彼女

エクスクラメーションマーク






傘を忘れた女の子。
それが彼女に対する最初のイメージだ。



「うわ真っ暗」

校舎の外へ出る前からマフラーを手繰り寄せるが不意に零した。
冬の暗闇は薄明るい室内灯の向こうで鎮座している。光の類一切を飲み込むので、見慣れた風景が暗幕に覆われているようだった。

「今日は遅くなるって言ったろう」

誰もいない昇降口ではそう大きな声を出さずともやたらに響き、天井近くまで立ち上りぐるりと回って落ちてくる。反響が廊下の隅々まで届くのでないかと危ぶむ程だ。
ガラス扉越しの暗さに気圧されていたらしいが、だから待たなくていいとも言ったね、続ける俺をねめつけた。

「……そういうわけにはいかない時だってあるの」

反論になっていない。
思わず笑うと頬の辺りにぶつかる視線が強くなったが、さしたる威力も感じなかったのでそのままにしておく。

「うんごめん、今のは俺が悪かったよ」

ただ、寄越されるやや回りくどい否定と反応をあえて引き出した自覚はあるので率直に謝った。声がつい弾んでしまうのはご愛嬌、その場しのぎで心の籠もっていない言葉ではなかったのだが謝罪を受けた当の本人は納得しておらず、心にもない事を言うなとばかりにしかめっ面で自分のロッカーへと足を速めてしまう。
中等部ではクラス替えに席替えにと縁があったというに高等部に上がってからこちら、俺とは一度も同じクラスになっていなかった。
単なる予感でしかないがこの分だと春先、三年生へ進級しても別の組になりそうだ。
よって今までもこれからも部に注ぐ時間の多い相手と過ごすには今日のよう片方が合わせる他なく、その為のから持ち掛けてきた約束である。
待ってるっていうか……適当に時間潰せるから一緒に帰ってもいい。
聞かれて断るだけの理由が俺にはない。形としてはこちらが許可を与えているようだが大層熱心に口説かれたわけでもないのに押し切られているのだから、結局の所の方が優勢な気もする。
ばこん、と鉄製のロッカーが開く音を耳に入れながら、この室内にまで忍んでくる冷気はさぞ堪えるだろう等と冷え症の彼女を案じた。







中学二年だった。
ちょうど梅雨時の朝、名前と顔しか知らなかったクラスメイトは、なかなか豪快にドアを開け放ったのである。
一体何をやり遂げたのかは知れぬがひと仕事終えたと言わんばかりの顔つきが、日誌を書く俺に気付くや否やみるみる様変わりし小さく縮こまっていく。
まだ登校している生徒もまばらな時間だ、室内に人がいる可能性を考えていなかったのかもしれない。
ところが先日初めて隣の席になったその子は肩身の狭そうな表情を浮かべつつ、躊躇わず真っ直ぐに歩を進めてくる。思い切りが良いやら悪いやら。つい動作を見守ってしまっていると雨に降られたのが見て取れ、俺にしては珍しく驚きが顔に出た。

「どうしたんだい、濡れてるけど」

尋ねれば、傘を忘れてバス停から走ってきたのだという。コンビニも素通りの一種の武勇伝に笑みが零れ、好きにテニスが出来ない雨天の憂鬱が少しばかり晴れる。
先程の扉もそうだがどうにも勇ましい。あんまり生き生きとしているから風邪の心配をする暇もなかった。
他愛ない言葉を交わしつつお隣さんの様子を眺める。と、挙動だけで己の不明を語り始めるので、釣られた唇がいとも簡単に言葉を滑らせた。

「ハンカチも忘れた?」

今日初めて口をきく隣人に言い当てられ項垂れる首筋と背中があんまりにもしょげていて、他人の不幸を笑うような真似は良くないとわかっていても口角が独りでに上向いてしまい、気付けば未使用のタオルを差し出している。
ややあってぎょっと目を剥く同級生の顔はこう言っては何だが面白い。
これだけ主張をする雨音と湿気た空気を浴びておいてどうして傘を忘れるんだ、顔ばかりか心でも笑いながら、きっと家を出る時はまだ降っていなかったんだろう、正解に近いであろう予想がよぎり舌が機嫌よく滑っていく。
人見知りをしない質らしい彼女と気安い応酬を繰り広げるさ中、俺は好奇心が芽吹くのを実感した。


