01




ここ2,3ヶ月の様子を単純に並べていけば、穏やかな日常だと人は評するかもしれない。
たまに一緒に帰って、時間が合う時はお昼ご飯を食べて、許可が下りた日に練習を見たりする。
やたら冷えに弱い事を知られているので屋外での見学に色好い返事は頂けず、ほとんど校舎内からだったが出来るだけ注目を浴びたくない私には願ったり叶ったりだ。終わる頃に荷物を片付け身支度をし、のんびり歩いて昇降口へ行くと、彼はいつもドア横の柱を背にして立っていた。
忙しい人なので校外では滅多に会わず、私たちの中心は常に学校だ。
高等部に進学した四月、席どころかクラスが別れてしまい顔を合わせる機会は格段に減った。代わりにメールでの会話が増え、友達にまで仲良しでいいよねーなんてにやにやしながら突っ込まれたりする。
別に『らしい』特別な言葉を交わすわけではない。
授業がどうだとか最近はあったかくていいだとか、テニス部はどんな感じだとか花壇の手入れが微温いとか今年は忙しくて行けなかったから来年はお花見がしたいだとか、真実、本当に暢気な世間話しかしていない。
仲良しカップルだなんて濡れ衣も良い所である、初めの内は力んで弁明に努めたが、何を言っても惚気てんじゃねーよブッ飛ばされたいのかみたいな空気にしかならないので諦めた。
みんなわかっていない。
遠巻きに見たら微笑ましい、で終わるかもしれない事だって、私にとっては大変な事件なのだ。
まず初っ端、絶対に嫌だと今までにない断固たる主張をしたのに、何故かテニス部の面々に混ざって焼肉を食べに行く破目になった。
嫌な顔をする人が一人もいなかったのをせめて救いとしたいが、微妙に面白がられている気もして素直に喜べない。味なんてまったくわからなかったし、帰り際私一人だけが気まずかったしで散々だった。
次に、下の名前。
冷静になりとんでもない事態になったんじゃないかと思えて来たバレンタインの翌々日、気持ちの整理に精一杯だった私なんかを軽々飛び越え、前触れも躊躇いもなく呼ばれる。
もう自由登校のはずだけど、はいつまで来るの。
あまりにも自然過ぎて、最後まで来るよ、と普通に答えてしまった。数瞬遅れで驚きと緊張と羞恥が一気に体中を支配し、収拾がつかなくなって大変な目に合った。おかげで私は幸村くんの呼び方を変えるべきか聞きそびれた。
それから人目を気にしない。
どこにいても目立つ彼と一緒だと同学年だけでなく先輩達の視線もぶつけられて、まさしく針のむしろ状態だった。
私自身が素晴らしい美人、はたまた人徳ある出来た人だったり、周囲に好かれる何かを持っていれば守りの盾も持てただろうが、悲しくも無惨に一つとして当てはまっておらず、なんであんな普通の子が、と言外に訴えてくる諸々に居た堪れなくなってただ俯くしかない。
私立の大学附属校である立海はなんだかんだで優等生が多いので露骨に意地悪をされる事はなかったが、だからといって感じるものがないと言えば嘘になる。
以前柳くんにそれとなく愚痴ったら、今に始まった事ではないだろう、至極当然の回答が寄越され、ですよねとしか返し様がなかった。
愚かしい私に神の子の参謀は顔色一つ変えず言い放つ。
慣れろ。
はっきり言って、かなり難しい。
相手は視界に他人を入れているんだかいないんだかよくわからない人種だし、当の私は中学二年時から顔見知りなのに彼と共にいて慣れを経験した覚えがない、むしろ意識をすればするだけ余計落ち着かなくなっていった要領の悪い人間なのだ、柳くんの言は世間的に正論でも自分にとっては無茶振り以外の何者でもない。
ここまで四苦八苦していればいい加減悟られていそうなものだが、幸村くんはゆるやかに笑い無言の内に許してくれている。
短い言葉を交わす最中、ふとした瞬間、彼の慈悲を感じる度、冬ほどではないにしろなんとも言い難い心地に陥った。
狂い乱された調子は戻る予兆さえ見せず、人が言う、優しく静かな日々とは程遠い。

