07 いまいち最終学年の自覚も芽生えないまま過ごしていた私だったが、今や最も近しい男友達になった彼のできる先輩ぶりを見ていたら、おのずと我が身も引き締まる。 テニス部には将来有望な一年生と、ワケありの転校生が入部したらしい。 どいつもこいつも一筋縄にいかんのや、やれやれと肩を竦める口調のわりに表情は充足感に満ちていた。 かつては私の事情に関して彼が尋ねこちらが答えるといった形がほとんどであったが、進級してからというものまるきりひっくり返っている。 楽しいばかりではないだろう。 けれど白石くん自身が楽しんでいなければ、こうもあたたかな気持ちで見つめていられないし、部活はどうだの試合が近いのかだのと踏み入った質問を思わずしてしまうこともないはずだ。 たった一度しか迎えることができない中学三年生の夏を前にして、益々テニスへ打ち込んでいく横顔が眩しい。 孤独をまとわせていたひとは、それすら武器に、進むための糧として取り込んで、はるか高みを目指していく。 同じ教室にいる時はたしかによく知るはずの白石くんでも、別人かと二度見するくらいコートに立つ姿からは異なる雰囲気が漂い、息を呑む一瞬。 距離は近い。 でも遠く感じた。 すごいなあ、立派やなあ、どこまで完璧なんかなあ、感心する一方だった胸の内に、寂しさに似た言いようのない波紋が起きる。 広がっていくにつれ心を打ち、跳ねた雫がきらきらと輝いてやまず、その頃になるともうはじめの心細さは消え去り掴めない。 ただ目で追い、心地よい煌めきに体をひたして揺蕩うだけだ。 体の底からこぼれる光のような感情にわけもなく目蓋が狭まって、けれど見ていたいのだと足掻いた。 笑う声が一段と低くなった気がする。 日ごと丸みの失せていく顎のライン。 顔つきからも幼さの名残が薄れていく。 筋張った肩は、普段の物柔らかさと結びついてくれない。 余分な肉がついていない平たい手の甲に、長い指。 袖口から覗くたくましい腕にぎょっとした心臓が叫び、首を余分に傾けないと顔が見えない、気づいて変化に慄いた。 元々背の順では後ろのほうにいたから平均身長を超えているとはわかっていたが、ここまで顕著に伝えられてしまったらうまく対応できず、数日経ってようやく尋ねる。 白石くん、最近背ぇ伸びてへん? 化学の授業で使った実験器具を洗っている最中だ、さぞ不自然な切り出し方だっただろうに、問われた彼は揶揄する素振りもなく答えてくれた。 「せやねん、もう成長期過ぎたか思てたら伸びてきよってな」 喉仏が上下して笑っている。 蛇口の下でシャーレが水を被る。音を立てて散らばった雫の端々は、滑らかな光を反射するステンレス製のシンクへと流れていき、やがて排水溝に吸われて消えた。 「おかげで足が痛くてかなわんわ」 「足?」 「足。ミシミシゆうてんちゃうかて確認するくらい」 「……大丈夫? ただの成長痛なん、それ?」 「多分な」 よくもまあのん気にいい加減なことを言うものだ。 スーパーがつく優秀なテニスプレイヤーのくせして、変な所で雑なのが不思議で仕方がない。そこは完璧を目指すべき部分ではないのか。 あまり痛むようなら病院へ行ってはどうか、案じたところで、は心配性や、と一笑に付されてしまう。 おまけに悪気がなさそうである表情を浮かべながら、 「そっちはどや。成長期終わったか?」 などと神経を逆撫でする発言を投下してきたあげく、 「遠ーい昔に終わってますー。もう伸びひんもん」 「伸びんでも困らんやろ。それに俺は、そんくらいがかわええと思うけど」 目を剥くほどの殺し文句を転がしてくるのだから困る。 笑い飛ばせないし、ツッコめないし、お腹の底がもぞもぞして喋れなくなるし、とにかく困る。 ほんまに白石くんのボケはボケなんかマジなんかわからへん、なんとか絞り出した返事がやわらかな呼吸にとらわれて動けない。 笑う声につられて張る首筋の筋肉。 