背中








だんだんわかってきた事がある。



『大丈夫だよ。何の問題もなかったから』

じゃあ、大丈夫だったの。問うた私に、電話越しの精市くんが笑う。
夏本番を前に定期検査を受けてきた旨を聞き、私は背筋が伸びる思いで携帯端末を掴んでいた。
関東大会を控えたこの時期、万に一つでも異常があれば一大事だ。
私個人の感情に留まらず、ひいては立海テニス部全体にまで及ぶ事件だとすらごく真面目に考える。彼は大体が事後報告なので一気に結果を聞かされる破目になり、ここ数ヶ月で寿命が二年くらい縮んだ気だってしている。
そういう大事なことは前もって教えてほしい、一度頼んだ覚えもあるのだが、別に大事じゃないからさ、の一言で片付けられてしまって以来なんとなく言い出せないままだった。
俺の問題なんだから関係ないよ、と優しい調子で突き放されたように感じてしまうのは、はたして被害妄想なのだろうか。
私じゃなくたって重要視するはずの彼が抱えていた過去はいまだ過去になっていない。
風邪や虫歯みたいに治療が終わったからといってひとまず安心して良い代物ではない事くらい、私程度の人間でもいい加減気がつく。
難病とはそういう事なのだ。
はっきりとした原因も、いつ再発するかも術後の経過も、わからない部分の方が多いのだろう。
それを、大事じゃない。言い切ってしまう精市くんの精神に驚嘆すべきか押し切られてしまう己の不甲斐なさに落ち込むべきか、はたまた両方か。

「ならいいんだけど、せめてちょっと声かけるとかしてくれない? 軽くでいいから、今日検査の日なんだーとかさ」
『なんのために?』
「色々飛ばしていきなり全部を聞かされる身にもなってよ……」
『嫌だなあ、病人扱いだ』
「……してないよそんなの。ド健康体じゃん精市くん」
『わかってるじゃないか』
「わかってるけど! びっくりするから心臓に悪いんだってば」

埒が明かない問答にしびれを切らすのはいつも私の方だった。
微笑み零れた吐息が、電波に乗って耳の芯を掠める。

『俺が何を言っても心配そうな顔をしないのなら、教えてもいいよ』

無茶苦茶だ。
眉間に皺が寄り過ぎて、切り立った崖の表層のような面持ちになった。

「心配するなって言いたいの?」
『してもいいけど、顔には出さないで欲しいかな。俺はのそういう表情、あまり好きじゃないから』
「…………なんかすごい酷いこと言われてる気がする」
『そうかい? むしろ告白に近いと思うけれど』
「精市くんの感性って時々ほんとにわかんない」
『理解し尽くされてに飽きられたくないから、わからないままでいいさ。それに、すべてわかってしまったらつまらないだろう』

私は本当に言いたい台詞をぐっと飲み込み、この期に及んでふざけた声色で人を謀ろうとする彼へ小さな叛旗を翻してみるが、

「……屁理屈。柳くんみたい」
『柳とそんな話してるの?』
「してない。柳くんはもっとわけわかんない事言う」
『フフ、なるほど』

暖簾に腕押し。手ごたえのまるでない反応に失敗を知らされた。
続けたところで身のない話題に貴重な時間を費やしても駄目だ、外れ始めた方向性を戻そうと努めた。

「そしたら、直接じゃなくてもいいから、メールとかで教えてよ」
『ああ、簡単に想像出来るなあ。画面と睨めっこしながら、気遣いばっかりの返信を考えるの姿が』

それの何がいけないと言うのだろう。
知らない事だらけであった中学三年の日々、無神経な上に気遣いの一つも上手く出来なかった分、今度は気をつけようという心がけ自体を精市くんは良く思っていないようだ。
言い回しや声色が、彼女に余計な気遣いをさせまいとする健気なものでなく、俺が嫌だからやめてくれ、みたいなニュアンスを含んでいる。
何度か繰り返されてきた会話の中で、私の疑惑は確かな形を持って行くまでに至った。
至ったが、そこからどうすればいいのかわからない。
もがきながら、次の手を打つ。

「じゃあ普通にわかったってだけ返すよ。メールなら顔も見えないし、いいよね?」
『簡単に想像出来るって言っただろう。そんなのは、見えているのと一緒だよ』
「また屁理屈。実際には見えてないんだから、見えてないのと一緒!」
『見えてなくたって嫌だ。俺のいないところで心配顔されるのなら、直接伝えるより質が悪いね』
「………もうどっちにしろ言ってくれる気ないじゃん…」
『あれ、やっとわかった?』

