03




思い込みが激しいんだ。
友達との間に距離が出来て、自分が一番じゃなくなったと感じたみたいに。
私一人が置き去りにされて向かうべき目印を見失った、途方に暮れたように。

この数ヶ月で痛感した私は、一向に定まらないつま先やぐらつく足元、誰かさんの柔らかなひと振りで揺らぐ心拍数、諸々を無理矢理にでも払い除ける為の努力を欠かさなかった。

気のせいだと言い聞かせる。
みんなに親切な佐伯くんを起点にテニス部の人達とちょっとした顔見知りになって、時々声まで掛けて貰いびっくりする度、完璧に一人外れていたというわけでもなかったけれど眺めるばかりだった賑やかな輪に呼ばれる都度、夏の海に似て目映い場所にいるのだと心を揺さぶられる時は必ず、以前に比べ状況と環境差のお陰で目を回し掛ける所で何度も繰り返す。
気のせい、思い違い、深い意味なんてない。
冬も間近な秋の陽射しが照らす廊下や大掃除の日にかけたワックスの剥がれた階段、たくさんの上履きが行き交ったお陰で使い込まれた風合いとなった踊り場、朝はひんやりと涼しくて、夕暮れは沈む陽を浴び細く伸びたロッカーや扉の影で太い縞模様に彩られる昇降口、職員室まで続く長い通路。
一度見掛ければ、ほとんどと言って良い確率で気付かれる。
先に見つけるのが私でも彼でも関係ない、どちらにせよ以前なら通用したやり方での素通りは出来なかった。
佐伯くんはいつも安定して穏やかだ。
すれ違いざま爽やかな笑顔で挨拶をしてくれて、距離が遠ければ小さく手を振って来るし、本当に目が良くて気も回る。大雑把な所は年相応にあっても、時々すごく律儀だった。マメと言い換えても良いのかもしれない。
目立たぬようにと試み、いち早く避ける為にと人と成りをある程度把握し、けれどほんの一部の情報しか得ていなかったら、彼を知れば知るほど咄嗟の返事も叶わず驚いてしまう。

その日、日直だった私は大抵一緒にいるグループの子達へ先に行っていいよ、と前もって伝え、慣れた一人行動をしていた。教科書とノートを抱えて、さっき黒板を消した時にかぶったチョークの粉が気になる、と指先を軽く擦り薄曇りの渡り廊下を進んでゆく。気配を消すとか消さないとか、収穫祭以来うやむやになった攻防戦の事はすっかり忘れていて、いわば完全に腑抜けている状態だった。
筆記用具を胸元に押し留め手を払い、日に日に冷たさを増す外気と少しばかり暖かい校舎の境を跨いで、ふー、と最後の仕上げに指先へ息を吹き掛けたら、窓辺に背を預けて腕組みする人を目に入れてしまったのである。
一瞬尻込みをした。
相変わらず忍者癖の抜け切らない私が退路を探した一拍、何回見ても凛々しい眉の下で輝く双眸とかち合い、吸った酸素が気管で迷子になった。
友達かクラスメイトか確かに話している途中だったはずなのに、ごめんちょっと、と朗らかに切り上げた様子で左手を軽く上げながら歩いて来る。

「次、移動教室?」

おまけにきらきらという効果音がぴったりの表情で私に聞くものだから、すごく困った。うんそうだよ、以外答えようがない。頷いた様を見、佐伯くんがまた笑う。
喉まで出かかった次の言葉は無理くり落として引き戻した。

「理科室で実験。佐伯くんのクラスは?」
「それが、受験対策に小テストの予定でさ」
「……で、また泣きつかれてたり?」
「暗記の方法を聞かれてただけだって」

小さく肩を竦めた学ランが今日は乱れていない。春夏秋冬お構いなしに海へ寄り道するらしい彼も、そろそろと風の凍り始める季節ともなれば流石に寒いのだろう。
そういうのを泣きつかれてるって言うんでしょ、心で呟き、期末が終わってイベント目白押しって時期に小テストなんて先生も意地が悪いよな、と背後ろ側へ僅かに振り返る頬と耳、顎の付け根の角度を見詰める。
途端、何故か視線を逸らして俯きたい衝動に駆られ、粗方落としたはずのチョークの粉がやけに脳の隅で引っ掛かり空転し出した。教科書を抱え直すフリをして、黒板消しを掴んでいた方の指先を握り隠すと、先ほど仕舞い込んだ声がせり上がって来る。

