10 少し肌寒い風が、制服の裾を掠めて足早に通り過ぎる。 けれど空は門出に相応しく晴れ渡っており、上の上から降る日差しが柔らかにあたたかいので、体感気温は今朝の天気予報以上に感じられた。 名残惜しいのか、まだ残っている誰かと誰かの騒ぐ声が遠くでぼんやり響く。 輝く光はあまねくすべてにしな垂れかかり、校舎の白壁が眩しい。 いつもと違うにおいがする。 確信を持っての感覚ではない。 朝からずっと落ち着きを取り戻してくれない心が惑うているしるしかもしれなかった。 どうしてこんなに現実感がないのだろう。 見慣れた通学路、教室、体育館へ向かう途中の廊下、もう使うことのない昇降口のロッカー。 幾度となく振り返ったくせに、ひとつの感慨も浮かばないのだ。 ゆるやかな空気の渦が頬を撫でる。 三年間飽きもせず通い続けた学び舎が、春にまどろむよう霞んで見えた。 人波は途切れ、ぽつりぽつりと影が浮かぶばかりだ。 うららかな風景の中立ち止まった私の足は、どこへ向かって歩けばいいのかをずっと考えている。 四月からは、高校という新たな行き先ができた。 一度家に帰ってから駅前に集まろう、約束をした友達がいるので、本当は時間を持て余すことなんてない。 迷うべくもなく今朝踏みしめた道を行き過ぎ、部屋に荷物を置いて、でかけてくる旨を家族に伝え、あらかじめ決めていた集合場所へ向かえばいいだけ。 それだけだ、でも錆びついた間接が動いてくれず、司令塔たる脳は呆けるのみで指示のひとつも下さなかった。 にぎやかな学校らしく、普通ならしんみりするだろう卒業式はとにかく春めいた明るさに溢れていた。 勿論、泣いている子もいたけれど、いつの間にか笑って執り行われていた体育館を後にする、おおよそ否定的要素の見当たらぬ、四天宝寺中に相応の幕切れ。 そんな爽やかな勢いのまま教室へ戻り、今日くらいビシっと決めな、クラス委員の発案で中学生活に別れを告げる号令が響く。 起立、気をつけ、礼。 皆が顔を上げるや否や、沸く声と声、拍手喝采、祝い事を囃し立てる指笛で室内はいっぱいになった。 コラ喧しい、ビシっと決まっとらんやんけ、ある意味常軌を逸した盛り上がりに口を挟む先生は、笑っているのにどこか寂しげだ。 よき日をお膳立てしてくれた天気の良さに相反して、なにかが晴れない。 私は、わざと見ないふりをしていた。 この後みんなでご飯食べてカラオケ行かへん、涙の跡を残しながら誘う友達に頷き、また連絡するわと手を振って教室を出て行くクラスメイトを見送り、寄せ書きをする為に卒業アルバムを開いて集まりはしゃぐ子達からさんも書いてや、手を引かれ折り重なる輪に混ざってはいても、一番探したいひとを探さなかった。 だから最後目にしたのは、階段近くで委員会やテニス部の後輩、知らない女の子達に囲まれている姿だ。 帰り際意図せず出くわし、大小様々な花束を抱えてほんの少し照れくさそうに微笑むかんばせが目蓋を焼く。 堂々と横切ることができるほど、私の神経は太くない。 無意味に開きかけた唇を引き結び、そっと気づかれぬよう進行方向を変えたのだった。 言葉を交わしたのは昨日、卒業式前日。 職員室前の廊下でたまたま鉢合わせて、明日寝坊したらあかんで、優しく鼓膜をからかう冗談に応じようとし、後方から彼を呼ぶ声によって遮られる。 背の大きな男子の横で儚げに佇む女の子を見、醜い感情の泡粒が胸を覆うより早く、また明日、言い置き逃げ帰った。 その前、思い出深いのはバレンタインだ。 去年とまるで異なる気持ちをこめて、去年とあまり差が出ないよう似たチョコレートを渡す。中学最後というのも相まって死ぬほど貰っているであろうひとは、うんざりした表情を微塵も浮かべず受け取ってくれた。 ありがとな、。 ゆるむ眼差しがあんまり優しいから、好きな子からはもらえたのかどうかついに聞けなかった。 遡って、元旦。 朝も早くに頭を悩ませ、考えに考えたあげく、あけましておめでとうと無駄を省いた簡素な文面を送り、返信が来るまでの時間生きた心地がしなかった。 端末が震える都度慌てふためいては画面を凝視し、白石蔵ノ介の五文字に一瞬息が詰まって、同じくらい簡単で、でも雑に扱われていないのがよくわかる文面を何度も読み返す。 今年もよろしく、つけ加えられていたひと言の所為で涙の予兆が滲んでしまう。 今年だけじゃない、来年もその次も、そばにいたい。 伝えられるはずもなく、こちらこそよろしく、とだけ記して送信ボタンを押した。 一日前の大晦日のことだ。 底冷えする寒さと戦いながら透き通る夜空を見上げ、いつかの星を思い出す。 白石くんにいいことがありますように。テニス部が勝ちますように。 なんの拘りもなく祈っていた頃があった。今では同じように祈れやしないと思った。たぶん、私は私の願いのほうを優先させてしまうに違いない。 右手にぶら下げた、近所のスーパー専用のエコバッグが重くのしかかる。 あんだけ念入りに買い込んどいてなんで買い忘れとかあるん。しかもそれを私ひとりに頼むんや。 逆恨みに近い感情を余らせては顔を顰めてただ耐える。 女の子達にとって年内最後の勝負所である、クリスマス。 なんとかしてクラスで催すクリスマスパーティーに彼を引き込もうとする女子勢と、引き気味の男子が入り乱れた騒がしさの隅で、なんとはなしに一年前を辿っていた。 煌びやかな光に彩られるイルミネーション、昨年とは違った装いで飾りつけられた駅前のツリー、ありとあらゆるショップで所狭しと並ぶクリスマスグッズ、浮き立つ空気を前にしては、お前ら受験生やろ受験舐めんな、などというお小言はほとんど無力だ。 