01




迷いがないわけじゃない。
同年代、或いは年上の女の人で華やぐコーナーの一角、私は並べられた色とりどりの商品を見据えている。
友達と一緒に学校帰り立ち寄った駅前のビルは、活気溢れる人達でいっぱいだ。
数日後にバレインタインを控えているから、当然といえば当然の盛況ぶりなのだが、去年まで全く関係のなかったイベントなので少々呆気にとられた。
能天気さを取り戻して家族を安心させた私が、今現在浮かれていないと言ったら嘘になる。
必死の追い込みの成果もあり、問題なく、とはいかなかったが進学先の心配をする必要はなくなった。誰よりも礼を尽くさなければいけない人には真っ先に連絡をし、よく頑張ったね、おめでとう、と有り難いお言葉を頂くはこびとなったのである。

参考書と栞は、九月と同じ轍は踏むまいと始業式の朝、いの一番に持っていった。
彼は廊下より幾らか暖かい教室内に鎮座し、気合と覚悟を持ってドアを開けた私を出迎える。
おはよう。相変わらず早いね。
笑顔に、幸村くんの方が早いじゃん、とは言い返さない。
迅速的確正確、と呪文のように心の中で唱え、ページを開くにも緊張した一冊を取り出した。
感謝の言葉と共に頭を下げれば、へえ、もう全問解き終わったのか、驚きを隠さずに尋ねられ、私は粛粛と首を縦に振った。
どういう目で見ているのか不服を唱えたい所だが、呪文が脳内を支配している。

『あのね、初詣に行った時の事なんだけど。ココア、ありがとう。ごちそうさまでした』

私にしては珍しく淀みのない物言いだ。そこから一気に謝罪まで押し進めるつもりが、こちらを見上げて来る、人を刺すような眼差しのおかげで頓挫した。う、と少したじろいでしまう。
続きは。
瞳が囁いていた。

『か、帰る時は…その、自分でもどうかと思うんだけど色々考え事してて、それで頭がいっぱいでお礼を言ったかどうか覚えてなかったから、新学期にちゃんと言おうと思って。あの、ごめんなさい。初詣の時ぼーっとしてて。あと色々……ごめん』

冬だというのに指先まで真っ赤になる心地だ。
そう気温が低くない室内だと言っても限度がある。
変な汗が出ていないかどうか気になったけれど、まさか拭うわけにもいかず、ほぼ硬直したに近い姿勢で返答を待った。知らず呼吸も小さく、細くなる。
ふと空気が緩み、誰かの息が零れる音がしたが、自分のものでないのはよくわかっていた。

『いいよ』

目元を淡く滲ませた人が、微笑みと許しを下す。
情けない事に体の力が抜け、伸びていた背筋が少し曲がった。
謝罪の理由も問われず、随分前から承知していたと言わんばかりの声色。
予想外な反応だったけれど、幸村くんはびっくりするくらい優しく笑っていたので、終わり良ければ全て良しだと思う事にする。
栞も貸してくれて助かったよ、言えば、なんなら本番まで貸そうか、お守りがわりに、からかいの言葉で返礼を受けた。

『ううん、大丈夫。そこまで甘えられないよ』
『フフ…殊勝な心がけだ』

言って、参考書を鞄に仕舞う。
枷がひとつ外れたような安心感に緩む私に彼はそれ以上受験関係の話題を振って来ず、今日の最低気温だとか始業式の日でも部活があるだとか、文字通り他愛ない話で朝のHR開始までを過ごした。
一つやり遂げた事で、軽く息が上がっていた。
大した一歩はないのはわかっているけれど、開くばかりだった距離が縮んだ気がして、少しだけ誇らしい。
それから一月余り、小さな前進で有頂天になる単純極まりない私は、去年となんら変わりなく幸村くんと会話を重ねていったのである。

彼の一挙一動と周囲の視線は、事ある毎にやや足りていない頭を盛大に悩ませる、下を向きかける度、出来るだけ奮い立たすべく自律に努めた。
思考の一部には霧がかかったままだ。
いつまで経っても笑顔の人が何を考えているのかなんてわからないし、自分自身がどうしたいのかさえ明確ではない。
訳知れぬ不安も依然として健在している。
人目を気にするあまり挙動不審になり、廊下で幸村くんと立ち話している横を誰かが過ぎるだけで、凍る海辺で感じた羞恥が蘇り体は嘘みたいに固くなった。
はっきり言って異常だと思う。
会話し立ての頃、ファンの子に目をつけられないか怯えていた時だって、ここまでではなかったはずだ。
頭の回転が鈍い私ですらおかしいと感じているのに、多方面で鋭く人の思考を先回りして読んでしまうような幸村くんがツッコミの一つ入れて来ない事も、落ち着かない気分にさせた。去年の後半からこの繰り返しで嫌になる。
もやもやし出した胸の内を払おうと眉間に寄っていた皺を意識して失くし、引き続き目の前のチョコレートを吟味する作業に戻って、ともかく、と誰に宣言するわけでもなく区切りをつけた。
きっと考えなくてはならない事がたくさんある。
神の子のお膝元への道は遠い。
友達として隣に立つのも、悲しいかな、まだまだ先なのだろう。
思う部分は山程あるけれど、難しいあれこれは恥ずかしくない自分になってから片付けるとして、今は自分なりに励む事とする。
数ある商品の中から選び抜いた一品をしっかりと掴み、大行列を成すレジの方へと足を向けた。







