02 肌が溶ける。 太陽はまだ天辺にはほど遠く昇り切っていないというに、この暑さはどうだろう。日陰にいても汗が噴き出て来そうだ。 極力気配を消さなくてはいけない私にとって、凶悪な陽射しは天敵中の天敵である。 息を殺すにもひと苦労だし、乾き切ったコンクリートや照り返しのきついアスファルトへ汗の一滴でも落ちたら最後、痕跡を残す事となってしまう。 とはいえ現在千葉県を襲う地獄の熱波、たかだか雫のひと粒などすぐに蒸発するかもわからないが、一瞬の油断が命取りにもなり得る。 細心の注意を払い、昨夜の内に凍らせておいたハンドタオルで額を押さえた。暑さ対策も虚しくかなりぬるい。キンキンに冷えていたのは家から公園への道のりせいぜい十数分の間のみ、後はもう湿って重いただのタオルでしかなかった。 明日からアイスノンか冷えピタを常備しよう、いやいや荷物を増やすわけにはいかない、いつでも駆け出せるよう身軽でなければ。 煮立つ脳が空転し、浮かぶ言葉は次々上滑りしていく。ハムスターの回し車みたいだと思った。夏本番の高気温も相まって、私何やってんだろ、と色々な意味で心が折れる一歩前だ。 熱された地面から土や草のにおいが立ち上り、うんざりする湿気と混ざって、辺り一面の空気を分厚くする。むわっと籠もる熱気に眩暈を引き起こされかねない、屈み畳んでいた膝を伸ばし、私一人分の腕では到底囲めぬ太さの幹へ背を預け、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。 すぐ上で蝉が大合唱している。 完全に合わせて奏でるもの、はたまた一方が一方を追い掛けてゆき、皆一様に数秒黙ったかと思えば喧しくぶり返す。 熾烈な熱射になぶられた空気は揺れた所で弱々しく、一抹の涼にさえなってくれない。熱い場所から熱い風をだらだら運んでくるだけ、全くの逆効果である。 鼻や喉、果ては肺の底まで焼かれる心地だった。 被害を最小限に留めんと慎重に吸った、風と呼べぬ緩い渦は夏の香りがする。多少なりとも潮のにおいが感じられたのならまだ気が紛れただろうが、生憎とそう優しくないのが酷暑というもの。血も涙もない。気候相手に恨みがましく呟く。 鬱陶しいと苛つくのも面倒臭くて、濃い葉陰へ鼻先を落とした。 スニーカーの先や側面にぶつかるとぐにゃと曲がり、靴紐の部分と焦げ茶の土の上ではくっきりとした形を得ている。無数の黒い影がささめきもせずたかる様は、木の葉というより別の何か、ひと固まりの物体だ。 所々途切れてあいた隙間から、目の奥深くへ差し込む陽光の煌めきが漏れていた。 木にぴったり寄り添っている為かどこからどこまでが己の影なのか見当もつかず、大小様々の太陽の副産物で覆われ重なり、掻き消されているよう。 夏虫のいななきが聴覚を攫う。 このまま黙って耐えていれば誰にも見つからない身の隠し方を習得出来るのかもしれないな、いよいよ本格的に茹った考えへ至り、馬鹿馬鹿しいと諌める間もなく沸いた汗がこめかみを伝い滑っていく。 「おはよう、」 静かで、だけど凛と響いて芯のある声がした。 反射的に首を捻る。 炎天下の直射日光を浴びたその人は、私が立ち竦む植え込みの向こうで笑った。 「陸上部は今日遠征だよ」 「…え!?」 「しかも学校じゃなくて駅集合だから、この道通らないぞ。知らなかったのか?」 「だって、明日って聞いてて、私……」 「ああ、昨日突然変更になったんだってさ」 やっぱ陸部の日程も調べてたんだな、爽やかに微笑まれても上手く返せない。