02




学校まで全部歩くんじゃないし途中でバス使うから大丈夫じゃない?
またしても考え無しの私の発言は、バカかお前は、といった眼差しで刺して来る両親の数々の言い聞かせによりあえなく却下されてしまう。
がっちり硬いギプスをつけた私を置き去りにして、とりあえず朝はお父さんの車、帰りはお母さんが可能な日は迎えに、難しければタクシーでという事になった。
たかが登下校に車を使うなんてセレブじゃあるまいし、と学校が始まる前は引け目を感じていたが、さあ一人で今まで通りの日常生活をこなしなさい、いざ放られると己の能天気っぷりを思い知る。
バスがどうとか足首以外はほぼ無事だから平気とかそういう次元の話ではなかった。
平地を歩く事しか想定していなかったけれど、実際問題それで済むわけがなく、街や学校に有り触れているちょっとした坂や階段が、とんでもなく高いハードルと化すのだ。松葉杖を使いこなすのも力がいるし、地味に難しい。
平時であれば数歩程度の階段だって上りも下りも苦労して、扉を開ける何て事ないひと動作にも手間がかかる。日ごろスポーツや体力作りに別段励んでいない、一般女子生徒Aでしかない私には何もかもが負荷トレーニングに近い、校門から教室へ辿り着くまでに一体どれほど、くっ…とか、ふぐっ…と苦しげに呻いた事か。
更にショックだったのは、意外と周りの人が手伝ってくれない現実だ。
単なる捻挫だから大丈夫と言いはしたものの、あからさまに困っていたりしんどそうにしている時や友達と先生以外は、みんなそこまで積極的に声を掛けて来ない。学校は街中より助けて貰う機会は多かったし、すごく有り難かったが、だからといって不便や負担は一切ありませんと胸を張っての笑顔は作れなかった。
もっとわたくしに配慮してくださる? 等と悪い貴族のお嬢様ぶりたいのではなく、自分の体のどこか一つ、ほんの少しでもおかしくなった途端、こんなにもままならない事が増えるのが衝撃だったのだ。
これからは今まで気付かなかったり、余計なお世話かなと考えてしまったり、何となく遠慮して出来なかった、怪我をしている人や車いすの人、困っているっぽい人がいたら手助けをしよう、道徳の授業じみた決意をする。もし手伝いは必要なかったとしても、声を掛けて貰えるだけで心強いのだと今の自分にはよくわかる。
松葉杖と捻挫ぐらいでこうも難儀してしまうのだから、長い間入院をしてろくに動けない時期もあった精市くんは、どれだけ大変だったんだろう。
かつての日々へ思いを馳せ、今更過ぎる自分の鈍さにへこんで、時折考え沈んだりもした。
中学生の私ってほんとに何もわかってなかったんだな、いたく反省すると同時に、でも、と呟く。自分の例をそのまま精市くんに当てはめるだなんて不遜な真似をするつもりはないけれど、気遣いが嬉しい、気持ちが嬉しい、それは多分万人に共通するだろうから、お見舞いも少しは役に立ってたのかも、私ほとんど普通に喋ってただけだけど、付け加えつつそっと心の中で励みにする。
始まったばかりの春はまだ柔く、吹く風にも微かに寒さが残り、花壇は冬の終わりを告げるかのよう、ようやくの華やぎを見せていた。
桜の花びらの薄い色が降り積もった校内の煉瓦道を片足と杖で進んで、ずり落ちて来る鞄の煩わしさに辟易し、既に午前分の体力を使い切った気がしてならない私は最後の難関の前、一階の踊り場でひと呼吸置く。腕から力を抜いて一時休止、壁に背中を預けるとひんやりして冷たい。
高所にある明かり取りの窓から差す光は、見慣れた天上や階段を朝に染めていた。上の方がより眩しいお陰で気分は登山家である。目指す頂上――もとい教室は最高学年故に高みに在り。登る前から気が滅入って来た。
上履きに履き替えるだけで四苦八苦したその先、更なる試練が待ち構えている展開は何回か味わったものの一向に慣れない、毎日新鮮に心の底から嫌だと思う。
エレベーターかエスカレーターが欲しいです、生徒総会で陳情したが最後ものすごいバッシングを受けそうな願望に駆られ、溜め息が転がり出ていった。
よし、と心に決めて片足を床に付く。
怪我の所為で校門からの移動に時間がかかるのとお父さんの都合もあって、新学年がスタートしてからこちら、クラスで一番を名乗れるくらい早い時間の登校だ。
当然ながら人気はない。
朝練のある部活に所属している生徒の気配はしたが、校舎内にはほぼ感じられず、一人きりの単独登頂である。孤独な戦いは続く……等とふざけなければやってられない状態、一体私が何をした、大して篤く信仰していない神様に文句をつけて、松葉杖の持ち手を強く掴んだ。
体育会系の運動と無縁だった生活を悔やむ程度には階段昇降が辛い。
頭から落ちないよう注意を払い、手足全部と腹筋とあらゆる箇所を使い、やっと一段を越えての繰り返し。
むしろ階段って不便なんじゃないの? 誰が考えたんだこんな仕組み、支離滅裂な八つ当たりで気を散らし、やや汗ばんで来た所で軽く息が上がった。階段を上り切った平らな空間だったら良かったものを、あと数歩足りぬ、半端極まりない段の途中で立ち止まる。
もうこの際だから一回座っちゃおうかな、諦めの境地で松葉杖の上部を脇の下に挟み、壁際の手摺へ手を遣って、腰を落ち着ける為に体を反転させようと首だけで振り返ったら、