本当はチョコにするか、それとも別のものにするか、直前まで悩んだ。
何せ相手は以前のバレンタイン、中学生離れした数の贈り物を貰っていた怪物である。
渡す方にとっては唯一無二のチョコレートでも、飽きる程食し慣れる程目にしただろう、同じものが更に一つ多くなった所で迷惑なだけかもしれない。
懐の広い幸村くんの事だから笑顔で受け取ってくれるとは思うが、いざ真剣に考慮するとなるとやはり怖い部分もあった。
かといって他に何が良いか、代案が浮かぶわけでもない。
花の種からスポーツ用品、果ては文房具にまで思考を巡らせた結果、そんなもん2月14日にあえてあげるものでもない、という答えに辿り着いてしまい、大人しくセオリー通りの選択をする事にしたのだった。
安すぎても問題で、高いものには手が届かず、財布の中身とディスカッションを重ねて可能な限りのベストを尽くしたつもりだ。
いや、うん、お歳暮みたいなものだよ。
人気のない廊下、教室のドア前に立って、言い聞かせる。

寒い。
なんとなく恐ろしくて今朝はテニスコートを避けて登校したから、幸村くんが早く来ているかどうかは全くわからない。姿を確認して覚悟を決めたい思いより、気合を入れた女の子達がコートの周りにいるのを見、決意が挫けてしまう不安の方が勝ったのだ。
意気地なしめが、とどっかの神様に罵られたとて、私にそんな根性はないので仕方がない。
キンと張り詰める冬の空気を思い切り吸い込んで、いつものように冷たいドアを開いた。

「おはよう」

部活関係のものか、手元のプリントから目を移して幸村くんが言う。やっぱり、と何故か納得しながら挨拶を返した。
教室内は暖かい。
ヒーターがフル稼働しているからだ。

「ほんといつも早いね、幸村くん」
もね」

天のいずこから降った情けか、2月初めの席替えで私と彼は隣同士になった。
机と椅子を移動させている最中、久々に席が近くなったな、笑って告げられた瞬間、頑張りたい気持ちが一層強くなったのを覚えている。
使い慣れた机へ到着し、立ったままでマフラーと手袋を外しつつ少しばかり後ろめたい確認をすると、幸村くんの周囲にはこの日特有の荷物がない事がわかった。
鞄の中身まではわからないから何とも言えないが、時間が早いのもあって、まだそんなに受け取っていないのかもしれない。
凝ったものや、可愛いラッピング、高級感漂う箱などを見てしまったら最後、渡せなくなるに決まっている、ここは千載一遇の好機と考え一気に攻めるのが上策と言えるだろう。
椅子に腰を下ろし防寒具を鞄に仕舞うついでに、昨夜の内準備をしておいた小さな紙袋を引っ掴む。

「はい、これ」

声は意外にもすんなり出た。
正直、夏休み明けに謝りたくて焦っていた時期と、冬休みの前後で動揺した事件に比べれば、まだなんとかなる心境だ。
幸村くんは机の上で腕を組み、ちょっと面食らった表情をしながらこちらを見ている。
死ぬほどモテているような有名人、慣れっこだからわざわざ言わなくても通じるだろう。と見積もって説明を省いたのだが、少々の唐突感は否めない、慌てて付け加えた。

「あ、チョコなんだけど、バレンタインの。迷惑じゃなかったら」

どうぞ貰ってやって下さい、と卒業証書を手にする時のよう、恭しく両手で差し出した。
なかなか珍しい事に、幸村くんはまだ驚いている。

「俺に?」

そうして、顔を綻ばせた。

「うん。去年も今年も色々ありがとうございました」
「あはは、お歳暮みたいだな」
「時期外れてるけどね」
「いいよ、それでも。こういうのは、気持ちが大事だからね」

何と返すべきか惑い言葉に詰まった一瞬の間、節くれだった指がおもむろに包みを剥がそうとするのでぎょっとした。

「今開けるの!?」
「なんで? やだ?」
「い、いいか嫌かで言ったらやだよ!」
「今開けるのも後で開けるのも、そう変わらないと思うな」
「変わります。せめて私が見てない所でお願いします」

真顔で懇願すれば、あっけなく聞き入れられる。
残念だけど、くれた本人が言うならしょうがない。
本当に残念そうな呟きを漏らした幸村くんの手中にあった袋は、丁寧に畳まれたのち鞄の中へと消えていく。
意識してそれを見ないようにするのにとても苦労した。
揺れる私の胸中などお構いなしに、机横から目線と共に顔を上げた幸村くんの声には、先程の惜しむ色など綺麗さっぱりなくなっている。

