03




だから偶然の空き時間、食堂で鉢合わせた時は本当にぎょっとしたのだ。

選択していた授業が自習になり、同じ科目の友人は受験対策やら何やらで忙しい、一人が手持ち無沙汰の一時間へ放られてしまった。
卒業を待つだけの身とは気楽なものである。
やる事もないし、お昼から大分経過した所為で小腹も空いてきた、と私学の立海にあるまじき不真面目な動機で食券を買い、混雑時と異なりがらがらの席を目測で確保する。
窓際では誰かに見つかった時若干気まずい、3,4席離れた通路側にしよう。
能天気極まりなく考えて食欲が刺激される香り立つ器を受け取り、テーブルの上にトレーを置こうとしたところで、どっかりと正面に陣取られたら誰だって手の中にある食器類を取り落としそうなるというものだ。

「太るぞ」

前触れがないにも程がある出現にうんだのすんだの言う暇は生まれず、は危うく大惨事を引き起こす要因となりかけたトレーの端を慌てて掴んだ。
椅子に落とされた腰はどことなく斜め向きで、きちんとは座っていない。
コーヒー牛乳の紙パックを片手にした仁王が嫌味を放つ。
お前さん、そんで晩メシも食うんじゃろ。
久々にからかいの色が含まれた声色だ、かつての幼馴染らしい物言いを垣間見て微かに脱力した。

「そばは低カロリーだからいいの」
「いやいや油断大敵ナリ。相変わらずよう食うのー」

間延びした語尾が憎たらしかったが、そう感ずる余裕に心底安堵したのも事実である。
反抗したい気持ちに首輪をつけて飼い慣らし、無言のまま席につく。がたがたと椅子を引く音がやたら大きく響いた。
わり箸を割れば小気味良い音がする。丼から立ち上がる湯気が染みた安い木のそれは、心なしかしんなりとした感触へと変わっていく。
出汁のにおいが鼻腔について喉が鳴った。ついでに腹も物欲しげな声をあげそうだ。
いただきます。
呟くや否や、うす茶に透けるつゆへ箸を通し、好物は後に取っておく性分のは、崩れほぐれた半熟の卵が絡んでいない部分から手をつける事にした。
安価な月見そばは高級品と呼べないであろうが、胃袋を満たしてくれるには充分だ。
あたたかいそばは唇から喉にかけてを潤し、舌の上へじんわり伝う。ひとくち目をつつがなく終え、もうひとくち、と口の中で泳ぐそばを咀嚼しかけ、隣の椅子に置いてある鞄へ意識が向いた。
あ、プリント。
浮かぶ引っ掛かりを放っておけず目を遣った直後、手元というより頬のライン、輪郭あたりを障る何かが肌を刺激した。
途端、今の今までしかと味わっていたそばの風味も、甘さとしょっぱさの間をゆく絶妙なつゆの味も、鞄の中身に対する懸念も、すべてがわからなくなってしまう。
気をつけたにも関わらず、恐る恐る嚥下した音が彼にも聞こえるのではないかと危ぶむくらい、大きく響いたようには感じた。

「…………何?」

コーヒー牛乳をテーブルの上へ置き、左手で顎を支える仁王が静かにこちらを見つめている。
今朝方の、或いは秋口の頃、幾度となくを悩ませた脳裏で、滲んでいた瞳のいずれとも異なる透かし模様に似た陰が息づく。
詐欺師と呼ばれ、常に隠し浸す彼らしからぬものだった。
心の色合いを映した鏡像たる双眸にたじろぐが、箸をとる人差し指と中指の先端のみに力をこめる、些末な動作すら見落とさぬ強さで仁王は目を澄ます。
空気の流れも何もかも、止まったような時間だった。
――何が。
返されたとが知ったのは、声音ではなく相対する者の唇がそっと動いたからだ。
視覚と聴覚のバランスが狂っている。背筋に通う血がざわめいた。

「……な、にって……。雅治も、おなか空いてるの?」
「べつに」
「じゃあ」

どうして、と口からまろび出ずるすんでの所で耐え忍んだ。
視線の行方を伺えず、伴う理由だって言葉には出来ない。
胸が混ざる。
ぐらぐらと、得体の知れない衝動が渦巻いている。
だのに胃は空腹を訴えるから体と感情の折り合いがつかない、腹の底を引っくり返され撫でさすられるような不快感に喉がしなった。

