02




鞄から鈍い振動音が聞こえたのは、5限目の後の休み時間だった。
丁度次の授業の準備をしようとしていたタイミングで特に心構えもせず画面を開き、表示された名前を見て危うく喉を詰まらせかけた。
自分で登録したとはいえ、精市くん、と記されるのには慣れない、なるべく無心を心がけながら目を落とす。
件名には、放課後暇? とあった。
『一緒に帰ろう。今日は練習試合があるんだ、どこかあたたかい所で見ていて』
断る理由もなく、そしたら図書室にいるね、とだけ打って返信をする。
朝の天気予報曰く春らしい陽気が続くそうだが、屋外見学の許しが下りないのならまだまだ夜は冷えるのだろう。
一度TVの予報を信じて痛い目に合った私は、すんなり忠告を受け入れる事が出来た。
再び震える端末には了承の意が届いている。
今日最後の授業が終わり、行き先を尋ねてきた友達に図書室だと答えれば、へ〜え? 等というからかいの色が混入した声でにやにやされた。返す言葉もなかった。

胸にもやがかかったままで図書室の扉を開けると、しんと静まった空気が出迎えてくれる。
教科書を学校に置きっ放しにする事が少なくなったので鞄は重い。
ぽつぽつ離れて座る幾人かの生徒の間を縫って、窓際の席まで真っ直ぐ歩いていく。
通い始めて一ヶ月と経っていないが、中天から僅かに傾いた日の差すそこは最早定位置になりつつあった。
いくらテニス部を見る為とはいえ、ここまで来て何もしないわけにはいかず、なるべく音を立てぬよう気を払いながら教科書とノートを取り出す。
こうして待つ日は誰に言われたわけでもなく、予習復習するのが常となっていた。中学入りたての私が聞いたら何が起きたとさぞや驚く事だろう。
あの頃の自分に言える事も言いたくない事も、今までたくさん起きた。
懐かしく思い返し勉強に集中していると、そう時を置かずしてテニスコートから掛け声が届き始めたので視線をノートではなく窓へ遣った。
緑に黄色のボールが映えている。
2,3年生の先輩達に混ざっても尚、精市くんや三強と呼ばれる真田くんと柳くんは堂々としていた。表情も確認出来ない距離なのになんとなくわかるのが恐ろしい所である。
オーラというか、纏う雰囲気が違った。
軽く打ち合いをした後早くも試合形式へ移ったらしい、屋上近い階にある図書室まで響く、どよめきと黄色い悲鳴で気が付いた。
中途半端に握っていたシャーペンから指を放し、コート内に精市くんの姿を見出す。対戦相手の人に覚えがなかったので、おそらく先輩なのだろう。
ノートを完全に閉じる。
いつもいつも、詳しくないなりにせめて見るだけでもと真剣に目を凝らすのだが、彼の試合は一方的且つ圧倒的に終わってしまい、とにかくすごく強いんだなあ、という感想しか見つけられない。

精市くんのテニスと言って思い浮かぶのは、去年の全国決勝だ。
負けてしまったのは勿論残念だけれど、私の心に強く残っているのはあの噎せ返る熱気だった。しらずしらず汗をかいているのも忘れた夏だった。
私がどう感じようが負け試合なのは確かなので、言って良いものか迷ったゆえに一度も伝えた事はなく、上手く言葉にする自信もない。
ぼんやりと遠くから見上げ、眩しさに目を細める気持ちばかり抱き、ひょっとして憧れというやつかもしれない、なんて時々真面目に考える。ともすればストレートに勝つ試合よりも、きらきらと輝く思い出だ。
――性格悪いって言われそう。
胸中で溜め息と共にそっと呟けば、同時に一際大きな歓声が上がった。
審判の声は流石に聞こえず、自己流のカウントを信じれば6−0で神の子の圧勝である。
彼は当然のようにラケットを下ろし、当然のように相手選手と握手を交わした。肩にかけられたジャージが優雅になびいている。