勝負はどうなったの?
今なんで私と話そうと思ったの?
単なる気遣い?
だとしたら、私ってまだ一人で親友のいない毎日を寂しく過ごしている可哀相な子に見えてるのかな。
他愛ない世間話なんか、どうしてもしなきゃいけない事じゃないでしょ。
クラスも違うし次の授業が何かなんて、わざわざ向こうでの会話を打ち切ってまで聞く事じゃないよね?

結んだ唇のずっと奥で溜め込んだ分だけ、脈打つ速度はそのまま、心臓が一音一拍をけたたましく響かせる。ドン、と肋骨を強く叩かれるみたいだ。全身へ張り巡らされた血管を通る潮騒めいた流れが鼓膜を内側から舐めるようにして轟き、すぐさま戻り、しかし押されてまた進み、延々と連なっていた。
例えば広い海へ投げ出されたとして、こうも心許ない気持ちには染まらないだろう。
四季や天候のちょっとした変化で様変わりする波は小さい頃から慣れ親しんだもの、よほどの事態に陥らない限り幼少期から叩き込まれた対処法で解決出来る。
だけど佐伯くんは――佐伯くんだけは、別なのだ。

「多分、忙しい時期だからこそ気を抜くなって事なんだよ。 うちのクラスの先生、六角の生徒は皆のんびり過ぎるんだって言ってたもん」
「あぁ、ま、そうかもね。俺達一応受験生だし」

ぎりぎりの所で何とか舌を動かし続けるさ中、足が冷たい水に浸り痺れて攣る錯覚に襲われた。ここまで来ると最早おまじないや呪文の類に近いとのわかっていたが、他にすべがあるわけじゃなし、ひたすら辿りなぞる。蜘蛛の糸よりか細く今にも切れそうな命綱に縋る心地だった。
気のせい、有り得ない、考え過ぎ。
いつの間にか渦巻き始めた感情に攫われないよう、お腹に力を入れ仁王立ちする意気で重ねて祈る。
それほどに私は怖かった。

勘違いしたくない。
持ち前の思い込みの激しさで決め付け見立てが外れに外れていた時、恥をかきたくなければ傷付きたくもない。ほんの僅か間違えるだけで今度こそ一人ぼっちだ。自分勝手な私の為に海まで付き合い、慰めてくれた人を失うから。

などと恐れる事すらひどい自惚れだと戒め、懸命に己を律しようと心掛ける度、佐伯くんが邪魔をするのだ。
秋の終わりの弱い陽射しもスポットライトに変える特別な笑顔で、躊躇わず人を真っ直ぐに見詰める瞳で、どうという事もない会話を楽しげに繋げる声で、鮮やかに塗り替えていく。身構えるべきか否か判ずる前に思考回路にするりと滑り込まれるから、彼には悪気や他意がないと知っていても強く跳ね除ける言葉を選びたくなってしまうのだった。
(色んな子に言ってたらやだから信じない)
あの頃は簡単に投げ付ける事が出来た一言が今はもう、どんなに頑張っても紡げそうにない。







