正しい解を求めなさい・後 何度招かれても慣れない広さのリビングは雰囲気すら上品だ。 ドア近くのコートハンガーへ羽織っていたアウターを掛けた精市くんが、ちょっと待ってて、一言ながらも思いやりを含んだ声で暖房を入れてくれる。 部屋が暖まるまでに要する時間は我が家のヒーターに比べ段違いに少なく、その上床暖房まで完備しているのでまさに至れり尽くせり、環境差に悲哀を覚えるよりひたすら羨ましい。 空気の温度が高くなっていくにつれ冬場お風呂に入った時のよう足がぴりぴりし始め、帰り道ですっかり体が冷えていたのだと気が付いた。今の時季のほとんどは手足の爪まで寒さに凍えているから、麻痺していたのかもしれない。 出して貰ったお客様用スリッパの上からでも伝わる心地いい熱に、あったかい、長い息をついた後で思わずしみじみ呟けば、温まってくれたようで何よりだ、爽やかに笑われてしまう。 淡い色味の壁に通ずる天井は広くて高い。彼とお付き合いしていなかったら絶対にお目にかかる機会等なかった。 ていうか精市くんの部屋だって色々と有り得ないし、独りごちる。 初めて足を踏み入れた日の驚愕はいまだ健在、気を張っていなければぽかんと見上げる事間違いなし、頭のよろしくない小学生並の反応をしてしまい面白がられるのは一度で十分だ。 純白のレースのカーテンで覆われたこれまた背の高い窓の向こう、そのまま庭へ通じるウッドデッキが広がってい、とりどりの色彩に溢れていた去年の春を思い浮かべた。 専用のガーデンシューズを借りてお邪魔した日に知った、陽向のにおいも蘇る。遠目からでも春夏秋冬手入れが行き届いている事がわかる花のすみかは、寒気が団子になって募る今やどことなく寂しげだ。 学業にテニスにと恐ろしく忙しい人なのに、何をどうやってガーデニングに精を出す暇と時間を捻出しているのか全くもって謎である。 生まれ持った才能としか言えず、優等生だなんて有り触れた評価じゃ追いつかない、頭ばかりか要領も良いとは天は二物も三物も与えているじゃないか。流石神の子。 贔屓だ、不公平感に唇が曲がりかけ、だけど全部彼自身が積み上げ培って来たもの、すぐさま考えを改めた。 私はいつも同じ賞賛しか渡せないけれど、精市くんは本当にすごい人だと心から思う。 等と寄り道ばかりする思想に耽り突っ立っている間に、今まで出会った人の中で一番、ダントツにすごい彼はろくに確認もしないで私が腕に預けていたコートを引き取っていってしまう。それからこちらがお礼を言うより早く画集のタイトルと装丁を口にし、確かその辺りにあったはずだから、二段目の左側、ここはお洒落な古書店ですかとツッコみたくなる本棚を指差しキッチンの方へ消えていく。 教え方が微妙に適当だ。 しかし取り残されっ放しでいるわけにもいかず、指示通り歩を進める。 シックなオーディオ機器の隣へと赴く。触れるのも慎重にならざるを得ない家具に緊張を覚え、人知れず溜め息を吐いてから一冊ごとに注意を払って探してみたが、日本語に始まり筆記体の英語、果てはイタリア語やフランス語と入り乱れた言語の羅列に気が遠くなった。 耳で拾った情報と眼前の文字が重ならない。 途方に暮れて唯一の頼りを呼ぶ。 「それっぽいのたくさんあり過ぎてわかんない」 やや離れた位置から届く声に角はなく丸い。 「ゴッホの絵でよく見るコバルト系色の表紙だよ」 私にとってはものすごくわかりにくい例え方をして来た。絶対わざとだ。 もういい一人で見つけ出してやる、唇の裏でなけなしの意地を炸裂させながら腰を据えて構える。 背表紙に刻まれた一言一句に人差し指を添わせ、脳内でたどたどしく発音し、皿にした目を上下させていった。 飽きもせず幾度となく繰り返す。 やっとの事でこれかと狙い定めた罫下を引き、表紙が垣間見えた直後に声を上げた。 「あった!」 書棚にきっちり仕舞われた本四つ分進んだ先で、二冊目にも到達する。 それなりに重い手応えに達成感を得、意気揚々とつま先を戻せば、見た目からして高価そうなテーブルに湯気立つ茶器が揃っており、値が張るに違いないソファへ腰掛けた人が眼差しで頷いた。 「お疲れ様」 両肘を膝に乗せ、手と手を顎の前で組んだ上でにっこり笑う姿は悔しいがとても様になっている。大人を差し置いてこの部屋の主は俺だと宣言されても反論出来ないだろう。 語尾に、大変よくできました、学校教師然としたコメントが付きそうな物言いに浮かれた気分が掻き消されていく。 