03 靴に履き替えて一歩校舎を出ると、風が少し冷たい。 これは精市くんの言う通り、あたたかい部屋で待っていて正解だったな、素直に頷いた。 屋外にいたら寒くて観戦どころの話ではなかった可能性が高い。 私に的確な忠告を授けてくれたその人は、薄黄色い光を浴びた下駄箱の群れの中でどこかの先生に話し掛けられ優等生丸出しの受け答えをしている。 知らない先生であったし、聞いてはいけない話かもしれないから席を外そう、と一足先に玄関口の扉をくぐったのだった。 星でも探してみようかと空を仰ぎ見ても生憎の曇り空で月すら出ておらず、ほぼ無人の校庭は黒一色に染まっている。明日は晴れるのだろうか。 「わざわざ外で待ってることないのに」 運動部に携わっていなくとも、時間を共有する相手のお陰で天気予報に敏感となった私の憂慮を打ち破る呟きが投げられた。 「聞いちゃいけない話だったらダメだと思って」 言葉を打ち返せば、ガラス張りのドアを閉める途中だった精市くんが少し困ったように笑う。 「に聞かれて困る話なんてないよ」 「……テニス部の大事な連絡事項だったら困るでしょ」 即座に言い切られて今度は私が困る番だったが、然るべき返答をなんとか形にし沙汰を待つ。 「困らないよ。どうしてそう思うんだい?」 「どうしてって、うちの学校は強豪だし、そしたらあの…守秘義務とか厳しいのかなって思ったから。作戦とか他校にバレたらダメじゃない」 「それ、が大々的に宣伝して回らない限り有り得ない話だよね」 「そんな事しないよ」 「知ってるよ。第一、君は友達にすら言いそうにないもの」 「……うん、まぁ、言わないけど」 「ほら、ね?」 「いや、ね? じゃなくって、精市くんって中学の時から、部外者の私がいても平気でテニス部の重要っぽい話するよね。怒られない?」 「怒られないよ、フフ」 危機管理に対する私の訴えは、柔らかな微笑みと共に封殺されてしまう。 高等部にもなれば先輩達もたくさんいるのだから叱責を受けそうなものだが、考えすぎなのだろうか。しかし彼へ向けられる羨望、どこか自分とは違うものを見上げ称賛する眼差し、実力者のみが集める注目の数々を目の当たりにして来ては、どうしても視点が傾きがちになるのは否めない。 人より気遣いが出来ない分、せめて邪魔をしたくない一心で続けてきた遠慮も、彼が問題はないと一蹴しただけでどこへ持っていけばいいのかわからなくなる。 「なんていうか……。精市くんは隠すとか黙っとくとか、そういう事あんまりしないよね……」 普通はするものだ、というニュアンスで行き詰まった思考をぶつけてみる、応答は穏やかな声色であった。 「そうだね。俺は嘘のつけない正直者だし」 自分で言うか。 勢い余ってツッコんだ。 纏う雰囲気と裏腹に彼が口にする言葉はどれも剛胆で、何かの拍子で不遜などと罵られたとておかしくない。けれど周囲からそのような謗り言を受けている場面を目撃した経験もなければ話に聞いた覚えもないので、受け入れられてしまう実力と誠意、あらゆるものを兼ね備えているのだろう。 本人も堂々と口にした通り、精市くんと嘘は一本の線で結び付かない。 呆れから腑に落ちた表情へ変化する私の顔の真横を、見慣れたラケットバッグとブレザーが通り過ぎていく。行こう。声をかけられいつまでも立ち話をしているわけにもいかない、ニ、三歩走って追いつき並んだ。 敷地内の広さゆえに心許ない照明よりも、背にした昇降口から漏れる明かりの方が強い存在感を放ち、精市くんの輪郭を綺麗に縁取っている。 ぼやける光の曲線と夜に染まる暗のコントラストがやたら脳裏に焼きつく。歩みが進む度後方の人工的な灯火は遠ざかり、やがて目を凝らさなければ例え校庭に人影があっても見分けがつかない闇に飲まれた。 ほとんどの生徒は帰宅の途についているらしい、私と彼以外の足音が聞こえてくる事はなく、不揃いな音階で響くそれは鳴るタイミングも質も違うのに歩幅はどうしてか一定の距離を保っている。