帰宅時間が遅いというお叱りの余韻が残る頃、帰り道で会ったのは単なる偶然だ。

さん」

狭苦しい折り畳み傘の下で信号待ちをしている私へ、雨粒をやんわり弾く声が掛けられ、振り仰ぐとあの流れるような双眸がこちらを見下ろしていた。
アスファルトは黒々濡れて光っている。

「白石君」
「偶然やな。今帰りか?」
「うん。白石君、部活はないの?」
「あったけど、見ての通りの雨やしな。今日は早めに切り上げて適当に自主練せえ、てオサムちゃんが言い出した」
「そうなんだ」
「納得したらあかんで。単に自分がはよ帰りたいだけなんや、あの言い草は」
「そうなの?」
「雨なのにどこで自主練すんねん。普通、筋トレとかになるやろ」
「あ、そっか」

赤のライトが緑に変わり、白と黒の横断歩道を揃って渡った。
梅雨入りのニュースはまだ耳にしていないけれども、しとしとと降る雨が数日も続けば誰だって予想はするだろう。あらかじめ鞄の底に仕舞っておいた傘が活躍する季節が来たのだ。
隣で開かれている傘は大きめの男物だというに、中に白石君が立っていると普通よりも若干小さく見えてくるのは、中学生らしくない背丈と広い肩幅のおかげなのかもしれない。
私がこの傘差したら持て余すなあ、と他愛ない想像を漂わせながら、湿気て重たい空気を肺まで送り込む。
同じ雨模様でも東京と大阪では、性質が違うように感じた。

さんは電車通学なん?」
「ううん、徒歩圏内だよ」
「俺もや。ほな、いこか」

うん、と馬鹿正直に相槌を打ちかけた唇が、え、の形に様変わりする。
行くってどこに。
とりあえず視界をクリアにしようと緩慢に瞬きしていれば、白石君が美しい顔をゆるませた。

「よければ一緒に帰りませんか」

彼の黒い傘はお世辞にもお洒落だとは言えないし、足元は靴どころか制服の裾まで水滴の侵入を許していて、半袖のカッターシャツから伸びる腕には三、四粒の雨が滴り落ちていた。
心なしか髪の毛も重力に負け気味だ。
映画のようにはいかない情景で聞く芝居がかった台詞は、一歩間違えれば空気が寒くなるだけなのだけれど、決めてしまう白石君が恐ろしかった。
バイブルというよりアイドル。あ、ちょっと上手い。
等と自画自賛したけれど、言葉にする勇気を持てない私は小さく頭を振って、目の前のお誘いに意識を集中させる。

「でも、方向同じなの?」
「自分どこ通って帰るん」
「え、ええと、この道真っ直ぐ行くとある本屋さんの前通って、信号渡ったコンビニの先」
「なら途中までおんなじや」

水たまりを避けて歩いているので、時折距離が開いて話す言葉が遠くなったり近くなったりする。
雨音に混じっても、白石君の声はどこか滑らかだ。

「そっか。じゃあ途中まで」
「今、念押したやろ。俺と一緒は嫌か?」

ばれている。そして微妙に絡まれている。
誓って彼に悪感情を抱いてはいない、慌てて首を横に振った。
元々、周囲の視線や人様にどう思われるかを慎重に考えるタイプではないが、相手が白石君となるとなかなかそうも言っていられないのだ。
転校したての頃はいっぱいいっぱいで気を回す余裕がなく、四天宝寺の人達も遠巻きに見ていた所もあったと思う、鈍い私がそれでも気づいたのは不可抗力で耳に入ってしまった言葉の所為だった。
本格的な嫌味といった色合いはなく、あくまでもからかう明るいトーンで。
東京モンに白石とられてもええんかお前ら。
クラスの子ではなかった。
名前も顔もわからない、廊下の窓に寄りかかった男子と柱に背を預ける女の子達が、仲良く喋っていた。
階段を上って踊り場を進み、防火扉の隅から顔を覗かせたちょうどその時、ある意味ナイスタイミングで聞いてしまったのだ。
落ち込んだとか傷ついたとか、そういう殊勝な気持ちを抱くより申し訳なくなり、思わず来た道を引き返し、白石君の嫌う無駄な真似をした、なんて明後日の方へ向けた反省はいまだ生々しく胸に残っている。
やっかみが怖いというわけでなく、己の思考回路から恋愛がすっぽり抜けていた事に震えた。
例えば私の一挙一動が彼を想う誰かを傷つけていたのかもしれない、変な噂が回って白石君が迷惑していたかもしれない、配慮のなさを恥じたのだ。