お疲れ様って何、ちょっとくらい探すの手伝ってくれてもいいとこなんじゃないの。 つやつやに磨き上げられたフローリングを押す足裏に込め、どうぞと勧められ彼の横に腰を下ろすと、座り心地が良すぎて体のバランスを崩しかけてしまった。 この感触が日常的に存在し慣れてしまっていたら、教室の椅子なんか硬いわ座りにくいわで疲れるのでは、よく真面目に授業を受けられるものだ、感心しつつ抱えた画集を手渡す。 「うわ、やっぱりまだ少し冷たいや。相変わらず酷いな、君の指」 すると、僅かに掠めた体温について叱責めいた音が飛んでくる。 紛れもない事実だから申し開きようがない、好きで冷え症になったんじゃないです、かろうじて楯突いて精市くんが手ずから淹れてくれた温かさに触れた。 舌で味わうまでもない、鼻をくすぐる香りだけでわかる。 冬に熱を奪われた掌が、消え掛けだった所へ火を入れられた暖炉みたいにぬくもりを取り戻していく。 精市くんはカモミールティーで、私は嬉しいやら恥ずかしいやら一緒にいる内にすっかりお馴染みとなったジンジャーハーブティー。 ひと口頂くと、ほのかな甘さが口腔内へ広がり、続いてすっきりした後味で呼吸も落ち着く。はちみつとレモングラスが入っているのだ。私の貧相な味覚が感じ取るのは二つしかないが、おそらく他にもハーブがブレンドされているに違いない。 器の中の水面から香り立つ温かな白を、ふう、とゆっくり逃してまたひと口。 さっきお店で飲んだものより数段美味しい、こっち方面の仕事に向いているんじゃ、空想の未来に意識を遣った。 絵画ソムリエがいるカフェみたいな触れこみで、あ、本ソムリエでもいいかもしれない。 爆発的な人気とまではいかないかもわからないが、少なくとも立海周辺の界隈では流行ってもおかしくない気がする。 現実味ゼロの予想図を巡らせ、唇の乾燥を潤してくれるだけでなく芯から温めてくれるハーブティーをのんびり飲み進めていく。 自分で作ってみたらどうだい。レシピを教えるし、ハーブも分けてあげよう。 初めて淹れて貰った日に聞いたやわい気配が、記憶の奥で揺らめいた。美味しい、あったまる、たった二つきりの感想をうんざりする程浴びたであろう彼は、捻りも工夫もあったものじゃない賛辞にもかかわらず鷹揚に微笑んでいた。 私でいいのと尋ねるつもり等もうないが、そんなのでいいのとは聞いてみたい。いや、聞かないけど。なんか怖いし、からかわれたくないから。 「あの美術館には展示されていなかったけれど、これもが気に入った絵を描いた画家のものだよ」 お腹の内側に灯った確かな熱に充足しカップをソーサーへ戻したと同時、分厚いページをめくっていた精市くんが、見やすい角度まで本をずらしてくれる。 私に語り掛ける声音はどうしても優しい。耳たぶがじんわり熱くなったけれど、気付かないフリをした。 とりあえず集中しようとふやけた心に活を入れ、視線を寄せる。 それとこっちもだね、導く指筋が閃いて、迷う事なく次々示し、その手馴れた仕草に専門職の風格を見た。おまけにこちらの好奇心が沸き立つような逸話や美術の先生よりずっとわかりやすい解説、おそらく素人には難しいはずであろう画法の違いまで砕いて説明してくれるのだ。 絵画ソムリエのカフェ等とふざけて思い描いている場合ではない。 「精市くん、学芸員とかに向いてると思う」 「俺のは趣味。趣味を仕事には出来ないさ」 瞼の際で薄い明かりを震わせる人が、首を傾げて大らかに笑う。 そうかなぁ、出来ちゃいそうだけど、返答を脳内に浮かべ、紙面上であっても美しい色の重なりへ向かって少しばかり背を屈めた。 手元を覗かれた精市くんはいつもなら、随分熱心だね、揶揄の一つや二つ仕掛けてくるはずだが安らかな吐息をこぼし、プロ顔負けの小さな絵画鑑賞会を続けるだけだ。 折に触れて見上げ、純粋な疑問をぶつける。 戻る答えは明快で躊躇いがない。 付け足される画家やその時代のエピソードに、へええー……、とクラスメイトでしかなかった頃から幾度も口をついてきた感嘆が溢れた。 知らない景色やまつわる知識の数々が、精市くんが選ぶ言葉を通して思い出話のよう伝い染みてくる。 絵本を読み聞かせる親とうんうん頷き楽しむ子の図である、と最初は自らの程度の低さや一見微笑ましいが本質的にはおかしな状況に悲しくなっていたけれど、きっと違う。相応しい表現が他にあるはずなのだ。 しっくりくる落とし所は何処かと脳裏で探りつつ、圧倒的に信頼の置ける声に誘われ過日の芸術の都へ遡っていく。 