04 どうも行事ごとに縁があるらしい。 二度目は在校生の私ですら圧倒される、賑々しい藤吉郎祭の日だった。 「、そっちのカゴ貸して」 ひと声かけておきながら、返答より先に大きなペットボトルが何本か入ったものをぱぱっと奪っていった。白石くんは時々せっかちというか強引というか、指示を出す側の人間なのだなあと感じる。 でも不快ではない。 人徳なる単語が当てはまるひとを初めて見たかも、とつい心配になってしまう。 「平気? 重ない?」 菓子類の居並ぶ棚を背にした彼が、ゆるゆると首を振って微笑んだ。 発端は一日目も公開時間を過ぎ、軽く後片付けをしていた時まで遡る。 何かにつけて騒ぎたい年頃なのかはたまた四天宝寺中の校風なのか、まだ二日目を残しているにも関わらず、無事初日を乗り越えた記念にプチ打ち上げやろうや、真面目人間かと思われたクラス委員長が言い出し、ほんなら必要なもん買うてこい、と担任の先生が乗っかって買い出し係を決めるじゃんけん大会が始まったのだ。 室内にいた生徒全員参加のそれは熾烈を極め、初回で強運の持ち主が一人二人抜けて以来勝つ者が出てこず、数名に絞れる段階に入るまでそこそこの時間を要した。皆じゃんけんが弱く、勝負運がなかったようだ。 中でも最後まで残った私などは運の悪さではトップクラスといえるだろう。 つまり、負け続けました。 同じく勝ち抜けられないで先生から任命された水野くんは皮肉なことに文化祭の実行委員で、こないなとこでも働かなアカンのかい、と思い切り不満を口にし、そんだけ大声出せるんなら疲れてへんやろいってこい、無慈悲な指令に目頭を押さえていた。 しょげる背をそれとなく慰めながら、先生のポケットマネーを手に教室を出る。 下校時間まで間があるとはいえそう遠方にまでは行けない、ならばどこの店に向かうのがいいのか、細かいけれど大事な議論を開始し歩いていた時、所属している部の方へ顔を出しに行っていた幾人かと鉢合わせになった。 白石くんはその内の一人だった。 ツイていない私と水野くんで手短に経緯を説明し、今から買い出しに行くところだと言い終えたところで、なら俺らもじゃんけんしようや、バレー部のエースアタッカーである子が男前な提案をしたところに、せやな、このまま任せてしもたらフェアやないし、と白石くんの賛成意見が重なったのだ、反対する者もおらずそういう流れと相成った。 かくして選出されたのが私たちなのである。 またしても早々に、というか一番はじめに負けた私は本格的に運がない。 しかし何かにつけて強いというイメージのあった白石くんが勝てなかったのは意外だった。 左手で作ったチョキを掲げ、負けたわめずらし、と呟く隣で勝者のはずの女子が残念そうに眺めてい、送り出される時なんかは背中に無言で語りかけてくる視線を感じたものだ。 ええなぁ。 目は口ほどに物を言うというけれどまったくその通りで、あれは間違いなく私への羨望だった。いよいよ四天女子キラーの異名をつけられてもおかしくはないモテ加減だと思うけれど実際話題にすれば、だからモテてへんて、いつかと似た答えが返ってくることは明白だったので黙っておく。 言わぬが花、沈黙は金。 「飲み物はこんくらいでええかな?」 「んー、まあほんまの打ち上げちゃうねんから、そこまで豪勢にせんでもええやろ」 「ならええと…お菓子まだ足りひん?」 「どいつもこいつも育ち盛りでよう食うしなぁ。こっちのお徳用サイズもうちょい足したらちょうどかもな」 カゴを床に置き屈んだ白石くんが、陳列棚の一番下に並んだ商品を三つ四つ入れていった。 この大きさのポテトチップスが販売されているのは知っていても、実際購入したことはない。誰かが買っている場面も見た覚えがない。それくらい私には縁遠かった。 パッケージのカロリー数を一瞬リアルに想像し恐ろしくなるけれど、クラスのみんなで食するものなのだからいちいち怯えていても仕方がないだろう、忍び寄る体重増加の四文字を脳内から振り落として値札と予算の確認をする。 