足並みが均一化されずとも、不思議と心地良かった。 生まれた弾みが唇を軽くする。 「今日の試合は、先輩とだったの?」 「へえ、ちゃんと見てたのか」 が、すぐさま叩き落された。喜怒哀楽をすっ飛ばし事も無げに返されては顔を顰めるのも当然である。 「……私返信したよね?」 「ああ、返ってきたね」 「じゃあなんで今の台詞が出てくるの……」 「フフ。の事だから本読んでて俺に気づかなかったとか、ぼうっとしている間に見逃したとか、そういうオチかと思ってさ」 「ちょっと、失礼な! ちゃんと見てるよ。今日だけじゃなくって、いつも!」 「それは光栄だな」 睨みをぶつけてみても、語尾を揺らして笑う横顔にはちっとも効いていない。というか、この期に及んで仮にも付き合っている人の試合を忘れる奴、なんて思われている事がちょっとショックだ。 備え付けられた照明の下に差し掛かり、紺の背景に溶け込んでいた顔が光の中に浮かび上がって、視界に映る彼の唇の端は上を向いている。 「はテニスの事となると、あまり俺に聞いてこないから」 「………興味がないんじゃないよ。ていうか、聞かないっていうか口出していいのか考えてるっていうか」 「前も同じような事聞いた気がするんだけど、なかなかしぶとく悩むね。俺、素人は口出しするななんて言った覚えはないよ」 「うん……言われてない」 「フフ、承服しかねる! って顔してる」 「……そんなに古風な人間じゃないし」 「それじゃあ、頑固、かな。俺がいいよって言っても自分が納得しないと頷かないだろう、」 他人から下される評価中、初めて頂く冠であった。 自身でも頑固者のつもりはなく単純に驚いた。 止まらぬ両足は頭上の電灯を置き去りにし、照らされていた頬は再び濃い陰に隠れる。 思わぬ表現に呆気にとられていればやや苦笑に似た色の乗った息が、今日の試合、と外れていた話題を本筋に戻す。 「二年の先輩だよ。図書室からだとテニスコート遠いのに、よくわかったね」 「え…あ、うん、見た事ない感じの人だったから……」 「あはは、感じ、か。見た目で判断するより、雰囲気で当てる方が難しそうなのにすごいな」 ひょっとして、俺も雰囲気で俺だって見分けられてる? そう笑う素振りは常と変わらなくても本当は別に言いたい事があったのでは、とつい探ってしまう何かがあった。 マンモス校に相応しく大層な校門の柵は半分閉じられていて、下校時刻を飛び越えた事実を如実に物語っている。 通学路にも人気はない。車道を挟んだ向こう側、遠くのコンビニが煌々とした明かりを発していて無闇に目立つ。 忙しなく行き来する車のライトとどっしり鎮座したままの暗闇が、交互に行き過ぎていく。 一人ならばバス停へ向かう所だけれど、彼と一緒に帰る時は電車を使うので異なる方向に体を押し進めた。 「雰囲気かどうかは…わかんない。でもあんまり見えなくても、精市くんはなんとなくわかる」 「ふうん?」 瞬間、車道のヘッドライトが暗がりから微笑みを浮かす。興味深そうに細められた両の瞳は真っ直ぐこちらへと向かっていて、思いっきり居心地が悪い。 「な、なんとなくだよ、なんとなく。特別すごい事じゃないから!」 「はいはい。慌てて否定しなくても大丈夫大丈夫」 どこか小馬鹿にした態度だ、真面目に聞いてるの、と頭に血が上りかけた一歩手前ではっとする。 真意を見つけ出そうと動きかけていたほんの数十秒前の出来事を忘れ、うやむやにしてしまった。 急いて横を行く人を見上げても、先程まで垣間見せていた違和はすっかりなくなっており、自らの失態に心中で肩を落とす。 ああ、本当に足りていない。色々と。 落胆する身に冷えた春の風が吹きつけてくる。抜かりまくりの私は当然上着など持ってきていない、ブレザー一枚では染み入るように堪えて、意識と関係なしに背が縮まった。 かけた鞄の紐をきつく握ってやり過ごし、髪を揺らす空気の渦が静まってから指をほどき腿の横にだらりと下げる。 