私と縁遠い世界、絶対に知る事の叶わぬ色彩と、空気のにおい。 描かれた絵の美しさは鮮明に心へ残り、目を惹く色にかたどられ溢れて、人の寿命より長く世に在っても一向に褪せない。 いつの間にか爪と指の間まで温みが巡り出した時、唐突に悟った。 「わかった、アルバムだ」 皺も指紋も一つとて存在していない新品同様の本の縁をめくりかけていた指先が止まった。 「うん?」 ちょっとびっくりした目が上から降って来、わかりにくかったかもしれないと補足する。 「今、精市くんに話して貰いながら絵を見てるの、なんか思い出すなって考えてたんだけど。人のうちのアルバムみたい」 精市くんはにわかに姿勢を崩し、真っ直ぐにこちらを見澄ます。 多少の緊張も忘れて懸命に舌を回した。 「当時の人の、写真だよね? そこで生活してる人とか風景とか見たものを絵に写してるし。あでも、実物通りに描いてなくて、模写とかじゃなくてもそんなに変わらないかも。頭の中にあるものを自分で描いて、自分にはこういう風に見えます、考えてますって形にしてさ、それ見た他の人があれこれ言ったり知ったりするから、えーと……写真いっぱいのアルバム開いて話すのに似てるっていうか……」 舌の端へ落とし込んでおきたかった感情が段々とぼやけ出す。 精市くんのように適切な言葉を拾えている自信がない。 僅かな焦りが喉を蹴り上げてきた。 「だから、あの……絵自体勿論綺麗だしすごいし好きなのもあるんだけど、美術品ってだけでどうしても敷居がある気がして気後れしちゃうでしょ。そこを、誰かのアルバムだって思えば結構身近に感じるし、その…いわゆる絵画鑑賞って言われて連想するお堅いイメージじゃない、違った楽しみ方が出来ていいなと…? 写真より手間も時間もかかっててすごいなって…。あ! えっと、写真には写真の良さと大変さがあるから、どっちの方が優れてるとかじゃないよ!」 話が大幅にずれている。 遂に込み上げた冷や汗に近い怖気で背中が強張り、テニスコートの外では大概柔和な雰囲気を纏う人が黙ったまま、真摯な瞳だけを傾けてくるから余計に焦った。慌てもした。 「つ、つまり…つまり? 画集って面白いと思った。思いました。あと、私精市くんの話し方好きだし、聞いてて楽しかったよ」 単なる気付きの発表から平常心が失われ、話の着地点も消え失せてしまう。 やばい。何を言おうとしていたのか、もう本当に全然わからない。 空転する脳は声なき悲鳴を上げている。 次いで穏やかに積もる沈黙が胸に響き始め、顔の角度を保っていられなくなって、鼻先を足元へ力なく落とした。 「……どうしていきなり黙っちゃうの。もう終わりかい?」 ゆるゆる空気を揺らす声音がこちらを見ろと暗に訴えている。 反響そのものは優しく強制の意図だって露も感じられないのに、何故だか逆らえる気がしない。益々重く圧し掛かる、だけど不思議と嫌じゃない、上手く言い表せぬ空気の粒が、凍りつく冬も何のそのとやんわり弾き、私を丁寧に撫で摩ってくる。 耐え切れず口が滑った。 「ごめん、かなりバカっぽい感想言っちゃった。あと色んな意味で失礼だった」 「いや。そんな事ないよ」 「どう考えたってそんな事あるでしょ……的外れで、しかも偉そうだったじゃん」 「ないって言ってるだろう」 「ある。だって絶対言い方間違ったもん」 「それなら正しい言い方をして貰おうか」 取って突き返された返答は、空をけたたましく切り裂く雷みたいに力強い。 急に運動部の部長らしさが現れた、何事だ、条件反射的に肩を竦ませ隣を仰げば、私がアルバムと称した画集を知らぬ間に閉じ、背もたれ側へよけた精市くんが、声の張りにまるでそぐわぬ甘さの微笑みをたたえ、一対の瞳へ薄く微かな陽光を取り入れ浸し、虹彩を包む透き通った膜に揺るぎない意志を反射させていた。 口の端は上向き。 遠くで見ているだけじゃわからない、想像以上に鍛えられた体の奥にある心を静かに語ってくれる。 眦が和らいでいる。 瞬く睫毛にやわく溶けた影と細やかな光の雫の両方を見た。 咄嗟に瞼を覆いたくなって、すんでの所で堪える。 叶えられそうにない願いなので苦し紛れに逸らし、バカじゃないの、喉奥にて紡ぐと一層真実味が増していった。本当にバカみたいだ。 目の中までは覗けない。 言ってみせたのは決して嘘をつかない彼だというに、私だって電車に揺られるさなか不可能だと呆れたくせに、隠しておきたい気持ちや自分自身すら探れない奥底まで見透かされた錯覚を抱く。 