09
ごめんなさい。
言いながら夢だとわかった。
風景がはっきりしなくて、けれど真っ白に染まった空間にいるわけでもなく、明かりの差さない暗闇に立ち尽くしているのでもない。
どこぞへ焦点を合わせるとこげ茶の土のでこぼこにほぐれた表面から、たっぷり膨らんだ雨露を纏ったお陰で瑞々しく光る緑の二葉が生えているような気がしたし、かと思えばちょっとだけ上の方の、それこそ浮遊霊じみた位置で、どこだかわからないぼやけた路地を見下ろしている感覚も得てしかし次の瞬間、背景全部があやふやにもなる。
ごめんなさいといやに虚しく響く言葉を舌に乗せる一方、自分の目がテレビカメラになったみたい、まるきり他人事のように思う。
確かなのは背中だけだ。
ほのかにまるい後頭部。
制服のシャツに包まれた肩の四角っぽさが男の子だと思う。布地にうっすら透けて浮かぶ肩甲骨が大きくて、曲がった所なんて一つもないのにぴりりと張り詰めてはいない背筋は、精市くんの佇まいがもたらすものだった。硬そうな肘と、そこから伸びた筋はいつの間にか見慣れきってしまったパワーリストへと行き着く。
近付くと意外なほどしっかりとしていて逞しい部類の両腕が前後に軽く振られているのは、彼が歩いている証拠だ。
白い襟と少し癖のある毛先の間の、うなじが僅かばかり陽に焼けている。
だからこれは夏の夢なのかもしれない。
精市くんが、テニス部の人達が頂点だけを目指して駆け抜ける季節。
曖昧さを溶かし込んだおぼろげな只中にあって、異様かつ不自然なまでに明確な後ろ姿は、どんどん遠ざかってゆく。
ごめんなさい。
そうは言っても絶対に聞こえる距離だ、にもかかわらず振り返る素振りはなく、前へ前へと歩を進めてゆくばかり。
待ってとは心の中でも乞わなかった。
唇の内側がからからに乾いて上手く声が紡げない。
精市くん。
名前さえ口に出来ない。
その内、降ってもいない雨音が耳の後ろから迫って来た。傘を叩いて、足元を濡らし、うちのリビングの雨戸をさらさらと叩く気配だ。
走って追い掛けようとして一歩も動けず、どんな事があってもびくともしなさそうな背中がゆっくり遠ざかっていく。
あの独特な水っぽい匂いが鼻をくすぐる。
湿り気を帯びた空気が全身に纏わり付き、掌がじっとり籠もった。
それでもやっぱり目の前は渇いたまま、唾を飲み込もうとしても喉に力が入らなくてかさかさだ、雨雫に遮られたりもしなかった。
ぼつぼつ、ざあざあ、ぱらぱら。
降り注ぐ音だけやけに鮮明で、私を追い越さずにいつまでも反響する。
糊で貼り付けられたような唇をこじ開ければ、吸っても吐いても乾燥し通しの全身がわなないた。ちょっとやそっとの声量じゃ気付かないかもしれない距離を隔てた先の先、振り返りもしないで突き進む迷いのない背中に向かって。
「ごめんなさい……」
そこで目が覚めたのだ。
正確には自分の発した声に無理くり覚醒させられた。
毎朝飽きるほど目にした天井に、カーテンの上部から溢れた陽光がゆるやかな模様を作り出している。雨などは降っておらず、察するにたまの晴れ間なのだろう。
……耳たぶが冷たい。
無意識に掌で触れれば、かすかに濡れている。ぐずつく鼻へ持っていった指先を横に滑らせ確かめた目尻は、涙でひたひたになっていた。
だるい体に鞭打ち起き上がると、深い深い溜め息が肺の底から持ち上がって来、かさついた唇の端から零れて落ちて薄れる。
私は、夢のくせして脳に焼き付いて離れない、異様に現実感のある情景をゆっくり順番に遡って、自分が誰からも気付かれないお化けになったみたいだった、と思った。
何があっても、どんなに悲しい出来事があったとて、昼は夜になるし明ければやがて朝が来る。
ショック過ぎて本当にもう立ち直れない、大袈裟にではなく心ごと挫けているのに生きているだけでお腹が減る。
頬が削げたりやつれたり原因不明の微熱に悩まされ体調不良にでもなれば、周りの人達にもっと色々伝わるのかな、真剣に考えては己の不甲斐なさに情けなくなった。
察して貰うの前提で行動しようとするな。
自分で自分に言い聞かせ、目頭を張り詰めさせながら、腹筋に力を入れて歩く。