今日一日息抜きくらいさせてえや、ちゅーか推薦で決まっとる奴多数やん、寄せる言葉の波に浚われあぶくと化していく。 騒々しい会話に唇で笑みながら、ちいさな、けれど今となっては大切な思い出を取り出し丁寧に眺めた。 滴る闇、冷たく凍ったベンチに腰を下ろして、甘いココアをゆっくり飲み干した夜。 隣に座るひとが声を投げかける度、白々とした息が暗い空へと上っていく。 あの時から既に、彼は想う相手を見出していたのだろうか。 わあわあと好き勝手に討論し始めた輪を抜け出した白石くんが、端っこで棒立ちになった私を黙視し、困ったふうに肩を竦めて苦笑いした。 近づく距離に暴れ出す心臓を抑えつつ、努めて平穏な笑顔を作る。 あんましそんな顔したらあかんよ、みんな白石くんが好きなんやから。 軽い溜め息がふと落ちた。 有り難いけど嬉しないな。 そっけなさ過ぎる感想に、だれかいっぺんハリセンでしばけばいい、心の中で毒づきつつ意識は記憶の中を駆け巡る。 貰うんなら、好きな子からだけで充分や。正直あとは欲しくない。 真摯な声が再生されて、華やぐ雰囲気とは裏腹に気持ちが底の底まで落ちていった。 つまりそういうことなのだろう。 大事な子がいれば、その他大勢なんて物の数にも入らない。 一途なのは白石くんのほうだ、ひとを想うことに一生懸命で、揺らがぬ強さを持っている。 友達としては尊重されていると思うけれど、大きく分類されたらその他大勢の私は項垂れるほかなかった。 巡る季節、たくさんの行事、色めき立つイベント、付随する感情はその都度違えども、私の中学生活は半分以上白石くんと共に在った。 失恋にまつわるあれこれに巻き込んでしまっている分ひょっとすると、親や友達より一歩進んだ理解者かもしれない。 そんなひとを好きになるのは当然で、だけれどどうしてよりにもよってそんな大事なひとを好きになってしまったのだろうとも後悔する。 互いに秘密の共有者として相談に乗りはたまた助言を受け、想いを隠さず付き合っていけたならどんなに幸せなことか。曇りない自分のまま、ずっと一緒にいられたかもしれないのに。 この期に及んでありもしない未来を臨み、卒業式まで終えたにも関わらず行く手を定められないでいる私は結局逃げていただけだ。 よき友人、クラスメイトとしてのまともな会話すら避け、追い続けていた背からわざと遠ざかり、目のひとつも合わせていない。 最後の最後まで、言えなかった。 絶対に嫌われたくない、恐れるあまり向き合うことを放棄し、叶える努力を積み重ねてこなかった。 一度ならず二度までも、似通った過ちを繰り返している。 だからきっとこうして離れていくのだろう。 好き、を長い時間かけて諦めていき、忙しい高校生活に振り回され、涙に濡れた心をもいつか乾かし忘れていく。 思い返すのは美しい過去ばかりで、ああそんな頃もあったな、なんて大人ぶって目を細めるのだ。 入学式の日に咲き誇っていた桜は蕾のまま、かたく閉じている。 うす桃色の花びらは舞わず、枯れ木じみた風情の枝や幹がじっと佇む。深みのあるこげ茶色。 空は快晴、風はゆるやかに吹き渡り、冬の頃と打って変わってぬくもりに満ちた日の光があたり一面を包み止まない。 祝福に溢れた情景を静かに飲み込み、地面に縫いつけられたみたく動かなかった靴底をわずかにずらした。 肩に下げた鞄の内から、低い振動音が伝わってくる。 先に帰宅した母親かそれとものちほど落ち合うことを約束した友人からか、いつまででも留まっている私を急かすよう、端末が震えているのだ。 ――もう行こう。ここにいても仕方がない。 呼び出すだれかに答える為鞄に手をかけ、持ち上げた踵で一歩、学校から離れる。 今日という日を諦めの内に迎えてしまった以上、できることはもうなくなった。 そもそも元から存在していなかったのでないか。 言えないと心に決めたのは自分で、従ったのも自分だ。 実感が沸かぬのをいいことにだらだらと居残ってしまったのが、急に恥ずかしく思える。 携帯本体の冷たい感触が指先に触れ、足はまた一歩遠ざかった。 はじめてじゃなくて二度目だから、上手くはいかないかもしれないけど、時間をかければきっと忘れられる。 今は捨てられず大事に仕舞い込むしかないとしても、良い思い出として懐かしく辿る日が来るだろう。 その頃にはべつに好きなひとがいたりして、いやもしかすると彼氏がいるかもしれないし、それでまただれかにどうしたらいいかを相談してしまっているかもわからない。 いい加減人様に迷惑かけるのはやめたいけど、失恋したら性懲りもなく大泣きして、慰められたりするのかな。 考え至り、体中の血液が凍った。 ――白石くん以外のひとに。 行き着いた必然は衝撃的だった。 自分でも驚くほどの動揺が体を巡る。 足元が暗く濁り胸は強張って、節々が悲鳴をあげて軋み、瞳が異様なほど渇く。 震え続ける携帯電話だけが現実に引き留める唯一のものだった。 だって冷静にならなくとも、忘れるとはそういう意味だ。 この先に彼はいない。 友達としては付き合えても、今までと同じ位置にはいられないだろう。 どうせ辛くなる。 忘れる前に一緒にいるのが難しくなる。 大体高校でもクラスメイトになるとは限らないし、私は臆病だからきっと彼が想いを成就させたのかもわからないほど距離をとってしまう。 そばにいる所為で諦めきれない。 