捲ったシャツから伸びる腕に纏わりつく水の粒、濡れるのを防ぐ為に手の部分だけ包帯をゆるめて外し、むき出しになった白いとは言い難い肌の色。 すぐそばの白石くんが目蓋の裏を焼いていって、時たま気まぐれに落ちる、言葉の尽きてしまう一瞬は間違いなく降り積もる。 心のどこか。 毎日の片隅。 目には見えないけれどきちんと重さがあって、こぼさず蓄える心が傾いで揺れるのだ。 抱えた胸はいつの間にかたくさんの大事なもので詰まっていた。 数え切れず、捨てられない。 くだらない会話でも、どうということのない挨拶だとしたって、いちいち拾い上げて記憶してしまう。 夜を超え朝を迎える都度、変わっていく様を見るのが楽しかった。 だって、大切な友達だから。 人格者でなおかつスター性に溢れているのに、仕様のない切欠でも放り出さず、ただ自分のことに手いっぱいだった私を羨ましいだなんて素直に話してくれるひとだから。 だからこんなにも特別なのだと思っていた、ずっと。 こちらの恋愛事情という特殊な範囲に限られていた話題がいつ枷を失くしたのか、大して顔を合わせる回数も時間もないというのにばらばらと広がりを見せる。 膝を突き合わせず、一対一で向かい合ったわけでもなく、じっくり話し込んだというのも正しくない、それでも私たちは色々な話をした。 この間見た映画。 DVDを借りに行ったら、お目当てのものがなくてがっかりしたこと。 学食のメニューのバランスが悪いというお小言。 そんじょそこらのご老人よりも健康に気を遣っている。 寝違えた朝、背中が痛いとぼやいていたら、実践するまでもなく有効だとわかるストレッチ法を教えてくれた。 なぜか毒草の知識が半端ない。 地学の野外授業中だ、まったく関係なかったのだが、毒がある植物とそうでないものの見分け方トークを繰り広げ生真面目に注意を促す。いいことをしているはずなのに悲しいかな、その場にいた女子は若干引いていた。 すごいし感心するとこなんやけど白石くん、そういうんはもっとそっとやったほうがいいと思う。 見かねて口を出せば、そっとやったら注意喚起にならん、触ったらかぶれるやつとかあるんやで、最もな反論に封じ込められる。 無意識なのか周りの空気を読んでのことなのか限界突破する勢いでハジけない為に、ギャグのはずがちょっと哲学的というかものすごくシュールになってしまって、やから言うたやんわかりにくいて、突っ込みたくて仕方がない。 実際口にしたところで、いつも微笑み返された。 時代が俺に追いついてないだけや。 ふざけてやわらぐ声音は甘かった。 傘を忘れて最寄のコンビニへと全速力で駆ける場面を目撃されていたらしく、朝ちゃんと天気予報見てから来なさい、生活指導の先生やお母さんよりもずっと優しいお叱りを受けた日。 五月の連休中はテニス漬けだったおかげで、四月の終わりに比べて日焼けしていたこと。 皆が物憂げな表情を浮かべる梅雨の時期。 教室内が湿気でしんなりしていても、彼だけはいつもまっすぐ立っているよう映った。 絵文字や顔文字は使わない。時々、ビジネスマンかというほど堅苦しい文章が送られてくる。 電話は滅多にしなかった。 学校で会うほうが早かった。 話したいことがたくさんあって、考えるまでもなく口にすることができた。 携帯とにらみ合っていた放課後だ。 雨続きの中奇跡的に一日だけ晴れ渡った空と裏腹に、私の眉間は皺だらけだったのだろう。いつぞやと似た行動を取り、ひとり分開けた窓のレール部分に肘を預けていた時、これまたいつぞやと似た位置から声を掛けられた。 「…どないしたん、」 数センチしか離れていなかった端末の画面を遠ざけ振り向く。 ラケットバッグに制服姿のそのひとは、どことなく直立不動を思わせる風情で佇んでいる。 「うん。……白石くん、ちょっと質問してもええかな?」 「そら構へんけど……込み入った話か?」 顔つきが険しくなる一方の私に、居住まいを正しながら問う白石くんは実に誠実である。 「ううん、大丈夫。