脱力という表現では足りないくらいダメージは深かった。なりふり構わずへたり込んで突っ伏したい。 ここ数ヶ月で一番長い溜め息をついて、下ろしていた鞄を掴んだ。 ポケットに両手を入れラケットバックを背負う親切な男の子へ向き合う。 「ありがと、佐伯くん。助かったよ」 「いえいえ、どういたしまして」 私達は等しく太陽光の餌食になっているはず、しかしかの人は熱波の類を物ともしないで涼しげな佇まいだ。 暑くないのかな? 内心首を傾げ、眩しい所の話ではない極悪非道な輝きに満ちる場所へ出ると、高熱にまみれた空気の壁がそびえ立つ。呼吸がし辛い。耐え切れず、生温いタオルで口元を覆い隠した。 眉間にも皺が寄っていたはずなので、 「すごい顔になってるぞ」 酷評は当然である。 が、仮にも女子相手に言う言葉ではないし、伝えるにしたって言い方を考えて欲しかった。 無遠慮に吹き出した真夏でも変わらずにイケメンの彼を見上げて睨む。 息が籠もって腫れぼったい。 「いいよもう、今日は尾行出来ないから気配消す必要ないもん。佐伯くんしかいないんだったらもっと平気。私程度の顔が崩れてたって別にどうって事ないでしょ?」 「アハハ! なんだよそれ、どういう意味?」 「どんだけブサイクになってても言いふらしたりしない佐伯くんありがとうって意味」 「お、信頼されてる」 「だって、誰にも言わないで内緒にしてって最初に約束したじゃない」 生きとし生ける者全て射殺さんと降る陽射しの勢いをどうにか軽減出来ないか、せめて酸素を吸って吐くくらいの事はなんなくこなしたい、軽く当てるに留まっていた濡れタオルを唇や顎周りへぴたと貼り付けた。水っぽいにおいが鼻をすすぐ。布生地の嗅ぎ慣れた香や感触に汗がそっと弾かれ退いていく気がした。 佐伯くんはまたおかしそうに肩を揺すっていて、やっぱり彼の周りだけ猛暑が和らぎ涼やかな風が吹いているようだった。 焼け付くばかりの、特筆すべき出来事など起きやしない、そんな夏の日。 ※ 冬晴れのお昼時だった。 期末テスト最終日を迎えた学校は午前中で終わり、当然給食もない。それでも少し残って問題の見直しと答え合わせをしようと前もって約束していたのだが、クラスを越えていつも一緒にお昼をする子達それぞれ、急な進路相談が、文化祭の出し物会議を今日する事に、引退した部に呼ばれたとかで、予定が合わなくなったのである。 人の恋路を応援した際に得た何個かのアテを織り込んで、じゃあ今日は久しぶりに一人でのんびり食べよう、などとむしろ若干浮かれながら昼食の場所を決めた。 何も十一月に外で食べなくてもいいのでは、考えはしたものの即座に却下し、小春日和と言うに相応しい暖かさのグラウンドへ繰り出す。 期末考査から解放された後の、特有の空気を耳や肌で感じつつ、第一、第二グラウンドの横を行き、ピクニックじみた昼食におあつらえのベンチも通り過ぎて、色とりどりのパンジーが並ぶ花壇の前へと辿り着いた。 他の畑や花の咲く植え込みより高く、ちょうど太腿辺りまで積み上げられた灰色のコンクリートブロックは少々座りにくいが、眺めの良さと私の好みでいえば特等席なのだ。 今回のテストは自信があるぞ、と心の中で鼻歌を歌いながら、途中自販機で買った紙パックのオレンジジュースを置いてお弁当の包みを広げる。 六角中に入学した日に買った専用フォークでプチトマトや卵焼きを口へ運び、思ったよりあったかいなぁ、のん気に独りごちた。 淡い水色の空に、薄く引き伸ばされ透けた雲が伸びている。 