これまでの日々の中でそんな風に感じたりはしなかったけれど、私の体は思っている以上に丈夫でタフらしい。
証拠に、用意された朝ごはんは胃袋の中へ余す事なく収められていく。
いってきます、食器を下げるついでに告げれば、はいはーい、と流しの洗い物を片付けながらののん気な声が返って来たので、この母にしてこの子ありとご近所さんに噂されていないか、ちょっとだけ心配になった。
たとえば誰かにとられたり忘れっぽさが災いし失くしたりしてもそこまでのショックを受けない為にとコンビニで適当に買ったビニール傘を片手に玄関を出ると、上空いっぱいに敷き詰められた鉛色の雲が視界に映り込む。今にも降り出しそうな空模様に、プラスチック製の柄を握る手に自然力が入った。せめて学校に着くまではくもりのままでいて欲しい。
湿気たゆるい風に撫でられた頬は長時間クーラーに当たった時と同じに冷たくて、半ば無意識に擦り合わせた指も似たり寄ったりの温度だ、こんなに不快指数の高い時期にもかかわらず末端冷え症がぶり返している。今までの人生で一番脳みそを働かせているから、その分、血液が頭に集中して先っぽの方にまで行き渡っていないのかもしれない。
そっと息を吸う。
朝の街は車の通りも多く、通勤通学の人が駅までの道の上でぞろぞろと列を成している。
たくさんの足音や忙しないエンジン音、雑多な気配、時々挟まる鳥の声に紛れていくにつれ、自分そのものが埋没する錯覚に陥り、でも精市くんなら埋もれたりなんて絶対しないんだろうな、どこにいても存在感抜群の姿を思い浮かべながら淡々と歩を進めた。
柳くんの若干物騒で力強い後押しに勇気付けられたのは確かだけど、どうやって行動したらいいのか迷いはいまだ消えないままである。
精市くんの世界から跳ね除けられた感覚、私自身をまるごとなかった事にされたあの瞬間や、体の全部を貫かんばかりに鋭い眼差しと、道端に吐き捨てるみたいな声音が事あるごとに再生されて、心臓の真ん中を発端に冷え切った流れが張り巡らされた血管を糧に広がる所為だ。
思い出すだけで身が竦む。
ものの数秒で怖さに負けて動けなくなる。
大抵笑みを携え鷹揚に構えている人の、きっと誰にも触れさせなかったであろう激情をぶつけられてしまっては、私ごときじゃ太刀打ちできっこない、気を抜くとすぐに顔を出す臆病を目一杯振り払い何度も辿る。
『君にはわからない』
そんなのわかんないよ。
出来る限り一生懸命に心で言い返す。
だって私は精市くんじゃないし、真田くんみたく長い付き合いでもなければ、人の気持ちを敏感に感じ取れるタイプでもない。上手に隠されたら尚更だ。何もないよと告げられれば安心して信じ切ってしまう、単純、単細胞を地でゆく人間なのだ。
大体、そういう所を一番よく理解していたのは精市くんの方なんじゃなかったの? とここに居もしない、何ならこの先話す事すら叶わなくなるかもしれない人へぶつけてみる。
単純でわかりやすいからと面白がったりからかって来たりして、心底愉快げに大笑いしていた時もあったのに、なんでも信じちゃうよねと窘めて、私が精市くん本人からの言葉なら鵜呑みにするのだって絶対わかっていたくせして、今になって知らない、わからない事を真正面から手加減なしで指摘されたら、その通りです私は大馬鹿者です以外の答えなんか出せっこない。
(……まただ)
季節と裏腹に冷えた指先が微かに震えた。
またこうして、言い訳じみた独り言を延々と連ねてしまうのだから嫌になる。
自己嫌悪に押されてつい吐き出しそうになる溜め息をぐっと堪え、唾と一緒に勢い良く飲んでぎゅうぎゅうに肺の中へ押し込んだ。
勝手に俯いてゆく視線は持ち上げるのにもひと苦労、重たく下がる首の後ろと戦った結果、みじめな靴先とのにらめっこをなんとか回避する。
(言いたい事全部思いっきり言ってたら、違ってたのかな)
だけどあのタイミングでごめんと謝られても、もしくは的確に反論されたとして納得は出来なかったと思う。というか、余計なもやもやが増した可能性が無きにしもあらず。売り言葉に買い言葉でもっと酷いケンカを繰り広げ、今以上にどうにもならなくなっていた事態さえ大いに有り得る。
柳くん風に言うと、‘その方法は、建設的と思えないが?’