コンビニよりも安価で購入できる代わりに学校から少し歩くスーパーの店内には、軽快なBGMが流れている。 貰たからには釣り出んくらいぴったり使いきったろ。 膝と膝を突き合わせる近さで、白石くんが悪ふざけのほうへ傾いた声をこぼした。 へんなとこで才能発揮せんといてね。 つられてほぐれる頬を動かし伝えれば、なんでや、やるからにはパーフェクト目指すで、本気なんだか冗談なんだか読めない答えが返って来、独りでに唇が弾む。 日常と非日常の境が曖昧になった高揚感が意味もなく楽しい。 沸き立つ感情はまるきり陽性で、暗い影の一片もなかった。 などと浸っている間にも彼は彼なりの計算を終えたのだろう、素早く、けれどがさつな音は立てずに膝と背筋を伸ばしカゴを持ち上げた。 慌てて動作を真似る自分のほうが、よほどがさつでおまけに品がない。親に置いていかれまいとする子供みたいだ。私、腐っても女子なのに。 悲しい現実に追い打ちをかける違いも知ってか知らずか、器用に片方の口角のみを上げる白石くんはいたずらっ子の瞳で言い落とす。 「レジでよう見とき。無駄のない金額になるはずやで」 はたして宣言通り、会計画面に照らし出された数字は1円単位で予算の上限に迫るものだった。 どんだけ買い物上手の主婦やねんというツッコミよりも驚きが勝り、えっウソやん、と大声をあげてしまった私はレジを打っていた店員さんに怪訝な顔をされた。 ちなみに原因である白石くんはといえば、こちらの面白反応に堪えきれなかったのか肩を揺らして笑っている。 笑いごとじゃない。 恨めしげに睨んでみても、余計微笑みが深まるだけだ。 会計を終え、領収書を受け取り、品物を袋に詰める。 店の自動ドアをくぐって外に出ると、真冬並ではないにしろ冷えた空気が差しこんできた。 片付けをしていた所為で体は温まっていたし、遠出するわけではないのだからとセーターしか羽織ってこなかったのは判断ミスだ。普通に寒い。 が、私より余分に荷物を下げたひとが横に並ぶといくらかやわらいだので、唇の端から転がるはずだった言葉が戸惑いを見せた。 この完璧超人は一体なんなんだ。 Mr.パーフェクトと誉れ高き通り名が浸透し始めていても、決して驕らずに突き詰めて、これ以上なにを求めるというのか。どこまでモテ道を驀進するつもりだ。 返却するカゴはまとめて持っていってくれた。 なにも言わずに重いほうを抱え、歩く時は車道側。 歩幅など測った素振りもないくせしてちょうどよい。 急激にはっ倒したくなってきた。 こんなにも素晴らしく紳士的な応対をこなすひとがなんと言ったのだ、よりにもよって私を羨ましいとこぼさなかったか。 まっすぐに誰かを想い想われるのは尊いことだと言わんばかりの口調で、問題は俺なんや、大事なことのよう洩らさなかったか。 そらそうや、問題も問題大問題や。 ぼやいても虚しくなるばかり。 白石くんのこの優しさにどれほどの女の子が心を持っていかれ、涙してきたか計り知れない。 なにかの間違いが起きたらローカルアイドルとしてデビューしかねないのではと真剣に案じる。 聖書と呼ばれているのに、罪深い。 彼が悪いわけではないとわかっていても、つい意地の悪い物言いをしてしまいそうになる自らを抑えながら、深まる秋の寒さと慣れないシチュエーションに引き結ばれていた唇をほどいた。 「……白石くんな……なんて言うたらええんかなあ。…うん、大丈夫?」 「なんや、またいきなりやなぁ」 伸びやかな語尾が柔い。 続けて、これのことなら心配いらんで、俺鍛えてるから、ガサガサ鳴るビニール袋を少し掲げて心遣いに満ちた否定をする。 「そや、それも前から思うててん! 白石くんぱっと見の印象よりずっと力持ちなんやね」 「おいおい今更かい。ん中でどんな男になってんねや、俺は」 やや尻上がりになった声の私に、白石くんが呆れ半分に肩を竦めた。 なにせはじまりが親切な級友だった、テニス部部長という情報はあっても、普段の穏やかな様相となかなか結びつかなかったのである。 例えるとすると、手先が器用と告げられれば納得するが、握力が学年トップレベルに入ると知らされたら意外、といったところだろうか。 