01




高校三年生になった。


予想通りというかカンが当たったというか、やっぱりクラスは違う。おまけに教室の場所で言ったら、端と端。ちょっと絶望的だ。
中学の時に運を使い果たした、あの頃のツケが今回って来ている。
絵に描いた春うららの新学期初日の帰り道、精市くんに零したら、彼は柔らかに降る光の中で笑っていた。
自分専用のアトリエなんかを自宅に併設しているその人は、今年の春から少しだけ育てる花を減らしたらしい。
今度は何を植えるの、何の気なしに尋ねた冬の寒さが残る日、小さく首を振ったその仕草を今も覚えている。
精市くんがガーデニングに例年ほどの熱を入れないなんて珍しいな、目を瞬かせ、いつものようそっくりそのまま口にしてしまった所を窘められたのだ。、自分の立場をわかっているかい。受験生だろう。全く以って返す言葉のない当然の戒めだったので、肩をすぼめて大変失礼致しましたと謝罪した。

そういうわけで、最高学年へ至った真新しい空気や自覚等を味わう間もなく、学年全体が灰色の受験生とやらへ向かって一直線である。
私も例に漏れず、ものすごく柄じゃない事に机にかじりつき、春の眠気と戦いながらどうにか踏ん張っていた。
高校進学前にも思った事だが、私立の立海は大学まで内部進学が可能とはいえ、状況にあぐらをかいて気を抜きまくった結果落第だなんて、想像しただけで恐ろしいしまるで笑えない。
眉間に深い皺を刻み、教科書に参考書、課題のプリントや模擬試験の案内、かつてない程に真っ黒になったノートとにらめっこをする日々、同じ受験生であるはずの精市くんは悠然と構えて変わりがなく、いっそ暢気に見える事もしばしば。人としての作りが違うと、こうも差が現れるのかと悲しくなった。


「どうしたの、。手が止まっているよ、何かわからない所でもあった?」

あなたは私の家庭教師ですか?
つい聞きたくなる穏やかな声音と口調がこちらの様子を察知し、的確に差して来る。若干縮み上がった。

「……ないです」
「フフ…じゃあ、他に考え事をしていたのかな。余裕があって何よりだ。これなら俺が心配して勉強を見てあげる必要もなさそうだね。それもそれで寂しいけれど、君の成長を喜ばないといけないから我慢するとしよう」

矢継ぎ早に言い連ねられ、益々肩身が狭くなる。

「すいませんちょっと集中力が切れてました」
「うん、そうだね。少し休憩を入れた方がいいかい?」

抵抗しても無意味と悟った私がすぐさま白状すると、容赦のなさと思い遣りとが混ざった返事が横合いから流れ、力が抜けていく。
軽く息をついた。

「ううん、まだ大丈夫。きりがいい所まで頑張ってから休む」
「そう」

短い言いきりの言葉だったが、決して冷たくは響かない。
優しく頷いた精市くんが私から目線を外し、自らの手元で開かれている本へ鼻先を向ける。今や病と縁遠くなった横顔は、常の通りにすっきりとしていて迷いがないように見えた。
私は握った形で停止しているシャーペンへ目を遣り、書き途中の数式を眺める。
自習や勉強が禁止の場所が立海の周りでも増えて来たけれど、大通りから少し外れていて急な坂の上に建つ、つまり不便なこの図書館は、騒いだりしなければある程度許されていた。
初めて来た時は、よくこんな穴場知ってるね、と感心したものだ。
曰く、持つべきは博識な参謀、といった所かな。
朗らかでも芯の強さが含まれる微笑みと、その裏にいるであろう柳くんの説得力たるや。なるほど、以外の返答を失ったので、心の中で達人と名高い彼を拝んだのであった。
多分、いや確実に自分は恵まれている。
精市くんの存在の大きさは勿論の事、振り回される日の方が多くてもなんだかんだ私を助けてくれるし、彼の周りにいる人達だって柳くんが良い例で、親切にして貰っていると言っても過言ではないだろう。
なんだかその内バチでも当たるんじゃ……と断じて迎えたくない将来の暗雲が頭をよぎり、むしろ当たった後か、背筋を伸ばし考え直す。
隣に座る彼が最近になって一層気遣いを忘れないでいるように思えるのは、私の気の所為じゃないのかもしれない。
陽射しを目一杯受け入れる窓からは、緑の葉を溢れんばかりに茂らせた大きな木が見えた。







