01




『梅雨の中休みですね』
朝、テレビで見たお天気お姉さんの言葉を信じて傘を持っていかなかったのに、見事、清々しい程に裏切られた。
学校を出た時は晴れていたくせして、バスに乗っている間にどんどん量を増やしていった雲が、病院の白い建物が見え始めた頃には本格的に低く垂れ込め出したのだ。
お店の人に丁寧に包装して貰った花束を注視するあまり、常より下がった頭の天辺に冷たいものが落ちる。
まさかと見上げた瞬間、大きな雨粒が目に入って思わず足を止めた。濡れた瞼と頬を指で拭えば、制服のあちこちに染みが次々出来ていく。

「ええー……」

不満の声を上げると同時に、雨足が強まった。さっさと走れと言わんばかりである。
わかった、わかったよもう。天気予報なんか信じた私が馬鹿だったよ!
半ばヤケクソな気持ちで、ノートやら何やらその他諸々がぎっしり詰まった紙袋と花を庇うようにして一気に走る。前方を行く人の大抵が折りたたみ傘を華麗に取り出し、濡れる事なく雨をやり過ごしているのが視界に入った。
信じる者は救われるんじゃなかったのか。信じない者が救われてどうする。
等と恨み言の一つでも呟きたくなるが、それどころではない。
今はまだ遠くに見える玄関口へ一刻も早く辿り着く為、地面に振り落とす両足の速度を上げた。







「……どうしたの」

恐る恐る覗いた病室のベッドで、幸村くんは静かに本を読んでいた。
一枚の絵のような情景と、全力疾走して色々な所が色々な意味で滅茶苦茶になった己の酷い姿とを見比べて、これはない、と判断するも、預かったお見舞い品の数々を廊下に置いて去るわけにはいかない。責任放棄になってしまうし、完全に不審者じゃないか。
どうしよう。
考えても名案は浮かんで来ない、ただただアホみたいに突っ立っている内に、ふと視線が合った。
目を丸くして驚かれた。
日々の大半を共にするテニス部部員でも、おそらくなかなかお目にかかれない表情だろう。レアだ。
やったー得したーラッキー。
情けない失態を振り払おうと自分で自分を慰めてみるも、余計虚しくなって終わった。
数拍の間が空いたのち放たれた一言が先程の、一体どうした、という至極当然の問いであった。

「お、お見舞いに…」
「それはわかるけど、どうして濡れているんだい。傘、持って来なかった?」
「……持って来ませんでした」

教師に叱られた時を再現したようしょぼい返答をする私に、幸村くんが苦笑しながらもどこか面白そうな表情を浮かべて、開いていた本を閉じ机の上に置く。立ち上がり、勝手知ったるといった様で備え付けの棚からタオルを取り出した。

「はい」
「……すいません」
「相変わらず忘れっぽいな、は。俺、久しぶりにびっくりしたよ、フフ」
「今日は忘れたんじゃなくって、大丈夫だと思って持って来なかっただけ」
「あまり変わらなくない?」
「………変わるよ」
「へえ」

絶対話聞いてないな。
と思うけれども口にはしない、有り難く受け取った柔軟剤薫るタオルを首にかけ抱えていた袋を下ろし、洗面台横の台にあった花瓶の中へ少々萎れてしまった花を移し変えた。
お見舞いに来る人が多い所為で、まるで消耗品のようにストックがいつも置いてあるのだ。
足しているのは他ならぬ幸村くんのお母さんである。一回だけ病室で鉢合わせたが、にこにこ笑っている優しそうな人だった。
彼からは死角になっている壁からひょいと顔を覗かせると、待ち構えていたかのような双眸がこちらを向いている。部屋のど真ん中に椅子を引っ張り出して、悠然、泰然自若の居住まいは、強制的に『王様』の二文字を思い浮かばせた。
何故、あのように穏やかな人からこのような息子が。

