01 私は自分の運の無さを呪っていた。 その勢いたるや、全世界を揺るがす悪夢かという程である。 なんでよりにもよって、と真っ白に染まりゆく頭で虚勢を張る。 今すぐ立ち去りたいけれど、相手に悟られてはいけないという状況が許してくれず、ぎしぎしと痛む胸を抑えただ耐える他なかった。 視界が潤む。 目端に滲んだ水の粒が熱く、鬱陶しい。 悲しいのか悔しいのか、ショックなのか気まずいのか、自分でもまるでわからないのがとにかくもどかしかったのだ。 先程まで明るいばかりであった景色がどんよりと曇ったよう映ってしまい、沈み込む胸中へ冷たい杭を打つ。 今日は駅まで足を伸ばし、友達とお茶をする予定だった。 校門を出た所で明日提出のプリントを机に忘れた事に気づき、待つよと言ってくれた気遣いを丁重に辞退し、大して早くもない脚で懸命に急いだ。目的の物を回収し、近道をする為に常と異なるコースを選ぶ。 それがいけなかった。 普段は通らない、2号館近くで、告白を受けているシーンとかち合ったのである。 頬を染めて想いを告げている女の子の方は知らない子だったけれど、直立不動の男子には見覚えがあった。 野球部らしい短髪。 人と話している時、考え事をしている時、左手をポケットに突っこむ癖。 彼は私の友人だった。 小学校からの付き合いで、1年の頃は同じ教室にて学び、2年になって別れてしまった、入学早々などは、またお前と一緒かい、笑っていた相手だった。 「好きな子おるから」 落とされた断りの理由に肺を丸ごと掴まれる。 聞いた覚えのない声色が無情な宣告を下す。 思わず身を隠した植え込みの影で、私は体の震えを止めるのに精一杯だ。 二人がどのようにして別れ、いつから静けさが戻ってきたのかはわからない。 生命維持に必要な部分のみを働かせ、残りは脆くも灰と化した頭では正常な判断が叶わなかった。立とうとしたが全身に力が入らず、仕方なしに膝と掌をついてのろのろとした速度で校舎に沿って移動する。 完全に不審者だったと思うが当時は本当に余裕がなく、ごく普通に歩く事さえままならない衝撃に、成すすべもなく従うだけだった。 角まで進み、座り込む。 植えられた木々の生み出す光と影が、葉擦れの音と共に揺らめいて、地面に独特の模様を映し出している。 乾いた土が目の下で黙ったまま並び、部活動の開始を告げる合図のような、準備中の生徒の声が鼓膜を叩く。 そこで深い呼吸を一度すれば、かさついた唇にようやく気がついた。 「…………?」 降った呼びかけはあまりにも唐突で、素早い反応が出来ない。 跳ねた肩が下がっていた首を持ち上げさせ、日向を遮る人影へ目線をも向けさせる。 考えも芸も笑いもなく、探る記憶の内に刻まれていた名を口にした。 「し……白石、くん……」 古馴染みと組が分かれてしまった代わりにクラスメイトとなった、四天宝寺中の女子の注目を浴びているといっても過言ではないその人が、目を丸くして立っていたのだ。 学ランでなくウェア姿だったから、すっかり着替え終えた所だったのだろう。そういえばテニスコートが近かった、遅れて思い至る。 長い長い足を曲げ、膝上に手を遣り、屈んだ影が濃い。 重力に釣られて下がる前髪は、綺麗な顔にほのかな暗を作り出した。 「こんなとこで座り込んで、どないしたん。具合でも悪いんか?」 与えられる声は限りなく優しい。 しかしだからこそ胸が詰まって、上手に答えられない。 引き結んだ唇を軸に、首を左右に振る。 「せやけど自分めっちゃ顔色悪いで。俺に言いにくいんなら保健の先生呼んできたるから、気にせず言うてな」 無理したらあかん。 気遣いしか存在しない、ひとの温もりというものが詰め込まれた一声だった。 かの人の強張った音色が蘇る。 好きな子おるから、あんたとは付き合えん、すまん。 瞬間、耐え忍んでいた涙腺が崩壊した。 眼前は水で埋め尽くされ、どっと溢れていく雫が頬と言わず顎と言わず、顔中を濡らす勢いだ。つかえた喉が醜くひしゃげて泣き始める。 