さえた。
佐伯くんは辿らせた自らの手のすぐ後、同じ所へ唇を這わせる。
滑らかな掠め方は口づけと呼べるほどのものではなく、むしろほつれた前髪の方を強く感じたくらいだ、何回味わっても慣れないしむずむずする。
ン、と五指の奥で漏れた一声が耳の中で尾を引き、狭まった視界の隅は水気で捻じれて滲んだ。
スウェットのゴムのふちと表皮の境まで彼の利き手が辿り着いた時。
おへそにキスされて、喉奥で溜まっていた酸素が一瞬で破れ弾ける。あまつさえぬると舐められるものだから我慢していた分がとうとう声に出た。

「ひ、ゃっ」

お腹がびくびく引き攣れて脳は焼け焦げる。
初めての感覚なのとくすぐったいのと気持ちいいのが混ざり合ってわからない。
ほの甘い靄のかかる頭で理由を探そうとし、けれど下着とスウェットごとひとまとめにして引きずり下ろされ思考が散り散りになった。軽い悲鳴を上げてしまった気さえする。止める暇もなかった。
何とか抵抗しようと動かしたはがいいが結局半端な位置で固まった己の手の甲が目に入り、連鎖して視野を割る下布は予想した通りに撓んだ糸を引いていて、だから自分でやりたかったのに、ひどい羞恥が招いた涙で喉に染みて痛い。
乱暴とまではいかないものの荒っぽい手付きで衣服を取り払う人の掌はしかし、素肌にはごく優しく触れて来る。
私が咄嗟に立てた両膝の裏を抱え布地を滑らせていき、纏うもののなくなった太腿の外側から膝の頭までを撫でさすって、ふくらはぎを僅かに浮かせたのち衣擦れの音と一緒に爪先から抜いていった。
普通なら素通りして見落としかねない、細かな事をいちいち感じ取ってしまう。
声の一つもこぼさない佐伯くんが恨めしい一方、あの耳に残る響きを聞いたら最後、自分自身がどうなるのかわからなくて怖い。
右へ首を傾けて瞼を落とす。
恐る恐る開け放ち、瞬きを二度三度。
うっすら募った雫で霞む部屋は多少遮られているものの自然の光で明るく、猛スピードで煮立った恥ずかしさで隅々の毛穴がそば立ち、耐えられそうにないと行き場を失っていた左右の手で顔を覆った。
熱くて暑い。クーラーの意味がまるでないのだ。
作り出した薄闇越しに、私じゃない人の息遣いが聞こえる。
吸って吐いてを静かに繰り返し、押し殺している。
キラキラの笑顔を浮かべる事の多い佐伯くんが今どんな表情をしているのか、いつも凛とした光を宿す瞳はどんな色をしているのか、この組み敷かれた近さで見たかった。でもどうしてか出来なくて、目元の指を外せなくて、じれた脳が無作為に思い出す一秒前、下腹を撫でさすられるので眦が痙攣する。
伝い落ちた左指は迂回し、腰骨に触れて、下った先の腿の内をやんわりと揉んで、それから付け根へと上り詰めた。
同じ速さで息があがっていく。
もう充分にふやけたところを優しく割り開かれるだけで奥も順応したのに、丁寧に差し込まれ中の全部が震える。呼吸とほぐれた声が一緒くたになって溢れた。
痛くも強くもないけど手加減なく内壁を擦られ、ひと息吐くごとに探るよう押し突かれるといとも簡単に濡れそぼって、くちゅ、ととろみを帯びた水音が三半規管にまぶされ、やがて熱い眩暈に通じていく。
骨張った人差し指はゆっくりと先へ進み、かと思えば中を押しながら引き下がって、抜ける手前でまた還る。
それを何度か折り重ね、少しずつ角度や擦り方が変わってゆき、元々溶け始めていた場所はもっととろけて滴った。
吐息も潤んで湿る。
望んで出したわけじゃない喘ぎが混じって温い。
ぐちゅくちゅと抜き差しながら唇で甘く声を塞ぐ人が、離れた隙間で私を呼んだ。初めから応えを求めていなかったのかもしれない。息を吸ってまもなく、敏感になった硬い部分をあいた指で柔く押さえて来る。
背筋が強張りがたついた。転がったひと際高い声音も真昼に染みて弾ける。
どの指筋も過たず私を攻め立て、膨れ上がった感覚で目の前が明滅してやまない。
零れ出る雫の在り処の傍近く、尖りの先を親指の腹の反ったところで淡くつつかれ、滑りよく伝い、小さな根元から持ち上げるように撫で潰されて息が詰まった。いつの間にかびっしょりになった先端を同じくらい濡れた指でくるくる捏ねる佐伯くんが、私の中で人差し指を捻りお腹の内側へ擦り付ける所為で強烈な痺れが走った。
自分では出来ない方法で掻き回される快感に腰が砕けて奥の奥はきゅうと引き絞られる。

「あ…っ! い、や…っん、や…ぁ、ぁ」

恥ずかしかった。佐伯くんにされていると思うと、尚更。
でもすごく気持ちよくて、変になる声や込み上げるものを殺そうとすればするほど感じてしまって、脳髄が溶け散っていく。
荒い呼吸に乱れた胸をもう一回舐めて吸われ、腕の筋肉がほとんど自動的に反応した。
全身が揺れて背筋があっという間に甘ったるいもので満ちる。たまらず、張り締まった肩を目いっぱい押し退けようとしたけれどびくともしない。
いや、いや、と続く子供じみた泣き声を上書きし塗り替える強さで節くれ立った指とざらつく舌が絶えずあちこちで蠢いた。
背中と腰は勝手に跳ねて、足の裏がぶるぶる震え、独りでに立つ爪先がシーツに食い込む。本当に死んじゃうくらい恥ずかしいのにもっとして欲しい。到底言葉には出来ず胸の中だけで希う。
(やめちゃやだ)
手繰って必死に募らせる。
嫌じゃないのに、やめられるのが一番嫌なのに、なんでいやって言っちゃうんだろう。
激しい鼓動や上がった呼吸音で頭の中がいっぱいだ。全身のそこここで激しく脈打ち、指に弄り掻かれる襞はみっともなく求め、とろついた温水でシーツが濡れてしまっている気がした。
厚みのある肩口へ仕方なしに置いていた両掌が私の意志を無視してきつく丸まるので、滅茶苦茶に混ざった脳でも傷つけてはらないと瞬時に判断し、佐伯くんを掴むのではなく手の内側へ握り込んだ。痛いけど痛くない。腰の下で得る気持ちよさの方が勝ってい、いつもよりずっと早く限界が来ているのだと思い知る。
そうして言葉になっていない無意味な単語を零し、昇り詰める感覚に攫われるかという瀬戸際。
空気が急に流れた。
はっと酸素を取り戻す。
次いで腿の裏に大きな掌の温度を感じ、と同時にぐいと押し上げられて、額やつむじへ血が猛烈な勢いで集った。
微かに背を丸め屈んだ佐伯くんが何をしようとしているのか、私がどうなるのか。
わかっているから心臓も体と一緒に引っくり返る。

「や! ぁだっ、め……こ、怖い」
「何が怖い。…俺が? これするの、初めてじゃないだろ」

間髪いれず伝わった、別段潜めてもいないのに深い声音に芯が震える。
あんなに見たかった佐伯くんの表情も視線が僅かに絡まっただけで私の方から逸らしてしまった。
たった今、脳裏に焼き付いた揃いの目の、綺麗なつくりの奥に在った底無しの色と燻っているような温度に、体温が一秒も経たぬ間に上がる。
知らない男の人みたいで、心臓が更に跳ねた。
腫れた脈の音が重い。
首を横に振れたのはほとんど奇跡だ。

「ち、ちが、う…」

肌肉に一層沈んで来る指の硬さや形で脊髄が甘く蠢き、掴まれたままの体勢が燃え盛る羞恥へ火を注ぐ。

「……ちがくて、今日、私…なんかおかしくて、ほんとに変、なりそう……から、怖いの。さ、佐伯くんは…怖くない。それに、初めてじゃないけど、でも、ぁの…、……あっ!?」

