雨の帰り道を共にしても案じていた根も葉もない噂が出回ったりしないのを良い事に、廊下や昇降口で会えば相も変わらず会話に勤しむ私達を目撃している友達が、険しい顔つきをして切り込んで来た。
なあ、あかん、白石はしんどいで。
窓を開けていようとも恐ろしい程に蒸す教室内で、ひそひそ落ちた声がそう告げた。
梅雨も終わりを迎えているのだろう、段々と雨の降らない日が多くなったこの頃、話題にのぼった張本人は部活動に忙しいようで、想いを秘める女の子達も邪魔をしてはいけないと告白を控えている、教えてくれたのは情報通の彼女だ。
そうなると必然的に彼の周囲に立つ子も減り、代わりに私が目立つ回数が増え、忠告をするに至ったらしい。
笑って否定をする。
白石君とはよく話すけど、そんなんじゃないよ。
友達は顰めた眉を戻さない。
わかっとる、いい加減あんたっちゅう子がどうゆうんかは理解してんねや、万が一白石を好きになってたら思てな。
ニ、三瞬きを繰り返した。
展開についていけていない私の頭上を、バレー部所属のもう一人の友達も交えた二人分の声が飛び交っていく。
友達ならまだしも彼女になったら苦労する、好きなら関係ない、いや関係ある、ない、ある。
やがて白熱した恋愛論へ突入し本題から外れに外れた結果、私に伝えたかったらしい要点をまとめると、白石君は美形だから周りの女子に嫉妬する回数も増えるし、イケメンだから他に女の影がないか心配になるし、端整な顔立ちだから大勢の女の子に恨まれるし、大層気をつけなくてはいけない。そういう事だった。
整った顔ありきで、周囲の女の子ありきの仮定である。
白石君も大変だな、とのん気に聞く態度が彼女達の熱を刺激してしまい、ほんなら白石のモテ具合見ながら説明したる、決定事項のように言われて放課後の予定が埋まった。


そうして連れ立って訪れたコートはいつもより女の子が多く、なんだかんだいってロマンチストな人は一定数いるものなのだと悟る。
今日は七夕だ。
年に一度しか会えないという織姫と彦星に乗っかって、好きな人や憧れの人と少しでも同じ時間を過ごしたい、公に願っても許される日である。
テニス部の部室横には、誰が持ってきたのか大きな笹まで立てかけられており、色とりどりの短冊がたまの風にゆらゆら揺れていた。
くもりのち晴れの天気予報は見事的中し、午前中はどんよりしていた空模様も今では快晴そのもので、暑さは夏のそれに近い。
眩しい日差しは緑のコートをきらきらと輝かす。
ボールの黄色、白い壁、瓦の濃い灰、藍の門、フェンスの影、元からある全ての色をより浮き立たせるような強い光だった。
最初の内は声援を受ける白石君を指してああでもないこうでもない、と批評をしていた友達二人も試合形式の練習が始まればすっかり見入っており、揃って私の方を振り返ってからばつの悪そうな顔で言う。
の事心配なのもほんまやったけど、うちらどっちもテニス部見んの好きなんや。
ダシに使うたみたいになってもうて、ごめんね。
素直で嘘偽りのない告白に、私は吹き出した。
蝉がけたたましい鳴き声を響き渡らせる。
大義名分が引っくり返り、途中からこちらの方が付き添いのような雰囲気が漂い始めて、夢中な二人を後にこっそりその場を抜ける。
観戦している間じりじり焼かれたおかげで、汗が滲んで来たのだ。
ぬるく湿った手を一度洗いたかったし、ついでにハンドタオルでも濡らして額を拭こう。
ちらとコートを見遣れば、白石君はベンチの辺りで下級生らしき部員に何やら指示を出しており、パーフェクトテニスの出番はまだ先かな、判断して水道へ足を向けた。
成り行きの部活見学になったとはいえ、興味がないわけじゃない。応援だって普通にしたかった。

運動部で賑わうグラウンドと並行して歩いた先にある、校舎とコートのちょうど間に設置された水場は、2号館から伸びる長い影のおかげで他と比べ幾らか涼しく、薫る水気が足元をひんやり冷やしてくれている。
捻った蛇口の水は、熱を持った肌には充分冷たい。
軽く指を擦り洗い、ポケットから取り出したタオルを入念に浸し、あえてゆるく絞っていると、二つ隣の蛇口が開かれる気配がした。
キュ、と甲高い音も付随する。
ウェア姿の白石君だった。
私とは逆の掌で栓を操作するのが何か珍しく、じっと眺めてしまう。
初めて目にした時と変わらずに美しい横顔の人が、包帯の巻かれていない指先と右手を手早く洗い流している。
終わるのを待ってから声をかけた。