恥も外聞もかなぐり捨てて号泣する私は我を忘れており、自分一人の感情に埋没していれば良かったので周囲を気にする事もなかったから、驚いたのは白石くんの方だろう。 この春知り合ったばかりの同級生が妙な場所で座っている、何かあったのかと親切に声をかけてみると盛大に泣かれてしまう。 私以上に運がない。 泣き濡れておきながらいやに冷静な部分がふと呟くので、現実からフェードアウトしつつあった頭の中に罪悪感が生まれた。 いよいよ捨て置けぬ異変と取ったのか慌てて同じ目線、位置へと腰を落とす優しいクラスメイトが、ほんまにどないしてん、と続けてくれる。 「ごめ…ご、め、ごめん…なさ、い」 申し訳なさ過ぎて他の言葉が出てこない。 更に困惑を深める人が、包帯の巻かれた左手で壁に触れた。 「いや俺はなんもしてへんし、されてへんし…。が謝る必要ないと思うんやけど」 誰か先生呼んでくるか。 こんな状況でも独断せず尋ねてくれるこの人は、どこまで出来た人なのか。 比べて私のどうしようもなさが酷い。酷過ぎる。だからダメなんだ。好きな人にも好きになって貰えない。 繋がっているようで繋がっていない思考回路が暴発し、既に壊れた涙の堰をより激しく砕くので、熱のかたまりに似た水滴は止まりそうもなかった。 「し、しら、白石…くん」 「…ん?」 「誰も、呼ば、んで…おねがい、言わ、んといて……」 息も絶え絶えに懇願すれば、しっかりと頷いてくれるのだ。 わかった、約束したる。 とんでもなく頼もしかった。 飲んだ唾がやたらと塩からく、顔を顰める。 注がれる視線は真摯そのもので、嘘のひと欠片も見当たらない。 嗚咽は親兄弟より心強い対応のおかげでゆっくりと静まっていき、所々裏返って、さぞかし聞き苦しかったであろうものを取り繕ってなんとか経緯を語りつくし、最後には落ち着いた息を吐く余裕すら戻ってきていた。 くだらん、どうでもいい、紛らわしい、等々のお叱りを受けても仕方のない失態だったというに、白石くんは一度も茶化さず怒らず、ただ黙って聞いてくれたのだから驚きだ。 災難だとうんざりしたって誰も責めぬだろうに、一貫して真剣であった。 ありがとうとごめんなさいをようやく言えるまでに回復した私を視認し、ほなそろそろ人が集まってくんで、誰にも内緒にしときたいんならはよ帰り、穏やかな声で優しく背を押してくれる。 途中で振り返り、頭を下げる。 応じるよう左腕が軽く晴天へ向かってあげられた。 次にきちんと言葉を交わしたのは、あれだけ迷惑をかけておきながら、ひと月ほど経った後の事だった。 不意打ちの大号泣をやらかした翌日、そう神経の細くない私でもさすがに気が咎めた為あらためて謝罪を申し込んだのだが、本当に二言三言で終わってしまったので、隠しておきたい秘密を明かしてしまった相手をよく知らぬままでいたのである。 私の教室からはグラウンドがあまり見えない。 掃除の時間も過ぎて人気もまばらな廊下に出、半端に開け放たれた窓の枠に腕を乗せながら、外周に勤しむ野球部員の列を眺めていた。 時折耳まで届く、かけ声の中に想う人のものがないか、澄まして探す。 居並ぶ剃られた頭の内、ひと際とびぬけているのが彼だ。 昔はそうでもなかったのに、中学入学と同時にぐんと背が伸びた。 視界の端から端までを駆け抜けていき、校舎の壁で見えなくなって、いくらか経つと再び現れる。 それを何回か繰り返し見つめ、一周に大体どの程度時間を要するかがわかってきた頃、隣に誰かの体温が薫った。 「熱心やな」 ガラス窓へ掛かる手は左、包帯の白。 からからとわずかな音を立ててアルミサッシの枠が遠のき、初夏の太陽に焼かれた爽やかな風が舞い込んだ。 「白石くん」 斜め上を仰げば、制服姿にラケットバッグを背負った姿があった。 「野球部やったか、お相手は」 「うん。丸坊主がいっちゃん似合う人!」 いやいや見分けつきません、こぼれる言葉が笑みに滲んでいた。 若干の乱れが窺える、彼を含んだ列が目端から消えていく。 頬を撫でる空気の流れは柔らかい。 前髪を揺らしてもらうと、涼しさに目元が緩む。 白石くんの言うところのお相手さんに、再度お目に掛かれるまでは些か時間が要るだろう。 