強豪運動部のレギュラーに対する言葉ではない、舐めてんのかと叱られたとて仕方のない感想だとは思うが、おそらく四天宝寺の女子のほとんどは似た考えだと思う。 はたと思考の歩みが止まった。 ――そうか。これが原因のひとつだ。 真実とかけ離れた印象。 食い違う。 一人きり。 けれど彼は絶対に異を唱えない。周囲と差異が生じても、皆と違うからというだけで目指している場所を諦めるようなひとじゃない。 だから、問題は彼ではなく周りのほうなのだ。 許容する側にこそ足りないものがある、さっきまでの私がいい例だ。 勝手に卑屈になって、一方的に悪態をつき、本当はどんな気持ちでいるのか考えもしないでイメージを押し付けた。 とんでもなくお世話になっておきながら、なんて恩知らずな真似をしてしまったのだろう。 心苦しさのあまり本当に痛み出した胸へ冷めた空気を送り込み、懸命に次の言葉を浮かべては沈め、吟味する。 「…あんね、もしこんなん聞かれるのイヤやったらすぐ言ってほしいんやけど」 「うん?」 静かに促されて喉が鳴った。 頬を掠めていく風はわずか痛い。 そばを通り抜けていく車のエンジン音がだんだんと遠ざかっていき、漂う排気ガスのにおいが晩秋の空へと溶け消える。 「ほら、あの…白石くん前言うたん覚えてる? 私が羨ましいて。想って想われんのがええなーって。けど結局、私……」 ダメだった。 どんなに気持ちを籠めても、応援してもらっても、伝えることさえ叶わず終わった恋だった。 「せやから、白石くんが変に気にしてんちゃうかな思て。ほんま自惚れとるみたいで恥ずかしいんやけど……。私は私で白石くんは白石くんやし、一生懸命だれかを好きになっても報われないわけとちゃうていうか、所詮世の中そんなもんなんやってなってほしくないていうか!」 なにを伝えたかったのか、わけがわからなくなってきた。 そもそも話の軸がずれてきている気がする。 口腔内で酸素が空回って、喉まで全部が渇いていき、舌もうまく動かせない。 「えっと…で、ええとな、そういう意味も含めての大丈夫なんっていうか。けどそれだけやなくて、色んな意味で心配っていうか……」 まるで要領を得ない、進むにつれてしどろもどろになっていく単語と単語の狭間で、何度か聞いた台詞がじんわり響いた。 アホやな。 胸の奥底にまで優しく届く。 「何責任感じとんねん。変に気にしてんのはのほうやろ」 滲んだ眦が目に甘く、学ランの襟近くで曲がる顎のラインはやわらかそうだ。 女の子のそれよりずっとしっかりした作りだというに、何故だか優しく映えている。 「……ごめん。また余計なとこに気回して」 「そういうごめんは受け取らん。謝る必要ないやんか」 綺麗さっぱり断じられては頷くしかない。 うん、こぼせば、そんで他は、と問うてきた。 勢いよく上げた顔を、重いはずの荷を相も変わらず平然とぶら下げた隣人へ向ける。 夏の盛りに比べうんと弱まった、けれども温もりを孕む日差しの中で、音もなく微笑む影が在った。 夕方と呼べる時刻に差し掛かっている所為で傾ぐ光は淡い。 お祭り騒ぎの後だから、尚のこと体に染みた。 「色んな意味で?」 「えっ…あ、うん」 まごついていたところに取っ掛かりを与えて貰い、再び脳を回転させるさ中、単なる言葉の綾として受け取られたとておかしくなかったものを丁寧に聞き澄ましているあたり白石くんは完璧だ、声に出さぬまま呟く。 「これも余計なとこなんやけど……ええなって思える子できたんかなあて意味と、あとは、そやね…そない優しいまんまで大丈夫? って意味?」 「おーい、最後あやふややったで」 「いやほんまお節介オバチャン並のこと言うてる自覚あるから…」 両肩をゆるませ、随分と控えめに突っ込む声音が鼓膜に触れている。 少々大きい交差点に出、ちょうどのタイミングで信号機が赤に変わったので、横断歩道前で立ち止まった。 ゆっくり発進していく車の数々に白石くんの余韻が掻き消されてしまい、時々アルファ波的なものが出ているのでは、と思うくらい馴染む声だから勿体ない気がした。 