と、気が緩んだ一瞬。 手の先端に異変が起きた。 初めは探るみたく、触れたのちは一遍に包むよう、私のものより優に一回りは大きな掌に掴まれる。声も出なかった。 兆しなく訪れた温度に体が固くなるのは真っ当な反応であるのだが、指を絡めてきた人にしてみると不服だったらしい、どういうわけだが軽く咎める口調が手加減なしに降って来る。 「そう身構えないで。何もしないよ」 本当にびっくりした。 あまりの返しに声帯までもが硬直して、言葉は表情を失くす。 「そんなこと聞いてない」 「じゃあしてもいいの?」 「そんなこと言ってない」 動揺を隠すつもりなど毛頭なくとも、結果的に押し込める形になる。不本意だ。内心取り乱しているのに、表面には固く機嫌を損ねたような声音しか出てこない。 知らず体温の下がっていた指先に訪れた精市くんは無闇に熱く感じられ、馬鹿正直に準ずる心臓はわかりやすく高々と鳴いていく。 首から上に変化が訪れるのも時間の問題で、つくづく昼間でなくてよかったと安堵の溜め息を吐いた。先刻、二手に分かれた岐路の内駅へ行くには近道となる幾分狭い路地へ進んだお陰で、危惧すべき車のライトは最早脅威ではない、運良く外的要因が取り除かれた状況下、己の頑張り次第で打破出来るのは有り難い事だった。 どくどくとみっともなく響く鼓動に気を取られない為、懸命に思考を逸らそうと試みるも、汗をかきたくない、願う途端に繋がれた掌へ全部の神経が集まる錯覚がして焦る。 過敏になりたくないのに、皮膚は逆立つような感覚で精市くんの指を読み取ろうとする。 落ち着けと指令する先は自分の体のはずだ、しかし何もかもが思う通りにいかない。 わざと緩慢にまばたきをし、呼吸も深いものを心掛けた。 避けようとするからダメなのか。 逆転の発想でされるがままだった指先にゆるゆる力を込めたら、彼は一秒と経たぬ内に倍近い強さで握り返して来、胸の中心をも鷲掴みにされた。 もう嫌。 早くも音をあげそうになる弱さが現実逃避へ走り出し、他の男子だったら絶対こんな恥ずかしい気持ちにならなくて済むのに、埒もない仮定に逃げてしまう。 例えば、と真っ先に検索されたのは、さっきまで話していた大島くんだった。 つつがなく平常通り、何でもない顔で対応出来ていた。ただし、ただ一人の名を出されからかわれるまでは、だが。 思えば私が挙動不審になるのはいつでも、精市くんが絡んだ時だけだ。 幸村と仲良くな。 余計な一言をさも楽しげに投げ寄越してきた暢気なクラスメイトの顔を思い出し、苦々しさを噛み潰したい衝動に駆られ、そして呆気なく断ち切られる。 「今何考えてた」 喉奥でひゅ、と渇いた音がした。 吸い込んだ酸素が舌の根に引っ掛かった所為だった。 平素に比べ低い音に、考えもなく脊髄反射と同程度の意味で声の持ち主を見遣り、笑っていない人と対峙する。 いつの間に足を止めていたのか、私の一歩後ろで立つ彼に倣って歩みを中断した。 伸び切ろうとしていた腕の橋が緩む。 やましい考えを抱いていたわけではないが、確実にこちらを責めている空気にうろたえ二の句が継げない。 それでも何事かを訴えようと口を開きかけ、やはり音もなく閉じる。 目に見えて混乱する私の心境が取り上げられる事はなく、答えどころか質問の意図さえ掴めず追いつけない残念な頭の中身を飛び越え、更なる追い討ちがかけられた。 「なんでもない」 「え……」 放たれた言に色はない。 いっそ吐き捨てる物言いは拒絶を思わせるのに、掴まれた手は離れる予兆を見せるどころか力を強めるばかりだ。 「にとっては、こうして手を繋ぐのもなんでもない事?」 単語の一つ一つは理解出来ても言っている意味がわからず、戸惑う胸裏は混迷を極めた。鋭利な眼差しに抉られて喘ぐ喉を宥め、精市くんの声を辿り再生するさ中、頭の後ろに質の悪い汗をかいて気が散ってしまう。ただ、今現在に限定したわけでない事は肌で感じ取った。 