03 風変わりな友情を築いてきた白石蔵ノ介という男の子は本当に整った顔をしている。 けれど人目をひく理由はそれだけじゃない。 脇目も振らずに野球部の彼を追いかけてきた私が、わかっているつもりでもリアルに実感してはいなかったと思い知ったはじめの出来事は、新学期になってひと月以上経過した頃に起きた。 中間テストを終えて校内が開放感に満ちたのもつかの間、アホ武道会の準備に奔走する破目となり、以前自分が予想した通り失恋に浸っている暇などほとんどない。 学生の本分は勉強とお笑い、と平気で口にする先生方や気風を今まで特別思うところもなく受け入れていたが、今年ばかりは四天の生徒でよかったと心底感謝した。 他人からは騒がしい、鬱陶しいと言われかねない雰囲気でも、私にしてみればささくれだった心をほぐしてくれる最良の薬なのだ。 向き合うことを放り投げ、気を紛らわせているに過ぎないのかもしれないけれど、ひとつの物事を作り上げる為に集中していると気持ちにも熱が入るから、なくした恋に縛られ続けることもなかった。 だから人一倍、もしくは一年時の比じゃなく、私は私なりに張り切っていたのだと思う。 毎年10月に開催される校内一アホ武道会は読んで字のごとく、四天宝寺中一のアホと同時に運動神経に優れた人間を決める、大騒ぎと大騒ぎがぶつかり合うような行事である。 種目は多岐に渡り生徒の私ですら全競技を把握できないほどで、それゆえ準備には大変な労力と時間を要し、もれなく全校生徒参加のカオス空間と化す。 準備期間に突入すれば、忙しさに目が回ってしまう。 私の担当は百メートルなんちゃって仮装ショー走で、運動部のレギュラー陣が自分の所属している部活以外のユニフォームを着用し、様々な障害や降りかかるお笑い試練なるものを乗り越えてゴールを奪い合うという目玉競技のひとつだった。 誰が考えたのかは知らないが非常に語呂が悪い。 その上色々な要素がごちゃ混ぜになり過ぎている。 そう心の中では冷静に見ていても口にしてみたところで、クソ真面目なツッコミすんな、せやったらもっとおもろいの考えや、と却下されるのがわかりきっていたので、気にせず波に乗るのが得策だ。 さてその競技、走るレーンが部活ごとに決まっており、使用するハードルもただのハードルではない。 各部員達があの手この手を駆使して小細工、もとい場を盛り上げる為の涙ぐましい努力の下、飛び越えるかくぐるかはさておき、とりあえず通りがかった時に仕掛けや装飾を施すのである。 持ち運びにひと苦労するもの、細心の注意を払わなければドミノ倒しよろしくすべてが水泡に帰すであろうもの、もうハードルでも何でもないわボケと突っ込まれてもしようがないもの、個性をこれでもかというほど放ち様々な特色が濃く出たそれらを、指定された場所へ持っていくのが割り当てられた仕事だった。なんでも部ごとに入場する門が異なり、当日スムーズに進行できるよう専用のスペースで保持するらしい。 ドタバタという擬音がぴったりの雰囲気が漂うさ中、確認する間もなかったのだろう、私の手には余る重量級のハードルがあった。 とにかく重い。 重すぎる。 見かけは普通なのに、ひと度運べば一歩進むごとに圧し掛かる子泣きじじいのごとく。 改造でもしているんじゃなかろうか、だったらこれは既にハードルに似た何かではなかろうか、などと突っ込みつつ非常にのろいスピードでいたのが悪かったのかもしれない、ぼたりと脳天を刺す雫に硬直する。 元々皆が焦っていた理由がなにかというと、朝から晴れぬこの曇天。 一日中すっきりしないお天気です、折り畳み傘を持ち歩いたほうがいいでしょう。 お天気お姉さんの声がリフレインしたかと思えば、スニーカーの数センチ先、次にハードルを掴む指の上へ水滴が落ちていく。 乾いた地を濡らし、砂や埃にまみれた手の甲を洗う、大粒の雨だった。 うわうわアカン、降ってきよった、お前ら急ぎや、嫌やめっちゃ濡れるわこれ、あちらこちらから慌てふためいた声が上がり、それを合図に間隔を縮めた後続の水が降りかかってくる。 へそ曲がりの天気を恨む隙さえ与えられなかった私は、急げるものなら急ぎたい、誰にぶつけるでもなく心中で叫んだ。 せめて並の重さの荷物だったら、と仮定に逃げても意味はない、可能な限りの小走りをし、ずっとは持ち上げられていられないハードルを杖の要領で動かした。 