言い損ねていた言葉を告げる為、何を語るでもなく佇んでいる隣人へ視線を遣った。 「ずっと言おうと思っててんけど……、ほんまにありがとう」 彼の周りにたくさんいるであろう友人、部活の仲間にも、本当に誰にも言わずにいてくれた事は、私にとって奇跡みたいなものだった。 疑っていたわけじゃないけれど、それでも不安が綺麗に消えるかといえば違う。 人を好きになるとどうしても怖がってしまいがちな質だから、本人にその気はないとしても隠しておきたい秘密を秘密のまま保ってくれているのは心強かったのだ。 前触れもなく礼を言われる訳が思い当らなかったらしい、切れ長の瞳を丸くした白石くんは一拍の間をあけ、やがて静かに微笑んだ。 なんや、いきなり。 綺麗な顔をしている人は、鼻筋や唇までもが美しい。 どこか羨望を抱き、こんな顔をしてたら失恋することもそうそうないに違いない、ぼやきたくなる。 「黙っててくれたから」 古い男友達へ対する気持ちは、女の子の友達にも話した事がない。 なんとなく気恥ずかしくて明らかに出来なかったし、いざ暴露してみてだめだった時の周囲の反応を考えると、1人で抱えている方がましだと思うくらい、辛い気がした。 はっきりと口にするのが怖い。 なにかが壊れてしまいそうで怯えている。 淡い恋だった。 「めっちゃ巻き込んだ形やったのに、言わんといてってお願い聞いてくれてありがとう」 「俺、約束したやん。誰も呼ばんし言わんて。ん中では、そない口の軽い男になっとるんか?」 笑う声があたたかく、最後の発音まで上品に響く。 「せやけど、白石くんにはなんのメリットもないやん? そんなん知るか紛らわしいんじゃボケーゆうて突き放されても文句言えへん状況やったもん。やのに約束守ってくれたんはほんまに嬉しかったし、ほっとしたわ。助けてもろた気分」 「大袈裟やなあ、は。けど俺はメリットデメリットで行動する人間ちゃうから、安心しぃや」 暗に、今後の閉口を誓ってくれている。 固く断言されるより、大言壮語を吐かれるより、ずっと信用出来る振る舞いだった。 ふっと声の尽きた廊下に、清かな微風が走る。 駆け抜けていった後には、胸がすくような余韻しか残らない。 あまり会話したことのない相手だというに、沈黙が重たくはなく、気詰まりでもなかった。 とても不思議な心地がする。白石くんが持っている雰囲気の所為なのかもしれない。 そうしてしばし二人揃って窓辺で佇んでいれば、遠くからあの独特の野太い掛け声が届き始め、つい前のめり気味になった私の横で、やわらかくこぼれた息の気配がした。 「ほな、あんまり遅うならん内に帰り」 年の離れた兄か、はたまた生徒に絶大な人気を誇る教師かというくらいの余裕と優しさを含んだ一言を置いて、静かな体温が遠ざかっていく。 想い人の出現に気を取られつつあった為に反応が鈍ってしまった私は、視線を慌てて追わせた。 行動の迅速な事だ、白いシャツの後ろ姿は数メートル先にある。 「いっぱいありがとう、白石くん!」 遠ざかる背中へそう声を掛けると、歩みが止まる。 首から上、顔の半分だけを振り返らせ、一秒。 目尻がゆるんだ。 微笑のような、少しだけ困ったような、呆れているとも取れるような表情。 と同時に左手を軽く揺らして、再び歩を進めていく。 階段の方へ向かって小さくなる背を見送りつつ、やがて鼓膜を揺すり出した野球部の音に意識を集中させた。 唯一の秘密を知っている同級生は、それからも何かと世話を焼いてくれた。 大泣きの場面を目撃してしまった責任感ゆえなのか、単に自身がそういった質なのか、突き放さず踏み込み過ぎず、絶妙な位置で助言をするのだ。 男友達は何人かいたけれど、こんなに気遣いに溢れ、でも嫌味に感じない相手は初めてだった。 野球部の練習試合日程、大体何時に終わるのか、休憩はいつくらいに取るのか。 私がどうしようかと迷っている時、知りたいけど実際本人に聞いたら確実に突っ込まれるであろうことを、ほんならにだけ教えたる、無邪気にちょっと子供みたいな表情で囁く。 