しらずしらず押し殺していた吐息がやたらと肌に障る。 今更緊張するなんて、意味がわからない。 時に身震いする程の凄味を間近にし、絶対に誰にも出来ない事でも俺はやってみたいと平気な顔で告げられ、本気なのか冗談なのか判断に迷う柔軟な姿勢に触れる度、私は舌の根をぶ厚い空気の層で固めてしまう。 正否を求める事も放り、尽くすべき言葉が霞み消えていく。 じりじりと足元が追い詰められた。 スカートの上で重ねた指の行き場が不明瞭になり、いっときの誤魔化しだろうが何だろうが構わないとまだほのかに温かいティーカップを頼って縋る。 「…………いいよもう。なんでもないです。忘れて下さい」 最後のひと口を飲み干す事により潤った唇で跳ねのけ、勢いのままに丈の低いテーブルへ置かれた二冊目の画集へ視線を伸ばした。ちょうど対角線上だ。 よくわからない間を持て余すよりはましだろう、弱々しい陽射しに照らされた美しい表紙を手に取ろうと膝を伸ばし、一、二歩進んだら、 「えっ? あ…、わっ!」 後ろの方から肘を掴まれたあげく結構無理矢理ぐいと引っ張られた。 抵抗する隙もなく、浮遊感で一瞬背筋が震える。どうやら抱え上げられたらしい。 現状を把握した所で時すでに遅し、引き締まった腕が思い切り私に触れていた。 「はい、続きは?」 片腕に私を乗せ、もう一方の腕で宙に浮きかけた両足を支える人が、二人分の体重を受けて沈むソファに悠々座ったまま満開の笑顔で促す。 何の。 何が。 線が細めな見た目と違ってかなり図太い神の子は、こちらがいくら眉を顰めても晴れやかに穏やかだ。 「さっきの、続けてくれ。こうすれば君の声が小さくても聞こえるだろ。落ち着いてゆっくり話すといい」 「逆に話せないし落ち着けるわけない!」 「フフ…うん。恥ずかしいだろうしね」 「わ、わかってて普通やらないでしょ!?」 横向きの体勢を取らされているせいで話しにくかった。 そもそもどうしてこんな事態に陥った、ついさっきまで微塵も漂っていなかった雰囲気だ、とにかく困惑するしかない。 足をばたつかせ、必死にもがき、抜け出そうと試みる。 にもかかわらず、精市くんが憎らしいくらい優雅に笑んで私の悪あがきをのんびり眺めてくるから、率直に言って腹が立つ。 離して、嫌だ、なんで、俺が嫌だから。 不毛なやり取りで時間を食った。 取りに行く、行かなくていい、更なる無駄を重ねてとうとう気力が尽きてくる。 項垂れた一瞬後、見計らったように私を抱え直す人の右手の居場所に喉が裏返り、生まれる声もみっともなく震えるのだった。 「い、いやあの…ちょっと…」 防寒対策に履いてきた黒のタイツを、下から上に滑っていく。 「だからちょっと!」 膝の少し上にあったスカートの裾が腿まで迫り、ぎょっとした私は堅固な肩口を引っ手繰るみたいに掴んで、気管に押し込められた息を爆発させ待ってと懇願するも、高い体温を放つ掌にとても優しく撫でられあえなく封殺されてしまった。 速度を上げる心拍が呼吸を阻む。頭の上から足の先まで火照って最早暑い。 重度の冷え症である私にとって鬼門の冬が、四季折々の花を愛でる人の手で塗り替えられていくよう。 せめてもの反逆だと腰骨辺りに添う指を左手で剥がそうとして、見え辛いが為に目測を誤り、太い手首の腕時計とぶつかった。金属製のそれは冷たい。 耐えて硬い手の甲を探り、これ以上ない程全力で押したがびくともせず、むしろ手の皮膚が痛み始める。 暴挙としか思えない、腹に据えかねて手加減なしに叫んだ。 「触るのやめて!」 「どうして」 「ど、どうしてって…どうしてって、それは」 平然と問われ声量が乱高下した。 言葉と伴う感情のふらつきはいまだ続き、一人壁に向かって打ち込む虚しさに襲われる。 手応えがないわけではないが、ことごとく跳ね返され息が荒れた。 右の指先数本で感じる薄手のニットの手触りにさえ胸が騒ぐのは不可抗力だ、離れようとして、服越しに伝わる出っ張った鎖骨の形にわけもわからず慄いてしまう。 一刻も早く答えなくては、考えれば考えるだけ空回っていく。 形振り構わず孤軍奮闘するこちらの心境を知ってか知らずか、というより知りながら無視しているのか、春の庭の如くまばゆい微笑で頬を彩る彼が決死の足掻きを宥めすかしてきた。 癇癪を起こした子供の背をよしよしと撫でるみたいに、慈愛に満ちた手付きで逆に嫌味だと思えてしまうくらい丁重に扱われるせいで、元から存在していなかった可愛げがマイナスの値まで落ち込む。 