別段詳しくない私でも、格式高い神社の玉砂利に似て白く丸い雲の群れをうろこ雲やいわし雲と呼ぶのだとは知っていた。誰に教わったのか覚えていないけれど、海辺という土地柄、小学校の授業中に豆知識だと先生が話してくれたのかもしれない。 ベンチに座るよりも視点が高い所為で、来年の収穫祭へ向け早くも耕されつつある第二グラウンドと、越えて向こう側の第一グラウンドで何人かの生徒が部活の準備を始めているのが見通せる。 視線をもっと奥へ投げればこんもりとした水平線が微かに現れ、緩い陽の光を細やかに弾いており、遠くにいても白波の煌めきが瞼の裏に滲むようだ。 右手側には愛すべき学び舎が佇んでおり、屋上のフェンスの上から先端の丸い白雲が流れて来る。 風に運ばれ泳ぐ様を眺めていたら、駅前のパン屋さんのショーウィンドウを思い出した。 フランスパン、いやもっと似ているパンがあったはず、ええとなんだっけ、などと唸りながらアスパラのベーコン巻きを飲み込んだと同時、全く予想外の一言が降って来たのである。 「昼飯、それで足りるの?」 誰と尋ねるまでもない聞き馴染んだ声でも、いやよく知り得ているからこそ靴底が誰かに押し上げられたよう跳ね、びくっと震えてしまった。 弾みでお弁当の蓋が腿から転がり落ち、 「おっと」 大きな掌に拾われる。 私が利き手で掴む時はぴったりのサイズのはずが眼前の指は余ってい、その為かものすごく小さく見えた。左手へ収まったプラスチックの薄っぺらなそれを、自分の持ち物だと感じられない。 妙な違和を消化出来ぬまま、はい、と優しい一言と共に渡され、夏までは一日中ラケットを握っていたであろう手から目線を移した。 冴えた動体視力と俊敏な動作で間一髪の所を救ってくれた人は、やや屈めていた背を正す。逆光で微かに影っていた顔へと陽が差し、眦や唇の端には笑みが乗る。 はたと我に返り、 「あ、ありがと」 慌てふためきながら告げると、特に気にした風でもない佐伯くんがごく自然に隣へ腰掛けるので大いに動揺した。 えっ、座るの!? 声なき悲鳴が喉の下で潰れてぺしゃんこになる。 近過ぎず遠過ぎずの位置、真横というほどの距離でないにもかかわらず、手の甲や首筋辺りの皮膚で私以外の体温がうっすら染みる錯覚を抱き、バカそんなはずない、持てる力を振り絞り打ち消した。 気ままに遊ばせていた両足を一も二もなく引き戻し、大人しやかな形に整える。連動してぴんと強張る背筋が、緊張感に似た得体の知れぬ感情で痛い。泡を食った心臓から繰り出される脈拍の乱れに困惑するさ中、同じくさ迷った目先が制服の黒色とぶつかり、己との差に驚愕した。 立っている時は身長の方に意識が傾くのでしっかり確かめる事もなかったのだが、こうして隣に座ると嫌でもわかってしまう。 佐伯くん、足が長過ぎる。 性差や体格等々引き算しても持って生まれたスタイルの良さには敵わない。まずスタートラインからして大きな違いがあり、並び立つ事すら難しいのだ。 自分の大して細くもない腿に丸くて子供っぽい膝小僧の残念具合を改めて突き付けられ、六角中のロミオの名は伊達じゃないと深く頷く一方、なんだか悲しくなって来た。神様の采配って残酷。 「そんなに小さい弁当箱って初めて見たぞ」 こちらの複雑な心境など知る由もない人が、興味深々とばかりに手元を軽く覗き込む。 彼自身は割合はっきりした性格なのに、目の付け所がよくわからなくて掴みにくい。 「そうかな……普通だと思うよ。私、別に小食じゃないし、佐伯くんのお弁当箱が特別に大きいんじゃないの?」 「ハハ、から見た俺って大食漢なんだ?」 