「暑いね今日。もう梅雨明けちゃったのかな」
「せやなぁ、あと三、四日したら気象庁も梅雨明け宣言するんちゃう?」

相槌を打ちながら屈んでいた背を戻し、両手を振るって付いた水滴を飛ばす。
意外と適当な所もあるのが、普通の男子っぽい。

さんが練習見に来るなんて、珍しいな。…わかった、誰かに連れて来られたんやな」

先程のやり取りを思い出した私の口元が勝手に和んだ。今日のさん機嫌よさそうや、とは目の前の彼の見立てだった。
近いものはあるけれど、微妙に違う。

「うん。白石君がどんだけモテてるのか説明する、って言われたの」
「まだその話続いてんのか」
「今はもう続いてないよ。私の友達、テニス部のファンなんだって」

うんざりした表情の白石君と正反対に、私はだらしなく笑っていた。
怒りようもない。
実に女の子、可愛らしい有り様を真っ直ぐに見せられては、そうなんだ、と答えるしかなかった。
元々心配してくれていたのは本当の事だろう。
事実、転校してからこちら、白石君と話す機会は多々あったし、彼の人となりや置かれている状況についてたくさん考えて来た覚えもある。それが顔や態度に出、指摘を受ける事となったのかもしれない。

「なるほどお目当てがいたわけやな。ええんか、自分思いっきり建前に使われて」
「好きなだけ使えばいいんだよ」
「ずいぶんはっきり言うなぁ」
「だって、別に騙されて酷い事されたわけじゃないし、練習見たいけどなんとなく行きにくいってだけだよ?」
「そこまでして見ときたいっちゅういじらしい気持ちに相応しいの、うちにはおらへん」
「あ、酷いんだ」
「まぁ確かにええ奴らなんは認めるけど、アホばっかやで」
「みんな人気あるんだよ。私のクラスだとね、千歳君とか忍足君が好きって子が多いよ」
「ようふらふらしとる千歳はともかく、謙也にそれ言わんといてや。すぐ調子乗んねんあいつ」

更に酷い。
が、爽快なまでの貶しっぷりについつい笑みを深めてしまう。

さんにはいないんか、お目当て」

おしぼり状態となったタオルを握りっ放しでいては、せっかく水で多少なりとも冷やしたのに温くなってしまう、ひらりと空中を舞わせ端だけを持って捕まえていたら、話の種がこっちに回ってきた。
白石君は唇を薄く伸ばし、微笑む直前のような表情をして立っている。

「お目当てかぁ、ちょっと意味はちがくなるけど、応援してるのは白石君だよ」

熟考した上での返答ではなかったが、今もコートの傍らで観戦している彼女達と同じく嘘偽りのない本心だった。
彼がいかに努力を重ねたかを知ってる、とまでは言わないけれど、真っ暗な道で一人走る姿は瞼の裏にはっきりと残っている。
私が応援する理由は、たったそれだけで充分なのだ。
膨大な時間を切り取った僅かな一部分でも、白石君がどんな人なのかわかる事はあった。
私の飾り気のない言葉を聞き届けた後、ゆっくり両の目を細めた人が柔らかに言う。
薄かった唇のラインは、確かな曲線を描いている。

「そか。おおきに」

甘い声だった。
これはモテても仕方ない、女の子が放っておかない。そう感じ入るはずのシーンなのに、私は何故か焦った。
お腹と胸の間あたりがそわそわして落ち着かず、こめかみを通る血管が存在を主張し始める。
白石君はいつもと変わらない。そのはずだ。
風邪を引くように突如として顕れた変調に内心で首を傾げながら、一旦話題を断ち切ろうとテニスコートの方へ向き直ると、私よりいち早く彼の方が口火を切った。

「こっから見ると、なんや今日はギャラリーが多いな」

先刻の一言は錯覚だったのかと自らの耳を疑うくらい、今ではもう慣れてしまった聞こえの良い声色に様変わりしている。
体の中で燻る火もすっと大人しくなって、私は落ち着いて返す事が出来た。