「まさか、嫌じゃないよ。私は嫌じゃないけど」
「うん」
「あの、白石君は」
「俺が何?」
「白石君は……大丈夫かなって思って……」

何も伝わらない一声である。全てがあやふやで、語尾は消えかけていた。
上手な言い方が見つからない。
けれどもそこは四天宝寺の聖書、しっかり聞き取っていたあげくに、わかりにくく言葉の裏に沈んでいた真意までをも理解する。

「大丈夫やなかったら、最初から声かけたりせえへん。さん、誰かになんか余計な事吹き込まれたら、すぐ俺に言うんやで」

おまけで笑顔もついてきた。
余裕のオーラとはこういうものか、と息を呑む。
ごく僅かな情報量でそこまで察する事が可能な訳は、白石君が出来た人というのもあるだろうが、おそらく過去に経験のある事態なのだ。
友達の辛口批評が蘇る。
せやから白石は信用ならん、付き合うたら絶対苦労する。
そうかもしれない。
少し同調しているくせに、それでも私はやっぱりジャッジが厳しいな、なんて首を傾げながら基準を甘くしてしまう。

「吹き込まれたりはしてないよ。大丈夫」

水たまりを避け損ねた片足が、アスファルトの上で雫を跳ね上がらせる。

「なら良かったわ。まったく、好き勝手言う奴らは気楽でええな」

包帯に包まれた左手を肩にやった白石君は溜め息と共に呟き、私はその切実な響きに苦笑した。

「大変だね。白石君、モテるもんね」
「あんなあ、言うとくけど、俺周りが思てるほどモテないで」

わあ、嫌味にしか聞こえない。
涼しげな顔に肩を竦めて首を引っ込ませた。
普段の私ならまずやらない、アメリカナイズされたリアクションである。
さらっと言い切ったのをいつぞやのクラスの男子が耳にしたら、憤慨どころの話ではなくなりそうだ。
一瞬落ちた妙な沈黙を、やや睨みをきかせた白石君が断ち切った。

さん、信じてないやろ」

酷いわ、零す唇は何故か不満を訴えている。

「信じられる材料が少ないもん」
「はっきり言うなぁ、心折れそうや」
「あのね、余計なお世話かもしれないけど、他の男子の前でそういう事言わない方がいいと思う」
「そういう事」
「俺モテないーって」
「せやかて、事実やもん」

この調子だといつか逆恨み的犯行にあうのではないか、ちょっと本気で心配だ。
ぱしゃんと思い切り良く雨の溜まり場に踏み入ったスニーカーの持ち主は、傘の柄を持ち替えて半歩程こちらに寄り声を潜めた。

「大体、俺がモテるっちゅう根拠はあるんか。朝下駄箱開けたら手紙がドバーっとか、休み時間のたんびに女の子から呼び出しくらうとか、しょっちゅうプレゼント貰っとるとか、実際見たんか、見てないやろ?」
「……なんか例えがベタだね」
「王道ゆうたって。で、見てへんのやろ」
「さすがにそれは…、ないかな」
「な。じゃあ残ってんのは、人づてに聞いたとかそんなとこか」
「う、ううん……?」

彼の言い分に頷くと、色々な方面から恨まれそうで首が固まる。
そもそも本当にモテないのだとしたら、こんな風に鷹揚に構えていられない気がした。

「人の噂ほどあてにならんもんはない。なのに広まったら最後、どんだけ否定しても信じて貰えんのが怖い」
「そういう事があって、苦労したの?」
「現在進行形で苦労しとる」

それはもう、モテている証明のようなものではないのか。
問い詰めるには、傘を斜めにして見上げた先にある彼の表情が険しかった。
代わりに話題の方向転換を試みようと、噂かあ、声にはせず独りごちる。
景色と一緒に流れる雨のにおいが鼻腔をくすぐった。
髪が水分を含み、湿った質感で揺れ動く。
記憶を順繰りに辿っている最中、今までの話から離れすぎず近すぎず、且つ自らの疑問も解決出来る取っ掛かりが浮かび上がり、私はぴんと背筋を伸ばした。

「そうだ、噂」

ラケットバッグを背負い直した白石君が、おう、と続きを促してくる。

「あのね、初めて会った時に言ってたでしょ? 保健室で。噂の転校生って」

遠い春の出来事をよく覚えていたものだ、我ながら感心した。
どういう噂になってたの、問えば、柔らかい呼気で笑みを作る人が首を縦に小さく振る。
そんな事もあったな。
やけに懐かしそうだった。

「別に変な噂ちゃうで。東京から転校生が来たて、それだけやった」
「なんだ、そっか」
「けどさんが転校してくる前にも転校生がおってな、1組の千歳言う奴なんやけど」
「あっ、テニス部?」
「せや。千歳は熊本から来てん。で、そこに君やろ。
うちの中学には西と東から転校生が来とるー日本の中心やーて誰かがふざけ出したんが噂の始まりや」