好きなまま、どこへも進めない。 でも、だからといって離れて忘れて、私はどこに行くつもりで、どこに行きたかったのだろうか。 (イヤや) 転瞬、お腹の下から凄まじい衝動が突き上げた。 がなる鼓動は喧しく骨に響いて痛むが止められない。 白石くんがいなければ、まともに失恋することもできない。 言わないままでここを後にしたら、永遠に四天宝寺中から卒業できない。 体だけが先を歩き、心は在るべきでない場所に留まり続けたがゆえにやがて腐っていって、楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、好きだというたしかな気持ちも、大切にすることができなくなってしまう。 好きなひとと過ごした時間もなにもかもを見失うだろう。 最後の最後まで、言えなかった。 後悔を繰り返すだけだった。 言おうとしては諦め、逃げてばかりで、嘘を吐いては辛いと身勝手な弱音に浸り、やめたい、やめたくない、どうしても止められない、迷い通してきてしまった。 私は本当に我ながら嫌な性格で、白石くんの言うような綺麗な心など持っていない。 色んなことを大事にできない狭量な人間だけれど、泣きわめいてああすればこうすればと引きずってばかりだったけれど、最後の最後のチャンスまでふいにする大阪一のアホだけれど。 それでもまだ間に合うことなんて、あるのだろうか。 問うた瞬間、爪に伝わっていた振動が途切れた。 長い間鳴り止まなかった携帯電話は、あたかも肯定するよう沈黙していた。 考えるまでもない。 半ば翻っていた背を返し、鞄の底のほうへ突っ込んでいた腕を引き抜いて、足に纏わりついていた見えない糸を乱暴に千切った。 全速力で駆け出す。 立派な門構えが目前に迫りほんの数秒で後方へと下がっていく。移り変わる景色は見慣れたもので、さっき通り過ぎてきたものばかりだ。最早まばらとなった生徒達を尻目にぐんぐん走って置き去りにする。 肺が限界まで膨らみ萎んで酸素を供給する、早鐘を打つ心臓は血管を倍に膨らませている、息が切れる。 足がもつれそうになって肩に食い込む鞄が鬱陶しい。 少々冷たくもやわらかな風を切る腕の感覚が失せていった。嗚咽に似た弾みが喉を駆けあがり息もできないし、乱れる髪を気にする余裕もない。 ――そんなの、もうどうだっていい! 一言に切り捨て走り走る。まずは校内よりテニスコートだ、酸素不足により回らぬ頭で判じ、暴投する選手が多い為に連なる金網群を目指してなんとか到達するも、人気のない物寂しい光景が広がるだけで、探し求める相手は見当たらなかった。 落胆、次いで焦燥。 制御する間もなくぽろと涙がこぼれ、目一杯の力で拭い去る。 まだだ。まだ全部探したわけではない。 泣いてる暇があるなら走れドアホ、勝手に弱気を持ち出す自らを叱咤し再び駆けた。 学校にいるかどうかまず確かめよう、今度は昇降口へと足を向け来た道を猛烈な勢いで戻り、すっかり覚えてしまった彼のロッカーを、ごめんなさいと謝りつつ無断で開ける。 数センチほどの隙間から卒業証書の入った筒とスニーカーの踵が現れたので、これ以上ないくらい急ぎ閉め、些か離れた位置にある自らのロッカーに邪魔でしかなかった鞄を押し込んだ。 正確には卒業生のものではなく新たな三年生のロッカーなのだが、細かいことを気にしている場合ではない。 卒業式は終わったけれど、今日の日付が変わるまではまだ四天宝寺中の三年生だということにする。 あの時、彼が花を抱えていたのは廊下だった。 ならば教室には戻るまい、晴れの日だからと働くおばちゃんたちが大盤振る舞いをしていた食堂か、委員を務めていた保健室か、そうでなかったらもう一度テニスコートのあたりまで戻って部室のほうにも足を伸ばしてみる、今は無闇に重たいとしか感じない扉を押し開け、飛び出し転がるよう走り始める。先生がいたら危ないでと注意を受けるところだ。 必死に土くれを蹴り飛ばすさ中、どこだどこだと視線を張り巡らせた。 あの夏の日深い緑に生い茂り、きつい日差しに照らされ細やかな葉陰を描いていた木々は若々しい色に染まってい、地面へ落ちる陰影はうっすらとかすかなもので優しい。 手を引かれ見上げた白石くんの背中が脳裏に浮かび唇を噛み、渡り廊下へ続く抜け道に近いところを走っているのだと気がついた。 前は知らなかった。 ひとりでいたら知らずにいた。 彼が教えてくれたから知った道だ。 またしてもじんわり染み出てくる涙の気配を払おうと右手で擦り、念の為少しだけど確認しておこうと食堂にまっすぐ突き進んでいた両足の矛先を変えかけた、その時。 「…っと! すまん」 「あ、ごめ」 ちょうどのタイミングで重なったおかげだ、自分のそれとだれかの声とがまぜこぜになって、すぐに判断がつかなかった。 校舎の陰から歩いて来、こちらの死角にいた高身長の人物を見遣る。 学ランの黒とシャツの白しか窺えぬ胸元から視線を上げてすぐ、息を吸うより先に足が慄いた。 「し、白石くん」 「どないしてん、えらい駆け込みっぷりやな」 みっともなく震えた語尾に気づいているのかいないのか、驚きに目を軽く見開いた探し人が品のよい声で問うてくる。 視界の端に引っ掛かっていた先刻、花束で腕をいっぱいにしていたのだが、今となっては空っぽどころか鞄も持っておらず身軽そのものだった。 荒々しい上下運動を繰り返す肩に散った髪はあちらこちらへ靡き乱れに乱れている、息を切ったのち手で押さえつけざっと整えたが、大した効果はなさそうだ。 