「けど一個目のは解決したで。白石くんが平気なら関係ない話やもん。私のせい…言うたらおかしいか、えーと……近いとこで思いっきりこけたとこ見て、ああなりたないわーてなったらどうしよ思うてただけ」 「…、クソ真面目すぎるわ」 「そうかなあ? 自意識過剰ちゃうん自分くらいのツッコミはもらう覚悟あったんやけど」 「ほんま気ぃ遣いや」 「白石くんのが合うてるよ、それ」 「どうかな。俺はちょっと話聞いて貰たからて、ずーっと恩義感じるタイプちゃうし」 道路の信号が青から黄色へ、黄色から赤へと移り変わる。 間を置かずして、歩行者用のそれが青く灯った。 一拍速く踏み出したのは白石くんで、つられた形で後を追うのが私だ。 「ちょ、ちょっとやないよ。めっちゃお世話になったよ」 「それが真面目や言うてんねん」 白縞を渡り終えて、学校のある方向へと角を曲がる。 「そんなん言うたら白石くんこそ人の話ちゃんと聞いてて真面目やし、いっつも優しいよ!」 弾みで妙な勢いがついてあまり熟考せず言葉を転がすと、罵りに近い物言いのくせして中身は褒め称えているという、何がしたいのがまったく不明の状況へ陥った。 自分でもおかしなことを口走っているのはわかっていた為、続きが紡げない。 コンクリートを踏み込む靴音も、ビニール袋の擦れる音も、こちらの発言が終わると同時に絶えている。 驚いたのか呆れたのか、歩みを止めた白石くんの顔をまともに見ることができなかった。 噛みつく場面でもなんでもないのに、恥ずかしい。 永遠に続くかと思うほど長い沈黙が、いよいよ肩に食い込んで首から上を俯かせていく。 喉元で呼吸のかたまりを詰まらせていたその時、あたりの空気がやんわりとなびいた。 つい、といった調子でこぼれた笑声。 「なんで俺のことで俺よりムキになる。おもろいやっちゃ」 足音と重い荷物が袋の内でがたつく音が再び鳴り出し、恐る恐る視線を上向かせた先には、数歩向こうを行く学ランが見える。降る日の光を浴びたおかげで、あたかも黒々と濡れているようだった。 電柱柱、うすい汚れの張り付いた壁、天辺の曲がった標識、居並ぶ日常風景の真っただ中にあって、彼の背中はこう言ってはなんだけれどとても浮いている。 四天宝寺中の男子生徒ならば皆同じ制服に袖を通しているのに、どこかが特別なのだ。纏うオーラの違いというやつかもしれない。 中身も立派でその上美しい顔立ちをしているひとは、後ろ姿までもが抜きん出ているのか。 埒もない思考を巡らせながら小走りで隣に追いつくと、けどそれがあかんねやろ、ぽつりと落ちる声がある。 一寸、なんのことだか思い当らず、小首を傾げてしまう。 彼と私の両端でわめくビニールがガサガサと騒がしい。 「なんせ優しいまんまで大丈夫かて心配されとるしな」 そんな私の反応を見、軽く苦笑するひとの目蓋が淡い。 「た、たしかにそう言うたけど単に心配なだけで、あかんことはない。ないで、うん」 想像もしなかった物寂しい響きに焦りが生まれたが、何の足しにもならぬ無難なフォローしか出てこず、己の不甲斐なさに落ち込んだ。 白石くんには助けてもらいっ放しだというのに、この体たらくときたら情けないにも程がある。あと少しでいいから、まともな励ましを送れないものだろうか。 頭の中で呻りつつ、そうか、と答えたきり黙り込む友人へ必死にあれやこれやと付け加える。 「あ…あの、ほんまに悪口ちゃうよ? ていうかむしろ褒めてるし、優しいからこそ余計に心配いうか、長所がずばーんと飛び出とって平気なんかなぁて気になる感じ?」 やわらかな声色も、最後まで責任を持つ姿勢も、たとえば自分とは関係のないことで大泣きされたとて見放さずに付き合う慈愛の心も、彼を取り巻く数多の優しさの一端にしか過ぎない。 白石蔵ノ介というひとは聖書なる通り名が示すよう、懐深く人道に則り振る舞う、中学生離れした精神の持ち主なのだ。 もはや感心などの言葉では追いつかない、尊敬に値すると言っても過言ではないだろう。 