少しばかり地面から離しては落とし、歩を進めたところで再び持つ。 がっしゃがっしゃと響く喧しさに、段々と雨粒のこちらを射抜くような音色が混ざる。 肌に当たる雫が痛い。 薄かった土の色が次々黒く染まっていった。 間違いなく豪雨コースだ。 天気予報士でも何でもないただの中学生の自分にさえ予測できる最悪の未来に焦りと恐れが生まれた。 指定された場所まで急ぐには筋力も時間も足りていない、止むまで雨宿りできるところを探さなくては、と辺りを見渡したけれども現在地は部室棟とグラウンドの中間、最も近い施設はテニスコートである。 絶望した。 制服でないのがせめてもの救いだ、濡れ鼠になるしかない。 しおらしく覚悟を決めかけた瞬間、体の横から飛び出る影を見た。 一秒経って気づく。 腕の形をしている、細くない、すんなりとのびやかで、けれども筋肉の軸が通っている。 無論私ではない。 包帯の白。 あっと声が転がり出るタイミングと、全身を引っ張る重力じみた荷が消えたのは、ほぼ同時だった。 急激に軽くなった右半身がバランスを失い、危うく転びそうになってしまう。 「走れ、!」 既に三歩は先にいる白石くんが、束になっていたハードルをちょうど半分に分け、片方を肩に担ぎもう片方を左手で抱えている。 え、なんで、待って、言うより早く、雨脚が一層強まった。 遠くの方で悲鳴が上がる。 私の返事を待たずして翻った背が所々濡れ染みを作っていて、いつもはきっちり整っている髪の毛も雫に溢れ重たげな様子だ。 そこまで視認し、後は言われるがままに駆け出す。 本気で走っているつもりの、加えて手ぶらである私より白石くんは数段速く、追いかけるだけで精いっぱいだった。 目蓋を打つ雨に前方を遮られつつ、ぬかるむ地面のおかげで足をとられつつ、やっとの思いでどんどんと濡れていく彼のシャツを目指してついていく。 目端に映るテニスコート近くの金網の群れを超え、グラウンド全体が見えるポイントも足早に流して、用具倉庫あたりまでようやっと辿り着く。 普段とは全く違う道筋だ、これもショートカットコースのひとつらしい。 と、手を傘にして雨の煙る視界を守りながら走っていたらば、先行していた白石くんが倉庫の扉にものすごい蹴りをお見舞いした。 ええ!? と、結構な大きさの声が出たのだが、雨音が凄まじすぎて発した私自身にもよく聞こえない。 必死に距離を縮める間にも、豪快にもう一発。靴底が離れるのと一緒に、閂状の形をした鍵になっていない鍵が跳ね転がった。 彼はそのままあげていた片足を隙間へ割り入れ、ハードルを担いでいないほうの肩で重たそうな扉をこじ開ける。 まともな天気であったのなら、さぞかし古めかしい開閉音が耳まで届いたに違いない。ここは普段使われていない、予備の倉庫なのだ。 遅れに遅れた私が駆け込む頃には、奥に荷を置いた白石くんが、ひと一人分通れるくらいだった扉をすっかり開け放ってくれていた。 勢いよく中に入ると、雨と元々低い倉庫内の気温のおかげで、少しだけ空気が冷たい。 日頃体を動かしている時でも、ここまで精神的にも肉体的にも追い詰められての全力疾走はなかなかない、両肩で荒い息をし、膝に遣った手で上半身を支えた。 「ご…っめ、しら、あ、あり」 「はいはい。わかっとるから、無理せんと落ち着きなさい」 絶え絶えの言葉でも理解を示してくれる白石くんがゆったりとした口調で宥めてくる。 あしらうようできちんと受け取り、かつ気遣いも忘れないとは恐れ入る、色んな意味で超人だ。 大体息がほんの少ししか上がっていない理由がわからない。 とてもじゃないけれど、あの重さのハードルを抱え、快速運行かという速度で駆けたばかりとは思えなかった。 ひいはあと聞き苦しい呼気音を無心に繰り返す私の横で、白石くんはジャージのポケットに引っ掛けていたスポーツタオルで雨雫に浸された髪を拭き始める。綺麗な顔立ちとはほど遠い、乱雑な仕草だった。 Tシャツの浸水については諦めているのだろう、大方の水気が頭から払われると襟足のあたりを申し訳程度に掻き遣り、首周りと肩を軽く覆う形でタオルを纏って倉庫の外を眺めている。 いくらかまともな鼓動を打てるようになってきた心臓と静まりつつある呼吸が、身動きするのを許してくれた。 背筋を正し、同じく私もハンドタオルで濡れた箇所を撫で拭く。 先程、脳裏をかすめた最悪の結末よりはずっと軽い被害で済んでいる。 