02 かねてより日常の象徴だと感じていた通り、彼女はいつだって何気ない。 水は高い所から低い所へ落ちるように、雨が降れば空気が湿るみたいに、病室外の空気は淀まず流れるのと同じに、ごく当たり前の存在だった。 滞らず、違和感なく、心の在り処に入り込む。日常とは得てしてそういうものだ。有り触れていて、わざわざ気に留めるまでもない。 けれど時々、一等眩しく見えた。 安寧のまま通り過ぎる、事あるごとに顧みては確かめたりしない、すぐ傍にいるとまではいかぬが近しい友人の『当たり前』は、本当の所当然でも何でもない、特別なものかもしれないと不意に思う。 そうして知らぬ間に彼女を数ある人間関係の内より浮き立たせてしまっているのは、闘病中は病院という場所の問題で、復帰以降も続いたのは感謝の念が深い為だとも言えよう、お陰で俺は上手く区別する事が出来ない。 大事は大事だ。 取るに足らない存在などでは決してない、ないのだが、それが俺自身同年代とはやや異なる経験をした所為なのか、相手がだからなのかよくわからなかった 判別つかずとも問題が起きるわけじゃない。 女子ばかり四人程の輪に加わり、はしゃぎふざけて笑っているのを見た。 昼休みに中庭の花壇前で背を屈めており、秋の花へ向かって傾く横顔が暑い盛りを過ぎた陽射しに埋もれている。 移動教室の授業で遅刻ぎりぎりの時間に駆け込んで来、クラスの友人にからかわれるのを荒れた息でいなす。 廊下は走らない、基本中の基本である標語無視の常習犯である。 慌てると周囲に気を配る事が難しくなるのだろう。悪質な生徒でないのは確かで、理解しているらしい教師は中等部の最高学年という自覚を持てと苦言を呈するものの、眼差しの方は少しばかり出来の良くない子供に対するそれだ。 現国の課題で俳句を提出しなければならず、思いつきません困っていますと顔に出しながらプリントを睨んでいるので一つ二つ口を挟んでみると、飾らない礼が寄越された。ありがとう幸村くん。しかし、晴れ晴れしい顔つきは時を経ずして一変する。どうしたんだいと問えば、私がいきなりこんなの出したら絶対一人でやったんじゃないだろって疑われる、面差しが梅雨時の空より曇っていた。 集中力はある。 手先だって俺から見れば充分器用な方だ。 家庭科の授業、課題であるマフラーを黙々と編んでいて、棒針と毛糸の絡んだ指はさながら寡黙な仕事人である。 どんだけ急いで編んでんの、隣の席に座る級友に声を掛けられると、さっさとやってさっさと終わらせたいだけ、と遅刻魔の忘れ物過多生徒にしては殊勝な事だった。その熱意と集中力を別の方向にも生かせば、彼女はもっと楽に学校生活が送れるのではとままならぬ現状を慮った。 いつぞやの体力測定での負傷がイレギュラーだったらしく、運動神経はそう悪くない。 体育の授業で未経験者にもかかわらず見事相手コートへサーブを打ち込む。 へえ、と意外に思って眺めていると視線に気付いたのか、降り注ぐ陽光で艶めく髪を閃かせ、細腕で以って自慢げにラケットを振った。見て、今の上手かったでしょ。言わんばかりのVサインが続いて寄越されたので、俺は笑って頷いてやる。ああ、悪くないよ。は筋が良いのかもしれないね。 内心呟いた事を授業が終わってから伝え、驚きにやや見開かれた目を向けられた。 そ…そこまでじゃないよ。 急に及び腰だ。さっきはあんなに自信満々だったじゃないか。 やめて! なんかすごい恥ずかしい子みたいだから! 大丈夫、ちっとも恥ずかしくなんかないさ。わざわざ俺にピースしてきた時の気持ちを思い出してくれ。 ……ごめんなさい、調子に乗ってました。忘れて下さい。 なかなかに微笑ましかったのでそれは難しそうだと胸の中でのみ答えて笑声を転がし、からかいが過ぎたなと心持反省した上で口を開く。 悪くないと思ったのは本当だから、そこは信じて欲しいな。 数秒の間が置かれ、静かな返答が更衣室に続く廊下に零れた。 テニス未経験の割にはって意味でしょ。それは勿論。俺の採点がそこまで甘いと思うかい。全然思わない。 むくれてはおらず、拗ねているのでもない。喜びたいが喜んでいいのかわからずに、だが褒められた嬉しさが隠しきれていない複雑な表情の女の子が居心地悪そうに言い落す。 「………ありがとう」 素直なくせして素直じゃないのだ。 俺はも結構難儀な性格をしているとこの時初めて実感した。 このように所構わず雑談を交わす日もあったから人目を一切気にしないのかと思いきや、食堂や教室前の廊下といった他のクラスの生徒も多い場所などでは、彼女の能天気さは必ずしも発揮されると限らない。 