言い終わる前に肺がひしゃげた。
視界がぶれてお腹の角度も変わり、冷や汗の奔る衝撃が駆け抜けていき、痺れた脳は与えられた少しの浮遊感で更に揺らぐ。

「い…っやだ待っ…!」

音より先に熱く濡れた舌の柔さと形が来た。
ついさっきまで指で掻き回されていた入り口を軽く舐められる。瞬間、散った火花で目が見えなくなった。ひずんだ声帯じゃ言葉の一つも紡げない。
頭の中の全部がその感触で埋まり、肌下に余す所なく張り付いた気持ち良さに腿の内が震え立って汗が噴き出る錯覚へ落ち転がってしまう。
下から上へと舐め上げられる。
ゆっくりとしたその動きに合わせ溢れる温水が、とても聞いていられない音を立てる。
舌先だけで中に潜り込まれるとぬるぬるしてお腹の底がうねり狂う。
何度も繰り返される気持ちよさに体から細胞から全部を作り変えられ、喉が不規則に跳ねて息が上手く出来なかった。ぞくぞくして背中へ当たるシーツの皺にさえ鳥肌が立ってさやめく。
絶えず伝うのを掬う濡れそぼった柔い肉が佐伯くんのものだと思うだけで痺れておかしくなりそう。
ふと、快楽の下からせり上がって来る確かな情動はしかし、言葉にするどころか一端も捕らえられない。
言いたい事がふいになる。
胸に迫って満ちる。
追い詰められた気管の細さに呼吸が絞られる。
一番恥ずかしい所を動物がするみたいに舐められてしまって気が持たない。軽く何度か意識が飛んだのかもしれなかった。
快感に貫かれる都度足のつま先やおへその近く、熱い舌の辿る表面から通じた内側の襞、あらゆる部分がビクッと震えて溶けていく。
それだけで境を越えてしまいそうなのにやけに丁寧なひと舐めの後、尖端を唇で挟まれるから私は私という体裁を手放すしかなかった。

「っゃ…あ、あぁあ!」

口元を押さえようとした手は間に合わずに顎下で丸まって指が剥がれない。
自分ではどろどろにほぐれたと思えるそこを掻き分けて来た舌に、硬さを帯びた小さな芽の根元の方からやんわり押し舐められて軸ごとがたつく。
与えられる感触をまともに拾えず、意味もなくかぶりを振り、やだ、だめ、本心とかけ離れた声で抗う。だめじゃないくせにと考え直す余裕もなかった。
佐伯くんは口づけるのをやめない。
潤み湿った狭間の際を親指で撫でながら耳につく水音の原因も零し続け、私の弱いところを舐めて吸い、果てには尖りの薄皮を剥いて優しく啄む。
ちゅ、ちゅくっ、ととろついた響きがただでさえぐずぐずになっている理性に差し込み、一層追い立てられ眩んだ。
空気をいつも通りに吸えない所為で唾液もろくに飲み下せないし、大好きな人の名前だって呼べない。心で紡ぐ事すら叶わないのだ。
前触れなくぺろと舌で掬われ背が張って変な声もちゃんと止められない。
奥まで収縮しているのが自分でもよくわかって、本当に死んじゃう、思った。
きつく目を閉じてすぐ開け放つと蜘蛛の巣めいてか細い血管の軌跡がパッと浮かんで消え、荒れに荒れた呼吸や心音が体の内から伝い木霊する錯覚を抱き、出来損ないの息を吐く度に涙が溢れて耳殻を濡らしていくのが気持ち悪い。手も指も唇も舌も髪の毛も汗も肌も佐伯くんのものなら全部いいのに。自分自身の体や生理現象をこれほど邪魔に感じた経験はなかった。
……もうわからない。何も辿れない。思い起こせない。
危うく明滅し始めた意識を揺り起こしでもするかのよう少し強く吸われ、佐伯くんに抱えられている所為で浮きっ放しの足の指が勝手にねじ曲がる。
ひゅっと絶え絶えの呼気が唸った直後高みに達する際の際でまた消えた。
肩が細まって萎んだが、瞬きする僅かな間に腿の内側を更に押し開かれ脈が大きくずれる。
(さえきくん)
呼ぼうとしてしくじった口の端から仕舞えなかった唾がつと落ちた。
私じゃない人の体温が近づいたと感じた次の瞬間、もう一度含まれたあげく柔らかな高熱でつつかれ喉元が翻る。そうして離れずに咥えられたまま舌で押し潰され、口の中で舐め転がされて、時折、不規則に食んで来るざらついたそれが強烈な快楽を引き出した。
息がはしたなく浅くなっていく。
心拍数は猛烈な速さで以って正気をいとも容易く追い越した。
足を閉じたくても閉じられない。
佐伯くんはいつも、濡れ通しの唇の肉と舌で一番敏感な尖端を転がして、強いのと弱いのを不連続に繰り返しながら吸う。
いつからか覚えさせられた体と脳が先走って騒ぎ始めた。
私はこれをされると弱くて、すぐにどうしようもなくなってしまうのだ。
(だめ、来る、くる)
始まる前から昂ぶり全身へ熱が籠もり襞に滴って腰の裏は揺らめき、最早測れぬ速度で脈打つ心臓が胸を打ち破ろうとしている。
お腹の奥底がひくついて撓む一方、背骨を撫で摩るのは怖気が走るほどの悦びだった。
ちゅる、ときつめに飲まれる。予感が膨れて思わず腕を伸ばした。かと思えば次は気の所為みたいにやんわり挟まれ突っ張った肺から空気が抜けていく。
傾いた右目の隅へ飽きもせず塩辛い水が溜まって流れるのが鬱陶しい。濁った視界は冴えなかった。
また強く啜って来る刺激で揺れ跳ねる。待ってだめ、ほんとにきちゃう、言えない代わりに日焼けする事ばかりを好む人の茶がかった髪、ほとんど目にする機会のない頭の天辺へ手を遣った。

「はぁ……は、あ、……ゃあ…いや、ぁっ……あ、あぁ、いやだぁ……」

力が入らないなりに精一杯押しのけたけれど動いてくれない。
先の小さな部分だけを淡く食まれて溢れる。
奥歯が噛み合わないのにかちかち当たって、瞼を上げていても下ろしていても大差がなく、触れられているさ中だろうが何だろうが次にくるかもしれない感触や衝動へも意識が向いていき、現実に混ざり込みほぐれ崩れて見境なしに気持ちよくておかしくなる。
頭で描いた通りに強いのが来て背中の震えが底をつき騒ぎ立てて熱い。
でも決まりきったタイミングややり方じゃなくて、多分こちらの反応を見て確かめてからしているのだと思う。
だから本当に私にはどうしようもなくて、何も出来ないしろくに返せない。今にも全部を持っていかれそうだった。
先走り、まだ受けてもいない刺激を体でなぞろうとした瞬間、ちゅ、と濡れ音が離れてしまい、ある一点へ集まり高まっていた感覚と予兆が煙みたいに掴めなくなる。
ちょっとの寂しさと拍子抜けした空気が喉を突き、否でも応でも自分を取り戻し掛けたら、

「……なぁ、俺は全部やじゃないよ」

吐息の湿り気も感じるほど傍で零れたひと言が掻き乱して来る。
私と比べて四角い指先にまた薄く剥かれて、尖った舌で小刻みに舐め擦られもう目の前が真っ白に染まった。
腰が痙攣して下から上へ突き抜ける。あっという間だった。気持ち良すぎて気持ちいいと感じる事も出来なかった。

「ひ…っ、んぅ、んん! んんんー!」

わけもわからず必死に両手で口を押さえると変な声がひしゃげて響く。
飛び出ていかないように引き絞ったら苦しさが生まれて、掌を重ねたまま唇を開けば涎でべたべただ。
涙の粒も無数に落ちて来て多少なりとも塩辛いはずだろうに、五感が麻痺しているのか何も感じなかった。頭が空っぽになったみたいだった。
一拍ごとに爆発しているような心臓の音で支配されている。
突っ張っていた手足やお腹の筋肉が緩んでベッドに落ちた。
白んだ視界が完全に戻る手前、軽く達したばかりの狭間をゆったり辿り分けられ首元と襞がひくつく。
やっぱり嫌じゃないのにいやだと泣き出しかねない自分の心がわからなくて、余計に目の端が浸り滴りうるさい。
鼓動がはやまる。
足りないはずがないのに切なかった。
(違う、ちがうの、私も全部やじゃないよ)
声も言葉も上手く出て来ず、無意識に鼻を啜ったら泣き喚く子供じみて聞こえ、かなしくなる。
は、と籠もった熱量を吐いた直後、勝手に上下する肩に厚い掌が触れた。
二の腕までを撫でる途で一緒に肌を浚う。
それだけで脳も背骨も揺らめくから手に負えない。
下りた瞼越しに聞こえた、佐伯くんの細い溜め息は熱く震えていた。

「いれたい」

思った以上の近さで零された囁きがうんと低くて、掠れてもいるから鼓膜に染みる。耳の後ろや耳朶の皮膚がざわめき、体中へ潮騒のよう鳴り響いてやまず、唾が後から後から込み上げて来ているはずなのに何故か喉は渇き強烈に求めていた。
目を開けた所で定まらずふらふら縒れる視界には、太い首と浮き出た血管、喉仏や筋張った筋肉、ごく淡い影を纏う鎖骨に硬そうな胸板が浮かび上がる。
どうして顔が見えないんだろう、と睫毛を持ち上げた矢先、柔く開かれた唇に辿り着いた。
夏の明るい陽射しにまったく似つかわしくない、薄闇が見える。
内には私をあまく噛んだ歯と濡れそぼりざらついた舌があって、ついさっきまで食べられて舐められていた。
思い返すだけで潤んでたまらない。
どこにある、と静かで恐ろしく熱っぽい問い掛けを拒めるわけがなかった。
いっそ呆然としながら収まらない息を殺し、身を起こそうとしたら左手に制されてしまう。手付きは穏やかでも有無を言わせぬ強さがあった。それで一気に力が抜けた。