流石に無傷とはいかなかったが、着替えを要するほど濡れなくて本当に良かった。 酸素を求める肺を落ち着かせる為でなく、安堵の深呼吸がこみ上げ全身が弛緩する。 「……ありがとう、白石くん。はあ驚いたわ」 「俺かてビックリや。なんであんな重いもん持ってたん。それも一人で」 軽々持ち上げているように見えたのでやや意外に思う。 ああ、やっぱり重かったのかあれは、今更己の置かれた状況に納得して妙なタイミングで頷いた。 訳など知るはずもない白石くんは私の反応を見、首を傾げている。濡れた前髪がしっとりとしてやわらかそうだ。 「ハードル…あ、なんちゃって仮装走で使うほうのな、あれ運ぶんが私に振られた仕事やったから。実行委員の人に場所聞いて部室棟前まで行ったら、置いてあって」 「誰もおらんかったんか」 「うん。せやから一人でやるもんなんや思て、持ってみたらもう大変やった」 「そらそうやろな。あんなん女の子一人で持つもんちゃうで」 顔つきは険しくないが、物言いに鋭さが潜んでいる。 なんとなくフォローしなければならない気がして、口を開いた。 「多分、委員の誰かはめっちゃ重いて知ってたんやと思う。けど今日はみんな忙しかったし、確認する暇なかったんとちゃうかな」 「朝から雨降る降るあんだけ言うてた上に実際曇りっ放しやねんから、準備始める前からわかりきってたことやろ。全体的に無駄が多い」 現場監督か何かかという指摘をする瞳が絞られ、整った眉からは普段の人当たりの良さが消え去っている。 ぴしゃりと言い切る様に、テニス部での白石くんを連想した。 物腰やわらかだけれどしめる所はしめる、頼れる部長なのだ。 「……白石部長、厳しいです」 「すぐハメ外す奴らが多い所為で厳しくならざるを得んのや」 こう見えても苦労人やねんで、軽くふざけた声色で付け加えられ思わず笑ってしまう。 白石くんをよく知っているだなんて嘘でも口にはできないけれど、人一倍背負い込み、孤独になってまで果たそうとしていることがあるのはちょっとだけどわかってるよ、とは言わなかった。 地面へ当たってしぶいた大きな雫が、霧に似たほの白い煙を作り出している。 足元から這い上がる水気の温度は、どちらかといえば秋というより冬に近い。 寒いと震えるレベルにまでいかないにしろ、びしょ濡れになっていたらまず間違いなく体調を崩していただろう。 雨と埃のにおいが鼻腔へ忍び込んでくる。 屋根を叩く轟音が吹く風の強さによってばらつき、大きくなったり小さくなったり不安定で喧しかった。 湿気て額に張りつく髪が邪魔くさくて除けていると、視線を寄越さず正面に見据えたままの白石くんがふと言い落とす。 「そんで、の担当は何部なん?」 「え? アメフト部」 質問の裏に何かあるのかと探る必要性もない、他意なく率直に答えると、あとわずか離れていたら聞こえない、決して快適とは言えぬ雨宿りのおかげで耳へと届いたのかもしれない、心の底から呆れたとでも言うような溜め息がこだました。 「アホみたいに重かった理由がわかったわ。いかにも脳筋共が考えそうなことやな、まったく。…手ぇ、痛めてないか?」 問いかける声音はひそやかに甘く、慈しみを湛えた眼差しだけが投げられる。 体ごと向き合っているわけではなかった、それが余計に眦の淡さを引き立てていた。 とても優しい弧を描くうすい目蓋のラインに一瞬喉元が詰まり、次いで肩の裏と背骨の中心、肩甲骨の下あたりがもどかしく張り詰める。 「う、ううん。あの……大丈夫」 両親だってあそこまで思い遣りの籠もった目をしない、誰からも与えられた経験のないあたたかさに唇が渇いてうまく回らない。 前半の言い草など一種の冷たさを感じるというのに、こちらへの投げかけはやたらと胸に響いた。 子供じみた仕草で首を横に振る私へ、穏やかな笑声。 激しい雨音に掻き消されて当然の大きさだったけれど、どうしてか鼓膜が揺さぶられる。 反響し、静かに後を引く余韻は、先程よりまた一段と冷えつつある空気へ溶けていく。 ふいに、横顔で綺麗に微笑むこの人から尋ねられた日を思い出した。 カレンダーの9月という表記にもだいぶ慣れてきた頃だ。 しんどくないか。 最初はなんのことだかわからず、疑問符と共に聞き返す以外の反応ができなかった。 遠慮がちに唇をゆるませた白石くんが丁寧にたしかめるよう呟く。 嫌でも思い出すやろ、俺の顔見ると。 話しかけても平気かどうか、たまに心配なんや。 