何の気なしに手を振ろうものなら瞬時に固まって、あからさまに周囲へ気を取られた仕草で返してくる。私は現在とてつもなく冷や汗を掻いています。顔にありありと浮かび上がっている。あまりにも露骨且つわかりやすいので気分を害する域にまで辿り着かなかった。 今そこまで慌てるのなら他に気にすべき箇所がいくらでもあるだろうに、愉快な人だ。 まったくもって彼女が自身で零した通り、考えが足りない。 一方俺はというと見ていて非常に面白かった為、別段指摘したりしなかった。 毎日は穏やかで、一生分の熱気を孕んだ夏は遥かに遠く、もうすっかり過ぎていってしまったものだ。 二度と還らない。 中学最後の全国大会も、三連覇の夢も、部長と呼ばれ欠かさず部室へ顔を出す日々も。 感傷的になるのは柄じゃない、らしからぬ思考を自嘲する時もあれば、たまにはいいかと独りごちる。 俺には家族がいて、試合を見に来てくれるクラスメイトや悪ふざけに興じる友人がいて、切磋琢磨するチームメイトがいて、特別なのに日常の象徴という不思議な存在である、一緒にいて飽きないがいる。何よりテニスが出来るのだ。長い間触れはしても掴めず振るえなかったラケットを手に、コート中を駆け回る。 他のどんな瞬間にも代え難い、俺が俺でいる唯一無二の証。 一抹の寂しさが胸を掠め、同時に心地良い気がしていた。 ようやく取り戻した、けれど以前とは微かに差異を見せる有り触れた日々を、うつろい揺蕩う季節の狭間で静かに味わう。急ぎ過ぎたリハビリの分、今度は徐々に慣れていく途中だったのかもしれない。 笑い、話す声が響く。重なる。 多くの表情を目にした。 窓越しではないリアルな景色に触れ、喜ばしいはずなのだがどこかむず痒い。 授業中のしんとした音、放課後の騒がしさ、陽が落ちて人気の失せた昇降口と部室棟に締め出されるようなあの空気、全部が全部俺の体に染み渡っていく。 感慨に浸り、ふと振り返る一瞬は大抵、の存在がついて回った。 感情豊かで隠す事を知らない、のびやかな女の子は知らぬ間に俺の日常へ入り込む。 夏を過ぎ戻ってきたあらゆるものが自然と傍にあって特別な事ではない、何の事はない日々なのだと、夢ではないのだと語らずして語るように、ただそこにいてくれた。 おそらく無意識だろう。 感謝をしたらしたで、頑なに否定したあげく固辞するに違いない。 考えなしだっただけ。気を遣ったわけじゃない。私ほんとに何もしてないんだよ。 声色までいとも容易く思い描く事が叶う。 だから自分も同じく簡単に返せるはずだと根拠もなく確信した。 大事なのはあの時や今俺が嬉しかった事、支えられ助かった事だ。行動に纏わる理由は関係ない。もっと言うと、の気持ちさえ関係がなかった。 俺を喜ばせようとしたのでも特別気遣おうとしたわけでもなくたって構わない。そんな事はどうだって良いのだ。 俺は嬉しかった。 がいてくれて良かったと心から思った。思う事が出来た。 心が擦り切れるばかりの病室で、人の優しさを跳ね除ける他ない時に、復帰後の夢想じみた時間の流れに戸惑う中、あの健やかさにほだされて、ほだされるだけの余裕やゆとりがまだあるのだと気付いたから、捨て鉢にならず最悪の状態にまでは転がり落ちないで済んだ面もあるのだ。勿論、家族や部員と他にも支えてくれた人はいたし一人のお陰じゃないが、何の影響もなかったなどととても言えない。 何故か。 問う必要がどんどん薄れていく。彼女はすっかり今の自分を形作る一端だ。もし欠けていたなら確実に何かが違っただろう。 我知らず得た気持ちにつけるべき名を、俺はゆっくりと知り始めていた。 「あれっ?」 「やあ」 十月も終わりの頃である。 数分毎に沈みゆく陽が差す正面玄関で、偶然鉢合わせた。 「どうしたの。また居残りかな」 「…いっつも居残りしてるわけじゃないし。友達と喋ってたの! まあ、そう思わせる私が悪いんだけど」 鉄製のロッカーが後方で閉まる音がして、エントランス内にて靴を履いていたが半端に開いていた扉を押し、今一歩歩き出す所だった俺の隣へ並び立つ。 「フフ、そうだね。昨日も残っていただろ」 「なんで知っ……! ……柳くんか……」 「当たり」 「当たっても喜べないんですけど」 「よりによって柳に見つかるからだよ」 「別に、見つかりたくはなかったよ」 「うん。ついてなかったね、」 決して彼を貶めているわけではない。