05 炭酸の泡を思い出していた。 コップの下から浮き上がり、表面まで到達するや否や弾けて消える。 そのようにして喧噪が失せた。 音のない世界に、仲睦まじく彼女と何事かを囁き合う姿が鮮明に描かれている。 頭の中身は漂白され空っぽになったはずなのに、袋を下げていないほうの腕が勝手に上がり、愛想よく返してしまう。 瞬間投げ寄越された、その昔悪ガキと揶揄されたこともある、決して憎めない笑顔が網膜に焼き付いた。 自分がどんな顔色になっているかまるでわからない。 彼に寄り添う女の子は気を悪くした様子ではなかったが、お付き合いしている相手がほかの子を親しげに呼んでいる状況なんて見続けたくないはずだ、いいから早く行け、と乱暴な気持ちをそのまま乗せ、掌で追い払う仕草をしてみせる。 褒められた態度ではなかったからひとつやふたつ食ってかかられるかと思いきや、腑抜けてゆるみきった表情で応じられ、持ち上がっていた片腕が一気に脱力していった。 彼の視線が足早に移り変わる。 すぐそばの、おとなしやかでしっかりしていそうな女の子へと。 二人は限界まで膨れたごみ袋を仲良く分けて抱えていた、捨てに行く途中だったのだろう、収集場の方向へと歩き始める。 並ぶ影が視界を横切り、完全に外れていったところで、元の喧しさが返ってきた。 あらゆるざわめきが聞こえる。 鼓動の鐘、呼吸する音、硬直していた筋肉の弛緩。 まっすぐ正しい形に戻った気管を通る空気は、やけに冷たい。 脳の痺れがくまなく体中を駆け巡り、思うよう動かすことができなかった。 足が重い。地面が硬い。でも底なしに沈み込んでいく心地もする。 暗転したはずの空はいつの間にか晴れ澄んでいるから、あれはただの錯覚だったのだ。 淡々と進みゆく。 時間も、世界も、私自身の体でさえも。 心だけがいつも動かない。 眼前の人影が捻っていた上体をゆるやかに戻し、こちらへ向き直った。 どうということのない動作にも関わらずしなやかだったので、ああ、白石くんだな、考えるまでもなく判じた。 今の、と問おうとしたのだろう、あまやかな声音を紡ぐ唇が開かれ、まばたきよりも儚い時間の内に強張る。 どうしてか顔を上げられぬ私には、彼の口元あたりしか窺えない。だから表情が見て取れない。続きのない沈黙をただただ甘受し、ぼんやりと立ち尽くしていた。 「……平気か」 凍った一声に、少しばかり意識が覚醒する。 掛けられた台詞を反芻し、その内に含まれた意味も確かめて、こちらを思い遣っているものと仮定したが、常ならば感じ取るあたたかさが存在していない。 他を慮る彼が欠かさなかった特有のやわらかな音色は待てど暮らせど響かなかった。 かといって冷たいわけでなく、突き放したり呆れ果てたりしているのでもない、感情の籠もった色合いだ。押し殺した慟哭がほのめいて、連なる単語は痛々しく曲がる。 直接的には無関係である白石くんが、どうして傷ついた様子で佇んでいるのだろう。 いまだ霞みがかる思考回路を懸命に働かせてみるも、答えなど出そうにない。 渇いた喉をふるわせて、枯れていた舌もぎこちなく揺すり、潜めた息で問う。 「………また、ひどい顔しとる?」 固定されたままの首がようやく思う通りに動き、視線を向けると当然目が合った。 私を見下ろす透明な眼差しは、じっと澄んでいる。 「…顔色は悪ないで。表情もちょい硬いくらいや。けど、色が抜けたみたいになってんで」 ここ、と自らのそれを差す指は長く、とても綺麗だ。 「唇だけ」 どういうわけか無闇にゆっくり染み入る響きが、凪いだ感情の水面へ落ちていく。 いつもなら慌てて覆いもするだろうが今は気力がわいてこない、一向に仕事をしない脳で白石くんの言葉を追いつつ、聞き易いのは発音がしっかりしているからか、などとまったくどうでもいい感想を抱いて思索の軸を外してしまう。 どんだけ噛み締めてんねん言いたなるわ。 ややあって続きが紡がれ、確認はできなくても彼が言うなら事実に違いない、そっか、短く呟き頷いた。 背中を撫でる秋の風が制服のスカートを揺らし、髪をかすかに梳いて、自由気ままに吹き抜けていく。