なんでもない。 手を繋ぐのも。 も、ってどこにかかっているんだろう。 触れる指は既に感覚が失せ始め、温度にたじろぐ余裕さえ消えている。 1ミリも逸れない二つの目は宵の暗に含まれる微かな光を吸収し、薄い反射を見せていた。確かに人が暮らしているはずの家々は静まり返り、無機質な壁が迫る幻は妙な肌触りだった。車のエンジン音など遠い僻地より聞こえくる程度の代物だ。 息が詰まるような圧迫感に体の軸を押され気持ちがじりじり後退していく、けれど許しは下りなかった。 「他の奴とは普通に話すのに、俺がちょっと近づいただけですぐ固まる」 嫌われてると取られてもおかしくないとは思わないのかい。 いつもなら一笑する場面で、彼は顔の筋肉をぴくりとも動かさないまま言い放つ。 肩が震えた。声は枯れて空気を揺らさなかったが唇は、あ、の形を作り、傍から見ると間抜けそのものだ、しかし己の見かけに気を揉んでいる時ではない。 あんなに突破口を探し迷っていたというのに、一つ掴むと次々連鎖して繋がっていく。 一緒にいても周りを気にしがちで、校内で見かけたとしても声をかけられず萎縮した。 偶然すれ違い話す時ですら、私の知らない彼のクラスメイトが近くにいれば上手く言葉が出てこない。 他の人相手なら大声で反論をする程気安く、精市くんへは羞恥の為に突き放した口調になる。 感じが悪い、以外に適当な表現が見当たらない。 次いで急かすみたいに耳の奥で過去が鳴った、何をどう茶化されたんだい、茶化されたっていうかからかわれただけ、十数分前の声帯の振動が鮮明に再生されていく。 『だから…いつから付き合ってるのかとか、そういうの。べ、別になんでもない事かもしれないけど』 音に聞こえるものはそこで潰えても、感情には続きがあったのだ。 違う。 なんでもない事なんかじゃない。 力ある言葉を打ち消そうと舌を引っ込めた途端、素早く砕かれる。 「興味があるのかないのかわからないよ。はいつも、何か言いたそうな顔をしてる。で、俺が何かと思って傍にいくと一歩後ろに下がるんだ。あまり近寄らないで欲しい、ってね。一体どっちなんだって聞きたくなる」 眉間が皮肉に少々寄るだけで、彼の苦笑は苦笑にもならない。声での否定が叶わぬなら首を振るなりして示せばいいのだが、小さな震えしか生まれなかった。 そのような躊躇いも、同様に目の前に立つ人の手によって瞬きの間に崩れる。 「本当は俺と付き合いたくなかった?」 「なんで、違うよ!」 心の隅にすら置いていない事を問われ、体の真ん中に強烈な熱が生まれた。発露を求めて暴れ出すそれは一秒と経たぬ内に気道を駆け上がり渇いた舌の根まで達する。 こんな風に食ってかかるのは初めてだ。 どうしても勢いを殺せず、整理も冷やしもしないで限界だった唇を開いた。 「違うよ…違う……、そんな事思ってない。なんでもない事じゃない。言い方を間違えたのは、あ、謝る…ごめんなさい…。でもあの、なんでもないって言ったのは私の事じゃなくて、いや私の事なんだけどそうじゃなくって、みんなから見たらなんでもないのかもしれないけど私には大変っていうか、それで…え、ええと……なんでもないのに大変だって言うと恥ずかしいから、なんでもない事って言っちゃったっていうか…」 思いつくまま喋る有様を頭の中の冷静な部分が支離滅裂だと諭したが、一度滑り始めた口は止まらない。 「だ、だから……、だから。付き合いたくなかったとか、そういうの…思ってない」 息継ぎに一拍あけたその時、ふっ、と漏れた呼気が鼓膜に入る。 ふ? 聞き返そうとして、既視感を覚えた。 「…っふ、は、はははっ! 、必死すぎ! あはは!」 繋いだ手を離さず笑うものだから、振動が伝わった私の腕は大きく左右に揺れ動く。 やられた。 悟った瞬間に、負けは決まったのである。 これ以上ない爆笑をし更に空いた掌でお腹まで抱える精市くんはとてもとても楽しそうだ。 