珍しく驚きに染まった表情の精市くんが、ちょうど階下の踊り場へ足を掛けた瞬間だった。制服姿なので二度見する。
あれ、部活は?
自然沸いた疑問に肩を後ろ側へ引き、続く顔ぶれに今度は私が驚かされる。真田くんと柳くんが揃っており、高等部でも立海テニス部の三強と尊称されている御三方のお出ましだ。
テニス部で何かあったの、尋ねる前に精市くんが軽々と一段飛ばしで上って来、私の背中に触れるか触れないかの距離で手を片方添える。転倒を気にしてくれているらしい。
落ちるかもってひやっとした事ないから大丈夫、口を開きかけ、予想外の険しい表情で以って封殺された。す、すみませんごめ、ごめんなさい、とどもりまくった謝罪をしそうになった。

「……怪我をしたとは聞いていたが、そこまで重症なのか」
「一人で無理をするな、馬鹿者! 万が一落ちでもしたらどうするつもりだ」

追い付いて来た二人それぞれに声を掛けて貰い、

「ううん。別に骨折じゃなくて捻挫だし、無理っていうか」
「真田、柳。悪いけど任せてもいいかい、先に行っていてくれ」

有無を言わさぬ温度で言い放った人に思い切り遮られる。
え? え、何? と声に出す間もなく、精市くんが小脇に抱えていた書類か何かを柳くんへ手渡し、真田くんには自分の鞄をさっと投げた。二人がそれを階段を上りながら受け取りこなすのだから拍手もの、鮮やか且つ見事な連携プレイとしか言いようがない。

「君の鞄は俺が持つよ、教室まで一緒に行こう」
「え!? いやちょっ」
「くれぐれも気をつけろ。転んでからでは取り返しがつかんのだぞ、お前は何事も気楽に考え過ぎだ、たるんどる!」
「精市がいればひとまずは問題ないと思うが、念の為の担任教諭へ注進しておくとしよう。こちらの事は気にせずとも構わない」

厳しめの叱責を受けた上に仰々しい物言いをされ、よろしくお願いしますと乗っかれる生徒がどこにいるのだろう。
加えて精市くんの言葉を要約すれば、送っていってくれるという意味になる。全く歩けぬ重傷者ではないのだから何もそこまで、階段上るの手伝って貰えたら充分、言い連ねても肩に掛けていた鞄を半ば奪われる形で持っていかれてしまう。
皇帝と達人の両名はさっさと階の上へ姿を消した。

「…あのね、精市くん」
「なんだい。ああ、言っておくけれど、一人でも大丈夫なんて言葉を聞くつもりはないから、肝に銘じて」
「え、ええー……」
「さあ、いつまでもこんな所で話していないで早く行こう。それとも階段を上れないくらい疲れているのなら、俺がおんぶしてあげようか?」
「いい! 絶っ対に嫌!」
「あはは! 酷いな、即答しなくてもいいじゃないか」