なんでそこまで知ってるん、問えば、部長権限や、笑った。 どうやら二年にして強豪テニス部の部長に任命されたおかげらしい。 拝みたくなるほど有り難いけれど大変な時期なのだから、他人の愛だの恋だのに割く時間などないのではないか。 思わなかったわけじゃない。 でも口にしたら彼の親切心をすげなく切り捨てるのと同義だ、悩んだ末に感謝を述べるに留めておいた。 ある時運動部の子は何を貰ったら助かるのかを聞いてみたことがある。 すると、ああでもないこうでもないと多岐に渡る選択肢を広げたあげく、最後には決まってこう言うのだ。 でもな、しんどい時、自分のこと一生懸命考えてくれたもんなら、大抵なんでも嬉しいで。 改める仲でもない、腐れ縁と称されても笑うしかない間柄に尻込みする私を、優しくまっすぐに応援してくれた。どうしてこんな人を私なんかの事情に巻き込んでしまったのだろうと思った。 ついでに、これは死ぬほど黄色い声援を送られ、死ぬほどモテても仕方がないとも思った。 そうしてひと月が過ぎ、ふた月を超え、夏の足音が色濃く鳴り出した時期、放課後の教室で白石くんとばったり出くわした。 どの運動部も大会を前にし忙しなく、片想いの彼とも白石くんとも話す機会が減っていた頃だったから、同じ教室内で過ごしているはずなのに、久しぶりに声を聞いたななどという錯覚すら抱くほどだった。 「、まだ残ってたんか」 ウェア姿のその人が、ドアのレールを踏み越えて歩いてくる。 頬杖をついていた手を外し、うん、と簡潔に答えた。故意ではないのだが、語尾が跳ねて踊ってしまう。 短いひと声の中にも変異を感じ取ったのだろう、なんや、やけに嬉しそうやなあ、微笑ましいものを見つけたような声色が寄越された。 にやつく口元を隠すつもりのない私は、求められるがままに白状する。 「今日な、一緒に帰る約束してん」 「お、野球部?」 「うん!」 万が一誰かに聞かれたら困るだろう、と心配りをしてくれているらしく、白石くんは彼の名を一度も呼ばず、いつも野球部だとかあいつだとか、特定できない程度の名称を使うのだ。 私の方からお願いしたわけでもないのに、自主的にそんな細部に渡る気遣いをさらっとこなしてしまうのだから恐ろしい。 意中の彼の、好きな子おるから、という台詞を忘れたわけではないけれど、どうしても眼前の幸福に浮き立つ心を抑えられず、誰がどう見てもはしゃいでますといった返答をする私に、ささやかな笑声で応じた白石くんが肩を竦めた。 「幸せオーラにあてられそうや」 「へへー、お裾分けしよか?」 「アホ、気が早いで。そういうんは、ほんまに上手くいってからありがたーく受け取ったる」 しっかり頑張りや。 少しばかりひねられた祝福と、プレッシャーにならない程度の釘を刺して、自分の席へとたどり着いた人は目を伏せる。 傾きかけた陽で淡く綻んだ色合いが、整った顔立ちをより際立たせていた。 行儀の悪い事で恐縮だけれど椅子に横座りしていた私は、その一挙一動がはっきりと見て取れることができる。 教室の後方、窓とやや離れた机から何かのファイルを取り出している所に、心持居住まいを正して言葉を選んだ。 「うん。いつもありがとう白石くん」 俯いていた顔が上がる。 前髪の奥で陽を浴びる双眸は、いつになく美しかった。 は真面目やな、俺にお礼言うとこちゃうやろ、なんやいきなり。 予想していた諸々の声は返ってこない。 かち合う一瞬前の目が、鋭い刃を思わせる光を伴い、すぐさま消えた。 息が止まりかねない、尖った灯火だ。心臓が跳ねる。 軽い苦笑で上書きされるまでの数秒、たかだか瞬きをするかしないかの空白が、どこもかしこも整っている彼の異変を訴えていた。 「あんな、前から言おうと思うててんけど」 と声が掛けられるよりはるか前からとっくに普段の白石くんに戻っていたのだが、わずかな間を放っておけないあまり置いていかれた私の反応は遅れに遅れてしまう。 はからずも無言で時間を送り、白石くんだけが的確に時を進めていく。 「自分真面目過ぎや。もうちょい肩の力抜いたかて罰当たらんやろ?