気遣う場所がおかしいだろう。だったら今すぐ下ろして欲しい、そもそも抱っこっぽい事しないで下さい、膨れ上がる一方の心臓に抑えの杭を打ち、優しげに触れられる都度微かに粟立つ背中と全身へ行き渡る恥ずかしさが滲む指、断じて意識はすまいと繰り返し唱えた。頬と額が熱くて仕方がない。 「…とっ、にかく、どうしても、なんでも!」 答えになっていない答えを投げ付け心だけ脱兎の勢いで走らせ逃げようとした瞬間、おとなしやかに這っていた広い掌に熱っぽい意志が宿り、ラケットを握り続け柔さの削げ落ちた親指が腿の内側へと向かうので、喉ばかりか体中が引き攣れて裏返りそうになった。 ものの一秒で沸騰した血管で脳が煮える。 「あ、ま……っ、ほ、ほんとにダメ! 変な感じになるからダメ!」 「あはは! 変な感じか、いいね」 「よくない!」 傍若無人と言っても過言ではない振る舞いに、幼く無邪気な表情と朗らかな声色が相応しくなさ過ぎて違和感しかない。 笑ってる場合か。 心中にて巻き起こったツッコミは音もなく消える。 「でもまあ、俺は変な感じにはならないかな」 なってもならなくてもどっちでもいいから離して欲しかった。 「私と精市くんじゃ脳のつくりが違ってる。もう別物だから比較しなくていい、っていうかしないで下さい」 「そんなわけないじゃないか、同じだよ」 「無意味な嘘つかないで」 「嫌だなぁ、俺はいつだって本音しか口にしないさ。君もわかっているだろう?」 あまりにも正々堂々な宣言をされ納得しかけてしまう。 いや待て違う、絶対色んな事がおかしい、たるんどる、最後に真田くんの厳しい叱責の一声を借りつつ、激しくかぶりを振る要領で不本意な思考の流れを断ち切る。 「わ、わか、わかりません」 「じゃあ教えてあげようか」 「ええ!? い、いいです間に合ってます!」 「まあまあ、そう遠慮しないで」 「遠慮じゃない!」 「丁寧にわかりやすく教えるよ? 君の好きな話し方でね」 隅まで温まった室内の酸素を吸う一歩手前でそれはそれは美しく微笑まれ、しかし素直に受け取れるはずもなく食い縛って顔を顰める。 こ…このやろう…。 行儀のよろしくない悪態をつきそうになるのを堪えた為だ。 私なりに一生懸命考えた感想を逆手に取られ、じっとしてなんかいられない。 「……今度は本気でふざけてる。あと面白がってるでしょ」 「なんだ、やっと気付いたのかい」 「ムカつく腹立つ人の話真面目に聞いてない」 「はは! 酷い言われ様だ」 「言われたくないなら私の事からかうのやめればいいだけの話だよ」 「そうだな、が時と場合と場所を考慮した上で俺を褒めてくれるようになったら考えようかな」 「…精市くんがすごい感じ悪い」 「の太ももは柔らかい」 「はあ!?」 想定の範囲外にも程がある発言に声が呼吸ごと吹っ飛んだ。 「何言って、バッ…バカ? ほんと意味わかんない、急に変な事言うのやめて!」 「急でもないし変な事じゃないよ。正直に嘘をつかないで本心に従って、俺は好きだなって言ってるだけじゃないか」 上目遣いで仰がれた所で可愛らしさの欠片も感じられない。 「……セクハラ」 「俺以外の男に言われたら言えって前にも話したはずけど、もう忘れたの。あ、ちなみにそういう時は思い切りグーで殴るように」 「………じゃあ精市くんはパーで殴る」 「平手打ちか、痛そうだ。くれぐれも手加減してくれ、フフ」 こぼれた囁きはひたすら凪いでおり、痛いという単語の真実味は皆無。 そびえる壁打ちの壁が頭の中に再び姿を現し、私から体力気力、ありとあらゆる活力を奪い去っていく。情けないが今にも挫けそうだった。いっそ潔く音を上げて降参した方が楽なのではないか。 「……殴らないのかい?」 これで終いだとばかりに精市くんがにこやかに言い刺してくる。 くっ…と呻いて堪えるしかなく、肺は無惨に握り潰され、通じる喉が見えない力で締め上げられてしまう。 そこまで言うなら本当にぶってやろうじゃないか、半ばやけくそ気味に決意したのち、顔の筋肉を奮い立たせ整え、強固な肩に当てていた右手を離しかけた寸前、全てが断ち切られた。 初めは抱え直されたのかと思った。 私を支えていた腕が突然がくと下がり、冬仕様のタイツに添う掌は腿裏へ移って、体丸々引き落とされる。 何がどうこうというよりまずびっくりした。 声も出ない。目を見張る。