辿らなかった道筋を数えた所で全くの無意味、本当に建設的じゃない。
散々振り返る度に後悔し、掘り起こしては底になんにもないと落胆した後で埋め戻して、同じ場所をうろうろ歩き回った末、呆然と立ち尽くすばかり。
出来ない事が多い私には、仲直り――と表現するのが正しいかは置いておいて、ともかく声の掛け方すらわからないのだ。
ごめんなさいを聞きたくないと弾かれたから、何と言えばいいのかもいまだ見つかっていないが、後々心が決まったとして伝える方法は到底思い付きそうになかった。
いきなり電話を掛ける度胸はない、かといってメールじゃ気付かれるかどうかも怪しい、メッセージを送ったはいいが既読すら付かなかったらそこでおしまいだ、じゃあ古風に手紙をしたためるのかと考えてみてもどこの誰に発見されるかわかったもんじゃない下駄箱なんて今時ないよね、第一に衛生面でアウトだし、それをよりにもよって精市くんに読ませるなんてだめだ、と堂々巡りである。
出来ない事ばかりかわからない事だらけ、思い知らされる都度へこんでいく。
それでも、不安定な足元にもかかわらずギリギリで転ばずにいられるのは、体の芯をどうにか真っ直ぐに保とうと踏ん張れるのは、雨に洗われて汚れが落ち、綺麗に磨かれたような気持ちが強く残ったお陰だった。
多分、私は諦めたくないんだ。
わからなくてもいいから一緒にいたい。
怒られても睨まれても、自分の今までに死ぬほど後悔していたって、終わりになんかしたくない。
私は他の皆みたいに、自分の気持ちを言葉にするのが上手じゃない、はっきり言ってへたくそだ。きっかけの掴み方にさえ迷って、いつまで経っても同じ所でぐるぐる悩み、一歩踏み出すまでに余裕で人の倍かかってしまう。
頑張って誰かに伝えてみても、例えば彼が加減なしにぶつけて来た時のよう、力一杯投げても決して砕けぬものなんか持っていないのだと思う。
だけど、でも、掌に握る分ぐらいの強さならきっとある。
精市くんは神様じゃない。
全知全能でもない。
偉い王様でも立派な領主様でもない、たった一人しかいない大事な人だ。
私と同い年の怒りもすれば笑いもする、‘幸村くん’で‘精市くん’だ。
何でも出来る人であると同時に出来ない事も知る限りではいくつかあって、たくさんの感情を心に住まわせ、豊かに表現するすべを自然と身に付けている。
そういう彼が抱いても当然の、寂しいとか怖いとか不安だとか、当たり前の事を心配してあげられなかった。
海外どころか違うクラスに離れただけで俺も寂しかったよと言ってくれた時だってあったのに、呆れる程すっかり忘れてしまっていた。
本当は、彼の隣にいるべきなのは、私じゃ到底出来そうにない気遣いや配慮を躓く事なくスマートに出来る子なのかもしれない。
もしもの未来図を脳裏に浮かべるだけで気が滅入るけれど、そんなのは100%有り得ない、等と断言は出来ないのだ。精市くんの輝くに違いない前途を思えば、ひょっとしたらお母さんの部屋にある昔の少女漫画みたいに身を引くのが正しいのかもわからない。
でも私は漫画の主人公じゃないし、緻密な計算式も導き出せなければ、解だって求められない。
ただ、誰にも譲りたくなかった。
学校で一番の有名人たる彼を想う子はきっとたくさんいて、力になりたい、傍にいたいと願っているであろう事を予想しておきながら、少なくともなんにもしない内に離れるのは嫌だ、もう一人の自分が呟く、わがまま、の四文字を跳ねのける。
傍にいたいのは私だって同じだから。
