02




常日頃から察しの悪い私でも、お昼から午後いっぱい時間を使えば参謀殿の言わんとしている事はなんとなく理解出来る。
おかげで先生の話が3分の1くらいしか耳に入ってこなかったがけれど、その辺りは柳くんがどうこうというより自分の頭の出来が残念といった話になってくるので、致し方ないとしか言い様がない。
日直だった私は掃除を終えたのちおぼろげな記憶を頼りに日誌を書き、そうこうしている内に無人となったクラス内の窓を閉めて回った為、いつもより若干遅い帰宅と相成った。
教室を出た所で廊下の窓も閉めるべきか迷ったが、ともすればサッシを超え教室の扉まで焼きかねない勢いの輝かしい日差しにやる気が失せてしまう。
誰かが開け放ったままのその窓から、熱気を孕んだ空気が滲んできている。
今からこの調子では真夏なんて一体どうなる事やら、想像すると季節外れにも関わらず些か寒くなった。
角が擦れて白くなった上履きでタイルを踏みつけ、のろのろと歩き出す。
柳くんはたしかにお節介だけど、いい人であるとも思う。
あれはつまり、激励の言葉だったのだ。
確定的な事は言えないと訴えながら、お前は精市にとって特別なのだから気になるのであれば素直に聞けばいい、臆する必要はない、私にとっては非常にわかりにくい言葉で背中を押してくれた。
誰もが認めるデータマン、加えて常勝と名を馳せるテニス部参謀にお墨付きを頂いては、にわかに信じ難い話であっても一蹴するのはなかなか難しい。
また、心強くもあった。
ああも淡々と理論を並べられれば、たとえ嘘だとしても信じてしまうだろう。

けれども、今の私にはうんそうすると頷くだけの気力や自信がなかった。
そう遠くない以前を振り返れば、柳くんのコンプレックスという表現は言い得て妙、しっくりと心のどこかにおさまった。
中3の時、後から知れた事実に後悔し、隣に立つ人を見上げては羞恥を抱いて、周囲の視線に居た堪れなくなり、高校に上がって少しは進歩したかと思えば、恥ずかしいというだけの理由で口調を荒げてしまったり、本当は自ら言わなければならなかった事を先回りした彼に言わせてしまったり、数えても数えてもキリがないほどに覚えがある。
いくつも枝分かれした出来事を辿って行き着くと、大概精市くんがいた。
まだ友達だった日々、どうやって過ごしていたのか思い出せないくらい、私の感情はいつの間にか彼を中心にして回っている。
得意ではない早起きも、放課後の空き時間を予習復習にあてるのも、思いのまま言葉にしないようなるべく気をつけるのも、忘れ物の回数が減っていったのも、彼の為だなんて押し付けがましい理由でなく、すべて現状を変えたいと願う私の意志だった。
真田くんに指摘されるまでもない、神の子と崇められる人と一緒にいるにはもっとしっかりするべきだという事は、多分私が一番よく知っている。
間近で恩恵を受け、赦しを施され、精市くんを好きな女の子たちに複雑な視線を投げられて、時には先生にまであまり幸村に面倒かけるんじゃないぞと軽い叱責を頂戴する私こそが、誰よりも知っていなければならないのだ。
じりじりと腹の中身を焼く焦りは、日毎刺す感触を強める陽光と同じ速さで増していく。
どうしたらいいんだろう。ちょっとだけでいいから、人様に自分はここがすごいんだと胸を張れる所をつくるには。
どうしたら取り戻せるんだろう、あの頃何も出来なかった分を、どうしたら。
頭の端から端を、似たような言葉が幾度も駆け回る。
春よりこちら、表向きは穏やかだったが、それは蓋をしていた所為だ。
たくさんの感情や記憶が入り混じりぐちゃぐちゃになって腐った心を、なんとも作りの悪い蓋で乱暴に覆ったがしかし、突貫工事ゆえ揺さぶりを食らえばいとも簡単に崩れ落ちる。

大事じゃないから言う必要はない。
のそういう顔は好きじゃない。

精市くんの声は柔らかいくせに、とてつもない重量を持ち得ていて、歯軋りするくらい憎たらしいのだ。
だから折角の柳くんの助言も上手く受け取れない。
特別だというのなら、他のどんな失敗やミスも許すのに、どうして心配する事だけが許されないのだろうか。