朗らかに笑う神の子然とした人の悪ふざけを睨みつつ、私はどこかほっとしていた。
気まずくなったとか連絡が減ったとかそういった特筆すべき異変は起きていないが、私が捻挫をした日の病院で見た、精市くんの様子は変だったと思う。
では具体例を挙げよと問い詰められると上手く言えずに困るので、誰かに話した事はない。
なんとなくもやっとした、わかんないけど気になるな、という引っ掛かりがあって、精市くんはテニス、私といえば怪我そのものは勿論、今後の生活をどうするか決めていくので手一杯、あれ以来きちんとは一緒に過ごせていなかったのだ。
だけど今、いつも通りの表情で変わらぬやり取りが出来たのは、多分もう平気な証拠なのだろう。良かった、と密かに安堵する。
全然悪くない精市くんがいつまでも気にしてるなんておかしいし、ていうか例の自転車の人がいつまでも気にするべきじゃん、精市くんのがあの人より年下なのになんなのこの逆転現象、腹いせに脳内で怪我の原因たる人物へ小石をぶつけまくった末に最後の段を乗り越え、やり切ったぞの息を吐く。
のろのろ速度しか出せない私のすぐ傍で付き添ってくれた彼へありがとう助かったよ、口にしながら見上げ、どういたしまして、と妙に畏まった言い方で微笑まれるのがおかしくて笑った。

と、のんびり暮らせたのはここまで。
その日の昼休みに教室へ現れた精市くんに仰天させられた時から、私は慌てたり恥ずかしさのあまり縮こまったり申し訳なくなったりで、捻挫や不幸な事故を思い出す暇すら失ったのだった。

ドアの開け方や席に着くまでの間、荷物と松葉杖を手の届く場所へ置くという細やかな気配りで私の介助をやり遂げ、真田くん達を追い掛けていった人のすごさを友達へ報告し、相変わらず幸村君てすごいよね、感心し合ってお昼ご飯の準備をしていたら、クラスメイトを通してではあるが、話題の張本人に堂々と呼ばれて泡を食う。
室内中の視線を浴び注目の的となっている事など一切意に介さず席までやって来て、何か忘れていないかい、穏やかな笑顔で言い放つ。まともに返せない私に追い打ちを掛けるよう、飲み物は? これまた微笑を添えての指摘。ハッとして、咄嗟に机横へ引っ掛けた鞄に手を伸ばす。
……ない。指先が得るのはお弁当箱の感触のみだ。
家から水筒やペットボトルを持参してもどこかしらで忘れる方が多い私に、学校かコンビニで買いなさい、呆れた母が言いつけて幾数年、捻挫でいつもの登校パターンが崩された上、始業式とその翌日は午前で終わり、久々に迎える昼休みだったので完全に失念していた。
精市くんが小首を傾げながら、小さく肩を竦める。とりあえず今日はこれで我慢するように、と差し出されたペットボトルのお茶は私がよく飲む銘柄だ。
言うだけ言って颯爽と去ってゆく人の背中に目映いオーラと強者の光が見えた。色んな意味ですごすぎる。
呆然と見送るしかなかった私に、

「…あんたまさか幸村君を呼びつけて飲み物買ってこい的なパシリに……」
「してない!」

とんでもない濡れ衣が被され思わず叫んだ。
その後、帰りの時間になった頃、様子を確かめに来たのだろう、平気な顔で歩くのを手伝おうとする精市くんに、必死の思いで松葉杖を駆使し教室を出、人目が少なくなった辺りで問い詰めると、

「朝、君の鞄を持った時、飲み物が入っていそうな重さじゃなかったからさ。これはきっと忘れているに違いないと思ったんだよ」

俺の予想通りだったようだね、にっこり笑顔で名探偵幸村っぷりを披露される。
続いて疑問というか、新しいクラスになって数日しか経っていないにもかかわらずあんな事をされた私の行く末と、パシらせたと誤解されかねない行動を取った訳については、

「ああでもしないとはうんと頷いてくれないじゃないか」
「何の話!?」
「これからは俺…いや、誰でもいいけど、ちゃんと助けて貰ってくれ。忘れ物にも気を付けて、フフ」
「…………。……順番が違う……」
「順番を逆にしないと別に平気、大丈夫だと言って、何でも一人でしようとするだろう?」

つまり私に注意するより先に、まずイエスと頷くしかない状況へ追い込んだのだ。
最早強権且つ豪腕政治家である。

「新学期早々、死ぬほど目立っちゃったじゃん…」
「目立った方が、君が歩けない程の怪我をしていると皆に伝わるからね。恥ずかしがる必要はないよ」
「どう考えてもあるよ!」
「それから。朝は車で東門の方に送って貰って、そのままテニスコートへ寄るように。俺が教室まで一緒に行く」