声は総じて、あくまでも明るく朗らかだ。
脱力せざるを得なかった。
ここまで負けが重なるのも、そうそうある事ではない。

「……よく、わかったよ」
『そう。わかってくれて、ありがとう』

項垂れた私の脳内で試合終了のゴングが鳴り響く。
電話口からの話題が、明日の朝についてへ流れを変えた時、完膚なきまでに叩きのめされた敗北を味わう事と相成った。







季節が日一日と移ろうごと、私たちはたくさんの会話を重ねていった。
今まで何気なく交わしてきた日常に加え、触れる事さえタブーの如く避けていた病院でのエピソードも時には口の端に上った。
内容としてはそう深刻なものではなく、小学生の子と仲良くなっただの誰も来ない日は死ぬほど退屈だっただの、せめて筋トレだけでもしたかったのに周囲ほぼ全ての人間に反対されて渋々諦めただの、怒ると怖い看護士さんから年少の子を庇ってあげただの、実に微笑ましさに溢れていたのだが、無知ゆえに空白だった時間が埋まっていくようで嫌な気持ちにはならない。
厭わず直に語られるのは、彼自身があの頃に蓋を閉じて暗い影にしていない証だと思うから、むしろほっとしたのだ。
だがそうして一安心すると、よそへ目を配る余裕が出てくる。
私は精市くんの力になりたかった。
率直に言えば、いまだに悔いている。
それでいいんだと本人が優しく許してくれているからこそ罪悪感はつのり、精市くんが一番大変だった時期に、誇張なしで役立たずであった自分を思い出しては頭を抱えたくなって、いっそう何か出来る事はないかと躍起になった。
以前は、神の子の手助けをしたいだなんてとんでもない不遜だ傲慢だ、と退いていた所だろうが、微々たるものでも助けになれば何でも良いといったある意味開き直りの領域に達しつつあるので、最近は粘り強いと自分でも思う。
しかし裏腹に、精市くんは叶うのならやり直したい頃の私を他意なく肯定し、そこからなんとしても脱却せんと試みる今の私を柔に否定する。
傍にいるほど深まっていく後悔と僅かでも助けになりたい願いが、いっとう大事な彼自身の気持ちと噛み合わない。

さきの電話で決定的となった齟齬に、私は少なからず落ち込んでいた。
焦ってもいた。
やり方が悪いのかもしれない、考え尽くしたあげく高校一年生にして参謀たる風格漂う人を頼ってしまうのは、当然の帰結と言えるだろう。


「とりあえず、そう思い詰めた顔をするものではない。何事かと思うぞ」

個人的に恥ずかしいと感じる部分や、惚気にしか聞こえないであろう部分を省いて、ひといきに現状を話し伝えた私を見据えた柳くんは淡々とした声色で告げてくる。
精市くんとクラスが離れてしまった代わりにとでもいうように、彼とは同じ教室で学ぶ仲となった。テニス部の面々の中ではよく顔を合わせていた方だし、ともあれ話しやすい人なので、高校に上がってからは相談事に限らずちょくちょく言葉を交えている。友達と言っていいかどうかはわからないから、同級生と位置づけるのがおそらく最も正しい。
もう一人別の意味で会話済みだった真田くんは、幸村と付き合っているのであればもっとしゃきっとせんか、とかなんとか小姑のようで雷親父のような事を大真面目に言い、私が忘れ物や遅刻をしないか目を光らせてきているのでちょっと怖い。
他愛ない会話をするレベルに進展するはずもなく、厳格な風紀委員と落ちこぼれた生徒という間柄のままだ。
あまりの監視体制に、真田くんと付き合ってたほうが絶対厳しくない、相手が幸村くんだからこんなに厳しいんだ、と不平不満を垂れ流し、心中察するが今のは決して精市に言うなよ、と柳くんに窘められたのは記憶にも新しい。