「うん、そうだね」

七夕だからじゃない、言い掛け、またしても先を越されるのだった。

「あ、七夕の所為かもしれへん」

タイミングの良さに驚いて白石君へ視線を送ると、日陰に包まれた頬を少々崩しつつ説明を続けてくれた。

「あそこに笹があるやろ? あれにぶら下がっとる短冊、テニス部限定ちゅうわけやない。自由に書いていいんや」
「えっ、そうなの?」
「今年笹持って来たんは金太郎と銀さんやけど、なんやかんや毎年誰かしら持ってくんねん。で、どっかの誰かが短冊用意して、どっかの誰かが好きに書きに来てやーゆうて宣伝する」

名前が出たのは二名のみ、笹の提供元しか明らかになっていない。
アバウトだ。
けれど、とても四天宝寺中らしい。

「よかったらさんも書いてってな。部室前の机の上に、ぎょうさん短冊置いてあるから」
「いいの?」
「持って来たんが数考えてくれるようなお利口さんやったら良かったんやけど、余らせてもしゃあないし使うたってや」
「そっか、わかった。ありがとう」

またしても辛辣だが、やはり笑ってしまう私に彼を非難する資格はないのだろう。
持って来てくれた心優しい人、ごめんなさい。
ただ胸中で静かに謝罪するに留まった。
大きくて立派な笹の天辺はしなり、青々とした葉が涼しげになびいている。

「なんかちょっとお祭りみたいだね。七夕祭り」
「そら、ささやかすぎる祭やな」
「でもみんな楽しんでるから、短冊書きに集まってくるんじゃない?」
「ん、楽しんだモン勝ち、か」
「うん」

頷くと同時に、夏のにおいを含んだ風が吹き抜けていく。

「白石君は短冊書いたの?」
「俺? 俺はまだ書いてへんで」
「あれ、そうなの? 私にすすめてくれたから、てっきり書き終わったのかと思ってたよ」
「いざさあ好きに書け言われると、あれこれ悩んでしまうんや」
「え、意外」
「意外?」
「白石君は、すごくしっかりした目標があって、その目標まで一直線に向かう人かなって」
「せやな、そうなれたらええな」

益々意外である。
ひょっとして今までモテないだのそうでもないだの言っていたのは、謙遜や自覚がないのではなく、ましてや嫌味のわけもなく、単純に自己への評価が低いだけなのだろうか。
周囲の誰より、女の敵やと睨む女子より、基準が厳しい気がしてきた。

「これだって思いつく事がないなら、一つに絞ってみたらどうかな。あっ、テニスのお願いは? 全国優勝できますようにとか」
「そんなん誰かに頼むもんやない」
「…おお、かっこいー」
「せやろ?」

きっぱりとした声色に歓声を上げる私の元へ、少し悪ふざけの色が含まれた笑顔が投げられる。
かっこいいって所は否定しないんだ、笑っていると、とうに乾いた両手をポケットに忍ばせた白石君が首を傾げながら口を開く。

「……なんてな、素直に称賛受け取れたらええんやけど、なかなかそうはいかんのがしんどいわ」

今度は私が首を捻る番である。どういう意味だろうと続く言葉を待つ途で、飾られた笹から視線を移した白石君と目が合った。
真剣さという土台の上で、困ったような、何かを言いあぐねているような顔をしている。
それで、己へ下す評価が厳しいからかとの予想が覆った。目標へ辿り着けていない自分が許せない、といった問題ではなさそうだ。

「どうして受け取れないの?」
「モテるとかかっこいいとか勝手言うけど、ほんまはちゃうし」
「……ええと、なんか…ごめんなさい」
さんは転校生やから知らんでも仕方ない」
「そ、そっか」
「そうです。周りが言うほど別にすごくないんや。短冊に書く願い事も決められん。めっちゃ普通の事だって考える」

既視感があった。
すぐに思い当たる、以前の私だ。
白石君は普通の男の子。
誰にも、友達にも言った事はなかったけれど、そんな風に考えていた。

「そっかあ、普通なんだ」

責めもせず、落胆もせず、納得と安心を織り交ぜた私の返答を、ウェアの腰辺りに皺を作ってしまう普通の男の子が、意外だと訴える瞳で受け取る。
自分の感覚が間違っていなかったのが、何故だか嬉しかった。

「いいじゃない、普通でも。テニス以外では完璧じゃなくても」
「…そうか?」
「そうだよ」

夏手前の暑さを忘れて笑う。
白石君も晴れ晴れとした表情で言った。

「ならええな、普通に普通の事考えてても」
「うん、いいと思う」
「普通に好きな子が俺の事好きになってくれへんかなとか、毎日俺の事考えてくれへんかなとか、白石君と一緒におったら楽しい思てくれへんかなとか、頭ん中でお願いしてても」