端的に言えば友人だ。
後日丁重に貸したタオルを返却してきたクラスメイトは、些末事はまず捨て置き心のままに動く、つまり思慮深さからは程遠い子で、それが逆に話しやすかった。
変に気後れしない。
神の子と中学生らしからぬ通り名を戴いている俺が相手でも遠巻きに見たりせず、かといって一切の尊重をしないかと言えば否、色恋混じりの熱視線や態度等は微塵もなく、異性を意識させないが確実に女の子ではある、不思議な級友。
俺も彼女も元より人見知りをするタイプではないにしろ、馴染むのは早かったように思う。
帰り時刻が重なれば一緒に帰り、時間が合うと他のクラスメイトや部の奴らと交わす雑談とはまた違った話をして、時折メールが来たり送ったりと近すぎず遠すぎずの距離で居続けたのだ。
そうして交流を深めていく内、段々わかっていった事がある。
嘘をつかない。というより、つけない。顔にも出る。
すごいと思えばすごいと口にし、良くも悪くも素直だ。
感じた事や気持ちの大概は、脳を通さないですぐ言葉にしてしまう。
考えなしの自覚があるらしく、時々自分でも落ち込んでいるようだった。
雨に降られれば濡れて最悪と顔を顰めるのではなく、思ったより濡れなかったな、で済ますタイプだ。
忘れっぽくて、検査の日なんかは結構な確率で風紀委員に呼び止められている。怖そう厳しすぎるいかついと女子からは敬遠されがちな真田相手でも忘れてしまうものは忘れてしまうようで、何度となく叱責を受ける場面を目撃した。
、ちょっとは学習したらどうだい。
笑いつつ欠点を指摘したも同然の一言を掛ける。俺に図星を指されてぐっと返答に詰まってはいるものの、傷ついた様子はない。
どうしたらいいと思う、幸村くん。もう忘れ物ノートとか自作したほうがいいのかな。
真剣極まりない表情にまた可笑しくなって、なかなかの打たれ強さが好ましかった。

一緒にいて気楽だったのだ。
約束や決まり事がなくても別段困らない。二人揃って気が向けばという曖昧な前提の下、友人としての認識を深める。窮屈に捕らわれず、いつもそのままでいられた。


果たして心地良い感覚は暮らす日々が病室に移ってからも続いた。
クラスの皆からの色紙に頑張って、応援してる、待ってるよ等々のメッセージが並ぶ中、日記じみた一言を記して寄越す。これはきっと、発案者もしくは責任者のクラス委員や担任やらは渋い顔をしただろう。想像して笑みが零れた。
当番制のようなお見舞いが始まって、席替えをしても毎度近い位置を引く彼女は度々病室に現れる。
最初は慣れない場に放り込まれた野生動物さながらの雰囲気であったのが、再会に相好を崩した俺を見るや否やほどけていく。あっさり釣られたに違いない、素直である。が、俺も俺でごく普通の会話をし学校でよく聞いた挨拶と共に帰っていく彼女に感化された面もあるので、どうこう言える立場ではなかった。

は、何も変わらないんだな。

ある日ふと気付く。
学び舎でも病院でも彼女は彼女のままだ。けれど、それが当たり前なのだとも思う。
たとえば引っ越した所為で人と成りが激変しないみたいに、本当の性格や気性はそうそうひっくり返りはしないのだから。特筆するまでもないシンプルな事実だった。
だけどそうして常に自分のままでいるのは、そんなに簡単な事じゃない。
長引く入院生活の中で俺は俺の中身が揺らいでいくのを嫌という程味わい、病に倒れなければ一生知る機会もなかったであろう耐え難い夜を幾度となく越えて、一人だけ冬に残された感覚に取り殺されかけても尚、自分自身が信じ思い描く、かつてはこうだったと記憶している己を掴み続けるのは至難の業だった。
保証などない。
誰も裏書をしてくれない。
将来への証明書は何処にも存在していなかった。心の中にでさえ、記す場所はなかった。
先々について語る事を一切禁じられたかのように俺も周囲も黙りこくって、明るいはずの未来を闇雲に信じる他なかったのだ。