決定事項だとばかりに一方的に告げられ絶句した。

「ちょ、ちょっと待ってよ、精市くん朝練があるんじゃ」
「少し抜けるくらいなら問題ないよ。レギュラー陣と先生にはもう許可を取ったし、いいね?」

何も良くないが、柔和な笑顔で鋼の意志を全面に打ち出され勝てる気がしない。
隙あらば荷物を持とうとする精市くんに抗い、苦し紛れに友達に頼むから大丈夫です、これからはちゃんと助けて貰います、小さい子が親へするような反省を誓う。証拠に今から連絡して聞くし、と端末を探そうとした所で鞄と松葉杖を奪われた。まもなく、話す内にいつの間にか連れて来られていたホールの隅の長ソファへ座らせられる。
どうぞ?
迅速的確な一連の流れの果てに連絡手段を手渡され、極めつけの微笑み殺。
この手際の良さと余裕はなんなんだ。
気圧されつつ、登校時間は合わないけど玄関ホールで待ってるから教室行くの手伝って欲しい、お願いのメッセージを送り、‘いや幸村君に送って貰いなって。どうせ今送ってくれるっつってんのに断って私のとこに連絡してんでしょ? 変な遠慮しないで甘えればいいじゃん。幸村君なら完璧に助けてくれるよ今日話してたみたく完璧に! 健闘を祈る’ 速攻ですげなく却下されてしまった。

「断られただろう?」

未来視の能力にでも芽生えたんですか、聞きたくなる口調と再びの微笑みに悪あがきの策もとうとう尽きた。
テニスの邪魔をしたくないのに、なんでこうなっちゃうんだろう。
ここまで来ると例の自転車より自分の迂闊さが憎い。華麗に避けて受け身でも取れていれば怪我をせずに済んだのか、もしくは危なくない階段の上り方をマスターするとか、等といらぬ思考を巡らせていると、精市くんが隣に腰を下ろした。少し前かがみの姿勢を取って、自らの腿の辺りへ肘を置き、開いた足の間に垂らした手をゆるく組む。
病院での情景が蘇り、緊張めいたものが走った。
しらずしらず喉が鳴る。背筋が張り固まって、だけどすぐに砕かれた。苦笑混じりの、柔らかな眼差しを向けられた所為だった。

「ごめん、。始業式の日、君はご両親と一緒だったろう。送り迎えの話も聞いていたし、教室へも親御さんが無理なら先生か……ともかく、誰かに手伝って貰っているものと思い込んでしまっていたんだ。本当なら、立海の中で一番に事情を知っていた俺が真っ先に気付くべきだった」

精市くんがそこまで気にする事じゃない。
背負い過ぎ。
別に私は大丈夫だよ。
どうして謝るの。
言おうとして、唇が糊付けされたよう開かない。微かな風が触れる錯覚を抱いた肌は粟立ち、呼吸の仕方も一瞬わからなくなり、何度も首を横に振って、そんな、いいよ、気にしないで、僅か三種類の言葉を返すのがやっとだ。
しばらくはじっと見澄ましていた精市くんも、私の機械じみた言動に堪え切れなくなったらしい、盛大に吹き出して、正体の掴めない変な空気は雲散霧消していく。
いつもなら大笑いされて恨めしく思うはずだけれど、この時ばかりは素直に安心した。
お陰で言われるがままのされるがまま、神の子の思し召しに従う以外の選択肢は消え失せた。


治るまで一、二週間程度の捻挫の為だけにおかしな事態になって来た、と困惑しきりの朝を数日経て、ぎこちなくしか使えなかった松葉杖にも慣れ始めた頃、検査結果次第では想定より早くギプスが取れるかもしれない、吉報を携えて門を通り抜けたのと同じタイミングで、

「お、先輩」

私の前を横切ろうとしていた切原くんと目が合った。
チッスと軽く頭を下げてくれるので、おはよう、と一回立ち止まってから挨拶する。

「これから朝練?」
「なんすけど遅刻しちまって、真田副部長に見つかったらマジヤバいんでいい感じに誤魔化せる方法を……って、あ、荷物とか持った方がいいすか?」

制服のスボンのポケットへ入れていた手を出し、歩み寄って来る後輩と話すには、中等部にいた時より幾らか見上げなければならない。伸びた身長の分だけ私には頼もしく見えた。もし精市くんに伝えたとしても、は甘いなぁ、赤也はまだまだ鍛えてやらないと足りていない所だらけだよ、と無慈悲な一刀両断を食らわせるんだろうけど。
穏やかな見かけとは裏腹に豪傑なキャプテンを思い浮かべ、