その時生まれて初めて、言葉を失うという表現がしっくりくる気持ちを味わった。 悲しさのあまりだとか、驚いたあまりだとか、そういった類いのものが所以ではなく、もっと違うなにかを元とした、一秒に満たぬ感情の喪失だった。 次の一秒。 胸が締めつけられる。 握り潰されそうになっていた肺を懸命に膨らませる。けれどもなかなか声にならない。 ……白石くんのが私よりよっぽどよそに気ぃ回しとる。 やっとのことで転がしたまるで可愛げのないひと言は、簡潔ながらも見事な反撃にあい、無惨なまでに効力を失った。 はよそとちゃうやん。 後に当たり前だとつきかねない調子で口にするのだから、もうお手上げだ。 どれだけ人が好いのだろうか。 そしてこんな台詞を言われたらどれだけの女子がよろめくのか、わかって言っているのだろうか。 無自覚だろうと自覚があろうと、どちらにしたってタチが悪い。恐ろしすぎる。 私に言われる筋合いないかもしれへんけど、白石くんな、そんなあちこち心配してたらあかんと思う。 やんわりと曲がる双眸がまるい光を帯びて、可笑しそうに揺れている。 あちこち? あちこちやん。クラスん中とか、部活とか、あとはよう知らへんけど友達とか! 思いつく限り並べていけば、自分買い被りすぎやで、謙虚にもほどがある返しに封殺された。 こうして色んなところで親切心と慈愛を忘れないでいるのなら、とんでもなく罪深い男子もいたものである。 鷹揚に構えていてもけしてうんとは頷かない白石くんを胸中で罵る一方、私はほっとしていた。 彼との接点はひとえに馬鹿馬鹿しくもいっとう大事な個人的恋愛相談があったからで、失われては話す時間も途切れるものと覚悟していたのだ。 大体、事あるごとにあれこれ尋ね、あげくの果てに号泣かます女子と今後も関わっていこうとするひとはなかなかいない、やっと解放されたと疎遠になってもおかしくないだろう。 これ以上迷惑をかけたくないという気持ちも相まって、白石くんを頼るのはやめようと心掛け始めた矢先のことだったから、余計に胸が詰まって苦しい。 切っ掛けから今まで、普通とはちょっと違う過程を辿ってきた友達だけれど、変わらずに大事にしよう。 グラウンドで野球部を目にするとやっぱり辛い、姿を見かければ心臓が痛んで、元通りにメールなんてできる余裕もまだ持ち得ない、そんな中でも他の誰かを大切に思える自分がいたことにとても安心した。 気づかせてくれたのは白石くんだった。 だから以前とは異なる意味で、彼に感謝してもしきれない。 「……めっちゃ視線を感じんねんけど、俺おかしなこと言うた?」 いつの間にかこちらを見下ろす美しいかんばせが、どこか居心地悪そうな雰囲気を含んでいる。 捻られた首筋に濡れた髪が絡まり、拭き損ねたらしい水の粒がしとやかに肌を流れて、Tシャツの襟の部分へ吸い込まれていった。 やや下がり調子の眉は年相応に困惑している様子で、申し訳ない、思いつつも微笑ましい。 「ううん、言うてないよ」 そう長い時間眺めていたつもりはなかったのだが、所詮自分の体感でしかなく、不躾で失礼だったかな、と露骨に思われぬくらいの速さで目線を外す。 倉庫の外は雨。 気のせいでなければ、降り出しの頃と比べると些か弱まっている。 ぬかるんだ土が撓み、実に短期間で出現した大小様々の水たまりは濁った色で空を見上げてい、落ちてくる雫を受ける度水面に波紋を浮かばせた。 幾重にも震え、交わり、波打つ円が雨音と混ざってやまない。 頭上から響く籠もった音色と、開かれた扉を超えたすぐ先、直接伝わってくる丸々太った水滴の落下音は同じものが原因とはわかっていても、にわかには信じ難かった。 そうしてぼやけた景色を眺めながら、すぐそばに立つ人を思った。 笑っている時、切実な声、痛々しいものを労わる響き。 ふざけた声音の甘さ、転じて、心からひとを慮る一瞬。 厳しい部長の顔、静かに孤独を見つめていた放課後。 白石くんだとわかってはいても、つい疑ってしまうほどの揺らぎが少なからず存在していた日を辿り、この雨音のようだと捻りもなく喩えた。 「ちょっと心配やっただけ」 そこでひと呼吸置いて隣へ眼差しを遣ると、白石くんが私のほうに視線を預けていたので、隠す間もなくびっくりする。外を向いているであろうという見立てが、完全に覆されてしまったのだ。 変なタイミングで目が合った。 一寸、すべての音が消えた錯覚を抱く。 