一般論として聞きたいだけやから。あんね、白石くんに彼女がいたとして」 「いたとして?」 「その子と軽いケンカしたとするやん。そういう時、女友達にどないしよて相談する? 普通」 「……えらい限定的な質問やな」 読めてきたわ、という表情で語る彼に向け、折り畳んだ携帯電話を印籠の如く掲げて口火を切った。 「正直ほんまにアホやと思う。でもってほんまに昔と変わってなさすぎ思う。聞かされてもただの惚気としか思えへんし、こんなん絶対イヤやん彼女にしてみたら」 「べつに、がそこまで気ぃ回す必要ないんちゃうん」 「回してへんよ、もう。やって白石くんよう考えてみて? 彼女とか好きな子とケンカしたとしてな、その子がほかの男の子に全部話してたらイヤやない? しかも相手は…その、前にその子を好きやったりしたら」 私はイヤや。 熱弁を振るい、しょうもないメッセージの届いた携帯を鞄へ納める。 今頃野球部はランニングに勤しんでいる頃なのだろう、彼方から勇ましい掛け声が響く。 それを一年前と今日とでまったく異なる気持ちで耳にしているのが不思議だった。 腹立たしいような悲しいような、呆れて物も言えないようなでも同様に心配しているような、説明が難しい境地に立たされている。 「……せやなぁ。それは、俺も嫌かな」 数秒の静寂を置いてから、ゆったりとした返答を落とす白石くんの顔色は、お世辞にも晴れ渡っているとは言えない。 苦味のある微笑がいやに説得力を醸し出し、肺に収まっていた空気を凝固させた。 そういう経験あるん、という踏み込み過ぎた言葉が喉元まで這い上がったが、唾を流し込むことでなんとか堪える。 「ほら、やっぱしイヤやろ? 私、気回してるわけやないもん。こんなん普通の配慮。…まあ、それはそれでイヤっちゅう女子もおるかもしれへんけど……」 「結局気ぃ遣とるやん」 「つ……遣ってへん」 軽く吹き出し笑うひとが、しどろもどろやけどそういうことにしたる、言い置いてアルミサッシに手をかけた。 窓の開け放たれる音に、直接鼓膜を揺するものではない、頭の中からの響きが重なる。 いつか見た光景だ。 けれど私の気持ちも、隣の横顔も、空気のにおいも違う。 初夏の焼けた風は舞わず、野太い掛け声に耳を澄ますこともなく、抜きん出て高い坊主頭を懸命に探したりもしない。 何事か形にしようとしているのか、含みの混ざる口元をただじっと待った。 夏を思わせる貴重な晴れ間の太陽が、白石くんの綺麗な鼻筋を照らしている。 目蓋の薄さに視線がゆく。 ほのかに散った睫毛の影は、憎たらしいほど長かった。 「……ま、真面目に返信するからあかんのかも。あのひと空気読めへんし、はっきり彼女の気持ち考えなさいて言うたほうがええよね、きっと」 待ちきれず二の句を転がしてしまった私のそばで、覚えのある体温が薫る。 気のせいかもしれないが、白石くんのそれはほかの誰かよりも高いよう感じた。運動部の部長さんだし、基礎代謝が違うのかもしれない。 だからなんだという話でも、なんとなく落ち着かなくなる。 「」 訳知れぬざわめきに翻弄されつつあったところ、じんと染み入る声音に呼ばれ、肩が二秒だけ強張った。 伝う反響は深く、耳たぶまでをも掠め取ろうとし、意味もわからず抗うのに手いっぱいの私は素早い反応ができない。 「正直野球部はどうでもええねや、俺は。付き合うてる子となんやあったかて、それは本人同士が解決せなあかん話やろ。せやったら、自分が回さんでええ気ぃ回して悩んどる方をどうにかしたい思うわ」 ともすれば淡々と聞こえる、抑揚の極めて少ない音の羅列だった。 しかしどうしてか冷たくは響かず、こちらを突き放しているとも思えない。 感情の籠もった言葉だというのに激しさや波打つ揺れも感じられない、けれど凪いだ表の下、底の底にはたしかなぬくもりが息づいていて、ただひたすら誠実な心根が顕れた声なのだ。 言っていること自体は結構な切り捨て型だが、すべてにおいて荒々しくない為だろう、すんなり聞き入れてしまいたくなる。 