俺がどうなってどんな思いを抱えていても、お構いなしに変わらないクラスメイトの女の子は能天気にやって来る。
また席近かったよ。私今度は幸村くんの前の席。
ノートにプリント、託された見舞い品の数々を差し出すさ中、響く声色が教室や廊下で聞いた通りだった。
体力測定で転んで膝に擦り傷を作る。テストが赤点ギリギリでやばかったんだよ、言って笑った。屋上の花壇になんだかよくわからないけれど綺麗な花が咲いていたと、あやふやな報告をしてくる。学食の新メニューが美味しかった、語るのん気な表情。
一度、話している最中にしゃっくりが止まらなくなって、古今東西知る限りの止める方法を試したあげく、一つの成果も得られなかった事があった。
話してはつっかえ水を飲もうにもしゃくりあげいよいよ苛々が頂点に達したのか、もういい幸村くん私の背中思いっきりはっ倒して、仮にも入院患者である俺に険しい顔つきで迫る。
想定外の頼みごとに流石に躊躇ったが、貴様がやらぬのならば病室の壁に背を打ち付けるぞと主張しかねない剣幕だったので二、三回叩いてやった。制服越しに触れた背中は丸くて柔らかかった。沈黙と共に数秒待ち、彼女の眉間に深く刻まれた皺が取れ掛かってきた所で、ひっく、再発し虚空を睨み付けて呻いた。
もうやだ、なんなの。
結局治らぬまま帰っていった彼女からのメールで、道すがら買ったミネラルウォーターをがぶ飲みして解決したという事の顛末を翌日知った俺は、笑いを殺しきれずに噴き出したのである。

そこは教室だった。
立海大附属の、慣れ親しんだ校舎。
廊下で、校庭で、階段の踊り場で、帰り道だった。

味気ない病室がかつての日常になる。失くしたと思っていた、どんな顔をしていたのかわからなくなっていた学校での自分が綺麗に蘇るのだ。
ひょっとすると病を忘れる程に何も考える必要がなかった。特別意識する事もあまりなく、他人を笑えないくらい能天気になっていた一瞬が確かに存在した。
だけど、だからこそ俺は時々、この友人が憎らしかった。
君は俺とは違う。
こんな狭い部屋に一日中閉じこもっているだけの、俺なんかとは。
変わらないままでいられる彼女の幸福に感謝すると同時に、行き場のない苛立ちに蝕まれる。一緒にいるから立ち行かなくなりそうになって、でも過ごす時間は大切なものだった。
初めて話した朝に似た雨が降った午後、軽い弾みで浮彫になった本音を露わにしてしまい、空気が凍る音を聞く。
ただの友達でしかない、それも同い年の女の子に向けるべき言葉ではなかった、重々承知していても切れた糸は戻らない。

「幸村くんってすごいね!」

愚直なまでに俺を信頼し、言われた事を全て鵜呑みにするのではと思わせる心根が胸の奥深くに障った。
釣られたとはいえ入院前と変わらずいつも通りでいたのは俺で、結果として彼女にそう信じ込ませたのも俺なのに、子供が起こす癇癪のようにいきなり突き放したのだ。
嘘をつけない友人は純粋に喜んでいた。
俺の発言に感嘆するばかりであった瞳は見る間に輝きを増し、長らく席を空けていたクラスメイトの復帰を全面的に迎え入れて、誰の、何の根拠も保証もない、訪れるかも定かではない未来を真新しい夜明けのように感じているらしい。
聞かなくてもわかる。
確かめなくとも間違いはない。
断言するに足る時間を、俺達は共有してきた。

