08




新学期一日目が問題なく終わる。
二日目からはつい昨日までうんざり顔で登校していた生徒たちが、来るべきS−1GP予選へ向けてにわかに活気づくので、休み明け独特の空気も早々に退散してしまった。
いまだ蔓延る熱気は秋の訪れを感じさせてくれず、夏の名残に満ちている。
SHR中に先生が口にした、卒業まで半年、という事実にも現実味がない。
ずっと四天宝寺中三年生のままで過ごせる気がして、受験だの進路だの卒業式の歌を決めるアンケートだの、次々情報として目や耳に入ってきたはいいが、肝心な部分にまで届かないのだ。
ざわつく校舎内ではちょっとした寂しさなど風の前の塵に同じ、吹けば飛ぶ、あってないようなものだった。
夏休み前であればばっちり視界に入っていた白石くんの背中はというと、今の席からはるかに遠い。物理的に確認できないのである。
初日に行われた席替えで見事教卓付近の最前列を引き当てたそのひとは、お前デカいし邪魔やわ、後ろ行ったれ、目ぇ悪い奴と変わりや、等々の攻撃に合い、自らの責任でもないのに、わかったわかった、軽く笑いながら列の一番最後へと移動し、前から三番目という良いんだか悪いんだか微妙な位置の私はクラス内での彼を見失った。
先生に当てられて答える時、板書を写す為に少し丸まった角度、忍足くんや他のクラスメイトと話している間に度々揺れる肩。
後ろの席で眺めていられる期間が終わりを告げてようやく、己の幸運に気づく。
隣でなくとも構わない。
視界の隅に映っていさえすれば、胸の内が穏やかに凪いだ。

訳を知ろうとしなかった。
意図的に避けていたのかもわからない。
たしかに存在する惜しむ気持ちの在り処を、探らずそのまま置き去りにする。
し続けて、手痛い返しを正面から受けたのだ。



九月に突入して幾日経った頃だろうか。
そう長い時間を過ごさなかった気がするから、片手で数えられる程度の日数しか経過していなかったのだろう。
暑さがわだかまる教室内で担任の先生に提出するプリントを必死に書く私の掌は、放課後になっても尚きつく厳しい日差しに照らされうっすら汗をかいていた。
他クラスの友達とおしゃべりをし過ぎて次の授業に遅れそうになり、少々廊下を走ってしまった場面を見咎められ、受験生だろうがなんだろうがお構いなしに反省文を求められて四苦八苦の真っ最中だった。
ごく普通の学校ならば、こう言っては角が立つけれども、しおらしく謝罪と更生致しますと訴えて済むものを、四天宝寺中はそこに笑いとオチを求めてくる。
つまらんもん書いたらもっかい書かせんで、明るく笑い飛ばす生活指導の先生を恨んでみても覆るでもなし、はい、と項垂れて答えるしかない。
手伝おかと言う友人の申し出を丁重にお断りし、ない知恵を絞りに絞って書き進める。
ここは余分で、これはサムい、しめの言葉はこれ、徐々に組み立てていき、いよいよ終わりが見えてきた頃、外の廊下がかすかな足音をこだまさせた。
腐っても三年生だ、部活はないし、特別な用事でもなければ残る者はそういない。
おや、とペンを持つ手を止めずに耳だけ傾けてみる。
遠いようで近い、誰かの気配が肌を伝う。
気温湿度と異なり空だけが秋めいて高く、部活動に励む下級生の声々が昇っていった。
彼方で固まりになっている無数のざわめきと、どこかの扉を開ける音。
それらを縫い、くぐり、しかし掻き消しはしないやわらかさでまっすぐ三年二組の教室に向かってくる歩みが、突如として現れた跳ねる声に押し留められた。

「…先輩、待って下さい!」

女の子だ。
壁一枚を隔てた場所で、いつぞやお叱りを受けた私と同等、いやそれ以上の速度で駆ける賑々しさが沸いている。
階段近くから走って追いついたらしいその人物は、やや荒れる息を整えながら二の句を継いだ。

「しつこくして、ごめんなさい。けど、私……どうしても、言わなあかん思て……」

立ち止まる両者がただならぬ雰囲気を放っているのが、姿さえ見てもいない私にだってよくわかった。
これは自分が聞いてはいけないことではないのか、おたつく手からペンが転がり落ちて、座るか離れるかを迷った腰は半端に浮く。
扉前で繰り広げられていては退室できないし、かといって堂々と盗み聞きみたいな真似をするのも躊躇われるし、とうろつき迷っている間に、こちらの存在を知らぬ廊下の二人は着々と時を進めていった。