「もう泣かされてんの見たないしな。やから、が傷つかん選択してくれたらええな」 俺にとっても、と付け加えられた末尾に引かれ、横目で見遣ればかすかに目が合う。 顔ごと向けると傾いだ角度で笑む彼が、なんだか困った顔で更に笑った。 瞳に走る光が甘い。 まばたきで潰され消える刹那、彗星の尾じみた余韻で目の裏を掻く。 熱に浮かされて言葉が詰まるも、再び投げられる眼差しを受け鎮火した。 「そっ…その節は大泣きしてもうて、ご迷惑を」 「かけられてへんて。見てて俺が辛かっただけや」 一切の拘りも窺わせない、からりとした言いざまである。 ついでに吐息に近い微笑も付随してくるのだから、どうしようもない。 私には返せるものがなかった。 どういう生き方、いや育ち方をしたら、ここまで他を思い遣る人間になれるのか、真剣に白石くんのお母さんに聞いてみたいとすら思う。 ――ふいに、一年ほど前は必死に追っていた掛け声の群れが近くなる。 耳に届いてはいたから、幻聴の類ではなく現実なのだろう。 でもそれだけだ。 特別な感慨などは沸いてこない。 一等の意味も持たない。 そこはもう想い人の在り処ではなくなっていた。 溜めて、息を吐いた途端、凝り固まっていた体のどこかが崩れたのがわかった。 いっそ清々しい、寂しさもなく、長いこと抜け出せずにいた場所から解放された爽快感さえあった。 変わっていないはずなのに先程よりも清涼に感じる空気を吸って、自然とこみ上げた満面の笑みで言う。 「…ありがとう、白石くん。私助けられてばっかや。ほんまにいっつも優しいね」 些か丸まった瞳孔が子供っぽくてちょっとおかしい。 そう突飛な発言でなかったはずだけれど、白石くんにとっては驚くに値するものだった様子だ、どこか基準がずれているし、大概落ち着いているひとの虚を突かれた表情は珍しかった。 より笑みが深まって、窓の外の掛け声は遠ざかるばかり。 「なんや、にこにこして。そないおもろい顔しとったか?」 やがてこちらの反応を取って返す余裕が出たのか、軽く首を竦めながら問うてくるので、あえて笑顔は崩さず否定する。 いいえぇ、ちっとも。いつもと同じ白石くんの顔しとるよ。 こら、それやといつもおもろい顔っちゅう事になるやないかい。 おふざけにおふざけで乗ってくれる声色が優しい。 だから止めることができない。 そうして今更、これまで散々褒め称えてきたくせに気がついた。 私は白石くんの声が好きなのだ。 どんな話をしていても、心地よく鼓膜へ伝い、胸の中へと落ちていく。不快に感じたことなど一度たりともなかった。 のん気に弾ける上向きな気持ちをそのまま、笑声を立てていると例の釘が刺さる。 「あと何べんも言うけど、俺のは優しいゆうたらちょい間違うてるで?」 「そんなら、なに?」 刺しっ放しにしておくわけにもいかない、程度があるだろうと突っ込みたくなる謙遜を少々ひねた角度から突いてやれば、思案顔でほんの数秒黙ったのち、静かに囁くトーンで返してきた。 そやな。単なるワガママってとこか。 包帯の巻かれた左手が所在なさげに右の首筋を掻いていて、私はもう何度目かわからない感嘆の溜め息をつくしかない。 気遣いながらも、同時に自分の言葉が重くならぬよう心掛けてくれている。 背負う必要のない部分まで背負い、こちらの気持ちを楽なほうへ導こうとしてくれているらしかった。 本当に、なにをどうしたらここまでスマートに優しいひとになれるのかが謎だ。 尊敬の意も込めて見上げていれば斜めに視線をずらした白石くんが、いやすまん、今の聞かんかった事にしたって、色々ミスった、などと続けて撤回し始める。 なんで、と理由を尋ねかけ、頬がうっすらと朱に染まっているのを見、半端に開いていた唇が機嫌の良い形へ様変わりしていった。 かっこいいくせに、かっこつけていると思われるのがきっと恥ずかしいのだ。 しかしここで否定したとて、彼は喜ばないに違いない。 