10




やっぱり失敗したかもとすぐに後悔した。
重たく分厚い硝子扉の向こうへ踏み出して半歩、もしかして手にはしていなかっただけで雨具自体は用意していたんじゃないか疑惑、私の折り畳み傘がそこそこの期間使われずに仕舞い込まれていたので何かしらの問題や不備があったら申し訳ない事、はっと気付いた瞬間立て続けに言い募ってしまったのだが、当の精市くんはごく静かに答える。
「いや、持っていないけれど」
「大丈夫」
どう考えても言葉少なだ。
からかいもない。
おかしな冷や汗がじわじわ皮膚の下から滲み出る錯覚に捕らわれ、元から底をついていた意気地がマイナスと化したのではないかと思う。
小降り状態の雨が見慣れた景色を薄白く染めてい、昇降口の外では尚更冷気が強く思わず震え上がってしまいそう。
指先に纏わり付く空気に体温があらかた奪われる前に行動しなければ。
折り畳んでいた濡れない為の装備品を隣に佇む人の反対側でぽんと開き、何気なく掲げた所で鮮やかに持っていかれた。
音もなく、流れるような動作だった。
えっ、と発声する間もなく一連の展開をただただ目で追っていたら、骨張った指筋で小さな持ち手を掴む精市くんが私の側に傘を傾けてくれるのでぎょっとした。

「い、いいよ! わ…私の傘なんだから、私が持」
「それを言うなら俺の方が背が高いんだから、俺が持つよ」

慌てふためきしどろもどろとなった私の主張を途中で叩き斬る人は物言いは正確無比、それもそうですね以外の返答叶わぬ正論で、取り返そうと半端に持ち上げていた両手の行き場を失ってしまう。
軒下からほんの数センチ靴先を前へずらした人が、どうぞ、言わんばかりに傘を軽くお辞儀させるので、胃やら肩やらが縮こまる心地だ。私が貸すだけ貸して颯爽と走り去っていれば並んで入るには狭い雨避けを精市くん一人で使えていたはず、こういう所で詰めの甘さや考えの至らなさを遺憾なく発揮してしまう己をいい加減変えたい。心底悔いても後の祭り、あっ忘れ物しちゃった取って来るからその折り畳み使って先に帰っていいよ、等と苦しい言い訳を駆使し押し付けたって、彼は素直に頷いたりしないだろう。
ばれないよう細心の注意を払い、細く長い息を吐いた。
じり…、と効果音が鳴るのではないかというくらい慎重に足を運び、少しだけ距離を失くす。どうという事もない動作一つ重ねるにつれ、心臓が口から飛び出す勢いで暴れ始める。
肌に触れるのは昼間の学校の残り香だけだ。
ごく淡いざわめき。
雨音が何もかもを消してくれればいいのに、こんな時に限ってさらさら、にも満たぬささやかな気配しか零さない梅雨空が憎らしかった。


どちらからともなく歩き出す。
万遍なく雨に塗られて晴れの日と色を変えた煉瓦道の、踏み締める感触が何か違う気がして仕方ない。乾いた靴音が鳴らない所為かもしれなかった。
折り畳みの面積からしてやっぱり二人で並ぶにはどうしても幅や広さが足りず、私が体をちょっとずらして前の方を行く事で何とか濡れ鼠と化す未来を避けている状態だ。ひょっとしたら精市くんは色々見越した上で、あえて後ろ側にいてくれているのだろうか。
尋ねる勇気はない。
代わりに、

「あの…………濡れて、ない?」
「濡れていないよ」

当たり障りない問い掛けしてみるも、あえなく撃沈。またしても間髪いれずにたたっ斬られた。
本人に問題ないと返されれば引き下がる他ない、うんともすんとも答えられず、ただぎこちなく頷いて歩調を合わせる。
結局それきり無言のまま足を動かした。
雨だけが小さく私に囁く。

