02 そのままお茶までご馳走になってしまい、なんだかんだと話していたら30分近い時間が経っていた。 「ごめんなさい。長居しちゃった」 「気にしなくていいのに」 「しますよ、普通は……。じゃあ行くね。次は小林さんが来るから」 「ああ。も、わざわざありがとう」 「ううん」 置いていっても構わないとの厚意までは流石に受け取れない、洗って返す約束をしたタオルを鞄に仕舞いこんで席を立つ。使った椅子も元あった壁際まで片付けた。 来た時と同じくドアを静かに開け廊下に出ると、あるはずのない気配が背の後ろについてくる。 「あの……なにか?」 困惑する私に、薄手のカーディガンを羽織った幸村くんはとても朗らかな笑みをたたえ、優雅に口を開いた。 「送るよ。正面玄関までだけど」 何を言い出すんだ、この人は。 幾度も訪ねた経験はあれど、初めての展開に二の句が継げない。 馬鹿みたいに口を開けて固まっている私をよそに、微笑みを絶やさない人がゆったり目の前を通り過ぎてゆく。我に返り、慌てて追う。 「幸村くん、い、いいよ、大丈夫だよ」 「が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないんだよね」 「は?」 「寝てばかりだと、体がなまってさ。少しでもいいから歩いて体力が落ちないようにしたいんだ。手伝ってよ」 入院中である本人に直々に乞われ、NOと退けられる輩がどれだけいるだろうか。ベテラン看護士さんくらいじゃないかと思う。 いいのかな、怒られないのかな。 そう案じる一方で、彼の病には何が良くてどれが悪いのかなど一切知らない事を思い知った。 耳に入った情報は、長丁場になるらしい、程度のもので具体的な入院期間や病名については不自然なくらい誰の口からも聞こえて来ない。 ……え、言論統制? 馬鹿馬鹿しいと否定するが、背中が一瞬冷えたのも事実だった。 すぐ傍で、何でもないような顔をして立って当たり前に息をしている人が、言葉にするのも憚られる重い病だなんて笑えない冗談だ。考えたくもない。 何の遠慮をしてか大人しくこちらの応答を待っている幸村くんを見た。 二年の夏休み前、二連覇するよ、平然と言いのけた時。 全国優勝後間もない頃に、レギュラー考えなきゃな、ダブルスはどうしよう、部誌を睨みながら呟いていた日。 花壇や庭園の花がいつ咲くかとか何が一番香りが強いかとか全て当ててみせ笑う。 放課後窓を閉め、明日は雨が降るよ、夜の内に折り畳み傘を鞄に入れた方がいい、と時にニュースで見るそれより正確な天気予報を発信し忘れっぽい私を助けてくれた。 勉強が出来る出来ないとは違う意味で頭の出来がよろしくない自分にだってわかる。 幸村くんは嘘をつく人ではない。 いつだって言動に責任を持ち、発したら発した分だけ行動を付随させた。大変そうだなと遠巻きになる周囲の視線に対しても、嫌味なくにっこり笑ってかわしてみせるのだ。 場所は病院、パジャマと制服。患者とお見舞い。 いくら非日常が侵食していたとて、幸村くんの言葉には変わらずに力がある。 判断基準の乏しい現状では尚更、そういった傾向が強まった。 息を吸う。 「わかったよ。お願いします」 彼が大丈夫と言うなら、おそらくその通りなのだろう。信じることにした。 「うん」 了承は微笑みと共に下された。少し先で立ち止まっていた幸村くんは、私が追い付いたのを確認して歩き出す。 薄暗い雨雲と夕方という時間帯の所為か、人通りの少ない廊下はやけに寒々しい空気でもって私たちを出迎えた。 不吉な印象を打ち消したいがために、隣をゆく人へ声をかける。 「……ところで、聞いてもいい?」 「なんだい」 「幸村くん、人がたくさんいる場所とか行ってもいいの?」 正面玄関というと外来の患者さんや病院のスタッフ、人が大勢行き交うはずだ。 