過ぎたと同時、喉元からぽろりと転がり落ちたものがあった気がしてつい足元を見遣った。 なにもない。 履き慣れたローファーのつま先しか視認できない。 転瞬、激しい喪失感に襲われ息すら自然に吐けなくなった。 細心の注意を払い頑張ったところで、みっともなく震えて仕様がない。 ふと心の遠い部分で考える。 ああでも、涙が出ないなあ。 なんでなんかなあ。 肺の底で無数の重石が右に左に揺れ動くので息苦しい、でも黙って立っていれば尚苦しくなる。 少々冷たい空気を吸い込み、生まれた弾みで顔を上げた。 「みんな待っとるよね。はよ行こ」 自分でも驚くほど冷静な口調だ。 外と中がちぐはぐになっている心地がして落ち着かず、返答を待たないで歩き出す。 後ろ手に下げたビニール袋が大仰に騒ぎ立て、幾多の人の声々へと混ざり吸収されていった。 一、二、三、四、と進んだところでちっとも追いつく気配を見せぬ、私と同等かそれ以上に運が悪く巻き込まれてばかりの彼を振り返ると真摯極まりない視線とぶつかるのだから、ひと際強く心臓が締めつけられて仕方ない。 見据えてくる双眸。 前髪の奥で滴るそのうっすらとした光。 整った眉は上がるでもなく下がるでもなく、アイブロウで書いたみたいにきっちりとしたラインで額を彩っていた。 閉ざされた唇が何事かを訴える。まっすぐ結ばれているはずなのに、音を伝える一瞬前の様相で無言の内に呼んでいるように思えるのだ。 ぐっと気管が狭まる。 胸ばかりか体中がいっぱいになって言葉が発せられない。 さっきまでは出そうにもなかった涙が、目の下に溜まって熱を持った。 わかりやすい優しさに触れたわけじゃないけれどそう見澄まされては同じこと、ぞんざいにあしらわれるより辛くて表には出さず悪態をつく。 泣かさんといて、白石くんのアホ。 への字にひしゃげかけた唇へ力を入れて必死に耐えた。 「…し、心配、せんでも大丈夫」 おかげでちっとも信ずるに値しない、変につっかえた言い方をしてしまって、白石くんの涼やかな目元が翳り、余りのない眉間はわずかばかりひくついた。 誰かのことを心から案じる誠実さの顕れに、数瞬声帯がまごつく。 重ねて、ほんまに平気、口にした後の間が詰まって痛い。 「……やって、アホやと思わへん? 昔っから空気の読めんひとなんや。白石くんのこと見習ってほしいわ、もう」 野球部な、と離れて佇む優しい級友がぼかしながらも特定の人間を指し示したいつかの名称を付け加え、意識して明るく振る舞ってみせる。 私のものではないビニール袋の騒ぐ音に一寸気を取られた。 言った自分でも虚しく響いたよう聞こえたが、その裏にあるものを受けて彼は一歩踏み出したのだ。ほっと息を吐く。 「ふ、普通、あのタイミングで声かけたりせえへんよね! 声おっきいし周りの目ぇとか気にしなさすぎやし、手なんか振られてしもたら返すしかないやん振ってる場合かー思てても。大体…他の女子の名前呼んだらあかんよ。彼女と、おる時」 無理矢理あげたテンションに突き飛ばされよく考えもせずつらつらと続けたまではいいけれど、最後の最後で自傷行為に等しい発言を転がしたのは良くなかった。 声が途切れる。 自らこぼした言葉のはずだというに、異様なくらい他人じみて遠く、だけど同じくらい凄まじい現実感を以ってして胸の内まで入り込む。 軽口を叩き合い、腐れ縁だと笑い飛ばし、女の子らしい行動のひとつも取らなかった私とは正反対の、可愛らしい子だった。 あんな風にだらけきった笑みを浮かべる彼など知らない。 何年も前からの知り合いで、一年間一緒の教室で過ごして、好きだと思い続けて来、暇さえあれば目で追いかけていたにも関わらず、笑顔にも種類があるのだと思いつきもしなかった。 何をもって、どこを見つめて、好きだなんだとわめいていたのだろう。 たくさんの表情を知っているに違いない彼女のほうが、余程正しく恋をしている。 「………ほんまデリカシーない。なんもわかってへん。ちょっとは、考えたらええのに」 誰に対してぶつけているんだ。 鋭い詰問が頭の内側から聞こえたが、うんともすんとも答えられない。 自分と相手、両方のような気もした。 