喉が詰まった。
蓋にひびの入った音が、聞こえた気がした。
山の端にかかるような薄いものと違う、重たく籠もる靄が胸を塞ぎ、あまりの不快感に眉を顰めて足を止めた。
小さな光の粒子までをも反射する廊下に、濃い影を作った夏の兆しに片腕をじりじりと焼かれる。窓は閉まっている。ガラス越しの青は、春先よりもずっときつい色をしていた。
ふと窓の向こうへ捻っていた首を返し、今度は逆の方に傾けると目が合った。
誰などと問うまでもない。
人気のない教室の中、精市くんはいつものように頬杖をつきながら、これまたいつものように興味深そうな瞳をたたえている。
半開きの扉から垣間見える情景は、漫画か映画のワンシーンを切り取ったみたいに整っていた。
中学の時も度々思ったけれど、精市くんはとにかく絵になる人だ。
どこをどう通ったのか自分でも定かではないが、ちょうど彼の教室前で立ち止まっていたらしい。タイミングの悪さに驚愕し、また絶望もする。
なんで、今、よりにもよって。
沈黙は十数秒と続き、やがてあの人の良さそうな笑顔が寄越された。
にっこりと、小首を傾げるような仕草までついてきており、自分の仏頂面がどんどん酷くなっていくのを文字通り肌を感じる。
おまけに精市くんは一言も声をかけず、名前さえ呼ばないのだ。ただ笑っているだけで、おいで、のおの字も口にしていない。だが無言の内に、このまま立ち去るわけないよね、と語りかけてきたのがわかった。
あんたは神か。
毒づくのをなんとか胸に留め、私はすごすごと彼のクラスの敷居を跨ぐ。負けが過ぎるあまり神経が麻痺してきている。

、まだ残ってたのかい」
「うん。日直だったから」

黒板に書かれた文字、後ろの掲示板に貼られたプリント、備え付けられたロッカーの中身や名札。
知らない教室は居心地が悪かった。吸い込む空気のにおいさえも異なる気がして、余計落ち着かない心地になる。
精市くんは窓際から二列目、一番後ろの席に腰を落としてノートらしきものを机上へ広げ、頬につけていない方の掌でシャーペンを握っていた。
作業の途中に気を散らしてしまったのだろうか、一瞬だけ距離を詰めるのを躊躇ったが、

「俺も今日、日直なんだ。偶然だね」

一切を構わぬ素振りが懸念を打ち消し、迷いかけていた足は捕らえられて動き出す。
落書きも傷もなく綺麗に使われている机の手前まで着くと、隠さず開けっ広げになったノートから居並ぶ文字の羅列が見えた。
私だったら一文で済ます授業内容や今日の出来事を、几帳面にも数行に渡り書き記している所が運動部らしい。強豪テニス部の部誌がどんなものか、なんとなく想像がつく。
丁寧でありながら抜け落ちたように神経質さが存在しない筆跡は、精市くんの人となりを端的に表現していた。
肩へ掛けていた鞄を下ろし、後ろ手にぶらさげて持つ。
私の視線に気が付いたのか、さらさらと鳴る音までもが美しい文字を留め置き、彼の瞳の先が指を離れる。

「なにか面白い事でも書いてあった?」

そう言う精市くんのほうが、面白いものを見つけたような表情である。小さく首を振って否定した。

「ううん、丁寧に書いてるなって思っただけ」
「そうかな」
「そうだよ。私、そんなに長く書かない。っていうかそこまで細かく覚えてらんない」
「ああそういえば、中学の時、とても簡潔に日誌を書いていたものね」

とても、の部分に聞き捨てならない色合いを感じ取ってしまい、紐を握る掌に力が入る。
完全に嫌味である。

「すいませんね不真面目で。でも精市くんもいっくら隣の席が多かったからって、そんなとこまで見てないでよ」
「どうして? 見るよ。好きな子の字くらい、覚えていたかったしね。それに、どんな事を書くのか興味があったんだ」

返す言葉を見事に失った。
言いかける声も用意されていないのに、口がぽかんと開いたままになる。
肩から下に籠もっていた力がするすると抜けていく。
そんなの、今言われても困る。
あの頃、恋愛感情の欠片も見せなければ話題にのぼった事だってなかったくせに、何故付き合うようになってから全面に押し出してくるのだろうか。
普通、気持ちの在り処を確かめる為、或いは相手に自分の存在を伝える為、彼氏彼女と呼べる関係になるより前にさり気なく言うものじゃないのか。
不意打ちに近い告白は、現在のみに留まらず過去を遡る分だけ、余計に恥ずかしい。
頬に赤みの差した私の心境を知ってか知らずか、精市くんは少し息を零して笑った。

「お昼の後の古文、眠そうだなと思っていたら、案の定日誌でもぼんやりしていたね」
「……忘れて下さい」
「居眠り癖が改善しているのなら、忘れてあげようかな」

この人の観察眼はたまに本気で恐ろしい。
直接は目にしていないはずなのに、どうしてこうも悉く当ててしまうのだろう、幾度となく繰り返された応酬であってもいまだに疑問だ。
底知れぬ深みにおののいていれば、そうそう、と記憶の連鎖で思い出した様子の人が再び机へ向かいながら続きを告げる。