「……俺に見られんの、嫌か?」

言う仁王の眼差しはうっそりとしており、落とされた囁きの所為で首が固まり噎せかける。
飲み込んだ問いを先回りで掬い上げられた心地である。如何ともし難い。
空回る声帯をどうにか鎮め震わせると、はじめの一音が裏返りながら溶けた。

「ま、雅治じゃなくても、普通食べてるところ見られたら嫌だと思う」
「ほー」
「じ…自分が、同じことされたらって考えなよ……嫌でしょ?」
「平気じゃ」

やけにきっぱりした口調で断じられ面を食らう。
食事中に限った事ではないが、他人にじろじろと見られる状況を甘んじて受け入れる質とは正反対の性格だと思っていたから、寄越された返答は意外すぎるほど意外であり、は困惑しきり果て箸を持つ手を上げも下げも出来なくなってしまった。
ふたくち目に取り掛かれば視線は消えないし、かといって完全に続行を諦めでもしたら追及は免れないだろう。
見るのをやめて。
言えばいい。
たった一言、告げるだけでこの話は終いだ。
だがどいうわけか二の句が継げない。
言おうとも言わずとも恐ろしかった。
仁王と自分の境目を定めている、決定的な差異が打ち砕けてしまいそうで、どうしても声が息絶える。
潰えた欠片は尖り、気管に傷を残して、胸元のはるか奥へ沈んでいった。
口にしたい言葉と、したくない言葉とが混ざり合い、区別がつけられない。
だから惑うのだ。
仁王を前にすると、尚上手くいかなくなる。
そうして全部を飲み込んでしまい、か細い悲鳴めいた呼吸で喘ぐと、決まってあの眼差しが顕れる。
ひと度見ただけなのにいつまでも残り続けている彼の瞳は臆するの腕を引くが、足を踏み出そうとした瞬間、変哲もない幼馴染の顔へ様変わりし勇んだ気持ちを挫けさせるのだ。
巡り巡り、同じところから抜け出せない。
手招くきざはしは、おそらくそう悪い類いのものではないはずなのだが、掴み取る意気地がなかった。

「おまん、忘れちょる」

不自然な無言を保つの眼前、差し出された赤い容器が、苦悩に支配されていた頭を覚ましてくれる。
テーブルの隅に置かれていたものを、ひょいと伸びた仁王の腕が掴んだのだった。

「いつもかけてたじゃろ」

箸を持たぬ掌の前へ、七味の入れ物が机上を滑ってやってきた。
そういえばそうだ、と言われるまま手にして、蓋を回し外す。
あたかもぽきりと音を立て折れた話の腰であるけれど、は少しばかり安堵していた。
あれ以上、見られるのが嫌だのなんで見るのだの問答を繰り返していたら、下手を打つと泣き出していたかもしれない。
堪える自信がいまいち不在である。許容を超えた感情に上手く名付けられずにいた。
力が抜けたかと思えば肩が張るしで実に忙しなく、先刻から妙だ。
振り回され、御しきれぬ数々のことに疲弊を覚える。
(ほっとしたり、むずむずしたり)
どっちなんだか。
そう独りごちかけ、は目をしばたたかせた。

――己だけに限定されるべき表現ではない。

七味を振る手元へ視線を預けてくる幼馴染を見、ただの心で、雅治、呼ぶも、当然ながら返答など与えられなかった。
寸前まで平生と相違なくとも、急に陰が差す。
機嫌が良さそうで悪くなる。
沈黙と会話の連続。
広がっていく自覚を留めようにも手立ては浮かばず、漠然と見送ってしまう。
納得させてくれない仁王と、子供の頃と同じく頷いたりはできない自分。
幼馴染でいる日常は安寧で、やすらかだった。変わらぬ距離に寄り添いながら、でも二人の間にそれ以外のものがないと寂しく思う。
見つめられては混乱のさ中に叩き落されるが、熱の生まれていた片目が恋しい。
見られたい。見られたくない。
言いたくて、どうしても言えない。
仁王が触れぬままで訴えていた浮き沈みの激しさ、とやらはそっくりそのまま自らへと当てはまってしまうのだ。
絡み合う糸をほぐし、丁寧に手繰っていくとひとつひとつが繋がっており、影響し合う様々の所以は集約されある答えに行き着く。
ぬるい呼気が唇の膨らみを濡らした。

「どういうわけかのう、

ひそやかな息を噛み殺している少女へ溜め息で飾られた声が贈られ、小柄な瓶を振る細指は微かに震える。
頬杖をついた仁王が目元でをとらえ、上がるでもなく下がるでもない唇の端へとない交ぜとなった胸の内を浮かべた。