引退後も参謀と仰がれる柳蓮二という男は観察眼に優れ、好奇心に溢れている。 見透かしているのは俺の胸中かが取る次の一手か、与り知らぬ所であるが、絶妙な間を置き巧妙なタイミングでこちらに報告を入れるのだ。 時に精市、昨日英語準備室でを見たぞ。俺の方は先生に用があって赴いたのだが、今にも唸り声が聞こえかねない形相で紙面と向き合っていたな。 読めない表情と涼しげな声で告げてきたのは、元テニス部の三年が来たる合宿に向けて集まった今日の昼休みだった。 小テストで連続赤点を取ったらしいよ。 微笑みと共に教えてやれば、なるほど、と簡素極まりない返事が寄越され、それでおしまい。皆俺の事を神の子だとか底が知れないだとか言うけれど、柳だって相当だ。 「私絶対、柳くんに馬鹿だって思われてるよね……」 「そう?」 「そうだよ。前にも印刷室で会った事があってさ、コピー機動かなくなったの見てもらったんだ。幸村くんもだけど、なんでテニス部って何でもできそうな人たちばっかなの?」 そうでない奴もいるのだが、説いた所で眉間の皺は緩みそうもない。 二人分の靴音が響いていた。 風は冷たくて、吹かれた枯れ葉が道の端でひらひらと舞う。空気の乾いた夕暮れの空に、うっすらとした雲が棚引いている。 「幸村くんは? 部活…はもうないから、自主練とか?」 「いや。ちょっと準備をしていてね」 「準備」 「来月合宿があるんだ。U-17選抜の」 広大な立海の敷地内を抜けて今までも何度か一緒に歩いた道のりに入ると、は少し沈黙を走らせた後、慎重な声音で俺に問うた。 「……代表選抜?」 「うん」 「…だ、代表って、日本代表?」 「ああ」 「選ばれたの!?」 「そうだよ」 打てば響く反応が面白い。ともすれば選ばれた本人より驚いている。 には俺が平然と構えて映ったのか、ややあって栄えある召集なのになんでノーリアクション、と信じられないものを見るような眼差しを向けてきた。 それから、聞き取れるか取れないかの僅かな溜め息が隣で落ちる。鼓膜を揺らす響きは例えるならば感嘆といった所か。 「……言ってもいい?」 「どうぞ?」 「やっぱり幸村くんてすごいよね!? なんで平気な顔してるのか全然わかんないよ!」 前のめりに捲し立ててから、すごいって言われるの嫌だったらごめん、と律儀にも断りを入れてくる彼女の脳裏には梅雨の病院が残っているのかもしれない。 返す返すも口にすべきではなかったと罪悪感を抱きながら、忘れっぽいくせに妙な所で記憶力を発揮するんだなぁ、微笑ましくなる。 どれくらいの人数が選ばれるのか、どこで合宿をするのか、どんな事をするのか、問いは矢継ぎ早に降った。 病院や教室、屋上庭園でも見てきた光景だ。気になる事があればすぐ口を開く。きらきらと輝きを湛える瞳は子供のようであどけない。 込み上げた苦笑混じりの脱力には覚えがあった。 静寂に浸る白い廊下、忍んだ雨の気配を肌で感じながら、馬鹿馬鹿しさに身を委ねた日。多少の差異はあったとて不変の人が、視界の斜め下で俺を見上げる。柔らかそうな頬や細い毛先の下りる額は、暮れかかるまろやかな光で縁取られていた。 建物の群れから抜け、気持ち開けた場所へ出る。 目の前が広くなり、日暮れの空もよく見えた。 頭上の辺りはごく薄い水色、陽の落ちゆく側にと向かうにつれて段々と色彩が変化しており、写真にだって残せない見事なグラデーションだ。太陽は水平線へ沈む途中なのだろう、記憶の中で海の方向を探る。 藍色、群青、紫から朱。 こがねの陽の尾が丸くなって、天の片隅を染め上げていた。堪らず目蓋を狭めてしまう眩しいオレンジと赤が、眼孔の膜を爪弾く。 夜に押された残光へ吸い込まれるようにして流れるかつての白雲は影を帯び、上層部分でネイビーブルーと溶けて、凹凸のある下側が残映で赤々としている。 宵闇の先駆けは背後と言わず最早俺達を追い越しかねない勢いである。 黄昏と夜の狭間で、歩む速度が自然と落ちた。 声はない。 言葉もなかった。 時間にしてほんの数秒、しかしまなこの奥にまで差し込む情景はその僅かな間でしか生まれぬ儚さから縁遠い、力ある美しさにて描かれ彩られている。 濃く深い夕焼けだ。 他に喩えようもなく、綺麗だった。 「……絵みたい」 隣でぽつりと零れた声が見惚れている。 聞かずとも内心が読める率直な響きに、俺は笑って応じた。 「普通、絵を見て本物みたいって褒めるんじゃないのかな」 「でも、ほんとに綺麗だよ」 何が『でも』なのか、返事になっていない、脈略の掴めぬ感想だ、あらゆる指摘全てくるめて彼女を見遣る。