勝利が当然になるまで一体どれくらいの時間を費やし、努力を重ねて来たのか、私にはわからない。
病に倒れ驚異的なスピードで戦線復帰した、その裏にあったであろう様々を知る事も叶わない。
こういう時、本当に違う世界に住んでる人なのだと思い知るのだ。むしろ共通点を探す方が難しい。
何故友達になれたのか、過去まで遡り苦悩する破目になるのが最近の癖である。
人間として出来が違いすぎるのも淋しさを感じる一因かな、と遂に自己否定を諦めた心境で隙のないプレイに沸くコートを見詰めた。

日も本格的に暮れかけ、いよいよ室内の照明の方が頼れるものとなって来た時刻、テニス部は一部が練習を続け他はコート整備や後片付けに入っている。
今から準備して昇降口に行けば丁度いいかな、のんびり勉強道具を鞄に仕舞って立ち上がり、椅子を元に戻した瞬間、血の気が引いた。
美術の先生にスケッチブックの話をしていない。
よく、あ! と声を出さなかったものだ。内心大慌てで貸し出しカウンター奥の壁にかかる時計を見、教室が施錠される時間まで間もない事を確認する。室内にほとんど人気のなくなった状況も、焦りを増長させた。滑りそうになる指先に力を込めて端末を掴み、普段とは比べようもない俊敏さで部活に励む人へメッセージを送る。
『ごめん! スケッチぶっく出すの忘れてたからちょっと美術しついってくる遅くなるかも』
打ち終えるまでの早さと引き換えに改行なし、変換ミスといった頭の悪そうな文章が出来上がったが、背に腹は変えられない。
送信完了の画面を待たずして、教室のロッカーに仕舞われたままのスケッチブックを取るべく、ギリギリ小走りになるかならないかの早歩きで図書室を飛び出した。








失礼しました、の言葉と一緒に廊下に出れば、窓の外は暗闇に包まれ始め、平素は賑やかな校舎も静けさに支配されている。
軽く息を切らす私に初老の先生は優しく、そう慌てずとも大丈夫ですよとまで言ってくれた。なんとなく高校生を見る眼差しではなかった気がしたが、幼児扱いされたとて文句の言える立場ではないので仕方ない。
課題提出日まで間があるから、との言葉を受けようやくほっと息を吐き美術準備室から抜け出したのであった。
乱れた前髪とよれた襟を直し、一仕事終えた気分で目的地へ向かおうと足を動かした時、少し後ろから声をかけられる。

「おー、まだ残ってんの?」

上体を捻る。
中学三年生時に続き高校でも同じクラスとなった、元ヒーター係の大島くんだった。
今初めて知ったが彼はサッカー部だったらしく、砂まみれのユニフォームとゼッケンを着用しており、目一杯練習をして来ましたという出で立ちである。

「うん。ちょっと図書室に」

並んで歩き始めるのかと思いきや、彼は私の隣に到着するや否やぴたと歩みを止めた。
何か用があるのだろうか。
投げ掛けられる質問を待てば、切り出し難そうにしている声音が鼓膜に伝わる。

「いやー…ま、違ってたら悪ィんだけどさ」
「はあ」

まともな返事をしようにも相手の意図が測れず曖昧な相槌になった。重たい鞄の紐が肩に食い込む。

って幸村と付き合ってたりする?」

はっきりしない言い出しだった割に、本題は実に飾らず直球でぶつけられた。
呼吸の途中で喉が塞がりあわや咳き込みかけ、自分の意思とは関係なしに目が丸く見開かれてしまう。
思いっきり挙動不審になった私は、どもりながらこう口走った。

「え…いや……な、なんで…?」

出来の悪い人間というものは、素早い判断を下せないのだ。
せめて肯定か否定かを決めたのち口を開けばいいものを、さして考えもなく気持ちのままに声を発し、やらかしてから激しい後悔に襲われる。
頬を引き攣らせた私に一体何を見出したのか、大島くんはずばずば切り込んで来た。