遠くになっても近くても、精市くんを見ていたい。
他の誰かじゃだめな事。
肩掛けの鞄の紐を掴んでいた手の甲に冷たい雫が当たって崩れた。
はたと気付けば立海大附属のご立派な校門に差し掛かっていて、続いて上空を仰げば家を出た時よりも鉛の色が重たい濃さを増しており、白みを帯びた透明な水の粒が丸い視界に湧き出であっという間に振り落ちて来、ちょうど眉間の辺りを強く打たれ我に返る。
指の腹で拭うとやっぱり冷たい。
えー降って来ちゃった、だっる今日一限目体育なんですけどー、昇降口まで走ろっかな、あっ俺傘持ってくんの忘れたわ、いや天気予報見とけよバカなの?
ほうぼうで上がるたくさんの声は一つ二つと駆け出してゆき、後からやって来た無数の足音も忙しなく通り過ぎ次々に追い抜かれてしまう。
雨脚は強まりそうになかったので、傘の柄を持ち直し、握り込む。
本格的に降られる前に急いだ方が良い、頭では理解しているにもかかわらず手足が上手く動かなかった。
雨の時期だから、じゃない理由で今すぐにでも走り出したい気持ちがずっとあるのに、始めの一歩の踏み出し方や腕の振り様、スタートダッシュの方法がどうしても思い出せない。
(…むしろ最初からわかってなかったのかも)
焦げ茶色の煉瓦道に点々と小さな水の跡が生まれていく。
頭のてっぺんからちょっとずれた所に軽い衝撃を感じた次の瞬間、右目の下の頬に水滴がぶつかった。わざわざ触れて乾かす必要もない僅かな浸水域。生ぬるい風に吹かれた途端、薄れて消える。
歩幅を変えずに正面玄関を目指す。
朝のチャイムが鳴るまではまだ間があるはずだ。
差せばいいのに開く気が何故かしない、最早ただの荷物同然の傘の先端をつま先でぽんと蹴飛ばすと、靴越しに響いた感触にランドセルを背負っていた頃を呼び起こされた。
私が平凡かつ平和な小学生だった時、精市くんはどんな子だったんだろう。
想像してみたところで答えのない、取るに足らない思考を巡らせ進む校舎までの道筋はいつも通り。
うっすらと雨の気配に濡れている。
それからの毎日は驚くくらい淡々と過ぎていった。
己の不出来っぷりを予測して持ち歩いていた例のビニール傘だが、すっきりしない天気が数日続いたのち案の定というか期待を裏切らず学校に置いて帰ってしまい、あんたなんの為に今朝傘を持って行ったの、とお母さんに大きな溜め息を吐かれた。帰り際には微妙に止んでたから忘れた、素直に懺悔しようとしたものの呆れ果てましたと言わんばかりの表情で、いっそ傘にGPSでも付けたらどう、やれやれと首を横に振られてタイミングを失ってしまう。考え事してたんだもんといちいち言い訳するのも変な気がしていたから、ちょうど良かったと思う事にする。
すっかり放り投げていた受験勉強も徐々に再開した。
とはいえつい落ち込み気味になる気分やまとまらない考え、恐ろしく変化のない現状から逃げる為でもあったのであまり褒められたものではない。
0よりは0.1、やらないはよりまし、言い聞かせては無心で問題集や過去問と対峙する内、勉強場所を一つに決めると色々思い出される事が多くて辛いと気付き、早い段階でその日の気分で図書室や放課後誰もいなくなった教室、自習室等々をランダムに選ぶようにした。
どこにいてもなるべく余所事に気を取られぬよう無心でペンを走らせる。
端末には連絡のれの字もなく、かといって心にぽっかり穴があいたみたいにはどうしてかならなかった。
手応えのない日々が連なってどんどん嵩を増していく。