は、俺の言う事なんでも信じちゃうよね」

信じるな。
見ないでくれ。
彼女の瞳はかつての俺だ。
今まさに失いかけているものがそこにはあった。苦しくても喜びと楽しさに溢れた明日が必ず巡ってくると何の疑いも抱かずにいた、好きな事に好きなだけ打ち込んでいられた頃の、今はもうおぼろげで遠くなってしまった過去。
むざむざと思い出されるのは辛く、気負いなく信じてしまえる彼女が腹立たしい。自分にはないものを持っているのがみっともないくらい羨ましかった。
真正面から目が合う。
え、の形に開きっ放しの唇が固まる。
ただこちらを見上げる一方の視線は動かないが、ほんの僅か震えているように感じた。
言うだけ言い連ね温度のない声をぶつけていれば、薄暗い雨降りの午後、院内の灯りに照らされた顔色が蒼白に染まっていく。
密やかなざわめきが急速に遠ざかった。
有り触れているようで何ものにも代え難い時間をくれた女の子は、声もなく息もせず立ち尽くす。小さな手でスカートの裾を握り締めており、無闇に開閉を繰り返す唇は酸欠状態に陥った魚を連想させ、全てを眺め通すだけの俺はやがて訪れるであろう返答を待つともなく待つ。
たったの数秒が永遠に終わらないのではないかと思われるその間も、彼女は懸命に何か言おうとして、しかし悉く失敗していた。
目だけが逸れない。逃げていかない。
ああ、まただ。
不意に懐かしさが胸の内へと去来する。
一年前の梅雨、朝の教室、気まずい表情を浮かべながらも躊躇わぬ足取りで、ただ真っ直ぐ隣の席にと歩んできた姿が今と重なった。
迷えばいいのに、避ければいいのに、思っても決してそうはならない。
実際迷い、逃げたい気持ちもあるだろうに、人知れず抗う俺の友達。
変わらないのだ。こんな時でも。俺がどうなっても。
彼女の本質はきっと健やかに在り続ける。今までこちらの事情等関係なしに顔を見せに来たように、病室だろうと何処だろうと他愛ない話を広げたみたいに、あらゆる思慮や配慮と関わりがない。些末事だと放って考えなしに笑うのだ。
気が抜けるのは早かった。
脱力して初めて無意識に張り詰めていた事を思い知る。
なんだか全部が馬鹿馬鹿しい、とぐろを巻いていた重たい思考も軽くなって、次に込み上げたのは空気を弾く笑声だ。
留める間もなくほとんど勝手に飛び出していく。可笑しくて仕方がない。
ひどい顔だの何だのと暴言を浴びせられた彼女の顔がどんどん険しくなっていっても、ムカつく、言い返されても、胸をつく爽快感は消えなかった。心の底から大笑いなんていつ以来だろう。

「学校卒業して社会に出る前に、もうちょっとしっかりしなきゃ駄目だね、

あまりにも愉快だったので今のは嘘だよと嘘をつき、ついでに釘も刺しておく。
美徳には違いないが、苦労の元にもなり得るからだ。しかし言われた傍から俺の言葉を真に受ける彼女はやっぱり考えなしの素直な子である。
病室のベッドでしこたま植え付けられた毒が姿を隠し、暗所へ沈む思考の網から抜け出して今だけかもわからないが身軽になった俺には、ひたすらの感謝と尊重しようという決意しか残っていなかった。
気が塞ぎがちになる雨の日、見舞いに来たのがで良かったと心の中で独りごちる。

「じゃあ、またね」

ついさっきまで真っ白な顔色をしていたくせに聞き覚えの有り過ぎる一言を残していくのだから本当、彼女には敵わない。
俺はまた笑って、つとめていつも通りに手を振りながら見送った。



浮き沈みがなかったわけではない。
手術とリハビリはやすやすと乗り越えられるものではなかった。
それでも周りから貰った力で全国大会へ間に合わせるのだと一心不乱に突き進み、復帰の実感を噛みしめながら、焦がれ続けた尊い夏を取り戻していく。
熱の入れようは我ながら凄まじかったと思うから、忘れていたと言うのが正直な話だ。
テニス漬けの毎日に顔を浮かべる暇はなく、折に触れて今何をしているか等と思いを馳せる間柄でもない、俺がどうなろうとも変わらず過ごすに決まっている友人の事は、薄情なのかもしれないけれど頭の中から転がし落としてしまった。
あの梅雨の午後以来、メールでさえ話をしていない。見舞いにも来なかったので席が遠くなったのだろうなと自己完結し、雑に片付けていた。