「日誌といえば、病院にいた頃、使いきった日誌を先生が持ってきてくれた事があってさ」

一区切りつけるや否や、教室の開かれた窓から夏の風が吹き込んで、精市くんの前髪をやんわり揺らした。
涼しいとは言い難い気温の中にあっても、瞳に入る映像は高原のごとく爽やかであり、ちっとも暑そうじゃない。
屋内だというに日差しは肌を刺す。サッシの向こうからなだれ込む光がきつく濃い影を作る。ほとんど同じ位置にいるはずなのだが、見えない壁でも存在しているんじゃないかと疑いたくなる程の差だった。
私の額にはわずかに汗が浮かんで来ている。

「結構なページ数になっていたけれど、あれは何ヶ月分だったのかな。クラスの皆の様子がなんとなくわかって面白かったのを覚えているよ」

机上を見遣る双眸はうつむき、長い睫毛が頬に陰影をつけていた。
柔らかな曲線を描く唇が、、と紡ぐ。

「花壇の事を書いた日があっただろう」

今度は上目遣いになった揃いのまなこが光り、内に微笑を含ませている。

「チューリップとパンジー。春の花壇に咲いている花の中で君が知っているのは、その二つだけ」

懐かしい、というには不適当な声音だ。
何かを慈しむようないたわりが滲んでいた。
私はひたすら押し黙るしかなかった。

「俺はね、嬉しかったんだ。色紙やメールならなんとでも取り繕いようがあるけれど、日誌は違う。気を遣って、お世辞や思ってもいない事を書いたんじゃないってわかったから。大した理由なんかなくてもいい、なんとなく目についたから、でもいいんだよ。誰かが俺と同じ事を気にかけてくれていると思えば、気分も良くなるだろう?」

気にしていたのは私だけじゃない。本当に深い意味もなく眺めていたに過ぎない。
手入れだってしていない。学校に来られない人の気持ちを考えようともしていなかった。
ごく普通の対応を表面通りに受け取って、どんな病気なのかすら知ろうともしなかった。
全国大会までに戻ると言われれば、そうなんだと簡単に信じた。
私には資格がない。
精市くんの優しげな眼差しや声に、頷けるだけの事なんて何もしていない。
そう言い連ねたかったが、一つとして舌の上を転がってくれなかった。

「たとえばそこに俺がいなくても、君の目を通して知る事は出来た」

あれはなかなか楽しかったなあ。
のんびりとした口調には後悔もからかいの色も浮かばず、彼らしさだけが存在している。
至近距離でまともに影響を受けた私はというと、段々息苦しくなっていくお陰で無性に喉を掻きたくなった。

「さっさと学校に行って、確かめたいと思ったよ。何せは、花ならどれも綺麗だよ、なんて平気で言うからね、その辺はいまいち頼れない」

お腹の底をぐるぐるとかき乱されるような不快感が顔を出し始めている。
堪えようと足に力を籠めるほど、締め付けに抗うそれらは質量のみを重ねる。
教室の中はとても熱かった。じっとりと肌に張り付く空気や、あたためられて重くなる風、日毎勢いの増す日差し、すべてが夏の訪れを告げているのだ。
去年の今頃、精市くんは学校にいなかった。
病院という非日常のさ中で手術日を迎え、苦しいリハビリに耐え乗り越えていた。
私は、ただ見ていただけ。
花壇も、屋上庭園の花も、彼のいない教室も、一人欠いてしまったクラスについて話をする先生の顔も、幾度となく交わしたメール画面も、何もかもを傍観者のように。

「まあでも、だから余計に早く復帰しなくちゃとも思ったから、ある意味ではのいい加減さに感謝しないといけないね」
「やめてよ」

いつも通りの人をからかいながらも嘘が混ざらない言葉を、自分で考えた以上に素早く冷淡に断ち切った事に思い至ったのは、完全な否定をし終えた直後だった。
吐き出しても腹の内にある気持ちの悪さは消えてくれない。
瞬間、冷や汗をかいてとっさに精市くんの方へ目を向けたら、逸れずに強い飛ぶ視線とかち合う。彼は怒っていなかったけれど、決して笑ってもいなかった。
それで、ずっと燻っていた得体の知れぬものが狂ったみたいに暴れた。
喉が渇き、確かな痛みを知覚する。視界の隅で揺れるカーテンさえ煩わしい。

「なんでそんな事言うの。私、何もしてない。ほんとに何もしてないんだよ。いっつもいっつも考えなしで、全部なあなあにして、誰かに何か言われたらそれでいっかで片付けて、精市くんに感謝されるような事なんか一つもしてない。あの時は簡単な連絡だってろくにしなかったよ。たまたま席が近かったからお見舞いに行くのが多かっただけ、遠かったら自分から行こうだなんて考えもしなかった。薄情だって怒られるのが普通で、喜ぶほうがおかしいよ」