校門へと繋がる幅広の道の脇、季節ごとに植え替えられる花や根付いた植え込みの葉がしっとりと濡れそぼり、こまかな霧雨を浴びてより一層、瑞々しい色を放っている。鮮やかな彩りは目の底にまで染み渡るよう。
ところが私はその深い緑に感嘆するどころか背筋の凍る思いに捕らわれ、ゆうに三秒は息を止めた。
脳裏をよぎるのは夢で見た光景。
どんどん遠ざかる後ろ姿に幾度となく声を掛け、しかし名前さえろくに紡げず、一歩たりとも動けない。幽霊みたいになった自分と、振り返りもせず真っ直ぐ進む彼の迷いのなさ。永遠に追い付けないのではないかと思わせる、絶望的なまでに遠い距離。
心臓の裏側を氷の角でうっすら撫でられたみたいな怖気が走り、狭苦しさをちょっとでも緩和しようと体の前で抱いていた鞄をぎゅっと握り締める。体の軸がにわかに騒ぎ始め、服の下の皮膚の表面が毛羽立って、気管を行き来する空気量があからさまに減ってしまう。
だけど、そうして奥底から込み上げた冷たさを跳ねのける必要はなかった。
嫌な記憶で本格的に凍り付く前に、私じゃない人の体温がほのかに伝わったお陰だ。
制服越しでだから、直に感じたわけじゃない。それでもカレンダーの表記にそぐわぬ冷気が掻き消えるには充分だった。
しらずしらず強張っていた両肩から力が抜ける。
浅い所をさ迷っていた呼吸は肺の深くまで届き始め、冷え症のなんたるかを端的に表す指先に血が通い出して、鳥肌もゆっくり収まって綺麗に元に戻った。
背中があたたかい。
なんとなく気の所為みたいに薫る彼の熱が泣きたくなるくらい懐かしく、鼻の奥がつんとしたと思えば視界の端っこが潤み、雨に霞む景色が余計に見え辛くなって困る。私ってこんなに涙腺弱かったっけ。眉間に力を入れながら耐え心の中でぼやいている内に、ほぼ自動的に進む足がいつ見ても大仰な門を通り過ぎて、少しだけ大きな道に出た。
僅かな刺激で乱れかねない息を殺しつつ鞄を持ち直してから、救命ブイに縋るが如く強く抱え込む。三年間使い続けた学業の友は、角っこや紐の辺りに年月を感じさせる丸みや汚れ、それなりの歪みがあちこちにあって、今、私の背中をそのつもりはないだろうに温めてくれている人と一緒に高等部に上がったあの春を思うと、胸が締め付けられてどうしようもなかった。
喉が、ひく、と小さく呻く。
傘の天幕に落ちる雨の響きが鼓膜を微かに濡らす。アスファルトの濃さがやたらと目に付いて、ごく薄く白い煙に包まれた街並みはいつもと変わらないはずなのだが、まるで知らない場所のようだ。
精市くんが本当に喋らない。
通学路を踏むローファーの硬い感じ、時々遠くから伸びて来る車の走行音と、吸って吐く、息の気配。全部わかる。わかるのに、貫かれる無言が張り詰めた反響を引き寄せ、なけなしの気力にトドメを刺さんばかりに積み重なって重たい。
所々錆びたガードレールを横目に、静寂に捕らわれた帰り道は続く。
傘の露先にごく小さな水の粒が集まって、透き通ったまま嵩を増し、ひと塊の雫となってから不意に滴り落ちた。
車の通りが盛んな道から少しばかり逸れた途端、音が少なくなる。立ち並ぶ家々はまるで人が住んでいないみたいに物音ひとつ聞こえて来ず、日常の空気すら感じられないので、冷たい霧雨が街を塗り籠めていくのがよくわかった。
なにかの弾みが生まれて、半端に丸めっ放しだった指先が僅かに跳ねる。
目には見えない震えは肌伝いに一気に広がってすぐさま消え失せ、最後にそれを感受した心臓だけが余韻に振り回され唸り出した。呼吸を詰めるついでに唾も飲んでみる。体温を奪う無情な梅雨寒と裏腹に、耳に届く雨垂れの響きは優しく清かだ。
何でもいいから話して、一回止まって、どうしたらいいか教えて。
人通りどころか影も形も気配もない、ただの生活道路では、いつかのように神様へお願いすら出来ない。
苦しくはないのにどうしてか胸が絞られて、よっぽど気を付けないと足元が覚束なくなりそうだった。
(精市くん)
しばらく呼んでいないから、上手く紡げるかもわからない。
そう思えば思う程、体の芯がきゅうきゅうになって心細い。
バスも走る大通りから遠ざかっていく分だけ静けさが増す。
深呼吸を繰り返した。
私の意志とあまり関係なく過ぎる景色の向こうに、引き直されたばかりらしい、真新しい白線へ浅い水たまりがうっすら掛かっているのが見えて来、きもち背筋を伸ばす。
流石にローファーで突っ込むわけにもいかないだろう。
避ける為ほんの少しみじろぎしたちょうどその時、保たれていた静寂が柔らかに崩された。