あの日の病院の廊下と今が重なった。 ここまで見事に失態を晒してしまえば、言い訳を連ねる気力だって沸いてこない。 「あは、は、はあ、駄目だ…おなか痛い…」 ぱっと聞いただけじゃ非常に彼らしからぬ弱気な発言だけれど、込められた意味はまるで逆へ突き進む事を理解していたから同情なんかしない。 いつまでも続き解放されない片手を力の限り引いてやったがびくともせず、それ所か明後日の方を向いていた視線が真っ直ぐ元に戻ってしまう。 「……うん、急に笑ったりしてごめんね」 至上の笑顔で呟く彼を一発殴りたい衝動に身を持っていかれそうになった。 「………いいよもう。楽しんでくれてどうもありがとう」 「だからごめんってば。拗ねないでくれ」 「…誰が拗ねてるの?」 「え、だろ?」 しれっとした対応に眉間に留まらず顔全体を顰める。すると、精市くんはまた笑った。 「わかってる。君はただ慣れていないだけ。慣れていないなりに頑張って、一生懸命なだけだ。だから他に気が回らなくなるのは当たり前の事で、俺に意地悪しようとしてやってるわけじゃない」 鼓膜を揺するささめきが、荒れていた気持ちを優しく撫でる。 「けどあまり露骨に避けられると、やっぱり面白くないからね。そこはわかってほしいな」 絡まる指に熱が戻り、胸を焼いた。あんなに全力で否定してくるとは思わなくてさ、突っつきすぎちゃった。懺悔のくせして軽々しい言い草に、普段ならばむっとして文句の一つでも投げつけていただろうが、空っぽな口の中には一欠片の感情も表れず、全てが喉の奥でつかえている。 一寸遅れて、先刻まで隠しもせず曝け出していた自分の態度と感情を恥じた。 彼を詰る資格などない。 精市くんの正直な所は、いつだって私の浅はかさを浮き彫りにする。 こんな調子だから、一時の短慮に囚われ真意を見逃し、察してくれた人に1から10までを言わせてしまうのだ。 本当に私はいつも言葉が足りない。 考えるばかりで行動が伴わなかった頃と何も変わっていない。 「…………うん」 重力に負けて俯く唇から零れた言葉は、落ち窪む呼吸半ばでなんとか絞ったものだから、情けないくらい頼りなかったが夕闇へ消える前に掬い上げられる。 「フフ、それじゃあ、この話はおしまい」 ぽん、と子供をあやすように頭の天辺に置かれたあたたかい掌は、引き止める間もなく離れていった。 沈黙していた足音を再度響かせ、繋いだ指先をくいと引っ張ってくる。帰ろう。物言わぬ手はそう語りかけていた、ところが相対する私の両足はコンクリートに縫われたみたく動かない。動悸は静まり、汗をかく前兆も失せて久しい。 明瞭な意志でもって立ち止まる私を、通り越し二歩先を行っていた精市くんが振り返った。 「どうしたの」 不思議そうにわずか首を傾げ、後を追わない訳を問う。 私が余程思い詰めた顔つきをしていたのだろう、彼は引いていた手を緩め気遣わしげに、と囁くよう口にした。 それを聞きながら、誰にも弱さを見せないこの人が言いたかった事を考える。 今、一瞬間、ついさっき、それから今日のお昼休み、順に手繰り寄せとうとう入院していた季節まで逆行していった。 強い光を見、閉じた瞼の裏に焼きついた色のような感覚が全身へ伝い渡る。 なかなかしぶとく悩むね、記憶が再生された。 そりゃあしぶとくもなる。 多分私はあの雨の日、数えたら1分と経たぬ狭間で、初めてありのままの彼に触れたのだ。忘れられるはずがなかった。 堰を切って幾多の感情が溢れてくる。 あれは本音だったの。もっと言いたい事があるんじゃないの。あの時も、今も。 今更尋ねはしない、かといって自力で答えを出せるわけでもない、私に可能なのは嘘を吐かない人に相応しく隠さずにいる事だけだ。 空虚だった舌の上に流れが生まれ、ぴたりとくっついていた唇を翻弄していく。 「ごめん。私嘘ついてた」 突然の告白に精市くんは目を丸くし、首だけでなく体ごとこちらに向けて体勢を整えた。 「……嘘?」 