「……俺は多分、賭けに負けとる。勘が鈍ったんかの、情けなか」

淡々と紡がれる声音がちいさく揺れる。
瞳にはをとらえて離さない、いつか見た深火が灯り始めていた。

「けどな、ちいとも悔しくないんじゃ。どーでもええ。なんでもいい。今、勝ちじゃあ困るってだけ」

籠もる熱は質量を増していき、今や単語のひと欠片さえ揺らめきながら響く。
焼け溶けず、真っ直ぐに放られてくる声がの唇へ向けて奏でられていた。
見透かされてる気がしてならんぜよ。
ひたりと忍び寄るそれはごく甘い。
気づく余地の存在が仇となって、体の底からせり上がる震えがきた。

「わかるじゃろ。お前……俺と、おんなしやけ」

なあ、
耳朶とその周囲が粟立った。
肩も強張ったかもしれない。
こぼれた呼び名に嫌というほど肌が反応し、閉まりきっていた唇がわずかな隙を作る。
腕を自在に動かせたのなら間違いなく両の耳を塞いでいたはずだ。
そう大きく反響したわけでもないのに、仁王の声は凄まじい伸びを見せ、テーブルを挟んで座るの頭から足指の先まであまねく侵していった。
背筋がぞわぞわと蠢く。まばたきも忘れた。目が痛い。
体感は恐ろしいくらい長くとも、実際はものの数秒だったのだろう、脳からの指令というよりは直前まで動いていた反動により押された指が盛大に動揺してしまう。
と、音なき音が手の下で鳴った。
気配と言い換えるのもあながち間違いではない。
思わず視線を向ければ、赤。

「……え」
「ハ、」

同時に重なった声は高いものと低いものに分かれている。
は状況把握が及んでいない顔つきであり、仁王の方はというと珍しく目を見開いた上でぽかんと口をだらけさせていた。
しばしの空白は、またしても珍事である彼の大笑いによって打ち破られたのであった。

「――ハ、ハハ! お前さん、まっことアホじゃ!」

大抵くっきり細く開かれている瞳が一本の線になるほどたわみ、少年らしい笑顔の一因となっている。が声も出せずに手元の惨状を眺めていれば、遂には頬についていた左手で顔など覆い肩まで震わせて笑い出した。
丼の中の程良い色合いをしていたつゆが赤々染まり、トレーの上ばかりかテーブルへも散らばっている。
の振り方がそこまで豪快だったのか、元から蓋が緩んでいたのか、はたまた詐欺師なる男の目論見だったのか定かではないけれど、普段と違った力の加わった七味の栓が転がり落ちて、大分残っていた中身が小高い山となってそばに盛り付けられてしまった。
瓶はほぼ空である。激辛カレーだってここまで毒々しい色には染まらないだろう。
ようやっと事態が読めたは当然悲鳴を上げた。

「え…え……えー!?」
「今時芸人でもやらんぞ、ベタすぎて。間抜けの天才じゃな」
「そんな風に天才って言われても嬉しくないよ!」

他人事の上辛辣な評価に憤慨したのはいいが、七味唐辛子味の月見そばが元に戻るわけでもない。
まだ微笑みを絶やさぬ仁王を見るに、余程面白かったようだ。先刻までの話や渇いた空気はどこへやら、悲劇と馬鹿馬鹿しさの混ざった場へ様変わりしていた。
にやにやといやらしい、何度となく目にしてきた唇の歪みが愉快そうにこぼす。

「食わんのか」

無茶を言う。
は思った。

「く……食う、よ………」

しかし否と拒絶する気がどうしてか起きない。
出されたものは食べなさい、と教えられた所為であり、幼馴染の自然体ぶりに力が抜けた所為でもあった。予期せぬ惨事とそれに立ち向かわなければならない苦境が、からついさっきまでのやり取りを奪い取る。眼前の試練で頭が一杯になっていたのだ。
数手先に転がる瓶の蓋を戻してから箸を手に息を呑むと、仁王がかすかな声を落とした。ひどくぼやけて滲んだ、吐息のような笑みだった。