知識の浅い素人たる私が、そういった場に入院中の人間が向かう事は良くないんじゃ、と判断した故に沸いた単純な疑問だったのだが彼にとっては意外な話題だったらしい。 笑いながら、 「それって普通、俺が病室から出てきたあたりで聞く事だよね」 おかしそうに言われた。 「もしかしてほんとは行っちゃだめなの!?」 「駄目じゃない。平気だよ」 慌てた心臓が一秒で膨れ上がり、一秒で早急に静まる。 恐ろしい、してはいけない事だったら自分の馬鹿さ加減によりまた彼に迷惑をかける所だった。 「さっきも言ったけど、あんまり寝てばかりもいられないんだ。夏までには間に合わせないといけないからね」 「………間に合わせる?」 ナースステーション前を横切りエレベーターホールへ歩みを進める中、ビビりな私は看護士さんに怒られないかと声を小さくするのだが幸村くんは平常通りの振る舞いだ。色々な意味ですごい。 けれど特に咎められはしなかったので、病室から出てはいけない等といった規則はないのだろう。 「全国大会までにはってこと」 「えっ、幸村くん出るの?」 「出るよ、当たり前だろ。うちのテニス部で一番強いの誰だと思ってるの?」 「幸村くんじゃないの?」 「わかってるじゃないか」 正解、と数学の先生の真似をして人差し指で空中に丸を書く。 かなり似ていたので笑った。 「そしたら、もう退院だね」 「…そうだね、ギリギリになりそうだけど」 彼が言う夏が八月を示すとしたら、あと二ヶ月もない。僅かな期間で戦線復帰を宣言するという事は、勝算があるはずだ。病院で見た姿は読書しているかのんびり座っているかのどちらかしかないが、影で復活への計画や努力を行って来たのだろう。 入院した冬から長らくテニスに触れていなかったというのに、三連覇への情熱は失せていないようで素直に感動した。 「ギリギリでもセーフはセーフだよ」 「一理あるけど、の遅刻理由には適用されないからね」 「べ、別にそういう意図で言ったわけじゃないよ!」 しっかり釘を刺されてしまい、小声にしていた訳も忘れて必死に否定する。 懸命な釈明は善意のつもりでかけた言葉が違う意味に取られては困るからだったが、それら全部を含めて見越していたらしくわかってる、と穏やかな声で返してくる幸村くんは、辿り着いたホールでエレベーターのボタンを押すかと思いきや、まるで目に入っていないのかあっけなく素通りした。 え、と視線をドアと彼との間にさ迷わせていれば、 「階段で行くよ。歩いて体動かしたいんだから、エレベーターなんか使ったら意味ないだろ」 予め決定事項だったかのように通告される。 正論なんだけれども、最初に言って下さい、思う私は間違っているのでしょうか。 先を行く足音に数拍遅れて階段を下り始めた。 「全国大会出場っていつ決まるの?」 「地区大会、県大会、関東大会全部勝ってからだから、早くても7月中旬くらいかな」 「ぜ、全部勝ってから?」 「勝たなきゃ進めないだろう。負けてどうやって全国まで行くんだい」 そうだけど、と答えた最後はどうしても萎んでか細くなる。 運動部に馴染みのない生活を送って来たかもしれないが、日本で一番の座に輝く為には一体どれだけ負けなしでいればいいのか考えると達成出来ない可能性の方が高い気がした。自分の身に置き換えるからいけないんだ、言い聞かせてもなんだか上手く想像つかない。 「あの真田が俺抜きでも勝てるいいチーム、なんて言うんだ。勝って貰わなきゃ困るよ。 ああ、真田っていうのは」 「えーと、確かテニス部副部長」 「そう。というかそこまで言ったくせに負けたら腹立たない? 立つよね。一発殴らなきゃ気が済まないよ。だから勝つんじゃない?」 問いかける声色を出すわりに、こちらの返答など挟む暇を与えず矢継ぎ早に話し続ける。 最もついていくのが精一杯だったので返す言葉に悩んだりはしなかった、思いついたまま疑問を投げた。 