「俺中3ん時、ヒーター係だったじゃん? あれいつだったかなー12月くらいか。朝幸村と教室に二人でいてさ、ヒーター先につけてもいいかって言われた日」
「ああ……うん、あったね」

笑顔の下、抵抗を許さないと言わんばかりの弁論を繰り広げた彼にある種の畏怖を抱いた朝の事だ。大島くんがヒーター係を乗っ取られた日、とも言い換えられる。

「そん時もちょっとあれって思ったんだけど、この前微妙に噂聞いてさ」
「なんの!?」

思わず食いついた。
友達やテニス部の人達にあれやこれや揶揄される事は多々あったが、それよりも遠い周囲の人から突っ込まれるのは未経験である。
背筋は熱いのに、冷えた汗が流れていく心地だった。
目に見えて動揺する私の耳に、え、知らねーの? 付き合ってんじゃねーかって言ってんだけどみんな、と非情な事実が叩きつけられる。
いっそその場にくず折れてしまいたかった。
別に隠すつもりも隠し通す気もなかった、なかったが改めて直接どうなんだと問われると恐ろしく恥ずかしい。
ええ、なんて言えばいいの、うんそうだよって馬鹿正直に言えばいいの!? 認めて大丈夫!? 等と混乱し同じ返答がぐるぐる回り出す頭の中は既に収拾がつかなくなっている。
で、どうなの、マジなの?
容赦なく詰問してくる彼の瞳に邪念は浮かんでおらず、純粋な好奇心のみが存在していた。何度か味わった鋭い視線よりはいくらかましだが、他意がない分一振り一振りが圧し掛かる。
重さのあまり、俯いた。

「………うん」

たった一言を口にした途端、体中の血が頬に集まったのが自分でもわかった。

「マジで! やっぱそうだったんか!」
「……やっぱってなに」

顔に赤みが差しているのは確実だったので、下を向いたまま大島くんの発言をつついてみる。

「だってあん時から付き合ってたんだろ?」
「あん時って?」
「中3の、12月」
「はあ!? 付き合ってないよ!」

何を言い出すか、と憤慨に近い想いが顔を上向かせた。
結局お付き合いしているのだから、冷静に考えればいつから始まっていようがそこまで逆上し否定するべき箇所ではない。
頭でわかっていても、羞恥心が冷静に正しい解を示す余裕を塗り潰していく。

「いやいや、はあ? はこっちの台詞だから。あん時の幸村すっげー怖かったじゃん。見てなかったんか」
「見てないよ。ていうか何を。ていうか笑ってたじゃん。そんなに怖くなかったよ」

間違いなく現代文の先生に叱責を受ける、主語も文法もなっていない回答だ。

「それマジで言ってんの? めちゃくちゃ邪魔すんじゃねーよって空気だったって」
「知らないよ、そんなの……」

スケッチブックの件で既に疲れていたというに、この一問答で更に疲労感が増した。
わかりやすくげんなりする私の様子などお構いなしに、じゃあいつから付き合ってんだよ、と重ねて問う大島くんは私の無言の返事を受け取らず、ああワリ、待ち合わせとかしてたんだ、唐突に話を打ち切った。
私を通り越した視線とあからさまにこちらをからかう雰囲気を訝しく思い、彼の眼差しが向かった先を辿るべく会話の為付き合わせていた顔を斜め後ろに傾ける。
あ、と声が漏れた。
広い校舎に相応しく長々と奥まで続く廊下の手前側、美術室の二つ隣の教室前あたりで精市くんがゆっくりと歩みを止める瞬間とかち合ったのだ。
制服姿にラケットバッグを背負っている。
もしかして昇降口で待っても来ないから様子を見に来てくれたのだろうか、まで考えが及ぶと焦りが足元から一気に駆け上がってきた。
やばい、こんな所でちんたら喋っている場合じゃなかった。ごめんなさいと唇が紡ぐ前に、大島くんが校則を無視して駆け出す。