ブレザーの肩に乗った夕陽の色は柔らかく、小さな耳にかかった髪が、緩やかな風に吹かれて揺れていた。 まばたきを一つ挟んで、薄暮へ視線の先を戻す。 走る稲妻じみた衝撃などない。 自覚に至った爽快さ、腑に落ちた時の溜め息、浮かび上がった鮮烈な鼓動、どれもこれも当てはまらず、ただ相槌を打つ感覚だ。 そうか。 そうだったね、本当はずっと俺の中で息づいていた。 不思議と凪いだ気持ちがじんわり染み渡る。何かが心に触れて、まどろみのように揺蕩う。 あ、コスモス。 眼下に現れた敷地で群れ咲く様を差した彼女の声が、鼓膜に淡く伝った。目に映る光は強くも優しい。 よくよく考えずとも、当然と言えば当然なのだろう。 好きなもの、大切なものは、ある日を境に突如として決まるわけではない。ガーデニングや絵画をいつ好きになったかと尋ねられれば行き当たるのは相当遡った在りし日で、といってもはっきりとは定まらない、気付けば根を張っている事がほとんどだ。 天啓のよう降って湧きいずるものじゃなかった。少なくとも、俺にとっては。 が好きだ。友達で、特別で、支えで――大切だった。 いつからなんてわからない。それはもうどうでも良い気がする。 が、隣で暢気に笑うから。綺麗な日暮れを飾りもしないで綺麗だと言うから。 傍らで歩む人は思いつくままを語り、時折夕焼けを仰ぐ。 歩幅が違う。 足音の高さに違いが出ていて、傾き続ける陽を受けた体は細くとも弱そうに見えない。 血色の良い顔が俺の方へと振られた。秋の桜って書くって事は、コスモスって桜に近かったりする? 無知極まった質問である。へえ、には桜の木の幹とコスモスの茎が同じに見えるの。答えてやるとたちまち羞恥に襲われたようで、見えないですすいません馬鹿すぎる、と自嘲とか細い謝罪が舗道の真ん中へ落ちて消える。 この健やかな俺の好きな子には、世界がどう見えているんだろうか。知りたいと求める事を許してくれるだろうか。 夕闇に追われながら影を踏み、進む毎に想いが嵩を増していく。 コンクリートと靴底が擦れる音の中、鞄の紐を掛け直した彼女があっと息を詰めた。雑談を遮っての挙動に、何事かと思う。 「気を付けて、怪我だけはしないでね」 選抜合宿の話題をぶり返した様子だった。 そういえばさっき言い忘れてた、といった調子で付け足された軽さが実に彼女らしい、どうしようもなく頬が緩む。 言葉にすべき応答とそうではない感情を分け、既に引き締める事を諦めた唇で以って打ち返した。 「ありがとう。気を付けるよ」 だから傍にいてくれないか。 出来れば今まで以上に近く。そしてずっと笑っていて欲しい。 君を一番に好きな男は、きっと俺のはずだからさ。 ※ 決め事が不必要な関係を好ましく思っていたはずなのに、約束がしたくなった。 だけど確かなものを築ける距離にはいない。 は読みやすい字を書く。 しかしながら眠気に負けている時は乱れに乱れ、日誌は適度に力を抜き、厳しい先生の教科であればノート提出に備え必要以上に気を払っておりと、単純明確な人と成りが表れていた。 渡り廊下ですれ違う。 美術室前に貼り出された課題の風景画を熱心に眺めているので興味があるのか聞くと、私って芸術センスもないんだなあって思ってただけ、言いつつ自らの作品を指差す。なんというか、彼女なりに全力を出し切って描いた事だけはわかった。 朝の教室で少しでも暖を取る為か指を擦り合わせている。 夜までは曇りの予報であったのが朝になって、所により雨が降る傘でしょう、に変わったので傘を持ってきたかを問う。曰く、家出てちょっとしたら雨の匂いがしたから一回戻って取ってきた。原始的な行動理由を聞かされた。 制服のスカートから伸びる膝が目に痛い。格好だけなら他の女子も同条件なのだけれど、何故かが一番寒そうだ。 進学先やクリスマスの予定を聞いて、ほっとする。 何せ場合によっては本気で心配になる程の正直者が相手である、真っ向から押し進めていった方が良いのだろうとわかっていても、大体が後手に回ってしまう。 一年生から同じ教室で学び、隣の席になった回数も多いというに、中学最後の冬を迎えてから冷え症だと知った。しかし握った拳の下で固まる額は温かく、心なしか自分のものより柔い気がする。悲しくも悔しくもない。 ただ惜しかった。俺の知らないがいて、それを今の今まで放っておいたままだったのがとても勿体なく感じられた。 