「あっ幸村。すごい試合だったな、お疲れ様!」
「みんなで応援してたんだよ」

唐突に思い出したのは全国決勝を終えた後である。
帰り支度をしている最中、クラス委員の二人がわざわざ健闘を称えに来てくれ、敗北しても残った感謝を口にする。

「そうなんだ、ありがとう」

笑って受け答えする俺に、興奮冷めやらぬといった表情のクラスメイトが続けた。

「連絡網なんて回してないのにね、当日会場来てみたらクラス全員集まってたの。すごくない? 私びっくりしちゃった」

応じる前にどこからともなく降って沸いた。
へぇ、じゃあも来てたのかな。
ともすれば欠片も残さず振り落としていた人の名前をすぐさま辿り、観客席の方へ視線が向きかけた所ではっとする。
(……なんで真っ先にが浮かんだんだろう)
何ヶ月も口にせず心で呟きもしなかった名が再生された途端、関連する様々が蘇って止まない。
席替えはどうだった。今の席が近いのか遠いのか。
メールが途絶えた理由、話をしていない間に起きた事、決勝の会場に来るのなら連絡くれれば良いのに、そういえば屋上の向日葵が綺麗に咲いたので見せようと思っていたんだ、次から次へ押し寄せる。
一体何処に隠れていたのかと我が事ながら問い質したくなって、何故か少し恥ずかしい。
一瞬とはいえ黙った俺に不思議そうな顔を向ける委員二人へなんでもないよと伝え、ひとまず新学期を迎えない事には何も出来ない、区切りをつけた。


ところが思い浮かんだどれもこれも叶える機会は訪れなかった。
九月に入り、またしても丁重に何ヶ月も前のタオルを返しに来てからというもの、何を気後れしたのか近寄ってこない。これまで不変の態勢を貫いてきた彼女は今更遠巻きだ。
離れた席で、万事をただ傍観している。
始業式の日に言葉をつっかえさせていたのは会わずにいた時間が長かったからで、それでも返すべきものは返すと決めたに違いない、相変わらずの性を微笑ましく思っていたのに以降の不自然な距離はどうした事だろう。
じゃあまた明日、言って背を向けた時、本当に明日からいつも通りを始めるつもりだった俺が馬鹿みたいじゃないか。
話しかける隙がない。
目の一つも合わず、何事か堪えるように顔を背けられてしまう。
嫌われてはいないのはわかった。
申し訳ない、心苦しい、気まずい、そういった類いの感情がなんとなく滲み出ているのを見るに、避けたくて避けているわけではないのだろう。
承知しているからといって心中穏やかでいられるかといえばまた別の話で、随分と気を揉んだものだ。
心当たりを探し過日を省み、一つ一つ潰していく。
ああでもないこうでもない、周囲には悟られずして思索に耽り、意思の疎通が出来ずにいる所為で腹で蠢くものが淀んだ。
負けたからか。
にとって俺は、可哀相な同級生なのか。
どうせ人づてに病気やリハビリの事を聞いて腰が引けた、といった所なのだろう。だから釘を刺したんだ、人の言う事をすぐ信じるなって。まず俺に聞けばいいものを、どうしてそこで遠回りする。
酷く勝手な仮定は驚く程俺の中を掻き乱し、好き放題に揺さぶった。
いつまで経っても縮まらぬ距離と一切近づいてこない頑なな様に手を焼き、かといって彼女が例の能天気さを取り戻す方法もわからず、熱気が残る九月の一週目を無為に過ごす。気にせず声を掛ければ良いと思いはしたが、同時に下手を打つとそれこそ二度と元に戻れないような予感もよぎって足踏みする他ない、もどかしさは苛立ちにも似ている。