「……やめよ。テンション下がる」

開いていたスケッチブックを抱え、区切りをつける為わざと大きな呟きを落とした。
授業中の独特な静寂が漂う中言い聞かせる声は思った以上にしっかり響き渡り、遠くから何事かを説明する先生の言葉が途切れ途切れ空気に乗っかって来ている。
すっかり春めいた日差しはあたたかく、眼前で咲く花壇の花へ柔らかに降り注ぎ、瑞々しく咲き綻んだ花弁の縁を彩った光がきらきらと輝いていた。風はない。土の傍近くに寄れば、春の香りが頬を撫でた。
選択授業の美術で出された、学校の敷地内でお気に入り又は好きな場所を描きましょう、との課題を片付けるべく、とりあえず建物よりはスケッチしやすい花とその周辺の風景を選んでみたのだが、連想されるのが例の人なので身に入らない。
時計に目を遣る、授業終了までまだ間があるのを確かめ、場所を変えようと腰を落ち着けていた花壇の前から立ち上がった。
とはいえ妙案があるわけでもなく、ぼんやりした心地で人気のない中庭を突っ切っていく。
どこがいいかな、探す傍から思考が横道へ逸れて定まらない。
新しく始めるには良い季節なのだが、どうにも気乗りせず頭がすっきりしなかった。
――さっきから不満ばっかりだな。
思ったところで、不意に首が無意識に動く。
整然と並び陽光を微かに反射しているたくさんの窓の中、一枠のみが目を引いた。
前もって把握していたわけでもない。印だってない。一年生の教室は上級生が使っている階よりも低く、顔や表情のわかる距離だ、探すつもりはなかったのに見つけてしまった幸村くんは、頬杖をついて黒板の方を向いている。
足が止まった。
当然だけれど余所見している生徒など一人もいない。
遠目からでも綺麗なつくりであるのがわかる横顔は、中学の頃と比べれば少々大人っぽくなったように感じられる。彼の横面というと、病院の廊下でそっと盗み見た日がすぐ脳裏に浮かぶ。
重なり合わせようとしてみてなかなか上手くいかなかったのは、幸村くんが変わったからじゃない、自分が変わったからだ、と考えるより先に結論付けた。
レンガで舗装された道に固い何かがぶつかった音がし視線を投げれば、いつの間にか力の抜けていた右手がスケッチに使う鉛筆を手放していた。しゃがんで拾う。衝撃で先が粉々に折れていて、換えを持っていない事に思い当たり、己の迂闊さにややうんざりする。美術室まで戻らないと駄目かもしれない。
あーあ。落ち込みたくないので唇からは漏らさず、心の中で溜め息をついて顔を上げ、もう一度。
目が合った。
びっくりして固まるのと、胸の中心が大きな音を立てて鳴り始めたのはほぼ同時だった。
授業中も何のその、思いっきりこちらを向く幸村くんが目を細めて微笑み小さく手まで振ってきた。あの人心臓に毛が生えてるんじゃないか。
なんとなく知られたくなくて、使い物にならない鉛筆が握られた手を背に隠し、空いている方の掌で揺らして返す。にこりともしない私に、彼は相変わらず笑みを投げ掛けていた。
鼓動がゆっくり確かにペースを上げる。恥ずかしさで顔が染まる前に逸らして、目線をやや下方へずらし素早い動作で歩き始める。
ようやっと窓の群れを抜け、校舎の裏手に辿り着いても体の早鐘は止まない。
呼吸も少し荒くなり、鉛筆を握り締めた掌はじんわりと汗をかいていた。
表面上に浮かぶ不調と裏腹に、ぼやけていた頭の中は静かな落ち着きを取り戻しつつある。
離れていればごちゃごちゃと考えてしまい気を揉むが、顔を見るとやはりほっとするのだ。
あまり寄りかかっても微妙な気持ちが去来し素直に喜べなくなるから良くはないのだろう、しかし教室内で姿を確かめる事の出来なくなった人と分かち合う偶然はそんなに悪くない。
――あれ?
思うまま自由にふらつく最中、ごく簡単な単語で我に返った。
はたと立ち止まり己の行動と思考を順繰りに遡る。
中等部での三年間、席が遠かろうが近かろうがいつも幸村くんが同じ空間にいて、会えば挨拶を交わし、隣になると他愛ない雑談が始まり、また明日をいくらでも繰り返す日々を、特に深く考える必要はなかった。
与えられた幸運に無頓着であった。
ただの友達から付き合う事になって、縮まってもおかしくない距離は然程変わらず、そればかりか物理的な面では以前より離れている。顔を合わせる機会は減ったし、メールで場所を決めなければなかなか会えない。高等部でも常勝を掲げているテニスの邪魔をしてはいけない気もする。
知らない人と話しているのを目にする都度言葉に詰まり、だからといってその場で話しかけられても上手く返せるわけじゃない、好奇心を隠してくれない周囲の眼差しに呼吸さえままならぬ時があった。