「そないに急いでどこ行くつもりやったん?」 からかい混じりの微笑みに、あなたを探しに、と返せる余裕はまだない。 言わなければいけないことは山ほどあっても、上手に言葉が出てこなかった。 大体呼吸を鎮めるのに精一杯で、うんとかすんとかですら発音できずにいるのである。 「俺、てっきりもう帰ったんかと思ったわ。電話しても出ぇへんし」 「え!」 予想だにせぬ事実を告げられ不連続な息の狭間、驚愕に揺れた声が飛び出た。 絶え絶えに、その電話はいつ、問えば、ついさっき、と答えが戻る。 では、私を鈍く呼んでいた振動音は。 間に合うのかという声なき訴えを肯定し、惑う背を押してくれたに等しい沈黙は、彼が生み出したものだったのか。 得も言われぬ感情がこみ上げ、喉は熱いかたまりで塞がれた。 出口を失ったそれは発露の場を求めて目の裏を滲ませる。 ただの偶然だ、わかっている、でも馬鹿みたいに感激が打ち寄せて止まない。 暴発寸前の奔流を抑えきれず、整理もできぬまま無意味に名前を呼ぼうとし、 「、こっち」 潜んだ声と前触れなく私の手首を掴む熱っぽい掌に砕かれてしまう。 びっくりしてYESかNOかも口にすることができなかった。 彼にしては珍しく雑な仕草でぐいと腕を引き、想像以上の力強さで距離を縮められては答えるべくもない。 声帯は切除されたよう黙し、突発的事態に騒ぐ心臓が筋肉を伝って指先までを振動させる。荒れていた呼気がぴたりと止んで、思いつめた。吸ったあたりで硬直し動かない。 白石くんは完全に背を翻さず、上体を斜めに捻ったまま四、五歩後退した。 広い通り道から外れ、校舎の壁に沿い、木々と植え込みの間を縫って、人影もなく静まり返った渡り廊下が遠くに見え始めたところで、ゆるゆると停止する。 歩く速さに合わせて揺れる学ランの襟や縒れて所々はみ出しかけているシャツの裾が、鷹揚な彼の焦り様を物言わずして謳う。 だれかを探していたのかもしれない。 電話をしたが繋がらなかったと話していた。 よく見れば少しばかり崩れかかっている前髪に妙な舌ざわりを覚えてしまっても、素直に自分のことだとは思えない。 仲の良い友人と話ができなかったからせめて最後だけでもというパターン、好きな子に何らかのアクションを起こすにあたっての相談、もしくは起こしたのちの報告、諸々の可能性のほうが高かった。 嫌な予感で胸がひしめく。 打ち寄せていた喜びの波が凪いで消える。 さっきまで全身で駆けていた気力と意気地がみるみる粉微塵と化していって、立っているのもやっとだ。 大きな掌とかたい指がやけにゆっくりと離れたのがわかった。 感触が手首から外れ、数十秒ぶりに外気へ晒された部分が熱を帯びて苦い。 ちいさな面積のくせして、暴力的なまでの存在感だった。 「……また、泣いとったんか」 歩み留めて私を見下ろす白石くんの双眸が、痛ましいものを見止めるみたいにすうっと細められる。 覚えのある翳りだった。 自らが負ったわけでもない傷を、まるきり自分のものとして扱い、悲しく切なくゆらめいている。私のほうまで伝染し息が危うくなる、どこかに迫った声音だ。 染み入るそれらに呆気に取られて、かけられた言葉への反応が鈍ってしまう。 「ち、がう。これは、その」 最早手遅れだと悟りながら、先程コート近くで涙のこぼれた目元を隠す。 たしかに泣いたし、止まったと思ったらまた泣きそうになっていたけれど、号泣したわけでもないのにそこまでわかりやすい赤が混ざっているのか。鏡があれば確信したいところである。 「ほんま泣き虫やな、は。誰かを想うとる時は大抵泣いてる気がするわ」 優しさに溢れるでもない、やわらかに抑えられているのでもなく、蔑みの欠片が浮かんでいるわけでなし、淡々と事実のみを語る音程が天から降り注ぐ。 落ちた響きはか細かった。 薄緑に色づく葉の隙を通り、足元の草の根もゆすり過ぎていく風が、肩に引っ掛かっていた髪をひと筋弄んだ。 濡れてはいないものの念の為目端を擦り、そんなことない、反論しようと顔をあげ、思いがけず真剣な表情とかち合い用意していた声を失う。 「卒業式、終わってしもたな」 「えっ、う、うん」 代わりに転がった返答は非常に間が抜けており、しっかりとした構えを見せる彼といっそう差が開いていく。 なんだか前後の話題が噛み合っていないというか脈略がない気がするのだが、一体全体どういう用件で私に電話をかけたのだろう、混乱にもめげずに探ろうとして、またたく間に理解の及ばぬところへと引きずり込まれてしまった。 「卒業したからには、なくなったんちゃうん。あいつやないとあかん理由」 そう、ひと息に言い終える。 耳には届いていた。 だけれど含まれる意味が解明できない。 私の中に空白をもたらした白石くんは、極めて正直者の目をたずさえて続ける。 「まだ駄目か。俺は友達で、それ以上にはなれへん?」 懸命な熱の籠もるその行く先が不明だ。ほかに人影はないから私へ向かっているのだと思う、思うが理由がわからないし意味も相変わらずわからない。 このひとは、なんて。 「いらんとこに回しとる気ぃ、ちょっとでええから俺の方に向けて欲しいんやけど」 なんて言ったのだろう。 「…………なに、なんの、」 話。 最後まで言い切れずに語尾が薄れていく。 まばたきも忘れ目を白黒させる様が余程面白かったのか、ふっと真面目な顔つきをやわらかく壊した白石くんが笑って言った。 「な、俺がずっと自分の話聞いてたんはとんでもなくええ人やから思てるやろ」 すごいなぁ、完璧に優しい人っておるんやなぁ、くらいの位置から見上げてないか。 