纏わりつく雨すら遠い。 彼の唇が動くより早く、照れ隠しの意味も込めて私は無理矢理笑顔をつくった。 「白石くんがあんまり優しいから」 ずっとそんな調子でおってほんまに大丈夫なん、無理せんといてね。 付け加えると同時に目蓋を開ける。 見上げた先の同級生は意外だとでも言うよう、目をしばたたかせていた。 「……俺が?」 ひと言きりの返しだった為、どれにまつわるものかがわからない。 優しいに対してなのか、心配という言葉になのか、それとも聖人じみた行いへの憂慮へ宛ててなのか。 わからないが、とりあえずどれでも合っていることは合っている、率直に頷いてみせると、白石くんは煩わしげに首後ろをさすってい言い置く。 「心配してもらえるんは有り難いけど、俺のは優しいゆうんと少し違う気がするわ」 じゃあ他にどんな称賛が正しいというのか。 己は優しいと評される域に達しておりません、まだまだ未熟者です、的な否定だとしたら本物の聖人君子である。拝んでおいたほうがいいレベルだ。 「またそんなん言うて。謙遜せんでも優しいのはほんまやねんから、どうもありがとーって受け取ったらええのに。べつに悪口とちゃうよ?」 お世話になったのが私でなくてもそう感じる、クラスの過半数は賛成する白石くん評だろう。特に女子なんかは勢い余ってヘッドバンキングになるくらい頷いてくれるに違いない。 しかし当の本人はなにか答えあぐね、ううん、と唸ったりしている。 傾いた鼻の頭が崩れかかっている前髪に隠されて、埋もれつつあった。 「まあ、せやなあ……優しく見えるもんか、実際」 「うん、見える」 誰に宛てたわけでもなく独り言に近い物言いだったが、無言でいるのもおかしな話だ、間髪入れずに肯定した。 「で、悪口やないと」 「うん」 「お人好しでつまらんヤツやけどとりあえず優しい言うとけば間違いないやろっちゅー意味でもない、と」 「な、ないよ! なにそのエグい深読みの仕方!?」 綺麗な顔と声から繰り出される言葉が予想外に過ぎて、不自然に力んだ返答になる。 しまった。逆に怪しい。 フォローに二言、三言続けようとし、けれどそれもそれで必死さが浮き彫りになるかもしれない、視線を右往左往させていれば、 「わかっとる。冗談や。は裏ある言い方する子ちゃうもんな」 耐えきれず噴き出したといった様子の白石くんが、朗らかに私を落ち着かせようとしてくる。 溜め息が転び出た。 一瞬で凝り固まっていた全身が、またも一瞬の内にほぐれていく。 「…もう、パンチあることいきなり言うのやめてや。心臓に悪い」 「ごめんなさい、気ぃつけます」 「ぜひそうしてください」 常と立ち位置が逆のやり取りを交わす。 この上ない悪ふざけなのに、ちっとも腹が立たないのだから不思議だ。 彼は笑声の最後で息を切ると、心持逸らしていた顔を据えて、やけに生真面目に問うてくる。 「とりあえずの、優しい、は褒め言葉なんやな?」 「とりあえず、はいらんけどね」 「……そか。ならええわ、悪いこっちゃないし」 どうもありがとう。 先程の私のひと言を組み込んだ、ある意味逆手にとっての発言だったけれど、ふざけた気配など感じられない、心からのお礼に聞こえた。 そっと嬉しさを滲ませた声はあまやかで、左右対称の瞳がゆるんでいる。 水気を含んだ所為で重たげなシャツが、かすかに吹き込む風に揺れた。 色合い乏しい中にあっても、灯る光彩。 照れているのか、耳の後ろの髪を掻く左手。 仕草のひとつひとつが、掠れる雨音に濡れて綺麗だった。 「あ」 私のものか彼のものか判別できないくらい見事重なった一声が、倉庫の低い天井に跳ね返される。 垂れ込めていた黒い雲のおかげで暗かった肌に、さっと光が差したのだ。 二人揃って外を見遣れば、手前から奥に伸びゆく景色を雨の壁が走り遠のいていくまさにその時だった。 晴れたそばから太陽の明かりが降り注ぎ、無数の水たまりに反射して視界の下側が眩しい。耳について離れなかった雨粒の音も同時に失せていく。残ったのは、屋根や雨どいを伝うわずかな流水音のみだった。 一歩踏み出す。 洗い浚われた空気は清涼に胸を満たし、あまねく地を照らす日をいっそう強調させ、慣れた敷地内の色も輝いて見えた。 錆びた金属製の敷居を跨ぐと、遠くのほうで突然の快晴に盛り上がる声が鼓膜を震わせる。 首から上だけで振り返って、背後ろに立つ人へ話しかけた。 「上がったね」 「せやな。