穏やかでもなく突っ撥ねるでもなく、真剣味の混ざった声音に背が震える。薄 皮だけを撫でた得体の知れないものを、高揚と評しても決して間違いではなかった。 「美術の授業、鉛筆を落としたのはお昼休みに言われた通り、気を取られてたから。でもスケッチする場所を探してたせいじゃない」 脈略のない話題だ、通じているだろうかと不安になり少しだけ視線を上げれば意図を量りかねている色は非ず、静かに続きを待っている表情が在る。 一つ、小さな息を吐いて触れ合う掌へと目を移した。 「精市くんを見てた」 「え?」 意外だとでも言いたげな反応に再び目線を合わせると、かの人はしきりに目を瞬かせている。珍しい光景だった。 「…よくわかんないけど見つけちゃったから。そしたら鉛筆を落として……その後目が合ったんだよ」 なんで見てたんだい。尋ねられるのがわかっていたので、彼の口元が動き始める前に先手を打っていち早く言葉を重ねる。 「……それで、あの…初めはわからなかったけど、ほ、ほっとしたから、顔見て。中学の時はずっとクラスが一緒だったのに、高校あがってゆきむ…精市くんと別のクラスになって、ええと……違う教室になったから…」 大事な所で呼び間違えた不甲斐なさに唇を噛み締めかけ、歪みの抑制に回ったお陰で、同じ意味を持つ単語を繰り返してしまう。これを混乱と呼ばずして何を混乱と呼ぶのか。 しかしここで立ち止まれば二度と機会は巡って来ないかもしれない、折れそうな心を振り切って、長い間ひそかに零れ続けていたものを形にした。 「さびしかった」 言い終わり一秒と経過しない内に顔から火を吹いた。 実際に発火するなんて有り得ないけれど、比喩としてはこの上なく正しかった。 すっかり忘れ去っていた心臓が元に戻って騒ぐ、手は信じられないほど熱い、だから見つけちゃったんだと思う、とは続けられず喉と舌の付け根が空回り、今のタイミングでいつもの私に戻って来られたって困る、等と制御のままならぬ自分を自分で叱咤する。 恥ずかしくてどうにかなりそうだ。首から上が持ち上がらない。 自然握られた指へ目が行く。 決意し実行に移したそばから、時間を5分前に巻き戻してやり直したい、なんてしょうもない空想が実現しないか大真面目に願う。 即刻走って逃げたいのに現実は一歩も動けずに立ち尽くしている、いよいよ視界が定まらなくなり目が泳ぎ出したかと思いきや、力一杯腕を引かれ、ヒッ、とリアルな悲鳴の為空気が自動的に肺へ取り込まれた。 しっかり繋がれた掌が、丁度精市くんの胸の上あたりまで上げられる。 微量な風が巻き起こり、既に影だらけの辺りに一層暗さが増す。 幾らか緩んだ腕が、縮まった距離を記していた。 怒られる。 根拠もなく何故か決め付けてしまい、下がりっ放しだった顔を咄嗟に彼へと向けひたすら慌てた。 「ごめ」 最後の一文字が生まれ落ちる前に、キスされた。 すべてが飲まれて消え、柔らかく塞ぐ唇は優しい。 驚くほど目の前に精市くんの顔があって、嫌味にも長い睫毛を見ながら、私は息をするのを忘れていた。初めてだったのに、いきなり過ぎて目を閉じるのも忘れた。 許容範囲を大幅に超えた所為か、頭の中がやけにクリアだ。先程までしどろもどろになっていたというのに実に目まぐるしい。 気配がやや遠ざかり、僅かな光が落ちてきた。 そこでようやっと呼吸を取り戻す。 もっとすべき反応があるのだろうが、春の夜陰に触れた口は淡々と紡ぐ。 「……何もしないんじゃなかったの?」 「うん、ごめん」 ものすごく心の籠もっていない謝罪だった。はいそうですね、と流すと同義の響きである。 我が事ながら雰囲気もくそもない酷い第一声だと理解していたけれど、彼も一切の可愛げを除いた声色であったから、つい憎まれ口を叩いてしまう。 「悪いと思ってないなら、謝らないでよ…」 「やだった?」 だけど、悠々とその上を行かれた。 この人絶対に私がなんて言うかわかってて聞いてる。 