「先輩もう卒業やし部活にも来おへんし、そうなってもうたら…私なんて接点ないんです。……せやから、聞かせて下さい。どうしても、ダメですか?」

切実な音色が胸に迫り、無関係の私にも緊張が伝染する。
我知らず手元へ落ちた視線が、ゆるやかに開かれた手の甲を見とめていた。
窓側からの光に触れ、指の形に影が映え、白い紙の上を伸びていく。

「彼女おらんって聞きました。それでもあかん理由、知りたいです」

涙に滲んだ語尾は頼りなく、女の私ですら思わず抱きしめたくなるくらい弱々しいもので、結構な時間無言を貫いている相手に対しちいさな憤りを感じてしまう。
これだけ一生懸命なのに、可哀相だ。
眉間と心に寄った人間らしい皺は次の瞬間消え失せた。

「私、白石先輩が好きや」

諦めきれへん。きちんと納得せんと、どこにも行けないです。
残暑の熱に浮かされていた汗が一気に引いて、代わりに冷たいなにかが背筋を凄まじいスピードで這い上がる。
ほんの数秒、しかし体感ではそれ以上の間、目の前が空白と化す。文字通り白く染まったのだ。端から中心へ向かってあらゆる色彩が飲み込まれ、自分の唇がみっともなく半開きになっているのに気がついた。
閉じなくては。
でも、どうやって。
体の動かし方すら忘れた感覚はとても気持ちが悪い。
ふと息苦しくなったので意識せず空気を吸い込むと同時、視界がぱっと晴れ渡り、先刻と変わらぬ情景が無造作に横たわる。
現実か夢かが判断できない。
今の間に違う世界へ飛んでしまったような気さえした。
――苦しい。
呼吸は絶え間なく繰り返されているはずなのに、いくら空気を肺へ送り込んでも口元を割る息が荒くなるばかりで、体へ降りかかる悪事をひとつとて跳ね返せない。
暑いのにお腹の底は凍えそうなほど寒かった。連鎖して冷えた汗が額を淡くかたどる。
震えた肌はあっという間に薄くなり、剥がれ、伝うその汗を直に浴び、あまりの痛みと冷温に体の全部が悲鳴を上げた。
冷たい水がはち切れそうに唸る鼓動の深部へと侵食し、抵抗するそれらが胸の中を滅茶苦茶にかき回す。
振動で喉が膨れ、舌の根を引きずり込もうと蠢き、かちりと鳴った奥歯を咄嗟に手で押さえて耐えた。
音を立ててはいけない、強迫観念に駆られて呼気にすら止めを差す。
顔に食い込む指は恐ろしく体温を失っていて、ひどい跡がつくのではないかとごく真面目に考えた。

苦しい。
苦しい、苦しくて、死んでしまいそうだ。
こんなに苦しいのならいっそここで終わりたい。

唱えた途端、静寂に張り詰めた空気が萎えていく。

「堪忍な」

前触れなく鼓膜へ届いたそれは、誰でもない、よく知る白石くんのものだった。
何度頭の中で再生したところで、ほかの人物など思い当たらない。
突き放すでもなく、感情に任せるでもない、優しく物柔らかで、上品な響き。
どんなことを紡いだとしても、好きだと思ったあの声だった。

