02 どこをどうやって歩いてきたのか全く記憶にない。 昨日あれだけ長々と携帯の画面を眺めていたのに、肝心の文章がなかなか入ってこなかったのは、有り得ないくらい呆然としていたからなのだろう。 脳では理解していた。 でも感情が追いついていかない。 涙も出ない、ただずっと目の奥が痛んで腫れぼったい。 暑いな。 混濁する頭で呟き、こめかみに滲み始めた汗を拭う。9月のくせして、気温湿度だけは真夏並みだ。コンクリートがゆらゆらと頼りなく揺蕩っている錯覚に陥った。 足は動いている。 けれど歩いているかはわからない。 常と変わらぬ通学路が通り過ぎていく。 だが現実なのかわからない。 見慣れた校門が視界に入り、別段のろい速度でもなくいつも通りくぐり抜けて昇降口を目指す。 学校の敷地内は静かだった。 強豪運動部とはいえ、長期休暇明け一日目にしてきつい朝練は行わないらしい。 休み前まではにぎわいを見せていたグラウンドも、いまや閑古鳥が鳴いていて、人影はあるもののじつにまばらである。 二学期の私であればさぞや寂しく感じたことだろうに、この四天宝寺らしからぬ静寂に心底落ち着いてるのは辛いからだ。 見たくない。 考えたくない。 だって終わってしまう。 「」 一体誰の仕業か開け放たれたままの扉近くに辿り着いた時、背後ろから名を呼ばれた。確かめなくてもわかる、品のよい声だった。 「ずいぶん早いんやな、おはようさん」 機械的に動かし続けていた両足を押し留め、隣までやって来るその人を待ちながら、おはよう、久しぶり、元気だった、どれを口にすべきか頭で考え、心の中では毒が噴き出す。 終わる。 終わってしまう。 何が。 何が終わる。 ――もうとっくに終わっているのに? 「……おはよう、白石くん」 胸を腐らす感情のひとつとして言葉にはならず、脳が自動的に選び取った単語が唇の端から伝い落ちた。 体を通じてなのか外から鼓膜に入り込んだものなのかはわからないが、私の返事は自分でも引くくらい大層滑稽なものに聞こえた。 白石くんの顔色がさっと失せていくのを、どこか遠い出来事に仕立て上げ見つめている。 「……なんか、あったんか?」 ひとを慮る声があたたかい。 音に体温など存在しないはずなのだけれど、たしかにそう感じた。 「ん…なんで?」 「なんでて……あのな、自分鏡見てきたか? ヒドい顔や」 「うん…見てへん」 枯れ草か私かというくらい擦れた声で要領を得ない返答しかしない級友を見かねてか、一旦こっち来い、と教室とは異なる方角を指して手招きする。 乞われるまま先を行く背に続けば、こちらの様子をきっちり確認し終えた後で白石くんが歩き始めた。 無言であるし、何度も振り返られたわけでもないのに、ついて来なさい、という声なき指令が下された気がする。 有無を言わさぬ強い意志が、すらりと伸びた背筋から放たれていた。 場違いなことに、運動部の部長なんだなと今更感じ入った。 等間隔に植えられた木々の下を進んでいく。 朝も昼も休み知らずの蝉がわなないて、近くなったり遠くなったりを繰り返す。遮るものがない陽の当たる部分は熱く、木陰や校舎のそばはいくらか涼しかった。 食堂のある棟に到着し、季節外れにしんと冷えた様子の室内を横ぎって、うすい明かりを放つ自販機前で立ち止まる。 長くも短い行程が終了したようだ。 途端、白石くんが肩にかけたラケットバッグを気持ち後ろにずらし、制服のズボンのポケットを乱雑にまさぐったかと思えば、次の瞬間には硬貨をさっさと投入している。 チャリン、チャリン。 連続する音を耳にしつつ、朝の練習が終わった足で教室へ行く途中に私と会ったのか、などと埒もない思考を抱えた。 