「ううん、違うけど」 「でも、そうだなぁ。確かにテニス部はみんなよく食うし、弁当も箱っていうかタッパーに詰めて来てたしね、の見立てはあながち間違ってないかもな」 「タッパー? それ、おかずとご飯ちゃんと仕切れるの?」 「いや。仕切るも何も、中身丸ごとチャーハンや焼きそばってのがほとんどだったからさ」 でかさはこのくらい、と左右の指で空中に示されたサイズが顔の幅を楽々越えていてぞっとした。換算して私の何日分の炭水化物を一度の食事で摂取するのだろうか。テニス部の人と同じ食生活を送ったら、私なんかものの一週間で目も当てられないデブまっしぐらだ。 「きっとそれで余計小さく見えちゃうんだな、うん」 「運動部の男の子ってほんとによく食べるんだね? こないだの収穫祭の時驚いちゃった。それで全然太らないんだからいいな……ていうかずるい」 本気で羨ましいんだけど。 心の奥底から湧き出た本音で場を叩くと、佐伯くんが緩やかに肩を弾ませた。 は気にしなきゃいけないとこなんかないじゃん。 恐ろしい事に彼の言葉には嘘偽りというものが窺えず、お世辞でも嬉しいよどうもありがとうなどとむくれる間を与えてくれない。そもそもセクハラだ、訴えてやったって良い場面のはずでもしっくり来る怒りの表現が見つからなくて、かといって自分の感情を舌に乗せられぬもどかしさもなかった。 気が抜けるというよりも、警戒し神経を尖らせたり、無意識の内の身構え、全身を僅かながら硬直させるあらゆる全てが、知らぬ間に消えてしまうのだ。 現に、ついさっきまで突然横に腰を下ろされうろたえていたのに、不思議と落ち着いた会話がもう出来ている。気付いた途端に安堵の溜め息が胸一杯に広がった。ふっと唇の裏で呟く。 聞きたい事はあっても、解決したいわけではないのかもしれない。 佐伯くんは初めて会った時から優しい人だったし、一緒にいて重い気詰まりに戸惑った覚えもなく、すごくかっこいいけど親しみやすいから、私自身時たま楽しんでお喋りしていた気もする。夏の朝は特に、と顧みれば益々思いは深まった。 (変だなあ?) 一人で過ごしている時、佐伯くんがナチュラルにとんでもない発言する都度、不可解な迷いを前にしてしきりに首を傾げ、ともすれば途方に暮れてもいたのに、今、胸をあたためるのはまるきり逆の感覚だ。 肩がやんわり安らいでいく。 「で、がわざわざ学校の外れで飯食ってる理由は何? 諜報活動を再開でもしたのか?」 陽射しに温もりはあっても風は冷たく、剥き出しとなった足の一部がどうしても寒い。 ふやける胸元との温度差に遅ればせながら意識を遣りかけた所、からかいの色を含んだ声音で問われた。 「私どこの女スパイ? それに前にもわかりやすく目立ってたらだめなんだって言ったじゃない」 「あれ、言ってたっけ?」 「言った! ていうか聞いて来たのは佐伯くん!」 真面目に返した回答をそうでしたっけと受け流されたも同然だ、軽く憤慨しフォークを握り締めた私に対し、両手を花壇のブロックに付き足を組んだ佐伯くんが頬を緩ませた。 冗談なのかそうでないのか、いまいち読めない態度である。 まさか佐伯くんほどの人が覚えていない事はないだろう、信じさせておいて実のところ図星だったりする可能性がなきにしもあらず。 小さく咳払いをしたのち、勢い余ってずれたお尻の位置を直す。 「……もし諜報活動だとしたら見つかってる時点で意味ない。隠れるつもりなんかなかったけど。今日は普通にお弁当食べようと思って来ただけだよ」 ここに至るまでの経過を掻い摘んで説明し、そうなんだ? と相槌を打つ隣人の様子を横目に続けた。 