俺に礼言うの忘れたって構わんし、申し訳なさそうな顔せんでもええよ」 予想していた声が今やってきた。 などと考える程度には、思考能力が回復してきている。 いや待て予想外の声もあった。どういう意味かと問いかけ、 「え、あの」 「白石くん私のことなんか気にしてる場合ちゃうやろーとか、忙しいのにごめんなさいとか思てないか」 さっさと断ち切られる。 言葉の真意はさておき遠慮が先行し、そんなん思ってへんよ、否定を試み、またしても先手を打たれてしまう。 「よそに気ぃ回す前に、自分のことだけ考えや。そないいい子ちゃんでおってトンビに油揚げかっさらわれても知らんで?」 しかも結構手厳しい。 裏腹にやわらかな表情を浮かべているので、どこにどう注目すべきなのか判断がつかず、思い切り返答に詰まった。 詰まったなりに、おうむ返しをする。 「…いい子ちゃんて」 「せや。こういう時はもっとガツガツ行かな」 再度、おうむ返し。 ガツガツて。 引きずり出したファイルを小脇に抱え、腕組みしながら深く頷く人が言う。 「世界で一番自分が相手を好きやくらいの勢いでな。そしたら周りのあれこれなんて、目に入らんもんやろ。なんも気にせんと一直線や」 今度は私が腕を組んで考える番だった。 まさか自分が思慮深い上自己中心的な人間ではありません、などと公言できる聖人と思っていないが、色々と助けてくれた第三者を顧みず突き進むのはなかなか難しそうだ。 「ちゅーか俺、女の子は大概そんなもんやと思っとったわ」 「そ、そんなもん?」 「ん? なりふり構わんと突っ込んでくる。相手や友達のことは後回し。そんで泣いたり笑ったり、そらもう自由や」 日頃から割合鷹揚で、特に女子に対しては丁寧な受け答えをしている彼の言葉とは思えない。二度見ならぬ二度聞きをするところだった。 何か嫌な経験でもしたのだろうか。 懸命に返答を模索する。 「それ、単に白石くんのこと好きな子の事情、知らんからやないの。私みたいにほいほい話せるんとちゃうし……。もしかしたら、知らんとこでめっちゃ色んなこと考えて悩んでたのかもしれへんよ。大体私かて、泣いたり笑ったりいっぱいしとるもん」 「はは、、俺の体験談みたいに答えよんなぁ」 「……どう考えても実体験に基づく話し方やったけど」 「うん」 肯定するんかい! 突っ込むべきシーンのはずだが、なんとなく声をあげる気にならなかった。 西へ西へと沈みゆく太陽は、ゆるやかに室内を温めている。 きゅ、と床を踏みしだく上履きの音が聞こえ、私より頭ひとつ分高い影は半ば引き寄せられるよう開け放たれた窓との距離を縮めていく。 舞い込んだ風によって煽られたカーテンが、光と暗の揺らぎを生む。 瞬間、ひと際よく響いた快音は、野球部が金属バットで高々とボールを打ち上げた証だった。 「あとは……そうやなぁ、俺もに助けてもろてるから。全力で感謝されると、なんやこそばゆい」 「え!? わ、私?」 予期せぬ展開に声が上擦ってしまう。 いつかと同じ手つきでガラス窓を閉めた白石くんが、外へ遣っていた視線を外し、ちいさく首を傾げて微笑んだ。 「ええな。誰かをそこまでも想うのも、想われんのも」 穏やかだけれど、どこかに寂しさを孕んでいる物言いだった。 ゆるんだ唇の端だけが笑んでおり、日なたを映す瞳は暮れかかっている。 刻まれていく秒針に置いていかれた一人。 ――あ。 今更、ちょっとだけわかったかもしれない。 「…またそんなん言うて。白石くんを好きな子とか、モテへん男子に恨まれても知らんから」 「せやから普段は黙ってんねやろ。秘密にしといてな、」 この人は孤独なのだ。 二年にして部長に選ばれ、日々に忙殺され、何をしても衆目を集めてしまい、抜きん出た顔立ちのおかげで溢れんばかりの好意をその身に受けて、けれど自らの感情を発露させる場はおそらく少ない。 部活内での立場も、クラスでの立ち位置も、ほとんど定められている。 望んでいるのかいないのかはわからないが、当てはめられた型に収まって、彼の中にあるルールに従い突き詰めているのである。 