何をするにも大抵左手である人を後ろから眺め、ぼんやりとした意識で突っ立っている内に、白いシャツが受取口に向かい折れ曲がって、再度伸びる。目的のものを入手したらしい、眼前へペットボトルが差し出された。 無数の水滴を纏った、250mlのミネラルウォーター。 「喉渇いてるやろ」 指摘されて初めて気がついた。 そういえばそうかもしれない。汗もかいていたし、気温も気温だ。 頷きかけて、しかし首を横に振る。 奢ってもらう理由がない。 「そういうんは後や、後。とりあえず飲み」 口に出していないにも関わらず通じていた。 不思議やな、私ほんまに一言も話してへんのに。 両手で受け取れば、ひんやりと指先が冷えていく。 熱の分解は血管を通して広がり、全身をくまなく駆け抜ける。 ここに至るまでの間、相当ゆだっていたらしい頭の中身も同様に落ち着きを取り戻した。 キャップを回し、口に含んだ水は清涼な触感で以って体の内面を満たしていく。 そうしてようやく、何ヶ月も前のことを白石くんが覚えていたのだと思い知った。 誰も呼ばんで。 言わんといて。 2年に上がって間もないあの日、大泣きした私なんかの為に、人目を避けてここまで連れてきてくれたのだ。 とんでもなく優しい。 でも怖い。 こんなに優しくして貰ったら、崩れてしまう。 なんとかして保ってきたものすべてが失せる。 消える。 壊れる。 終わる。 「……か、」 三分の一ほど飲み干して、息を吐いた。 弾みで萎びた声が落ち転がった。 白石くんは微動だにしない。 「…彼女が……できた、って」 言い終わるよりもずっと早い段階で、涙が一気に溢れこぼれた。 ろくに見えもしない視界に、自らの掌とペットボトルが映り込む。 「き……昨日、私、…宿題、だいじょぶなんって、き、ぃ…たら…」 お前に頼らんでも平気になったんや、よう聞け耳の穴かっぽじって聞け、いやちゃうか目ん玉開いてよう見とけこの文章、俺彼女できた! 率直で、余計なことを書かない彼らしからぬ、はしゃいだ文面だった。 ずっと好きな子がいたこと。 試合を見に来てくれて嬉しかったこと。 勢い余って告白したら、相手も同じ気持ちでいてくれたこと。 その子に手伝って貰ったから夏休みの課題に何の問題もないこと。 ここまで饒舌に自分の近況を語る人だったか、とドッペルゲンガーかはたまか影武者を疑いたくなる長文メールが私の手元にあった。 嬉しくて仕方ない、幸せの渦中にいる、惚気に惚気た顔が思い浮かぶ、私でない他の誰かが目にしたら可愛らしいだとか微笑ましいだとか評するだろう一通だった。 泣けなかった。 突然の結末に、涙の出る間もなかった。 その分が一気に今、流れ落ちてしまっている。 「ごめ、ごめ…ん。ごめんな、さい……」 唇が震え、体中の水が消えていく。 先程の潤いなど忘却の彼方だ。 干からびて死んでしまうのではないかと思う。 。 白石くんが呼ぶ声も、薄い膜の向こうで戦慄いているに過ぎないから聞こえづらい。 「ごめん、白石くん。わた、し…っごめ…」 「…………なんで謝るんや」 きつく引き絞られた一言は白石くんのものじゃないと一瞬判じてしまう、痛そうだとすら感じる、掠れたものだった。 「…だって、わたし、できんかった……うまく、やれ…んか……っ、がんばれて、応援、せっかく、む、無駄に、して」 喉の奥に熱いかたまりがあって、どれだけ泣いても息をしても黙っても、何をしてもなくならない。 お腹の下からしゃくり上げる、渦の原因がたまらなく重い。 辛くて苦しくて、どうにかなりそうだ。呼吸さえままならない。 数秒遅れで鼓膜を揺らした蛙の潰れたような嗚咽に対し、いっそ本当にそうなりたい、などとどうしようもない自虐をする。