無言の内に頷いた。 「……、いい加減笑うのやめや」 が、ゆるんだ口元は見逃して貰えず、きっちり突っ込まれたのであった。 そんな風に話す機会が多くなった所為だろう。 「お前ら仲ええよな。付き合うとるんか」 悪意やら好奇心やらなにやどれにも当てはまらない調子で問われ、まばたきを一回。 ただ単にそう思ったからでそれ以上の理由など存在していなさそうな声の持ち主は、同じクラスで白石くんとは部活が一緒の、忍足くんだ。 テニスコートの周囲で鈴生りになっている女子ならいざ知らず、私にとってはクラスメイト、白石くんにとっては部活仲間という身近な人物から前触れもなく寄越されてしまった結果、えっと明後日の高さへすっ飛んだ返事しかできない。まったく想定外過ぎる質問だったのだ。 一時停止する視界の下方で、椅子に腰かけた白石くんがほぼ同じ目線で座る忍足くんのほうへと軽く身を乗り出した。 「そこそこ人の事見とんのに詰めが甘いで、謙也。俺はの応援団長。やなかったら良きアドバイザーや」 ごく普通の面持ちで頬杖をついていた忍足くんが、颯爽と言い切った所属している部のキャプテンへ鼻白んだ顔つきで言い募る。 「意味がわからん。ちゅーかそこそこてどういう意味やコラ頭の足りん残念なヤツみたいな言い方すな」 「惜しいなぁ言うとるだけやろ」 「いやフォローになっとらんわ! 大体自分で良きアドバイザーてお前、自画自賛か。自信過剰か。聞いてるこっちが恥ずかしいっちゅー話や」 「なんで、人気出そうやん。四天宝寺のバイブルが絶頂な結末まで導いたる。どや、宣伝文句までパーフェクトやで」 「やめろサムい。あと女子の前で絶頂言うなアホ」 打ったそばから返り、返したと思ったらまた重なる、付け入る隙のない会話のさ中、またしても唐突に話題の軸が己の側へと傾いて目を白黒させた。めまぐるしいことこの上ない。 「サムないサムない」 「流すな!」 「絶頂絶頂」 「そんで繰り返すなや! おっ前ほんまに人の話聞いてるようで聞かへん男やな!」 やや日頃の憤りを混ぜたツッコミを繰り出す彼を尻目に、どこ吹く風といった風体のもう一方の彼が上目遣いに振ってくる。 なあ、。 双眸に宿る灯りは、健やかに悪ふざけ一色だ。 その他意のなさ、迷いのなさにに釣られてぶっふと女の子らしさから程遠い調子で吹き出せば、 「お、見てみぃ謙也。ウケたで?」 「あかん、自分笑いのツボ緩すぎんで…。テニスならまだしもお笑い方面で調子乗せたら大惨事を招く男やねんぞ、責任取れんのか!?」 周囲の空気全部を巻き込みかねない賑やかな渦へと引き込まれていき、ついには声をあげて笑わされてしまった。 なんや人聞き悪い、ここに爆笑しとるオーディエンスがおるやんか。 些か不服そうな白石くんに、鋭い指摘。 お前の笑いは一部向けやっちゅー話どんだけさせんねん、去年のS−1で予選敗退したんはどこのどいつや。 飛び交う言葉の荒さが不思議と胸に打ち響き、この時期特有の鬱々とした雰囲気を吹き飛ばしていく。 窓の外は雨だろうが嵐だろうが、このひと達のそばなら快晴と相違ない。 笑う門には福来るとばかりに私はいっそう笑みを深く刻んだ。 要するに充実していたのだと思う。 悲しみは薄れ、傷もゆっくり癒えていく。 呆れるほかない恋愛相談で悩まされる回数が減り、彼と彼女が一緒に歩いている場面を目撃したとて胸が痛むことは少なくなっていった。 泣く日よりも、笑う日のほうが多い。 家族がいて、友達がいて、くだらない話もできるクラスメイトがいて、楽しいばかりの毎日だった。 異様に長く感じられた梅雨が明け、中学最後の夏が来る。 頂上を目指すテニス部には日ごと熱気が集まって、ひとつの大きな流れを形成していく。 そういう皆をまとめながら、厳しい眼差しで見遣る孤高を纏うひとの影。 話してみればいつもの白石くんだけれどどこか近寄りがたく透明な壁がそびえている気分に陥り、大会へ懸ける思いの強さがひしひしと伝わるので、勝利ごと沸き立つ校内に便乗して騒ごうとは考えなかった。 