小首を傾げる仕草は年相応の少年らしく、無邪気と評しても間違いではない。 「…え、だ……だって、だって、そうやなかったらなんで」 思いきり戸惑う言葉の端を捕まえて薄く開いた瞳が、春の光を反射し伸び伸びと揺らめいている。 「アホ、そんなワケあるかい。慈善事業やないんやで。下心があったからに決まっとるやん」 含まれた笑声は穏やかそのもので、いつもと変わらず聞こえの好い音を放ち、何気なくさえある。 芸もなくツッコミもせずおうむ返しに尋ねかけ、下心のし、の部分で喉が閉じ籠もった。数々の単語の持つ意味、破壊力について考えを勢いよく巡らし愕然とするほかなかった。 そんなわけがない。 ありえない。 なにかの間違い、私の勘違い。 次から次へと重なる否定に塗り潰されて、本当に問うべき一点を取り逃がす。 口からこぼれるのは、傷つかずに済む為の予防線を張る怯えた声だ。 「そ…そしたら、やって、白石くん。す……」 「す?」 追う声音が殊更やわらいで響く。 「好きな子。おるって言うてたのに、その子は。なんで…、その子、どないしてん」 「せやから今話してんねやろ。俺の好きな子と」 わけもわからずうろつく言葉の羅列に対し、簡潔にわかりやすい答えを寄越す彼の眼差しは、間違いようもないほどこちらへ傾いでいた。 笑む形に滲んだ目元が淡い。 学ランの襟を掠める余分な脂肪の省かれた顎はすっきりとしたラインを描き、やがて日差しに包まれた髪へと通じていく。 微笑んだ輪郭をそのまま、下手したら女の子のそれよりも美しいであろう唇がたおやかに開いた。 「初めはただ羨ましいなあ思ててん。一人の為にいっつも一生懸命やんか、は。余計な気遣いはしても、絶対よそ見せえへん。その割には、素直なくせして素直やない態度とか行動取ってるし、心配やったんや」 だからつい口を出した。 問われれば出来得る限りの回答を模索し、頼られたのなら応えたかった。 「まっすぐ追いかけて、一杯一杯なって、かわええ顔して好きな奴のこと眺めとるを見るんが好きやった。あん時は……二年の頭か。かっこ悪うてよう言えんかったけど、俺も俺で部長なったばかりとかでしんどかった時期やから、勝手に支えにしたりな。頑張れて人に言うといて、自分自身に向けてたっちゅうのが正解かもしれん」 部を引退しても尚、今日という旅立ちの日まできっちり包帯に隠されている左手が、あてどなく首後ろへと滑り込む。 指先に落ちた襟足がとても柔らかそうだった。 そういう細かな仕草をつぶさに見つめてしまっているのに、私は私の体に起きる変化へ反応ができない。 何故だかこめかみが痛んで騒ぐ。 ろくすっぽ息が続かぬ気がするけれど、不可解にも苦しくならないのだ。 「嬉しそに笑ってたら俺も嬉しかったし、暗い顔しとったらなんかあったんやろか思った。……その内、聞かれるようになったな。白石くんならどう思う、どうする、何がいい。俺がいちいち答えてたん覚えてるか」 問われるまでもなかった。 助けてもらってばかりの記憶が蘇り、頷こうとしたけれど首が曲がらずどうしようもない。 「俺やったらこう思う、ああする、これがいい。馬鹿正直に頭悩まして言うたわ。そんでちょっと考えればわかる事やったのに、どんどん視点がズレてった。野球部ん事は抜けてって、自分がにしてもろて嬉しいかどうかで判断するようになってん」 綺麗に伸びた左指が顎の下から流れて落ちて、麗しい光溢るる揃いのまなこは、さっと内包する色を変えた。 在りし日を慕わしく懐かしんでいたささめきへ、静謐に淀む影が紛れ込む。 「泣いとった時。あいつに彼女が出来よってひどい顔色にされてた時、やっとわかったんや」 応援しとるフリして自分の事だけ考えよって、ありがとうとか言うて貰う資格ないねん。純粋にの為にしたわけとちゃう。 落ちた呟きはなめらかだが、重たげにしなっている。 「なんであの子やないとあかんの、言うてたやろ。それ、そっくりそのまま俺の台詞やった。言われて初めて気づいたんやけどな。どんだけ間抜けや、ほんま嫌んなる」 矢継ぎ早に言い切る手前、かすかに俯きあらぬところを確認する。 伴う眼差しに光はない。おおよそ白石くんらしさの見当たらぬ、ほの昏さに侵された美しいかんばせ。 「俺やったら嬉しい。俺やったら他の誰でもない、に好かれたい。俺やったら……こんな風に泣かさへん」 下へ下へと転がっておきながら、どういうわけか耳元まで率直に届く声音が痛いくらい澄んでいる。 限界近く開き通しの目が渇きを訴え、でもまばたきひとつしたくない。 胸に食い込む感情のつぶてが重たく、手を伸ばせば掴めそうなものだというに上手く捕えられなかった。 「しょうもないことで傷つけたりせえへんし、彼女おんのに他の女の子に愚痴るような真似もしないわ。試合見に行ってもいいかて聞かれたら二つ返事で来てや言う。理由なんかあってもなくても一緒に帰ったる。そうしたいんならいつでも、なんでもしたりたい。 …絶対、あいつよりを大事にするのに」 逸る激情を頑丈な理性で抑えているけれど、二つの感情の境を危うくさ迷う声色が、鼓膜を焼き千切らんばかりに強く伝い響く。 余波で干からびた喉、舌、鼻の奥が痛い。涙が溢れ出そうだ。 いっそう深みを増す力ある言葉は、私の芯をいとも簡単に食らい尽くす。 「なんで俺やない。なんで俺はあかんねや」 言下に浮く睫毛がにわかに震え、持ち上がった。