言いたくない。
他ならぬ精市くんを目の前にして、こんな事言いたくなかった。
けれど、どうしたって止まらない。

「日誌だって、書く事が他に見つからなくて苦し紛れに空白埋めようとしただけだもん、精市くんの事とか考えてなかった。目についた事手当たり次第適当に書いて、ただなんとなくで済まして、それで、だから……。……やめてよ、私のことそんな風に言うの。精市くんには言われたくない。一番言われたくない」

恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
まだ人の残る時間帯、教室のど真ん中で何をいきなりぶち切れているんだろう。
正真正銘の馬鹿じゃないのか。言いたくない事を言わないままでいられないのが情けない。単なる八つ当たりをしているのが腹立たしい。
全部自覚していながら抑えられない未熟な自分を殴りたい。
支離滅裂な言葉の数々も相まって、苦々しい羞恥で体中がいっぱいになって震えた。足元は覚束ない。お腹の中が気持ち悪い。暑い。
出来が悪いにも程がある。
今すぐ逃げ出したい。
恥ずかしい。

「もうやだ」

ぽろと零れた一粒で、ついに頬が濡れた。
視界が醜く歪み、前髪で隠された額に熱が籠もって妙な汗をかく。
絶対に泣きたくなかったのに、と歯を食い縛っても一度伝い落ちたものは取り返せず、かといって新たな雫をとどめられるかと言えばそうではなく、とにかくやる事なす事全てが無駄に空回った。
そうした認識が進めば進むだけ情けなくて涙が溢れ、きっと今は見るも無惨な泣き顔になっているはずだと想像し、それでまた塩っからい粒を飲む破目になる。堂々巡りだ。
いよいよ呼吸まで危うく、しゃくり上げるか否かの瀬戸際となった口元に手をやり、どうにか乱調を正そうと試みた。
その間にも涙がこぼれ鼻は詰まり、う、だか、え、だか最早意味をなしていない声の連鎖が続く。

「…………さ」

耐えられずに下を向いた私の目尻から、重力に負けて零れた水が床に小さな染みを一つ二つ作った時、分厚い膜の張られたように熱と沈黙で満たされていた室内へ彼の声が落ちた。先程までの柔らかさを取っ払い、色を失くした響きだ。
臆した私が様子を窺う為に顔を上げると、

「俺の事大好きだろう」

打って変わって心底嬉しそうな表情で言われ、止める方法を見失ったはずの涙も消えた。
眉は思いきり渋く寄り、鼻の奥がつんとする。
喉に熱い固まりが挟まって唾も飲み込めない。
正直なところ、ものすごく腹が立った。
顎下から上唇までを覆った手は動かさず、目と声だけで力一杯抗議をする。

「……何言ってんの」
「安心して。俺も君が大好きだよ」

あんまりだ。
一瞬で頭に血が上り、言葉を選ぶ余裕さえ潰された。

「バカ! 真面目に聞いてよ!」
「真面目に聞いてるから、真面目に言ってるんだけどな」
「……意味わかんない。ほんともうやだ。精市くんのバカ」

にこにこ。そんな類いの形容が似合いである面持ちで、困ったな、なんて平気で口にするのだから幸村精市という人は信じられない。絶対困ってないくせに。
本来ならば、主題歌の流れる時間帯に盛り上がるシーンのよう、どこかで見た月9ドラマばりの捨て台詞を吐いて走り去ってやりたいところなのだが、テレビの中のヒロインに到底なれない私はというと、再び零れ始める涙と共にかすかに震える足で突っ立っているのがやっとだ。
嫌になる。
まばたきのついでに真っ赤に染まった自分の頬が掠れ見えて余計に泣けてきた。
そうして閉じられた瞳の端から一粒二粒溢れ、重たく腫れぼったい目蓋を持ち上げる途中、相変わらずの微笑みで続きを促すやわらかな眼差しと出会う。
この状況で、続き。
そんなもんあるか、と大いに反抗したいところである。
涙に暮れる事さえ許してくれない彼はとうに日誌を放棄したのか、机上で腕組などをきめこんで見物人の態勢、頭に来ないはずがなかった。

「もうむかつく通りすぎて腹立つ」
「だったら俺の事大好きじゃないって言いなよ」
「いわない! バカ! 不真面目! 人の話聞いてない!」

憤慨のあまり強い口調で言い吐いた直後、精市くんが遠慮なしに吹き出す。どこか嬉しげな目尻はゆるみ、両頬が笑顔の形にやんわり膨らんでいた。
ただのいじめっ子だ、こんなのは。
優しくもなければ、他人が言うほど理想的な彼氏でもなんでもない。
ついに顔を伏せて泣き始める私の耳へ、微笑みに転がりながら放たれた様子の一声が飛び込む。