充満する湿気のお陰で髪の毛はしなり、制服のシャツは微かに湿っぽくて、ノートも指や手になんとなく貼りつきやすい。
以前にも増して帰り道やそれを共にする相手について思案する必要が綺麗さっぱり消えたので、午後の授業以降の空模様を気にする事が本当になくなった。
精市くんのいない生活。
正確には、いるけれど私からは遠い、さながら別世界の住人と化した、起こり得る未来の前触れ。
溜め息も出ない。
どうなっちゃうんだろう私、胸の内でぼやきつつ、でも死んじゃったりはしないんだろうな、荒唐無稽な選択肢をこねくり回したあげく丸めて捨てる。
周りからはよっぽど不自然に冷静で落ち着いて見えるのか、以前心配をしてくれていた友達に今度はすごく気遣われたりもした。そこまで限界ギリギリな状態に思われている状態と人に優しくされてからようやく向き合う、自分の足りてなさが本当に不甲斐ない。
ごめん。ありがとう。大丈夫。
全く大丈夫じゃないのだが、以外の答えが浮かばず妙な気持ちを抱く。
また別の日。
柄にもなく勉強道具がみっしり詰まった鞄をぶら下げ図書室へ向かうさ中、一度だけ偶然二人に鉢合わせた事があった。
多分お互いびっくりした表情だったんだと思う。
真田くんは目に見えてわかりやすく固まり、柳くんはといえばはっと言葉を失ったのは僅か一瞬、すぐに普段の涼やかな様子を取り戻し、
「か。知らぬ間に随分と勤勉な生徒になったものだ」
流石過ぎる一言をこれまた涼しげな声でぶん投げて来る。
私の強張った肩の力が抜けたのと、大体似たような状況に陥っていた様子の真田くんが構えを解いたのは同じタイミングだった。
精市くんよりも上背のある、高等部に上がっても風紀委員に推薦された人が、手持無沙汰になっていた両腕を無言で組んだ。
一、二秒ほど沈黙が辺りを支配する。
「…………頑張っているようだな」
なんとかして捻り出したとしか聞こえない、めちゃくちゃに無理をしている声色である。
せっかく労われたのに思わず吹き出した。
だって絶対に不自然。
と、間髪いれず真田くんの稲光がびかっと差し込み、つい目を閉じかける。怒気や覇気、と言い換えても良い‘圧’だった。
おい一体なんだその態度は、瞬間湯沸かし器めいて気色ばむ時々鬼と呼ばれる副部長に、弦一郎、と静かに窘める参謀の図はいつも通り過ぎる程いつも通り。慣れ親しんだテニス部だ。
二人とも触れないしこちらも申し開きはしないけど、私は柳くんのように正確無比な確率の計算も出来ないけれど、それでも心配されているのはちゃんとわかった。
もう連絡は取ったのかとかきちんと話し合ったのかとか、口を出したい事はこの二人なりにきっとあるだろうに、黙って見守ってくれている。
心遣いが単純に嬉しかったし、精市くんはこういう雰囲気の中に昔からいたんだよね、改めての実感がじんわり染みた。
ありがとうと紡ぎかけ、しかし何の礼だと詰め寄られても返事に困る、私にもよくわからないし、唇を引き結ぶ。
息を切って、ごめんなさいつい笑っちゃって、謝れば、いやこちらこそ邪魔をしてすまなかった、図書室へ行くのだろう、告げてもいない行き先を見事に当てた柳くんが応じ、真田くんはむっつりと黙り込んだまま小さく頷いてくれた。
梅雨空は一進一退、テレビが伝えるぐずついた空模様とやらは延々続くかのよう。
降ったり止んだりを繰り返す雨が憎らしい。
傘の持ち歩き方について頭を悩ませたり、ひと度濡れればなかなか乾かないローファーに新聞紙を詰め込んでみたり。