「思い詰めてないよ。打ちのめされてはいるけど」
「それはまた、穏やかでないな」

至極真剣に話しているというに、彼はというと含み笑いさえ浮かべている。腐っていた心がじわりと膿んで、刺々しい物言いになった。

「……いいよもう。どうせ私の一人相撲だし」
「まあ待て。、俺は別に馬鹿にしているわけじゃない。お前の、そのすぐに早合点する所は治した方が良いだろう」

お昼休みにざわつく食堂の片隅で、柳くんは顎に手をやりながら、でないと損をする、と続けた。
私は精市くんとご飯を一緒に食べる為、彼は部活関連の連絡事項があるとかで、二人雁首揃えて食堂にいてくれと連絡してきた渦中の人を待っている。前の授業が移動教室で、は今日も精市と一緒か、と尋ねられたのが発端で道中を共にしたのである。
冷暖房完備の校舎内は外壁が凄まじい日差しを浴びてもなんのその、ひんやりとした心地よい空気を保ち汗をかく隙を与えない。
ただそうは言っても窓際で立っていると流石に暑い、食堂入り口にほど近い自販機のやや横、私たちは影のさ中に紛れていた。
ざわざわと天井付近まで波紋を広げる人波の反響がどこか遠く、確かに床を踏みしめ立っているはずなのにぼんやりと漂ってしまう今の心境を如実に表しているようだ。がこん。音に見遣れば自販機でペットボトルのお茶を購入した女子生徒が取り出し口に手を伸ばしている所だった。
呼気を整え、唇を開く。

「私の考えてる事って、そんなに間違ってるのかな」
「個々人で解の違う問題に正解などないと思うが」
「じゃあ柳くんだったらどう? 鬱陶しい? 迷惑? お前に関係ないだろとかってなる? それともやっぱり私がでしゃばり過ぎてるだけ? 彼女とか好きな子に心配されるのはやだ?」
「……そういう事は、精市に聞け」

端整な目鼻立ちを歪ませた柳くんが少しだけ困った顔で、随分とたたみかけた質問の数々へと反応を返してくる。

「だって…わかんないんだもん」
「何がだ」

精市くんの、と言いかけた所で慌てて唾を飲み込んだ。

「幸、村くんのこいつ鬱陶しいなって思う基準? みたいなものがどこなのか」

切羽詰っていても人前で下の名を呼ぶ失態だけは避けたい、半ば意地に似た理性はきちんと働いてくれていた。

「それこそ俺には答えようがない。精市にしかわからない事だろう」
「…データ集めてるんじゃないの」
「では、俺が問題ないと言えば、はその通りに行動するのか? 今後同じような事柄で悩んだ時、精市ではなくまず俺に尋ね、俺の言うがままにあいつの基準を決めてしまうのか」
「そ、そこまで決断任せたりするつもりないんだけど」
「お前は精市に疎ましく思われるか否かで迷っているんじゃなく、実際に尋ねて己の危惧を肯定されるのが恐ろしいだけだ」

容赦ない。
手厳しいにもほどがある。
悪人を裁くが如し物言いにぐっと息を詰まらせて下を向けば、

らしくないな。以前ならば、それでも尚堪えて真っ向から立ち向かっていっただろうに」

一段声を和らげた響きに鼓膜を揺すられ、突如降った優しさの弾みで視線を元に戻した。

「……私ってそんなM気質だったっけ」
「いいや、惚れた弱味による強かさだと俺は思ったぞ」

さらりと言ってのけた表情に思わず目を見張る。

「柳くん、言ってる事が結構むちゃくちゃだよ。柳くんっぽくない」
「そうか? をよく表現した言い回しのつもりだったのだが」
「だいたい、弱みと強かさって正反対のものじゃないの? 漢字的にも。両立しちゃうものかな」
「その二つを同時に存在させてしまうのが、と精市だな」

さっぱりわからない。昨夜電話で告げた通り、柳くんの言葉は精市くんのそれ以上に難解で理解し難いとの思いを新たにした。
一人納得した様子の人へ何も言えずにいると、情報を整理し終えたのだろうか、さておき、と一旦流れを断ち切られる。

「先程のお前の問いに対してだが」
「……結局答えてくれるんだ」
「精市の味方ばかりしていては公平でないだろう。それに、データ収集するには第三者の立場が最も都合が良いしな」
「柳くんの強かさはどっから来てるわけ?」
「さて、性分だと言わせていただこう」

顔色一つ変えないでしれっと言い置く様子は、いくら話しやすくても畏怖すべき参謀なのだと如実に物語っていた。
かつて友達だった頃の精市くんを思わせる風体である。一緒にいる時間が長いと似てくるのか、元から似た所を持つ人がたまたまテニス部で出会ったのか。

「一般的意見になるが、普通はその程度の事で相手を遠ざけたり、鬱陶しいとぞんざいに扱ったりしない。すなわちお前の懸念は杞憂というものだ。もっとも、対象者――この場合は精市だな、本人にとって相手がどれだけ重要人物かによって結果の異なってくる部分ではある」
「……幸村くんの事は幸村くんにしかわかりませんよってこと?」
「俺は先程も言ったぞ、早合点はよせと」