この所、なかなか遠出が出来なかったろう。デートしよう、。久々にゆっくり話したい事もあるからさ。

三年生への進級を目前にした春休み最後の日曜日、年を追う毎に多忙を極めていく人から誘われ、一も二もなく頷いた。
二年の夏頃にはもう大学進学関係の話がクラスの中でも出始めていたけど、休み明けの四月から名実共に本格的な受験生だ、デートらしいデートなんて今まで以上に叶わなくなるだろう。高校生の内に満足に遊べるのはこれが最後、くらいの覚悟で自分なりに気合を入れて準備していたら、お約束、遅刻確定の時間となってしまったのだ。
着ていく服にギリギリまで迷っていたのが仇となり、気付いた時には時計の針が回ってはならない位置へ達していて、瞬間背筋に冷たい汗がぶわっと沸いた。
転げ落ちるよう家の階段を駆け、なんであんたっていつもそうなのよ、お母さんの当然過ぎるお叱りを耳にしながら玄関を飛び出す。
必死に走るさ中精市くんへ電話を掛けて、スピーカー越しに爆笑を頂戴したのち、気にしなくていいから慌てないでおいで、と有り難いお言葉も頂いてしまい、申し訳なくて仕方がなかった。
出来る限り急ぐけどもし私があんまり遅かったらどこかのお店に入ってて、十数年間生きて来て一番の早口で告げ、走りに走る。彼が気にするなと言うのなら本当に気にしなくていい事なのだと、短くない付き合いを重ねてわかっていたけれど、わかりました気にしないでゆっくり歩いて行きますね、等と優しい気遣いを額面通りに受け取る訳には絶対にいかない。
待ち合わせはそう遠い場所ではない、精市くんは私がいくら遅れようと外で待っていそうだし、と歯噛みしつつせめてものお詫びにならないか、ダッシュする途中で偶然目に入った自販機へ駆け寄った。
今日は春らしくていい天気、外にいる間に少し汗ばむかも、酸欠になりかけの頭を懸命に働かせ、ランプの灯ったボタンを押す。ガコ、ガコン。目的のペットボトルが音を立てて落ち、しゃがんで掴み取る。
鞄の中へ仕舞いながら再び前を向こうとした、その時。
私の進行方向を遡る形で近付いて来ていたらしい自転車が、視界の大半を埋めていた。運転手は片手に持った携帯端末に見入っている。

――ぶつかる!