降り出しも急やったけど、なんや止むのも早かったな」 いらちな雨雲さんや、ちいさな子供に言い聞かせるような口調と共に肩を竦めて、出入り口付近ではたと留まる。 準備を再開する生徒の声と声があちらこちらで響くさ中、白石くんだけが唇を引き結んで黙りこくっていた。 不思議に思い問おうとしたところで、突っ込む隙も暇もない素早さで扉の裏へ身を隠すのだから、間抜けにも口が開いてしまう。 「え、なに…どないしたん?」 遂にはタオルを頭の天辺から被り座り込む様を見、慌てて駆け寄ると音もなく、しぃー、の形に唇が変化した。左の人差し指がまっすぐに立ち上がっている。 わけがわからない。 真意をたしかめんと同じくしゃがみ込んだ、数秒後。 「あーもお、完っ全見失ってもうた! ほんまムカつくし! 何勝手に降ってんねん雨のアホ!」 「どっち行ったんかなあ、白石君。テニス部…にはおらんよね、全員明日の準備中やったし。校舎ん中かな?」 「わかれへん。その辺の子ぉ捕まえて、外にいたかどうか聞いてみよ。うちら最後のアホ武道会やのに、逃したら悔やんでも悔やみきれへんもん!」 ぶ厚い壁の向こう側で、わいわいと跳ねる女の子数人の声が忙しなく通り過ぎていくのを耳と目で追い、やがて眼前で項垂れるひとにそれらを移す。 長い無言の時間が続いた。 山びこほど彼方で鳴っているかのようなざわめきだけが、倉庫の中を行き来している。 「…………モテる男はつらいよ?」 「モテてへんわ。珍獣扱いされとるだけやであんなもん」 間延びした空気に精一杯の笑いの種を投下してみるも、すげない返事に退けられてしまった。 最後という単語から察するに今のは三年の先輩たちなのだろう、同学年に留まらぬ人気加減を目の当たりにしては、流石の白石くんの否定だってすんなり受け入れるわけにはいかない。 感嘆の息が漏れる。 「なんか……すごいんやね、白石くん」 単純に褒め称えるつもりで口にしたのだが、俯いた彼にはそう取られなかったようで、何がすごいんや、と低く落ち窪んだ声に軽く拒絶された。 タオルに覆われた表情がちらとも見えぬ代わりに、目蓋の裏で蘇るのは茜色に染まる手前の教室だ。 私なんかを羨ましいとこぼした、いつかのひと時。 有り余るほどの好意と比例していかない自らの感情。 向けられるばかりの孤独。 贅沢だと詰りたくなったのも事実だ。好きなひとから欲しい言葉を貰えなかった側としては、浅ましいと理解していながら妬む気持ちを抑えられない。 でも、ここにいるのは白石くんだった。 秘密にすると約束を守り、厭わず話を聞き、巻き込まれただけだというに慰めてくれ、いつの日も優しかった、けれど誰かに打ち明けられぬ重たさをも抱えている、大事な友達だった。 「…私、先行って見てくる。白石くんのこと探してそうな女子がおったら、避けて通れそうなとこも見つけとく」 ついこの間まで好きなひとを追いかけていたから、彼を想う子の気持ちもよくわかって良心が痛んだけれど、背に腹は変えられない。 心の中でごめんなさいと謝り倒し、立ち上がる。 この際自分の考えは後回しだ、白石くんが嫌だと言うなら原因を取り除く手伝いをしよう。 せめてもの恩返しとは言いやしないが、力になれるものならなってあげたかった。 「待った。にそこまでさせるわけにはいかん」 踵を数センチ後退させ駆け出そうとした寸前、思った以上に鋭く言い捨てる声音に押し留められる。 立たれるとうすい影が私の周囲を包む。 白石くんの身長は、夏前と比べて格段に高くなっているのだ。 「そこまでて、そんな大したことや……」 「よそに気ぃ回すな言うたやんか」 食い気味に被せられて、頭に血が上る。 耳の横に垂れたタオルの所為で相も変わらず顔色が窺えず、読めない真意に苛立ったというのも理由のひとつに含まれるだろう。 「なんでそんな言い方するん。白石くんが私のことよそちゃう言うなら、私かて白石くんはよそやないて言うよ!」 語尾がうわんと丸まって辺りに響き渡り、その余韻の所為であっという間に熱が冷めた。 アホだ。 こんなところで激昂してどうする。 頬に集中していた血だまりが霧散し、跡形もなく引いていくのが自分でもわかった。 我に返り謝罪の言葉をどうするべきか選び始め、 「……うん、すまん。今のはあかんかった。がなんて返してくるかわかっててん」 しかし苦笑によって行き場を失う。 