「テレビの下、の…キャビ、ネット……」
「ん」

片耳を枕に預けた状態の頼りない言葉でも聞き取れたらしい、短く頷いた人が私の上から退いていく。
男の人ひとり分の重さを失ったスプリングがにわかに跳ねて、おっきな足の裏がフローリングの床を踏む気配で耳奥が不思議に混ざった。
エアコンが生み出す風が聞こえる。
普通に横になっているだけなのに姿勢を保てず、首が勝手に俯き、怠くはないけど素早く動いてくれない瞼は緩慢に瞬きを重ねていた。
右半身を下にしている所為で、夏の冷気を一手に受けた反対側の肩が少しだけ寒い。でも足元の方へずり落ちているであろうタオルケットを引っ張って来るだけの余力が残されていなくて、ただ息を吐く。
目の幕は相変わらずやたらのろのろと持ち上がり、昨日運び込んだばかりのローテーブルを見るとはなしに見た。
カーテンに遮られた陽の色を浴び、角の取れたまるい光の欠片にまみれたコップのふちが微かにちらつく。透明なガラスの底の下には水雫が取り付き――というより、小さな水たまりが出来ていて、麦茶に浮かんでいた氷はほとんど溶けてしまってい、割合すぐ近くに佐伯くんの腕時計が雑に放られている。おまけに時計のベルトなんかテーブルの端からくたっと垂れ下がっているものだから、落ちても濡れても困らないのだろうか、と場違いな心配をした。
どこも詰まっていないのに呼吸がし辛い。
今一度目を伏せて肺を膨らませてみる。
内に巣食う熱や鋭敏になるばかりの感覚、沸き上がったり煮えたりもする気持ちやまるで言う事を聞きやしない体と、色々持て余している気がする。
このままで私、大丈夫なのかな。

ぼんやり意識をさ迷わせていると気配が薫った。
爪先ほども触っていないはずだというに肌の表面がざわつき、前触れめいた淡い影が瞼の裏へ忍び込み近づく。
ベッドが柔く軋んだ。
下ろし立てのタオルケットの香りに私の大好きな人のにおいが混ざって、どちらともが覆い被さって来る。
両目を開いたと同時に仰向けの恰好へと軽々転がされ、きちんと確かめるより早く唇を奪われるからどうもこうもない。
悲しくもないのに目尻が滲んで口の中があたたまり甘い唾をこくりと飲んだら、ふやけた窪みの始まりに押し当てられるので咽喉がひくついた。
粘ついた水音が擦れ合う。体と体の間は籠もって暑い。日頃のそれとは意味の違った汗が皮膚を押し上げて湧く。
互いの息の尾が絡んで区別がつかなくなっていった。
何も発せない唇はつかず離れず、時々触ってほのかに食べ合って、そうしている間にも腿の奥を骨張った指で割り広げられてしまい、心臓に血が巻いて破裂しそうに弾む。
初めてした時は絶対に入らないと思った、爽やかな笑顔が似合う人の体の一部だなんて信じられなかった質量を持つ熱が、溢れて零れ通しの入口の浅いところを何度か突き掻いては小さく上下に滑った。
散々慣らされた芽にすれると、居ても立ってもいられない、切ないような重苦しいような情動が逆巻き全身が急く。
一番濡れている場所が、ぷちゅ、と鳴いた後になめらかな圧迫感を訴えて来、迸った底がしなり、食い縛って首を背けた。

「ふ……っ、ぅ」
「…………狭いな」

久しぶりになっちゃったせいだな、と言って目の奥と口端だけに笑みを湛える彼は、沈むシーツへ肘をつきこちらを見下ろしている。

「あんま力入れてたら、続きは無理だ。……できない?」

首裏を下げている所為でにわかに影を帯びる輪郭や鼻筋が一層濃く映り、一番近くにいなければ気づかないほど僅かな眉間の皺は言葉よりずっと率直だった。
耐えていても、そればかりじゃない。
欲しいのは私と一緒。
胸の中心が突き動かされ波間に飲まれた。
佐伯くんのこめかみを伝う汗が網膜に刻まれ、体の内側すべて煮溶ける。

「でき…る……ん、ん、」
「うん。じゃあ、して…

低く深いくせして妙な幼さを含んだ囁きが耳に柔い。切羽詰まったしるしだったのかもしれない、遅れて知ると血が燃えた。
見た目とは裏腹に逞しい左腕に腰を抱き寄せられれば隙間が潰れる。
熱の高さに持っていかれる所で深い呼吸を心掛けた最中、面積のある掌が背筋をなぞるのでほろと蕩けた。
ゆっくり、静かに、私の中へ穿たれる。
無理矢理でもなければ特に動かれてもいないにもかかわらず、奥が震えてやまない。際限なく上がっていく心拍数に合わせ汗やら潤んだ雫やらが零れ、目の前もぐらついて、体が自分から遠ざかる錯覚に襲われた。
染みていく。
膨れた切っ先でにゅるにゅる押し広げられると苦しさが淡く迫るのに心地好くて狂おしい。

「ぁ…ぁ…」
「……少し、動くよ…」

佐伯くんが軽く体を揺すりながら入って来て、合わせて湿り気を帯びた音も伝い落ち、熱いのか冷たいのかももうわからないシーツが背中やお尻の下で毛羽立つ。
じんわり滲んでぐずついた。
上からの熱っぽい息が短く切れる都度、深まる。
また呼吸の仕方を忘れた私は酸欠を起こしたよう覚束ない。自然と縮こまった肩を宥めすかしやわらに開いてくれた人の呼気も、ほのかに荒かった。
痛みのない程度に振るわされるとおぼろげな快感が込み上げ、口元が弛緩して、勝手に反応してしまう襞はひくひくとうねって、中を擦りながら潜って来るものに絡みついてしまう。
間違いなく好いのに言葉が出ない。
腰の奥で揺蕩い始める甘いけど越えそうで怖い感覚は、佐伯くんのちょっとした行為一つ一つにも影響されて膨張していくばかりだ。
はたと留まり、理性の一片が呼び戻され、全部飲み込んだ事を文字通り体で悟った。
前にした時より時間がかかったし、なんだか大きい気もするけれど、でもどうしてだろう、今までで一番苦しくない、それどころか――。
霞む息を長めについて落ち着かせようと試みる。
吐き終わって、膨張した空気を浅く吸えば、唇を甘く噛まれて食べられた。
目を閉じなかったから下目遣いに走った綺麗な双眸がよく見える。
うっすら開いた瞼の向こう側。
口の中へ滑り込み、舌の裏へ潜って歯列をなぞり、上顎までを伝いながらゆったり一回りする濡れざらつく熱と食い違っている、却って激しく思える静謐を保ったまま底光りする瞳に捕らわれた。
顔が離れた後でほんの少しだけずれる。
数ミリ抜かれてもすぐに突いてくる所為で余計な事を考える暇がない。
くちゅちゅぷと零れ出す音は段々大きくなっていき、同じ速度で快感が強まった。
緩く押し出される動きへ変わるとまた別のものが生まれ、じわと乱される。
佐伯くんが僅かに上半身を起こしているから多少は涼しいはずなのに、高熱が引かない。汗で濡れる。胸はか細い息で弾んで、知っているけど知らないずんとした重さがお腹の奥で生まれ勝手に押しつけてしまう。

「ん…ぁっあ……さぇ…き、くっ…、」

水の中にいるわけでもないのに紡げなかった。
わからないのに怖くないものが唾と一緒に込み上げて胸が絞られ、抑えておけなくなった喉と舌の根が蠢いた。

「……こじ、ろ…うっくん…、ん……」

口にした途端まざまざと情感が溢れてゆき、直後、更に沈んで来た質量に脳髄は煮えてとろけるばかり。
上手く吸えない酸素で口の傍が濁る。
襞とその奥に微かな震えが走り続け、不連続にひくつく。
立てた膝と足裏をちょっとずつ滑らせ得ようとし、彼の方から追い重ねてくれて、声に甘ったるいひずみが含まれ出した。
そうしてすり合わせている内、外も中もひと際激しくびくっと反応するところへ当たって思わず首を振るう。