気管に得体の知れないものが詰まりそうになって、ぐっと息を飲んだ。
突っ込めない。
私がツッコミ気質だったとしても、おそらく何も出来ない。
いきなり振られた恋愛話にうろたえつつも、なんとか言葉を返そうと努力した。

「う、うん、いいよ、きっと大丈夫だよ」

どういった事柄に対しての大丈夫、なのか自分でもわからない。
忘れ去っていたはずの高い気温が蘇り、頬が熱くなってくる。
爪の先で触れているタオルはぬるい。もう一度濡らした方が良いかもしれない。

「なら短冊に書くのはやめて、さんにお願いしよ。頼まれてくれるか?」

ええ!? と叫ぶのを我慢した私を誰か褒めて欲しい。
急展開にも耐えて必死に息を殺し、真面目くさった顔つきの白石君と向き合ってから、恐る恐る首を縦に振る。
協力してとかそういうお願いなのだろうか、伝言でも頼まれるのだろうか。
けれど忍耐も虚しく、混乱の心中で泳ぐ思考の軸を、助力を乞うてきた張本人に叩き壊された。

「いっぱいいっぱいになれとは言わへん、せやけど俺の事考えたって。よう知らんしわからんゆうなら、色んな話して俺の事知ってや。そんで、たまには一緒に帰ろ。それからやったらどんな返事でもええよ、納得出来るわ。さん、俺の彼女になってくれませんか」

口と掌が同時に開いて、下の部分から乾き始めていたタオルが無惨にも散った。
白石君だけが鮮明に映え、後の景色は蜃気楼に似ておぼろげだ。
野球部のバットが高々ボールを打つ音が響き、試合に何かしらの展開があったのだろうか、テニスコートからわっと歓声が上がった。
それらすべてが遠く、まるで現実感がない。
夢かもしれない。
あの日、保健室で抱いたえも言われぬ感情が胸の奥を満たしていく。
ふいに白石君が屈んだ。
はっとして行方を追うと、私のお腹あたりの高さで柔らかそうな髪と旋毛が揺れている。
足元に着地していた生乾きのタオルを拾い上げ、丁寧に土を払ってくれているのだ。
汚れが残っていないか確認している為に伏せられた睫毛が長く、頬に濃い影が落ちる。
流れる前髪の向こうから真っ直ぐに見つめられ息が止まった。
包帯色の掌中に、愛用のタオルがすんなりと収まっている。

「なぁ、今日はほんとかって聞かへんの。いつもの口癖」

一歩、置かれていた距離が縮まった。優しく包み込まれる右手へ、落し物が戻ってくる。
白石君の指はとても熱かった。
柔らかいとか硬いとか、感触を正しく受け取る余裕などない。
ただ、そこに在る熱だけが確かだ。
触れる温度に反して穏やかな声音に誘導されるよう、私は求められた台詞を口にした。
ほとんど無意識だった。

「…………うそ、ほんと?」

破顔。

「うん、ほんま。俺の願い事、叶えたってな。さんにしか頼めんのや」

右腕が肘の高さまで持ち上がり私のそれよりずっと大きな両手に握り込まれて、やがて右の掌が離れて行き、残った左の方が仰向けになる内側と、逆さになった手の甲をなぞる。
背中の皮膚が震えた。
必要以上に触れ合ったとしか思えぬ時間はやたら長く、しかし実感したと同時に熱が引いていく。
掴んでいるはずのタオルは砂のようだった。
最初から最後までスマートにやり切った白石君は、音もなくあっさり去っていってしまう。
一人取り残された私は、手の置き場すらわからない。
とても信じられない願い事を聞くまで、無心に繰り返していた呼吸の仕方が思い出せない。
夢かも。ベタに頬を抓れば覚めるかも。

「しっらいしー!!」

ある種の逃避を始める私の鼓膜に、とびきり元気の良い声が響き渡ってきた。
我に返り、いつまでもタオルに張り付いているものと思われていた視線が声の在り処を追いかける。
と、テニスコートのフェンス手前で、後ろから走って来たらしい遠山君が、手加減なしに白石君の背中に飛びつく、まさにその瞬間だった。
誰にも止められないゴンタクレ、のバックアタックに高い背がよろけ、次いで姿勢が崩れる。
転ばなかったのは流石というべき所であるが、部活中の白石君らしくない。暴れん坊の存在を認識していれば、飛びつかれるような隙は見せないはずだ。
金ちゃん、と口にでもしたのか、顎の後ろが腰に巻きつく遠山君に向かって動いていた。
再度、コート周辺に響く大きな声。