切りつけて、痛めつけて、自分自身を無茶苦茶にしてやりたかった。 でないと形にしてしまう。 こみ上げる醜悪な感情を抑えていられない。 「。忘れてへんのに忘れたフリすんのやめろ」 そうしてみっともなく塗りたくった面目を跳ね除ける声がした。 聞いた覚えのない厳しさを含んでいる。 「なあ、ほんまは覚えてんねやろ……。よそに気ぃ回すなや、こんな時まで」 真面目過ぎだ。肩の力を抜け。いい子のままでいるな。 悲しそうな反響と、いつかの人を導く声とが重なった。 転瞬、腹奥から怖気に似た震えがせり上がる。胃の中を掻き回し、食道まで侵食して、喉にあった熱を帯びるなにかのかたまりに当たって砕け、散らばった残滓が舌上で膨れていく。 けして外に出すまいと歯を食いしばり、嘔吐感とも必死で戦う。 嗚咽が邪魔をする。 呼気も厭わしい。 止み時を知らない、両の目から流れ続ける涙が熱かった。 苦味を伴う唾をようやっと飲み込んだ、すると悲鳴じみた呼吸の音が舌の根あたりで潰れる。 もう耐えられそうにない。 判断したが最後、奔流にものみな全て押し流された。 「なんでぇ…っ?」 言うな。 言うな、絶対に言うな。 頭の冷静な部分が渾身の力で訴えかけるけれど、開き出した唇は止まらない。 激情が声帯を刺激して、独りでに言葉を紡いでいく。 首から上が持ち上がらない。 冷たかったはずのペットボトルの温度がわからない。 「…たしには、試合、見…来るな、て…言、たのに、や、から……私、ほんまに、行かんか……っのに、なんであの子、は、よか…ったん…?」 阿呆でも理解ができる、当然だ。 恥ずかしいから見に来るなと気軽に言えるくらい、私は気安い。 見に来て貰えると力になるくらい、彼はその子のことが好きだった。 それだけの話だ。 それだけの話なのに、頬をしとどに濡らす水滴が、辛い、苦しい、悲しい、延々と繰り返して目蓋を水没させた。 ぼたぼたと垂れる雫の先に、自分の足と床が垣間見える。 膝にはほとんど力が入っておらず、わずかばかり残っていた理性だけで立っているに違いなかった。 白石くんの姿は見えない。 足先も掴み取れないから、もしかしてこの場に存在していないのではないかと危ぶんで混乱する。 誰に何をどうして話しているのか不明瞭だ。 「わた、しや…ない、なんで……! なんで、あの子やないと、あかんの」 嫌われてはいなかった。 でも恋じゃなかった。 彼にとって私は仲の良い友達だった。 最後までただの友達だった。 最早ぶつける相手を失った慟哭のみが萎びて地に伏し、いくつものなんでとどうしてが暴れて体の内にひっかき傷をつけていく。 探して見つけたいだけだ。 私ではなく、違う誰かでなければいけなかった理由。 納得をして楽になりたいだけ。 悪くない。私は悪くない。 被害者気分に浸って目を逸らしたかったのだ。 そんなはずがない。 半年も前に好きな子がいるからと告白を断った彼を知っていながら、何の手を打たなかったのだから、これは八つ当たりに過ぎない。 全くもって白石くんの言う通りだった。 本当に好きなら、誰かに背を押されるまでもなく何度でも練習を見に行けばよかった、一度来るなと拒まれたくらいで引き下がらずに応援をすればよかった、膨大な望みがあるくせしていい子ぶって、少しでも鬱陶しがられるのが怖くて臆病になり、大人しく離れた場所から眺めていただけで、叶うわけがなかったのに。 小さな画面上のやりとりで満足して、好きな人に好きになって貰う努力を放棄した。 頑張るだなんて口先ばかりもいいところだった。 嫌になる。関係のない白石くんに気を遣わせて、好き勝手に大泣きしている。