またしても変異を見送ってしまったは時折涙目になりつつ、一心不乱に赤い月見そばと対峙し、事ある毎に辛い辛いと泣き言をこぼしていて、楽しげに見守る仁王は幼馴染の少女がティッシュに手をかける間、どこぞへ姿を消したかと思えばすぐに舞い戻り、軽快に掌中のわり箸を割る。
鼻をかむ。
もう二枚ティッシュを摘んで、こぼれた七味を集めている間に、トレーが机上を滑って移動した。
手伝ってくれるの。
水気の絡んだ問いかけに返る声。
ようわからんが、おまんを見てると腹が減ってきてのう。
非常に行儀の悪い、いわばマナーに反した事だが、どうやら仁王は取り皿を持ってこなかったらしく、匂いも何もわからなくなりそうな七味そばの丼にそのまま箸を割り入れた。
辛いよ。見てればわかる。雅治もお水とってくれば。いらん。
だんだんと軽くなっていく器が、此方と彼方を行きつ戻りつし、二人はひとつを分かち合った。
どう考えても辛いだろうに一切顔色を変えぬ幼馴染へ尊敬の眼差しを送り、初めは純粋に感謝していたであったが、好物である、辛味を中和してくれる、と二つの意味で大事にとっておいた半熟卵がかかっている部分に加え、一枚しか入っていなかった蒲鉾を見事に食べられてしまい、赤いつゆの下に泳ぐそばを消化する終盤に差し掛かった時には恨み節で呟いた。
なんで食べちゃったのよ。
舌で唇をすくうようにして舐めた仁王が、薄く笑っている。







食堂で幼馴染と別れ、水を飲んでも取り除かれないひりひりとした感触がようやく収まってきた頃合で、はふと我に返った。
まるきり忘れていたわけじゃなくきちんと意識の内にあったにも関わらず、プリントを渡し損ねている。
何の為に昨日から持ち歩いていたのか、堂々と口に出来なくなりそうな失態である。気づいた授業中、頭を抱えて馬鹿じゃないのと自虐したくなった。
身につまる痛みと連鎖して目蓋の中をよぎるのは、仁王の声に彩られた言葉の数々だ。
なかなか得難い間の抜けた経験によってすっかり薄れてしまったものを辿り蘇らせ、味わうよう反芻して考えると両足が落ち着かなくなる。
踵を立て、足の裏で空気を押せば、わずかな風の流れが出来た。
あれはどういう意味だろうか。
浮かべては沈め、心で首を振るのだが、しかし完全には払えない。それは最早感情ではなく、本能に近い何かだった。
恐れがを支配する。
けれど憶測は痺れを凌駕する。
残った授業のほとんどをまるきり上の空で過ごし、本来些末事であるはずのプリントへ意識が行くのを押し留めていたら、放課後になる頃には正常な思考回路を失ったのではないかと危ぶむほど頭が働かなくなっていたのだが、それでもやるべき事はやらなくてはならないし呆けているよりずっと良い、と友人の幾人かと今まで受けてきた小テストの復習をした。
きりのいいところで終えて自習室を出ると日はもう落ちており、皓々とした蛍光灯の反射が床を撥ね辺りに満ちている。冬の太陽はゆっくり眺める暇もなく隠れてしまうのだ。
勉強でも何でも考え事をしている内は気が紛れてよかったのに、と後ろ手に扉を閉めながら一人ざわつく胸中をおさえるの傍ら、二歩先をゆく友人たちは覚え辛い英単語について盛り上がっていた。
いつも以上に質量があるような鞄はひたすら重い。
ふと窓へと視線を投げれば、暗くなった空のおかげで鏡と化した硝子に冴えない顔が写る。
解決しようのない焦燥を振り切りたくなり逸らそうとしたところで、なんかすごい曇ってるよね、雨降ったらどうしよっか、との声が聞こえ、天気予報じゃ一日晴れって言ってたのにね、答えてから足を動かす。
きっちりかけられていた鍵を開け、窓枠にかけた手で外気を呼び込むと、微かながら確かに指先が冷えた。
紺と藍の狭間のような上空へ目を遣り、曇ってるけどまだ降ってないよ、後ろで様子を窺う友人へ応じたその時。
視界の下方で白が動いた。
夕時と夜との色が暗い所為で、必要以上に主張をし、景色から浮き立っている。
二階の廊下からでもはっきりわかった。
(雅治)
少し曲がった背。
靴底を擦って歩いているのだろうけれど、足元は暗くて判別がつかない。わずかな襟足が背骨を這って伸びている。
圧倒的に周囲を占める宵の内では小さな異端、しかし目の奥が焼き切れた。
両足が脳より素早い行動をとる。ごめん、ちょっと先帰ってて。体に遅れること数瞬後言い残し、大人しく沈む色合いにあっても黙って従ったりしない白に近い銀が向かった方へ合わせて駆け出した。
驚く声、引き止め訳を問う声、様々が後ろ髪を揺らしたが、きちんと答える余裕がない。
足早に進む途でちらと窓辺を確かめてみても、幼馴染の影はとうに失せていた。
行方が消える最後まで見とめていたわけではないから詳細は危ういが、大体の方向なら把握出来る。
校則無視となってしまうのを理解しつつ、は足を加速させて階段を下っていく。
学校に残る気配はまばらだ。人気がないと、意味もなく不安になる。
鼓動が胸を叩いていた。肩へ食い込む鞄の紐はかたくて痛い。
堪えきれぬ昼の残照が喉奥を駆け、舌の根より先まで膨張させて、淀んだ息が一瞬の呼吸困難を招いた。
ぐっと苦しげな音を奏でるは半ば転がるようにして昇降口へと辿り着き、割り当てられた自分のロッカー前で靴を履き替える。
こんな時に限って踵がなかなか入らず、上滑りした指は情けなく震えていた。
鞄さえ邪魔だ、思うさま走れない、腕に持っていたコートと共にその場へ下ろし、中からプリントのみ引き摺り掴んで、校舎内を飛び出す。
中庭を抜けた足で竹林広場の方へ駆けていくにつれ、背後ろで浴びていた明かりが段々と薄れていった。
夕闇が何もかもを塗りつぶしている。
ぽつりぽつりと一定の距離をあけて灯る照明は心許なく微かだ。
走っているおかげで横へ横へと流れる吐息が暗に消え溶けていく。
まず鼻にぶつかり頬を切りながら去る冷たい風が身に染みて、プリントを掴む指の先から凍り始めていくので、かじかんだ皮膚と筋肉に力を籠めて現状維持に努めた。
分厚い雲がの頭上で重たげに垂れ込めている。
先程まではちらほらと見かけていた人影がまるでない。
切れ切れの呼気を整え、仁王を見かけたと思わしき場所で止まると、後方へ追いやられるばかりであった白い息がしばし溜まってから上っていくようになった。
周辺を見回し凝らしてみるも、何の余韻も残っておらず、慣れぬ疾走ではちきれんばかりに打ち鳴らされている心臓がどんどんと骨の内側を突く。