そんな取り立てて覚えておくべきでも何でもない、小さな日常について話せる男の子は、どうでもいいと放り投げたりせず的確だけど辛辣さを含むアドバイスをし、それで? 靴は乾いたのかい、微笑みながら聞いてくれた人は、ずっと不在のまま。
屋内ばかりになりがちな行動範囲が手詰まりとしか言いようのない現実を一層煽って来るので、気が塞いだ。
もうどれくらい太陽を目にしていないんだろう。
実際に数えれば大した日数じゃないのかもしれないが、体感的には何年もぶ厚い雲に覆われどんよりし通しの天候に目隠しされているみたいだった。
梅雨明けまではまだ少し、時間がかかりますね。
脳裏によぎる天気予報士の声が空虚に響く。
その日は授業が始まった時間帯から冷たい雨が降り落ちて来、梅雨寒に相応しい気温が学校どころか関東地方を一日中支配していた。
案の定指や足の先はかじかみ、季節外れとかいうレベルじゃない代物たるホッカイロを引っ張り出して持ってきたら良かった、真剣に後悔したくらいだ。
当然、手袋もない。
授業中、膝に掛けるブランケットもなければ、あたたかい飲み物だってそうそう売っていない。
おまけに新たに購入したビニール傘を前もって用意しておきながら、家の靴箱の取っ手に引っ掛けたまま忘れたのを放課後になってからようやく思い出したので良い事が何もない、そろそろ本気で嫌気が差して来た。
溜め息も底をつき、しかめっ面をする気力も失くした私だったが、こういう時の為に折り畳み傘を教室のロッカーに保存しておいたのだ。
やれば出来る、あの時の自分偉い。
自画自賛しつつ梅雨入りからほとんど使っていない布地を軽くはたいてみるも、目立ったほこりの類は舞わなかった。念には念を入れて人影のない廊下できちんと開くか確かめると、思いのほか勢い良くぽんっと広がる。二、三回開閉させて、異常なし。
よし、帰りはこれでなんとかしのごう。
畳み直すついでに窓の外へと目線を遣る。
硝子に貼り付く無数の水滴は風に押し潰されてはおらず、雨脚はそのまま、午前と同様にしとしとと降り続いている様子だ。
夏へと近付く湿気や温度もそれはそれで不快だが、秋冬並に肌寒くなられても困る。
別の意味で深い息を吐きかけたものの、人の手の及ばぬ天に文句をぶつけたって仕方がない。
暖房なんか入るわけがない図書室や自習室でこの寒さの中での勉強なんか無理だ、早々に諦めて撤退を決意し、昇降口へと繋がる階段を下っていく。
スカートの裾に入り込む冷気に腿から下の体温を奪われ、剥き出しの部分に鳥肌が立ったのがわかった。
部活のある生徒は室内活動、ない者もこんな悪天候かつ何をするにも向いていない環境で居残る理由等ないのだろう、私が資料集や本を資料室へ返却したり傘の捜索に専念している間に半数以上は帰宅してしまったらしい。校舎には人の気配が薄かった。
ばたばたと走っていないにもかかわらず、段を踏む音がやたらと大きく反響する。
もし仮に担任の先生とすれ違いでもしたら、お前はもうちょっと静かに歩けないのか、注意されたに違いない、下駄箱の辺りに辿り着くまで誰とも会わなかったのは不幸中の幸いである。
あぁでもこの後の外がもっと寒いんだよね、嫌だなあ。
心の中で寂しくぼやき、折り畳み傘を掴む指をもう一方の掌で覆って擦り合わせ、立ち並ぶ鉄製の靴箱をいくつか横切ったのちの、一瞬の事だった。
息が引っ込んだ。
びくと背筋が怯えたかもしれない。
肺と気管が持ち上がったきり元あったところに戻って来ない。
見覚えのあり過ぎる背中。
(精市くん)