寒さを感じる器官まで鍛えているのではないかと信じたくなるくらい薄着な人に視線が捕らわれる。 精市くんの長い足の上で横抱きにされたと気付いた時には端整な顔が間近にあって、え、の形に開き始めていた唇はその役割を果たす事なく塞がれた。 瞬きと血の脈動が一拍遅れ、柔らかいキスの変わる角度の隅で思い出したよう振れ戻る。 ゆっくり味わうみたいに食まれて、ぺしゃんこになっていたはずの肺が一気に腫れて膨らんだ。 心臓も同様に限界まで高鳴り、生まれた鼓動は止める間もなく頭の天辺まで駆けてゆき、抑え切れない甘い震えが肌や唇を通し伝わってしまいそうで怖かった。 頬や目元に降りかかる、癖のある髪が少しくすぐったい。 呼吸を止めていたせいで気管が苦しみに喘ぎ眉根が寄った刹那、ぬくい熱の余韻に下唇をぺろと舐められる。背の裏をくすぐる感覚と内側へ染み渡っていく空気に気取られていたら、やっぱりどこか子供みたいな表情の精市くんが、甘い、と他愛無い声音をこぼした。 「はちみつの味がする」 「え? そ、それは、だって今飲んでた……ていうか精市くんが作ってくれたんじゃ、っん」 私の答えが馬鹿正直過ぎて聞き入れるに値しないと断じたのか、うっすら濡れた唇が再び重なってくる。 吸い込んだ息まで追って包んでくる深さのお陰で、脳へ酸素が回らない。 すぐに割り込んできた舌の温度と潤んだざらつきに首筋が強張った。 乱暴になんかされていないのに胸が苦しくて、初めてのキスじゃないけど体の中心は慌てふためき、流れる血の速度に叩き出された声や吐息が舌の上へ転がり、どうにか消そうともがいた所で根こそぎ持っていかれてしまう。 奥から滲むこれだと明確には示せない感情が、心やお腹のやわい部分を掻き回した。 不快感の抜けた眩暈に襲われる。 濡れた上顎、たわむ頬肉、表に比べなめらかな舌の裏側、精市くんがすごく優しくなぞるから、背骨は徐々に溶かされていく。 湿った水音で鼓膜がぶれた。鳥肌の広がる肌に予感が沸き立つ。 中学生の頃なら絶対にわからなかったし、ともすれば気付きもしなかった。 でも今の私は知っている。 単に唇を合わせるだけじゃない、口付ける意味や隠された気持ち、想像さえつかなかったやり方、交わした後に待っている熱の奔流。 到底正気じゃいられないはずの、信じられないくらい恥ずかしい事が嬉しくて、でもいつまでも慣れずに結局羞恥が勝る気がする、誰よりも一番近くで触れる精市くんという人の形や体温の心地よさがもう恋しい。 (ダメ) 煮崩れる脳細胞を掻き集め、必死に言い聞かせる。 しかし出来損ないの呼吸にさえなってくれず、ぐ、と力を籠められ引き寄せられれば自然背を反る恰好となった。 弾みでスリッパがぱた、ぱたと音を立てながら床へこぼれ落ち、沈み込むソファの物柔らかな気配と衣擦れの響きで芯がぐらつく。 怖い、怖くない、交互に溢れ混ざって意識がとろとろと濁った。全身を巡る血の脈は相変わらず狂い騒いでいる。 「せ…精市くん、あの」 それでも尚、唇が離れた僅かな隙に呼び止めて、残ったなけなしの力を両の指先へ含ませた。 ところが私に言われなくたって悟っているであろう彼は不意に目を細め、ようやく捻り出したこちらの覚悟を無視してまた鼻先を寄せてくる。精緻な絵画を思わせる美しい二重の下で瞬く揃いの瞳が、いつの間にか全く穏やかなものじゃなくなっていた。 肩が竦んだ。 背中と腰の境がひくつく。 胸の真ん中を重い熱板で貫かれた境地に陥り今にも死にそうだ、生命線を完璧に掌握され尽くしている。 キスがあまやかなくせして強い。 間髪入れず腿の横を撫でられ、冷気も熱も等しく伝導する腕時計と青みがかった静脈の走る手の甲へ置き去りにしていた左の掌がびくと跳ね上がり、外れかかった指を一も二もなく掴まれた。 何本かの爪先と第一関節までを包み、咎めるでもなくやんわり擦る硬い皮膚が甘皮の辺りをゆるく押すので、声帯が息絶える。もう一方の厚い掌からは癇癪をあやす色合いが失せており、大きな丸を描くよう動いて伝う。 膝の皿から始まり、近くの微かな窪みと半端に伸びた腱を辿って、触れられる度に太さや肉付きが気に掛かる腿の横を這っていった。静かに撫で上げられる感触はタイツを履いていても耐え難い。際どい位置で留まったスカートの裾を下ろしたかったが、二つの意味で手が離せずとにかく困る。 あたたかい手が何かの幕をよける仕草で腿上を滑り、確かめるみたいに肌へ押し込まれる親指は布越しでもはっきりとした形がわかった。 