反射的に避けようとした寸前、ギリギリの所で自転車のハンドルと爪が当たって擦れた。咄嗟に腕を引く。声を上げる間もなく弾みで軸足を捻り、体が半回転した。ような気がする。バランスを失い思いっきり転んで、右手から肘にかけてを擦り切れた熱が走った。次いで足首が異様に重いと脳が叫ぶ。今度は声が出た。声というより呻きだったけど。
鼓膜が地面との衝突音に揺れる。
すぐさま元の昼日中の静けさに包まれ、何とか上半身を起こすと、件の自転車に乗った大学生くらいの男の人がチラと一瞬だけこちらを振り返り、サッとスピードを上げて走り去っていく所だった。
あいた口が塞がらない。
最早ショックだ。
ちょっと、と喉がきつく絞られる。
(せめて頭ちょっと下げるとか大丈夫か聞くとか、それくらいしてよ!)
信じられない、私も不注意だったかもしれないけどさ、ていうかあの人耳にイヤホン差してなかったか、軽犯罪じゃんある日突然自転車のタイヤパンクして立ち往生しろ。
散々呪いつつどこがどうとかではなくとにかく痛む右半身と、切れたり砂がついたりでボロボロになった袖やスカートを確かめていたら、ちょっとあなた大丈夫、頭上から呼び掛けられた。
はっと顔を上げれば、心配そうな表情二つとその後ろに止まった車。私が俯いて人様に呪詛をかけていた間に、見るに見かねてわざわざ降りて来てくれたらしい。
すみませんごめんなさいなんでもないです、焦ってどう考えてもなんでもない事はないのにひたすら謝る私に、心優しいご夫婦はとても親切だった。
誰かに連絡しようにも転んだ拍子に滑り落ちたのだろう、携帯の画面はバッキバキに割れてうんともすんとも言わず、時間が経過する毎に体の痛みは増してゆき、特に右足首が酷くて立てそうにない。いよいよ泣きたくなって来た。
潤み始めた目元を我慢して受け答えを繰り返していると、端末で一番近い病院を調べていた様子の旦那さんが、車で送っていこう、言う。
流石にそこまでお世話になるわけには、辞退しようとした私に、タクシー代や診察代はあるの、一人じゃ歩けないでしょう、奥さんの方が冷静かつ優しく言葉を重ね、他に妙案があるはずもなく、結局お言葉に甘える事にした。
近くの病院と言っても休日診療をしている所は車で数分で辿り着ける距離にはなくて、着いたら着いたで混雑しており待ち時間は果てしなく、これ絶対に腫れてきてると確信出来る足首は痛いわで、諸々の気力が削られていく。このご夫婦が通り掛かっていなければどうなっていた事か。ゾッとした。
ともあれご家族に連絡をしましょうか、と休日故に灯りが落とされ薄暗い大きな待合広場を抜けて、公衆電話まで手を貸して貰いながら自宅へ掛け、

『えっ、事故? あんた事故に遭ったの!? 人に助けて貰って病院にいるの、今? 今!?』

聞いているだけで慌てふためいているのが丸わかりの母に、痛みを堪えながら手短に、ざっと大体の説明をする。
それから最後に、忘れちゃいけない事も一つ。

「あとね、出来たらお母さん精市くんに電話して欲しいんだけど…」
『わかった、とりあえず今から行くからちゃんと待ってなさいね!』
「いやあの待っ」

豪快にぶっつり切れた通話に不安しかない。
お母さんこれからいらっしゃるの、と丁寧に尋ねてくれる人を見、どうしてこんな風に落ち着きがないんだうちの母は、私のは絶対遺伝だ、心の中でぼやきながらお礼を述べた。
そうして急患さんでいっぱいの待合の方へひいひい言いつつ戻ると、看護士の人が無残な姿を哀れに思って気遣ってくれたらしい、先生の診察の前に先に傷口を洗って消毒しますね、との事。
それなら、と病院の駐車場が満車で私を入口で降ろして他の駐車場を探しに行っていた旦那さんの車へ一度向かう、と言う親切なだけでなく物腰柔らかな奥さんを、母が来るまでお二人共に待って貰えるようお願いしてから見送り、手を引かれ導かれた一角で染みるわ痛いわの簡易手当てを受けた私は、悲鳴を上げないよう努めるので精一杯、どれくらいの時間が経ったのか確認する余裕はなかった。
少なく見積もっても二十分近くはかかった処置が終わり、足首はレントゲンを撮る必要がある旨を軽く説明されたが、後を引く痛みのお陰でヘロヘロで力なく頷く事しか出来ない。
歩くのを手伝ってくれた看護士さんから、座れないのは辛いでしょう、あなたの順番が来たらまたお呼びしますから、向こうの受付入口の近くのソファなら人もいないだろうし、そこにいて下さいね、慈愛に溢れた言葉を掛けて貰えなければ、今、判断能力が落ちた状態ではしかめっ面で踏ん張って立っていただろう。
去っていく足音は静かなものなのに天井へ伝わる程大きく響くのは、日曜日の病院に人気がない所為だ。
色んな人の優しさに生かされているのが身に染みてわかって、ふうと息を吐く。
僅かでも動かせば鈍い痛みが広がるので、細心の注意を払い両手をついて重心をずらし、持ち上げていたお尻を落として、ようやく肩から力を抜いた。
せっかく精市くんが出掛けようと言ってくれて、せっかく色々準備もしたのに。
裂けて汚れたスカートと、広範囲に渡る擦り傷を覆った包帯を眺める。そういえば右の横腹も擦れて痛い気が今更して来て、後で先生に言わなくちゃ、とどんどん濁る気持ちで胸の中が重い。
上手く消化出来ずに下を向いたまま、ワックスで磨かれうっすら光る床の線を見るとはなしに見る。
満足に歩けない痛みは確かに辛かったが、それよりも彼へ謝りたい気持ちが勝った。
大丈夫かなあ、お母さんちゃんと電話してくれたかな、もししてなかったらもうかなり長い時間待たせちゃってる、どうしよう。
ぐるぐると嫌な予想が頭の中を回り始め、端末だけでも無事なら連絡も出来て不幸中の幸いとなったはずだ、やっぱあの人タイヤパンクで立ち往生だけじゃなくておんなじように画面粉々に割れてしまえ財布もうっかり落とすがいいちくしょう、憤怒と何重にもなった呪いの言葉を心で唱えて、ひとまず無事だった左足の方を持ち上げゆらゆら揺らしてみる。
いやもしかして受け身の練習をしていたら右半身もそこまでのダメージを負わなかったんじゃ、埒もない考えを巡らせ何気なく瞬きをした直後、ふと影が床に映えた。
人の頭の形をしている。
すぐ通り過ぎるかと思ったのに動かない。
特に何も考えずになんだろうと顔を上げ、

