正しい解を求めなさい・前 精市くんの悪ふざけはたまに度が過ぎる。 なんで、どうして、何がしたいの。 気軽に訳なんか問えない。余裕で三倍返しを食らうからだ。 だったら黙っていた方がましかといえばそうとも限らず、予想外の角度から攻撃を受け疲弊してしまう。 如何なる方法を取ろうとも結局打ち負かされる私は今まさに正念場を迎えていた。 「……取りに行けないんだけど」 「行けないだろうね」 「…………あの、私だって絶対に行きたいんじゃないよ。でも行けないとちょっと困るかもしれないっていうか」 「じゃあ取りに行かなくていいよ」 ダメだ、精一杯工夫してみたはいいが到底勝てそうもない。 勝負以前の問題で、始まる前から既に敗北が決まっているのではないか。 無駄な足掻き、の非情な一言が脳内を駆け巡り、制止の意味も込めて温かくて広い手に沿わせた指も強張った。 追い詰められた私を見上げる瞳が、子供みたいないたずらっぽい笑みを秘めている。 ※ 今に始まった事ではないが、私と彼とでは生活水準や育って来た環境の何もかもが違う。 例えば我が家ではリビングで和やかに家族団らんなんてしないし、クラシック音楽をBGMに読書した経験等あるはずがなく、勿論美術に造詣が深いわけもなかった。 印象派だのロマン主義だの写実主義だのややこしい主張が出て来た時点で思考が停止し、画家だっていまだに精市くんが好きなルノワールくらいしか覚えられない。 歴史に名を遺した芸術家達のつくるものは皆方向性が異なっていようとも美しく、一般人の作品と比べればやはりどこかが抜きん出ており、ゆえに何年経っても大事にされて来たのだと素直に納得出来る。 私が言えるとしたらその程度なのだ。 あの絵はここが綺麗、こっちの絵だったらこういう箇所がいい、小さな子供と同じく好きか好きじゃないかでしか分けられない。 理知的な瞳で物事を見据える人が芸術に触れる時間、名画の作り手について全く区別がつかない私ではなく、もっと美術史に詳しくて深く踏み込んだ意見を交わせる相手こそ相応しいだろう。 これはもしかして卑屈になっているのかと自らに問いかけ、ただ純粋に疑問なだけだと考え直す。精市くんは知識の有無で付き合う相手を選別したりしないからこそ余計に気に掛かるのだった。 以前、一度だけ尋ねてみた事がある。 私でいいの。 恐々肩を竦ませていると、高等部に進学しても尚も神の子と仰がれる彼は目のふちを滲ませ、色々とすっ飛ばした脈略のない問い掛けだったにもかかわらず意図を正確に読み取ったらしい、和やかな囁きをこぼした。 君がいいんだ。 「美術館に行くのも植物園に行くのも楽しいよ。俺じゃ思いつかないような感想を聞けるしね」 お前では力不足だと切り捨てられなかったのは良いが、微妙に喜べない。 「…バカにしてるでしょ」 「していないさ、ちゃんと尊重してるだろ?」 それともは楽しくなかったかな。 ストレート過ぎる言いざまだ、返しに詰まった私を見遣る両の瞳が凪いだ光を帯びている。 しなやかに強い人の声と視線に息をひっ捕らえられ、締め上げられた心地である。 テニスコートの内外かかわらず百戦錬磨であろうトッププレイヤーに敵うわけがない。 早々に観念して洗いざらい白状する事にした。 「……た、楽しい…」 「ならいいじゃない」 「楽しいけど! でも、だからほんとに大丈夫なのかなって心配になる」 「はは、は本当に変な所で真面目だ。難しく考えないで好きに見たらどうだい」 「私は精市くんみたいに自分の感性信じてません、信じられません」 「だったら代わりに俺が信じようか。というより、もうとっくに信じているけどね。そもそも誘った俺が構わないと言っているんだから、君の気にする事じゃないさ」 鮮やかに突き崩されぐうの音も出なかった。いい加減このパターンから抜け出したい。 学習出来ない愚か者のお手本がここにいます、みんな反面教師にして、降って沸いた羞恥心を堪えながら苦し紛れに心の中で呟くと、右手の甲に頬を預け、小首を傾げた精市くんが子供に言い聞かせる音色で綴る。 