などと考える一方で勝手に進んでいく感情の塊が蠢く。 でもあのひとは許されるのだ。 私だけじゃなく、周りの皆にだって受け入れられている。お前そろそろ空気読めやとからかわれ、まあ読んだら読んだで天変地異起きそうやけどな、周囲の絶えない笑顔と、少しだけ不服そうな横顔。 あの頃はこれっぽちも思わなかったことだけれど、今は心の底から憎らしい。 腹が立つのに怒れないから、吐きどころがなく膨れ上がる一方だった。 ざり、と靴底で地面を蹴る音がそばに寄り添う。 視線を向ける途中、理由さえ霞みがかり行く先を失った言の葉たちに答えを与えてくれる声が静々と降った。 「…………そういうとこが好きやった?」 衝撃が大きすぎて目の前が白々と染まりゆく。 頬を殴打されたかと思った。 決して荒い口調ではなかったけれど、喉をひと息に掴まれ握り潰される感覚が呪いじみて重苦しく振り払えない。 一旦、呼吸を喉奥まで引っ張り込んで、唇をこじ開ける。 「うん」 丁寧な音色に導かれた所為か、別段抵抗も食らわずすんなりこぼれて砕け散った。 十一月の空気がささめいている。 校舎の入り口あたりで誰かがふざけて叫び、誰かが笑いながら突っ込む掛け合いは実に賑々しい。 隣にいるひとの、かすかな体温。 そのぬくもりと相反して、視界に映る白石くんは体を硬く張り詰めさせて立ち竦んでいる。 顔を上げられなかったので表情は窺えぬが、またしてもいらぬ心配をかけてしまったのかもしれない、罪悪感がこみ上げた。 「でも…ううん、違う。……わかれへん」 進めば進むだけ頼りなげに掠れていき、遂には曖昧な表現にまで到達する。 「前はここが好きとか色々思てたかもしれんけど、今はほんまにようわかれへん。自分好みなとこ見っけて選別して、好きになるわけちゃうもん。理由ありきで誰かを好きになるんかっていうと、たぶん違うし……」 どちらともなく歩き始め、教室へと続く道を辿っていく。 「自分のことやのに、上手く言えへんね。なんでやろ?」 ごめんね。 謝罪と独り言の狭間を揺れる音程だ、なんとも情けない。 白石くんにはいつも助けて貰っているだけでなく、変なところまでも目撃されている。 羞恥を抑えようと、額に当てた手の甲で二、三度擦っていると、 「いや」 簡潔な否定に遮られた。 思わず鼻先を向ければ、やや俯きがちになった横顔が在る。 伏せられた眼差しは足元を見ているようで見ていない。 流れていく背景は見慣れた学校内のものだが、何故か場違いに浮き上がり違和を訴えていた。 転がった二文字の勢いはやわらかいがしかし、確たる意志が灯っている。 証拠も根拠もないけれど、そんな風に反響したのだ。 「わかるで」 静謐を貫く物言いの底で熱が揺蕩って、瞳の縁は重なった影で滲む。 状況も顔つきも何もかも異なっているというのにあの日の放課後が脳裏をよぎっていった。 整った彼の、一秒にも満たぬ荒廃。 指が滑って相変わらずがさがさとうるさい袋を掴めない。 「……わかるん?」 ひねりもせず芸もなくそのまま聞き返すと、なだらかな微笑みとかち合った。 「そらなあ。突拍子もないこと言うてんのとちゃうやんか。一般論としてわかる範囲や、充分」 肩がにわかに砕けたのを合図にして、知らぬ間に詰まっていた呼気を揉みほどく。 実感を伴ったひと声であったから、先程例え話だと言ったのははぐらかしただけで、本当は好きな子がいるのかと一瞬真剣に考えてしまった。 となると、これはやはり気遣いのひとつなのだ。 きちんとした表現ができない私の一歩先を行き、けれど何でもわかっていますなどという訳知り顔はせず、ただ事実のみを受け取ってくれているらしい。 溜め息も出ない。 「好きか嫌いかは自分で決めることやけど、イコールで選べることと結びつけんのはなんや間違うてる気ぃするし。……選べそうなモンなのにな」 ほんま、なんでやろな。 こぼれた呟きが痛切に鳴り響き、押された胸の内、肺から吐き出される息に弾みが生まれた。 一人ならばいざ知らず、誰かが隣にいる今口にすべき言葉ではないとわかっていたが、止める暇も余力も残っていなかった。 