夕焼け小焼けで日が暮れて。
懐かしい童謡が似合う時刻、眼下にて広がる海は茜に縁取られて綺麗だ。白く立つ波が砂浜を覆い、ほの暗い跡を残して引いていく。
海鳴りは遠い。
秋と冬は空気の乾燥が酷いよ、海が近い六角はまだ良かった。
親友のぼやきを脳裏にて再生させる。睫毛を揺らし、容赦なく頬へ打ち当たる風は砕け、夏のそれと比べればやはり乾いているように感じた。
上の道から眺めているだけの私は、いくら歩いても平行線を辿る海面から離れている。にもかかわらず寄せては返す波音で耳をくすぐられ、眼球の薄く透明な膜がまろやかな日暮れの粒子に爪弾かれ、胸の中身は潮の香りでゆっくりと満たされるから始末に負えない。丸い空で淡い紫とピンクがない交ぜとなって、所々に浮かぶ雲は白に薄い藍を足した色合いだ。
夏の私は知らない、今の私が覚えたばかりの風景。
すぐそこの浜辺でテニス部の人達と戯れている佐伯くんにとっては当たり前なのかもしれない、季節や時間ごと変わる海。
制服の裾を引き上げた彼らは信じられない事に裸足だった。学ランを脱ぐ所までは達していないが、ボタンを一、二個外したり腕捲りしている姿がいくつかあって鳥肌が立つ。聞こえる近さにいなくても、楽しそうに笑いはしゃぐ声が耳を打つよう。
ばらける髪を押さえ、遊びに夢中な男の子達へ視線を預ける。
佐伯くんは気付かない。
あと一、ニ時間もしない内に夜に覆われる時刻、砂浜へ膝を数センチ埋め隣にやって来た――樹くんだろうか、何事か話し掛けており、二人の前には小さいながらもヨーロッパにあるものの再現かと問いたくなる、美しい砂城が築かれていた。
作り手たる人が腿の横に手持ちスコップをざっくり刺したのを見るに、どうやらあの芸術作品を簡単な道具一つで作り上げたらしい。とても器用だ。けれど寒さ募る時期、夕闇の迫った頃に熱中する事かという疑問は尽きず、パブリックイメージがいかに当てにならないかを思い知る。恋に生き殉じたモンタギュー家のロミオは多分、晩秋の海辺で砂にまみれになって遊んだりはしないだろう。
背中がだぶる。
太陽の猛攻を受け汗が引き出される昼日中試しに尾行した制服のシャツと、今現在しゃがみ込んでチームメイト兼幼馴染と笑い合う後ろ姿がしかし、重なるようで重ならない。
微妙な差異を感じてしまって、はっきりとした解が出せなかったのだ。
決してこちらを振り返らず、人の輪の中で生き生きと輝き、肩や顎、耳の後ろを笑み揺らすラインはほぼ同じなのに、違う人みたいだった。
剥き出しの頬や鼻の頭、風で前髪がめくれた額と首筋がどんどん凍り付いてゆく。寒い、と胸の片隅に零す。
秋でも冬でも元気に海遊びをする男子達はみんな、どうしてかすごくあたたかそうだ。
鼻腔から喉奥へと抜ける冷たい空気の所為で、両目が微かに滲んで濡れた。眦に溜まって溢れる寸前、私を呼ぶ声が頭の中でこだまする。

幾度も聞いた音色がする。
今日は寒いね。
朝のキンと張り詰めて清しい陽射しが降る校門の前で、おはようを奏でてくれた笑顔が消えていかない。
吐息が籠もって熱を持つと同時、不可思議に柔い渦が芽生え胸が詰まってしまって、そんなはずないのに湿り気を帯びて重たかった。痛くはない。でも苦しい気がした。
まだ屈んだままの後ろ姿から鼻先を背けて、小さく首を振ったのち、コートの襟を掻き集め、埋もれた唇でひそかに歌う。
おてて繋いでみな帰ろ、カラスと一緒に帰りましょ。







帰り道が一緒になった。
数日前に口ずさんだ歌を思い出さずにはいられない展開に偶然って怖いと震える。
通学鞄を背負っただけの彼は身軽だ。私の中の佐伯くんのイメージといえば、ぎらつく太陽を反射する大きなラケットバッグとずっと一緒、だったので、テニスはいいの、聞こうとして、引退した運動部の子はそんなものなのかなと考え直した。一応受験生、の言葉通り、自分で選んだ進路へ向かって努力を重ねる時期である。そう頻繁にはラケットを握れないのかもしれない。
(……海で遊ぶ暇はあるみたいだけど)
余裕の顕れなのか、スポーツ推薦でも決まっているのか、はたまた現実逃避だろうか。選択肢をざっと浮かべたものの、どれもしっくり来なかった。
息をつくとほんの僅かに白く染まる。
本日の天気は薄曇り、極寒まではいかずとも風は暦通りで、海沿いの通学路を歩けば体温が奪われていく。慣れていても時々首を竦めたくなるのに、隣の佐伯くんはコートも羽織らずマフラーだって巻いていない。