「なに? 花瓶なかった?」
「ううん。あった」

生けた花を手に部屋の奥まで進む。珍しく他の人から贈られた花がなく、がらんとした窓辺の丁度真ん中に安置した。
よし、なんとなく王様っぽい。
お見舞いの花々に派手さはない分、配置でカバーする。と、自分を納得させた。
一仕事終え、ようやくタオルで髪や肩を拭き始める。
びしょびしょに濡れたわけではない、押し当てるだけで重たく湿った感触は和らいだ。
廊下を汚さずにここまで来たし、ナースステーションに詰めている看護士さんに咎められもしなかった、つまりこれは幸村くんの気遣いなのだ。仮にも入院している人にさせる真似ではないが、頑なに突っ撥ねてもそれはそれで失礼だろう、大なり小なりどうせ濡れてしまったのなら素直に受け取った方がまだマシだと思った。

「寒かったら上着も貸すよ」
「え! いや、いい! それは流石に大丈夫」

幸村くんはいつも唐突だ。
明らかにそこまでの被害ではないのに、被った損傷以上の支援をしようとする。
そういう所も、王様っぽい。

「で、今日はというとノ」
「懐かしいなあ」
「何のためらいもなく、遮らないでよ…」
「だってわかってる事を、いちいち聞いてもつまらないじゃないか。ノートとプリントと、あとは先生からの伝言だろう?」
「まあ、そうだけど」
「うん。ありがとう」
「……どういたしまして」

寄越された一言に、ぐ、と唸り声を上げそうになったのをどうにか堪えて返した。
基本は傍若無人、自由に振る舞うのに、思い出したみたく誠実になるのやめて欲しい。
理由は判らないけど、すごく悔しくなる。

「前もにタオル貸したなと思ってさ」
「初めて喋った時でしょ?」
「そうだっけ」
「そうだって。初会話がいきなりそれでびっくりしたから覚えてる」
「面識はあったじゃないか」
「一年の時から同じクラスなんだから、そりゃあるよ」
「だったら挨拶くらいした事あるんじゃないかな」
「ない。幸村くんと私の登校時間全然違うもん」
「ああ、はいつも遅刻ギリギリだっけ」
「バスと道路が混むのが悪いんであって、私が悪いわけじゃないから!」
「俺まだ何も言ってないよ」
「言ってなくても聞こえた」
「へえ」

絶対また話聞いてないな。
私が必死で浸水から守り届けた紙袋を漁る人を横目に、手持ち無沙汰の指先でタオルを摘み髪を拭いた。
薄暗い雲から落とされる雨露が窓を叩く。
病院からバス通りまで伸びるアスファルトの道は雨を吸い込んで黒々と光り、その上を色とりどりの傘がゆく。
小さく見える車は軽い水しぶきを上げ、窓枠の中を慌ただしく横切っていた。
大体の人間が嫌がったり面倒くさがったりする6月のしつこい雨であるが、木々や植物の葉だけは濡れ輝き、緑の色彩を濃く咲かせる。
この分だと帰る頃までには止まないかもしれない。
換気が出来ないから室内は湿気でこもり、体感する夏の近さに少々うんざりした。
――ああ本当、懐かしいな。
さっきの幸村くんの言葉に、心の内で応える。白く濁り始めるガラス窓を眺める瞳の奥で、流れる時間が急速に過去を遡っていった。



去年の梅雨、その日の天気予報は朝から一日中雨。
珍しく一本早いバスに乗り込み、空いている車内に気を良くして意気揚々と椅子に腰掛けた所で傘を忘れた事に気が付いた。ついさっきニュースで天気を見て来たにも関わらずのミス。
馬鹿じゃないの、馬鹿なんじゃないの。
いくら毒づいたとて時既に遅し、後の祭りである。立海前のバス停に着いたら、全力で昇降口まで走るのをすぐさま決意した。
早い時間に家を出たお陰で生徒の数は疎ら、クラスメイトに見られる事なく教室に辿り着けたのは不幸中の幸いとしか言い様がないだろう。
朝っぱらから体力を消耗し周囲に気を払うのをすっかり忘れて、やれやれと扉を開け放つ。豪快な音を立てて障害物たるドアは視界から取っ払われた。