「真田くんって、すごい強そうな人でしょ? テニスする時帽子かぶってる」 「声もでかいよ」 「んで、風紀委員でしょ!」 「よく知ってるね」 「四日くらい連続で遅刻して怒られた事あるんだ」 「ははは、たるんどるって言ってた?」 「言ってた。先生より怖かった」 「そっか。じゃあ真田によく伝えておくよ。先生より先生らしいフケ顔に怒鳴られて怖かったって」 「……ごめんなさい。遅刻した私がいけないので真田くんは悪くないです言わないで下さい」 「うん、そうだね」 たとえ大きな声で怒られようと10分近い説教を食らおうと反省文を書かされようと、目の前にいる人から叱責されるより何倍もましだ。よく理解していた事のはずなのに、どうして忘れていたのか。 「で、真田がなんだって?」 「ああ、うん。あんだけ強くて怖そうな人が、いいチームだって言うんならそうなんだなと思って」 「思って?」 「え? えーと、嘘つかなそうだし、自分だけじゃなくって周りの人にも厳しそうだし、それはまあ勝つよねっていう……」 あれ、何が言いたいんだ、これ。 思いつきが度を過ぎたのか、話している間に段々伝えたい事が不明瞭になっていった。 元からなかったのか、いやそんなはずはない、原点に私の認識として『勝つのが大変そう』というものがあってでも真田くんみたいな人が太鼓判を押すなら勝てる、から大丈夫なんじゃない? とかそういう感じの事を言おうと…… すると、私がテニス部負けるんじゃないのって思ってた事にならないか!? 失礼にも程がある物言いをしてしまった、撤回しなければ、そこまで間が空かない内に言い連ねようと閉じた唇を持ち上げるが、 「でも、真田も甘い所があるからなあ」 一足遅かった。 私の言葉をどう受け取ったのかなど到底想像もつかないが、喜怒哀楽、どの変化も見受けられない。大丈夫だったのかなと一つ息をつく。 「そ、そうなの」 「みんな頑張ってるみたいだけど、それで問題が帳消しになるかといえばそうじゃないからね。真田は頑張ってる奴には採点甘くなるんだよ」 「…それとこれとは別だ、とか言ってちゃんと怒るタイプっぽく見えたけど」 「見えただけだね。見掛け倒しなんだ、あいつは」 中学生の平均身長を優に越え、ガタイも良く、常に背筋を伸ばして風紀委員としてだらけた生徒に渇を入れ規律を背負って生きているような人に、そこまでダメ出しするのは幸村くんくらいなんじゃなかろうか。 「部に復帰したら、色々指導しなくちゃな。この期に及んでまだ弱点を克服してない奴もいるし」 「……今から考えてるの?」 戻って何をするか。 それだけではない、加えて皆からはどうしても遅れてしまう学校の勉強をして、医師の話を聞かなければならない時だってある、長期入院だったからリハビリだって必要で、病状がどの程度が検査するのにも時間を取られるはずだ。 自由時間というものが存在するのかすら怪しい。 この人実はとてつもなく忙しいんじゃないのか。 地区大会から始まって、頂点で笑うまで負け一つもなし。 偉業であるが、それを彼は二度も叶えている。 おまけに三度目に挑戦する気満々だ。超人認定した所で、きっと誰も異を唱えない。 「考えてるよ。時間なんて、いくらあっても足りない」 「へええー……」 「なに?」 「幸村くんってすごいね!」 心からの賛辞だった。気安く友達みたいに接していたらバチが当たるのではとさえ思う。 多分大人や関係のない人が外から見れば、何を無茶言ってんだ、と一蹴されてもおかしくない計画だったり願いだったりするのだろう。 去年の冬から梅雨まで病院にいた人が、簡単に復帰できるわけない。全く知らない赤の他人だったら、申し訳ないが私もそう判じた。けれど相手は幸村くんだ。それだけで、信じるに値する。 考え話している内に、じわじわと実感が沸いてきた。 もうすぐいつも一つだけ空いていた席が埋まる。テニス部は厳しく引き締まる活気を取り戻し、前人未到の三連覇を成し遂げる。 