だからこれは単なる弱音に過ぎない。 「選べたら、よかったんかなぁ…?」 あれだけ白石くんに迷惑をかけたくないとのたまっておきながらこの体たらくだ、嫌になる。 みっともない。 情けない。 恥ずかしい。 かっこ悪い。 お腹の下で蠢きながら体全部を突き上げる衝動が、ありとあらゆる部分を焼き尽くそうとしている。 証拠に、語尾に涙の気配が混ざってぐにゃりと曲がった。可能な限り急いで息を切り堪える。 「好きになるひと。私のこと好きや言うてくれて、よそに好きな子おらん相手を、好きになればよかったんかなぁ……」 意識して息継ぎを増やし、はっきり発音しようと心掛けた。 でなければ耐え切れず泣き出してしまう。 いい加減もう仕様もないところを見られたくない、かつてのような失態を繰り返したくなかったのだ。 「せやな」 足元の更に下、存在しないはずの奈落へと落ちていく寂しい音だった。 聞いているだけで身が竦んでしまいそうだった。 暗い洞で風が鳴き、奥を覗こうとしても一面の闇、一歩踏み入れるのも躊躇う、途方もない孤独に似た不安がよぎる。 心臓が刺し抜かれ息絶えるような錯覚に、幻だと理解しながら喉が凍っていく。 「…けどそんな都合のいいヤツ好きにならんわ、は」 一転、明瞭な断言が場を断ち切った。 彼らしからぬ響きに絡め取られていた視線を動かしじと目で睨む。 「……なんで白石くんが自信たっぷり言うてんの」 「なんでて、自分の話耳の穴かっぽじって聞いてきたからやん?」 半端に開け放たれた学ランが揺れ動き、連動した襟が隙のないつくりの顎に何度か触れた。 一笑は気安く、からかいの様相を呈していて、健全な灯りをたたえた双眸がやんわり細められた。 これはひょっとしなくてもふざけているのではないか。 不自然なタイミングで浮上した声色に気づいてもよさそうなものだったが、事前に受けたショックを引きずっていた私は感慨もなく通り過ぎてしまい、真面目な話をしている最中にどういうつもりだなどと吐き出しかけ、 「そばで見てればわかる。打算で誰かを好きになったりせえへん。両想いになれそでもなれんでも、好きでおること止めるタイプやない」 今までで最も強く、優しさに溢れた言葉の渦に引き込まれて、用意していた台詞ばかりか思考までをも奪い取られた。 肩に積もってゆく日差しがあたたかい。風が冷たければ尚更だ。 体の深くへ差し込んだ痛みも得体の知れぬ喪失感も、ほぐされ形を変えていく。 ついさっき抱いたそれとは別種の羞恥に頬が熱くなり、一瞬で喉を干上がらせる。 同学年、いや上級生と比べても劣らぬ立派なひとに、こうまでして持ち上げられるほど自分は大した人間でない。頭に、絶対、とつけても良いくらいに。 特別目立つわけでもなく、尊い善行を積み重ねた覚えもなかったから、どうしていいかわからず戸惑った。 無意味に口を開閉させ、まっすぐ前を見遣る白石くんと自らの足元とを行き来してさ迷うしかない目線を持て余し、両足が昇降口へ近づくごとに大騒ぎの余韻は余韻ではなくなっていく。 なんでも構わない、返さなければ不自然だ。 焦りを抑えながら懸命に思考回路を動かしようやく考え至った一点は、えらく美化されているのでは、という有り難くも恐ろしいものだったので妙な汗をかいた。 走馬灯のよう脳内を駆け巡るあれやこれやを並べてみたが、どう頑張っても白石くんがくれた言葉に相応しい思い出にはなり得ない。 言った張本人にしてみれば何ということのない、当たり前の賛辞なのかもしれないが、私にとっては一大事である。 他の子ならいざ知らず、相手が彼だと落ち着いて聞いてなどいられなかった。 「あの、そ、そこまで言うてくれるんは嬉しいんやけど……。わ、私そないに立派な人間やないもん」 「いやいや悪口ちゃうで? むしろ褒めとるんやし、どうもありがとうて受け取ったらええねん」 ん? と尋ねそうとしたのち、あっと声を上げかけた。 すんでのところで舌は堪えたが表情には出ていたのだろう、軽く竦めた肩の向こうで、白石くんは唇を上向きにしならせている。 ある種の意趣返しだった。 白石くんは優しい、悪口ではなく褒めている、気にせず受け取ればいいのに。 