「何を見ても同じ感想を抱くのなら一緒に行く意味がないし、最悪俺一人で全てが済んでしまうと思うな。うーん、すごくつまらなそうだ」 退屈を訴えている口角は、裏腹に上向いている。 機嫌が良いしるしだ。 「それは……そうかもしれないよ。でも正反対ばっかじゃ、感性が合わないって事にならない? 少しは共有した方が」 「してるじゃないか。同じものを一緒に見に行っているんだもの、十分共有の範囲内だろう」 「いやそういう話してるんじゃなくて」 「これからも新鮮な感想を俺だけに聞かせてくれ、楽しみにしてる」 「人の話聞いて!」 肩を揺らして笑う精市くんは私の訴え等どこ吹く風、やんわりと躱し、包み丸め込んで、こちらの手の届かぬ所へ隠してしまう。 聞き入れるつもりがないのなら跳ね除ければいいのに、いつだって丁寧に受け取ってくれて完全に拒みはしない、よってこちらが打つべき次の一手や対策は尽きたも同然。 怒りをぶつける理由を失くし、かといって心から喜べるかというと否定する他なく、特別頭の回転が速いわけでも何でもない私は迷ったあげくに沈黙する。 そうして口元を引き締めるこちらを目に当てた精市くんはまた微笑んで、心持下がった私の前髪を節くれだった人差し指と中指でそっと避けながら、大層甘く響く音を鳴らすのだ。 「俺は君が思っている以上に君が好きだよ。だから安心して欲しい。ね?」 言葉の端から端まで強すぎて照れる暇もなかった。 結局言い負かされた私は以降、場違いじゃないかと怖気づいても口にはすまいと固く誓った。 流石に同じ轍を二度踏むつもりはない。 どうせ刃向かったって突かれたくない所を突かれ、恥ずかしさに埋まりたくなるだけだ。 それに他の誰でもない精市くんが受け入れてくれている。隣にいて良いかどうか一番気になる人に許されてしまっては、大丈夫ならいいけど、と答えるしかないだろう。 異文化コミュニケーションと思えばいい。 一人じゃ絶対行かないような場所は言葉にした通り楽しいし、彼が自分の得意分野であれば懇切丁寧にわかりやすく教えてくれる為、つまらないという感想もまず浮かばない。 頬を撫でる優しい声のお陰で、心の隙に染み付いた劣等感を含む小さな心配事も溶けていく。 時々、これって教師と生徒なのでは、校外学習後の復習やレポート作成の授業に似てる、恋人としての在り方について不安を抱きはしたけれど、静かに落とされる呼吸と物語みたいに広がる話を聞いている内に、迷いまで忘れてしまうのだから本当にどうしようもない。単純にも程があると我ながら悲しくなった。 でも考えなしの単細胞のせいで、私と比べものにならないくらい物知りな精市くんからたくさんの事を聞けるのだとしたら、途端に悪くない気がしてくる。 (……なんでもいいように取り過ぎなのかな) 内心で自問自答を繰り返す度に、彼は目元を楽しげに緩めてこぼす。 眉間に皺を寄せて、どうかしたの。 ※ 「あれ?」 奥には確実に美しい庭が広がっているだろうと連想させる優雅な門を抜け、いつ見ても立派な玄関前までやって来た所で、珍しく無防備な一声が耳を打った。 何事かと眼前の背中越しに覗き込んでみると、木枯らしを物ともしない逞しい素手がドアハンドルを握った状態で固まっている。 いまいち意味が掴めず視線を行ったり来たりさせる私を置いて、掌中に収まる端末へ目を落とした精市くんがコートのポケットを探って鍵を取り出した。 「出掛けているみたいだ。3、40分くらいしたら戻るって、ここに」 言って軽く持ち上げた携帯型の連絡手段には、おそらく家の人からのメッセージが記されていたのだろう。 「そうなんだ。あ、でもそしたら、どこかお店に入って待った方が……」 初めてではないにしろ、無人の幸村家に上がったあげくお茶をごちそうになっては配慮が欠けた自覚ある私とて気が引けるというもの。 本当に急だし、気にしなくて構わないのにと例の微笑み殺で断られたが手土産の一つでも持ってからにすればよかった、と辿って来た道筋を順に回想する。 ――企画展を観に少し遠い美術館へ行った帰り、どうしてまたお家にお邪魔する流れになったのかというと、いつもはひやかす程度のミュージアムショップでポストカードを買った為だった。 助言に従い難しく考えず好きに鑑賞した結果、理由は曖昧だが綺麗だなと感じる絵が一枚あり、期間限定の展示品だから二度はお目にかかれないかもしれない、私にしてはよく考えた末に手に取ったのである。 「あの絵が気に入った?」 館内ではお静かに。 記された注意事項が消えていくのを尻目に暑くも寒くもなく過ごしやすい室内を出た瞬間、気温の落差に身を縮めた辺りで頷く。 「うん。えーと…こういう言い方していいのかわかんないけど、なんとなく一番好き」 すっかり言葉にし終えた後で、許しを得ているといえあまりにも子供じみた感想じゃないか、大体もう少し言い方を考えろ、等々の後悔に襲われたが、 「そう。良かった、誘った甲斐があったよ」 もの柔らかな口調と微笑みが戻るので、強張り始めていた肩があっという間にほぐれた。 ゆるゆると降る陽射しのお陰で白く濁らない息は流れ、冬枯れの並木道を通り過ぎていく。 思い出したよう吹き付ける乾いた風が冷たくて、確かめられないのに自分の頬が赤く染まっているのがわかった。日中は穏やかな晴れとなるでしょう、最高気温は平年より高いですね、という天気予報を信じて手袋をして来なかったのはこちらの手落ちだ、かなりの凡ミス、一人反省会をこっそり繰り広げる。 けれど寒くないのは精市くんのお陰だ。 特別なやり取りもなく繋がれた右手だけが、すごく温かい。 隣を歩く人はどちらかといえばわざとふざけたりからかって来たりが多いのに、見事なタイミング、肝心要の時、当たり前に優しいから何も言えなくなってしまう。 言葉に詰まるでもない、呼吸がし辛いわけでもない、どこか心地いい切なさがただ胸に迫って思考が緩んだ。 ありがとうと好きが混ざった、他の表現が見当たらぬ割に足りない気がする複雑な感情をもっと上手く言葉に出来たら、変な申し訳なさも消えるのかもしれない、やわくなる一方の胸の内で巡らせながら踵を小さく鳴らして歩く。 私の目に映る幸村精市という人は自分に正直で、何よりありのままの思いを余す所なく口ずさむすべに長けている。 色んな意味で真似出来ない、私には無理、ある種の畏怖に後ずさると同時、素直に羨ましかった。 どうしたら気持ちを言葉へ正しく落とし込み、あるいは行動ではっきり示せるのか不思議でならない。 対するこちらは伝えたくともしくじる時が多く、どうでもいい小石にさえ四苦八苦するような未熟者。神の子といえども身分は等しく学生、同い年にもかかわらず天と地程かけ離れたこの差はどうなのだろう。 溜め息が唇を割る寸前で引き戻す。 彼の強さを見習い不出来な己が恥ずかしいのだと告白しても、歯痒さに苛まれる未来しか見通せない。きっと精市くんは呆れもせず、何故か嬉しそうに、裏表のない笑顔を降らせるに決まっている。 はそれでいいんだよ。 声色まで簡単に想像が叶ってしまうので、冬の凍える低気温が悪いと言い訳をしつつ、勝手にか細くなる息を慎重に吐き出した。 強豪テニス部の実力者はともかくとして、ごく普通の運動しかこなさない私の足はまあまあ限界、つまり疲労困憊の一歩手前。 口にせずとも察した様子の精市くんが適当に入ろうと言って見つけてくれたカフェでひと息ついて、温かい飲み物でお腹の中から冷えを退治し、心に残った絵について尋ねてみた所、思いがけず会話が弾んだ。 とりわけ意識をしたわけではない、一般的に知られているものから豆知識寄りのものまで網羅し、相変わらずゆっくり語ってくれる、私からすると上流階級の趣味人としか思えない彼のお陰だった。 がそこまで食いつくとは思わなかったな、陽に滲んだ眼差しにやんわり押され、別に他の絵に興味がないってわけじゃない、気恥ずかしい居心地の悪さで声をふらつかせていたら、うん、とごく静かな肯定に肌を撫でられてしまい押し黙る以外の行動が取れない。 