包帯を着せられた左腕が後頭部へ進み、かき乱す形でタオルを取り払った。 当然崩れる幾筋もの髪の束の奥で、ふたつとない両の目がしっとりと細められて、綻んだ頬はたおやか且つやわらかく映える。 困り果てているようで、どこか嬉しそうな、でも自嘲の含まれた、ひとつに絞れず上手に喩えられない、ない交ぜになった表情だった。 「わざと言わせた俺がずるい。堪忍な」 いまだ乾かない前髪をよけ、静かに目線を外す。 伏せられた睫毛の長さに落ち着かなくなって、私も鼻先を床へと向けた。 だって白石くんが、悪いことをして露見した時の子供みたいな顔をする理由なんてないと思うのに、どうしたってそんな風にしか見えない。 いつでも正しく、不安に揺れる私を導いてきた彼の、頼りなげな声を初めて聞いた。 胸の底であやふやな動揺が騒ぎ、惑う足が後ずさりしたところで唐突に降ったのは、切り替えられた様子の問いかけだ。 よし、引きずるのやめ、今ので終いや、アレどこまで持ってけばええんかな。 焦点の下がった視界を横切るTシャツ。濡れ染みはずいぶん薄くなっている。 はっと気がついて追えば、後方に置いてあるハードルを掴む背中が在った。 「え! ま、待って白石くん、ええよそんなん私自分で持ってく」 早口で詰め寄り、まだ持ち上げられていないほうの半分を握って押し留める。 「そう言うけどなぁ、これ一人で運ぶてかなり骨やで」 「そやかて、全部白石くんに持って貰たら、私ただのサボリになってまう」 もう一方をいとも簡単に担ぎ平然と佇む姿が有り難いやら眩しいやらで忙しい。 大体白石くんは白石くんで準備あるんやないの、聞けば、俺はグラウンド整備やねん、ぐっちゃぐちゃの状態やろ今、明日の朝持越しになるんちゃう、道理に従った応答をされて二の句を継げずに黙るほかなかった。 だからといってはいじゃあよろしくと寄りかかれる性格でもない、なんと言って掌中の厄介な仕事を引き受けるか懸命に考える。 「…わかった。なら、半分こしよ」 アイスやお菓子を平等に分配でもするつもりか、とツッコミを入れたくなる、軽やかで可愛らしい口調だ。 話の腰、いや思考の腰を折られた気分に陥って、すぐには返事が浮かんでこない。 彼はその間にも、自分の分はこれ、反論は受け付けておりません、言わんばかりにさっさと持っていってしまう。しかも、半分などと嘘ばかりでちゃっかり多めに抱え込んでいる。 「あっ、もう、ちょっと待ってや!」 死ぬほど重くぶら下がるハードルを手に、一歩ごと遠ざかるその背を目指して倉庫から飛び出、思い切りうろたえた。 白石くんは長い足でまともな道を選び取り明るい日差しの下にいたが、庇を超えずにいられる私はというと、迷うだけで彼のよう颯爽と歩めない。 そこら中に嵐めいた雨の爪痕が蔓延っており、泥と水と誰かの足跡とが混ざりに混ざって、大変な状態と化している。 まかり間違って泥濘地へ足を下ろせば最後だ、悲鳴なしには迎えられぬ結末が待っていることだろう、ゆえに慎重を極めねばならず、また手の内にあるハードルについても配慮しなければならない。 なんの障害物競走やねん。 呆然と立ち尽くしたまま、胸中でぼやくと余計虚しい。 つま先をじりじりと前進させたり後退させたりしていたらば、踵を返した白石くんが私へ向かい歩いてきた。 「そこな、から見て右側にでっかい水たまりあるやろ、それともうちょい手前のぐちゃっとなってるとこ、その間ならまだなんとか通れるで」 重量自体に変化はないはずだけれど彼のだけ軽いのではないかと思ってしまう、無理のない一挙で右肩へハードルを担ぎ直し、わかりやすく的確な指示をくれる。 「わ、わかった。ありが……っと、う」 なるべく忠実に守ろうとし、少々進んだ途端、ぬかるみに足を取られかけて声が浮いた。我ながらちっとも格好がつかない。 すると白石くんが自身のスニーカー一足分距離を詰め、ごく自然な動作で左手を差し出す。 目が点になるとはまさしくこのことだ。 「はい。早よ手ぇ貸しや」 どうにもそういう展開らしい。 何から何まで甘え、泣き腫らした顔も目撃されている私だが、手を握って貰うとなると話が違ってくる。恥ずかしくないわけがなかった。 ほんの数秒、けれども恐ろしく真剣に思い悩み、刻まれた眉間の皺がどんな状況になっているか等々の配慮も放棄し決意する。 白石くんは厚意で申し出てくれている、誰かに、特に女子には見つかりたくないだろう、一刻も早く退避したいに違いない。 