「えっ!? なん、どうし」

視線がぶつかった。
いつもと違って乱れた前髪の奥に、薄い光を吸った揃いの瞳が在って、呆然と見開かれている。
私が目を白黒させている間に、息を切らした汗だくのその人は深く長い溜め息をつきながら、こう表現するのが正しいのかはわからないけど、がっくりと膝を付いた。

「精市くん」

座り込んだ彼の名前を呼んでも反応がない。
普段はあまり目にする機会のないうなじが露わになり、襟足もうっすら張り付いている。こんなに汗を掻く程、全力で走って来たのだろうか。
大抵たおやかに構えている所為でどれだけ頑丈なのかがわかりにくい、私からすると広い肩が荒い呼吸に揺れていて、嘘でしょ大丈夫、つい声を掛けそうになった。君の方こそ大丈夫なのかと聞き返される確率100%だ、柳くんみたいに頭の良くない私だって言い切れる。
なので、率直に困った。
本当はいくらでもあるはずの言葉が見つからない。
引きも差し出しも選べない両手をさ迷わせ、もう一度名前を口にした上で指先を伸ばすと、無傷の左の方に掌を重ねられた。
……熱い。
感じるや否や精市くんが静かに立ち上がって、私の隣へ腰を下ろす。
目線の高さを合わせる形で背を寄せられ、軽く覗き込まれた。きつい目付きの人じゃないのに宿る光は強くてちょっと怯む。
可能なら後ずさりたい、またしても無意味なごめんなさいすみませんの連呼が舌の付け根からやって来、しかし一瞬で掻き消えた。

「…………怪我は?」

とても慎重に声を繋ぐ彼の私の左手に触れる指先が、かたかたと細かく震えている。
息継ぎを忘れた。
胸に鋭い痛みに似た衝撃を受け膝裏がひくつく。
思わず勢い良く首を横に振って、怪訝な顔をされてしまう。それはそうだ、だってどこからどう見ても負傷している。