以前の私が送った数々を、ほぼそのままなぞられているのだ。 こんちくしょう。 口汚い罵りに胸中は支配され、理性で御しきれなかった分が舌の根を取り押さえてしまう。 「もう、からかわんといてや!」 「はは!」 淡く滲ませる程度に留まっていた両の目が完全に皮膚へと馴染んだ。 全開の笑顔と共に朗らかな声を立てるそのひとは、が俺を褒めんのはアリで逆はナシなんか、なんて追い打ちをかけてくるから大変厄介である。だって彼以上に上手く立ち回れる自信など持ち得ていない上、この先つく気もまったくしない。 胸をつく明るい怒りは字が持つイメージと相反して不快感を伴わず、それどころか初夏の空気のような清涼さえもたらす。 たとえるなら二度目の失恋をしたみたく、暗がりに転がったきりだった感情が息を吹き返していた。心なしか呼吸もしやすく、あんなに重かった足は元の通りに地面を踏みしめている。 自己否定と羨望、叶わなかった願い、立てたとてどうしようもない仮定、すべてがないまぜになり混濁していた私を掬ってくれたのは、他ならぬ白石くんだ。 いつだって白石くんだった。 「……て、言い合うこともなかったな」 深まる思索に集中していた神経がふるえた。 鼓膜を撫でる振動は優しく、意識の中にまで伝わってやまない。 聞き返そうと右隣を向けば、穏やかな微笑みが傾いで揺れている。 「が相手選んどったら。初めっから好きや言うてくれて他に好きな子ぉおらん男を選んで好きになっとったら、今みたいによう話す仲にはなってへんやろ?」 それはそうだろう。 私たちのきっかけは、今年の春。思い出してみれば失恋への第一歩と相違ない出来事、もっと根元を探ると野球部の彼に寄せた想いあってこそだった。 「せやから俺は、選べんで良かった思っとる。めっちゃ自分本位で悪いんやけど、がやなかったら元気貰うこともええなぁ思うこともなかったわ」 目尻が際限なく溶けていても美しいラインに変わりはなく、宿る色味は甘く澄んでおり、独りでに息が詰まるほどだった。 けれどその凪の奥底で、熟した傷を堪える切実さがわずかばかり透けている。 遠くの級友だったらわからないだろう、そばで言葉を交わし、耳を傾け、見つめていなければ逃してしまう儚いにおい。 壁を作らずとも時折孤独になるひとの深いところで潜んでいる、たしかな熱がゆらめいてとても綺麗で、でも同じくらい痛々しい。 浮かぶ笑みはどこも歪んでおらず、気づかなければうっとりと眺めて当然の、一撃必殺の優しい表情なのだけれど、どうしてもすんなり喉を通らなかった。 私がおかしいのだろうか。 全面に悲しみを押し出した表情ではないのに、締めつけられた心臓が苦しくて仕方がない。 白石くん、やっぱ好きな子おるんちゃう。 私の経験に自分のこと重ねてるんやないの。 無粋なひと声に危うく唇を奪われるところを耐えて、次に浮上してきた言葉を紡ぐ。 「ど…うも、ありが、とう……」 清しいまでに堂々とした振る舞いにより、たどたどしい礼は打ち返された。 「はいお粗末様でした」 「………それはごちそうさまて言われた時のやつ」 「ツッコミにキレがないで、あかんなぁ」 数秒前には漂わせていたそれとわからぬ程度に薄い兆しを消し、くだけて笑う白石くんはもういつもの白石くんに戻っている。 二重三重に重なり絡んだ複雑模様はどこへやら、舌を巻く変わり身の早さだ。意識しての行動だとすればとんでもなく食えないひとだと言わざるを得ない。これで同じ中学二年生か、我が身を振り返り悲しくなった。 開放しきった形で固定されている玄関扉を、幾人かの生徒がくぐり抜け行き来する。 ざわめきは最早身近な存在で、祭りの後の名残でなく、現実のものとしてそこここに散らばっていた。 辛い時に助けてくれた友人は、昇降口前の段差をひとつ飛ばしで超えていく。 ぶら下がった荷が重たげに揺れ、学ランの裾は体のちいさな振動に釣られてなびき、秋の終わりに降る日差しは、ポケットに突っ込まれた片手のおかげで寄った皺をも明細に照らす。 襟にかかる髪の毛、広い背中、歯ぎしりしたくなる程長い足。 白石くんは全部が完璧だ。 