いくら力持ちだからといってハードルも長々と担げば重いし、肩に悪影響がないとも言い切れない、全国レベルのテニス選手なのだ、可能な限り手短に済ませるのが最大級の貢献だと思う。思うことにする。したい。 ぐだぐだと引きずる思考を切り捨てて、手を伸ばした。 ごめん、私いっつも迷惑かけとる。 笑う声。 ええから足元に集中しなさい。 指が触れる。 雨に降られたハードルを掴んでいたからか、かすかに濡れた感触がした。 包帯も湿り気を帯びている。 手首を掴まれたことだってあるのだから、とっくに大きさなんて知っているはずなのに、やけに広い掌だと感じ取る。 ぐっと握り込まれて、心臓が竦んだ。 「右足で思いっきり踏み込んで、左足はまだ置いとき」 言われるがまま下半身を動かし、一歩。 思わず顔を顰めてしまう、嫌な感覚が足裏に走る。 見届けた白石くんが地面を一足飛びするのではないかと考えるくらいの力強さで、体ごと私を引き寄せた。 巻き起こった微風が頬をやわらかく切っていく。 右足を軸にし危険地帯を乗り越えたおかげで左足は無傷、比較的固い部分に降り立つことが叶った。ややあって着地したその軸足も、軽度の汚れにしか侵食されていない。 安堵の息を吐いて、からになった肺の求めに応じて酸素を吸う。 と、常ならぬ体勢にぎくりと全身が硬直した。 一箇所に集中していた神経が散った所為で、気づいてしまう。 ――近い。 自覚するや否や、あたたかな体温と一緒にかすかな整髪料のそれが薫り立つ。 遅れて、雨のにおい。 お互いに曲げた肘が表皮を掠める程度の、淡い触れ方をしている。 こんなにそばで男の子の香りを意識した経験などなかった。 片想いをしていた彼でさえ、精々数十センチがいいところだったのだ。 末端までの血管が泡立ち、内包していた熱を顕にし始める。 顔を覆う羞恥へ考え至ったと同時、ぞっとしない現実に背筋が凍った。 私が白石くんの香りに気づくのなら、逆もまた然り。 やばい変なにおいしてたらどうしよ自分じゃわかれへんけど汗くさ思われてたら立ち直れない。 尋常ならざる速度で回転する声なき声と思考が、同じ場所でぐるぐるとうろついて消えてくれず、早く離れるべきだと判じていても動けなかった。 「よくできました、ってな。どや、大して汚れんかったやろ?」 誇らしげな声がすぐそばでしたかと思えば、まるで初めからなかったことみたいに薄れて遠のいていく。 鼓動を締めつけ鳴らした原因たる香りや体温も同様だ。 儚く失せ、名残さえ置いていかない。 緊張から解放され脱力するあまり、うん、としか答えが出てこなかった。 だから、繋がれ引かれたままの腕にも違和感を覚えなかった。 気を抜けば滑って泥まみれになりそうな土を踏みしだき、頼れる案内に従いゆるく進んでいって、再びぬかるみとかいう表現では済まない地点に差し掛かる。 ハードルはずっしりと重い。 握られた手が熱かった。 微笑む白石くんの輪郭へ、光の色をした線がほのかに宿っている。 今のもっかいやらなあかんな、にべもなく告げられて、肩にかかる重荷が益々食い込む心地だ。 「初めの一歩が肝心で、そこ超えればなんの問題もない。せやからはもう大丈夫や。俺が保証したる」 たかだか水たまりを前に峠越えをしなければならない境地に陥った、情けない私の鼓膜を撫でる、優しいひとの優しい声がした。 重なる指の間にちいさな脈動が灯り、ほんのわずか打ち響いている。 肌を通し、肉の内へ潜って、骨まで達しかねない深いところで、ふたり分。 不思議と心強かった。 さっきとやることはほとんど変わらん、ただ転ばんよう気ぃつけるんやで。 肘から先が持ち上げられて、ゆるやかに伸びていく。 距離は開いても、結ばれた掌が明確な体温を伝えてくるおかげで、離れている気がしない。いくら足元が不安定だろうが、大丈夫だと信じることができた。 ありがとう。 言葉にする代わりに指先へと力を籠めれば、同じだけ包み返してくる。 激励されているのだ、どうしてかほとんど確信的にそう感じた。 白石くんの唇が笑んでいる。 再度的確な指示がくだり、水たまりに映る青々とした空を見つめながら、辿るべき箇所をたしかめていく。 この難所を越えたら、先んずる白石くんへ濡れ散らばった髪をそのまま放っておかぬよう、ひとつ余計な世話を焼いてみる、心に決めて汚泥の中へと踏み入った。 ← × → |