でも止められない。 最低だ。 最低の最悪だ。 体と感情がばらばらになったみたく、ひとつのところに収めていられずにコントロールができない、一度ならず二度までも迷惑をかけてしまっている。 吐露するだけすると、しゃくりあげる声にならない声の内へ荒れた呼吸が混じり始めた。 幾度か深く息を吸って吐く。暴れ狂っていた熱量が失せつつあるのを肌で感じ、この上なく腫れた目蓋を手の甲で拭う。 自分が惨めだった。 隅から忍び寄ってきた、いっそ放って置き去りにされた方がまだマシだ、なんて礼儀知らずな思考は、目端へと映った左腕によって打ち払われる。 かの肘から先が持ち上げられて、ゆうに数秒。 戸惑うような仕草を見せて、大きな掌が肩に触れた。 とてもあたたかい指だった。 夏服の生地は薄手だから、包帯の感触までもがじんわり伝わってくる。 「……顔、誰かに見られたないやろ。保健室行こ」 俺が連れてったるから、下向いたまんまでええで。 首の根元の先にあったかすかな重みが離れて軽くなった。優しい激励があったものだ。 というより触れ方が甘すぎて励ましになっていない。 こぼれ損ねていた涙が最後にひと筋、やたらとゆっくり落ちていく。 私は押し黙った。 今唇をこじ開ければ、せっかく落ち着いた涙腺が暴発しかねない。 それとわからぬ程度の頷きでも見逃さなかったのか、白石くんはごく静かに言い落す。 ごめんな、ちょっと触るで。 だらりとぶら下がっていた私の手首を掴む手は左で、さっきまで肩に置かれていたのと寸分違わない。 影が晴れる。 白石くんが歩き出したのだ。 引かれて動いたこちらの足も後を追う。 人気もなく照明も乏しい室内に、朝の日差しが差しこんでいる。 来た道を戻り、大仰な音のする扉を開いて外へ踏み出すと、瞬時に夏の名残がむせ返った。 覚束ない足取りでもまっすぐに進めているのは、先頭を切るたしかな背中のおかげである。 歩調に合わせて繋がれた手と手が揺れる。 掴むとは名ばかりで、触れているかいないかの強さでしかない。 当然、引きずられる感覚もなければ痛くもなかった。 包帯につつまれた掌は、特別華奢でもない私の手首がすっぽり収まってしまうほど広く、そして熱い。 手の形がよくわかる。 指の付け根が少し硬いのは、肉刺の所為だろう。 昇降口を抜けるものと信じ込んでいたところ途中で方向転換するのに驚いて、反射的に顔をあげると、校門と下駄箱を繋げる道が生徒でいっぱいになっているのがちらりと見えた。自販機の前で過ごしている間に、登校時間と重なったらしかった。 避けてくれている。 考え至って、また泣きそうになってしまう。 「……ごめん…」 先程より多少はまともな発音の謝罪をし、ラケットバッグと連なるその背を見上げた。 「ごめんはもうナシや。ついでにありがとうもいらん。俺のことは考えんでええから、気にすんのは終いや」 白石くんは絶対に振り返らなかった。 先の言葉を辿って、あえて顔を見ないようにしてくれているのかもしれない、思う。 一貫して真摯なのは、ずっと変わらない。 悲しい目に合わされているわけでも何でもないのに、無性に切なくなった。 植え込みの隙間を跨いで、渡り廊下に突き当たる。 校舎内と屋外とを隔てる小さな段の前で白石くんがスニーカーを脱ぎ捨てた。倣って私もローファーを脱ぐ。 ぽいと放った一足を拾おうとし、数秒早く伸びやかな腕に先を越され、半端な姿勢で固まる他ない。 自分のと私の靴両方を右手にひとまとめにして持ち、左手で私を引き上げる。 ごめんもありがとうも、言う暇を与えぬ素早さだった。 靴下で踏みしだく廊下はどことなく冷たく、階上の騒がしさも何のその、静けさに満ちている。