追う私は一挙一動を見守りながら、心の中でそっと唱えた。 ありがとう。 あの日から今日までずっと、ほんまにありがとう。 音という形にしたわけではないというに、ちらと視線を寄越す彼が小首を傾げて静かに呟く。 「無駄に我慢すんのはやめや。体に悪いし、辛うなるだけやし、ええことなんか何もない。泣きたなったら泣いたかて誰も怒らん、もしおんねやったら俺が叱ったる」 半年以上部長やっとったんや、その辺は心配せんといてな。 肺と舌の奥の間、ちょうど真ん中あたりで空気のかたまりが膨れ上がった。眉間がひくつき、握る拳に力が籠もる。 誠実であるがゆえに強張り、けれどおどけた調子を付け加えるも忘れないだなんて、もう非の打ち所が見当たらないではないか。 涙腺が緩む最中は黙ってただ聞いていてくれて、落ち窪む一方だった感情が帰って来、瞳を濡らす雫の気配がすっかり引いてからこんなことを言われてしまったら、ぐうの音も出ない。 全力で抑えても乱れる息を吐いて、少し先を歩いていた背中と肩を並べた。 白石くんはずるい。出来過ぎだし、頼もし過ぎるし、優し過ぎるしで、きりがないにも程度があろう。 でもよかった。 そばにいてくれたのが白石くんで、本当によかった。 指先まで染みるあたたかい波に呑まれ、全身がふやける感覚に陥った。 「……イヤや、泣かへん。段々アホらしなってきたもん。これからは、好きで好きでしゃあないって思えるひとのことで泣く」 強がりなどではないと言えば嘘になるが、心から溢れた素直な気持ちだというのも真実だ。 ほんまのほんま、口には出さずに瞳で切に訴えると、私たち二人の間に横たわる空気がふとやわらいで、口元をくつろげたひとが問いかけてくる。 「空元気でも?」 「元気は元気!」 唐突なフリでも返しには困らない。 べつにそういったつもりでも何でもなかった九月のひと言が、合言葉じみた掛け合いに組み込まれたのだった。 自分で発したことだけれど、本当に元気になっているのだから恐ろしい。 つい先程まで苦しみ喘いだのははるか彼方、過去の出来事のように遠い。 だけれど大事なのは、決して私だけの成果じゃないということだ。 惜しまぬ助力で支えてくれた張本人は、こちらの返答を聞くが早いか破顔しこう続けた。 えらいえらい、よくできました。 同い年の男子とは思えぬ、品のよい響きが秋の空へ滲んで溶けていく。 皆のテンションを上げる品々と共に教室へ帰還し、盛り上がる空気のさ中領収書とお釣りを手渡したところで担任の先生が悲鳴に近い嘆きを漏らす。 自分らどんだけピッタリ使い切っとんねん、逆に真面目か。 しれっと宣言するのは白石くんだ。 あかんわ先生、俺らに資金渡す時はよう財布と相談せな。 丸々肥えたビニール袋目掛けて、次から次へと賛辞が飛び交った。 ようやった白石、先生ツイてないなぁ、よっしゃはよ食お、うちらが買いに行っとったらここまで買い込めんかったわ、これからは白石君に任せよか、ナチュラルに使いっ走りにする気かいな、二人ともお疲れさん、おおきに。 あちらこちらで灯る明るい声、笑いの渦に引き込まれて頬をゆるませた時、ようやく常と相違ない表情ができたと思った。 がっくりと肩を落とす先生へ向かって何事かを話している白石くんの背中はぴんと伸びていて、袖から覗く手首は太い。強豪運動部らしい、しっかりとしたつくりなのだ。 綺麗な顔。 稀に見る美男子。 四天宝寺一のイケメン。 何もかもが整っていて、完璧と称される見目。 否定するつもりなどさらさらない。 彼はたしかにかっこいいし、人目をひくに見合った面立ちをしている。 でも、と加えたくなるのは私だけではないだろう、考え方を変えれば失礼な物言いをしているのかもしれない、だけれどどうしても言葉にして覚えておきたい。 白石くんはかっこいいだけじゃない。 むしろ中身のほうにたくさん素敵なものを抱えているひとなのだ。 ジュース用の紙コップを手にした備品補充担当の子が入ってきた途端、わっと心地よい騒がしさに包まれる室内で偽りのない微笑みを浮かべた私は、袋詰めにされたお菓子を配る為に手を伸ばした。 ← × → |