9割は確信していたが、抗う術はとうに尽きた。 望まれた否定を口にする。 「……………嫌じゃないよ」 嫌だったらなんで付き合ってるわけ。 棘のある口調だったにも関わらず、精市くんが子供みたいに笑う。 やんわり細められ黒く濡れている対の瞳に確かな喜びの色を見て、張り詰めていた糸が切れた。余波により私の口元は好き勝手ににやけ、口がゆるんでるよ、ちょっとは引き締めたら、等といった本意ではないツッコミを受けても直らない。 何度目かは数えていないが、またしても手を引かれ、今度はきちんとついていく。 唇が触れ合った瞬間は掻き消されていた鼓動が帰ってきて、思考も体の変異も思う通りにいかないと身に染みて感じた。 高鳴ったり沈んだり、忙しいにも程がある。さっきから、なんていう括りでは収まらない、今日は振り回されてばかりだ。 彼の手を取った時から始まった、日々の騒々しさに目眩さえ覚えている。 が、嫌じゃないのが困りものだ。 それさえ彼に言わせれば、困るのは嫌じゃない、らしいから、結局あの人はいつも正解を叩き出している事になるのだろう。勝ち負け以前の問題だった。 手を繋いで、精市くんの後ろを歩く。 もう冬の海辺は蘇らない。 駅へ向かっているはずなのにふと道が外れて、行った事のない方角に足が進んだ。不可思議な行動を質そうと、前を歩む人の後頭部へと投げ掛けた。 「どこ行くの?」 「少し遠回りしていこう」 優しげな言動でありながら、事前に了承を得ようともしない。 ほぼ問答無用に近い物言いに、私はちょっと呆れた。しかし今日一日の騒動でまともな神経が麻痺していたのかもしれない、特に異論を唱えず、よりしっかりと掴まれた手を握り返すだけに留まった。声は必要とされていなく、返答はそれで充分なようだった。 指と頬が、あたたかい。 平時と比べて多少早い歩幅の彼には追いつけず、頑張ってみても横顔しか視界には映り込んで来ない。 むず痒い足元を蹴飛ばしてごく近い隣に並び立つ。どうせなら海まで行きたい。突拍子もない無茶振りに、精市くんが笑い出す。たまに思い切りよくなるよね。咎めないのが、度量の広さの顕れだ。 「、門限はある?」 「ない。うちは連絡すれば大丈夫。精市くんこそ、明日早いんじゃないの?」 「まあね。けど、ここまで来て寄り道は良くない、なんてつまんない事言わないでくれ」 「…まだ何も言ってないじゃん」 「牽制しておかないと、後で言ってきそうじゃないか」 「言わないってば!」 「どうかな。なにせ俺の彼女は頑固者だしね?」 「……私のどこを見て頑固とか言ってるの、そんな事精市くんにしか言われないんだけど」 「俺以外の誰かに言われてたらムカつくからそれでいいよ」 「どれ!? っていうかあんまりよくない!」 今から海に行くなら、急がなきゃ駄目だね。私の訴えなどお構いなしに、ゆっくり加速していく歩調と笑声の真ん中を現実的な判断が突っ切っていく。 「走るよ」 「え、本気?」 「が海に行きたいって言ったんだろう、フフ」 「言ったけど、それと走るのと何の関係が……」 「走って海まで行って、後はゆっくりのんびり帰りたいな。はいスタート」 神の子の片鱗が垣間見える厳しさが放たれた。当然抗議をしたが、和やかな微笑みを頂くだけに終わる。人の話聞いてよ。聞いているよ。どこかで交わした覚えのある応酬だ、精市くんにも思い当たる節があったのか声をあげて笑う。それから、俺も寂しかったよと言ってくれた。 相変わらず月のない曇り空の下、耳に二つ分の足音を残こしたまま、私たちは踊るような軽さで駆け出していく。 深まる夜はその冷えた温度で嗜めて来たが、まるで気にならない。 息が荒れて肩が弾んだ。 潮の香りが鼻をくすぐる頃になれば、私は見るも無惨にバテて現役運動部の彼に笑われるだろう。 でも、いいんだ。 呟きを掌に包んで指に力を入れる。伝わる体温を直に確かめられるのは、とても幸せな事だと思った。 ← × top |