「大丈夫、ありがと…ってまさか、私見たら荷物持てとかなんか言われたりした?」

ふとよぎった可能性に若干身が竦む。
予想が当たっていたとしたらいくら何でも無茶苦茶だ、本格的にあいつ男子をパシらせてるぞと揶揄されてしまいますお止め下さい、と腹を括りかの人に進言しなければならない。

「いや自主的にす。なんか大変そうだったんで」

きもち伸ばしていた背がほぐれた。
ただのいい子だ……と最早感動を覚えてしまう。

「つーかありえねーでしょ、チャリ乗ってたヤツ! 幸村部長キレなかったんすか? 逃げたモン勝ちとか意味わかんねっすよ、すっげームカつくし。ケーサツ行きました?」

益々ただのいい子である。
精市くんといい切原くんといい、真田くん柳くんもだけど、こういう責任感や気遣い、他人の事で憤る正しさが私の周りの人にはあるのに、どうしてあの自転車の運転手にはないのか。世の不条理というものに思いを馳せるさ中、

「うわヤッベ立ったまんまじゃん! すんませんでした先輩、俺ダッシュで幸村部長呼んで来ますんでこの辺で座って待ってて下さいっす!」

口を挟む隙もなく捲し立てられ、

「えっ! 待って真田くんに見つかったら怒られ……」

おそらく自分の遅刻を綺麗さっぱり忘れている切原くんへの声は届かなかった。
あっという間に小さくなるブレザーを見守るしかなく、己の無力さに歯噛みするしかない。真田くん今日は許してあげて…駄目ならせめて手加減を、と心の内で祈願する。
とりあえず馴染んだ杖の持ち手を握り直し、一番近くにある、腿の高さぐらいの煉瓦で作られた花壇を目指してみる。
雨が降ったらもっと大変な目に遭う為、最近は祈りつつの天気予報チェックだったが、それももうすぐしなくて良い心配になるはずだ。
春特有のまろやかな太陽は、朝が早くてもあたたかい。浴びた背中と首筋がぬくぬくとしていて、寒さは感じなかった。近付く毎に花と土の香りが頬を撫で、優しく鼻をくすぐって来る。どこからか運動部の掛け声が響いて薄青い天へと伸びていき、空に溶けかかっている雲の厚みの無さが目に眩しかった。
精市くんが来たら切原くんに手心を加えてくれたかどうか、時すでに遅しだった場合は後でフォローして貰えないか、ダメ元で聞いてみよう。
三強の面々はあまりというかほぼ褒めたりしない、私には根はいい子に思える後輩の無事を願い、転倒に気を付けながら座り込む。投げ出した足先をぼんやり眺め、早く普通にお風呂に入れるようになりたいなぁ、と溜め息をついた。

高校最後の四月はこんな風に、幸先が良いとは思えない始まり方だった。







図書館を出ると、五月の風が髪を揺らす。太陽の光を浴びて生き生きと煌めく新緑は、文字や数字を睨み続けて疲れた目に優しい。室内の空気に比べたら格段に涼しい空気を深く吸い込み、隣を歩く精市くんに、お疲れ様、と笑われる。
私の右足からは予定より早く固定装置が外され、朝の待ち合わせと教室までの丁寧なエスコートはあの後すぐ、無事に終わった。
しばらくは友達に散々からかわれたし、心なしかクラスメイトの私を見る目が変わった気もして、居心地の悪さに悩まされたりもしたが、時間が過ぎるにつれ薄れていき、今となっては受験モード一色だ。
肝心要の精市くんはといえば、やっぱりとても忙しそうで、一体どうやって時間を捻出しているのかが本当に謎だと思う。自分の勉強をしている場面を目撃した覚え等なく、彼の事だから上手くやりくりしているのだろうけど、それにしたって私の面倒を見る暇と余裕がどこにあるのか。幸村精市七不思議伝説、と口には出さずに独りごちる。
問題なく元通りの足で歩いて、コンクリート製の階段へ差し掛かった時、片頬に視線がぶつかったのがわかった。

「……一人で下りれるからね!?」
「まだ何も言っていないよ」
「目が言ってる」
「すごいな、エスパーだ。いつの間に超能力者になったんだい。ちなみに俺の目は何と言っているのかな、君さえよければ教えてくれ」
「階段で転ぶなよ、気を付けろ」
「嫌だなぁ、俺は君にそんなきつい言い方はしないよ」
「って否定してないし…な、なんで手を握るの!?」
「まあまあ、いいじゃない」
「よくない」