「ごめんね、もう言わないからさ」

悪いと思っていないなら謝るな。
そう言ってやりたかったのだけれど、嗚咽に邪魔されてわけのわからない単語しか音にならなかった。
無数に滑り落ちる涙で濡れに濡れた顔面を拭い、一刻も早く歴とした反論をする為に深呼吸を試みていると、今度こそ真実困ったよう眉を下げた精市くんが囁くみたいに呟いた。でも俺は、真面目に考えているんだけどな、のこと。

「こっちにおいで」

びっくりするくらい優しい声で私を呼ぶから、俯いていた顔が反射的にあがってしまう。
ゆらゆらと定まらない視界の真ん中に、ぼんやり掠れた形となった彼が座っている。
指で目の下を拭い辺りをはっきりさせれば単なる人影でしかなかったラインはクリアに映り込んで来、無言で隣の椅子を指定しているのがわかった。
知らないクラス、知らない生徒の席だけども遠慮せず座れと言いたいらしいが、そう簡単には飲めないお誘いだ。
誰に怒られるわけでもないのだけれど、なんとなく気が引ける。
窓際の壁にぴったりくっつけられた机の主は隣人の王様オーラに緊張しないのだろうか、などと中学生時の自分を棚に上げて考えたりもした。
そうこうする内に下方で組まれていた腕は緩み、半袖のシャツから伸びる掌が私の肘上あたりを掴んで軽く引っ張る。必然的に頬や口元を隠していた指は下がり、半歩ほど足が前のめりになった。
一連の仕草は、いいから早く、とでも言いたげだ。
非紳士。
ジェントルマンに怒られてしまえ。
こっそり心中で悪態をついて促されるまま、夏に透けるカーテン近く、吹く風の清涼という恩恵を受ける席へと腰掛けた。顔も名前も知らない本来の席主へ、失礼します、と声にしないで断りを入れる。
机の下にあった真っ直ぐな足を通路に投げ出し、完全に横座りの姿勢となった精市くんに合わせた為、窓とほぼ平衡の背中が日差しに焼かれて熱い。
カーテンは気休めにしかならなかった。
依然として小さな子供のようにしゃくりあげる私を視認し、行儀の悪い事に椅子をこちらへずらす人の膝は広く頑丈そうである。頭の中にそのお皿を浮かべ比べてみると一回りは大きい気がした。
同い年のはずなのに、作りも何もかもが違う。
あたかも人間的な出来の差を表しているようで、頼りなく小さな自分の膝小僧をスカートで隠したくなった。

「君は本当に頑固だから俺の言う事なんて聞いてくれないかもしれないけど、そこまでこだわる必要はないと思うな」

のっけからのとんでもない発言に目を剥く。
平時であれば、よく言うよ、程度の罵倒はしているだろう。

「せ、精市くんだ、って」
「そうだね。聞かない。でもそれは、が俺にして欲しい事を言わないからだ」

非効率的に途切れる反論を先回りされたあげく、見事に切って捨てられた。おまけに何かもっとすごい発言が重ねられたんじゃないか、と新たな疑惑が胸をさす。
椅子の背もたれを肘掛代わりに使う彼は、内面に潜む剛胆さとリストバンドの重量を物ともしない軽やかさとを兼ね揃えている。

「……家族や周りの奴らは優しかったよ。俺を傷つけまいと、一生懸命に気遣ってくれた」

室内の雰囲気が様変わりした。
精市くんの唇からこぼれる音色はかすかに低く濁り、それまで存在していた感情の波が取り除かれている。
遠くで冴え渡る蝉の鳴き声、部活動に励む生徒のざわめき、カーテンを揺する風、廊下を通る多くの反響、すべてがボリュームを絞ったように萎み、ついには消え失せてしまう。
充分すぎるほど暖められた背筋を正し両目をしばたたかせれば、いつものたおやかな面差しがあった。
語られる過去と、一つに束ねられた芯のある声だけが異なっていた。
引き際を知らない水滴が頬を伝って下る。

「勿論、それが嫌だったとは言わないさ。嬉しかったし、心強くもあった。けれど時々息が詰まった。俺自身、どうする事もできない苦しさだったから、誰が悪いわけでもない。なにかを責めれば解決する話じゃない、まあ、責めようなんて元々思っていなかったけど」

あくまでも淡々と紡ぐ語り部は、嘲笑するでもなく誇張するでもなく嘘の混ざらない事実を繋げてゆく。
今はもう過ぎ去った日々なのだとひそかに含ませながら、酷い顔になっているであろう私をゆっくり、けれど確かに宥めている。
言い聞かせる意図は見えず、自身の感情や気持ちを乗せたシンプルとも言える声音だ。