「は、あ、ぁ! …それ、あっ、そ…やぁ、あ、」
「ん…ここがいいの?」

半分泣き出した私に静かな濡れ声を落とす人が、自分でも曖昧で掴めていなかったその一点へ硬い先端をやんわり押し込み、くっつけたまま細かく揺すって来るから本当におかしくなる。
私の意志や気持ちなど関係なく中が何度もこまやかに収縮し、背中も腰もまとめて甘く砕けかけ、息が熱くて頬を流れてゆく涙は顎まで沿う。
体の中心、腿の付け根から脆く溶けて、足の爪先が突っ張りそうなのにほぐれている、全身の肌がざわめきながら意識を追い落とそうとして来た。
ぐずついた鼻や喉から抜けていく、呼吸とも喘ぎともつかない音が異様にクリアに聞こえてしまうのが嫌でたまらず、いい、と答える手前で口元を両手で塞ぎ、ついでに目もきつく閉じてこくこくと夢中で頷いたらほとんど無理矢理に剥がされた。
止めていた呼吸が勢い良く飛び出していく様は、溺れた生き物がつかの間する息継ぎに似ている。
堪えていた声も一緒に溢れ脳が混ぜられて、目の端へ塩辛い水滴を誘う。
一瞬でシーツの上へ縫い止められた両指がほんの僅かに痛みを訴えているのは、きちんと組み合わされずばらばらに掴まれた所為だった。こういう時、ぴったりはまる貝殻のよう指と指を一本ずつ優しく絡めてくれる彼らしくない。
ろっ骨が薄く軋み、鼓動は腫れ上がる一方だ。
萎んで膨らんでを忙しなく繰り返す肺に空気が入っていかなかった。
下腹部でぬるつく律動が私の全部をだめにする。
そうやってだめにして来るのが虎次郎くんなんだと思うだけでもっとだめになる。
シングルのベッドなんて元から狭いはずなのに、まだ広い、ずっとくっついていなきゃ落ちるくらい縮まればいい、おかしな願いを掛けた罰なのか、キシキシと小さく唸るスプリングが耳の奥にまで纏わり付いて離れなかった。
さっきから汗が滑ってどうしようもない。
仰向けの掌を力任せに握り込められるとやっぱり少し痛くて、けど絶対に緩めて欲しくない。
はく、と出来損ないの呼吸が無意味に吐き出されて近づいた体温で潰れる。
一度引き抜かれたと思ったらごくゆるやかに埋め戻され、にわかに薄れた気持ち良さの波が押し寄せて来、全身に張り巡らされている感覚を自分以外の人が掌握している心地に目の前が霞んでぶれた。

「ふぁ…ん……ぁ…あ……あ、は…」
「…っ…、はー……は……そ、っのまま…力、抜いてて……」

いっぺんに掴まれていた親指と人差し指から剥がれていき、それから中指、最後は薬指と並んでまとめられた小指。丁寧に、順繰りに繋ぎ直される。
ぶ厚い掌に押されたお陰で手首の内が反って、腕の肌同士が触れ合い、じんわり濡れ滲んで張り付いた。
耳朶の後ろ下の窪みが込み上げた唾液でとろとろと膿む。
唇の表面を掠め取っていくだけの口づけの間で声を重ねていく虎次郎くんが、多分私が知っている中で一番ゆったりと掻き混ぜるので体中の皮膚がわなないた。
お腹の中奥から始まったうねりは脊髄もとろかす。

「…はぁ、ぁぁ、ぃ…いっ」
「おれ、も、いい……」

焦れた声音の深さに背中の裏がざわついて熱い。
言われなかった。
満足に会えない間もずっとこうしたかったとは、もう。
だけどわかる。
言葉にしなくても体が伝えてくれる。
時折意志を追い越し、手に負えなくなって、そんな時でさえ続くのだ。

快楽以外の何かが潤み出し指先で想いを返す。
まるく円を描く虎次郎くんの動き通りに情動がせり上がった。
入口で浅く混じって、その後わずか奥でいっそう擦れる。
ぬちゅぬちゅと絡む水音は鼓膜の下まで染みてゆき、後ろ首や脳を直に突いて粟立たせ、幾度となく繰り返されるごとに襞が馴染んで溶けていって止まらない。
やんわり小刻みに振られ、かと思えばゆっくり大きく揺さぶられた。尖りに当たるよう腰を送られ、お腹の底や裏側、果ては肌の表まで激しく震えてしまう。そのままつつかれると本当にだめだった。
元々ぼやけていた景色が色を変える。
白光が明滅し始め、まるで意味のない声を上げる。
ふっと右手の重さが消えた次の瞬間、今日、突き掻かれて好かったところを内側から押し込まれるのと同時に濡れそぼった尖端を親指と人差し指で捏ねられ、いとも容易く達した。声を出すどころか息も出来ない。
私の中に入ったままの虎次郎くんが低く呻く。
頭の隅々まで一面の白に侵され何もないのに底無しに気持ちよかった。
なのに、硬いのがまだいてくれているから心臓が胸や骨ごと打ち震える。

「……く………っ、はっ、あ」

まだ白む視界やばかになった脳へ荒く切れる呼吸が届き、私が吐き出したものじゃない事は音の低さで知れた。

「…ぁ……………」

掠れ声が皮膚を内側から熱く煮え立たせる。飽きもせずぞくぞく縮こまって、背骨から始まった波がつま先まで巡っていく。
呆ける私の目尻を親指で撫ぜた虎次郎くんが、自分自身も私もまるごと抑え殺すようなキスをして来た。
口の中を掻き回される。
舌と舌が絡み合って唾液が溢れる。
しないと死んじゃうけど息継ぎをしたくない。
高熱を伴う濡れたざらつきを舐め返そうとし、前触れなく退かれて、唇は透明な糸で繋がっていた。
お腹に力を入れたのだろう、ふっ、と息を荒く弾ませた人が滴った汗をいくつか降らせ、下から勢いよく引き抜く。
喉奥がくねり飛んだ。

「んっ、!」

硬いのがぬるんと出ていく感触だけでひどく感じてしまって余韻は欠片ほどもない。
小さく跳ねたのち滑っていく虎次郎くんの汗が、私のそれと混じって落ち伝う。
足、手、舌、ついには睫毛の先もくなまく痺れる甘さに攫われ、重たい熱を失った狭間が疼いて切なかった。
気づいた時には両足の膝裏に肉刺の跡がわかる掌があった。
ひとまとめに抱え上げられ、濡れた腿の内側が張り付く。
私の上手く働かない思考回路や弛緩した体を置き去りにした彼にさっきよりも性急に突き入れられ、何度目か知れぬ火花が舞い散った。
昂ぶった神経が全身を焼けた鉄にする。
強い力で両足をぴたりと閉じられ、半ば引っくり返された恰好で抜き差しを続けられると、とっくにほぐれていた壁が更にぐちゃぐちゃ溶けた。
した事のない体勢が感じ方の違いを手荒く呼び起こす。
柔く抉り掻きまぜる硬さや形をいつもよりはっきり感じ、もうだめと思ったのに限界が遠ざかって果てしない。

「ぁく、ま…って、あ、ぁんっ! は……っぁ…ふ、んぅ」

ぐずぐずの声しか転がらない。
私と虎次郎くんの中も奥も髪の毛も手足も滴りに滲んでいる。
あらゆる雫が肌の上を逆さまに滑りゆき、この期に及んで鳥肌が新たに浮いた。
耳を割る、打ち付けるような水音で見えなくてもわかる。どこをどんな風にされているのかわかってしまう。引き抜かれそうになって、またすぐに入って来る。擦り上げられてから深くまで落ち、たまらず泣いた。
口端から零れた唾液を拭うだけの余裕がない。
足を掴まれて思うよう開けないと吸うのも吐くのも苦しいのだと初めて知った。
にもかかわらずやめて欲しくないし、気持ちよくて、好きな人のものをずっと感じていたいとこんなにも願うのは初めてだ。
きっとそれは、二人とも。
証拠に、く、と唾を静かに飲み込むよう喉を鳴らした虎次郎くんが乱暴に呟いた。

「あぁ……くそ、っ」

最後まで聞き届ける前にお尻が湿ったシーツに付いて、変になっていた呼吸が落ち着いたのも、ほんの僅かな間だけ。
衣擦れが体の下で擦れて囁くや否や、虎次郎くんが手ずから揃えていた私の腿を割り開き、支えを失い崩れかけていた右足を自分の肩へと担ぎ上げたのだ。
びっくりして思わず息を呑む。
けれど、次に漏れた声はといえば驚きより快感を含んでおり、当たる場所や角度が変わった事を思い知った。
反射的に背けた首の筋肉が痙攣する。
掲げられた方の膝小僧の横辺りを下から這うようにじっくり舐められた。
触れた箇所から融解し、虎次郎くんのを咥えているところが狭まった事に気づかされ、たまらなくなる。
舌がなぞった通りに甘噛みされて、太腿や膝を撫でさすりながらちゅ、ちゅ、と唇を落とされるともっとどうしようもなくなった。
広がっていく欲には見境がない。
ゆるく突き動かされて情動が底へも届く。片足を担ぎ抱えられたままぐいと押し込まれ、いっぱいになったしるしなのか、涙がぼろぼろ零れて鬱陶しかった。
痛くない。苦しくない。ただ、虎次郎くんの触るところの全て熱い。
瞬きの途中、理性でも本能でもない、剥き出しの感情が舞い上がって来る。胸をつく情動だ。籠られたままじゃ狂おしい。
声に乗せようとした所で足を離され挫けた。
抜かれずに体勢が変わるさ中、そのつもりはなかったのに体を上の枕の方へ滑らせてしまい、濡れた肉がくちゅ…、と物欲しげに鳴く。
と、すぐさま両の肩を大きな手に包まれ、離さないとばかりに強く掴まれ押し留められた一秒。
顔を顰めるまでもない短い時間だったのに、痛かった。
それすら胸の軸をあまやかに叩く、悦びに通じてゆく、得難いものでしかない。
元の深さまで達した硬さが中で脈打っている。
嘘みたいにすんなり優しさを取り戻した掌が背中へと回され、差し込まれた体温の高さに眩暈を覚えた。
不思議と静けさを纏う心が、私のただ一人を呼ぶ。