「それはわかったけど、なんでベンチじゃないんだ?」 喉を閉めて出来る限り低い声で言うと、佐伯くんが少しだけ目を丸くする。 「って思ってるんでしょ。ベンチの方が座りやすいし、あとこの時期外寒いんじゃないのって。そんなの私だってちゃんと考えたもん」 「…、もしかして今のって俺の真似?」 「似てないよ!」 「先に言うなよ」 私の先回りを否定しないのを見るに彼が適正に評価を下す清い心の持ち主なのだと、既に何度目か知れぬがひしひしと感じた。モノマネを極めたい願望など皆無である、おまけに頂いたツッコミは小ざっぱりとした笑声混じりで痛くも痒くもないから、つかえる事なく話せた。 「ベンチもいいけど、ここのが眺めがいいの。一直線に全部見えて好きなんだ」 多分、佐伯くんが傍にいる同い年の男の子なんだと素直に信じられるのは、その辺りの功績が大きいのだろう。 人徳、の二文字が頭をよぎる。 「……全部?」 「うん。グラウンドとちょっとだけ海と、あと向こう側の…佐伯くんならここからでもわかるよね? 海寄りのベンチ。校舎も見えて、あ、それから空も広く見えるでしょ。張り込んでた頃って勿論集中はしてたけど、やっぱ暇な時はすごく暇で。時間持て余す事もあったし、そしたらもう景色眺めるしかないじゃない?」 なるべく正確に伝えないと、と指を差しつつ説明しようとしたらお弁当が気に掛かってしまい、蓋を乗せて開いた包みごと灰色のブロックへとよける。 組んでいた足をほどいた佐伯くんは私の指し示す方向を一心に見詰めていて、真剣味を帯びた横顔が綺麗だった。 こうなっては細部まで語るしかあるまい。 妙な責任感が生まれ、気持ち居住まいを正す。 「それも毎日だと飽きて来ちゃって、だったらもう後は空の色とか雲の数とか形見てようかなってね、ずーっと続けてたら癖になっちゃったんだ。で……」 「陸上部の彼を追い掛けている時に、この場所を見つけた?」 今度は佐伯くんが私のセリフを出し抜き取った。 間違ってはいなかったし、混ぜ返すつもりもなかったので首を縦に振る。 「うん、そうだよ。尾行するんだったらもうちょっと不自然じゃない場所が最適だし、あと隠れるとこあった方がよかったから。どこがいいかなってうろうろ探してる時に、偶然」 「………そう」 例の長い足を男子然と開き、太腿の上へ肘を置いて、垂れ下がる手の指と指を組む人は何故だか難しい顔をしている。 そうそう見掛けぬ表情に首を傾げたけれど、不意に逸らした視線の先で気付きを得た為に滲んだ疑問は書き換えられた。フランスパン以外に何かないかと思案していた細長い雲の全貌が露わになっていて、相応しい喩えが打ち上げ花火みたいにぱっと浮かんだのだ。思わず仰のき、ささやかながらも声を上げてしまった。 「あ、ごめんなさい」 彼にしてみれば不可解極まりない歓声だったろう、反応して鼻先を向けて来るのは当たり前だ、かち合った両のまなこへと謝罪する。直後無言で訳を問われ、冬の初めの天をもう一度見上げた。 「えっと、別に大した事じゃないよ。さっき佐伯くんに話し掛けられる前、ぼーっと雲を見てたの。その雲が、あの……似てる気がしたんだ」 背中の角度を元に戻した佐伯くんが不思議そうに瞬きをしている。 口にしてみたはいいが話せば話すだけ人様に聞かせるられる事ではない気がして来、急激に自信が失せた。数秒前は大発見だとばかりに脳内が沸いたというのに、透き通った真っ直ぐな眼差しを受けるや否や消沈してしまう。 