「あの時の俺は間違いなく、可哀相な子供だったからね」

息の根が止まりそうになった。
いくら穏やかに振る舞われようとも全身が凍りつく。

「で、はというと、可哀相じゃない普通の女の子だ。君は君で色々悩んでいたと思うけれど、どうせ精市くんと比べたら大した事ないって引かないだろうから今は言わないでおくよ」

言っている。
しっかりはっきり言っている。
日ごろ自ら公言している特別な人との差異を、よりにもよって本人の口から断言されて目の前が真っ暗になった。
比喩ではなく、本当に光が失せたのだ。脳に酸素が回っていない。
そのくせ、自分で言う分には当然の事実として受け取っているのに、他人から指摘されたぐらいで揺らいでどうする馬鹿か、などと己を非難する心の声だけは響くのだからうんざりする。
ショックで言葉をなくし、またしても一粒ぼろりと涙を零す私を見つめていた精市くんが、更に少しだけ眉を垂らして微笑んだ。どうにも珍しい事だが、本格的に困っているらしい。

「ねえ、。どうして普通と言われるのがそんなに嫌なんだ。それでいいんだよって、肯定されるのを恥ずかしい事だと思うの。特別になりたい? それじゃあ、特別って何? 普通って何だい?」

ごく当たり前の事をごく当たり前にするのが普通というのなら、俺だって普通だ。
周りが何と言おうが関係ない。

「入院中変わらずにいるように見えたのは、よく君が言うように普通、だったからさ。どこにいても俺は俺だよ」

知らぬ間に声からは淡白さが抜け、元あった感情がすっかり舞い戻って来ている。
優しく撫でる声色に、ひくついていた腹と喉もたまらず黙り込んだ。
わずかに膨れたカーテンが背を押す。揺らぐ光が瞳に反射し、ゆるゆると煌めいている。
色濃く伸びた椅子や机の陰が風景へ割り入り、床に縞々模様を作っていた。
再び明かりの灯る眼前、受けたありったけの日差しを逸らさずこちらへ寄越すような温度で、精市くんは両のまなこを細めたのだった。

「君だけだ」

ともすれば聞き落としてしまう音のやわさに、肩が震える。

「同情も、何の拘りも、どんな含みもなく、俺の復帰をそのまま信じてくれたのはだけだったんだ」

ふいに形のよい瞳が伏せられ、睫毛が下を向いた。
あらぬ方向を見詰める彼の眼差しは尚も安らかだ。
そこで初めて視線を外された事に思い至った。

「その君がどうして、俺が過ごした中学最後の年月を、まるごと傷物扱いして片付けようとするんだ。あれは傷じゃない。そういう類のものじゃない。俺の時間は、傷ついてなんかいないんだよ」

最早、慰めようとする意図もこちらを気遣う優しさも、誰かを言い聞かす色合いも存在していなかった。
ただ芯の通った、真摯な響きばかりが残っている。
私はじっと見た。
いまだ涙のたまる目で、けして嘘をつかない人をつぶさに見つめた。
やがて瞳をあげた精市くんと視線が絡み、計ったようなタイミングでふちでは堪えきれなくなった雫がひとつ溢れる。どうしようもなく泣きたい気持ちはこの短い間で消えてしまっていたから、ただの置き土産だ。感情の含まれない涙に私は頓着しなかったが、精市くんはというとまだ困り顔を保っていた。弁解をしようにも閉ざされた唇が重く、なかなか開いてくれない。
状況を知ってか知らずかわからないけれど、宥めすかす声音が蘇り鼓膜を打つ。

「君がいつも通りだったから俺もいつも通りに振る舞えた。君が嘘をつかない子だから、俺も嘘をつかなくて済んだ。そんな風には考えないのかな」

やれやれとでも言いたげな、しかし子供を叱るような柔らかい物言いに、侮られたと怒るべき場面なのかもしれないが、先刻までたくさんの色が混ざりぐちゃぐちゃになっていた胸中は嘘みたいにまっさらになっており、憤る理由が白く塗りつぶされて反論のはの字も浮かばなかった。
彼の口から、ほとんど初めて語られた当時は予想の遙か上をゆく。
素直に頷くには自信が足りない。
けれど、周りの人の心遣いをすべて否定するのだって難しい。
なんとか知恵を絞って想像するしかなかったリアルな感触をなんとなく掴む事が出来たその瞬間、涙と吐息が確かに止まった。
やがて吹き返せば、言うべき台詞など決まりきっているのだった。

「…………すみませんでした」

妙に鼻にかかった、なんとも抜けた声である。おまけにいつぞやの屋上で繰り広げた教師と生徒のようなやり取りの再現だ、進歩のなさが死ぬほど情けない。
光を帯びる瞳が微笑んだ。