「あれ、おはよう。ずいぶん早いね」
「………お、おはようございます…」

人がいる可能性を一切考慮していなかったのは、手痛い失敗である。
思わず敬語にもなるというものだ。
3日前の席替えで隣になった幸村くんが、一人机に向かい書き物をしていた。
私が教室に足を踏み入れ距離を詰めると、異常に気が付いたのか少し面食らった表情をする。

「どうしたんだい、濡れてるけど」
「う、うん…傘忘れちゃって。バス停から走ってきたから」
「コンビニで傘買ってくれば良かったのに、思い切りいいんだね」
「…………」
「気づいた?」
「……ありえない…」

降車するバス停から道路を挟んで向かい側に、立海の学生御用達のコンビニがある。
朝夕問わず何か入用な度にお世話になっているというのに、今日に限って存在自体を脳内から抹消してしまった事実に愕然とした。
呆ける私を前にして幸村くんは、面白いなあ、なんてのんびり笑っているので、むっとするどころか逆に落ち込んだ。
会話をした事はないけれど、彼は一年の時から強豪テニス部に所属し全国優勝を成し遂げたメンバーの一員だ、当然有名人である。そういう人に己の失態を知られた上に笑われてしまうのはとても恥ずかしかった。
誤魔化すように話を振ってみる。

「幸村くんは、朝練? 雨降ってるけど…」
「ああ、室内で筋トレだったけど早めに切り上げてきた。俺、今日日直でさ」

これ、と手にしたシャーペンで日誌を指す。なるほど。合点がいった。

さんは?」
「たまたまいつもより早いバスに乗れたから……、………よく私の名前知ってるね」
「君だって俺の名前知ってるじゃないか」
「幸村くんは有名人じゃない」
「有名人でも、同じクラスの子の名前くらい覚えるよ」

立海は恐ろしい程のマンモス校だ。
したがって入学当時から2年続けて組が一緒になる確率は極めて低い。
目立つわ有名だわモテるわで平均的一般生徒より人と接する機会が多いだろう、彼の記憶から私の名前が零れていても当たり前と心得ていたが、その低確率の中で一年時から同じ教室で顔を合わせていれば頭の片隅に引っ掛かっていてもおかしくはないかもしれない。なるほど。再度、合点がいった。
いった所で自分の席につく。
本来ならタオル的なものが欲しいが生憎持ち合わせていない、ハンカチを代打にしよう、と整理整頓からは程遠い鞄の中身を探る。
ノート、ペンケース、教科書、ケータイ、飴、プリントを挟んだファイル、諸々を掻き分けるが。
……ない。

「ハンカチも忘れた?」

エスパー並の鋭さで指摘をされ、声もなく項垂れた。
どこまでも馬鹿としか表現出来ない馬鹿さ加減にガッカリする。
何故他人がそばにいる日に限って、失態に失態を重ねてしまうのだろう。今日の運勢は最悪なのか。天気予報でなく、星座占いでも見てくるべきだった。
力なく鞄を閉める私の横で、幸村くんが自身の机に立て掛けていたラケットバッグの中を漁り出す。かける言葉が見つかる前に、きっちり畳まれたタオルが差し出された。

「はい」
「え? え、はい、ってえ?」
「そのままじゃ、困るだろう。貸すよ」
「え!? いいよ、悪いよ! 購買かどっかでなんか売ってないか探して来るから!」
「始業前だよ。まだ開いてないんじゃないかな」
「…………」
「俺は気にしないから、さんも気にしないで。ああ、もしかして洗ってないとか思ってる?大丈夫、昨日洗ったばかりだし、今日はまだ使ってないから」
「い、いえ! そんな事思ってません!」
「じゃあどうぞ」
「あ、いえ、その、ごめん。……お借りします。ありがとう」
「うん。着るものもなかったら、ジャージでよければ貸すよ。遠慮なく言ってね」
「そこまで忘れてない!」