突き進んでまもなく保健室前まで着いてしまい、こうすると近道なのか、と初めて知るショートカットコースに感心した。 ふと熱源が消え、手首に空気が当たって涼しい。 行方を探るまでもない、ドアをノックする音が耳に入り、次いで声。 すいません、具合悪い子おるんで、見て貰っていいですか。 保健室内の養護教諭に尋ね終え、そこでようやく彼は私の方へと視線を向けた。 目が合う。 俯いていない私が予想外だったのかもしれない、一拍の空白、優しい音を奏でる唇が引き結ばれる。 ぐっと堪えた様子の瞳が、何故だか揺らいでいた。 窓から差す光に煌めいて儚い。 錯覚に違いないが、辛そうに見えた。 そんなはずはない、幻想を打ち消し、もしかしてそこまで酷い有り様なのかと顔を背けて目元に触れれば、乾いた涙の跡で指先が擦れた。 「……ネームプレート見て、のロッカーに入れとくわ」 今更過ぎる己の醜態に気を取られていれば、軽く靴を掲げた白石くんがそっと呟くか細さで告げてくれる。 まさかそこまで無反応のままお世話になるだなんて申し訳ないにも程がある、慌てふためいて鼻先を持ち上げ、 「しら」 「わかっとる。…大丈夫や。もう言わんでも」 はじめから終わりまで切実に響く声音によって、謝罪も感謝も打ち砕かれた。 私が正面から顔を見詰めるより先に、白石くんは下駄箱の方へ体の向きを変えており、しっかり姿勢を正した頃には背中しか辿れなかった。 いまだぐずぐずと鳴る鼻をすすって、遠くなっていく姿を目にあてる。 なんだろう、しつこかったのだろうか。 それともいよいよ呆れられてしまっただろうか。 仕方ないかもしれない。 あれだけ迷惑をかけられれば、もう関わりたくないとうんざりするのが当たり前の反応だ。 常ならばまず白石くんの気遣いであるとか、あんまりにも悲壮に暮れて見えた為遮ってくれた可能性だとかを考慮したのだが、この時に限りそのような思考能力は残っていなかった。 罪悪感に後ろ髪をひかれつつ、保健室へと入る。 先生は私の様相をひと目見て何かしら起きたのを察し、ベッドを使うかどうか真っ先に聞いてくれたから、お言葉に甘えて肯定させて貰った。 クリーム色のカーテンの内側で荷物を置く。サイドテーブルに乗ったペットボトルが布越しの日を反射し、ゆったりと頼りなげな水の影をあたりに散らしていた。 結局、HRと始業式分の時間を保健室で過ごし、目蓋の腫れも幾分引いた頃になってようやく教室へ向かった。 早速体調崩してんのは誰や、と担任の先生からからかいまじりの叱責を受けたけれど、そのおかげで友達やクラスメイトの皆には変に思われなかったようで、しつこくかさつく眦が安堵にゆるんだ。 周囲には悟られぬ程度に首をひと巡りさせ、彼の姿を探す。 失恋の痛手に気まずさや謝りたい気持ちが混ざり、それでも知らない振りはできず、やや急いた動作のまま教室内の端から端まで見尽くしたが、いない。 聞けば、テニス部の遠征やら何やらで式とHRだけ出席し、その後は公欠だという。 思わず項垂れた。 そんな忙しい日に、自分はなんというケチをつけてしまったのだろうか。 新学期の早朝にかけさせる類いの手間ではない。いや、手間自体かけさせてはならないのだが。 あれだけの施しを受けておきながらろくな返礼もしていない、ということが靄のかかった胸中を暗く染めていく。 何もかもうまくいかない。 ひとつも上手にできない。 コンプレックスに沈み込みそうになるのを、面倒見の良すぎる同級生の顔を思い浮かべ、振り払った。 まずは白石くんに会って話をしてからだ、悲しむのも泣くのもその後にしよう。 