「風邪引かない?」
「滅多に引かないなぁ」
「じゃあ寒くない?」
「俺さ、普通に歩いてるだけで暑くなって来ちゃうんだよね」

まぁ寒い事は寒いけど、もう慣れたかな。
以前と変わらぬ爽やかな声が零れ、私は素直に感心した。
なるほど、全国大会出場常連校のテニス部の練習は新陳代謝まで活発にするらしい。羨ましいような、見ているこちらの方が身震いしたくなるから暖かい恰好をして欲しいような、何とも言えない心地に陥る。
私なんか昇降口のガラス扉を押した時に触れた、金属で出来た取っ手の凍り付く温度に小さく飛び上がったくらいなのに、とついさっきの出来事を回想した。
堪え切れず漏れた微かな悲鳴も聞き逃さなかったのだろう、下駄箱の影から現れた佐伯くんは寒さで赤みを帯びた掌を摩る私に気付き、声を掛けてくれたのだ。
駆け巡る緊張感に息を詰めたのもつかの間、人との間に垣根を作らない彼が苦もないとばかりに距離を失くす。
どうしたの、と尋ねる声音と真摯な瞳に乾いた唇がわななき、大した事じゃないし逐一報告するまでもない、しかと理解しておきながら返事を差し出してしまった。いやあの、ドアが冷たくてびっくりしただけ。口にすれば尚馬鹿馬鹿しさ極まる事実だったが、親切の塊みたいな六角一のイケメンは呆れもせず相好を崩すのみ。なんだそっか、怪我でもしたのかと思ったよ。目尻をなだらかに緩め、はいどうぞ、と実にスマートに扉を開けてくれるのでお礼の一声を出すのがやっとだ。軽快な仕草はしかし、雑ではなく何より優しい。
心臓に蓄えられた血液が煮える一歩手前、力ずくで抑えつけ、バレないよう呼気を細く深く伸ばす。染みて滲む言葉達は飲み込んで見て見ぬフリをした。
海へ向かって立つ校舎の玄関口は風の吹き込みが激しく、わっと勢いを増した一瞬で髪が崩れ頬や唇になだれて来るから鬱陶しい。耳の上部へ引っ掛ける途中、ウィンクするみたいに片目を瞑って強風に耐える人を見遣り、本当にどこにいても何をしていても様になる、と尊敬に近い感情を抱く。
どちらからともなく歩を進める。
隣の佐伯くんが何も言わないので、私も口を噤む他ない。
そうこうしている内に海岸沿いの道へ出、は足が速いし持久力もありそうだから今度の校内マラソン大会楽勝なんじゃない? と楽しげに語られ、絵に描いたスポーツマンの佐伯くんの方こそ楽勝でしょ、返した所で並び歩く流れに気が付いた。
家の方向が一緒なのかな、考えを巡らすもやはり問う事は出来ず、普通の道でなく砂浜を走るのであれば自信はある、などと海を愛する人間そのものといった発言にツッコミを入れて、潮のにおい混じりの冷え冷えとした空気で頭と胸の中心を落ち着かせる。
覚えのあり過ぎる通学路は冬枯れの時季を迎えつつある。
空も海もくすんで映り、七、八月の眩しさは跡形もなく過ぎ去ってしまっていて、心なしか寂しい気持ちになった。

「そういうキミは寒がりなんだ?」
「え、普通だと思うけど……なんで?」
「まだ十二月に入ってないってのに、冷たがって扉押せてなかったじゃん。俺全然平気だったぞ」
「それ私の問題じゃなくて、きっと佐伯くんの手が分厚いからだよ」
「なんだか温度の変化に鈍感って言われてるみたいだな」
「そんな事言ってないし、鈍感……には見えない。でもなんか強そう」
「ハハッ、何にだよ?」
「わかんない。全部に?」