これじゃあ大人と子供、保護者と被保護者だ、付き合っている恋人同士には到底見えないだろう。
全力で抗議しようにも優しく包み込むよう手を取られ、そうとは簡単に悟らせない仕草で先導されては何も言えなくなってしまう。全然乱暴じゃないけど、やり方が荒くないだけで、有無を言わさず封殺している事に変わりはない。精市くんはさり気なく横暴、恨み言をぶつけても許される場面、でも私は黙ったままあたたかい掌を握り締めた。
不便な生活に苦しめられた春の日々、なんかどんどん大事(おおごと)になっていくんですけど、とぼやいた私へ落とされた声音を思い出す。
大事(おおごと)なんだ』
自覚してくれ。
思いも寄らぬ強さで以って真剣に諭され、表情と眼差しに宿るものが何か切迫しているようで、文字通り返す言葉を失った。
どうしてか焦った私はその後ギプスが取れた時、一番に精市くんへ報告をして勢い良く足踏みしてみせたのだ。はい完治。今改めて振り返れば、小学生でもしないドヤ顔での大した事ない宣言にも、彼は大いに肩を揺らし笑ってくれた。
お前は何事も気楽に考え過ぎだ、いかめしい真田くんの言葉が蘇り、だって私にはほんとにそんな大変な事に思えなかったから、さっさと打ち消す。実際に言い返したら三倍以上のお叱りが降りかかって来る、経験上よく知っているので脳内に限った抵抗だ。
階段を下り切って、門まで続くちょっとした並木道に入った。
葉の影が頭上いっぱいを覆い、陽射しが遮られた分だけ初夏の暑さが和らぐ。
時たま吹き去る風は枝を柔らに撫で、葉擦れの音が辺りに響き渡って気持ちいい。
平らな道でも離れていかない大きな手を想いながら瑞々しい緑の木々を仰ぎ、微かに揺れて覗く光の欠片を見た。
もし時間が合えばお花見をしようと約束していたのに、結局私が怪我をしていた所為で流れてしまった。噂によればこの並木は全て桜、満開ともなればそれはそれは見事な花景色が広がるらしい。あーあ、と落胆の声が胸の奥深くへ転がっていく。
別にそこまですごい風光明媚なんて求めてない、一本でもいいから咲いている桜を精市くんと一緒に見たかったな、高校生最後のお花見だったのに。
柄にもなく感傷に浸っていたら、覚えのある感覚が輪郭に触れた。

「……何?」
「なんでもないよ」

首を上向かせた先で、柔らかな笑声を零した人の、揃いの瞳が静かに輝いている。
即答して来るという事は、私がしんみりしている間中こちらを見下ろしていた証拠に他ならない。
なんでもないわけないでしょ、の、なん、まで形にした瞬間、不意に背を屈めた精市くんにキスされた。目を閉じるのを忘れるくらい短い、一秒触れたか触れないかの唇はあったかくて優しかった。

「なんで!?」
「フフ…なんでだろうね?」
「いや聞いたの私……」

でもだからといって恥ずかしくないかといえば猛烈に恥ずかしい、何か居た堪れなくなって手を離そうともがいたらもっと強い力で握り籠められ、余計に顔が熱く火照っていく。
とうとう精市くんが声を上げて笑い始め、ふざけているのかぐいと手を引っ張って、自分の体の方に引き寄せようとする。慌てて押し退けようとしたがびくともせず、逆によろけてけんけんぱみたいな飛び跳ね方をしてしまい、繋いだ手をそのままに私の腕を高く上げた彼に上手い事助けられた。やはりこれではまるきり親子。

「転ばないようにとさっき目で言ったはずだよ、気を付けて、。ああそれとも俺の伝え方が甘かったかな。うーん、もっと近くで話した方が良さそうだ」
「誰の所為! あと私エスパーじゃない! ていうかこれ以上近くなくていい!」

大騒ぎする私に精市くんがまた笑い掛けて、眦を淡く緩ませる。怒りたいのに段々怒れなくなっていくから、本当にこの人は厄介だ。おまけにちゃんと優しい所もあるので隙がない。
くっ、と悪役じみた苦しい声をつい漏らす。聞き逃したりはしない神の子が、なかなか粘るね、心底楽しそうに微笑んで言う。
繰り返しじゃれ合う、平和極まりない私達の攻防は図書館の敷地から出るまで続いたのだった。





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