「……虎次郎くん……」

名前を紡いだきり引き結び、
(キスして)
言わなかったのにちゃんと通じた。
向けられる綺麗なつくりの瞳が囁くようにまたたいて、距離が柔らかに潰れる。
力強く抱え込まれ、深く口づけられて満ちていく。
裸の胸が隙間なくくっついて、早鐘を打つ心臓の在り処を知る。私のものなのか彼のものなのかはわからなかったけれど、もうどっちでもよかった。汗を掻いていても何をしていても怖いくらいに気持ちいい。
キスをしながら揺すられスプリングが唸り始めた。
軋んで弾む。
たったひとつを求め、そこに至るまで夢中で重ねていく。
お尻が独りでにびくついた。腰をずらし当てているのを感じ取って掻き抱いてくれる虎次郎くんは、とても優しい人なのだろう、けどただ優しいだけじゃなく、それ以上の熱情を注ぎ込もうとしてくれているから、脈が破れそうにはやまった。
ばかみたいに擦って濡らすのをやめられない。
口の中をまさぐっては少し離すのをおぼろげに続けて、舌を吸い合う。
腕ずくで抱き寄せられた。一番深いところを必要以上にゆっくり突かれて、あまりの気持ちよさによだれとおかしな声がひと際激しく乱れ上るも押さえられず、太い首へ回した手でしがみつくしかない。
細かく揺れる動きに合わせて快感の飛沫が散り降った。
虎次郎くんの息遣いは荒い。は、は、と繰り返されるのを耳と言わず脳と言わず全身で味わう内に唾と一緒に込み上げる。
一端も捕らえられず、ふいになった言いたい事。
殻を剥かれた、あの生身の感情だ。
舌の表がわななき涙で濁った瞼を閉じ振って水気を払いのける。
どんなに時間が経ってもずっとずっと残り続ける、涼やかでも火を灯していた響きが私を満たした。

『俺の事好きだってもっと言って』

芯が甘い膿を生んでほぐれる。
我慢なんて出来ない。
揺さぶられる中、腕を緩め、汗で滲む彼のうなじと短い後れ毛を撫でさすり、張り締まった顎へと右指を添える。
恥ずかしいだとかタイミングがおかしいかもしれないだとか、まともな考えを捨てひたすら喉を振るわせた。

「ん……すき。ぁ…わ、たし……、」

どうしてもはっきり言葉にしたい。
頑張って必死で息を整え、静めようと閉じていた瞼を持ち上げたら、汗みずくになって苦しげに目を眇めた人が、ひと呼吸置いている。
ほとんどいつも、陽の光を反射したみたいに眩しい揃いの瞳。
今は違う。
吸い込まれるようにしてあるだけの気持ちを全部こめた。

「私、虎次郎くんが、好きだよ…大好き」

私を見遣る双眸から色彩が一秒で失われ、次の瞬間、たちまち海の底めいた濡れ方をし、すうっとなめらかな熱を帯びる。
あ、と心で呟く間もなかった。
濃く深く艶めいたその様は、私の正気も綺麗に奪い去った。
声もなく上半身を起こした虎次郎くんに手荒く引きずられる形で両足を抱え込まれる。ベッドが軋んだのと体を大きく揺すられ始めたのとどちらが先だったのかはわからない。掴まれたのもほんの数秒のことだった気がする。また圧し掛かって来た人に呼吸もできないくらい目いっぱい抱き締められて体がぴたりと合わさった。
質量を増した切っ先で深くを混ぜられる、突かれるごとに喘ぎ、広い背中や肩に縋りつくしかない、シーツとの隙間へ差し込まれた掌で掻き抱かれる、あまりの熱に息を詰めた。
ぐちゅぐちゅになった音と滴りに満ちる肌を打つそれが重なっていく。
以前は少し苦しかったはずの奥深くが段々変だった。
不意に硬いものの角度と滑りが変わる。ぐ、ぐ、と押しつけられ、その間隔が徐々に狭まり高まるから疼きを止められず、絡んで締めつけてしまう。
私は多分、どこかでびくっと軽く達した。
虎次郎くんが堰を切ったよう動きをはやめる。鼓膜を舐める吐息はもっと余裕を失くし、震えて切れ切れになってぶれた。
荒々しく掻き回す律動に爪の先までもがわななく。
息を継ぐ合間に「」呼ばれたかもしれない。体の深部まで響いたはずなのに曖昧だ。前髪が混ざって重なって濡れて張りつく。「俺ホントにダメだ…」やけに途切れがちのうわ言じみた声も聞いたかもしれない。
唇と舌が何度も触れ合った。
内側が激しくうねり出して勢いを増す。
真っ白の瞬間が近い。

「ひぁ、は…っん、ああ、あぁあ!」
「……っ」

もう来るとつよく感じたら、キスされるのと一緒に硬く張り詰めた先端をねじ込まれこれ以上ないくらいに果てた。
大きな波が襞やお腹の一番底から広まり毛穴まで開き切った感覚に溺れた一拍後、足先がお湯につかった時みたいにじんじんして腑抜けた声が漏れていく。
それからは、背中があんまりすれなかったから、長くなかったのだと思う。
自分の意思では止められなかったびくつきが消えてゆく中、虎次郎くんは数回抜き差しを続けた後、堪えていた全部を一気に吐き出すよう体を震わせた。
埋まっているものの先っぽが弾けたのを薄い膜越しに感じて応じてしまい、ほんのひと時静まっていた息がまた浅くなった。緩み滴りきった中でどくどくいっている。終わったはずなのに、心地いい。
高熱はあっけなく収まったけど、あたたかいままなのがどうしても好きで、目尻から涙のひと筋を流す。
耳の横の辺りへ虎次郎くんが倒れ込む形で突っ伏した。
半分崩れかかってこられて、鍛えられた体の重さに呻くところを躱せたのは、おでこや鼻先はベッドにうずめても肘を付くのを忘れない、彼のお陰だ。
視界が隅から冴えていき、乳白色の靄が晴れる。
真っ当な機能を取り戻した耳へ、どんな盛夏の元で走り回ってもなかなか息を切らさない人の、らしからぬ激しい呼吸音が伸びて来ていた。
見慣れぬ真新しさに包まれた天井が、荒れて弾んだ広い肩越しに見える。
訳もなくなんだかたまらなくなってしまい、筋肉質な背中へ回していた両腕に力を籠めて、想いの込み上げるままに脈打つ首筋へ顔を寄せてもっとくっつく。すると動物みたいに、すり、と私の耳元を頬で触れ返してくれて、目には見えないけれど笑っている気配がした。
そうして鼓動や呼吸が静まっていくのを全身で受け止めていたら、私に覆い被さる影が長い長い溜め息をついた。
尾を引いた響きは達したばかりの所為か、お腹の奥までじんわり差し込んで来る。恥ずかしい声が飽きもせず涌き出てきそうだ。
ないに等しい冷風が皮膚の表層だけを掠める。
少しだけ体を持ち上げたのだなと脳が判じた刹那、ちゅっ、と軽く――ともすれば子供っぽくて可愛い口づけを落とされ、

「すごくよかった……」

ちょっと舌ったらずに続くものだから、巡る血液があたたまる。
先ほどとは違った意味で高鳴る心臓は拍と違いゆったりとしており、深い呼気が肺から滑り出ていく。
私ばっかり気持ちよくなってるのかも、思っていなくもなかったので、とても安心した。ドキドキしていても心は安らかだ。他の誰と一緒にいる時よりも、いちばんに落ち着く。
だからこそ余計にちゃんと伝えたかったのに、肌に触れる温度やキスが優しすぎて上手くいかず、うん、と小さく頷くので精一杯だった。
我ながら反応の薄い不出来な返事だ、けど佐伯くんは凛とした目元を和らげ、嬉しそうに唇をもう一度重ねて来る。
言葉もない。
甘く締め付けられた胸奥が応える。
啄まれながら横抱きにされると暑さがほんのり薄れて涼しく、いまだ熱の引かない息とキスがしやすくなって、しらずしらず強張っていた腰や背から力が抜けてシーツに沈んだ。
どれほど続いても苦しくないし熱気が変には籠もらない、時々驚いてしまう気遣いっぷりに冷めやらぬ情熱をも混ぜられ、どう頑張ったって好きの気持ちしか浮かんで来なかった。
佐伯くんはきっと体温が人より高いし、ベッドも二人で眠るには狭い、おまけに今はエアコンをフル活動させる季節。
眩暈のする暑さから逃れたくば大人しく離れるのが賢明な判断というものを、全部無視してお構いなしにひっつく。
骨の浮き出た首裏で指を組み、キスを受けたり仕返ししたりする。
いくらか重ねてゆく最中、突然、ふは、と気の抜けた空気がこぼれた。
きちんと男の人になったはずの彼が中学生の頃と同じに笑って「これくすぐったいな」明るく続けたのだった。
つられて唇を持ち上げる。