「……君がこの時間まで残っているのは珍しいね」

狭い傘の下、思わず反射的に振り仰ぐ。
一瞬で目が合ってそれだけで鼓動が跳ね上がった。
血が血管ごと燃えて全身を駆け巡り、喉はあっという間に干上がって渇き、背筋に電流が走る錯覚で目の前がちかちかする。
声が勝手に飛び出した。

「…………っ、ぅ…、うん……」

長年ずっと喋っていない人みたいに最初の一音が掠れて途切れた。
こちらを見下ろす精市くんの瞳は傘と天気の所為でどうしても薄まる光を吸って、ごく密やかに瞬いている。あの日、激しさで濁っていた名残の片鱗さえ窺えない。

「前を見て。そのまま進むと水たまりだ」

言葉の通りに慌てて視線を戻し、話し掛けられる前に考えていた事を実行すべく、つま先をずらして小雨に打たれる都度、微かに波立つ水たまりを避けた。
やや乱れた息を整える。

「……精市くんは?」

一向に収まらぬ鼓動の中心を鞄で押さえて聞けば、

「俺は職員室にいたよ。先生と話さなきゃいけない事もあるから」

耳たぶの後ろを落ち着いた声音で叩かれ、身も心も竦んでしまい、自然歩く速度が緩まった。
精市くんの置かれた状況と今までの話をまとめれば、話さなきゃいけない事なんて一つしかない。

――アメリカ行きの事だ。

靴先が迷う。
向かうべき行き先がわからなくなる。
夢の中の濡れない雨と、今、空気を裂く凍てつく雨とが混じって交わって境が消え失せ、頭の中心から隅々にまで響き渡り意識がぼやけてゆく。
かと思えば急速に記憶を遡り始め、不思議なくらい鮮明に浮かび上がる所為で体の内側から胸を強くやわく押された。


初めて話をしたのは、雨の教室。
‘幸村くん’は傘を忘れた私にタオルを貸してくれた。
梅雨の中休みですね、言うお天気お姉さんを信じ切って見事に降られたお見舞いの放課後、それから静か過ぎる病棟を並んで歩いた時の事。
『今日は雨だからさ』
『誰も来ないかと思った』
二人揃って花冷えの雨に追いやられ、水滴の残るこめかみを擦っていたら、微笑んだ人にリストバンドで丁寧に拭われる。
湿気の充満する濃い色の夜、お礼参りに行きたいんだけど、電話を貰い慌てふためき家を飛び出した。降る前に済ませるはずだったのに結局傘を差すはめになって、鍛えられた腕を支えに暗闇に沈んだ神社の階段を下りる途中、横風になぶられ膝や脛がしっとりと濡れてしまう。
意志も眼差しも一等賞で強いにもかかわらず時々まわりくどい方法を取る、にっこり笑った唇の端のかたちと、紡がれる穏やかだけど何者にも負けない声音。
一緒に学校行こう。
ところも時も変わって、自販機の稼働音が低い唸りが反響する、個人商店に設けられた小さなスペースでの雨宿り。私の分のビニール傘を携えながら迎えに来てくれて、洗い立てのタオルに包まれ優しく撫でられた。
水っぽい、独特のにおいが鼻をくすぐる。
突如として夏の嵐に見舞われ部室に逃げ込んだ。降り出しから強過ぎる雨足とお腹の底を叩くような雷鳴、雫と呼ぶには勢いがあり過ぎる大粒の前に打たれた肌の痛みがまざまざと蘇る。
だぶって重なって、過ごしたたくさんの雨の日が目の前の情景に滲んでやまない。