どれほど触らないでと訴えても梨のつぶて、時には大口を開けて笑い、悪ふざけが増すと面白がってつついてくる。 人のコンプレックスを何だと思ってるのと睨み付け、君のそれはコンプレックスの内には入らないよ、よどみない声音で微笑まれ絶句した。 慰めているようでその実、切なる訴えをさっさと退けているだけだろう。 俺は気にならないし好きだからそんな風に思う必要はない、隠しておきたい弱みを真っ向から否定する。とんでもなく強引だ。 だけど私にとって精市くんは本当の事しか口にしない人だから、頷くしかない。 許されているはずの抵抗が叶わない。 躊躇っている内に丸め込まれる。 ほぐれた唇の中、一番脆いところを丹念になぶられ、抱え引き付けられた太ももを摩られて喉が浮いて弾んだ。 ついさっき、1分も経っていないかもしれない、ほんの数十秒前は小さな子と相違ない眼差しで見上げて来、窮した私をからかい春の太陽に似た笑みを纏わせていたのに、続く深いキスはちっとも可愛らしくないし、ましてや子供っぽいわけがない。 「…って、まって、ほん…とに、だめ……」 力任せに引き剥がす要領で傾きかけの理性を元に戻すも、拒絶らしい拒絶がどうしても出来ず語尾を弱く奏でてしまい、部屋の空気と混ざり響く自分の声に耳と咽喉が燃える。ものすごく恥ずかしかった。 鎖骨下の近く、そこまでぶ厚くはないけれど硬い鋼みたいな胸板を押し返そうとし、しかし反対に引き寄せられ一層唇とその奥が潤む。ひくと縮み上がった呼吸と鼻にかかった声とが溶けて重なりお腹の裏が浮ついたのは、やんわり押し当てられる舌のせいだ。 段々何も考えられなくなっていく。 器用な大きな掌に左手の指を握られたまま脇腹を支えられて、背骨の尾近くの肌が波打った。心の中にも差し込むようなあたたかい熱源が服を滑り、いとも簡単に脇の下までするする上り詰めていくので、腕や肩の関節が苦しいと訴える余裕もなく、ただただ翻弄されてしまう。 乱され散り散りになりかかった思考能力を掻き集め、息継ぎの合間を縫い再度試みる。 「わ、私がじゃなくて、精市くん、」 「わかってる。時間もないしね」 お家の人が帰って来ちゃう。 懸命に紡ごうとするも、いっそ冷淡に感じられる程すげなく返されて言葉を失った。 速過ぎるスピードについていけない、彼が戴く名の通り神速の変わり身だ。 内へ籠もった温度と全てとろかす余韻が薄れるにつれ、脳にも新鮮な酸素が行き届いていき、ムードもへったくれもないひと刺しが閃いた。 だったら最初からやるな。 そうして込み上げる不満で傷ついた息が飛び出る一秒前、唇に小さく、それから右頬を掠めるキスを落とされてしまい色々いっぺんに吹き飛んでいく。 残されたのは欠片程度の意地とどくどくがなる心臓だけだ。 触れる腕や手が混じり気のない優しさを取り戻し、同時に体の奥底を粟立たせる熱の灯火があっけなく鎮火された事がわかった。 恭しさがなんとなく感じられる手付きで抱えられ、うっとりするくらい柔らかいソファへと下ろされる。 こちらには一切目線を預けず立ち上がる精市くんの傍で、ひっくり返って転がるスリッパを慌てて履き直す。 勢い余って突っ込み、指先が折れ曲がった。整えつつクッションを避ける。 付いた両手を軸にして、数センチ体を横へとずらした。 意味等ない。単に無言のまま大人しく座ってもいられなかったのだ。 テーブルから伸びる影を帯びたつま先を見遣る。 切り替えが早いとかいうレベルの話ではない、まるでなかった事扱いじゃないか。 あからさまにあったものとして振る舞われても困るだろうに、胸の内側で惨めったらしく呟いた。 頭の回転速度が遅い私だって流石にわかる、途中までそういう雰囲気はなく、予兆だって小粒程も現れていなかったはずだった。 わけがわからない。スイッチどこにあったの。 難問を解くべく遡り、しかしヒント一つ見出せない。 正しい言い方で正解を当てる所か不正解すら曖昧だ。 区別がつくようでつかず、どちらにせよ笑って受け入れてくれる気もするから迷いに迷う。 唯一頼りになる可能性を秘めているものはといえば、時と場合と場所を考慮した上で俺を褒めろ、おおよそ学生らしからぬ日本人離れした豪快な要求くらいである。 思い改めてみてもすご過ぎる、発言者が精市くんでなければ全校生徒からバッシングされても致し方ない一般社会から浮きまくった言い草にもかかわらず、神の子はしっかり自分のものにした上で言葉に質量を与え語ってみせるのだから末恐ろしい。 