人を好きになる余裕すら、ないのかもわからない。 「頑張ってあれこれ考えとるとこ見て、実は元気もろてんねんで。はいっつも陰で一生懸命やからな。なんや和むわ」 「……面白がってるの間違いちゃうの?」 「いや。羨ましいんや」 短く、しかし柔和に言い落とされると同時、窓の鍵がかかった。 他に開いたままの部分がないか確認する素振りを見せながら、白石くんが私の座る席までやってくる。 「俺にはよう出来ん。選ばれんとどんだけしんどいか、考えただけでもうしんどい」 なんと後ろ向きな発言か。 四天宝寺中のみに留まらず、近隣の学校にすら名が知られていそうな人の言葉だろうか。というか中学生にして悟り開き過ぎではないのか。いくら色んな意味で孤高の存在となりつつあるとは言っても、限度がある。 等々連なる感想をなんとか抑え込んで口を開く。 「な…なんでそんなネガティブなん? そこまで思いつめることないやん、白石くんなら」 「問題は俺なんや。今言うたやろ、ええなって。想われる、だけやなくて、誰かを想うんがって」 好きだって言ってくれる子たくさんいるよ。 そんな浅はかな私の返事を見越してだろう、手早く遮られた。 おまけに何気なく重たいことを語っている。 「ええと……。……それ、トラウマ的な話……?」 「ちゃうちゃう。もっと単純な話や。が羨ましい、俺にないもん持ってる子の応援しとる間に俺も励まされる、はい一石二鳥、せやから頑張ってや」 臆した私の態度に吹き出して、そんだけの話、と笑う顔はもう明るく彩られていた。 ほっと胸を撫で下ろす。 「なんやもう、焦ったー……。知らん内に私地雷踏んだかと」 「踏まれてへん、踏まれてへん」 破顔には先程の鋭さも暮れ日も存在しておらず、本当に心から安堵をした。我知らず力を籠めていた肩が崩れる。 全国常連である運動部部長と、恋愛事で一喜一憂する私では最早生きているレベルが違うのではないかと思うけれど、他ならぬ部長本人が背中を押してくれるのだ、あと少し、自信を持ってみてもいいのかもしれない。 何より彼の応援は心強かった。 「で、練習終わるまで教室で待っとるつもりか?」 ジャージのポケットに片手を突っ込んだ白石くんが、こちらを覗き込む形で問うてくる。 急な話題転換だ、ややしどろもどろになりつつそうだと頷いた。 「なんで。グラウンド行って見とったらええのに」 「やって、べつに彼女でも何でもないし……友達やもん、ただの」 「友達やったら練習近くで見たらあかんのかい」 「……あかんことないけど」 歯切れの悪い私に、優しく言い聞かせる声音が注がれる。 例の年の離れた兄か、人気絶大の教師のそれだ。 「俺が言うたこともう忘れたんか」 「…ガツガツ行く……」 「せや。覚えとるんなら話早いな、はよ行きや」 な、と穏やかな語尾をくっつけてくれるのが有り難い。 それでも心許ないのは、完全に私自身の、軟弱な精神の所為である。 「…あんな、白石くんやったら」 「……俺?」 屈んでいた背がほんのわずか浮き、微笑みを湛えていた瞳がきょとんと丸々膨れた。 「うん、その…変に思わん?今まであんま見に来てへん女友達が、急にいたりしたら」 沈黙。 不安な気持ちが胸を支配していたので、つい下を向いてしまい、顔色を窺うことは叶わなかったけれど、白石くんのことだからごく真面目に考えてくれているに違いない。 日差しがふくらはぎをちりちりと焼き、かすかに痛んだ。 椅子に触れている部分は嫌な汗をうっすらとかいている。 スカートの上に置いた掌を、知らない間に握り込んでしまう。 ややあって、半分呆れ、半分宥めている声が頭の天辺に落ちた。 「アホやな、」 貶されているはずなのに、ちっともそんな風に思えないのは、発音の一つ一つが全部あまやかだからだ。 「思わへんよ。俺やなくても、誰でも思わんわ。むしろ練習に集中してたらいちいち誰がどこに居てるかなんて気にせんし、ぶっちゃけ気づかん可能性のが高いで」 「……ほんまに?」 「嘘ついてどうするんや」 こぼれた笑顔の気配に視線を持ち上げれば、まなじりまでをも溶かした、淡く優しげなかんばせが在る。 