今日が最後かもしれない。
こうして一緒に帰る事は二度とないのかもしれない。
考えただけですごく怖い、無意識の内に息を呑むと、冷たい空気で肺がまるごと凍る錯覚にペースを乱されてしまう。寒さが原因ではない震えが下半身を支配し、いよいよ歩くのも難しくなっていく。
嫌なふうに早鐘を打つ心臓が溶けて体の中身と一緒に崩れてちぎれて地面まで落ちて死んじゃいそう、馬鹿みたいな事を本気で恐れた。そうすると、次々浮かび上がった先ほどの記憶の波は走馬灯なのだろうか。
だって胸が苦しい。
息も上手く吸えない。
今すぐ走って逃げ出したい。
みっともなく怯える膝を心の中で打ち払い叩きながら、でも、と何度も繰り返す。
踏ん張れ私。負けるな。精市くんの事は大切だけど、それだけじゃきっとダメなんだ。
ここで終わってしまうにしろ、そうならないとしても、自分自身で決める私だけの覚悟が必要で、
『いつも一生懸命。よくどうでもいい事で落ち込んでるけど、結構めげないよね』
ここでめげちゃ絶対にいけない。

「あのね、」

身も凍る霧雨に閉じ込められた街には音がない。本当に静かだ。鼓膜に触れるか触れないかの、弱くあまりにもか細い雨音だけが響いている。傘の下の私達以外の世界が終わってしまったみたい。
完全に足が止まった。
見下ろされているのが気配だけでわかった。
冴え冴えとして空気を吸うと、頭の中がクリアになって晴れてゆく。雨にくるまれて洗われ、磨かれたよう僅かに光る、私が一番に伝えたい気持ちだけが生きている。

「精市くんが好き」

そういう事だった。
今の私が持っているものは、他に何もなかった。

「だから……ごめん」

向こうに行っても頑張ってと、大丈夫だから安心してと、きちんと見送らなきゃいけないのに、現実を思い知らされた途端、全部が難しくなる。好きだから色んな事が急に上手く出来なくなる。
ほんとは傍で見ていたい。
たかだかクラスが違ったくらいで寂しさを感じるのに、海外と日本に離れてたらどうなるんだろう。考えても考えてもわからないし、近くにいられない分笑顔でいるべき場面でも、思いっ切り表情に出てしまうかもしれない。精市くんの足手まといになる可能性だって大いに有り得る。

「でも、い…一緒にいたい。どこにいても、そうしてたい……。精市くんアメリカに行ったら、そんなの無理だけど、で…でき、ないけど、そういう気持ちで………気持ちだから。から…彼女として、無理してじゃなくて、ちゃんと頑張りたい」

たどたどしい事この上なく、あからさまに震える声が情けなくて仕方なかった。
胸の前で抱えていた鞄が勝手にずるずる落ちていって、ほとんど感覚の失せた手の先で引っ掛かったみたい。重たさが片手にぶら下がる。
体を捻って振り返り、向かい合わせになってから覚悟をする。

「も、もう……無理なら、……友達でいいよ。それもだ…ダメ、なら………一番のファンになる。精市くんとテニスのこと、いっぱい応援する」

幾度となく挫けかけては諦めず唇を振るわせている内、不思議な、としか言い様がない感情が奥で沸き上がっておぼろげに揺れた。
色紙。
入院中の彼宛に書こうとしてついには書けなかった、クラスの皆はそれぞれ思い思いに励ましのメッセージを綴っていた、今となっては懐かしい日々の出来事だ。
私の頭の中ではずっと白いままだった‘幸村くんに渡す色紙’が、音になって零れる言葉と同時にどんどん埋まっていく。
へなへなの、だけど決して途切れる事はない文字が連なり記され、ゆっくりとではあるものの明確になり、びっくりするくらい腑に落ちた。
本当に伝えたかった事を伝えられるのって、こんな感じなんだ。