「フフ、わかればよし」

ふざけた声音が体の中まで打ち響き、いつも通りの空気が帰ってきたのを知る。
彼にしてみれば相当のわからず屋と対峙していたに近いだろう、それでも怒りや呆れといった負の感情は顕れていなかった。唯一挙げるのだとすれば、困った表情くらいだった。
ややあって、今結構すごい感動的な事を言われてしまったんじゃないか、と考える私はやはり頭の回転数が人様より一段劣っている。
お腹の底からにじり寄り、喉を押し開け、込み上げたなにかを必死で飲み込んだが、手に負えなかったいくつかのものが目の端からこぼれ出してしまう。
さっきとはまるで違う種類の涙だった。
あたたかいけれど苦しい、苦しくても嫌ではない。
自らの辛い記憶を傷ではないと言い切れるほど強い人が、君のおかげだと、私だけだったと信じても良いのだと言うのは、とても嬉しいことだった。
他の誰に浅ましい、考えなしだと罵られようが、自分でもちょっとびっくりするくらい嬉しいことだった。
多分精市くんは、今までだって暗にそういう事を言ってくれていたはずだが、気づくのが並より遅かったのは完全に私の落ち度だろう。

「本当、は察しが悪いね」

心を読まれたかとあやぶむ台詞と共に、旋毛あたりで体温の灯る大きな掌を感じる。
男の子にしてはつややかな指先が髪を撫でていく。

「でもその分よく話し合うからね、齟齬がなくなっていいよ」

ゆっくり遠ざかる温度を気配で追う一方、でも、と思考の海にもがく自分がいた。
精市くんがそんな風に言ってくれるからこそ、信じきってはいけない気がしている。
そばにいたいと願うのなら、信頼とは別のベクトルで疑う勇気を捨ててはならない。
彼が嘘をついていないというのはおそらく真実だろう。口に出すのは常に正直な気持ちで、偽りを並べたりする人じゃない。それはもう、嫌というほど身に染みてわかった。
けれど、じゃあ。
(言葉に出さないところは?)
有り得ないと断言できるのか。胸の内をすべて打ち明ける人間など、存在するだろうか。
ふとした瞬間に振り向けばターニングポイントだった声がいとも簡単に再生される。
は、俺の言う事なんでも信じちゃうよね。
雨のそぼ降る暗がりの廊下で聞く事が許された彼らしくない一面は、子の父たる神が与えてくれた機会だったのかもしれなかった。
あの頃はただ怯えるばかりで向き合う余裕はなかったが、今となっては感謝の念すら覚える一寸の隙だ。
精市くんを知るには、そばにいたいと願うには、欠かせない要因のひとつのような気がしている。
傷じゃない。
どこか遠くの見据えた強さの伴う言葉を疑う余地などなく、信じるという選択肢に待ったをかけるつもりもないが、形になった感情の裏にはきっと幾つもの想いが隠されているはずで、それを知ろうとし考える事を忘れてはならない、しっかりした気持ちを心の真ん中に打ち立てた。
傷跡はもう残っていないとしても、彼の過ごした時間は傷ついていないとしても、精市くん自身が無傷のままでいられたかどうかはわからない。
100人中100人は強いと評するであろう目の前の人が口にしてくれなければ、何もわからない。
言葉としてあらわれないものを、真実に近い形で察するなんて器用な真似、私には出来ないから。
単なるクラスメイトでしかない女子に、たとえほんの1ミリ程度にしたって本音を吐露してしまった精市くんが、何の苦労もなく復帰したと信じる事は出来ないから。
煽られたカーテンが僅かに膨らみ、背中いっぱいに熱源がぶつかってくる。

ああ、そっか。

突然、腑に落ちた。
ただただ恐れ敬い、距離を計って周囲の目に怯え、ちょっとでも踏み込むのを躊躇っていた以前の自分が影を薄くし、マイナス方向への意味でないと言えども疑うべし等と平気で決意できる程この人を好きになっている。
だからあれだけもやもやしていたのだ、心配は必要ないと告げられ、勢い余って第三者の柳くんに相談するくらい混乱していた。今まではずっと私の方が引くばかりで、精市くんはひたすら鷹揚に笑ってそこにいて、厳しい態度で誰かを拒絶するシーンなんていまだかつて目にした覚えがなかった。
もしかすると私の被害妄想で彼にそのようなつもりはなかったのかもしれないけれど、ほぼ初めてと言っても過言ではない、精市くんから築かれてしまった壁にショックを受け図々しい事にも傷ついたのだと冷えた頭が判ずる。
思い上がりも甚だしい。
己を罵倒する一方、傷ついたり叶わない事をどうにかしようと足掻いたり、穏やかなNOを突きつけられるのは、距離のなさ、近さゆえなのだと知って喜びに胸がつかえた。
多分言えば笑われる。
問答無用でからかわれて、しばらくはしつこくネタにして来て引っ張られるに違いない。
是非とも遠慮したい未来が映り、しかしすぐ傍で黙ったままこちらを見遣る精市くんへどうにか返答しよう、乱れのすっかりおさまった唇を開きかけたまさにその時、