けれど、秋からこちら必要以上に踏み入ったお節介根性を発揮しがちな私は、そうして聖人じみたひとが恋に落ちた時の心配をしてしまう。 白石くんはできたひとだ。 それはもう立派なひとだ。 他を気遣い、部長という荷の重い役割もこなし、かといって真面目一辺倒にはならずこちらを和ませることだってしてくれる、一緒にいるだけであたたかみのある人柄なのだとすぐにわかる、本人が嫌がろうと何だろうと女子からの声援を浴びてもやむなし、逆ナンすら詮方ない、かっこいい男の子なのだ。 だからこそきっと、好きな子に信じてもらえない。 分け隔てなく優しいに違いない彼の長所が、自分ひとりにだけ向けられているだなんて、あっさり信じられる女の子は四天宝寺に存在していないんじゃないかとさえ思う。 多分、おそらく、いやわりと確信を持って言い切ることが叶う。 成就までに時間を要するだろうと。 恋愛経験値が豊富などと口が裂けても言えぬ私なんぞがしても良い予想ではないが、どうしても後ろ向きな思案へと脳内が傾くのだった。 白石くんがだれかを好きになったらすごく誠実に想うに決まっている、それでもいい所が多い所為で、長所が長所すぎるという彼自身に悪癖があるわけでもなく、ないからこそ屈折した道を歩まねばならぬのか、考えてみると第三者でしかない私の胸も苦しげにあえぐ。 同じ結末を迎えてほしくない、という失恋の痛手と、今まで散々お世話になった相手の力になりたいという気持ちがゆえんなのかもわからない。 冷静になれば、そんな心配は本当にそういう状況に陥ってからしろ、セルフツッコミがむなしく反響するのだけれど、何故だか捨て切れなかった。 「……わざとはっきし言うわ、気ぃ悪くせんといてね。白石くんクラスメイトにも友達にも優しいやん。せやからこう……いざ好きな子ができた時、白石くん的にはほかの子とちゃう接し方してるつもりでも、その子はそう受け取れへんかもて」 ああ、本当に余計な世話だ。 必要のない、踏み込むべきでない場所まで割って入った、ひどい言葉だ。 でもこのひとが傷つくかもしれない未来は避けたい。 どうしても、心を痛めてほしくない。 叶わない想いに打ちのめされる絶望を味わってほしくないのだ。 拒否される可能性を承知の上で話していても、訳知れぬ罪悪感といくら何でも鬱陶しいと遠ざけられたもしもの時を想像するおかげで、肺が掴まれたみたいに動かなくなる。息苦しくてたまらない。 「けどべつに優しいのが悪い言うんとは違くて、ええと……ええとな」 伝わる声を探している間にも、景色はどんどんと移り変わっていく。 最寄のコンビニを通り過ぎ、文化祭のチラシが貼られた町内掲示板も遠のいた。 十数分前離れた騒がしさが風に乗って近づいてきている、かすかな気配だけれど、焦燥に駆られるには充分だ。もう間もなく学校へ辿り着いてしまうだろう。 上手いこと浮かんではこない感情を手繰る指先が、焦り滑った。 すぐ横を行く彼の表情を窺う余裕はない。 「あっ、特別、一番優しくすればええと思う! 好きな子にだけ!」 さも名案だとばかりに口にし、言い終えてから恥じ入ったのは、当てはまる言葉が見つかった嬉しさに思わず顔を上げ、きょとんと丸まった揃いの目と鉢合わせになったからだ。 ものすごい速度で我に返った。 上手くもない、ごくごく当たり前の提案に過ぎない。大体、好きだったひとを特別扱いできず、いっとう優しく接したわけでもない私が言えることではなかった。 恥の上塗り、アホ丸出し。 光明の差したが如く晴れ渡っていた心中が、見るも無残に萎んで曇っていく。 「ごっ……ごめん……。めっちゃ勿体ぶっといて、エラそうにしょうもない宣言してもうた……」 下へ下へと落ち窪むつむじに、今や彼方の春めいた日差しに似た声が降る。 「しょうもないことあらへんで。なるほどな、参考にさせてもらいます」 微笑まじりの音には、わずかながらからかいの色と、なにかを慈しむやわらかさが紛れていた。 本心か気遣いか判別できなかったが、白石くんのことだからどちらも含んだ一声だとも感じる。 いつだって深みを思わせる声音が頭の天辺から伝わり響き、暗転していた胸に光をもたらした。 