とても平和な内容に、自然と笑みがこぼれる。
四天宝寺の、ひいては大阪の気質を如実に表しているようだった。
良くも悪くも、皆正直なのだ。

「ついでに、も一つ言わせて」

一人納得していた所へ水面へ波を生む小石が放り込まれ、雨に降られた所為なのかしっとり濡れる瞳を見遣った。
綺麗な口角が綺麗に持ち上がっている。

「初めてやない」
「え?」
「保健室で会う前から、さんの事知っとったで」

上がりきったその半円は、満面の笑みにまで発展した。

「うそ、ほんと?」

どこかで会ってたっけ、白石君みたいなかっこいい人見たら忘れないはずなんだけど、と越してきてからの数ヶ月を遡る私へ、

「ゴミ箱」

謎の単語が届けられる。

「……うん?」
「中身、ばら撒いてた」
「………え?」
「ゴミ捨て場がわからんかったんやなぁ。うろうろ行っては来たり繰り返して、最後には噴水の角に足ぶつけて、持ってたゴミぶん投げとった」

知らず知らず、足が止まった。
身に覚えがあったからだ。
丁寧に順を追う説明のおかげで、当時の痛みまでもが蘇ってくる。

「み、見てたの?」
「見てました。黙っててごめんな」

笑いながら謝られては怒れないし、謝罪を受けている気分にもならない。
案内する、という有り難い申し出を断り、ゴミ捨てついでに校内のどこに何があるかを覚えようと気を張った日が確かにあった。
相当痛いわ恥ずかしいわで、誰かに見られていないか注意深く確認したはずなのに、よりにもよって白石君に目撃されているとは痛恨の極みだ。
今更、赤面してしまう。
傘があって助かった、と長い息を吐く。

「俺、あの日誕生日だったんや」
「うそ、ほんと!?」

心底驚き、頬の紅も忘れて勢い良く顔を上げた。白石君はほんまや、笑って言い、自分それ口癖やな、と優しげに目を細めて付け加える。

「祝ってくれんのは嬉しいけどなんやせわしない一日やった、て教室の窓から外見てたとこに、ふらふらしてる子が来よってな」
「そんな、事細かに覚えてないでよ…」
「大丈夫やろか思てたら案の定で和んだわ」
「やめてよ、恥ずかしいよ」

きちんと掴んでいけなければ、するりと抜けてしまいそうな傘の柄を握る掌が熱い。
羞恥は汗を呼ぶ。僅かに濡れた肌も、冷たい雨の温度を感じ取れていない。
これ以上ないくらいの失態だ。
折角、目撃者はいないものとして記憶の底に封印していたというに、変に細かい言葉の数々にあっさり鍵を開けられてしまった。
大体、人が転んだのを見て、和む、とは何事かと訴えたい。
もっと他にするべき心配やら気遣いやら、いくらでもあるだろう。
鼻先を情けなく下へ下へ落とす私の隣、白石君が少し屈むのが気配だけでわかった。
囁くような声はいつだって優しい。

「褒めてんのやから、照れんでええて」

しかし、心がささくれだっていたので素直に受け取る事が出来ず、出た色男、すごい罪作り、でもきっと無罪、などとふて腐れる。

「…そんな風には聞こえなかったもん」
「そうか」

顔の火照りが治らず、濡れに濡れた地面と水滴を乗せる爪先を眺めているので、彼がどんな表情をしているかはわからなかったが、のんびりとした口調から察するに笑顔の類いを浮かべているのだろう。

「あのね、転んでゴミ落としてる所見られて和むって言われて、どうして褒め言葉だって思うの? むしろからかわれてるかもって警戒するよ」
「からかってへん。俺は真面目に言うとるし、怖がらんでも大丈夫や」
「怖がってはないけど」
「微笑ましい場面を提供してくれてありがとうな、言うてるだけの話やん」
「……やっぱりからかってるでしょう」

そこでようやく視線を下から剥がし、傘の天幕の中で悠々と構える人を見た。
美形なのと穏やかな口調と落ち着いた声色の所為で誤魔化されているが、言っている事自体はわりと酷い。
性格が良く物静かな人は転倒したあげくゴミをぶち撒けた他人を前にして、和むだの微笑ましいだのありがとうだの、口にしないはずだ。
そういった心中が表に出、向ける眼差しが若干厳しくなり、半ば睨みを利かせる形となったのだが、目が合った白石君は肩を揺らして笑う。
連動した傘が動き、ぱたぱたと雨粒が地に落ちた。

さんに睨まれても、怖ないな」

この人が慌てたり青ざめたりする事はあるのか、すこぶる疑問だ。





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