「あ…怪我、怪我はそう、いやなくはないんだけど、まだ傷口洗って消毒しかしてなくて、ええと……よ、よくわかりません」

アホそのものといった答えしか出てこず、情けなさが急に込み上げて来た。いつもならおかしそうに微笑んで鋭いツッコミを入れるはずの精市くんは、唇を引き結んで何も言わない。真剣な表情でただじっと見詰められて、何故か居場所が無くなっていく心地である。
まだ震えの止まらない大きな掌を握りたかったのに、左側は当の本人に封じられているし、右手は満足に動かせない。
かといって振り解く事も指摘する事も叶わず、もどかしさで足の裏の皮膚が騒ぐ。落ち着かないと表現しても良いかもしれないけれど、違う気もして途方に暮れた。
緊張とは異なる何かのお陰で渇く唇の感触を無理くり意識の外へ追い遣り、意を決して肺を膨らます。
精市くんはどうしてここがわかったの?
身動き取れない代わりに尋ねると、ああ、と睫毛を微かに落とし、重ねた手をするりと外した彼は、背筋を伸ばしてから物腰柔らかに話し始めた。
どうやら私が自宅へ電話した直後、いつまで経っても待ち合わせ場所に来ず端末も繋がらない状況を心配し、家まで連絡してくれたらしい。想像するに慌てて電話口に出たお母さんは引き続き慌てて説明をし、が事故に遭って人様に病院まで運んで貰って治療するみたい、という色々抜けに抜けた情報のみを伝えたそうだ。
つとめて冷静な精市くんの口から聞かされた我が母の失態に、全身脱力するしかなかった私を誰か慰めて欲しい。言い方とか説明の仕方とか他にいくらでもあるでしょ、と首を曲げて両手で顔を覆いたかったが、右手が痛んで叶わず仕舞い。肩を落とすに留まった。

「君のお母様も急いでいるようだったから。それで、病院の名前だけ教えて貰ってね。直接来たんだよ」
「そっ……うん……なんかほんと…ごめん。大変ご迷惑をおかけしまして、」

駅のホームや電車の中でよく耳にする謝罪を弱々しく紡ぐ途中で遮られた。離れていた見掛けによらず分厚い掌が、また私の左手をゆっくり包んだ所為だった。

「……良かった」

囁きに近い響きは鼓膜と耳たぶを掠めて、体の中に落ちて来る。
精市くんはそれきり何も言わなかったけど続きがわかった。
が無事で)
顔色や、表に出ていないはずの傷口を確かめるみたいに丁寧にこちらを見詰める瞳の奥、ありありと浮かび消えていかない。手の甲からぎゅっと握られ、喉の裏が熱く締め付けられる。四六時中ラケットを振るう節々が出っ張った指はまだ小さく震えていて、私は今度こそ完全に返す声を失った。


そう時間を置かずしてお母さんと合流し、なんという責任感の強さか自分が呼び出した所為で、と誠実に謝ろうとする精市くんを私とお母さんとで必死に押し留め、その流れでどういうわけか私が叱られたりして、親切にしてくれたご夫婦に何度もお礼を言い、すったもんだの末に出た診察結果に打ちのめされる。
主な傷病名は擦過傷、捻挫。骨折はしていないものの想像していた以上に深刻だったらしく、一、二週間は松葉杖が必要。
最後の春休みもあと幾日もすれば終わるという今、この仕打ちである。神はいないと思った。
諸々の連絡や助けて貰った人達へのきちんとした謝礼はどうするか、忙しなく動き喋る母を遠目に、ソファに座りながら傍に立つ人を見上げる。

「精市くんほんとごめん、たまにしかない休みの日に巻き込んじゃって」
「……いや、巻き込まれてはいないよ」

目と唇の端を緩ませる様は普段と変わりないはずなのに、何故だか笑い掛けられている感じがしなくて縮こまる。私に降りかかる眼差しはどこか懸命で、言葉に詰まってしまう。

「で、でも待たせちゃったし」
「君の所為じゃないだろう」
「いやまあそれはそうなんだけど…」

切り返しの速さについていけずもたついていたら、精市くんが黙ったまま拳二つ、三つ分あけて座った。
怒っているのか聞こうとして、だけどこういう時に怒る人じゃないし、迷ったあげく意味もなく俯いて腿の辺りを見詰める。さっきみたいにすぐ横にいない上、右側に陣取られては手も伸ばせない。
バレないように恐る恐る盗み見た横顔は真っ直ぐ前を向いて微動だにせず、結局お母さんが戻って来るまで一度も目は合わなかった。





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