「だから、精市くんがテニスをする為に必要なことなら、なんでもして欲しい……」

呼吸も忘れて続けたからか、長い溜め息が転がり流れ霧雨の中へ溶け消える。
うっすら流れる残りがめいた息の終いがやたらと熱い。
もう一度、はあ、と息を吐いた。
視界の隅からじわじわ滲み始め、瞳の表面が薄く濡れ広がって、目と鼻の奥が熱を持ち痛む。
せめて荷物を抱え直そうと肘を曲げようとした、直前。
冷えて硬い感触が一切の前触れもなしに肩と鎖骨の辺りへ勢い良く押し付けられた。
え? と驚く暇もなかった。
傘の柄だと気付いたのは、何が何だかわからないまま咄嗟にそれを両手で掴んだ後の事だ。
どさっと鞄がコンクリートの地面へ放り出された音が、二回。私は身軽になっていて、精市くんが肩に掛けていた自分の通学鞄を服でも脱ぎ捨てるよう落とすのが、ほんの一瞬間、覆われつつあった目の前で閃く。
次の瞬きをした時、両頬に添う大きな掌に軽く顔を持ち上げられ、間抜けにも半端に開いた唇を柔らかな熱で塞がれていた。

「じゃあなってよ」

囁きが耳たぶを優しく揺する頃には全身で抱き締められている。

「全部がいい」

精市くんの穏やかで、でも芯に熱を帯びた声が直に肌を伝った。

「俺の恋人で、友達で、一番のファンにさ。俺は君がいいんだ。他の誰でもない、に傍にいて欲しい」

胸をつかれて呼吸が止まった。
一秒にも満たない間に涙がこんもり盛り上がる。溢れて零れてぼろぼろ流れて際限がない。伝い落ちるそばからとんでもない高熱が籠もって心と体の真ん中が焼けそうになる。
目の前があっという間に歪み滲んで潤んでいよいよ見えなくなった。
うん、と答える寸前でちょっとだけ体を離されてまたすぐにキスが降って来る。触れる場所のどこもかしこも温かくて、冷え固まった指先と言わず足と言わず、問答無用で体温を呼び戻された。
次から次へと生まれ続ける涙が下瞼や頬骨と口の横近く、つまり顔の半分以上にひたひたに染み渡り、延々止まらないお陰で、重なる唇と唇の小さな隙にまで入り込む。

「しょっぱい……」

ムードもなんにもない私のバカみたいな感想に、不安ばかりが詰まっていた心臓に火を灯してくれる熱の持ち主が何故かすごく嬉しそうに笑った。

「フフ、俺もしょっぱいや。けど、今のは泣いたが悪いよ」

きっぱり断言されたし色々差し引いてもあんまりな言いざまなので、泣きながら我慢出来ずに笑い噴いてしまう。
眉間には変な皺が寄り、口もへの字に曲がっている。
お世辞にも可愛いとは言えない、絶対に不細工になっているだろう、本当なら涙を拭ったり顔全部を手で覆い隠したい所だが、当の精市くんが頑として離してくれない。見ないでよ、跳ねのけても許されるレベルで崩れた顔面を恥じる隙も間もないのだ。
ぐずぐずの鼻をすする。
ああ嫌だ、子供っぽいし宣言した直後にもうちゃんと頑張れていないし、人前で、よりにもよって精市くんの前で鼻水を出すまいと一人悶絶して格闘なんてしたくないのに、すごくかっこ悪い。
ゆっくり瞬きをすれば大粒の涙が溢れて頬に落ちていった。
だけど、かっこ悪くてもいいから、どうにかして言葉で伝えたい。

「ひどい事いっぱい言って、ごめんね」

一拍の間を置いて、何も言われないまま強く抱き竦められる。あんまりにもぎゅうぎゅうにされて息もし辛くて苦しい。肺まで押し潰された胸や逞しい両腕に包まれた背中が痛いくらいだ。でも、いいんだよ、と許されてるみたいで嬉しくてまた込み上げて来る。

「俺もごめん。ずっと言えなくて」

大泣きしながら全力で首を横に振ると、

「もう謝らないで、。君にごめんと言われると心臓に悪いんだ。振られるのかと身構えてしまうよ」

いやそれは私がちょっと本気で考えてた事だから、こっちのセリフ……。
返そうとして、形にならない。
息をするので精一杯だった。
相手が屈んでくれているとはいえ身長差もあるし、その上、濡れない為の折り畳みもある。変な体勢を取らざるを得ないのだ。狭い雨避けを分け合うにはぴったりくっついて、私が精市くんに少々持ち上げられていないと傘に入り切らない。背伸びするよう自然踵が浮いてしまい、ちっとも弱まらない力で抱き締められ続け、段々と足の裏が痺れて来た。