薄い吐息の円が笑うごとに真横で零れ、すぐさま立ち消えていく。
すらりと伸びた背筋は高く、彼の性格を表すが如く真っ直ぐだ。掌が厚いのはずっとテニスを続けて来た証拠じゃない、唇を開きかけ、スクールバッグ以外の何も乗っていない彼の肩を改めて瞳に当てる。
不可解な弾みが生まれ、凍れる風の存在も忘れた。
は、と息継ぎをするついで、端整なつくりの横顔へ目線をずらす。きらきらの微笑みがよく似合う佐伯くんは何度見返しても変わりない。
突然、空白地帯へ放り出された気分に襲われローファーのつま先がにわかに惑う。
踏み締める地面は浜辺に沿った舗装から灰かぶり色をしたコンクリートへと移っていた。一本横道に入った所為だ。潮騒が薄まって、足音がより鮮明になる。
押し黙ったこちらの様子に気付いたらしい佐伯くんが、ん? と気さくに問い掛ける気配を揃いの目に纏わせた。
自分自身でも判然としないまま応じようとし、

「サエちゃん!」
「ほんとだサエさんだ!」

道の脇から元気よく飛んで来た幼い声に出鼻を挫かれてしまう。
私が驚きに身を竦める間もなく、あだ名で呼ばれた人は小学生くらいの子達に囲まれ、腰に抱きつかれたり、腕を引っ張られたりしている。
なかなか力一杯ぶつかって来られている人気者はちらとも顔を顰めず破顔して、飛び付かれた際の衝撃にはおっ、と嬉しそうですらある声を転がし、指や左手を握って引き落とさんとする小さな両の掌を払う所か丈に合わせ屈んであげているので、私は思い切りおののいた。彼の人柄の良さは年齢性別関係なしに発揮されるようだ。
半歩、つい後退すれば、一点のみに集中した所為で狭まっていた視界が開け、緑色の金網とその奥に広がるアスレチックや手作りのテニスコートが確認出来た。歩きながら話している内に、音に聞く六角予備軍の子達の練習兼遊び場の近くまで辿り着いていたのだ。

「ねえサエちゃん! わたしと遊んで?」
「えーテニスしようよ! おれドロップショット上手くなったんだぜ!」
「じゃあ僕とはワンゲームマッチ!」
「バネちゃんとダビデは一緒じゃないの?」

矢継ぎ早に飛び交う賑々しさについていけない私と反対に、佐伯くんは例の笑顔で事も無げに応じる。

「そうだな、俺も久しぶりに遊びたいし。上達したショットも見てやって、テニスしたいんだけどさ。今日はラケット持ってないんだよ」
「えーなんだよ、それってサボりだ!」
「アハハ、ごめんごめん! 俺とバネと……あーダビデはちょっと違うか、三年の奴らは今勉強を頑張んなくちゃいけなくってね」
「つまんないー! いつになったらテニスできんの?」
「年が明けて、春が近くなったら……かな」
「そんなにいっぱい勉強しなきゃだめなの、サエちゃんたち?」
「ぞっとするだろ? でも皆いつかは俺達みたいになるんだぞ」

嫌だ、なりたくない、テニスだけしてたい、方々で巻き起こる抗議めいた叫びの中、

「あっちっげえ、遊ぶより先にあるじゃん! ねえサエさん大変なんだよ!」

小学校高学年と思しき男の子が場を断ち切り、訴えを受けた側は心持ち居住まいを正して復唱した。

「大変?」
「そうなの、あのね…おうちわかんなくなっちゃった子がいてね」
「きっと転校して来たばっかなんだと思うんだけどさー」
「色々聞いてみても答えてくんねーんだ!」

言うが早いか、こっちこっち、口々に話し蜘蛛の子を散らすよう駆けて行ってしまう。呆気に取られたあげく、彼らと生きている時間の速度が違うのではと真面目に考えた私は更に出遅れた。
一歩分、底を擦ったスニーカーがすぐ傍で翻る。

「あ、。あのさ……」
「うん行こ、きっと迷子だよね? 話聞いてみようよ」
「ありがとう」

佐伯くんにお礼を言われるのは何かおかしい気もしたが、間髪入れず心から感謝しますといった嘘のない笑顔を貰うと、謙遜ならばともかく固辞する事は難しい。
全然いいよ、簡潔に答え金網で織られた扉をくぐり抜けた。





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