とうに知っていると語らずして伝えてくる、柔らかい相槌だった。 困り果ててティーカップに口をつけるもほとんど中身は残っておらず、白磁の茶器を視界の下部に入れつつテーブルの向こうに座る人を見るとはなしに見る。 頼んだ飲み物とは別につがれた水のコップを端の方へ僅かによける、どうという事もない仕草がたおやかなのに、女の人みたいとは感じられなかった。 やっぱり手は大きい。 腕も長くて、服の上からだとわかりにくいけどしっかり引き締まっているのだ。 ガーデニングが趣味で水彩画や美術史に明るいといったテニス以外の好きなものを覚えていく過程で、なんてちぐはぐな人なんだとびっくりした日を思い出す。実際の人となりを知らぬままプロフィールだけを鵜呑みにしたら、コートに立つ彼の姿に驚かされてひっくり返るに違いない。 店内に差し込む光の角度によって生み出された頬へ映る睫毛の影が、嫌味かと恨めしくなるくらいに濃くてきめ細やかだった。 でも顎のライン下を這う陰影や無駄なく筋張った首元、喉仏の凹凸は紛れもなく男の子のものだ。 どれだけ優しくても、綺麗に整った笑顔をかたどっていたとて、荒々しい怒声を上げる場面を目撃した事がなくたって、小さな頃は可愛いね、女の子みたいねとさぞ評判だったであろう顔立ちでも、精市くんは私と同じ女子じゃない。 無意味に持ち上げていた器を下ろした。 ふと視線が重なって、こぼれた息と一緒に笑われる。 「なんだい」 「…ううん」 応じてから、さっきと逆だ、心で呟く。 行きの電車の中。 太陽がぼやけた円形のまま浮かび、まだ地面を暖めていた時間だった。 薄日に揺らされる彼が、車窓を横切る風景へ目線を向けている。 釣られて、そういえばあまりこの辺まで来たりしないな、大きくて四角い窓に区切られた風景へ目を遣った。 常日頃身近な海が見えない。 知らない街は足早に過ぎ、次から次へと慌ただしく変化する。 平行移動していた景色が徐々に剥がれていき、線路が緩やかにカーブしているのだと気が付いた。 長い坂道の灰色と立ち並ぶ家々の屋根、一瞬で消える踏切の黄色と黒、開けた場所へ進めば見渡せる雲一つ寄せ付けぬ薄い青。 彩りは多種多様で飽きず、統一性がなくとも何故だかずっと見ていられる不思議な感覚に首を傾げ、 (あ、そっか) はたと思い至った。 透明なガラスのふちを囲うサッシが額縁みたいだからだ。 生憎大した比喩は出来ないが、瞬きの間に入れ代わり立ち代わり飾られる絵、といった所だろうか。 些細な発見に煽られ無意識に鼻先を隣へ傾けるや否や、昼日中の光を反射した瞳とかち合う。 「……何?」 「うん」 休日の車内はそれなりに込み合っていて、空席を見つけられなかった私達は七人掛けの長椅子の前に立っていた。 たくさんの人が巻き起こすざわめきと車輪がレールを滑る音、両方が混ざる中でも精市くんの声は消えたりしない。 いつから視線の矛先を変えたのかが謎過ぎる、ひょっとして結構な時間見下ろされていたのでは、考え付く限りの可能性を数えつつ再び口を開く。 「ほんとに何!?」 「いいや、何でも?」 一体何がおかしいのか、吊革を掴む腕越しに微笑む人が、まるで説得力のない否定をあっさり返して来た。 よく言う。 何でもないわけがない。 「…ちっちゃい子みたいに熱心に窓の外見てどうしたのとか言おうとしてたんでしょ」 「残念、外れ」 「じゃあ意味もなく私の事見ないで」 「へえ、意味がないとを見ちゃいけないのか。手厳しいなあ」 「いけない。あと厳しくもないし、普通!」 「あはは、叱られちゃった」 「誰に叱られたって平気じゃん精市くん……その手には乗らないからね」 「フフ、まあそう怒らないでくれ。ただ単に、同じ事を考えていたらそれはそれで嬉しいなと思ってただけなんだからさ」 「……こないだ言ってたのと違う事言ってない?」 「臨機応変って知っているかい、」 「精市くんに対応するの難しすぎて私じゃ無理だよ……」 「諦めるにはまだ早いだろ、もう少し考えてごらん。