怖気づいて近寄って来ないかと思いきや、誘えばきちんとついてくる。 初めて触れた手は死人のように冷たくて凍えている頬が真っ赤だ。 急に黙り込んでしまう。 マフラーの中へ口元が埋め込まれていて、頬どころか鼻の頭まで寒いと訴えているみたいだった。 素直で読みやすいはずであった彼女の心が量れない。吹き荒ぶ冬の風が、何もかもを掻き消してしまったようだった。 翌日、二の句を継げ辛そうにしている。つっかえ引っ掛かりながら言葉を選ぶ。俺のたった一言に強張りを解き、救いを得たりとばかりに脱力した。 いつもじゃなくても傍にいる。 声と声を重ね、人の気配が通る都度、彼女は何か迷い恥じている様子だったけれど、やはり逃げていかない。 かつてと同じに、いつかとは少し違った意味合いで。 久しぶりに席が隣になった。 初詣には行ったくせして神様などあまり頼りにしていない俺は、いわゆる不届き者なのだろう。都合の良い時だけ信じてみてもいいかと嘯く。 確かなものを築ける近さにはまだ足りない。 だが微笑みかけると久々の隣人は一定の間を置いて返してくる。 気後れ或いは畏怖、もしくは遠慮、全て当てはまらなかった。もどかしさを含む反応は意識を垣間見せ、こちらの胸中までも引き上げようとする。 (君の特別を教えて) 強烈に答えを求めはしていても、俺以外の名前がその唇から語られるなんて絶対に御免だ。 俺はそんなにいい人じゃないよ。 いつまでも待てないし、のペースに合わせてばかりもいられない。 洗い干されたタオルにホッカイロ、ココアのお礼、バレンタインのチョコレート。 差し出された勇気を受け取っているだけなんて、どう考えても性に合わないじゃないか。 君の信用を打ち破る。 単なる親切ないい人と思われたくて一緒にいたわけではない。 避けられていると感じた九月の一週間は思い出してみても本当に嫌だったし参ったけれど、大概俺は望むものの為に今までやってきて、変えるつもりも更々なかった。 強引だと謗るのも良いだろう、いきなり過ぎると困惑しても責めはしない、逃げ道を塞いだなと睨むのだってご自由に、ただ頷いてくれさえすればそれで構わない。後はいつも通り、素直なの好きに動けばいいと思う。 たった一言がどうしても欲しくて、それなりに大人しく待っていたのだから、こんなの我が侭の内に入らないだろう。 手袋越しでも熱の伝わる指を引く。 耳まで赤く染め上げた、とても冷え症とは思えぬ様相であるの目には薄い涙の膜が張っていて、罪悪感を抱くべき所にもかかわらず俺は嬉しさを噛み殺せなかった。 力一杯握り返してくる掌には、彼女の意気地と俺に甘過ぎる返事が秘められている。 笑み崩れる頬の肉を遂に止められないまま、はいと頷く好きな子を特等席で見詰めたのだった。 ※ 、もといとの毎日は一見平穏無事のようでいて、時に痛快、時に不愉快と目まぐるしい波乱に満ちている。 びっくりした時に見開かれる目が好きだ。 頑張りたいと嘘偽りなき本心を語り、遅刻という逃れられない未来に慌てふためいていた。あからさまに意識して身を硬くする。間近で眺めて楽しい事もなくもなかったが、何でも度が過ぎれば毒である。付き合い始める前の方が余程自然だった、不意に思い返すと嬉しいようで若干腹が立つ。 如何ともし難い状況下、下の名前で呼ぶのは二人きりの時だけ、懸命に譲歩して来る所は可愛い。 それでも二人の間へ第三者が紛れてくればたちまち苦味へ変化した。 肩肘張らずに何でもない話を交わせるポジションは、俺のものだったはずだ。それがどうしてか特別になった事で逆転している。 本末転倒の見本かという展開に指先がちりつくものの、どこか甘やかな自覚は奥で根付く一方だった。 可愛らしさや腹立たしさの元を探っても、常に同じ所へ辿り着いてしまう。 月明かりも降らぬ漆黒は恐ろしく暗い。 茜さす陽はとうに落ち消えていた。 順風満帆、と断言は出来ないのかもしれない。 他人の目にどう映るのかは知らないし興味もないが、俺達なりに紆余曲折を経てきたと思う。 教室や部活が違えば必然的に過ごす時間は減っていく。季節が夏へ向かうと殊更顕著になり、立海のような大きな学校では顔を合わせる事さえ互いの努力なくば難しい。 けどは、俺がテニスにかかりきりでデートをする暇がなくても文句は言わず、クラスが違ってしまったのが淋しいと漏らすような子だ。 どうやらはなから俺とテニスを切り離して考えるつもりはない様子で、不満らしい不満をおくびにも出さなかった。 