呼べない名前の持ち主が、大仰で重たい昇降口の扉前に佇んでいた。
鼓動が跳ね上がり舌の根を押して来る。
唾を飲み込む暇もない。
通学鞄を肩に掛け、両手に何も持たず微かに上空を見上げている後ろ姿を、見間違うはずがなかった。
少し癖のある髪の毛が不意に揺れ、彼の視線がやや落ちて水平に傾けられた事を知る。
口の中が一気に干上がり渇いた。どくどくと騒ぐ血管の所為で無性に熱い。う、とも、あ、とも声にならない声は唇の内側で空回る一方。耳鳴りもして来た。
精市くんが鞄の紐を軽く掛け直す。
些細な衣擦れの音色さえ鼓膜を破らんばかりに大きくこだまし、踵が震えてしまう。
下駄箱の影に隠れる事は出来た。
気付かれない内に来た道を戻り、時間が経ってから靴を履き替えても良かった。
そのどれも選ばずただ黙って息を潜めていれば済んだ話かもしれない。
ブレザーを羽織った背は記憶の通り真っ直ぐに伸びており、しかし神経質に張り詰めてはおらず、泰然とありのまま存在している。
夢よりも鮮明で、だけど――。
思い至るや否や足が勝手に駆け出していた。
下には重りの入ったリストバンドが取り付けられているであろう袖が、古めかしくも綺麗に磨き抜かれた玄関のプッシュプレートに向かう。鋼の肉体を持っていなくたって誰より強い彼が一歩、左足を前に進める。私からは見えない顔の、うっすらとした角度や僅かな動き。
気の所為かもしれない。
私の願望かもしれない。
夢の中ではあんなにしっかりしていて、何が起ころうとも振り返りそうになかったのに。
呼吸が鋭い刃物で斬られたみたいに吹き飛んだ。
「…あっ、か、傘! 傘、私の。ある、あるから……」
いつだって鷹揚に構え、風貌と打って変わって強靱な雰囲気を纏っていたその背中が、すごく寒そうに見えたのはどうしてなんだろう。
後ろから急に制服を思いっきり掴まれた精市くんは、目を丸くしてこちらを見下ろしている。
このタイミングでどっと舞い戻って来た息が荒れるのを力技で押さえた影響か、首から上に血液が集中し両頬が異様に熱く、なりふり構わず引っ手繰る形で人様のブレザーを握り締めた手がみっともなく震えているのがわかったけれど、自分の体の一部のはずのそれはまるで言う事を聞かなかった。
私に背後を取られている所為で半端にしか振り返れない人が、ゆっくりと瞬きをする。
肌を刺す沈黙が痛い。
走り出した瞬間は感じられなかった激しく脈打つ心臓が爆発寸前まで昂ぶり、それこそ口から飛び出しそうだ。いや、本当に吐くかもしれない。ううぅ、と悲鳴じみた唸り声を上げかけて必死で耐える。悲しくもないのに目の前がちょっとだけ潤みぼやけ、我慢しようとして眉間に皺が寄り、目蓋が緊張のあまり小刻みに揺らぐ。
私をじっと見通す瞳の奥は、見えているのに見えない。
雨降りの日のごく薄い光を反射した後の、色の深さだけが底で静かに波打っていた。
「ありがとう。それじゃあ、お世話になろうかな」
ふ、と思いがけず零れたような声音も、上品な半月型にやわらぐ唇の端も言葉遣いも話し方も、何もかもが私の知っている精市くんだ。
でもやっぱりどこかが沈み、一方でしんと凪いでいる。
そうとしか思えない自分が自分でわからなくなってしまい、私は結構な間、冷え冷えとした小雨の中を突っ切って行くつもりだったらしい人の背中を、引き止める為に掴んだ掌をほどく事が出来なかった。
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