というか既に恐ろしい、圧倒されるあまり竦み上がっていたら、窓辺の方へ寄っていった人影が手近な上着を手に取るので驚いた。 「えっ、どこ行くの?」 「ん? 庭を歩こうと思ってさ」 事も無げにさらりと打ち返されて困惑する。 「え……い、今?」 「今」 「でもまだ絵の話の途中…そもそも画集を見に来たんじゃ」 「そうだけど、とりあえず庭に出よう」 無茶苦茶だ、会話の筋も通っていない。益々疑問が沸いた。 「…さっき寒くなるって言ったの精市くんなんだけど。あと冬の庭は春に比べて見るものが少ないから寂しいんだよねって前話してたじゃん」 「へえ、よく覚えてるね」 「あのさ……人の事なんだと思ってるわけ。よっぽどの大馬鹿とか?」 「つくづく考えなしだなとは思っているよ」 「それ馬鹿って言ってるのと同じじゃん!」 「むしろ底抜けに馬鹿でいてくれたら良かったのかもしれないな。たまにしっかりするんだもの、まったく。お陰で気が抜けないじゃないか」 「……私貶されてるの? 褒められてるの?」 「どっちでも大差ないさ。の好きな方を取ればいい。さあ、行こうか」 本日何度目か知れぬが、私の意向を丸無視で行き先を決められてしまう。 大差ある、話が全然変わってくるでしょ。 気持ちを振りかぶって投げても例の微笑み殺で躱されるだけだった。 納得がいかないと詰め寄りたい気持ちを溜め込んでいれば、実はさっきケーキを買って帰るからと連絡があってね、腹ごなしに歩いておくのも手だろう、もののついでとばかりに告げられ背筋を整える。 甘味に釣られたわけではないが、よく考えてみなくても人様のお家、嫌だと跳ねのけ座り続ける権利は私にはない、穏やかなのに芯のある声に引っ張られて膝を伸ばす。 「なんだか気遣って貰っちゃってごめん」 「君が気にする必要はないって言っただろ。俺も俺の家族も好きでやっている事だ」 「そっか…ありがとう。あ、ねえ、ほんとに歩くだけで何もしなくて平気? 寒いよ?」 「何かしたいのかい」 お得意の悪ふざけ、反応を面白がっている、たちの悪い冗談、引っ掛け問題。 いつもの調子でからかわれたと目を眇めかけ、精市くんが少しも笑わず真剣な音を伴って返すから、続けようとしていた言葉も吸う息も切り裂かれ地に落ちた。 取り繕える段階を通り越して思い切りたじろぐ。 見詰められているだけなのに戸惑って、進むべきか退くべきかごちゃ混ぜになる。 意識するから変な空気になるんだ、普通に言い返そう。 唱えれば唱えるだけ焦れて発する声色が揺れた。 「………そんな話してない」 「あはは、ごめんごめん。俺は先に出ているから、はコートを着ておいで」 言い置き冴えない返答にもバツをつけないで、私の身長を優に超す大きな窓を開けていく。透明なガラスはすべらかにレールを通り、冬の儚い光が一瞬濃くなって、直後に断ち切られる。 見た目よりずっと頑丈な背中もレースのカーテンで遮られた。 ウッドデッキの上で鳴る足音は明瞭で、迷いがない。そんな風に真っ直ぐ生きる彼の最適解は、全精力を注ぎ探したとしても当てられないだろう。 鈍って遅れた心音が今になって速まる。 潤ったばかりの喉がもう渇いて来た。 ここで待ってる、ゆっくりで構わないよ、慌てて転ばないように。 幾度も聞いた馴染み深い気遣いの数々、どれも口に出さなかった人の目の中は覗けない。思い当たる節があっても真実はわからない。考えなしの馬鹿という判を押された自分はともかく、彼が間違えたとは考えにくいから確かにそのはずだ。 不意打ちに焦り、油断したが最後破裂しそうな心臓を抱え、身も心も引き摺り込もうとする衝動と戦って、ぎりぎり自分自身を保った末にどうにか離れる。 さっきぶつけられた言葉を拝借すると‘時と場合と場所を考慮せず’全部を委ねたくなった。 思い出すだけで恥ずかしい、際限なく熱く震える鼓動が語る。 いなくなった体温に寂しさを教え込まれると同時、体の軸に沿ってうねる衝動の激しさに怖気づいてもいたから、深みの境界が遠ざかりどこかほっとした。 違う、と動転しきりの脳内で繰り返す。 振り回されて、みっともないくらいたった一人を意識する破目になるのは、いつも私の方だから。 他の皆よりずっと明確に答えの決まっている人が私と同じだったなんて有り得ないはずだから、今、笑った精市くんがちょっと安心したように見えたのはきっと気のせい。 ← × top |