元々存在していないのだろう。あれほどわかりやすい顔に一度も表れてこず、昼休みやたまの下校ではほとんどいつも通りなのだ。 実体験もなく身近で耳にした覚えもないが、ありがちで普遍的な喧嘩の元であるらしい、私とどっちが大事なの問答に手を焼いた事など一度もなくて、前兆すら感じられなかった。 張り合いがないと言えば、ない。 おまけに、だからといって三歩後ろをついてくる古風で大人しやかな子でも全くない。 そこが、彼女が彼女たる所以である。 心得ていたはずの個性や性質を、また一層知っていくようで無性に楽しい。 つまらぬ事で思い悩む割には肝が据わっていもいて、たとえばガーデニングにはつきものである虫が平気だ。少なくとも同年代の女子は大抵嫌がるはずの、得体の知れない様相に怯まず歓声を上げる。 「うっわー何これ? 初めて見た!」 何の幼虫なの、尋ねてくる彼女を見、俺はクワガタやカブトムシを差してすげえ、強そう、かっこいい等々はしゃぐ男子小学生を連想した。 随分興味津々だなぁ、笑い小首を傾げると、言っておくけど好きなわけじゃないから、不服そうな声が戻るが、気持ちわるっ、と連呼しながら目を逸らさずにいるので、ちょっとどこかずれている。退く時は瞬きの間に姿を消しかねない素早さを秘めるのと同時に、怖いもの見たさに爛々と輝く瞳も持っているのだ。 でもまあ、お陰で一緒に土いじりが出来るのだから何も悪い事ではないのだろう。 陽の光を浴びた壌土に触れれば、いつも以上にぬくい。のくくられた髪が頬や耳へ微かに降りかかり、肌の上にごく薄い影をいざなっていた。 相変わらず急いだり慌てていたりすると、多くを見落とす。忘れ物や遅刻は減少傾向らしい。雨に濡れても、降られたものはしょうがないから走ろう、で済ませてしまう。傘を差し出す隙も何もあったものではなかった。 そのくせこちらが濡れるのをやたら気にする。部活関連の話を自分が聞いてはいけないだろうとわざわざ離れた場所で待つ。構わないよと何度言っても断りを入れてくる。 何事にも拘りのない彼女が、唯一拘るのが俺だ。 つまり少女らしさを多分に含んだ見掛けやのびやかな質とは即結びつかない程、以前より薄々感づいていたが、なかなかどうして頑固なのだった。 こういうのも、嬉しい悲鳴というやつなのかな。 滲む苦笑の奥には抑えきれない幸福がある。 従順に首肯するかと思いきや心の中では納得していない素振りを見せ、わかったと答えていてもその実了承していないのではないかとつい疑いたくなり、その他大勢どころかの物思いの種であろう俺が言い聞かせてみても芯からの納得はしない。 いつも、いつでも、彼女の双眸は真っ直ぐに見澄ます。 果たして受け止めるに足る器が備わっているか、俺は時々不安になる。 好きになればなるだけ感情の正負どちらとも無闇に深まっていく一方で、病状については委細を聞かせなかった。 あの能天気さが失われるのは俺の望む所ではないし、何より忍びない。どんな時でも、などと大言壮語を吐くつもりはなかったが、叶えられる限り、手の届く範囲では彼女のままに笑っていて欲しかった。 「甲斐甲斐しい事だ」 評したのは柳である。 「構うのが好きなだけだよ。ああ、誰でもいいわけじゃなくてね。だって可愛いだろ」 「藪蛇だったか」 「どうした参謀、読みが甘いな」 と俺が返す所まで予測済みに違いない。その証拠に柳は薄い笑みを佩いて、そうだな、今後一層精進する事としよう、なんて平気で言ってのける。つくづく厄介だ。がしかし頼もしかった。この調子なら、高等部でも栄光を目指し邁進していけるだろう。 巡る四季を共に過ごした。 雨降りの夜、暗所のそこらに落ちる雫の音以外はしんと静まる神社で、いじらしさを隠している。傘下だと口数が減ると知っていたが、それが嫌だとか気まずいだとかは一切なかった。心持俯いているのは身の置き所を探している所為だろう。躊躇いがちに寄り添ってくる温もりが、柔く尊い。 他を非難しているようでその実、自分自身へ向けた刃で悔し涙を流す。俺にしてみれば好きだと告白されているとしか思えず、相応しくない反応だとわかっていても喜びが顔に滲んでしまう。 灼熱と称しても大袈裟ではない屋上でアイスのお裾分けを頂いた。 コンビニや購買で入手したと思わしき菓子を美味しそうに口へ運び、求められれば気前良く分け与える。 何がどうしてそうなったのかは知れないが、ちょっと席を外した隙に俺のパワーリストを付け真剣に考え込んでいた。 