集中しているところ、邪魔にはなりたくない。 必要以上の連絡は控え、世間話に溢れたメッセージを送らぬよう心掛ける。 一抹の寂しさと応援する気持ちでは後者が勝り、昨年の冬よりも強い祈りを込めて願う。 白石くんにいいことがありますように。テニス部が勝ち続けますように。 そうして八月がぐんと近づいてきた頃、どうしてもと懇願する友人に引っ張られて試合形式の練習をするテニス部を見に行った日があった。 やあやあいざ最前へと血気盛んに詰め寄る連れととにかく恐縮してびくついた表情になっていた私では悪目立ちしたのだろう、しっかり把握していたらしい部長さんから日が暮れたのち至言を頂く。 、めっちゃ居心地悪そな顔しとったな。 夜の八時過ぎという時間帯を気にしてか、夜分遅くにすみません、社会人じみた第一声に持ってくるのだから、さすがは四天宝寺のバイブルでありスーパーマンだ。 やって、邪魔になりたなかったし。 彼にしては珍しく電話をかけてきた理由は、字を打つ手間を省いた所為に違いない。たしかに思いを伝えるには手っ取り早いだろうが、突然過ぎる。着信を知らせるディスプレイに白石蔵ノ介の五文字が映し出された時など、慌てふためき取り落とす寸前だった。 アホやな。邪魔なわけないやろ。 お決まりの叱責になっていない叱責が伝い聞こえ、見えてもいないのにごめんなさいとつい頭を下げる。 けどせっかく頑張ってテニスしとるのに、まわりに関係ない女の子がおったらイヤかなぁ思て。 いやいや俺どんだけ余裕ないヤツやねん。おまけに大分感じ悪い男やでそんなん。 えっごめん、べつに白石くんのことそんな風に見てへんよ! わかっとる。のいらん事気にしぃ癖には慣れたわ。 かすかに微笑む語尾がやわらかく、直接話すよりはどうしてもクリアに響かない電話特有の音色に混ざり、なんとも言えない間を生み出した。 私のほうはというと晩御飯にお風呂も終えすっかり家モードに突入しているのだが、白石くんはまだ外にいる様子だ、携帯の向こうで車が通り過ぎる気配がするし、歩いて風を切る音だって伝わる。 いまどこ? まだ学校におるん? 学校にはおらん。外や、外。クッタクタのボッロボロで帰っとる真っ最中。 同情すべきか努力を褒め称えるべきなのか微妙なラインの中学三年生が吐く台詞ではない返答に苦笑しつつ、わずかなノイズが耳に障る為携帯端末を持ち替えた。 お疲れ様、素直に言えば、おう、と短い相槌。 俺に限った話やないと思うけど、誰かの応援に助けられる時っちゅうのは、結構あるもんなんや。 クーラーをきかせた室内と異なり、彼が歩む屋外は夜と思えぬ暑さだろう。 しかし鼓膜に触れるのは、想像するだけで汗の滲む気温を忘れさせる落ち着いたものだった。 せやから今日は嬉しかった。自分が来たんで余計にな。見に来えへんやろな思てたから。 あちこち聞き捨てならない。 ……私、そこまで冷たい子に見えるん? なにを一番初めに持ち出すか迷ったあげく、何拍かの間を置いて尋ねてみる。 そうやない。近づきたくないんちゃうか、てな。 どういう意味だと更に問いを重ねかけ、テニスコートまで来ればグラウンドがよう見えるし、あっさり告げられたひと言によって行く手を断たれてしまった。 見学しに向かったのは放課後だ。テニス部ばかりか、他の運動部も盛んに活動中の時間だった。彼の言い差す場所は、大抵野球部が使用している。 欠片と欠片が結びつき、次から次へと連鎖していった。 返す声が出てこない。 出したいのに、喉元でぐるぐる唸って留まり続ける一方なのだ。 こんなん言うとったら、またツッコミ貰てまうなぁ。白石くんのがよっぽど気ぃ遣いやーて。まあ俺の勝手な意見やし、聞き流したって。が平気ならもうどうでもええねんから。 携帯越しにふっと荷を背負い直すちいさな物音が聞こえ、よく目にするラケットバッグが自動的に脳裏で浮かぶ。 