あまりにも冗談に聞こえない冗談だったのでムキになって返すと、今度は声をあげて笑われた。

そこから後は、別段特記すべき事件が起こったわけじゃない。
借りたタオルを洗って丁重にお返しした日からなんとなく交流が始まって、時間が合えば他愛ない会話をし、偶然下校が一緒になった時は途中まで帰ったりたまにメールをしたりと、最終的に話しやすい男友達の位置へと落ち着いた。
彼は超がつく程の有名人であったが、自らの才を鼻にかける事は一切しなかった。
人見知りせず気さくで鷹揚、時々、酷くないかそれは、と突っ込まざるを得ない発言をしても、まあ幸村だから、で許される何かを持っていたのだ。
世渡り上手とはこういう人を差すのか、と幸村くんファンの人たちに連絡先を知っている事や世間話をしている事がバレないか怯えまくっていた小市民な私は素直に感心した。
二年の夏も見事テニス部は優勝を飾り、校内はお祭り騒ぎで沸きに沸く。
終わった傍から来年が楽しみだ等と言い出す人達の期待を背負って、どんどん広く大きくなっていく背中が教室から消えたのは、寒い冬の日のことだった。
暢気を通り越して考えなしの私は、朝のHRに遅刻して先生の話を聞き逃し、中休みに友達から聞かされて知った。
何も言えなかった。
入院している幸村くんに宛ててクラス全員で色紙を書く時すら、上手い文句の一つ出て来なかった。
悩んだ末結局、以前ダラダラとどうでもいい事を話している時に話題にのぼった花壇の花が咲いたのを捻りもなく『こないだ話してた花壇の花だけど、咲いたよ。綺麗だったよ』とまんま記したのを覚えている。
だからどうした日記に書けそんなもん。
そもそも登校出来ない人に対して無神経だろう。
書いた私ですらそう思うのだから、皆のコメントに軽く目を通してチェックする委員長はもっと思ったのだろう。すごい怪訝な表情をされ、すみませんとこれまた捻りもなく謝った。

正直、その時期の事はあまりよく覚えていない。
学校からたった一人がいなくなっただけなのに、随分時間を持て余していたような気がする。全てが曖昧なままでいる所に、顔の見えない相手に向き合って何か言え、と突きつけられ困惑していたのかもわからなかった。
ふとした瞬間、家でぼんやりしている夜、ケータイのメッセージ作成画面を開く。
アドレス帳を呼び出す。ヤ行。幸村くん。どうしても言葉が浮かんでこない。
考える。……やめる。破棄しますか? 閉じる。

幾度となく繰り返した無駄な動作を断ち切ったのは、クラス担任が突然切り出した提案によるものだった。
どうも長期になりそうな入院生活を励ましたい、しかし大勢人が出たり入ったりしても迷惑だろう、お見舞いに行きたいと訴える生徒ばかり優先してはキリがない、月イチで行われる席替えで同じ班になった者が順番で週に一回ノートを届けに行く事にしよう。
LHRで話し合われた結果は、つまるところそういう主旨であった。
一体どんな縁かその時私は幸村くんの斜め後ろの席だったので、試みが始まって三人目という非常にプレッシャーのかかる順で友達や先生、クラスメイト達に送り出された。
三番目でこれだ、初お見舞いの一人目の重圧を思うと空恐ろしくなる。
幸村くんは立海でまさしくスター扱いだったから、入院中でもそれは変わらないのかもしれない。やっぱり恐ろしくなった。
寝ていて起き上がれない状態だったらどうしよう、どんな顔してどんな言葉掛ければいいんだろう。
悩みを抱えたまま幸村精市のネームプレートが掲げられた部屋に着いた。
銀色に光る取っ手を掴み、病室の白い扉を開ける。
間を置かずして最後に交わした声と全く同じ音が響き、拍子抜けした所為で、それまで陳腐ではあるが何通りも考えていた台詞の数々が消え失せた。

「あれ、

教室かと思った。
幸村くんの声色は落ち着いていて、何ら変わりはなかった。
ベッドに横になるどころか、普通に椅子に座っている。

「こんにちは。あの……お見舞いです」

我ながら酷い挨拶だ。

「フフ…お見舞いじゃなかったら、おかしいだろ? 遊びにでも来たのかい?」
「いやそんな不謹慎な」
「今俺の席がどこかわからないからさ、次誰が来るのかなって思ってたんだ」