「………傘、離さないか?」

乞われて気付く、細い柄を両手で握り締めたままである。
精市くんは、不恰好に傘を抱えた私ごと腕の中へ引き寄せているのだった。

「精市くんが、濡れるもん……」

言葉足らずの否定をした途端、触れている温かくて大きな体が柔らかに細かく揺れた。
おかしそうに笑っている。
吐息混じりの笑い声とその優しい振動が直に伝わり、私はどうしようもなくなってしまって、さっきとは違った種類の涙が皮膚の内側を駆け上がり、鼻の奥と舌の根の中間辺りで爆発しそうだ。決壊して大変な事になるかもしれない。

「濡れたって構わない。どうだっていいよ。今は俺に触れてくれ」

つまり、ともすれば風邪でも引きかねない低気温と氷めいた霧の雨が降る中、唯一の雨具を放り出せと言うのだ。
なんでこんなに無茶苦茶なの。
引き結んだ唇の裏で紡ぎ、しかし一も二もなく賛成した。
握り込んでいたお陰で微妙にぬくい柄から指を引き剥がし、せめてもの抵抗で肩に引っ掛けて支えるようにして、広い背中へそろそろと腕を回す。
と、爪の先がびくっと跳ねた。
――冷たい。
ここ数分でじゃない、長い間、例えば学校からここへ至るまでの間中雨を被っていないとこうもしっとり濡れないだろう、というくらいには水分を含んでしまっている。
脳みそが凄まじいスピードで過去を遡り即座に探し当てた。
『濡れていないよ』
あの返事には一切の躊躇も迷いもなかった。
たった今、心底愉快げに揺れていた、三年前まで病室で過ごしていたとは思えない程に鍛え上げられた体。
何も問題はないと断じ、いつもみたいに笑いながら、雨に降られているとは感じさせなかったのか。
精市くんは、私の好きな人は、きっとずっとそうやって戦って来たんだ。
一瞬でたまらなくなって、自分なんかじゃ追い付かない大きくて広い背をそれでも可能な限り目一杯抱き締める。伸ばす腕の長さが足りなくてもいい。私も濡れたって構わない。精市くんに触れていたい。
すぐさま返してくれる力強さで傘が少し斜めにずれて、薄く湿って冷たい空気が額にぶつかって弾ける。
背中が熱い。精市くんの掌の形が制服越しでもわかる。ちょっとだけ癖のある髪がこめかみや耳を掠め、ワイシャツの襟からのと微かな雨と彼自身の香りが混じって胸に迫る。心は痛んでいるわけでもなく、苦しくも辛くもないのに切なかった。

すごく頑張りたい。
何をどう頑張るのかとかはまだよくわからないけど、頑張ろう。私、頑張ろう。

既にかなり腫れぼったい両目をぎゅっと瞑ると飽きもせず涙が零れて、頬が焼けるように熱かった。
精市くんはあったかくて、私の中の色んな感情をひとまとめにして全部溶かして、さらさらと指通りのいい綺麗なものに濾過(ろか)してくれるみたいだった。
そんな風に今は誰よりも傍にいるこの人が、近い将来いなくなってしまう事を一端でも考えるだけで辛い。やっぱりどうしようもなく寂しくて、来たるべき日が訪れるのが少しでも遠ければいいと自分勝手に願ってしまう。
でも精市くんは許してくれた。
嫌な事ばかりたくさん口にしてぶつけたのに、いて欲しいと言ってくれた。
他の誰でもない、君がいいんだ、嘘のない声を聞かせてくれた。
だから私はかたい地面へ念入りに杭を打つ要領で、一生懸命唱える。
何度も。何度でも。

忘れないで。
私が精市くんを好きなこと。
信じていて。
精市くんをずっと応援してること。
それで今の内に泣くだけ泣いて、悲しい気持ち全てを出し切ってしまって、そうしたら一番の笑顔で言うんだ。


――いってらっしゃい、精市くん。





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