揺らがず、もつれず、迷いもしない視線に射抜かれ全身の熱が上昇する。 いの一番に頬が火照り、次は目の裏側、そしてこめかみ、指先、お腹、足元。 巡る血液に乗る爆発しかねない衝動の所為でどうにかなりそうだ。 両の足が震える。 返事をしなければ、思う。 だけれどひと声も出てきてはくれない。 一貫して微笑みを浮かべない白石くんは短く息を切ったのち、ごく静かに言い落とした。 「……ずっと、思っとった。ごめんな。友達面して騙して、言えんようなこと仰山考えて」 軽蔑されたかてしゃあないわ。 けど、今日卒業したやろ。 こんな時でも誠実な音色を失くさない。どこにも逸れない瞳が切に語りかけてくる。 「これで終いや。最後にする。せやから、やめよ思てな」 尋ねなければならなかった。 なにを、どうして、やめるつもりなのかを。 問おうとして、やはり喉が空回る。からからになった口腔内を唾液で湿らそうと何度となく試みるが徒労に終わるばかりだ。 呼吸のひとつも止めたかのよう微動だにしない私の聞きたいことに、先回りして察してくれたらしい彼が解を与えてくれる。 我慢。 たしかにそう言った。 「が好きや」 目の前が白く染まる。 絶えて久しい息の返しが熱い。 すぐそばにある白石くんの影が、滲んでぼやけ見えなくなった。 「友達とは思えん。そばにおりたいけど今のまんまはもう無理や、しんどい。そういう対象と違うんなら、それでもええよ。俺がこっから頑張るだけの話やから。でもそしたらスタート地点、決めなあかんやろ。その為に、がどう思ってるか……知りたい」 コップの水をひっくり返したみたく、鳴り止まない感情の雫が溢れこぼれる。 頬を伝い、顎を濡らし、全力疾走したおかげで縒れつつあった襟へと吸い込まれていった。 水の粒の通り道となった部分は、触れている間は熱くてたまらないのに、流れて消えれば風が当たって冷たく感じる。 脳が受け取る情報量はそう膨大なものではないはずでも、処理しきれずに振り回されてしまう。 なにもわからない。 胸の中心にあった強烈な熱を含み、重苦しく詰まった得体の知れぬかたまりが、ごろごろと気管、喉奥、舌を順繰りに駆けまた舞い戻り、ひたすら往復していた。 しゃくり上げ出す息が鬱陶しい。足掻くあまり揺らぐ口元を右手で押さえ、懸命に封じる。 重石の入った肺は充分膨らむことができず、酸素不足にあえいだ。 白石くんの姿を覆い隠す涙は厭わしく、止まれと幾度となく命じたところで好き放題にこみ上げる。 唇を噛めば痛い。 空いたほうの掌を握りしめると痛い。 呼吸が覚束ないのは苦しい。 だから多分、現実だ。 夢じゃない。 でも夢だとしか思えない。 嘘、嘘だ、ありえない、でなければ白昼夢だ、幻かもしれないしパラレルワールドなのかもわからない。 おいそれと信じられなかった。 だって、こんな都合の良いことが本当に起きるのだろうか。 互いが互いに思い違いをし、今の今まで気持ちが重ならずに来てしまっていただけなんて、信じたが最後目が覚めるんじゃなかろうか。 怖い。 嬉しい。 信じてみたい。けどもしそこから覆されたら、本格的に立ち直れない。 幸と不幸、天辺と谷底を繰り返す心の変動振りは凄まじく、シンプルなはずの返事が紡げなかった。 「………」 空気を揺らす、痛々しい、あの物言いだ。 真摯や真剣といった表現では追いつかぬほどだった声が、ここに来て歪にひねり曲がった。 寂しくて悲しげな響きに、力いっぱい首を振る。 「…違、う、まっ……て、私、言う…ちゃんと、言うから」 大粒の涙とせり上がる呼気を避けて発せられたそれは惨めに頼りなく、白石くんがくれたものに到底及ばぬ拙さだったけれど、大本が長いこと凍っていた声帯だと考えれば大変な快挙である。 唇あたりに当てていた手を目尻まで掲げ、擦り拭うと春の風景が眼前にくっきり広がった。 こよなく優しい景色の中、佇むひとがじっとこちらを見澄ましている。 気遣いに一歩前へ進みかけた足を持て余し、曇っていないものの快晴とは言い難い顔つきで収め、私の言葉を待ってくれているのだった。 短くはない年月を共にしてきたが、見たことのない表情だ。 顔のつくり自体は変わらないはずなのに、なにか強張っている。 引き結ばれた唇に、整ってはいるが常日頃のやわらかな印象からは程遠い眉の形、真剣味を帯びながらもうっすらと揺らぐ双眸。 あてはめるのなら、緊張、の二文字が最も近いと思われた。 悲しくもないのにまた泣きそうになってしまう。 「……たし、たくさん、言わなあかんこと、あって。どれから話したらええんか、全然わからんくて、今もわかれへん、けど」 知らぬ間に早鐘とかいう段階をすっ飛ばして叫び倒す心臓が恐ろしい。 この距離では聞こえやしないかとすら危ぶむ。 滅茶苦茶に叩かれた体の内側、骨、筋肉がばらばらになる感覚が消えなかった。 掻き集め、寄せ集めて私はなんとか私の形を保っている。 喉の底が塞がって思うよう話せない。 「し、白石くん、に、好きな子おるて、思ってたから」 もどかしさは毒だ。 焦れる胸を侵食し、余計な飢餓感を生み出していく。 「だから……ダメなんやなって。私、ただの友達で、前…ええな、羨ましいなて言うてもろてて、やのに優しくされたらすぐ変わるんかて、嫌われるんが怖かった」 なにを言っても届かない、気持ちには追いつかない。 思い出したみたくこぼれる涙を人差し指で掬い、鼻をすすって堪える。 もう出てこんといて、祈りながら。 「……いや、嫌われるて、」 誰に。 