「っわ!」

吹き込んだ強風を受け、今日一番の広がりを見せるカーテンに遮られた。
一緒になびく髪の毛を慌てて押さえ、天高く持ち上げられた布の端が音を立てはためく様が視界に入る。
隣の机で開かれていた日誌さえ数枚めくられており、ノート自体がふっ飛ぶんじゃないかと危惧する私をよそに精市くんが立ち上がった。椅子の足が床を擦るのと同時、弱まった風が舞い踊るカーテンを少しばかり下へおろしたお陰で、彼の姿はお腹あたりで断ち切られてしまい上半身が膨らむ幕に隠れて見えない。
歩幅ひとつ分、距離が縮む。
白い制服が目の前まで迫る。
行動の意図を掴めぬまま座っていれば、からからと窓が閉められるのがわかった。
途端、空気の流れも煽られるカーテンも息を潜めたが、代わりに窓際特有の涼やかなにおいが失われる。
荒れ果てた髪に半ば呆然としながらお礼を言おうとしたら、またしても埃っぽい例の布に邪魔をされた。風が絶えれば当然、そういう事になるだろう。
とっさに除けようとした私より早く、リストバンドの黒がよく似合う腕により教室内の風景は戻ってきた。
違和感を抱くほど恭しい手つきで避けられたカーテンが、すとんと背後ろに落ちた。
左手は窓枠にでもかけているらしい、半袖の先から伸びる長い腕が目横を通っている。
ようやくありがとうを告げる為やや屈んだ姿勢になった精市くんを見上げようとすれば、学校指定のネクタイが開けた視界へ降り落ちて来、戻しかけていた両手が固まる。
重力に従って真っ直ぐ垂れるその先端が、私の胸にある同じものと触れ合った。
びっくりして首を上向ける。
唇を掠める温度。
もっとびっくりした。
白昼夢か何かかと信じそうになるくらい一瞬のキスは、長さに相反してどうしてか甘い。
まろやかになった日差しの中で私を見下ろす瞳が微笑みにたゆたい、妙な角度で止まった首が遅ればせながら痛み始めた。
喉元手前に突きつけられたようなネクタイはごくゆっくりと離れていき、伴われる軽い質量も触れていた所を空にする。
さっさと体勢を戻した精市くんは、可愛らしく小首を傾げて笑うのであった。

「ごめんごめん、可愛かったからさ。俺、の笑った顔が好きだと思ってたけど、困ったとこ見るのも好きみたいだ」

このやろう。
ついさっきまでの殊勝な心構えがどこへやら、毒づく私は仏頂面になった。

「……微妙に嬉しくないし、素直に喜べない」
「大丈夫、しかめっ面も可愛いよ」
「そういう意味で言ってない!」

食ってかかられようとも何のその、一切ダメージを受けた様子など見当たらぬ人がついに声をあげて笑い出す。好意を伝えられ喜んでいいはずの場面なのに、素直にときめいたり出来ないのは一体全体どういうわけなのか理解に苦しむところだ。
言いたいだけ言って気が済んだのか、くるりと背を向けた精市くんは机上にあったノートやペン類を素早く仕舞い、ずれつつあった椅子も正しい位置へと片付けた。
書きかけだとばかり思っていた日誌はとうに終えていたらしい。
こういう所が抜け目ない。更に加えると、にくたらしい。
真剣に考えていた頭の中身に思い切り水を浴びせられた気分になっていた私は、懲りる事なく悪態をついていた。気づいている可能性の方が高い人は、平気な顔をして前方の窓を閉めて回っている。
返す返すも、にくたらしい。
きっちり仕事を完遂して席へと帰還し、ラケットバッグを軽々背負った彼が振り向きざまにこう言った。

それじゃあ行こうか、と言いたいところだけど、は何をそんなに怒ってるの。

向こう二ヶ月分のお小遣いをかけたっていい。
もう絶対、確実に、100パーセント、私の答えをわかった上で聞いている。
足元の鞄を引っ掴み椅子から腰を離して、どうにかこうにか出し抜けないかと画策したが、わずか過ぎる時間では無謀、ならば否定は捨てて、攻めも諦めるのが得策。
逆に尋ね返してやれと睨みをきかせたまではいい、けれども脳裏に焼き付けられた情景が言うべき台詞を奪ってしまった。
最悪の選択を悔いる暇さえなかった。

「なんでいきなりするの」
「やり直すかい?」

捻られた首から半端に垣間見える喉仏が上機嫌に動く。
無防備な所へ一発張り手を食らわしてやっても、痛い痛い、などと嘯く背中が楽しそうに揺れるばかりである。





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