「じゃあ…ちょっと休憩」
「ちょっとなんだ?」
「……かなり休憩」
「アハハ、いいよ、かなり休憩しよう。一回待ってて」

ぱっと離れた肌触りと抜かれる熱源が寂しい。
思わず息をつく。
手持無沙汰の私は、いなくなった人の分のみ縒れたタオルケットを肩まで被った。
一人きり取り残された途端、不快ではないけど気怠い疲労感に襲われのろのろと瞼を下ろす。
何を考えるでもなく横になっていると、益々以って明確な意識を失いそうだ。
お陰で時間の流れ方が遅いのか早いのか見落とした上、ややあって、のむ、と投げられた問いの真意も理解出来なかった。
なんの話だろう、内心首を傾げたにもかかわらず反射的に大丈夫と首を振る。

解を得たのは意外にも早かった。
クーラーの風にすら流されかねない、おとなしやかな足音が近づく。
タオルケットの端が捲られて、さっさと背中を滑り伝った左腕一本で両肩を掬い上げられ、柔らに降った口づけに心を浚われる。
入り込んで来たぬるつく舌は麦茶の味だ。
閉じた瞼にローテーブルの上に放っておかれたコップの色味や姿が浮かぶ。さっきの『のむ』は、相当温くなっているであろう麦茶を飲むか、という意味だったのだ。
ならお言葉に甘えればよかった、今さら渇きを覚えたが、冬でもテニスや練習をしていれば大粒の汗を掻く佐伯くんの事だ、私なんかよりよほど喉を潤したいだろう。そこへこちらの断りが入ったのである、彼の気性からしてじゃあいっかと綺麗さっぱり飲み干している可能性が高い。
後始末ついでに手を洗ったのか、冷たい水気を帯びた指が肩先を撫で包み、それ以外の場所は高い体温に染まっていて、絡んだ足の裏まで熱かった。
布地を纏っていない素肌の感触が不足を満たし、潤す。
されるがままの私の髪を梳いて目や鼻先に被らないようにと耳に掛けてくれる人が、誰に言うともなく呟き零した。

「信じ過ぎたよ」

こだわりない声ではあったものの突拍子がなく、字面だけで判断すれば何事かを悔いている。
思い当たる節もない。
静かにまたたく瞳を見詰める。

「……何を?」

シンプルに投げ掛けると、自分の理性、とまたしても飾り気のない返事が戻った。

「今日はするつもりなかったんだ、ホントに。彼女が引っ越して来て早々とか俺がっついてるみたいじゃん。……あ、いや…実際がっついてるのか」

にしたってあまりにも体裁を欠いた言い草だ、彼女として怒ったり呆れたりする場面だろうにおかしくて吹き出してしまう。

「あっおい、今笑ったな? 人が反省してるんだぞ、真剣に受け取れって!」
「ふふ、あはは! ごめんね…って、くるし、苦しいよ!」

言葉の強さに反した満開の笑顔でぎゅうぎゅうに抱き締めてくるので、同じように笑いながら張り締まった胸板を押し返す。パーに開いた右手で二、三回叩いてもみる。気さくで優しいくせに不本意な事を前にすると絶対に引かない、びくともしない人の体が笑みにやわく揺れていた。
よくわからないけど無性に面白くなって来て、首をのけぞらせ笑い声を零し続けていたら、傾いた頬へ唇を寄せられる。これは確かにくすぐったい、遅れて込み上げた共感に身をよじり、説得力ゼロのごめんなさいを連ねる。
あどけない兄妹ゲンカに似た攻防を繰り広げ、お世辞にも年相応とは言えぬ騒がしさに笑い合ってしばらく、俺もごめん、ふと地に足の着いた響きが転がった。
思わず息を切る。
くっついていた裸の胸が剥がれて隙間を生む。
正面から見据えた佐伯くんは、横向きの姿勢を保ちながら小さく首を傾げた。

「……ね、。もう我慢するのやめよう。お互いに、さ?」
「え?」

素っ頓狂な私のひと言に唇の端を持ち上げ、何かを堪えた息を零す。
綺麗な筆で佩かれたみたいな眦が笑い滲んで目に映る。

「アルバム」
「……アルバム…?」
「中高の卒アル、どっちもな。俺が写ってるとこばっか見てたろ」
「…ぁ、えっ、え!?」
「ページに跡ついてたぞ」

絶句した。血の気も引いた。大きなバケツいっぱいの冷水を盛大に浴びた心地だった。
そののち順番を無視した混乱が口を開かせ、即閉じろと命じて来る。バカそのものといった調子でぱくぱくと惑い声を失った私を目にした人が、例のニコッとした輝きを散らせた上で器用にも寝ながら肩を竦めた。

「写真じゃなくて生身の俺の方に来てよ。俺キミの彼氏なのに、寂しいじゃん? そういうの」

一から十まで爽やか極まりない、いっそ清浄とも呼べる空気に却って煽りを受けた羞恥心が破裂した。
燃えた血がまず首から上へ集まり、天辺を蹂躙してから下がって足先へと駆け抜けていく。
悶絶、の二文字が頭の中を焼いた。
バレてた、どこからどこまで、ていうかいつから、こんなの‘みたい’じゃなくてほんとにストーカー、恥ずかしい、なんでどうして、お姉ちゃんのバカ、佐伯くんも佐伯くんでそれなら早く言ってよ、意味わかんない恥ずかしい。
猛スピードで空回りする脳が叫ぶ。

「なん…なんで気付いちゃうの!?」

耐え切れず両手で顔を覆い、夏仕様の掛け布の下へと潜り込む。

「そりゃあね、気付くって。好きな子の事なんだし」

もしもしそこのお嬢さん、どうかなさいましたか? と言わんばかりにタオルケット越しに頭をぽんぽんと叩かれたところで、合わせる顔なんてない。
恥ずかしくて死にそうになるのは今ので何度目だろう。

「ごめんな。さっき、する前にも似たような事言ったけど…カッコつけ過ぎた」

真摯な声色に、強制されたわけではなく自然首が持ち上がる。
恐る恐る向けた視線の先には、真っ直ぐな光を灯す瞳があって、精悍な顔つきの男の人がいた。

「まだ学生だし、出来る事と出来ない事がどうしたって出てくるのが悔しくてさ。焦ったって仕方ないのにな。でも、家族の気持ちを考えてってのも嘘じゃない。そうした方がいいに決まってるしね。だけど…それと俺がに会いたい気持ちは別だったなって。キミが寂しがり屋なくせに、なかなか言い出さない子だってのは忘れちゃダメだった」

一本筋の通った物言いと響きに、身動きひとつ取れなかった。

「もう物分りいい彼氏のフリはやめるよ。だからもワガママ言って? 無茶言って貰えなくなって寂しがってる声も聞けないなんて、キミが良くても俺が嫌だ」

爽やかでも初夏の風と同じに聞き流せない彼特有の声は、まず耳たぶを打ち、鼓膜へ優しく落ち伝い、ゆるく横たわった体へ沁みて満ちていく。
目尻がひくついて、網膜もやわらかな雫で滲んだ気がする。
衝動に震えた心が喉奥をたわませた。

「あのね」

後先考えずに紡いだから、続きが立ち消えになった。
どうした? と凛々しく透き通った瞳に問い掛けられて初めて、飲んだ唾で喉を潤す。

「色々、間違えてたと思って」
「……間違えてた? が?」
「うん。大事なことを大事だってあんまり考えてなくて、そうじゃない所で変に意識して……なんか、あの…私、嫌な感じだったよね」
「いや別に、嫌な感じはしなかったけど」
「それ!」
「どれだよ」
「佐伯くんてすぐそんな風に言うんだもん。だから多分怒んないんだろうなってどっかで思っちゃってて、思ってるくせに口にしなかったんだ、私。色んな事佐伯くん任せにしてた。お姉ちゃんにも怒られたの」
「ああ…お姉さん。そっか」

納得したとばかりに相槌を打たれた。
私としてはここでそっかと返される意味がよくわからない。

「なるほどって思っただけだよ」

苦笑に近い表情で私を宥める彼が、ベッドに左肘を付いて仰向けにさせた掌の上へ自らの片頬を乗せる。
リビングのテレビの前にのんびり陣取った模範的休日のお父さんみたいな恰好だ。
彼氏を親父扱いするなとツッコまれるから今は言わないけど。

「どういう意味のなるほどなの?」
「なるほどそういう事かってのと、あとはそうだな……なるほど手強そうだと思ってね」
「…なんの話?」
「まあいつかわかるよ。それで? 続きをどうぞ。あ、勿論遠慮も我慢もナシな」