だから本当はすごく嬉しかった。

「あ、うん」

階の下と上で偶然鉢合わせた放課後、今帰りかと尋ね気負いのない返事を久しぶりに聞いた時、吐き出せずにいた暗い思考をさっさと捨てて階段を蹴飛ばし上がるくらいに。
人見知りする小さな子供みたいにおずおずと口を開く彼女を前にして、不意にこの夏咲き誇った向日葵が脳裏に描かれる。
今、機を損なえば次はいつになるかわかったものではない、まさかとは思うが万が一にも逃げられたら困るので意識して丁寧に予定を問うた。
頷く頬から強張りは解けていないものの、拒絶の意志が感じられなかったのを良い事に彼女の行く先を変えてやる。
夏の名残が漂う屋外は暑い。
後は傾くばかりの陽が差す向日葵はぐったりとしなだれかかっており、生温い風が髪を梳き流れては夕焼けのにおいを落とす。入院生活が長かった所為か、病室の外は無数の香りが溢れている事を知り、また敏感になってもいた。
ぽつりとではあるが徐々に言葉を増やす女の子の顔色は決して悪くない。
そっと窺う自分の中で、病院で目にした蒼白が尾を引いていたのだと遅れて気が付いた。
盛りを過ぎた花は、俺が見せたかった姿を失っている。残念だ。
シンプルに悔いていると、去年のも綺麗だと思ったよ、拘りも何もひっくるめて放るような感想が頭上から降った。
ほら、変わらない。
誰に対してかは知れぬが苦笑し、不思議と凪いだ心持で説き伏せる。
しょげた風情でもまあまあきっちり言い返してくる彼女の声に耳を傾けつつ、体の奥でどこか噛み合わぬ違和感を抱いている事に思い至った。俺は何か詭弁を並べているんじゃないだろうか。やがて軋み出してしまう。
頑張ったからこそ正当に評価して然るべき。
何を?
花を?
――本当に、それだけか?


「ごめんなさい」

俺の名前を呼び、さやかな静寂を破った人に目を遣れば旋毛が見える。更に視線を下へ移すと薄赤く染まった指先が微かに震えていた。
訳を問うべきだったのかもしれない。
脈略のなさを指摘し、話す順序について懇切丁寧につついてやっても良かった所だ。
けれど俺はどちらも言わなかったし、言えなかった。
選ぶまでもなく、第三の新たな答えを選んだのだ。

「…どうして、謝るの」

馬鹿だな、。君は本当に全力で察しが悪い。おまけに気の遣い所を間違っているよ。
見当違い極まりない謝罪をする為にこの一週間を離れた場所で費やしていたのだとしたら、いよいよもって愚か者だ。
心の内では散々な言い様であったが、振り零れる自らの声色が大概甘すぎるのを自覚していた。
単純かと思いきや回りくどい策を取らねば理解しない友人の意外と頑固な面に気付き、言葉に言葉を重ね、わだかまりをふざけて茶化しながら笑みを深くする。
綻び咲いた花じゃなく、正当な評価をされたかったのは俺だ。
幸村くんってすごいね、思うままを口にした時のように、色眼鏡も世辞もなしで彼女に見て欲しかった。もし、頑張ったんだねと賞賛し、大変だったねと案じてくれているのだとしたら尚更願う。
俺を俺のまま、ただの幸村精市として、一テニスプレイヤーとして評して欲しい。
病院や学校、陽の落ちた下校途中での日常を、一番身近な女の子の友達が持っている素直さを、どうやらいつの間にか支えにしていたらしいから。
曖昧で気楽、ちょうど良い位置で互いに捕らわれずにいた短くはない友達歴の中、初めて望んだ事だった。
腑に落ちたと同時に薄らとした気恥ずかしさに襲われるこちらの胸中なんかお構いなしに、してやったりとばかりのにやけ顔で隣にしゃがみ込む級友が調子よく奏でる。
泣いた赤子がもう笑うとは上手く言ったもので、さっきまで崩れそうだった歪みは見当たらない。

「来年に期待だね」

色々な事があり過ぎて今や古びて感じられる、中学二年の夏の日に倣った一言だった。
忘れっぽい質の割にはよく覚えているじゃないか。静かに満ちる胸底の喜びに免じて、幸村くんっていい人だよね、期待からはやや外れた評も良しとしよう。

好きかどうかはわからない。
これが恋愛感情なのかもまだ区別がつかない。
人によっては友人レベルだと判ずるかもしれない。
でも俺は多分、が大事だ。
が考えている以上に、俺が自分で思っていた以上に。





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