私の手にも背にも余るだろうが、いつぞやのハードルみたく、いつかのペットボトルだらけのビニール袋のよう、重さの存在を感じさせぬ動作で抱えるに違いなかった。 白石くんはいつもそうだ。 大事なことや、すごく嬉しくなることを、なんでもない風にこなしてしまう。 惜しみなく差し出し、見返りのみの字も求めぬ様は、まさしく聖人そのものである。 優しい声が電波に乗って、私の部屋までそのぬくもりを届けてくれた。 そんだけ。どうもありがとう、嫌々見に来てくれて。 詰まった息が緩んで失せる。嫌味に取れない言葉の端で慣れた軽口の気配が滲んでいるから、溜め息の出番もない。 やめてや、お礼言われるようなことしてへんもん。あと嫌々行ったりしてないよ。それからグラウンドも大丈夫。……私こそ言わなあかんよね、ありがとう。 何度かの息継ぎを経て言い終えたらば、耳元で囁きに似た笑声が静かにこぼれた。 鼓膜を通し、耳奥へ染み入って、喉の近くを下るとやがては心臓に辿り着く。 ほのかに火の灯る胸が温い。 ゆったりと高鳴る鼓動は、なにをも壊さないゆったりとしたリズムを繰り返している。 おやすみ。また明日な。 我も忘れて浸っていたおかげで、白石くんの音に溢れた挨拶に芸なくおうむ返しする他なかった。 通話ボタンを押す指が惑う。 自分はこれから、どれだけこのひとの思い遣りに応えることができるのだろうか。 貰ったものを数え上げてみると、途方もないような気がした。 つつがなく七月を過ごし、長期休暇がやって来た。 気温や湿度は似ているけれど、今まで積み重なってきたどの八月とも比べられぬ八月へとカレンダーが変わる。 同じ景色も何故だか違って映えるのは、四天宝寺中生として過ごす最後の夏だからかもしれない。 刺す日差しは肌を焼き、アスファルトをも焦がす勢いだ。 蝉の大合唱。 数分外に出ていただけで、額から汗が噴き出す。 夕立前の、水っぽいにおい。 急速に曇っていく空の濁りは、この世の終わりかというほど黒々していて暗い。 快晴の昼、写真にとっておこうか一寸真面目に考える、立派な入道雲が街並みの端にそびえ立っていた。 何処からこみ上げる熱気に炙られた空気を吸うと、気管が蒸されて眉間に皺が寄って、普通に歩いているだけでも息がしにくいのなら、テニスなどという激しい運動をしているひとは如何ばかりかと思いを馳せた。 宿題を片付けつつ受験勉強に励むさ中、新幹線ならば東京まで何時間か、なんて夢想に耽ったりする。 快進撃を続けたテニス部は見事全国大会出場を決め、今年の開催地である東の都に滞在しているのだった。 一日掛かるわけでもない、掛かったとしても数時間だろう、だから余計に行けないことが歯痒い。 どうせなにもできないし、意味すらないとわかっていても、空き時間に思考の矛先を向けずにはいられなかった。 一体どういったタイミングなのかはあずかり知らぬところであるが、時折気まぐれみたく白石くんから戦果報告が送られてくる。 気の利いた励ましひとつろくにできない私は、おめでとうと頑張ってをその都度添えて返信したけれど、夏が進むにつれてディスプレイは彼の名前を表示しなくなっていった。頂上に近づけば近づくほど、試合内容も日程も厳しく切迫していくのだろう。 そわそわと落ち着かぬ胸中を抑え、便りのないのは良い便り、唱えて大阪から既に念の域へと踏み入れつつある祈りを送る。 茹だる暑さと格闘する間にも、刻一刻と三十一日が近づいていった。 そして、惜しくも準決勝で敗退したことを知ったのは、夏休み最後の週だ。 テニス部マネージャーの友達の友達が私と知り合い、くらい遠いところから回り回って耳にした情報であったので、当事者たる部長の彼にひと言贈るのはどうしても躊躇われた。 実際試合を目にしていないのだからいい加減な言葉など選べないし、これまでのおめでとうと頑張っては通じない。 思い出す。 今でも目の奥に焼きついて離れない、コートに立つ背の大きさ。 