暗く沈んでいた幸村くんのファンの子たちも笑って、私も教科書やノートのない、空っぽな机の中身を後ろから見なくて済む。 未来は良い事尽くしのような気がして、今まで一度も口にしなかった頑張ってねの一言が弾みで喉の奥から飛び出しかけた、一瞬。 「は、俺の言う事なんでも信じちゃうよね」 「え……」 階段の踊り場で差し止められ、声と同時に足も静止する。 「本当は夏までに間に合わなくて、全国大会には出られなくて、退院も出来なくて、送るって言ったのは、体力が落ちないように手伝ってって言ったのは、気を遣っただけで実はしんどくて倒れそうだったりしたらどうする?」 音が途切れるや否や幸村くんの顔を見上げて凝視した。冗談かと思ったのに、彼は全然笑っていなかった。私も笑えなかった。 唇が干上がる。 息が詰まった。 冷や汗が流れる余裕もなかった。 なのに、目を逸らせない。 逸らしたら、彼の言葉が真実になってしまう気がして出来なかった。 声が出ない。返すものが見当たらない。横にぶら下げていた手のひらで、スカートの裾を強く握り締めた。 眉間がやたらと熱い。 口を開いて、閉じる。また開けてしめる。 繰り返し、沈黙した。 遠くでざわめく人の気配が耳に打ち響く。 「……ふっ、」 ふ? 聞き返すより早く、子供がやるものより深刻な雰囲気だった睨めっこは、呼気のよう漏れた笑みで断ち切られた。 「…っく、は、はは、あはは! か、顔、その顔、ひ、ひどい…、鏡見てきなよ…ははっ!」 「………」 「ごめん、嘘、嘘だって。嘘だったのに、だって、あんまりにも真に受けてるから……ッフ、はは」 「……言ってもいい?」 「え、うん?」 「ムカつく」 「うん、ごめんごめん」 誠意が微塵も感じられない謝罪を謝罪としたのか、笑いすぎてよれた襟元を正して幸村くんは留まらせていた足を動かし始める。 ものすごく腑に落ちなかったが、突っ立っていても仕方がないので続いて階段を下りた。 さっきまで脈打つのを忘れていたみたいに静かだった心臓が、今頃力いっぱい主張してきてうんざりする。 死ぬほど怖かった。 幸村くんがじゃない、想像していた未来とは別の未来があるという可能性がだ。 「学校卒業して社会に出る前に、もうちょっとしっかりしなきゃ駄目だね、」 「……しっかりって?」 「騙されていつの間にか借金背負わされてましたーって事になりかねないよ」 「そ、そんなハードな人生送るように見える?」 「うーん、そうだな、五分五分?」 その五分五分のもう一つの結末はなんだ。聞きたいけど、ろくでもない事を言われそうで聞けない。 「………わかったよ。頑張ってしっかりするよ」 「ほらそれだ」 「それ?」 「またすぐ信じてるじゃないか、人の言う事。少しは疑いなってば」 「ええーなんでよ」 「借金背負いたくないだろう」 「背負いたくないけど…」 「じゃあ俺の言う通り、まず誰かに何か言われたらよく考えて疑問を抱く事から始めよう」 「……そこは言う通りに信じていいの?」 「臨機応変って言葉知ってるかい」 「だめ、もうわけわかんなくなってきた」 根気がないなあ、とやや呆れ気味に溜め息を吐かれたって、ついていける気がしないのだから無理なものは無理だ。 最後の段を下りきって、案内板に従い玄関口を目指す。 病室の棟よりいくらか明るく、人の気配が濃い空間は先程の不安感を薄めてくれた。 前から歩いて来た看護士さんとすれ違った際、微量な風が吹き、肌に張り付いていたシャツが翻った。背と腰の間あたりに冷たい汗をかいていた事を知る。 緊張と言うには物騒で恐怖と言うには熱かった、ぴったり当てはまる表現が見つからない。 浅くなってしまう息をどうにか落ち着け、密やかに深呼吸をした。 隣を盗み見る。平然と前を向く横顔があり、今度は深い溜め息をつきたくなった。 