幸村くんが、遠い。

笑い声が蘇る、触れた指の感触が残る、強引さが懐かしい、不満や愚痴の元を辿って行き着く。
淋しかったのか。もしかして。
瞬時に血が上った。

「なし! やっぱ今のなし!」

完全な独り言の直後、授業終了のチャイムが高々と頭上を響き渡っていった。
誰かが近くにいたら言い逃れ出来ない不審人物っぷりだけれど、羞恥は変人のレッテルを貼られる危惧を余裕で上回る。変な汗が出てきて、顔が熱い。
終わらなかった課題の為でなく振り切って忘れたいが為に慌てて走り出し、昇降口に着くまで同様に美術を選択したクラスメイトの何人かとすれ違った。
必死こいて教室へ向かい、席について、違う違うさっきのは違うちょっと言葉を選び間違えただけ! 等と自分で自分に言い聞かせたがすべて徒労に終わり、次の授業が開始する頃になっても顕れた感情は消えてくれなかった。


先生の声も入らぬ程悶々と午前中を過ごし、勘違いした人達に彼氏とケンカでもしたのかなんてからかわれ、釈然としないのに言い返す気力が行動を起こす前から底を尽き、昼休み開始のチャイムと共に重い足取りで教室を出る。
見た目に似合わず結構たくさん食べる幸村くんと、屋上でお昼ご飯を一緒にする約束があったからだ。以前の私だったら極力接触を避けただろうに。思えば、変化に対する羞恥に苦味が混ざってくる。
そういった諸々を看破されるのを覚悟して向かった先に待っていたのがいつもと変わらない笑顔であった為、少々落ち着きを取り戻しほっと息を吐いた。
のどかな日の下で箸を広げ、これまたいつもと変わらない話題をおかずに着々とお弁当の中身を片付けていく。
そうして浅はかな私が油断をし忘れかけたタイミングで、それでどうして中庭にいたの、サボり? と問うてくる所が、幸村くんが幸村くんたる所以だ。
わざとな気がしたが、下準備もしておらず突っ込む所か最早薄ら笑いを浮かべる道しか残されていない。

「……サボってないよ。美術の授業中だったの」
「何かに気を取られていたね」
「…………なんで」
「鉛筆落としてたからさ」

観察眼ばかりか視力も良いようだ。というかそこから見られていたのか。
不自然に空いた間に冷や汗が滴る心地だった、もっと上手いかわし方もあるはずなのに、こんな時要領の悪さは災いをもたらす。

「まあ…ぼんやりはしてたかな。校舎内のどっかをスケッチしなくちゃいけなかったんだけど、なかなか場所が決まらなくて」
「へえ。結局決まったの?」

自分的には会心の一撃までは行かずとも良い線に達した返しのつもりだったのだが、リアクションから彼の内面がちっとも読めなくて肩透かしを食らった。こちらの思惑を読んでいるのかいないのか全然わからない。

「決める前にチャイム鳴った」
「提出はいつまで」
「ほんとは授業終わった時に、どこまで進んだか先生にチェックして貰わなくちゃいけなかったんだけど……。えーと…あのー……出すの忘れました。放課後先生とこ行って謝ってくる」

美術室に寄る余裕がなかった、という真実は言わないでおく。
咎められるかと身構えていた姿勢は、幸村くんが一欠片も怒る素振りを見せず微笑んだ事によって崩された。

「新学期からなかなか前途多難そうだね、は」
「……そうかもね」
「フフ、素直だな」
「自分でも前途多難っぽいって思うから」
「わかってるなら、わかってないよりいいじゃないか。頑張れそうかい?」