そう心の軸に据えて、放っておけばすべてを埋め尽くすであろう、昨日までの片想いの相手に意識がいかないよう無理矢理片肘を張った。 廊下で姿を追うのも、放課後遠くから野球部を眺めるも、くだらない用件でメッセージを送るのも、意識的に止めればあっけないくらい関われないのだと知る。 よく考えてみなくても一方通行だった。 確かめてしまうほど虚しい。 けれどアドレスや今まで貰った言葉の数々を消せない自分が嫌で、禁じた涙の代わりに溜め息がこぼれる。 気を抜いたら最後、再び決壊しかねない涙腺を奮い立たせて一夜を過ごし、いつもより早めに家を出た。 朝練に励んでいるに違いない恩人は人気のわりに単独行動が多い、確信を持って断言する。 でなければ私と他の人には知られたくない話をする隙などないからである。 昨日と似ているようで異なる心境のまま通い慣れた道を行き、野球部のいるグラウンドを避け、遠回りしつつ昇降口へ歩を進めていく。 来る途でちらと横目でテニスコートを見、ちょうど片付けが始まっている頃合いだと確認していた為、通りがかる時間を目算するのはそう難しくなかった。 いつ設えられたのか謎であるなかなか年季の入ったベンチに腰かけて待つこと数分、知ったばかりのショートカットコースの方へ行くテニス部部員だろうか、明るい髪色の男子に二、三声をかけ、こちらへ歩いてくる人影。鞄と、登校中仕入れたコンビニの袋を掴んで立ち上がる。 「白石くん」 口にするや否や膝が萎えた。 緊張しているのかもしれない、判じたが、そもそも緊張とはどういう状態を指すのだ、などと混乱極まった己のひと声で続きを紡ぐはずの舌が空転してしまう。 少しばかり俯き加減であった彼は名を呼ぶ声に顔をあげ、綺麗な双眸の呼吸をはっと留める。 背筋がぴりと張る思いがし、怯えた声帯はみるみる内に縮んだ。 「き、昨日は……」 ここで黙ればいよいよ話せなくなる、先手必勝とばかりに唇を開き、だがすぐさま潰えた。 ありがとうもごめんも固辞されていたことを、今更思い出したのだ。 永遠かと錯覚するほど長い静寂が下りる。 頭上でささめく葉擦れの音さえ遠く、運動部の掛け声だって届かない。 なんか言え、言わな、早く。 肺を押し出す焦りにせっつかれ、 「……お……お世話になって、感謝してます……」 かなりしどろもどろの台詞が飛び出た。 なんでやねん、とコテコテのツッコミを心中でかましてしまうほど、不自然で空気が読めていなかった。 誰か時間を戻して下さい。 もしくはなかったことにして、やり直させて下さい。 ――ふ。 失態に凍りつく私の鼓膜に、やわらかな風を思わせる響きが馴染む。 いっぱいいっぱいの私を置いて距離を詰めた白石くんが、思った以上にすぐ近くで微笑んでいた。 「なんべん俺が言うても気にしぃのまんまやな、は」 細められた瞳に覚えがあって、いつも通りの白石くんがそこにいることを知り、全身の力が抜けていく。 うんざりだとか呆れたわだとか厳しい言葉と出会わずに済んだのだ、とりあえずだとしても有り難いことこの上なかった。 「ええよ。今日からごめんはアリで、ありがとうも受け取ったる」 彼が首をちいさく傾げ、ちょっとだけ困った風に話したと同時、場の空気がするするとほどけて撓んだ。 私は飛び跳ねる勢いで返す。 「また迷惑かけてしもてごめんなさい。それから、ほんまのほんまにありがとう」 「いえいえ、どういたしまして?」 笑みに揺れた肩が光を浴びて眩しい。 現金極まりないが、喜色に体も軽くなる。 はあ、とわかりやすくひと仕事終えた後の息を吐いた私に、それ言う為だけにここで待っとったんか、ラケットバッグを背負い直して歩き始めた人が尋ねるので、即座に首を振った。 