テニス部の部員たちは毎日この人と顔を合わせ、鬼の所業の如しだったであろう練習をこなしていたのか、頭が下がる。絶対に真似できない。 頭の中だけで震え上がっていると、階段から二つ目の分かれ道で幸村くんがいきなり進路変更をした。 「ちょ、ちょっとどこに」 「売店。、もしかして濡れて帰るつもりだった? 傘買っていきなよ」 言われて気がつく。 病院内の湿った空気は雨の存在を無言で物語っていた。 どんだけ忘れっぽいんだ…また彼の手を煩わせてしまった…と、数瞬であっという間に落ち込む私には不相応な優しい笑顔が向けられる。 慣れてるからいいよ、でも俺の言った通りだろう、と言外に匂わせる所作に再度気落ちした。ここまで見破られてしまっては、疑うなんて出来そうにない。 そう時を置かずして売店へ到着する。 幸村くんは私より数歩早く入店し、後ろを振り返りもせず目的のものがあるかのように雑誌棚へと一直線に向かった。 その背中を追って、若干ひんやりした店内に足を踏み入れる。 付き合わせているのはこちらなのに、はたから見た行動はまるで逆だ。 ビニール傘を手にレジに並んでいる時にちょっと見てみたら、思いっきり立ち読みしていた。ここはコンビニか。 買い物が一,二分で済んだからいいものの、そうでなくば売店のおばちゃんに怒られて当たり前の行為だ。彼の神経は人より二倍三倍太いに違いない。 「お待たせしました」 「なんだ、もう終わったの」 「傘買うだけだし。何か読みたい本でもあった?」 頼めば誰かしら差し入れしてくれるだろうに、と思っての質問だったが、いやないよ、の一言で徒労に終わった。 なんというか、王様。 でも前もって設えられた椅子にじゃなく、自分で作り上げたものに座る王様だ。 神の子の異名を持っていても、神様に頼っているわけじゃない。だから幸村くんは立海のスターなのだ。 通学鞄を抱え直し、傘が床に付かない、且つ人にぶつからないような位置を探してからしっかり持つ。 もたつく私の用意を、幸村くんは黙って待っていてくれた。 これはモテるな、と思った。 「雨の日って、テニスの練習どうやるの?」 寄り道の売店から正面玄関へ向かう道すがら、なんとなく尋ねてみる。 下らない会話は腐る程してきたが、テニス部の話題を振るのは数えるくらいしかなかったな、言ってから過去の様々を思い返した。 「色々かな。筋トレだけで終わる時もあるし、試合が近ければ室内コートのある所まで行って、打ち合う事もあるよ」 「ふうん。じゃあ梅雨の季節はつまんないね」 「練習は大体面白くないものだと思わないかい?」 「思う。けど、余計につまんなそうだなって」 「つまんなくてもやるよ。勝つ為にはね」 ストイック通り越して、いっそ冷淡だ。どちらかといえば楽しくて面白いものが好きな私にはわからない世界だが、全国優勝をし続けるとなると必要な淡白さなのかもしれない。 吹き抜けの一階エレベーターホールを過ぎる。 ここを歩き終えてしまえば、玄関口はすぐそこだった。一体どこまで送ってくれるつもりなのかな、と思いながらも敢えて聞かない、幸村くんはそれくらい自分で判断するはずだ。 「今日は雨だからさ」 外来受付少し手前の角で、ふと、本当に急に思い立ったという口調で彼が呟き落とした。 「誰も来ないかと思った」 今日一番静かな声が、鼓膜をゆるゆると震わせる。振動に引きずられ顔をそちらへ傾けてみたが、相変わらずすっと鼻筋の通った横顔があるだけだった。 私はといえば、やはり相変わらず考えなしの返事をしてしまう。 「どうして?」 少々首を傾げて幸村くんが笑った。 「、知らない? 雨の日はどこの店も客足が鈍るんだよ」 「ここ病院だけど」 「病院も同じさ。緊急でなければ、明日でいいかってなるよ。誰だって濡れたくないし、傘を持つのは面倒だろう」 「そうかなあ」 「フフ…は面倒だからやめる、じゃなくて、面倒だから走って切り抜ける、っていうタイプだからわからないのかもしれないね」 「……その通りなんだけど、なんか微妙に馬鹿にされてる気がする」 言葉での返答はなく、ただ微笑みだけが寄越される。 