朝、声からして眠そうで、体育の後の古典が辛い、嘆きは深く、心底苦しんでいる様子だった。 俺が好きな、じゃあまたね、の一言を何度も耳にする。 聞き飽きる事はない。 呼ばう声はすっかり馴染んでおり、電話番号もそらで言えるようになってしまった。 とりどりの花が咲き誇る春は、下手すると朝よりも眠気と格闘している。立海の敷地内に植えられている桜を見上げた横顔が、いつぞやの夕まぐれと重なって見えた。あの日と違う色をした光が睫毛に宿り煌めく。花の色は万事が美しい。 夏、寒さ厳しい冬と比べれば酷暑の方が得意なようで、暑い暑いと言いながらも夏バテ知らずである。日々の大半をテニスに費やす俺に添うでもなく、陰で支えるでもなく、不思議な距離から言葉のいくつかを投げ掛けてくる。手持ち花火を前にした目は明白に輝き、真夏の闇に散る火の残滓が目蓋の裏で長く残った。 暮れかかった陽に伸ばされた影の細長さに戯れた秋、これ影踏みの難易度高いね、唐突に埒もない事を言い出す。やりたいのかと冗談半分に笑うと、精市くんの足の速さに私が勝てるわけないじゃん、慌てて否定した。時期的に手袋を引っ張り出してくる頃合いなので一人賭けていた所、予想通りの日にきっちり身につけてくるのが面白い。 彼女の天敵たる冬に、一度だけ羽目を外し過ぎて雪で濡れ鼠になった事があった。まんまと風邪を引くかと思いきや俺もも問題なく翌日登校し、顔を見合わせて笑う。吐息が白く弾んでいた。でも、冷え症だというのに素手で小さな雪だるまを作った彼女は考えなしにも程があるだろう。指摘ついでに防寒具の外れた手を握ると想像に違わぬ感触だった。 特に寒さの辛い時期でなくとも夏を除き、俺に触れる指は大抵氷のようで時々ぞっとする。 頬に当て鼻先を寄せれば、冷たい皮膚のにおいがした。 くるんでいてもすぐには温まらない。口づけても治らない。 ほっそりとした指先は冷気を纏い、薄皮で出来た水かきまで凍え、爪の先など最早言及するまでもなかった。 本当に血が通ってる? 唇に押し当てられた指と指の間を縫って声を落とす。 ……通ってなかったら動かせないでしょ。 いつまで経ってもこういう時の初々しさが抜けない、冷たい手の持ち主が下から俺を睨んでいるものの、残念ながらちっとも怖くない。反論の為の手が軽い握り拳になった時、肌を微かに掠めた指がくすぐったくて堪え切れず笑った。 本当にいつからだろうか。 自分以外の誰かに全てとは言わずとも、心だけでは飽き足らず体ごと委ねるようになったのは。 追憶は想いに追いつかない。 いくら顧みた所で掬いきれず、故に過去へ過去へと遡っていく他なかった。 だけど、実際無意味だ。 数えて何の甲斐がある。あったとて、思い知るくらいだろう。これ以上ない程に理解しているのにもかかわらず、今一度突きつけられてどうこうするでもないし、その程度の事と引き換えに懐かしむ昔日へ変貌するのが嫌だった。 俺はどんな君も思い出にしたくない。 願う傍から、こちらの考えなど知る由もないが振り返る。 あまりに他愛ない、心底馬鹿馬鹿しくもあり、有り触れていながら一番に輝いているかけがえのない日常を、口ずさむように囁いている。 ※ 「さ…っむい!」 悲鳴は暗い路地に溶ける。 人気どころか車すら見当たらぬ横断歩道前で信号待ちをしていた俺達に、ほんの数秒ではあったが凄まじい勢いの北風が襲いかかってきたのだ。傍らの街路樹はすっかり葉を落とし、裸の枝が見ているだけで寒かった。 並の人間より冷えに強い自覚はあったが、それでも一切を感じぬわけではない。丁度のタイミングで同じ感想を抱いた事に胸の内がほのかに温まる。 「寒さに弱い冷え症なのに、遅くまで帰らないからだよ」 「……いやみ?」 はとうとうは声まで冬に侵食されたらしい。マフラーに守られているはずの首元が震えているのか、歯の根が合っていないのではという疑いを拭えぬ程に揺れている。 「まさか」 「じゃあ、おこってる」 「嫌だな、そんなわけないだろう」 「そし、そしったら、精市くん、寒くないの」 冬の空気が生んだ攻撃の所為で、脳にまでぬくい血が回らなくなったのかもしれない、少々会話が成り立っていない気がした。 言葉を紡ぐ都度、暗闇にうすぼんやりとした息が通う。 俺が自然と笑顔になるや否や、透けた白色は眼下で笑んだ形へと様変わりしていった。 「寒いに決まってるじゃないか」 「ぜ、ぜんぜん、寒そうに、見えない」 聞き終わらぬ内にコートのポケットに預けていた右手を外気目掛けて放る。 