先刻までのやり取りに加え、このあたたかい眼差しのおかげで決心がついた。 いつになく強気になっていた私はひと息に立ち上がり、机横に引っ掛けていた鞄を掴む。 「なら、行ってくる。で、できれば…骨を拾ってくれると嬉しい……」 笑声が漏れるどころの話じゃなく、盛大に開かれた大口の奥からそれとわかる音が転がってきた。 「はは! 大袈裟や! べつに告りに行くんと違うんやから」 とんでもないことを言う。驚きに目を剥いた。 「私にとってはそんくらい大事なんや! ……告白とか、絶対無理……」 「今から弱気でどないするん。しょげてる暇ないで」 「せやけど、そこまで考えられんもん。今は…っていうかずっと、目の前のことでいっぱいいっぱいで」 だから白石くんの存在にとても助けられているのだ。 はからずも知られてしまった秘密で、転がるように始まった友達関係だったけれど、相手が彼で良かった。感謝してもしきれない。 「白石くん」 勇み足のまま二歩三歩進んだあたりで立ち止まる。 呼ばれた方はというと、不思議そうな面持ちで佇んでいた。 「今日、色々話してくれてありがとう。いちいち礼言うなー突っ込まれそうやけど、やっぱり私、白石くんのおかげやと思う」 出入り口へと進んでいた所を翻らせ、体勢だけは彼と向き合ったはいいが、目を見るのが気恥ずかしかったので居並ぶ無数の机上に視線の先を落ち着かせた。 息を吸う。 心許なかった本当の理由。 一人では打ち勝てなかった不安をたしかな言葉にする。 「…好きな子おるて……言うてたから。ほんまはその子見るんが怖かったんや。いたらどうしよ、泣かんでいる自信ない、もし仲良う話してるとこなんか見てしもたら…って、一人でぐるぐる考えて結局教室に閉じこもっとった」 別に白状したからといって、事態が好転するわけでもない。 怖いと思う気持ちは残ったままだし、話してすべてが綺麗に消化されたりはしない。 けれど、今はこうして自分の言葉で口にすることが、大事だと思ったのだ。 親切には親切を。誠意には誠意を。 貰ったものをすべて返せるなどと大それたことは考えていない、彼の孤独の為にも頑張るだなんてもっと恐れ多い、でもできることはある。 「せやから、ありがとう。頑張る!」 ぐっと握り拳を作ると、自然笑顔がこぼれた。 垂れ下がっていた目線も上向きになり、白石くんの綺麗な顔もよく見えるようになる。 まだ微笑んではいない、呆気に取られたと表現するのが正しい表情だった。でも崩れ切っておらず、間抜け面だとは口が裂けても言えない。 女子も羨むほどの形のよい唇をうすく開かせ、背から差すやわらかい日をまんじりと受け入れている目蓋が一度、ゆっくり閉じられた。 「そか」 変わらない、目にするだけで、こちらの背を押してくれていると確信ができる、信じるに値する微笑みが誰もいない白い壁と窓へ滲んでいた。 意気込んで声を発する。 「うん、いってきます」 「はい。気ぃつけてな」 いってらっしゃい、とでも言うかのよう挙げられた左手に見送られ、放課後の静寂に包まれた教室を駆け出す。 向かう先は同じくせして、一緒に行こうとしないのが白石くんの中学生男子離れしたところだ。誰ぞに目撃でもされたら、勘違いされかねないと危ぶんでいるのだろう。 今の流れで言及していてはいい加減、礼はいらん言うたやろ、と叱責を受けてしまうかもしれないから、黙って心の内で繰り返した。 ほんまのほんまにありがとう、白石くん。 朝練が終わる頃の昇降口。 滴る光の礫。 風の温度が変わっていく。 水道から飛び出る水はぬるくて、熱気にあぶられた肌を冷やすには到底足りない。 夜7時の夕焼けは紫と赤とを混ぜこぜにし、街並みの彼方目いっぱいまでを使って、壮麗なグラデーションで見る者を圧倒させる。短い闇が熱に閉じ込められた。 蝉の合唱のそばで白球を探し、移動教室にかこつけて彼のクラスを覗いてみたり、食堂で偶然会えば軽口を叩いた。 友達とは思っていない人を、友達の顔のまま接する。 相も変わらず些末事で頭を悩ませる私を、白石くんが笑う。 