言い差した掠れ気味の声を視線と首の振り様で押し留めた。 足の下で踏み分けられた草がわずかな物音を立てる。白石くんがもう一歩、私との間に横たわる空間を詰めたのだ。 「ほかにも、いっぱい……やなことばっか考える子になっとった。もうやめよ思て、でも諦めきれなくて、逃げてばっかだったのに、校門の外まで出たけどやっぱり戻って、探してもうて」 益々高鳴る心臓に気圧され、語尾と言わず声全体が震えて止まない。 だけど、でも、今伝えなければいつ伝えるというのだろう。 息を吸い、可能な限りの想いを籠めて言葉にした。 「…………最後はイヤ……」 彼が軽く目を見張ったのがわかった。 願い虚しくも涙は堰を切ってわっと流れていく。 「最後にされたら、イヤや。あかんことないよ、前から、なかった。白石くんがええのに、どうしてもそれだけ、特別になりたいて思うのだけ、変えられんかったのに。卒業やけど…卒業しても、そばがいい」 あれだけ迷い、気持ちを抑え、頑なに奥底で仕舞い込んでいたというのに、一度言い出してしまえば留まることを知らない。 連なる声が続く声を呼び、付随する感情は絶えず打ち寄せ、体裁や涙を堪える努力を無にしていった。 ひと呼吸、飲み込んだ。 涙が滲む。 震える唇ではこのひとのような綺麗な音を響かせられない、けれどこれだけは形にしないと自分が許せない。 一番大事で、ずっとひた隠してきた、何度も捨てようとしても捨てられず、数多の言葉が行き着くたったひとつの礎。 「やって、私……私も、白石くんが好き」 わずかな余力を振り絞っての告白だ。 語尾のあたりの声量がどの程度のものかさえ判断がつかないが、言えた。 ようやくと表するほかない。 それでも構わない。 言えなかった頃の苦しみに比べれば、もうどうでもいいことだった。 熱やら重石のようなかたまりやらで詰まっていた胸がすく。あっという間に晴れ渡る。涼やかに澄んで感じる空気で腫れぼったい目蓋が洗われたみたいだ。 滲んでいた雨粒のに似た雫が眦からこぼれ落ち、無意識の内に手の甲で拭った。 視界から外しよける途中で、先程までの強張りを失くして立ち尽くす白石くんを見た。 ぼやけた瞳の色と半端に開かれた唇が、こう言ってはなんだが可愛らしい。 硬かった表情に今や力はなく、すっかり弛緩しきっている。 私は笑ってしまいそうになって、精一杯の我慢をし、結局溢れるものに押されて綻ばせた。 それを見た彼がはっと口元を結ぶ。 眼差しが熱で凝る、数秒にも満たぬ一瞬の煌めき。 落とされたほんのわずかな表情は、真剣そのものだった。 けれど長くは続かない。 まず瞳孔が緩む。 目尻が流れ、眉も添う。 堪えきれない心をこぼす唇は、引き絞られたところから、ゆっくりとほぐれていった。 孤独をまとい、沸きいずる情熱も庇って、自らの手の内に振る舞い、どこまでも完璧に見えたひとの融解点。 移り変わるさまを、一生忘れないだろう。 「そうか。……………そっか」 へにゃりと崩れて甘くなる眦に、喜びを噛みしめる声音が重なる。 この上なく隙だらけで、子供みたいで、なによりも美しい破顔だった。 朗らかにたわむ口の端に釣られてつい頷く。 そうして少々頭を下げたついでに伝った涙をまた拭こうとし、掲げた手の付け根あたりをそっと掴まれた。 私より数段熱い掌は大きくて、肉刺が当たるとかたい。手首を覆う指の長さに今更ながら圧倒される。 最後まで私たちの間に横たわっていた、白石くんの足一歩分の距離があっけなく失せていた。 手を下ろすと、繋がったままの彼の腕も大人しくついてくる。 声もなく鼻先を上げ、静かにこちらを見つめる陰影の浮かぶ顔と向き合った。 わずかに屈んだ所為だろう、頬の一段高くなった部分へ散る睫毛の影が長い。 あんまりにも目蓋の二重が綺麗すぎる、じっと見惚れていれば、伸ばされた左手が頬に触れる。 たいそう大事なものでも扱うように触れるから、詰まった息に影響され鼓動が跳ねた。 「ならもう他の男に泣かされるの、ナシやで。泣くなら俺の為だけにして」 頬を伝い、耳たぶの下から差し込まれ、首後ろのほうへと滑る指が怖いくらいに熱かった。 梳かれた髪も、撫でられた地肌も、まるで自分のものでないよう思えてしまう。 特別優しくされている。 触れ方ひとつでそう感じ取り、覆すことを許さぬたしかな仕草が涙の呼び水になって、目の前の白石くんが一瞬ぼやけた。 肌が粟立つ。 睫毛が震える。 胸を突き破りそうになっている心臓は、くまなく全身へ血液を送り出し、膨大な熱を生む。 かすんだ目蓋に水気が含まれた。 溢れてあたりを濡らすはずだった雫は、私ではない、べつのひとの体温に吸われた所為で流れ落ちなかった。 「…………泣かさへんて、言うたの、白石くんやのに?」 不安定な声にかすかな笑みの気配がかぶさる。 「うん、せやな。言うてしもた、あー惜しい事したわ。まあ流石に撤回はせんけど……堪忍したって。俺の為に泣く、もっと見たい」 とんでもなくひどい発言である。 なんという性格の悪さか、笑顔が見たいと言うのならまだしも、というかそちらのほうが一般的だというのに、更に泣けというのだから女の子の敵だ。 かっこいい顔して悪魔だ。 やっぱりいっぺんしばかれるべき。 心の中で形ばかりの悪態をつき、放られた物騒な言葉の数々に相反してどこまでもあまやかに響く声音へ溶けていく。 だってちっとも不快じゃないし、腹も立たない。 私は以前の、好きで好きでしゃあないって思えるひとのことで泣く、自らの宣言を取り止めることもなく、思う存分気持ちを伝えられる幸せ者なのだ。 