やはり見抜かれているんじゃなかろうか。
今までのやり取り全て、故意だった予感が増す。
こうなってくると本当の理由を吐露した方が、気持ちだけは楽だった気がしてきて性質が悪い。核心の掴めない会話は苦手なのだ。

「うん。頑張りたい」

仕方がないので、無心の内に沸いてきた想いをそのまま飾りもせず口にする。
熟考し事が良い方向へ進むのなら愚行だろうけれど、私に限ってそんな力量はない。
幸村くんは、そっか、と柔らかく言い落とした。
でも忘れっぽいのをどうにかするのはまだやり方があるとして、淋しいのってどう頑張ればいいのか、まで思いつき、いや淋しいって決まったわけじゃないし、慌てて打ち消す。
大体彼だってそういう意味で聞いて……ないよね? と、空になったお弁当箱を包みながら何気なく目を遣れば、庭園を向く横顔が在る。
立てた膝に肘をつき手は片頬に当てられていた所為で、授業中の記憶がフラッシュバックし座り心地が悪かった。
太陽を吸収した屋上のタイルは靴下越しでも温度を伝えて来、春先になっても尚冷え性の解消されない私に優しい。
ゆるい風が髪を煽る。
幸村くんが地べたに座ってご飯を食べるだなんて、仲良くなる前は考えつきもしなかった。
パチン、と箸入れを閉め、安直に月並みな話題を振った。

「幸村くんは? あの時なんの授業だったの?」
「それ、やめないか」

間髪入れず返された割合強い口調の言葉に、びっくりして動きを止めてしまう。
お弁当箱に移していた視線の矛先を変えると、いつの間に向きを修正していたのか、庭園の花々に在ったはずの双眸が真正面から春の光を湛えている。私はうろたえた。

「え……そ、それ?」

どれだろう。何か行儀の悪い事でもしたのか。
確かにきちんとした作法が身に付いている方ではないけれど、気分を損なわせる程酷いレベルまで落ちていないと思い込んでいた。
膝に抱える包みを右にも左にも出来ず、ただ馬鹿みたいに固まっている。


「えっ、はい、何?」

偉い先生にお叱りを受けたような空気に、背筋もしっかり伸びた。

「そう、君の名前だ。俺は呼んでいるのに、どうしていつまで経っても幸村くんのままなのかな」

…………はい?
音にならない声のお陰で、口が間抜けな形になる。

「眉間に皺寄ってるよ」

尋ねられても消化出来ない問いへの手詰り感が顔に出ていたらしい。
言われるがまま、眉のあたりに指を伸ばすと笑われた。綺麗に口角を上げた人は先刻の些か尖った雰囲気を消し、どこか楽しげに続ける。

「俺のフルネームは?」
「え? 幸村精市」
「名字抜かして」
「……自分がフルネームはって聞いてきたんじゃん…」
「抜かしてよ」

いきなり我が侭になった。
どこにスイッチがあるのかまるでわからない。こういう幸村くんに逆らって良い目に合う気がしない、おとなしく従う。

「精市」
「うん。それがいいな、俺」
「だからそれってどれ」
「名前で呼んでよ」
「…………。っえ、ああ! そういう……」

事が言いたかったのか。
気づいた後、緩んだ筋肉が即座に緊張して張り詰めた。

「ちょっと待って!」
「じゃあよろしく
「人の話聞いて!」

思わず立て膝になりお弁当箱が転がり落ちる。
引っくり返ったそれを直してくれた幸村くんは面白そうに、なに? と瞳で語りかけて来、そうすると途端にしどろもどろになるのが私のしょうもない所だ。