黙ってろと言いたいらしい。
いや、これも早合点の内に入るのかもしれない。

「更に問題を難しくするのが、精市が一般的解釈に当てはまる類いの人間ではないという事だ。つまり、他者に意見を求めたお前の問いには意味がない。一人で考えるだけ無駄だろうし、また俺に尋ねた所で解決する問題でもない」
「…………」
が、やっぱりわかんないって事じゃん、と思っている確率96%」
「100%でいいよ、合ってるよ」

大した時間立っていたわけでもないのに、足が棒になった心地である。
この疲労感は明らかに精神的なものだと思った。踏んだり蹴ったりだとも思った。

「発想の転換が必要だな」

心の中で海よりも深い溜め息をついた時、それまでの調子とは一風変わった色合いの呟きが耳まで届き、精市くんとは違う方向に整った横顔を目に入れる。
食堂内のざわめきは相変わらず辺りに蔓延していた。

「……なんの話」
「天秤の話だ。以前、言っていた事があるだろう」

神の子の天秤はひたすらに等しく、傾かない。
凡そ贔屓というものが存在せず、あっちを立てればこっちも立てて、素人目に見てもバランスが取れている。

「………うん、言ったけど」

出来すぎた振る舞いに対し、零した覚えがあったので頷いた。

「お前が精市に引け目を感じるのは、その天秤とやらの所為じゃないか? 数多くのものを同時に背負いながら、それでいて何ものも欠く事がなく、苦労などおくびにも出さないで、全て平衡に保つ様を間近で目にした事で慄いている。抱えた荷物の量に相応しく大きな天秤で物事を測り、時にはそれをお前の為に用い、あまつさえ傾けられてしまう気がして近づく事が出来ない」

馬鹿みたいに口が開き、眼前で繰り広げられる理路整然たる弁舌に呆気に取られる。
この人は心理学者か何かか。違うのだとしたら将来目指した方がいいのではないか、なんてちょっと本気で推薦しかけた。

「お前のそれは、コンプレックスに似ているな」
「…コンプレックス」
「ああ。元々の意味は異なるのだが、日本では劣等感という意味で使われる事が多い」

柳くんの言った以外の意味だとマザコンファザコン系しか知らないのだが、ここで用語のトリビアを聞いている場合じゃないと悟り口を噤んだ。
彼は淡白に会話を進める。

「自分は広く大きな天秤へ乗るに相応しい人間なのだろうか。余所の大事なものと比べられ、傾けられるに値する存在なのだろうか。否、違う。とてもそうとは思えない。しかし精市は何者も介さずお前をいたわる。その手に天秤を抱えたまま、な」
「…………柳くんって心理カウンセラーとかなるつもりないの?」
「これだけ饒舌に喋ってしまっては、むいているとは言えないだろう。聞き手に回る事が肝要な職業だぞ」

感心をとっくに通り越えて、私はちょっと呆れてしまった。何から何まで正論で、間違いが見つからない。恐ろしい人がよくもこんな身近にいたものだ。

「だから気が急いて、俺にあのような質問をするに至ったか。お前は特別悪事を働いたわけでもないのに、精市に申し訳ないと思っているんだ。至らなくて悪い、相応しくなくてすまない、もう少しましになる努力をしたいのに何故受け入れて貰えない――そんな所かな」

組んでいた腕を外しながら、光の降り注ぐ窓際へ遣っていた睫毛の先をこちらへ向けて言い放つ。

の考えに対し、正解や不正解を決める事が俺には出来ない。必要がないと言い替えても良いかもしれないな」
「……だから、発想の転換?」

そうだ、と柳くんがしなやかに首を振った。

「正直なところ、俺は精市を公平な人物であるだとか、天秤で何事をもバランス良く測るような男であるだとか考えた事がないのでな、お前の見解には同意しかねる部分もあるのだが……」
「私が間違ってるのってすっごく聞きたいんだけど、聞いたら早合点するなって言われるからやめとく」
「ああ、それは賢明だ」