ちらと最小限の幅で動かした視線で盗み見れば、上品にやわらぐ唇と綺麗な鼻筋、なだらかにゆるめながらもどことなく遠くを眺める片目が映る。 一シーンを切り取ったかのような、慣れ親しんだ通学路が勝手にフェードアウトしていく、びっくりするほど絵になる横顔だった。 「参考ついでに聞かしてもらおかな」 ともすれば儚いと評する者もいるかもしれない様相と裏腹に、流れる言葉はやたらとはっきり打ち響く。 「もし好きな子ができたとしての話や。俺は俺なりに特別優しゅうしてんのに、お前だけ大事なんやて接してるつもりでも、が言うみたいになんも伝わらへん場合はどうしたらええと思う?」 仮定にしては具体的だが、大いにあり得る展開だ。 となると悲しいことに自分の見立ては外れていなかったらしい。 いよいよ現実味を帯びてきた難題に生唾を飲み込む。 「……そういうややこしい事態になりそうなん?」 「もし言うたやろ。そうなった場合の話。先のことは俺にもわからんわ」 前兆があればまた回答も変わってくる、念の為尋ねたのだが、どうも差し迫った問題ではない様子だった。ひとつ、息を吐く。 「そやったら、うん…難しいね」 「難しい?」 笑う声は変わらずに優しい。 「やって、白石くんが自分で特別とか大事とか言うくらいやもん、絶対その言葉通りに行動するはずやん。でも……」 気持ちが伝わらず、受け取ってもらえないとしたら。 変に意地を張るのをやめるだとか、ストレートに話してみるだとか、そういった類いの一般的解決法は役に立たないのだ。 だって直すべき欠点も、彼自身が抱える問題もない。 本当に好きな子ができたら、友人でしかない私とは比べものにならぬ思いやりと優しさを注ぐだろうし、滅多なことでは怒らないから甘やかす質かもしれない、となればそれ以上に何をどうすれば事足りるのかという話である。 先程と同じ結論の繰り返しになるが、周りの受け取り方にこそ砕くべき課題が存在している。しかし、それを彼に進言したところで困らせるだけだ。 「も…もっと特別優しくするとか…?」 捻り出したわりには曖昧且つ愚にもつかない策。 いくらなんでも程度が低すぎる、後悔に襲われた途端、弾んだ笑みが寄越された。 「はは! 自信なさげな声しとんのに、随分スパルタ発言するんやな」 「う……せやかてほかに思いつかんねんもん!」 「えらいすんません、難しい男で」 「いや白石くんが難しいんとちゃうし…どっちかていうと周りの問題やし…」 「それはそれで困りもんや。どんだけ俺が頑張ってもクリアできへんっちゅうことなんやから」 なんとフォローのつもりが墓穴を掘った。 益々項垂れるしかない。 「け、けどほら、もしの話やから! 私の勝手な予想で、実際は違うかもしれへんし! そうなってしもたらしもたでまた考えよ!」 不自然に大きくなった声量は我ながらわざとらしいと思う、思うがここで無言になるほうが余程不義理だ、苦肉の策でもないよりまし、ビニール袋を必死に握り締めて熱弁をふるう。 と、白石くんが鼻先をこちらへ向けて、ふぅん、興味深そうに言いこぼした。 両のまなこに棘も角もない、丸い光が宿っている。 「一緒に考えてくれるん?」 苦難に立ち向かう友を手に入れ、逸る心を抑えつつ歓迎しているような、明るい瞳の色合いが綺麗だ。 気圧されて一秒の間ができ、お祭り騒ぎの余韻が近くなった。 「えっ、うん。あんま役立たへんかもしれんけど、頑張る」 「なら心強いわ。おおきに」 いつもの整った微笑みとは少し異なる、目一杯の破顔。 完璧を目指し、宣言通りの道を進むひとにしては幼い表情だった。だけれどちっとも呆れる気分にはならない。 同時になにかこそばゆくなる。 自分は白石くんに諸手を挙げて迎えられるほどの大業を成していないはずなのだ、ここまで頼りにされる理由がまったくもって見当つかない。 誤魔化されているか、茶化されているのか。 可能性が一瞬よぎったがこの場面でそういうことをするひとではない、考えるまでもなく捨て置いた。 遠いざわめきのにおいがする。 