背を縮こまらせ、ぎゅうぎゅうに押し込められたような肩のまま、はその場で足踏みし始めた。さむい、信号ながい、交互に零しては気を紛らわそうとしているのだ。 半端な近さを埋めていく。 一歩、二歩と潰れた距離を音もないのに感じ取ったのか、鼻まで真っ赤にした子が斜め後ろを陣取る俺へ不思議そうな目を向けた。独りでに持ち上がる口角を悟るさ中、厳めしい表情を崩さない真田の一言が脳内で浮上する。 お前が甘やかすから、はたるんだままなのだ。 (そうじゃない) 逆だよ。俺が甘やかされたいんだ。 「わあ!?」 冬に耐える背中側から手を伸ばし、頑なに閉じられていた腕と脇腹の間を通って、お腹ごと抱えるようにして引き寄せた。突然の事態にマフラーへ埋めていた顎を持ち上げたは、目に見えて動転している。 信号は赤のままだった。 車は一台も通らない。 「あはは、色気ないなあ」 ぶ厚い防寒具を挟んでの触れ合いでは感じられるものも感じられないがしかし、僅かに香る体温だけで充足してしまうのだから恐ろしい。 だらしなく緩んでいるに違いない自分の唇を割り溢れた声が、思った以上に明るくて内心驚く。俺の胸元、顎下辺りで、じゃあ色気ある子と付き合えば、と訴えでもするかの如し棘のある雰囲気が漂うので、やっぱり笑いながら冷たい頬を軽く摘んでやる。 「こら、そんな顔しない」 「誰のせいだと…っていうか見えてるの?」 掌の付け根を握って抗議してくる手袋に包まれた五指は、自らのものより遥かに柔らかい。その上小さいので俺のラケットなんか振るえそうもないなと勝手に判断を下す間、彼女は健気にも抵抗し続け、腹周りに絡んだもう片方の腕まで払い除けようと試みていた。 暗がりでも視認出来る程、耳が真っ赤だ。 転がった白い吐息は不連続に出、外灯乏しい夜空へ立ち上っていき、みるみる儚く消え失せた。 俺は冷えていようが常に柔い頬から指を外し、優しく、一層力を籠めた両腕で抱き寄せてみる。秋より乾きの増した空気を吸った髪がほつれ、俺の頬や顎に感触を残す。 「いや、全然。見えていたら良かったね」 「よ、よくない」 「あ、信号変わった」 「渡ろうよ!?」 「このままで?」 「そんなわけない! せっ…精市くん、あのとりあえず、もう離して……」 後ろから抱え込んだ体が寒さによる強張りを忘れ、ゆるゆると萎んでしまっていた。 夜の濃さに飲まれかねない語尾は弱く、日頃と比べかなりしおらしい。 込み上げる感情の奔流が俺の足をコンクリートに縫い付ける。 たとえば。 たとえば明日がいなくなったとして、何もかもが終わったりはしない。 どんなに好きでも、どれほど大切に想っていたとしたって、彼女は俺の全てじゃないからだ。 朝は必ずやって来て、空腹や眠気も覚えるし、学校へも行ってテニスに没頭する。 その先も人生は続くだろう。そうなった時、思い出に出来るかどうかは俺にもわからない。 ただ多くが変わらぬ事だけは身を以って知っている。二度と戻りたくない病室で嫌という程味わった。 だから誰にも見えない未来について論じてみても、まるで無駄なのだ。 以下でも以上でもない無味な現実が横たわるばかりで、失くしたものや過ぎた時間を取り戻せるわけではない。 冷静に把握する一方でいとけなさの残る彼女と並ぶくらい、或いは追い越す勢いで子供じみた心の一部が、それでも傍にいてくれなきゃ嫌だよ、切に希う。 「うーん、どうしようかな。俺、今になってすごく寒いや」 「あ、歩こう! じっとしてないで歩いた方があったまるから!」 つまる所、俺は君がいないと困るんだ。 籠めても籠めてもまだ足りなかった。 大事だということを齟齬なく伝えるのは、本当はとても難しい。 一体どうしたら余す所なく、一つも残らずに通じてくれるのか。腕の中で確かに息づく、あの朝傘を忘れた女の子の素直さがあれば、もどかしさに歯噛みせず済んだのだろうか。 (――でも、いいか) 幸福極まりない寂寥と苦悩が、鼓動を生む胸に沁みていく。腕の力を緩めると隙ありと即座に温もりが離れた。もうどうなっても笑みしか出て来ない。 苦しさも楽しさも全部まとめて、俺は君が大好きだから。 の髪が翻る。 先刻に比べ明らかに赤みの増した頬が準じ、揃いの瞳は馬鹿正直に人を見据えた。 キスがしたいとは言わない。警戒心露わの今動いては損だ。 再び毛糸の波間へ落ち着きつつある唇が紡ぐ次の一言を大人しく、けれど浮かんだ笑みは隠さず、いつでも返礼が出来るよう、彼女の声を心して待った。 ← × top |