露骨に近寄るなと訴えてはいないものの、たったひとりで戦っているような張り詰めた空気が他者の侵入を拒んでいた。 遠い白石くんが寂しくて、同じくらい頑張れとエールを送りたくなる、言葉という形では出てこない感情のさざ波が心の内壁を削り持ち去ってしまう。 こんな時、どうしたらいいのかわからない自分が嫌だ。 たとえば立場が逆だったとして、かの完璧に気遣いをこなす人物は、見事私に救いを与えてくれるに違いない。 落差が悲しいし、死ぬほど虚しい。この上なく無力だ。 去年の夏休みにとった行動と比べてみても、大した進歩が見受けられず項垂れた。 これでは連絡先を知っている意味がないではないか。 ちょっと外したことを言われたらすぐ怒る心の狭いひとじゃないし、とにかく行動してはどうか。 自分で自分を叱咤したところでやはり良案は浮かばない、唸っている内に八月末日はさっさと訪れ、時差ボケでも患ったのかと突っ込みたくなる気怠い雰囲気を漂わせる生徒が大多数の九月が始まった。 一年前は前後不覚の状態で歩いた通学路を行き、夏前と違って大人しいグラウンドになにか既視感を覚え、ああちょうどここで声を掛けられた、などとしみじみ顧みていたらテニスコート方面からやって来た人影とかち合い一秒、呼吸が止まる。 「白石くん」 余程驚きに満ちた顔をしていたようで、目を見るや否や、どういう表情なんそれ、と笑われた。 七月の頃とそう変わりなく瞳には映る。 少し肌が焼けてい、第二ボタンあたりまで開けられたシャツの胸元が涼しげだ。制服を着崩すタイプではないというイメージがあったが、それも部長の肩書ゆえだったのかもわからない。 重役から下りた身は軽やかだ。 大抵肩に在ったラケットバッグがない為、えも言われぬ違和感が胸を差す。 どうしてか一年前の今日、喉を潤した水の味が舌に蘇った。 「……あの、残念やったね。全国、準決勝」 しかし実際の口腔内は渇いてい、声が空回る感覚にとらわれる。 「どうせまたいらんとこに気ぃ遣てたんやろ。お疲れ様言うてくれたら充分やねんで、俺」 苦笑と朗々とした音の間を縫う笑声は、すべてを見越した上で返事を寄越す。 ははーっ、と時代劇ばりに額を地面に擦りつけるところだった。控えおろう、頭が高い、なんて白石くんは絶対口にしないだろうけれど。 「うん…ごめん。どないしよて考えとったら、九月になってもうて」 「まあ俺も連絡せえへんかったし、そら送りにくいに決まっとる。が気にする必要、一個もない。けど負けました、はい慰めてーみたいな内容なったらかっこ悪いやんか」 せやから堪忍してな。 うんとちいさく感じる通学鞄を抱え直す仕草さえ様になっている。 滅相もございません、必死に否定し過ぎて首振り人形と化した私へあてられる眼差しがやわらかい。 吹き出されたとておかしくはない滑稽さのはずだが、眼前の彼は決してそちらの意味での笑みを浮かべなかった。 蝉の声、葉擦れの音、まだまだ厳しい日向の熱。 繰り返す季節の中で、私と彼は少しだけ違ったところに立っている。進んだのか後退したのかは判断が叶わない。 「白石くん、お疲れ様でした」 でも嫌ではなかった。どちらでも構わないとも思った。 白石くんがそばにいるのなら、歩みの行く先はどこでも良い気がしていた。 隣の整ったかんばせが優しい笑みを佩き、玄関前の段差を上る肩が揺れる。 「せやなぁ、お疲れサマーや。夏だけに」 「……ごめん。忍足くんやないけど、さすがにそれはサムい」 「まだまだ涼しくならんし、冷えてちょうどいいやん?」 からからと天高くまで放たれる声が近くにあるおかげですっかり安心してしまい、生まれた油断が招いた結果だったのだろう。 似たような時期に似たような台詞、似たような想いに心臓を掴まれる瞬間が傍らで転がっていただなんて、この日の私はまったく想像していなかった。 長期休暇が明けてわずか数日、明確な痛みで以って思い知ることになる。 ← × → |