視界に入ってきた立派な構えの校門は半端に閉まっていて、大仰な看板がとりあえず置いときました風に立てかけられており、荒々しい筆跡が本日の一般公開時間は終了しました、と周囲に語りかけていた。 あれはおそらく美術部によるものだ。 どこから持ち出したのか、準備期間中に特大の筆を抱えて疾走する部員の姿を見た覚えがある。 ばらばらと人影が流れ、揃って一貫性のない動きをし、ひとつの大きな渦を形成している。 愛すべき騒音だと素直に思った。 派手に飾られた門と距離を詰めれば詰めるだけ、実感が増していく。 「今から片付けて、そっからプチ打ち上げやって、帰んの何時になるんかなぁ…」 楽しいけれど、明日が待ち構えているのだと忘れてはいまいか、自然とぼやき寄りの口調になってしまう。 「まあそう言いなや。年に一回の文化祭、楽しんだモン勝ち思たらええ」 なだめる白石くんだって部とクラスの出し物を行き来している、疲れているはずなのに底知れぬ余力を窺わせる足取りだ。しかも重量級のペットボトルを何本も持った上での、この余裕。 強豪運動部恐るべし、いや白石蔵ノ介恐るべし、が正しいか。 ひと一人通過するのがやっとの隙間しかない門扉の周囲にはロールテープやら紙屑やらが散乱しており、仕事しぃや清掃係、と白石くんが突っ込むのも当然の惨状だった。 思わず笑っていると、笑とる場合ちゃうで、回り回って押し付けられたらどうする、しかめっ面で狭き門をすり抜けていく。 通るのに工夫を要しそうな荷はといえば、ひょいと掲げられて宙を舞う。動作のすべてがスムーズだ。 後に続く私もそれに倣い、まず体を捻らせながら通り抜け、重さ自体は感じないものの嵩張ったビニール袋を持ち上げようとし、詰め込めるだけ詰め込んだ菓子で膨らむ底が確認できずわずかに手間取った。 踵の下近くには頑丈なレールが敷かれていて、ともすれば足を突っ掛けて転びかねない。 一度体勢を変えようとしたところ、ふいに右手が浮遊感にひかれて動いた。 門の内側から手を伸ばした白石くんが、置き去りになりつつあったこちらのビニール袋を下から抱え、先刻同様の方法で私の手と一緒に上空通過させたのだ。 配慮に満ちたゆっくりとした速度で荷が下がり、下がりきったと思ったら行く手に転がっていた出所知れぬちいさめの角材を蹴飛ばし退かせる。それから二、三回靴底で地面を擦って、滑りやすそうなチラシや使用後の半券などのゴミも散らしていく。 私が転ばない為の露払いにしか見えなかった。 もうなんというかすごすぎて、彼を称賛するに相応しい単語のひとつも浮かびやしない。 「……白石くん、なに食べたらそこまで周りが見渡せるようになるん? ほんまのほんまに冗談やなくて、いっつもスマートにタイミング良すぎやわ。私、助けて貰てばっか」 ありがとう。 言葉にするより早く、目の前の彼が困り顔で微笑んだ。 「なんや、またお兄ちゃんみたいー言うつもりか?」 だから続けられなかった。 言われて初めて気づいたのだ。以前あれほど年の離れた兄か教師のようだと感じていたのに、今日は一度も、というより事実上の失恋をした日からずっと、そんな風に考えた記憶がない。 例えるまでもなく、白石くんは白石くんのままで優しかった。 少なくとも私はそう受け取っていた。 そのおかげで、今の今までなんとかへこたれずにやってこられたのである。 違う。 咄嗟にこみ上げた否定を口にしかけたと同時、あえなく崩れ去る。 「おう、!」 たったひと声名前を呼ばれただけで、心臓が凍って死んだ。 呼吸が止まる。肺は掴み取られ、気管もねじ伏せられる。全身が強張って動きたがらない。背中をひた走った怖気が脳天まで達し、強烈な一撃を当ててくる。 縫いとめられたみたいに一点から離れぬ、私の視線の先を振り返った白石くんの背後ろで、かつてひたすらに追いかけた坊主頭の彼が無邪気に手を振っていた。すぐそばには、控えめに会釈をする女の子。 血の気が引いた。 それはそれは盛大な音を立てて、頭の天辺から足のつま先へざあっと沈んで落ちていった。 ――空が、暗い。 ← × → |