自分から振っておいて、話を聞いていない。
いつも通り過ぎるくらいにいつも通りである。

「えーと、私の前に来たのは……」
「早川」
「そう早川くん早川くん。って、あれ、何も言ってなかった?」
「全然。今日来るのがとは思わなかった。また席近いんだ」
「幸村くんの左斜め後ろだよ。窓際、前から四番目」
「いい席だ。現国と公民の授業で寝てるだろう?」

おまけにエスパー級の勘も鈍っていなかった。
恐ろしいのは、学校の皆の期待ではなくスター本人の方だったと思い知る。

「……たまに」
「へえ、本当?」
「……結構」
「なるほど。大体わかったよ」

何が!? と突っ込みたかったが、怖かったからやめておいた。
ゆっくり前と同様のノリが掴めて来た所で、前フリや段取りをすっ飛ばした幸村くんが突拍子もない事を口にする。

「写真撮ってきた?」
「………はい?」

昼間受けたばかりの英語の授業がフラッシュバックした。
Pardon? Excuse me? なんですって?

「1号館と2号館の、花壇。咲いたって言ってたろう」
「え……え、えー………ああ!」
「なんだ、忘れてたのか。わざわざ色紙に書いてくるから送ってくれるのかなって待ってても来ないし。メールじゃなかったら病院に来る時直接かと思ってたんだけどな…」

ややボリュームの下がる語尾に冷や汗が流れる。
やばい、傷つけてしまったかもしれない。どうしよう。だってまさか覚えているとは思わなかったし、写真を要求されるなんて考えつきもしなかった。

「ごめんなさい写真を撮るという発想がありませんでした! 明日朝一番で撮る! 早いバスに乗って激写する! ごめんなさい!」
「明日祝日だから学校休みだけどね」
「……休日登校して撮ります」
「許可申請しないと校内入れないよ」
「……不法侵入して撮ります」
「天気予報じゃ明日は朝から雨だったな」
「……晴れを待って撮ります」
「あははっ! もういいよ! ちょっと言ってみただけで別に怒ってないから。慌てる面白かったし、許してあげるよ」

まず怒りがないと、許しは下りないものなのでは……。
とは言わない。何故なら例によって例のごとく怖いから。
勢いをつけて小さく短い息を吐く。

「…ごめんね。今度ちゃんと撮るから」
「うん、頼む」
「あ、病室でケータイって…」
「メールだけなら大丈夫。送ってよ」
「わかった」

それから、ごく普通の話をしてごく普通に帰った。
場所が病院なだけで他には何も変わっていない。
心底不思議だったのを今でも覚えている。
どこにいても幸村くんは幸村くんのままだったから、私も私のままでいられた。
本当なら入院している人にはもっと気を遣わなければいけないのだろうが、ない知恵絞っても彼が笑って受け取ってくれる気遣い方法の解が出てこず、結局は学校であった出来事や学食の日替わりメニューの話をする以外の選択肢を選べない。

誰にも叱られないのを良い事に、そういったお見舞いとは名ばかりの行為を何度か繰り返した。

月に一度席替えをしても一体全体どういう因果か、幸村くんとは隣になったり斜め前になったり後ろになったりというのが多く、必然的に病室に顔を出す回数も人に比べて増えたのだった。
あいつ不正でもしてんじゃねえかとクラスメイトから疑惑の眼差しをぶつけられる破目にもなったが全くの無実である。残念ながら身の潔白を証明する物的証拠はなかったので、いまだ一部の女子に睨まれているのが悲しい現実だ。
ここに来るのは今日で確か――。



はっとする。巻き戻っていた時間も正常に動き始めた。
曇りガラスは先程よりも白に濡れており、依然として止む気配のない雨から視線をずらす。頬杖をついてこちらをじっと見上げる人がいた。