幸村くんはもう、人の言う事をすぐ信じるなとか、疑えとか、そういう事を口にしなかった。 待合室、無数に並ぶ椅子の後ろ側で、ぴたと足が止まる。 「じゃあね、。気をつけて帰るんだよ」 「うん。送ってくれてありがとう、幸村くん」 彼が決めた境界線はここのようだ。 数メートル先で自動ドアが音を立て閉じた。 「こちらこそ、わざわざありがとう。楽しかったよ」 「………私のひどくて変な顔はそんなに面白かったですか」 「あはは! うん、あんなに笑ったの久しぶりだったしね」 嫌味のつもりだったのに通じない。鉄壁の防備を崩すには、遠く及ばなかった。無念。 「酷い顔だったけど、なかなか可愛かったよ」 「何言ってんの」 「褒めてんの」 両目が最大限まで丸くなる。負けて撤退どころか追い討ちにあった気分だ、容赦ない。 初会話から一年弱経って初めて降ってかかった単語は、どうにも足元を落ち着かなくさせた。 「信じられないので、帰ります」 「ひどいなあ」 すぐ人を信じるなって言ったのはそっちだ、と詰った所で臨機応変って言ったじゃないか、と返されて終わるのだろう。ただの予測だったが、間違いない。 だめだ、どうやっても勝てる術が見えない。 というかこれ以上何かを言うと新たな攻撃の隙を与えかねなかった。迅速に去るべきだ。 脳内で纏め上げた結論を、私にしてはスムーズに実行に移す。 「まあいいや。幸村くんも気をつけて部屋に帰ってね」 「俺もまあいいや。じゃないんだから、ちゃんと濡れずに帰れるよ」 ぐっと詰まった息をどうにか整えたついでに作り笑顔も整え、背中を見せたら更なる追撃を食らわしてきそうだったのでそのまま後退った。 幸村くんは余裕たっぷりに腕組みなんかして、興味深い、ともろに顔に出して私を見る。 わかってるよ馬鹿丸出しだって言いたいんでしょ、胸の内で存分に毒づき、体を反転させ自動ドアの方を向いた。目だけで後方を確認するとまだ見送ってくれている。 立ち止まり、振り返った。 「じゃあ、またね」 やめときゃいいのに、唇が勝手に言葉を紡いでしまった。 大人びた幸村くんにしては珍しく、きょとんとした年相応の表情で一寸固まり、それから顔をほころばせる。腕組の格好は崩さずに、笑って片手を振ってきた。 私は返したりしなかった。 前を向き、院内に入ってきた親子連れと入れ違いに敷居を踏み越え、ポンと勢い良く傘を開く。 一歩外に出ただけで、気温が1℃くらい違うような気がした。 夏が近いとはいえど、梅雨の雨は降り続けば半分出た腕に冷たく纏わりつく。 行きに比べて荷物が減った所為で、足取りは軽かった。水たまりを跨いで、ぐんぐん白い壁の建物から遠ざかっていく。跳ねた水滴が靴ばかりか靴下までもを湿らせる。ビニールの天幕にボツボツぶつかってくる雫がうるさい。 バス通りに面した道に出た時、初めて後ろを向いた。 どこが幸村くんの病室の窓かなんてわかるはずもない。 がんばれ。 呟いた声は雨音と車に掻き消されて、自分の耳にすら上手く響いてこなかった。 誰に宛てるでもない、ただの独り言だ。 こんなに頼りなく、言い落とした自分自身も却下せざるを得ないものを、人様にあげるわけにはいかない。 おそらく今みんなで色紙を書こうという事になっても、また私は悩んであげくにどうでもいい日常報告を書いてしまうのだ。 普通は逆だろう、会って顔を見たら話せるのに、遠くから投げる言葉となると途端にわからなくなる。 私の頭の中にある、幸村くんに渡す色紙はずっと白いままだ。 それでも言ってみる。 少しでもいいから、あんな軽い響きではなく重さを増し、力をつけ、いつか思い切り投げてぶつけても壊れない、強いものになるように。 がんばれ。 まだ雨は止まない。 ← × top |