かといって途中で止める訳にもいかず、覚悟を決めて唇を開く。 「フランスパン」 ひと息に言い切りちらと確かめると、予想通り面食らった表情だ。見ないフリで細長い白雲へと視線を当てる。あっちの、と念の為に指を向けると尚の事自分が底なしのバカに思えて仕方がない。 「…かなって、最初は思ったんだけどなんか違う気がしてね、今見たらねじりパンが一番似てる。佐伯くんねじりパンわかる? 名前のまんまねじって巻いて、砂糖とかかけてあるの」 こういう感じで捻ってあって、と両手で想像上の成形法を辿った所ではっとする。 「あっちょっと待って! 言い訳させて!」 「え?」 「今のかなり一人遊び得意なぼっち発言じゃなかった!? そこまでじゃないから、あくまでも時間潰しだから!」 「おい、」 「いつも雲見てないし、見たからってパン思い浮かべてない。すごい意味わかんない事言っちゃった。まあ今に始まった事じゃないかもだけど……そんな、心配して貰うほど一人じゃないよ、私」 何の話だと続けるつもりらしかった佐伯くんを力技で遮り、身振り手振りでの説明を終えたは良いが、下ろした掌の置き場所がわからない。宙ぶらりんにしておく訳にもいかず、無意味にスカートの裾を引っ張って直してみる。 わかりやすく間を持て余した私の隣、自然体と言うのが相応しい表情に戻った人が、いつも通りこだわりなく笑った。 「約束してた友達に急用が出来たんだって、さっき教えてくれたろ。大丈夫、俺はわかってるさ」 落ち着けと宥めすかすのでなく小さな子を言い聞かせる音色でもない、ただありのまま事実や自分の考えを口にしているだけだと、必死に言い募っていた私もすんなり信じられる響きだった。 大きな声で力強く宣言なんてされていないのに、佐伯くんの言う事にはなめらかな説得力がある。 勿論無理矢理にじゃない、否と拒めぬオーラで気圧されたのでもなくて、そっか、そうだよね、楽に受け入れる事が出来るような、彼特有の雰囲気や物言い。 「じゃあ、いい。でも雲の話だけは忘れて」 「雲の話だけ? どうしてだい」 「だって珍妙発言だったもん」 「ハハッ、今更じゃん」 感心に加えある種の感動を覚えていたら、さらっと酷い一言を投げられてしまった。 「今更だけど嫌なものは嫌なの! 散々変な場面目撃されちゃってて、これ以上おかしな子認定されたくないよ」 「別にしてないけどな」 「……しててもわざわざ言わないよね佐伯くんは」 「そんな事ないさ、してたら言うよ。俺は、の前では正直者でいたいって思ってる」 私の前じゃなくたって常に誠実なのでは。 胸の内で独りごち、なんとなく目を合わせれば、にこっと上がった口の端の柔さが角膜で跳ねる。 「キミはおかしな子なんかじゃない、見つけるのが上手いだけだろう? 眺めの良い場所といいこないだの近道といい……あ、後は海の色もだな」 簡単な相槌も打てない私に、夏に言ったの覚えてない? と佐伯くんが一層瞼の隅を淡くした。 「朝の海が全然違う、俺は全部の海を見た事があるから海マスターってさ。海を見るのも遊ぶのも好きだし、確かによりは色んな時間帯の海を見て来たけど、そんな風に考えた事なかったよ。って事は、見落としてしまった何かがあるんじゃないか? 海に限った話じゃない。好きな物でも大事にしていた事でも、何でもそうだ。好きだからそれでいい、それ以上の理由なんかないと、そこで考えるのを止めていたのかもしれない…ってね。といると、俺は俺の知らない自分に気付かされる。そういう意味の認定だったら、もうとっくにしてるよ」 手ばかりか身の置き場まで見失った。 