またひとつ、想いの証がぽろとこぼれた。 目下の窪みをゆるやかに辿り、涙を拭う親指が本当に優しい。 目頭から眦までを丁寧になぞられて、睫毛の縁にぬくもりが宿っている。 下方にあった学ランの袖が動くにつれ、覗く手首の角度が変わっていった。 包帯の巻かれた掌は顔のほぼ半分を包み、髪へ差し込まれていた指がいつの間にか輪郭に添う。 あたたかい。 布越しにしかわからぬ感触は少しもどかしい気もしたけれど、白石くんだけが持ち得るものだと考えればすぐさま胸の内が喜びに沸いた。 こみ上げて、瞳に溜まる雨になる。 このひとが好きだと泣いている。 「……俺、ほんまはな」 もう一度、同じ箇所を巡った親指はかすかに震えてい、降る眼差しと似ても似つかない。 どちらも白石くんのもので、白石くんだけが教えてくれる感情の在り処だけれど、全く以ってあべこべだ。 だけれど私はそれが嬉しい。 どうしても嬉しい。 まばたきをする都度、唇からささやきが落ちる度、肌が触れれば触れるだけ、まっすぐに伝わる彼の気持ちに満たされるから。 「ずっとこうしたかったんや。言葉だけやない、ちゃんと慰めたりたかった」 瞬間、脳裏にまたたいて蘇る。 痛ましいと訴える眼差し。 悲しげな表情。 一定の距離を忠実に保ち、見守ってくれていた彼。 あれはいつか。 ああ、私が白石くんを想う気持ちを自覚し泣いた時だ。 きつく握り込まれた拳が、涙によって濡れそぼる景色の中でもはっきり浮かび上がっている。 行く宛のない憤りを砕かんとし、激情を抑え込むような掌。青白い血管と皮膚の内側で食いしばる骨。 撫でる声音と裏腹の、痛々しいまでの力が籠もっていた。 過去の再生画面が途切れるや否や塩水が絡んだ喉が溺れる。 ものすごい勢いで締めつけられた胸はきゅうと軋んだ。 ふいに手首に在った甘い枷が外される。 しかし触れる掌は完全には離れず、私の手の甲を伝い落ち、やがて安らかな動作で包み込む。指と指とが重なり合い、ほのかな強さで握られた。 頬と指先の両方に白石くんの体温がじっと触れている。 「…んやけど。そのはず、やったんやけどなぁ。これは………あかん。照れる」 おまけにこのひとは、嬉しそうだけれど困ったよう笑い、拭きこぼす息をやわらかに伸ばして、わずかばかり頬を染めるのだから最早手の施しようがない。 どくどくと唸る血管の音は喧しい。 灼熱の手に掴まれたかのような胸の中が絶えず騒ぐので、矢も楯もたまらず一気に飛び込んだ。 ほとんどしがみつかれた形の彼は、おっ、と戸惑いと驚きの混ざった声を上げながらも咄嗟に私を受け止めてくれる。 さっきまでぬくもりに包まれていた頬を寄せたシャツの下で、締まった筋肉が硬直していた。 思い切って両腕を背中まで回せばもっと固まる。 ぴたりと張りつけた耳に伝わるのは、早いテンポを刻む鼓動だ。その勢いたるや、広い胸の隅々まで響き渡るほどだった。 閉じていた目蓋を持ち上げると、学ランの黒色、落ち着く先を探しているのか中途半端な位置に浮かぶ二の腕あたりの皺が見える。 そうして、肩に掌が下りた。 ほんの少し惑うている。 白石くんの声は聞こえてこない。 静かな息遣いだけが鼓膜をくすぐっていた。 肩甲骨のやや上ら辺をくるむ指は慎重に、丁寧に私の背を滑り落ちていき、長い腕の余りを徐々に減らす。 優しく撫でつけられた制服が平らになり、熱の潜んだ掌が腰まで落ちきったところで、強く抱き寄せられた。 心音がうんと近くなる。 白石くんが誰よりもそばにいるから、普通なら苦しいはずでも苦しくなかった。 ただ懲りもしないで溢れる涙は私ばかりか、彼のシャツまでうっすら濡らし染み込んでいってしまう。 ひとりでは抱えきれない大きさの背中を懸命に握り締めていれば、くず折れるよう屈んだひとが、私にしか聞こえないほどのちいさな声で呟いた。 ありがとう。 たったのひと言なのに、心がいっぱいになって揺さぶられる。 なにも答えられない。 なにを応えたのならよかったのだろうか。 そんなことない、お礼言うのは私のほう、言葉を絶やし、首を横に振る私の声なき声を聞き澄ましてくれた白石くんが、笑んだ吐息で鼓膜に触れた。 「そんなら……。俺と付き合うてくれるか?」 本当に、いつでもどんな時でも真摯な声だ。 でも少しだけ、甘えた音を孕んでいる。 その綻びに胸を震わせ、はじめて下の名前で呼ばれた嬉しさも加わり、昂ぶる感情が体の全部に流れて、やっぱりどうしても泣きたくなった。 卒業したのにどうしようもない、己を恥じながら、白石くんの望みを叶えられるのならそれでもいいか、とも思う。 うん。 ぐずつく鼻と涙の絡んだ返事は濁音が混ざり、実際聞くに堪えないものだっただろうが、白石くんは決して跳ね除けたりしなかった。 ひと呼吸分空き、微笑む気配。 次いでいっそうきつく抱き込まれ息がし辛いし、限界を知らぬ心臓は高鳴るばかりだ。 でもやめて欲しくないから口を閉ざす。 薄い日差しが降り注ぐ。 春は優しく、肩に、髪に、背中に積もる。 押された鼻先が制服とシャツとに埋もれた途端、ほのかな香りに気がついた。 自然と胸の奥底まで満ちていって、目の裏に浮かぶとりどりの花束。 たくさん抱えていたあの時に移ってしまったのだろう。 照れくさそうにはにかんでいた白石くんを思い返し、ついつい釣られた私は涙と一緒に笑った。 色づく春の象徴であり、晴れやかな門出に相応しい花のにおい。 今日一番の、祝福だ。 ← × |