君なら出来るさ」 「またふざけてる」 「まさか。至って真面目だよ」 信じ難い躱し方をする人をじと目で睨むや否や素早く気取ったらしい、軽く肩を竦めた後で吊革を持ち替え、横合いに立つ私の方へと視線を投げ寄越してくる。 ほの明るい陽射しの乗った顔が見やすくなった。 「同じでも違っていても、俺にとってはそう変わりないんだ。どちらにしろ聞いてみたいもの。いくら俺でも君の目の中まで覗けないしね」 口がぽかんと開きかけた直前で押し留める。あやうく公衆の面前で間抜け面を晒す所だった。いくら俺でもって、どれだけの自信があるんだ。己を信じるにしたって迷いがなさ過ぎる。第一無理難題、不可能だろう。 「そんなの精市くんじゃなくてもみんな出来ないよ。自分以外の人の中身なんて、頑張っても見れないんだから」 「だとしても望みはするだろう?」 「……あんまりしない」 「は無欲だなぁ。けど俺は欲張りだからさ。諦めも悪いし、いつまでも立ち止まっていられない」 「……精市くんをそんな風に見た事あんまりない」 「俺の目の中、覗いてみるかい」 「だから無理だってば!」 時たま呆れるくらい大らかな気性の持ち主は気にならないのかもしれないが、はっきり言ってこちらとしては全力で遠慮したかった。 あらゆる物事がどんな風に映っているか、目の前の彼をどう感じているのか。 知られて弱り果てるまでいかないものの、積極的に理解して欲しいとは思えない。 だってどれだけ単純でバカなのかがバレるだけだ。 今更隠すつもり等ない、しかし堂々曝け出す度胸はなく、精市くんの反応を脳内で推し量るのも怖くて、私にとって良いのか悪い事なのかもわからなかった。 突然の偏頭痛に襲われる心地である。治療法や解決策が一向に浮かんで来ない。 と、魚が群れてぐるぐる回るみたいに繰り返してしまう恐れすら看破されている気がして、いよいよ本格的に頭を抱えたくなった。 考えれば考えた分だけ迷宮入りしていくので、無理矢理振り切る。脳内で再生した電車内でのやり取りを打ち消し、悟られぬ程度に背筋を伸ばした。 中身は覗けなくても、好きなものをもっと知っていく事は出来るかもしれない。 「精市くんはどの絵が好きなの?」 「俺?」 「そういえば私が聞かれるばっかで、私の方から聞いてみた事なかったかなと思って」 知識不足の最たる自分がずけずけ踏み込むのもどうなんだと気後れしていたのだ。 「今日観た絵の全部、何がどこにあったか覚えているのかな、君は」 静かな笑声を含む唇が半月型に撓み、またしても己のバカさ加減を実感する。 「……すいません正確な場所まで覚えてません」 「フフ、だと思った」 「で、でもどんな絵があったかは覚えてるよ!」 「そうだろうね」 つい数時間前にいくら俺でも他人の目の中まで覗けないと口にしていなかったか、この人。 呆気にとられ、数瞬の沈黙を走らせてしまう。 今の見事な断言っぷりは矛盾している。 「が周りの奴らが考えるよりずっと真面目で一生懸命なのは、隣で見ていればわかる事だ」 あまり気にしないように。 囁く音は胸の奥底を打つ。 急いで紡ごうと意気込んでいた言葉が切り取られ、鮮やかに奪われてしまった。 「大丈夫、俺には弁解しようとしなくていい。そんなに慌てないで。まあ慌てるも面白いんだけどさ」 相変わらず余計な一言が多い。 「なんでいつもそうやって人の事面白いとか言ったりするの」 「じゃあ可愛いよ」 「かっ…! じ、じゃっ…じゃあって何!」 「ははっ! 、動揺し過ぎ。…ッフ、あはは!」 心底愉快で仕方がない、言わんばかりの全開の笑顔である。 快く受け入れ、もう! とか何とか可愛く怒るべき場面のはずだけど、私はどこまでも私でしかないらしい、しかめっ面で口元を厳めしく引き結ぶ。 笑声に揺れる肩が恨めしい。 気が済むまで面白がってればいいんだとふてくされる。 やがてなだらかな曲線を描き閉じられていた瞼が持ち上がって、露わになったかの瞳が淡く、華やかに微笑んだ。 