妙な汗をかいた掌で握りしめていたビニール袋を掲げ、銘柄を見せるようにして中からペットボトルを取り出す。得たりと頷いたのは白石くんだ。 「なるほど、お返しか」 「て言うほどのものやないけど、貰いっ放しはあかんと思たから」 「俺が渡したんはもうちょい小さいサイズやったやろ」 「え? あ、でも白石くんテニスするし、私よりお水飲むかなって……。も、もしかして大きかった? ミネラルウォーター飲まへん人?」 「そんなことないで。おおきに」 おたついた腕からさっと冷えたボトルを抜き取ると、優しい色が染みる礼をくれた。 500mlのペットボトルもその掌の中にあると、うんと小さく見える。毎日ラケットを振るう人の指や手は、等しく白石くんみたいに大きいのだろうか。 なんて埒もない思索を持て余しつつ、来いとも来るなとも言われなかったのでそのまま並んで歩く。 ぽつぽつと散らばった登校する生徒の影が、騒がしさの予兆、嵐の前の静けさを物語っていた。 休み明けだろうがなんだろうが、四天宝寺は今後行事が目白押しなのだ。 のちのちの大騒ぎを頭の内で描けば、一度や二度の失恋なんぞで沈んどる場合とちゃうで、誰ぞの声がする。 四天宝寺中にいるかもしれないお笑いの神様かな、などと一人ふざけていると、 「……大分落ち着いた、と思てええんかな」 やけに静かで、胸の奥にまで届く低い声が、斜め上からこぼれて髪に触れた。 ひとの傷をなるべくよけて、けれどもそっと探るような、思いやりに溢れたひと言だった。 なんと答えるべきか数秒迷い、余計な心配りをさせてはいけないが、ここまで来て嘘をつくのもおかしいと思い直して口火を切る。 「…うん、自分じゃいまいちわからへん。けど、昨日よりはずっとマシ」 白石くんのおかげやね。 告げると緑の風が吹く。 残暑に焼けた梢が震え、コンクリートの上に明と暗の網目模様を絶え間なく映していた。 「大泣きできてスッキリして、あと考えないようにしとるんもあると思う。でもそれだけやなくて、気の張り方みたいなの、わかってきたから」 やっぱり白石くん様様や、囁きに似た言葉を足元へ放る。 すると、黙りこくっていたその人が重たげに、こちらのものと同じくらいのトーンで呟いた。 俺は、なんもしてへん。 「あんね、私、白石くんにお礼言って謝るまではって決めててん」 そしたら泣かなくてもしんどくなくなった。せやから、白石くんのおかげなんや。 隣人の切実な訴えを打ち消すように、強く繰り返す。 「いい子でおったらあかん言われたし、私もほんまその通りやって後悔したよ。けど今はちょっと、それでよかったって思う。空元気かて、元気は元気やもん」 彼曰く、よそに気を回している所為で今の状態を保てているに相違ない。 必ずしもこういった忍耐が良い結果をもたらすとは限らないが、私にとって最適の忘れ方だったようである。 ちょっとは、少なくとも白石くんに余分な気を遣わせない程度には、憔悴しきった顔をしていないらしい。 それがどうしてだか、すごく心強かった。 自分は大丈夫だと信じられる。 すぐには無理でも、立ち直るいつかをおぼろげに想像することが苦ではないのだ。 「うん、まあ、単純に私が図太いだけって線もありなんやけどね。普通、もうちょい引きずるし」 昇降口の扉前の段差を超えたところで、一方的にべらべらと喋っている状況が気恥ずかしくなり、わざと大きめにした声で誤魔化してみる。 鉄製の蝶番が大変聞き苦しい音を立てて、私たちを校舎内へと出迎えた。 一歩前を行き、引くにはなかなか骨である扉を開けてくれた白石くんが、横顔でじんわり笑う。 