「じゃ、幸村と仲良くな」

おまけに余計な一言を小さく言い置いていった。
爽やかぶっても面白がっているのが丸分かりである。

「意味わかんないし!」

走り始めた背中にぶつけてもどこ吹く風、すれ違いざまに精市くんとにこやかに少々の言葉を交わし颯爽と去っていった。
睨みつけてやりたくても、姿を消されてはどうしようもない。
苛つきは残ったがいつまでも引きずるより、切り替えて謝る方が先決だ。駆け寄りたい気持ちを抑えて、しかし可能な限りの早足で私を待ってくれている人の元へと距離を詰めていった。

「遅くなってごめんなさい」
「――いいよ、大丈夫。課題は?」
「うん、提出期限までに終わらせればいいから、まだ焦らなくてもいいって。怒られなかったよ」
「フフ…で、美術室を出たら大島に捕まったんだ」
「……今すれ違った時、なんか余計な事言われなかった?」
「余計な事って?」

しまった、これではやぶへびだ。私が余計な事を言ってどうする。
焦ったが、一度口にしたものは取り消せない。

「別に。私さっき茶化されたから、そっちはどうだったのかなって思って。でも精市くんが余計な事だと思わなかったなら、それでいいよ」
「随分突き放した言い方するなあ。何、怒ってるのさ」
「お……こってないよ」
「そう? ちなみに俺は、久しぶり、部活お疲れ、頑張れよ、しか言われてないけど」

だったら先にそう言って下さい。
脱力し、体がどっぷり沼に浸かるが如く疲労感に襲われる。
先程から存在を主張しきりの羞恥心のおかげで物言いが乱暴になったのは私が悪いけれど、質問で質問を返しややこしい話し方の彼に小さな反発が生まれてしまうのは否めない。
言葉にし難い心境に陥り口を閉ざす最中、それで、と落ち着いた声が耳に落ちてくる。

「何をどう茶化されたんだい?」

精市くんに限って、流してくれるはずがなかった。
自分で掘った穴に片足をとられ、更にもう一方の足も持っていかれた、身動きのとれない状況である。く…っ、等といった苦痛に満ちた呻きが漏れ出る一寸手前で何とか食い止め、必死で逃げ道を探してみる。

「茶化されたっていうか……からかわれただけ」

その先を言いたくなくて俯き加減だった目線をちらを上げてみても、続きを要求する揃いの瞳としか出会わなかった。
無念だ。

「だから…いつから付き合ってるのかとか、そういうの。べ、別になんでもない事かもしれないけど」

大島くんに突きつけられた時最大値を示した恥ずかしさが今再び言葉にした所為で蘇り、打ち消そうと急いた気持ちで二言目を付け加える。
一旦軽く言い切って、私には大変な事だったんだよ、と後に並ばせかけたら、尋ねて来た張本人のくせに、へえ、とだけ返答を寄越して止めていた両足を動かし始めた。かと思えば、話は終わりだと言わんばかりにさっと背を向ける。
ちょっと。
唇を抗議の形にしようとし、また話聞いてないな、眉間に皺を寄せた途端、

「聞いているよ」

振り返りもせず嗜められて、ぎょっとした。背中に目でもついているんじゃないか。いや、その前に心を読む能力者なんじゃなかろうかとツッコむべきだ。
一緒にいる内にどんどん感覚が麻痺していっているのだろうか、恐ろしい。
暗がりに飲まれる廊下を煌々と照らす明かりの下、昇降口への歩みを止めない背中を追いかける。
冬程ではないにしろ、春の夜は早い。電気がついていて、かすかな人の気配があっても、非常口のぼんやりした緑の光でなんとなく不安になった。





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