「………いない……」

言葉にしたら、無性に焦れた。
いつか追い駆けた男の子の姿が過去から今を渡っていく。
置いていかれるかもしれない、と些細ながらも不安になったあの時の比じゃなく、胸中のは嵐になぶられていた。
急げ急げ、言う一方で、でもどこへ、体が惑う。
人も物も何もかも紛れかねない暗闇がどんよりと漂い、光陰の境を淡くさせた。
気がつけば必死に掴んでいたプリントの端が縒れてしまっている。
呼気に弾む肩をなんとか落ち着かせようと、ニ、三深々息を吸い肺へ送り込んだ。
凍てつく空気のおかげで血管は収縮し、寒風で擦れた頬が熱い。
思い出したかのように身じろぎしたはついテニスコートと覚しき方向を見遣った。視界が濁る。立つ息は荒い。
なんでこんな事してるんだろう。
呟けば実感が増していく。
たかだがプリント一枚だ。いつ貸そうとも、ひょっとしたら貸さぬままでも構わないかもしれない、決して命に関わるだとか重大な要素を秘める代物などではない。
昼に会った時点で仁王が言い出さなかったのだから、別の誰か借りた可能性だって有り得る。
そんな些末事を、息せき切って叶えるべきかどうか甚だ疑問である。
けれども追わずにはいられなかった。
掌中の一枚を手渡せば、昨日から続くえも言われぬ感情、幼馴染の双眸、肌のざわめく空気、すべてが綺麗に昇華してくれる気がした。
馬鹿げている。
根拠のない、単なる錯覚だと叱責を受けたとて項垂れる他ない。
には過日を省みるすべがなかった。
辿ろうとしても辿れず、探りたくても手のつけ所がわからない。遡れば遡るだけ、根は深いように思える。いつから始まっていたのかなんて思考に陥ったら最後、大袈裟でも何でもなくこの世に生を受けた日まで達するかもしれない。
無数の想いが命に絡まるほど、幼馴染は近かった。
切っても切れぬ、離そうとしても離れない、簡単に信じ込めるくらい心安かったのだ。
その安寧を手放す道が、闇の先に現れ始めている。





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