「、後ろ向きなんか前向きなんかわからんで、それ」 一流ホテルのドアマンよろしく、どうぞ、言わんばかりの仕草と共に促されては、辞退も叶わず足早に駆けるしかない。 他の追随を許さないレディーファーストっぷりだ。 見目の麗しさも加わって、もはや敵なしでなかろうか。 ここまで完璧に優しい人やったっけ、無礼千万な感想を抱き、斜め後ろで上履きに履き替える姿を黙視した。 にわかに沸き出でた、近しい称賛がわずか胸を叩く。 私はこうして、今までたくさんのことを見落としてきてしまったのではないだろうか。 白石くんだけに限らず、他の誰かや、友達、先生、綺麗なもの、頑張っている人、対象は数えていけばきりがなく、勿体ない生活を送ってきたような気さえしてくる。 自覚はなかったけれど、一直線に突き進んで視野が狭くなる質なのかもわからない。 夏前の白石くんが語った女子像そのものだ、いい子でも何でもいい、本当に気を遣らねばいよいよ幻滅されてしまう。手始めとして、迷惑をかけないようにしよう、と小学生の標語並の誓いを立て、うすい影をかぶった廊下へと上がる。 「不安定に見える?」 「せやな、そこまでやないにしろ、ちょっと目ぇ離した隙にどっちにも転がりそうで怖い、言うのが正直なとこや」 「……気をつけます」 「無理せん程度にそうして下さい」 真面目半分、茶化し半分のやり取りに、自然頬がやわらいだ。 それまで圧し掛かっていた重石の取り除かれた、空気をも軽やかに様変わりさせる、得難いひと時だった。 ふと白石くんの眼差しが揺れる。綺麗に整った鼻筋に似てよく通る、大勢の中でも響くであろう声があまやかに曲がり、きっちり二重の目の縁が溶けて、かすかな光を吸った瞳に彩りが灯った。 「…やっと笑ったな」 「えっ」 予想だにせぬ指摘に虚を突かれ、無意味にも両手で口元を覆う。眼前の人は、心からの微笑に濡れている。 「俺のおかげとちゃうん」 「そ…っ! ……そやね、私、言うたもんね、さっき……」 続けてのびっくり発言に動揺し、だがついさっきの己の言葉を手繰れば肯定せざるを得ない、ゆるゆると腕を下ろして頷いた。 と、瞬間の笑声。 そう低くもない天井にまで届きそうに透き抜けており、初夏の日差しのよう明るく奏でられていた。 「はは! 、そこ頷いたらあかんで。ビシッと突っ込まな」 「えー、私!?」 「他に誰もおらんやん」 「ツッコミ所わからんよ! 白石くんのボケは、ボケなんかマジなんかわからん!」 言い募られても何のその、楽しげに微笑みを転がすばかり。 突っ込む気だって失せるというものだ。 悲しい気持ちも飛んでいく空気に、張り詰めていた体と心が滲んでやわらかくなって、指先に熱くはないぬくもりが宿った。血の巡りに問題などなく、ほとんど以前と変わらぬ、いつも通りの自分のままでいることを肌で知る。 弾みかけた呼吸を抑え、ほんまにどっちかわからへん、口には出さずに独りごちた。 意外と頑丈そうな私の様子を見ての素なのか、沈み込ませぬ為の故意なのか、笑み崩れても整っている彼の顔を眺めたところで読めやしない。 あの放課後のひと幕以外、自らを語らなかった白石くんを、私はほとんど知らないでいるのだ。 でも、と胸の中で安らかに連なる言葉が、限りなく真実に近い予測をうち立てる。 びっくりするほど完璧に優しい彼のことだから、きっとあえての悪ふざけなのだろう。 「……何から何までお世話かけます」 「いきなりやなぁ。はい、かけられてます」 なんでやねん謙遜知らずか、ややぎこちなさの窺えるツッコミをしてみれば、たしかに同い年なのだと見て取れる、ややあどけない顔をした男の子が明朗に笑って言った。 その意気や、。 ← × → |