思い切り流された。しかもかなり雑に片付けられている。王子様然とした風貌のこの人は時々、ある種のいい加減さをおくびもなく出して来るのだ。
釈然としない気持ちを抱えつつも、舌を滑らせていく。

「反省しました」
「え、俺が怒らないのに?」
「だから私が自分から悔い改めなくちゃだめなんじゃない」
「ハハッ! 悔い改めって、いくら何でも物々し過ぎるだろ!」
「だってほんとに、しょうがないなぁはって笑っておしまいにするでしょ」
「時と場合と、程度にもよるって」

きらめく笑顔でさらりと躱したりして、疑わしい事この上ない。
だから油断ならないのだ、佐伯くんに溶かされかけていた心を引き締める。

「私の中では時と場合と程度がアウトだったの! ……気付くの遅かったけど。それで、罪滅ぼしにじゃなくって、頑張りたかったんだ。ごめんね。私、佐伯くんに甘えてたよね」

語尾が情けなく萎んでしまう。元々満タンではなかった自信や決意やらが揺らいで消えかかり、胸が塞ぐ。自己嫌悪というやつなのかもしれない。

、今のは間違えてるぞ」

目線も重力に負けて下がり始めていた所を、思いがけずはっきりした否定で差し止められた。

「そういうの、俺の事頼りにしてるって言うんだ。ありがとう、嬉しいよ。信じて、頼りにしてくれてさ」

鼻先を上向かせれば、周りも巻き込んできらきらと輝くような、私の大好きな笑顔がある。
心臓があまやかに鳴る寸前で食い止めた。
(だからっ…それ!)
口に出したが最後、暴発間違いなしだ。
耐えに耐え、頭の中でのみ叩き付ける。
どうして佐伯くんはほんとにいつもそうなの、甘やかすのやめて、私の頑張りどころ潰さないでよ、次から次へと湧いて案の定止まらない。
かつて負けず嫌いと評された自分の性が鮮明に浮かび上がる。
お前なーサエに張り合おうとすんなよ、とその昔黒羽くんに窘められた事があったけれど、せずにはいられないものが、佐伯くん相手だと無尽蔵に生まれて来てしまうのだ。
見破られて癪だった。
悪態をつかれたわけではない、むしろその逆だというに、たまに本気でムッとさせられる。
みんなに優しい人の心底驚く顔が見たい。
その為なら奇襲戦法も厭わなかった。

そうして出し抜いて何がしたかったのかと問われれば、きっと打ち負かしたかったのだろう。
私は中学生の頃からひとつも変わっていない。今日佐伯くんがくれた可愛いままだよという恥ずかし過ぎる賛辞とは全く違い、悪い意味で進歩していないのだ。
‘だって’が延々と、今に至るまで付き纏う。

私だって頑張ってる。
私だって色々考えたんだよ。
私だって気持ちを素直に言いたい。
私だって佐伯くんが好き。
俺がキミを想う気持ちの方がデカい、平気な顔で言ってきそうな人になんて絶対負けたくないのに。

はたして結果はどうか。
火を見るより明らかで、結局、最初から最後まで私だけが‘して貰って’いる。何にしてもそうだ、したかった事の三分の一も出来ていないし返せていない。
頬の赤と身に詰まる悔しさや天と地ほどもある実力差、直視したくない現実群を抑えようと眉間を強張らせる。
熱の引きつつある空気が、爽快な笑い声で弾かれた。

「またなんかヘンな事考えてるだろ。俺はただ思ってる事を口にしただけ! ホント、嘘じゃないよ。それともひょっとして、間違えてるって俺に言われたくなかった?」

微妙に外していて、物皆全てを見透かされている感じがしない辺り、佐伯くんはタチが悪い。ここで完璧超人の千里眼を発揮してくれれば是非もなしと敗北を受け入れやすいのに、そうでないから次こそはと挫けた足を立ち上がらせてしまうんじゃないか。

の眉間から皺が取れなくなる前に、俺は感覚で物を言うクセを直さなきゃな。それで痛い目に合ってたら元も子もないよってこないだ説教食らったんだ」

あいた右手で私の額を優しく撫でさする人の目が穏やかに凪いでいる。

「黒羽くんとか樹くんとかに?」
「六角中の連中は付き合いも長くてずっと一緒にいたお陰でね、もういちいち言ってくれやしないさ」
「みんなにほっとかれちゃってるね、佐伯くん」
「その分キミが放っとかないで見ててくれよ」
「私一人で何人分見ればいいの!? 無理だよ!」
「アハハ! 真に受けるなよ、冗談だって」
「冗談の質が良くて悪い……」
「なんだいそれ、どういう意味?」
「感覚が冴えてるから、冗談かそうじゃないのかわかんない事平気で言えるんだよ。お説教されても直す気あんまりないでしょ」
「いや。今まで生きて来た中で一番、これは直さなくちゃダメだって考えていた所さ。にしても……言われた通りだな」
「言われた通り?」

おうむ返しに尋ねると、おでこから前髪の生え際へと触れていた温もりが退いた。

「痛い目見る前になんとかしろってアドバイスくれたヤツに」
「言われたの?」
「ああ、ハッキリとね」
「なんでそんな流れに…ていうか佐伯くんにそこまで踏み込んだ事言う人いたんだね。大学で出来た友達?」
「違う違う、もっと古い付き合いで…そうだなぁ、こっちも幼なじみってヤツか」
「えっ、六角中以外にもいたんだ」
「あれ、話した事なかったっけ?」
「ない。初めて聞いたよ」
「そっか。向こうは中学ん時東京に住んでて、テニスも強くてさ。あ、ちなみに女の子じゃなくて同い年の男なんだけど。……参ったな」

頬を支えている方の指を少しだけ動かして耳上の髪を掻く人が、どういうわけだろう、難しい顔をしている。
決して短くはない時間を過ごして来て、いまだに知らなかった事や新たな一面に出会えるのが新鮮だな、なんだか嬉しいな、などとのん気に受け止めていた私は不思議に首を傾げるしかない。

「本当に言い当てられっ放しだ。俺についてはともかく、なんで会った事もないの事までわかっちゃうんだろうな?」
「……話が見えない…」
「見なくていいから見るなよ。俺より彼の方がわかってくれるって思われて、キミを持っていかれちゃ困るし」

あの……佐伯くん。多分だけど、話をとんでもなく飛躍させてるよね?
やたらと強く投げられた声を返そうとした手前で、まあまあの勢いで打ち消される。
鍛えられた腹筋を駆使し一発で起き上がった人が起こした、スプリングの反動の仕業だった。

「よしっ! とりあえず風呂…じゃないか、シャワー浴びよ。で、部屋の片付け終わらせてメシ食い行こう」

健康的な願望と提案に呆気に取られるも、言われてみればお腹が空いている気がして来た。頑張りたいのなら己の単細胞加減に項垂れるべきなのに何故か頭が働かなくて、嫌だと跳ね除ける理由だってあるわけない。
投げ出していた両手を引き戻し、ベッドと接している右頬の下へと差し込んで、降り落ちて来る眼差しを仰ぐ。

「やっぱ蕎麦かな? 引っ越し祝いって言ったら定番だしさ。は何食べたい?」

お蕎麦屋さんに行くのなら天ぷらもつけたい、天ぷら蕎麦とかじゃなくって盛り合わせの方、と答えようとして、ふっと横入りした疑問に瞬きをする。

「この近くのお店、わかるの」

佐伯くんが、まぁね、と唇の端から力を抜いた。
笑う眦を滅多に味わえない位置から見上げながら、なんで知ってるのかな、ぼんやり考えていたら、柔らかだった表情が微かに曇った。
大概スパッと斬り込んで来る人にしては珍しく、言い難そうにしている。

「あー…実はさ、キミが引っ越すにあたって色々調べたんだ。メシ食うとこだけじゃなくて、知っといたら困らないかなって所はある程度ね」
「えっ?」
「それで時々、日曜会えなかったんだけど……ごめん。ホント頑張るとこ間違えたよな。色々間違えてたのは俺の方で、じゃないよ」

自分のうなじへ持て余した風の左手を遣る仕草に、言葉に出来ない気持ちが込み上げる。
ここ数ヶ月かかっていた霧が綺麗に晴れた心地だった。肺が奥まですいて、風通しが良くなる。息を吸うともっと清々しい。視界が光の粒子で煌めいているような眩しさを覚えてしまう。
とくとくと打たれる脈が体の隅まで温もりを運んでいく。
何でもいいから返事をしたい。
佐伯くんだって忙しいのに大変だったでしょ、ありがとう、会えないのは寂しかったけど間違えてないよ、嬉しい。
想いが募るばかりで唇は一向に動いてくれなかった。
黙りこくった私を見、さては体力を使い果たしたかと案じたらしい佐伯くんにぽんと頭を撫でられる。