しゃあないやっちゃ。 返事に窮して謝る他ない。 すいません。 妹を見守る兄めいた表情で、真面目か、と茶化す。 片想いの辛さよりも喜びが勝っていたし、白石くんはいつだって背を押してくれていたから、真夏の校舎にて折り込まれる日々は至極穏やかだった。 練習の次にまた練習、過酷な部活動をこなしている為授業中は爆睡している想い人に、ああだこうだ屁理屈を突き付けてお節介を焼いたこともある。どうせノートなんか取っているわけない、先生が同じ教科だけ見せてあげる、暗に沈んだ帰り道で他愛ない話のついで、接点を作ろうと必死だった。 彼はいつも無邪気に破顔する。 おおきに、悪いな、腐れ縁様様や。 子供みたいに喜んだ。 だから、野球部の試合を見に行ってみたい、勇気を出して問うてみれたのだけれど、お前に見られてたらなんや恥ずかしゅうて集中できひんから嫌や、大体野球興味ないやんか、すげなく断られたので、大人しく引き下がるしかなかった。 それでも日程だけは教えて貰い、試合の日は家や学校で一人はらはらしながら結果を待ち、勝敗の行方をきっちり知った後にメールもした。 簡単な返信しか寄越されなかったけれど、私には充分すぎるほどで、不満に思ったことはなかった。 その頃の白石くんはというと本当にテニス部で大変そうだったので、自然と会話する回数も減り、私のことで煩わせてはいけないと詳しい事情は話さぬままゆき過ごした。 時折顔を合わせたらば、5分にも満たぬやり取りをする。 、大丈夫か。ちゃんと上手くやってんのか。 白石くん、お兄ちゃんみたい。 おーいつでも呼んでや、慣れとるからな、兄貴役。 役て、ほんまにお兄ちゃんやねんから、慣れてて当たり前やん。大丈夫、最近はメールようするんよ。 掻い摘んだ説明にも関わらず、まるで我がことのよう満足げに頷くのだから、この他人に対する思いやりっぷりはすごい。 そらよかった、お兄ちゃんひと安心や。 肩の力が抜けるからかいも忘れないあたり、完璧すぎる気遣いの人だ。 私はいつでも、笑いながらコートへ向かう姿を見送った。 長い夏季休暇に入り、気温はうなぎ上りに高まっていく。 学校があった時はほぼ毎日見ていた人と会えぬのは寂しかったけれど、ラジオやネットを駆使して府大会に挑む野球部の様子をどうにか知り、知ったはいいが試合会場に行けない分余計悶々したりもした。 あえなく敗退してしまった日には、メールを何度も何度も書いては消して繰り返し、緊張に震える指で送信ボタンを押す。その日の内に返事がこなかったから、翌日、いつもの短いながらもしっかりこちらの文面に対して答えてくれるメールを受信するまでよく眠れずに過ごし、画面に表示された名前を確認した時など涙ぐんだくらいである。 宿題全然やってへんわ、どないしよ。 悔しさよりものん気極まりない雰囲気の詰まった内容を読んで微笑ましく思い、ひと息ついたところで、白石くん率いるテニス部が気になった。 試合結果はテニス部ファンの友達に聞かされていたおかげで知っていたけれど、白石くんの心境ばかりはわからない。 ぎりぎりまで他人に大丈夫かと声をかけるような人だ、こう案じるのは失礼かもしれないが、無理していなければいい。 ふいに放課後のひと幕が蘇る。 問題は俺なんや。 寂寥に暮れたほの昏い瞳は孤独を謳っていた。 一寸とはいえ胸を穿つ鋭利な眼差し。 私に対してではなくもっと深いところへ向けられた、行く宛のない炎じみた揺らめきだった。 もうちょいマシな返しができればなあ、家で思い悩むくらいならアドレスを聞いておけばよかったなあ、後悔して初めて不可思議な友人関係だと自覚する。 好きな人や恋愛観について話す距離感だというに、メールも電話もすることはないのだ。 まずきっかけがイレギュラーなアクシデントなので、仕様がないのかもしれない。 ともかく、学校が始まったらそれとなく尋ねてみよう。 夏用の布団を握り込み、暗い天井を見詰めながらささやかに決心をする。 しかし、計画と呼べぬこの予定は、新学期早々にあえなく頓挫した。 × → |