「……な、なに?」
ってさ、いつもだよね」

意味がわからない。
私がストレートに顔に出るタイプだととっくに見破っているはずの幸村くんは、素知らぬ顔で投げ掛けられた疑問を黙殺しさっさと話を続ける。

「でも面白いからいいよ。フフ」
「…よくわかんないけど、幸村くんがいいならいいよ」
「へえ、そうなんだ?」

今回も流されるかと覚悟していたのに、ちゃんと聞いていたようだ。珍しい。興味深そうに両目を細められるとちょっと怖いけれど、怒っていないなら良しとしよう。
お見舞いに来る人用に置かれている椅子に腰を下ろす。
幸村くんが足を組み、長い腕を伸ばして膝を抱えた。
丁度向かい合わせの形になると、微妙な空気が流れ出す気がして笑いそうになる。

「……個人面談みたい」
「どっちが先生?」
「私がなんて答えるかわかってて聞いてない? それ」
は一生懸命なのはいいけど、遅刻と忘れ物が多いのなんとかしよう」
「やめてよほんとに言われた事あるんだから」
「ははっ! 本当? いつ? あ、わかった小学生の時だ」
「う、うるさいな! どうせ進歩ないよ!」
「いいんじゃない。ずっと変わらないってのも、なかなか出来る事じゃないよ」
「褒められてる気がしない…」

――四回目だ。
笑う人を横目に、先程自ら浮かべた問いへ答えを出した。
改めて振り返ってみれば、恐るべき確率で間近の席を引き当てている。
気遣い上手でもない、家族でも何でもないただのクラスメイトが、偶然と天の采配のみに頼って我が校きってのスターとの面会を許されていては恨まれても仕方あるまい。
しかもやる事と言えば、雑談だ。
脚色なしに本気でお喋りしかしていないあまりに、話術の本でも読むべきか否か真剣に迷った日さえあったが、付け焼刃なんかじゃすぐ悟られるなと予測して結局は諦めた。
いつ訪ねても柔和な微笑みを崩さない彼が、基本寝てるだけだから暇なんだ、なんか話してよ、とこぼしたのが発端とはいえ、申し訳なくなってくる。

「ああ、そうだ。頂いたケーキがまだ残っているんだけど、食べるかい?」
「え?」
「俺と家族だけじゃ食べきれなくってさ。手伝ってくれると、助かる」
「い…いや…でもそれは……」
「何がいい? タルトとモンブランとチーズケーキと、あと」
「待って待って! 食べるとか一言も言ってないから!」
「いらない?」
「いるとかいらないとか私が決める事じゃなくてですね、まずケーキを持って」
「きてくれた人はみんなで食べて欲しいと願って持ってきたんだよ。というわけで、いるよね」
「…………はい」

最初から決定権がないのであれば、いちいち聞かないで欲しかった。申し出を辞退しようと踏ん張った労力が無駄になったではないか。
屈んで冷蔵庫を開ける背を見守り、入院して何ヶ月も経つのに教室での雰囲気と変わらないなぁ、等とぼんやりしかけて気が付いた。
これでは幸村くんの家に遊びに来てもてなしを受けている構図そのままだ。
思わず勢い良く立ち上がる。弾みで椅子の足が微かに床を擦った。
何か手伝いを、せめてフォークとお皿くらいは出さなければ、と一歩踏み出したがどこに何が仕舞ってあるかなどわかるはずもない。おろおろしている間に、想定の範囲内だと言わんばかりに幸村くんが目だけでいいよ座って、と制してきた。
無言で従う。
情けないし、いたらない所だらけだった。
遊びに来たというか邪魔しに来ているレベルなんじゃ…と俯いても、王様手ずからの甘い施しを眼前に突き出されては顔を上げないわけにいかない。白い箱の中には、小さく可愛らしいケーキの数々が敷き詰められている。

「はい、どうぞ。ちなみに俺はチーズケーキがいい」

だったらどうしてさっき選択肢に入れたんだ。
どれがいいとかあれじゃなきゃ嫌だとかそんな我が侭を言うつもりは毛頭ないけれど、なんとなく釈然としない。
取り出しやすい端っこにあるベリーのタルトを頂く事にして、彼が用意した紙皿の上に移す。気落ちしていた心に、甘いものはよく染みた。じんわり広がる優しい味を噛み締めながら、幸村くんもそういう気分になったりする時あるのかな、と埒もない感想を頭の中に走らせたが、こぼさないでね、なんて子供に対するような注意をされて考察はうやむやに立ち消えた。





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