「ま、待って待って待って、とりあえず待って! ちょっと今考えるから!」
「待つのはいいけど、何を考えるんだい」

慌てふためく私とは大違い、顎に手をあて笑いを堪える彼の仕草はあくまでも優雅である。
校内を包む昼休みの喧騒を遠くに聞きつつ、鈍いなりに頭を働かせて先のシミュレーションを試みた。
自分の中で、幸村くんは幸村くん、でしっかり判が押されており、急に名前で呼べと言われても早急な対応など出来やしないが、ここで勘弁して下さい名字のままでお願いします等と馬鹿正直にお願いするのは不可能だ。頭の悪い私だって、さすがに彼女としてどうかと思う。
では前向きに検討すると、まず呼び捨てという案が浮かぶが、無理だと一秒で悟った。
畏れ多過ぎる。
というよりも人がいる所で口にしようものなら、元より厳しかった視線が更に冷たさを増し場の空気に耐えられなくなるに決まっている。却下。
残るはくん付けを名字から名前の方へスライドさせる案である。
精市くん。
胸の内でゆっくり辿ってみると、気恥ずかしいけれど何とかいけそうな気はした。
しかしながら実用に当たって考えれば問題点が溢れ出る。
眼前でにっこり微笑む人にしか聞こえないのならば良い。そこに彼のチームメイトだったりファンの子だったり私の友達だったり、好奇の眼差しをぶつけて来る名も知らない生徒だったりが加わる想像をしただけで背筋がぞわっとした。
恥ずかしさと恐ろしさが混じる、得も言われぬ感覚だ。平凡な一般生徒でしかない自分には少々荷が重く挫けそうになるが、ついさっき己が口にした言葉が思い返されて、踏み止まる。
頑張りたい。
確かに私はそう言った。言ったからには責任を持たなければならない。息を吸う。

「………わかった」
「うん? 考えまとまった?」
「あんまりまとまらなかったけど、まとめた」

両手を座る位置より後ろへ付いて重心もそちらへ傾ける幸村くん、もとい精市くんは私の支離滅裂な回答に声をあげて笑い、二つの瞳は、では発表をどうぞ、と楽しげに光を反射していた。
何がそんなに面白いんだ、悪態をつきたかったが本当に楽しそうに振る舞うものだから、喉まで上ってきた文句もすぐに引っ込んでしまう。おそらく私は、彼の喜ぶ顔に弱い。

「嘘ついたってしょうがないし、ついた所でどうせ隠せないから言うよ。ほんとは今のままがいいけど、ゆき……精市くんがそう言うならやめる。でも無理だから。精市くんしかいないならいいけど、他に人がいる時とかは絶対無理だから。そこだけは譲らないから!」

茶々を入れる隙を見せたら碌な事にならない、散々思い知らされて来たので一気に言い連ねた。
最後の台詞は力を込めてきっぱり投げ放ち、いくら怒られようが駄目だと却下されようが退かないという強い気持ちが眉間に皺を刻む。
自分なりの決意を顔に浮かべたつもりだったのだが、対峙した人はきょとんとこちらを見つめて来るのみだった。
相応の返答がくるものだと身構えていたのに肩透かしだ、渾身のギャグが滑ったような空気に死にたくなる。私絶対悪くないのに、なんで。冷静さが幾分戻った所で立膝且つ中腰のままだったのに気が付き、そろそろと腰を下ろす。なるほど彼の顔がいつもの視界より下に映るはずだった。ダメだ死にたい恥ずかしい。
どうしたって俯き縮こまる私の鼓膜へ、呼気が密かに漏れる音が打ち響く。
ちらと目線を上げると後方に体重をやっていた先程とは逆に、立てた膝に額をつけ頭を抱えるような形で小刻みに肩を揺らしている姿が目に入った。常ならば見えない旋毛が憎たらしい。
緊張やら他の何やらで昂ぶった心は、静かに黙っている事を許してくれない。

「……何? 言いたい事があるなら、はっきり言ってよ」

言葉が潰えると同時に、精市くんがぶはっと盛大に吹き出した。
下を向いていた顔があがって、どちらかと言えば上品なイメージを覆すように大口を開け、お腹まで抱えて笑っている。僅かながら滲んでいる目の端がとても腹立たしかった。

「あのね!」
「っはは、うん、あはは! ごめん、でもおかしくってさ」
「…………すいませんね。どうせ私は頭おかしいよ」
「そこまで言ってないだろう?」

否定を口にしても呼吸を乱している人に説得力はない、率直に言ってムカついた。
どこでツボに入ったかはわからないけれど、随分後を引く笑いを深呼吸で落ち着かせ濡れた瞼の縁を拭い、わかったよ、と承諾する精市くんは晴れ晴れとした顔つきだ。