「それはそれとして家においで」 どういう事!? 呼吸まるごとが間欠泉の如く吹き出しかけた。 先程うろたえるなと釘を刺されたそばから慌てふためく。 「そ、それってどれ! ていうか意味がよく…なんで、なんの話」 「俺の好きな絵と君の気に入った絵、両方載った画集があるからさ。ああ、この時間だと誰かしらいると思うけど、妙な気遣いは必要ないよ」 「…………」 「もしかしてそこまでの興味はなかったかい、フフ」 「……まず先にそこ言ってよ……びっくりするじゃん。精市くんの話し方って時々英語みたいだよね」 主語と動詞、目的語の並び方が日本語のそれではない。 簡単な例文をあげるとするとこうだ。 私、見た、絵を、昨日。 辞書を片手に直訳を試みるテスト前の勉強時間が込み上げて苦かった。 「なるほど、国際交流か」 「話広げて大きくするし」 「小さくまとまるよりいいだろ?」 君につまらない男だって思われたくないしね、朗らか極まりない物言いの精市くんが、空いた椅子に引っ掛けていたコートを取る。あまりにも自然な振る舞いに見逃してしまいそうになるが、問答無用で有無を言わさず次の目的地を決められている。 イエスかノーか聞くまでもないってやつですか。 若干釈然としない心境に陥ったものの、断る理由も意味もまるで見当たらないからついていくしかない。 さっさと立ち上がり袖を通し始めた彼に倣い、お店の人が渡してくれた籠に仕舞ったバッグと上着へ手を伸ばした。 ――以前、真田くんが精市くんに怒っていた通りだ。 を甘やかすな。黒い帽子のつばをぐっと掴んだ強健な拳と、奈落の谷もかくやと深く刻まれた眉間の皺が脳裏をよぎる。 生活指導の先生よりよっぽど厳しい視線をぶつけられていた方はといえば、真田、保護者みたいだな、一笑に付し軽々いなしていたけれど、取りざたされた当の私は高等部でも引き続き厳格な風紀委員に同意していた。 じっくり記憶を辿ってみた所で、本当に甘やかされているのだと嫌でも思い知る。 悠然と構える人に許して貰うばかりでは申し訳が立たない、鍵穴を回す背を目にあて、どこかで時間を潰すより今日はもうお暇して出直そう。 踵を返しかけたら、手を止めぬままほんの数秒間考える素振りを見せた精市くんに、いや、と手短に引き止められた。 「今から来た道を戻るのは面倒くさいな。それに、俺達が店へ着く頃にはもう皆帰って来ているんじゃない。完全に無駄足だよ。日が陰ればもっと寒くなるしね、外で待つというのもおかしな話だろう。遠慮しないで、さあどうぞ?」 優雅な物言いが添えられてアンティーク調のドアが開き、広い肩の向こうで和らぐ表情は学校で目にするものと相違ない。何気なくさえある。 整然と並べられた説得力溢るる理由に一瞬声の出し方を忘れ、固まった声帯は目一杯喉元を締め付けた。 晴れと曇りの間の半端な空模様の下、それでも残る陽の光が指先や頬をうっすらくるんで温める。 面倒で寒いのは俺だと堂々主張する精市くんが、今日一日ずっと冷え症の私を気遣ってくれている事がわからぬ程もう子供じゃない。 多分、中学生の時や高等部に上がってすぐの頃だったら見過ごしていただろう。 いつだって穏やかに、だけど強かに自分の意志を貫く様を傍で見て来てようやく知ったのだ。 否応なく気付かされ返答に困り視線の行き先すらさ迷わせていると、彼にしてみれば突き付けるつもりなんかなかったはずなのに、承知しているよ、と全部をひっくるめて先回りされてしまう。 ‘目の前に差し出された天秤はお前の為だけの天秤’ 柳くんによって限りなく正確に弾き出されたいつかの解が不意に蘇る。 私の中には精市くんの為だけの天秤があるのだろうか。 自分自身の事なのに相応しい答えが浮かばなかった。 どうしてこう情けないの、出来ない事が多過ぎる、と風船が膨らむ前から萎んで力が抜けるようだ。 押さえ、ふっと息を切る。 いくら長い時間悩んだって解けそうにない難問を避けたのち、かさつき始めている唇に意志を持たせた。 「ありがとう。お邪魔します」 × top → |