「白石ぃ、どないしたん! 顔赤いで、どっか具合でも悪いんか!?」

部長を案じて縋る遠山君の頭を、毒手がぐいと退ける。遠目から見てもひどく乱暴な仕草だった。
囲いの外でオーバーしたボールを拾っていた非レギュラーの部員達も一体何事かと注視していたのに、雛のように後を追う一年生を見向きもしないで、フェンスをくぐりそのままコートの奥へと消えていく。

白石君は振り返らなかった。
ただの一度も、振り返らなかった。
保健室で親切丁寧な対応をし、一緒に帰った時は歩幅を合わせてくれ、先生が同じ科目は小テストに出やすい範囲を教えてくれた、いくら普通だと言い張っても並以上に気遣い上手な彼が、一度も。

凄まじい熱が頬を焼く。
灯る火の勢いにしては、ゆるりとした速度で首から上を動かした。
先程まで彼の手にあったタオルを視界に入れてしまえば、もうとにかく駄目になった。
私は私という人格を保っていられず、反動でくず折れるようにしてしゃがみこむ。
すぐ傍の排水口からはみ出し、校庭の土まで侵入した水の流れが近づいてたとて涼しくも何ともない。
いの一番に浮かんだものは、

「……無理だよ…」

単純明快な弱音だった。
白石君の願い事は叶えられない、聞いてしまった後では今までと同じに振る舞えない、意識もせず、普通に、彼と付き合うかどうかを考えながら一緒にいるなんて、絶対に不可能だ。
だってずるい。
そんなのってない。
完璧な部分ばかりか綻びまで見せられたら、抗う方法がないじゃないか。
散々掘っていた墓穴がぼこぼこと暗い口を広げていく。
かっこいい、耳触りの良い声、みんなジャッジが厳しい、よく知らない男の子についてじっくり考えるのもおかしな話、ありがとうが好きと言われて狼狽した、肩透かしをくらった気持ちになった、自分の失態を白石君には見られたくない、普通の男の子という感覚が当たり喜び、人となりや置かれている状況についてたくさん考えて来た覚えもある。
全部ひっくるめると、一つの線で繋がってしまう。
次から次へ懺悔したい気持ちが沸き出で、更に赤面するに至った。文字通りの後悔であった。
(誰かと恋愛中の白石君、はひどく現実離れしている)
よく言えたものだ。
(まったく想像がつかないと言っても過言ではない)
よくよく言い切れたものだ。
私の馬鹿、を何度も繰り返して過去を打ち消そうと試みたところでどうにもならない。
どうしてああも能天気に、自分には関係のない事だと構えていられたのだろう。
白石君は普通だけど、やっぱり普通じゃなかった。
たった数分にしか満たない時間で、まっさらだった想像をさっさと組み立て、質感まで理解出来るような代物を私の中に作っていった。
夢のようでいて実際はリアルな感情と、もしもの未来が重なり合う。
今ならわかる。
壁がなさすぎて距離が感じられなかったから、想像も出来ずにぼやけてしまっていたのだ。
あんな風に見詰められたあげく触れられては、気づかないままでいられやしない。
彼の雄弁な瞳が切に囁く。
自惚れだと恥じる隙間も与えてくれず、他の解釈を許さない強さで光を吸う。
なあ、あかん、白石はしんどいで。友達ならまだしも彼女になったら苦労する。
ほんとにその通り、と膝の間に顔を埋めた。
再生されたかつての気遣いに、或いは紛れもない真実に呼応する。
周りがどうとかじゃない。
彼が完璧で、かっこよくて、けれどいつも張り詰めているのではなく、普通なところもあって、ふとした瞬間に隙を作ってしまうような、なんでもない笑顔で私と一緒にいてくれる人だからこそ、しんどくて苦労するのだ。


「好き」


足と足の僅かな間に挟まった声が、情けなく反響した。
言葉にすると、異様なまでに現実味を帯びて、体中へと染みこむようだった。
昂ぶった感情の端くれは眦から零れ、膝に落ちて足を伝い、校舎と私二つ重なる影で黒くなった土に消えていく。
とりあえず、へたり込む私の状態を目にしたら、あんのろくでなしが! と怒るであろう友達を止めるにはどうするべきかが問題だ。
ぽろぽろと溢れる涙を拭い、鼻をすすりながら、私は懸命に考え始めた。





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