「俺だって、無理に強要したいわけじゃないからね。が嫌がる事はしないよ」
「別に……嫌とかじゃないけど」
「そう?」
「うん。どっちかっていうと困ってる」
「という事は、困るのは嫌じゃないのかな」
「…………そうなるの?」
「あれ、俺に聞いていいんだ?」
「えっ! じゃあよくない!!」
「あはは、じゃあって」

彼の笑顔はぶり返したが、爆笑に及ばず、それはそれは穏やかなものだった。
彼の提案を全面的に受け入れたわけではないというにどういう事か機嫌は上々らしい、相変わらずわからない人だと心底思う。
思いがけずスムーズに下された了承にほっと一息吐いたらば、けど携帯の登録は名字のままにしないでくれ、なんて付け加えて来るのでぎょっとした。
たるんだ背が再びぴんと張り詰める。
どうして知ってるの。声にしないで訴えると、

「当たってた?」

イタズラが成功した子供みたいな表情である。
してやられた。
唖然とする私をよそに精市くんはマイペースぶりを遺憾なく発揮し、嫌がる事はしないと紡いだその唇で、はいじゃあ今変えよう、平然と続けるのだ。
もっと突っ込むべきだったが、頭の回らない私は言われるがまま従順に端末を取り出してアドレス帳を開き、見慣れた名字を見慣れぬ名前に変更した。
彼のアドレスに私の名はどう登録されているのか、些か気になったけれども尋ねる勇気は持っていなかった。
作業が完了しお弁当箱と共にケータイを鞄に仕舞い込んだ瞬間、春の空に悠々と鐘の音が響く。
はっとして辺りを見渡せば、ちらほらいた人影がいつの間にか綺麗さっぱりなくなっていた。

「やばい。予鈴だ」

急ごう、と立ち上がる精市くんから伸ばされた手は、真っ直ぐ私へと向かっている。
え? と疑問を声にする前に腕を掴まれ、無遠慮に引っ張られた。
正座していた所為でやや痺れた両足が屋上の床を踏む。二の腕にあった大きな掌は指を包み、私には制服のスカートを払う間など与えられない。繋がれた手も払えない。条件反射の如く高鳴る鼓動は鎮まってくれなかった。
冬の海辺が蘇る。
思い出に残る苦味は体を固くさせ、視界が歪む錯覚を振り払おうと躍起になるあまり、両目が思いっきり細くなった。

「俺は化学室に行くけど、は?」

しかし振り向く声色が、乱れた脈拍に現実を突きつける。

「……忘れてた、体育!」
「うわ、もう間に合わないな」
「ダメ! 既に遅刻4回して先生に怒られてるんだから!」
「校則無視して走ったって無理だよ」

歩調を速めた私を嗜める精市くんはどこか余裕ありげに、ともすれば微笑ましい眼差しを当ててきている。他人事だと思ってるな、と歯噛みしても時間は戻らない、屋上の出入り口に辿り着いた勢いを殺さず、歩幅が違うはずなのにほぼ横並びで階段を駆け下りた。
ばたばたと騒がしい音が静まり始めた校舎に反響している。
尋常ならざる私達の様子にすれ違う人が目を丸くし、一方の精市くんはまだ笑っていた。
転ばぬよう足を動かす事に精一杯だった意識が強く結ばれっ放しの指へ向いたのは、一階に到着し彼と別れた後だった。
残る温度に気を取られたくなくて、ぎゅっと鞄の紐を握り締めて更衣室へ急ぐ。
淋しさなどすっかり消えてしまった事についても深く考えたくなかった。
現金すぎる。というか人間の小ささの顕れのようで恥ずかしい。友達の惚気るなという揶揄に反論出来ない。
遅刻の免れない状況にも関わらず春めく思考を止められない私に天罰を下すが如く、無慈悲な本鈴が立海の校舎を駆け巡る。
頭を冷やしたいのに頬は熱くなるばかりで、喉まで渇いてきた。
廊下は走らない、標語の書かれたポスターを横に駆ける私は、ついに細かく震え出した足を抑えつけつつ、人気のない更衣室の扉に手をかける。色々な意味で恥ずかしかった。


――ちなみに、先生には呆れ半分、お前そんなんでこれから大丈夫か、という心配半分な雰囲気でみっちり怒られた。





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