返す言葉に詰まり、背を縮めて小さくなる他ない。暦通りに少し冷たい風が頬を打っても、皮膚の下、中を通る血が燃えている。 最早説得力がどうとかいう問題でもなければ、褒め称えている場合でもなかった。 嘘だ、からかわないで、出たヒトタラシ、振りかぶって投げ付けてやりたい衝動だけが先走り、喉奥や舌先は渇いて上手く紡げない。おまけに奏でられる音が安定して穏やかで、つまりいつもと変わらない佐伯くんの声だから、照れる暇がなく謙遜も出来ず突っ撥ねる事さえ叶わないのである。 「え、えー……?」 突然に高評価を下され、動揺が隠し切れない。 あまりに冴えない愚鈍な返答だったにもかかわらず、彼は破顔するばかり。 「なんだよ、もしかして困らせた?」 「ううん、困ってはない」 即座に否定する。本心だったからだ。 自ら尋ねたくせしてそうだよなと言わんばかりの微笑みが視界を柔くぼかした。 どう返事をすればいいのかわからないだけ。 口にするかすまいか一瞬悩む私の傍で、その必要はないと語る双眸が初冬の訪れと共に弱った日光を吸って密やかに輝き、日焼けした髪にはぼんやり光の帯が描かれていて、艶々とした天使の輪みたいだ。 煌めき散る小さな眩しさが、彼の周りを優しくかたどっている。 太陽の角度や天然自然をも味方につけてしまう佐伯くんは、まさしく王子様だった。 しかも画面越しじゃなく間近にいるから質が悪い、女の子のほとんどが本気で夢を見かねないではないか。 「夢中になって追い掛けてる時でも、ちゃんと別の方にも気が向くんだもんな。俺にはなかなかね、真似出来ないって思うからさ」 「……意識が散漫って事?」 「違う違う、なんでそうなるんだ? 曲解し過ぎだって」 下手を打つと嫌味に聞こえる事でも、通る声を持つ彼に掛かれば偽りなき真実と化するのが恐ろしい。私には称賛を貰う資格も理由もないし、何より嘘をつくなとはっきり跳ね除けられない、自分の弱さが嫌だった。自惚れるなよとの諫言が頭の中で響く。 佐伯くん、人違いしてませんか。 全く以って可愛くないお返しを舌に乗せ唇へ挟もうとし、けれどさっぱりとした笑顔に持ち去られてしまう。 「そういう所がすごくいいなって事!」 息は呆気なく止まった。え、の一文字さえ生まれて来ない。どうしてか、陽光を反射する学ランの色味や艶めきにばかり気を取られて仕方がなかった。 「あ、いたサエさーん! 今日相手してくれるって約束だったでしょー!」 早く早く、と急かす大きな声が穏やかな陽気へ割って入り、釣られて見遣ると坊主頭の男子が目一杯上げた両手を振っている。右手にはラケットが握られてい、そこでようやく先日の収穫祭で部長だと紹介された一年生の子だと思い出した。 私と逆の方向へ整ったかんばせを傾けた人が左手で軽く応じる。ふと立ち上がる背が常より高く映えた。追いつけないまま座っている所為だ。足が萎えている。ほんの微か震えた指先が彼の何気ない仕草一つも捨て置けぬ現状を物語ってやまない。雑音が消え、体の中心でがなる心音に耳が内側から支配されていく。 こちらを見下ろす佐伯くんが飾らずに笑って言った。 「! じゃあまた」 何の陰りもなく、深い意図も感じさせず、きらきらとしたオーラのまま。 颯爽とした足取りで進んで行ってしまう制服の後ろ姿は断じて振り返らない。とても軽やかで取り付く島もないなどという事は絶対ないのに、容易く人を置き去りにする。 文字通り言葉を失った私はといえば、お弁当の存在も忘れて呆然と見送るしかなかった。 ← × top → |