薄い唇の両端が綺麗に上がった事で、会話を始めてほとんど初めての笑顔だと知る。

「仮にあいつが天秤を携えているとしよう。だがその天秤は万人に向けて等しくひらかれているものではなく、お前が想像するほど大きくもない」

再び腕を組み直し、私の方へと態勢を崩す柳くんの前髪がかすかに揺らめいた。

「何故なら、お前の目の前に差し出される天秤は、いつだってお前の為だけの天秤だからだ」

すぐには意味がわからなかった。
頭の回転が急激に鈍くなって、どうしてか耳や肌が過敏になる。
響く人の声、歩いて混ざる風の温度、遠くの階段を昇降する振動、自販機の稼働音、トレーと食器が擦れ合う、たくさんの上履きが床の上を滑り、全てが濁流のように押し寄せ、身震いしかけるほどだった。
柳くんの言葉を反芻し、眉を顰め、たっぷり十数秒経過したのちにようやく喉を開く。

「………幸村くんは天秤を二つ持ってるの?」
「他にいくつ持っていようが構わない。今重要なのは、お前が見てきた天秤とやらは悉くお前のもので、たった一つしかないという事だからな。それでは総じてどのくらい持ち得ているかなど、どうせわからないだろう」
「…………」
「どこが発想の転換、とお前は言う」
「……私の代わりに言ってくれてどうもありがとう」
「身に余ると感じるほどの天秤に腰が引けると言うならば、お前自身に合った大きさの天秤だと思えばいい。あまり引いて考えず、目の前の事に集中してみてはどうだ」
「それ、すごい視野狭くならない?」
「精市の後ろばかり気にして距離を取るよりは建設的だと思うが?」
「…前言撤回。柳くんは教師になればいいよもう」

そんで私はいつまでも出来の悪い生徒。
図星を指されて悔し紛れに返してみれば、馬に蹴られたくないので遠慮する、等とあっさり反撃をされた。比喩するまでもなく、正真正銘昨日から負けっ放しだ。
私一人が馬鹿みたい。
どうしようもない意地が顔を出し、かすかな羞恥も後を追って来て、逆立ちしても敵いそうにない教師然とした人の見立てを無性に否定したくなった。
磨きぬかれた床を上履きの先で小さく蹴飛ばす。

「……たとえばだよ、たとえばだけど、その……私専用の天秤があるとしても、何を測るの? 私と他のものを比べたら、それって柳くんが言ったようなあの……私の為の天秤とは言えなくない?」

人様に言われるのならまだしも、自分で自分の為の云々と口にするのは、どうにも自画自賛しているような気がして躊躇われる。
そうしてまごついた問いかけに、顔立ちと同じくらい清涼な声でもって答えを撃ちこんで来た彼は、

「お前しか測っていないのだとしたらどうする」

珍しく人の悪い笑みを浮かべていた。

「………私は二人もいないんですけど」
は一人しかいなくとも、感情は数多に存在するだろう。例に出すのなら、そうだな…喜ぶ方と悲しむ方を、天秤で測る事は可能だ。そして大抵がお前にとって良い方に傾いてきたから、精市の順風満帆たる他の事情と釣り合いがとれていると取り違えたというわけか、なるほどな」
「一人で納得しないでよ」
「ここで話を戻すと、だからこそ天秤の大小を混合し、差異を見落としたおかげでいらぬ焦りに駆けていた事に繋がるのだが」
「ちょっと」
、往生際が悪いぞ。本当はお前だって納得しているはずだ」

言い返せない。
出来の悪い私が一人で考えた可能性よりも、天井知らずの回転速度な脳回路を持つ参謀が提示する答えの方が、どこからどう見ても正解に近いだろう。しかし私に都合が良すぎる彼の仮説は居心地が悪い上に落ち着かず、足元はそわそわと動きたがっている。

「……幸村くんみたいな人が、なんで私にそこまでするの」

卑屈な物言いをしてしまってから後悔したが、柳くんは嫌な顔ひとつしないで付き合ってくれた。

「それだけが特別なのだろう」

慰めや世辞を含まない、あまり感情の読めない声だったからこそ、私の胸の中身は影よりも濃い闇へ沈んでいく。
最低、これじゃあそういう言葉を引き出す為に聞いたのとおんなじだ。
自覚した途端に溢れ返った自己嫌悪に喉元を奪われ、たっぷり30秒は沈黙を保ってしまった。柳くんは何も言わない。訝しげにこちらの様子を窺う事もしない。
それがお説教を受けるよりもずっとわかりやすく、いつまでも浸っているんじゃない、と叱咤しているようだと思った。

「柳くんのお節介」
「言っておくが、そうさせているのはお前だぞ」

我ながら可愛げのない、捻くれた返事にも余裕の微笑。
立海大附属男子テニス部は、神の子に続いてよくよく空恐ろしい人を抱え込んでいるものだ。





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