「でもがくれるとは思わなかった」

上機嫌に言葉を紡ぐ半月型の唇に気後れし、二の句が継げない。
渡す瞬間には姿も見せなかった緊張が今になってやってきた。

「な、なんで? あげるよ? 幸村くんにはお世話になったし」
「あれ、自覚あったんだ」

硬直を打ち砕かれる。
痛烈な一撃に呼吸が止まり返せずにいると、察したらしい彼がにこやかに話し出した。

「まあまあ。そう落ち込むものじゃないよ。俺以外には世話になってないなら、いいじゃないか」

わかってない。
迷惑をかけてしまうその一人が、よりにもよって幸村くんという事が嫌なのだ。
微かに芽生えた自信は萎んで、縮んだよう感じた距離があっという間に遠くなってしまう。
私はいつまでも同じ所に突っ立っていて、彼だけが自由自在に行き来する。
さっさと離れられたら最後、それまでだ。どうしたって追いつけないし、事態を好転させる術など持っていない。

「……そこで、じゃあいっか、ってなったら幸村くん怒るでしょ」
「いや? 怒らないよ。驚きはするけど」
「驚くの?」
「だってそんなのっぽくないもの」
「…私っぽいってなに」
「いつも一生懸命。よくどうでもいい事で落ち込んでるけど、結構めげないよね」

褒め言葉とそうでないものが混在しているから反応に困る。
少なくともここでお礼を言えるほど器用ではなかった。

「ありがとう。が選んでくれたチョコ、大事にいただくよ」

何それ、強がってみても、眉間に皺寄せて悩んだ? と逆に問われ追撃は叶わなかった。
看破され過ぎていて怖い。
本当に見てたんじゃないのかこの人。
不安という程でもなくほっとしたと言うには剣呑、奇妙な空気が満ちた中、廊下のほうが俄に騒がしくなる。
ちょうどバスの時間だったのだろう、自分が乗ってきたバスの時刻と黒板の上にかかった時計を比べて納得した。止むに止まれぬ事情がない限り、大体の生徒が登校する時間だ。
教室前方のドアが開いて幾人かが入ってくる中、友達の姿を見つけて手を振ると当然、幸村くんとの会話は途切れ、慣れた朝の風景が戻ってきたのだった。


やはりと言うべきか流石と言うべきか、中学最後のバレンタインというのも加味し、その後はもうすごかった。
今日の幸村くんに休み時間は与えられてないに等しく、チャイムが鳴る都度呼び出されは教室から消えていく。
最早嫉妬するとかいうレベルではなくなったらしいクラスの男子から、幸村すげーな、の声。帰ってくるなり賞賛を浴び、困ったようはにかむ渦中の人の隣で、私はただ圧倒されるしかない。
クラスには持ち込めない数なのか、彼は最後の授業まで身軽だったが、同級生からの注目は質量を増すばかりだ。14日の贈り物はおそらく、部室か個人に割り当てられたロッカーの中で溢れかえっているのだろう。
想像してみたらまず最初に、どうやって全部食べるんだ、と率直な疑問が浮かんだ。
凡人には計り知れない世界である。
未知の領域について思いを巡らせながら帰りのHRを過ごしていると、やがて終了のチャイムが頭上を通過していった。先生が号令をかけ、日直の人がそれに従う。
礼、は解散の合図と同義だ。
わっと一気に賑やかになる室内で、名前を呼ばれた隣の席の人が廊下側へと目をやるのに、つられて視線の先を重ねる。
入り口に近い席のクラスメイトが、微妙な困惑とある種の賛美を合わせた表情で、呼んでるけど、気まずそうに答えた。
私もまるきり同じ顔をしている自信がある。
バレンタインっていうか、幸村くんの日なんじゃ。
横切る思考を、やけに鼓膜を打つ響きが断ち切った。

「じゃあね、。また明日」

常ならば口にする言葉を選ぶ為迷う所だが、今日ばかりは素早く返答する。

「うんバイバイ」

いいから黙って行ってくれよ! と内心大慌てだ。
声をかけられたばかりか、笑顔で小さく手まで振られて冷や汗をかいた。
人が大勢いようがなんだろうが、堂々と意中の相手を呼んだドア付近に立つ剛の者、もとい他クラスの女子の眼差しが鋭くなった気がして生きた心地がしない。
幸村くんの背中が視界から去って、ようやく一息ついた。
いつの間に寄ってきた友達がしみじみ呟く。
すごいねあの人。
無気力に同意した。
どちらかと言えば彼に対しての賛辞だったのだろうけれど、あてられる無数の視線に飲まれずしっかりと立って彼を見据える、あの女の子の方がすごいと思った。
他に付き添いの姿も見えなかったから、一人で幸村くんにチョコを渡して、言うべき言葉をはっきりと伝えるのだろう。
――自分には出来ない。
出来る事といったら、朝一番誰もいない所で、せこせこお歳暮として贈るくらいだ。
一生懸命っていうのは、ああいう子の事を示すんじゃないか。
やれやれと肩を竦めたい気持ちで鞄を抱え直した。





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