「大丈夫?」
「うん」

僅かに半身を捻った彼にゆっくり、ごく丁寧に髪を掬われ、今度こそ否応なしに胸が高鳴った。
お陰で、久しぶりだったし色々いつもと違ったけど、乱暴な事されたわけじゃないもん、大丈夫だよ、言う機を逃した。
重ねた日々と思い出が甘い締め付けを呼び込む。
初めてした後も、疲れた? と聞かれた。二人してお腹を空かしてしまい、佐伯くんのお家に作り置きされていたカレーを一緒に食べた。うちとは違うご飯の匂いが不思議で、でもなんだか嬉しかった。
それから、海辺の道を並んで歩いて帰った事。
とっくに日は暮れていたので明るい月が夜空に良く映え、暗過ぎて見えない砂浜から届く波音が耳に深い。
繋いだ手の感触と、佐伯くんの日焼けした匂い。
話す声の近さやトーン、生温い風に吹かれて薫る高い体温。
私は本当に、他の人が聞いたら大げさでありきたりな表現だと笑うかもしれないけど、一生忘れないと思った。
何年も前の何もかもが鮮やかに蘇る。
同じ男とずっと付き合ってて飽きないの、つまらなくないの、明け透けに現実的な問題を突き付けて来たお姉ちゃんにも――佐伯くんにさえ話さなかった。
私だけが知っていて、覚えている、誰にも言わない秘密。
周りに揶揄されるくらい付き合いも長くて、して来た事もいっぱいある。
初めてじゃない、きっともう初めてじゃない事の方が多いのに、なんでこんな簡単にドキドキするんだろう。
何度も、何度だって、この人が好きだと思い知らされてしまうんだろう。
(だからこのままでもいいかな)
声には出さずに独りごちる。
溜め込んで大事にし続けていつか、いっぺんにぶつけてやっても良いのかもしれない。佐伯くんみたいに上手く形に出来ない私が、一等賞の笑顔で自分の気持ちの方が強いと口にしかねない人をあっと言わせるには、今考え付く中で最適なやり方だ。


粛々と企む私に向かって何気なく頷いた佐伯くんがそっと背中を丸める。
数秒も経たない間におでこへ柔らかい唇を落として来るので、決心や逆転へ懸ける望みが大いにぐらついた。
ついさっきまで内心ほくそ笑んでいたというにもう勝てる気がしない。
極めつけ、キスをした後の近さで心底面白そうに囁かれる。

「……ところでさ。ゴム用意したのって、の言う‘頑張り’の一環な訳?」

嫌味なくらいきらきらしい笑顔は目の表面や裏を焼く。

「ま、俺は大歓迎だけどね!」

折角のときめきがものの見事にどこか遠くへ吹っ飛んだ。

「バカ!」
「っは、アハハ!」
「笑い事じゃない!」

しかし相手はこちらの心中などお構いなしの様子、楽しげに肩を揺らし息まで弾ませている。こんなのはあんまりだ、あんまりじゃないか。あんまり過ぎて、怒りに似た衝動に任せ思い切り膝蹴りをお見舞いする。お互い何も着ていない所為で張り締まった太ももに当たったそれは、タオルケットを突き抜けるかという勢いで肌をすって滑った。

「イッテ! コラ、今一番蹴っちゃいけないとこギリギリだったぞ」
「デリカシー!」
「ああ、悪い悪い忘れてたよ」
「絶っ対忘れてなんかないでしょ……嘘つき!」

図太いとも言える対応に益々燃え盛って次の一手、いやこの際一足でも良い、ともかく追撃の態勢を取った瞬間、恐るべき動体視力の持ち主たる佐伯くんがガードする為か身を固める。急所を守ろうと腿の横に陣取っている手をどかそうとして組み付いても全く剥がれない。足をばたつかせ過ぎると裸を晒す破目になる、激しい蹴り技は繰り出せないのを逆手に取られ上手い具合に躱されてしまい、攻撃を当てられなかった。
呼吸を乱し恨めしげな声を上げる私は、さぞ滑稽に見えた事だろう。
だけどちらともバカにする素振りもなくただただ楽しそうに笑う佐伯くんは、巧妙に避けて回るくせしてベッドから出て行かない。
ならば追い出してやると硬いお腹と太い腰をありったけの力で押し、やっぱりびくともしなくて息切れを起こし始める。
唸り吠え四苦八苦する私の肩に触れる掌からは、余裕が十二分に感じられた。

「なんだよ可愛いな?」
「…っ可愛く、ないっよ!」
「いやだから、それが可愛いんだって」
「……佐伯くんのタラシ。ヒトタラシ!」
「ハハッ! それ久々に言われたぞ、懐かしいなあ。俺ってまだ人間の男になれてないんだ? さっきはちゃんと男の人になったって言ってくれたじゃん。なのにもう撤回?」
「佐伯くんが昔からずっとヒトタラシなのがいけないの」
「じゃあキミはあの頃からオレタラシだよな」

首から上が猛烈に熱くなり、カッと血が集った音まで聞こえて来、最早留めておけない激流は脳を沸騰させる。憤慨と恥ずかしさで体中が大騒ぎしていた。
もう、ああ言えばこう言う!
遠慮なしに振りかぶった腕はあっけなく封じられる。
元の高い体温を取り戻した掌にぱしっと軽々取られたのだ。

「悪かったよ。嘘はついていないけど、からかい過ぎた。謝るから……追い出さないでくれ」

指を手首までずらしたのち優しくシーツへ押し付けたと思ったら、私を仰向きにさせた上で圧し掛かって来る。
タオル生地の布越しに通じる温度が佐伯くんのものだった。
包み込まれるようにして抱き竦められると、熱を帯びた素肌の部分が混ざって震えた。
背中に回された逞しい腕の二本ともが、数ミリ単位の距離をもなくそうとする。
無意識に目を閉じて味わう唇は麦茶味じゃなかった。
呼吸が少しだけ濡れて籠もる。

「……シャワー浴びるんじゃないの?」
「うん、早く浴びなきゃだ」

断言した割には動こうとしない。

「私が先?」
のうちなんだから、そうだろ。引っ越してほとんど初めてのシャワーを俺が一番に使わせて貰うってなんかおかしくないか」

そう考えればそうなのかもしれない、と提示された理屈は腑に落ちたが、ちっともどいてくれない訳の方はいまだ不明である。
鼻先を掠めながら離れていった顔が、また私の耳の横へと埋もれる。
瞳だけを動かして様子を窺ってみても、当然というかなんというか表情はわからなかった。
いっそう強く抱き締められて心臓に熱溜まりが出来ていく。一定のペースで脈を打っていても、心地好さを伴う薄い苦しさの根源は体へ送られず、胸の軸だけが甘く煮詰まる一方だ。
ひとつ静かに息を吐き、そろそろと抱き返してみる。

「………順番、じゃんけんで決める?」

でこぼこしている背骨や肩甲骨、かたい首筋と背中の筋肉の上に手を滑らせた直後、耳元で空気が破れて弾ける音がした。ブフッという不細工な響きから察するに、どうも佐伯くんが噴き出したらしい。

「問題、そこじゃないって!」

上半身を起こし声を揺らして底抜けに笑う輪郭に、きつい陽射しの欠片が触れている。
太陽がお昼の時間を目指し着実に昇っていった所為で、閉めたカーテンの隙間から漏れる光の角度が変わったのだ。
夏場の明るさも眩しさも増してい、本格的に行動に移さなくちゃだめだと悟る。どこからか飛んで流れ着いたのか、アパートの外壁の向こうで蝉がミンミン喚き始めた。エアコンの冷気が細身でも大きな背に遮られてしまって暑い。

「もし明るいのが嫌で風呂場まで行けないっていうなら、俺後ろ向いてるからさ。行って来なよ」

気が利くんだか利かないんだか、これだけ一緒にいても佐伯くんってわからない。
嫌は嫌だけど、第一本当に嫌だったらこんな時間からしたいなんてお願いしないし、行きたくなくて質問を繰り返したわけでもなくて、私こそが問題はそこじゃないと言うべき場面なのでは。
瞬く間に頭を駆け巡る常識めかしたツッコミが、声帯や舌の付け根をつついて来る。
どうしようか、一瞬迷った。
これってまた甘やかされてるよねと自問自答もした。

「ありがと佐伯くん。でもその前に」
「うん?」
「重い……あと、暑い」
「ハハ! そりゃそうだよな、ごめん」

別段気を悪くした風でもなく、今どくな、と身じろぎした所を、でもいいよ、と頭の中で呟きながら、スッキリとしていて好ましい頬や顎へいつかと同じに両手を添わせる。
佐伯くんがちょっと驚いた顔をして、すぐ笑った。
僅かな光も逃さず反射する、頑固さを底に秘めた瞳に輝きが灯る。

「私より佐伯くんの方が暑がりなのに、暑くないの?」
「勿論、暑いさ」
「慣れっこなんだ」
「それもあるけど、暑いのが嫌だって避けてたら何も出来ないじゃん。勿体ないだろ? 色々と」

知っていても、わからなくても、初めてでも、初めてじゃない事だって、この人が傍にいてくれるなら。
佐伯くんと一緒なら、何だっていいし、大丈夫だと心から思えるんだ。





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