「好きな子がおるから。…その子以外とは、付き合いたいと思えへんのや」

骨の内側、胸の中身が刺された感触を忘れない。
やわくなっていた部分が細糸で引き絞られ、ひきつけを起こしたかと錯覚した。
心音が途絶える。
息は根っこから止まり、爪先から急速にぬくもりが引いていった。
酸素の回らなくなった頭が、真っ逆さまに落ちていく。そんなことは実際に有り得ないのだが、感覚器官は恐怖を伴う浮遊感をしきりに警告していた。
似た言葉を、いつか耳にした覚えがある。
けれど私を包み押し潰さんと流れ込んでくる感情は、どこかが違う。
一年以上前の春。
二年生になったばかりだった。
その日に限って近道を選択し、自分を呪いに呪った。
失恋の第一歩に声がひしゃげ、喉が詰まり、大粒の涙が溢れ出た、私と私の秘密の共有者とのはじまりの日だ。
葉擦れの音と、日差しによって作られた陰影が脳裏で響いて揺らめいている。
それだけがいやに美しく鮮明で、あとは泥にまみれて見るに耐えない。
過去と今が混ざり、場所も時間もなにもわからなくなった脳がぽつりと呟く。
彼は何と言ったのだろう。
かつて追っていた野球部のひとも、同じような物言いをしていた。
聞いたばかりのくせして把握が叶わず、ぐらぐらと定まらぬ頭の芯は行きつ戻りつ、確かめようとするそばから震え上がるくらいの拒絶に襲われ、無闇に翻弄されるばかりでどうしようもない。
ふいにあの声が蘇る。
こんなとこで座り込んで、どないしたん。具合でも悪いんか?
眼前には、教室と光這う地面とがまぜこぜになった情景が広がっていた。
白石くん。
口には出さずに名を呼ぶ。
今日もあの日も、そばには彼がいた。
辛い時、楽しい時、泣き暮れた日、いつもそばにいてくれた。
ようやくと言った具合で俯く一方であった首を持ち上げるのと、教室の扉が開かれたタイミングはまるきり重なってい、反射的にそちらを見遣ってしまった私とごく当たり前に室内へ足を踏み入れたひとの目が合う。
瞬間の、失われた顔色。
声をあげる間もなく抜け落ちる様は目蓋をちりつかせ、私の顔からも血の気を引かせていく。
だって、白石くんの表情を見るからに、現実だ。
夢ではない。
幻でもないし、こちらの勘違いでもなかった。
その事実に、耐え難い衝撃を受けている。
強張り固まっていた私の様子があまりにもひどいものだったのか、それとも彼というひとが元より持ち得る優れた対応力の賜物なのか、さっと体勢を立て直しいつもの綺麗な笑みを滲ませつつ、たおやかな揶揄を投げてきた。

「こら、盗み聞きはいかんで。おるんならここにいますよーて俺に教えな」

閉まるドアの反響、次に床を踏み込む上履きが擦れる音が間近で落ちるや否や、何処かへ去っていた呼吸が戻り、目一杯息を吸い込んだ。
胸が上下し、鼓動や体温も付随する。
廊下からは何の物音もしない。
あの女子生徒がいついなくなってしまったのか、まるでわからなかった。

「ご…ごめん! 盗み聞くつもりとかなくて、気づいた時はもう二人とも話しとったし、出るにも出られんくて、ほんまに……」

決して叱責する口調ではなかったにしろ、部外者が聞くべきでない話を聞いてしまったのは動かしようのない事実だ、謝罪と弁明をせざるを得ない。
慌てふためく私を見、一歩一歩距離を詰める白石くんが、不自然なほど整った微笑みで首を振る。
わかっとるて、冗談や。
心地よく感じるはずの声は何故だか遠く、耳のあたりをざわめかせるので、思ってはいけないことだと重々承知しているが塞ぎたくて仕方ない。
聞きたくなかった。
これ以上、白石くんの言葉を受けていたくない。何故かなんて知らない、知りたくない。とにかく怖かった。

「びっ…くり、した。私いっつもタイミング悪いね、なんでやろ。きょ、今日だけやなくて、あん時も鉢合わせしてもうたし、なんや変なものでもついてんのかなぁ」

黙っていれば気遣い屋の彼はあれやこれやと口を開くだろうがしかし、だからといって沈黙も恐ろしく、きちんと考えず浮かぶままの言葉を形にしていく。

「おまけに白石くんがおんなじようなこと言うから、余計にびっくりや。もう、どっちがどっちなんやろていうか、こんがらがって。私知らんかったし、前も今も、急に聞かされて、それで……」

それで。
最後の一声を再度脳裏でのみ響かせて、ついさっきの白石くんの声音を遡り追走した。
好きな子がいる。
そう言ったのだ。
好きな子以外とは付き合えない。
真摯極まりない、反論のしようもない、これ以上ないほどに正当な理由で、誰かの想いにピリオドを打ったのだ。

――はたして打たれたのは誰のものだろう。

急激に頭の中が過ぎた日々へと戻り、積み重なってきた思い出のひとつひとつを丁寧且つ迅速に数え並べていく。
真夏、電話口の声、教室で男子とふざけている時の子供みたいな表情。
最終学年へ進級した春、一緒の組と知りよろしくと言い合った。
寒さが身に染みるクリスマスイブ、ココアの甘い味。
明るい通りを選んで帰るから大丈夫だと固辞したのに、危ないから送ると言って絶対に引かなかった頑固さが垣間見えた夜。
文化祭に、校内一アホ武道会。
物腰柔らかな見かけからは想像がしにくいけれど、スポーツマンらしくとても力持ちの上、常に重いほうを選ぶ紳士なのだ。
余韻と予兆の混ざったお祭り騒ぎ、使われていない倉庫の埃っぽいにおいは、懐かしくも慕わしい。
空元気が本物の元気になっていって、辛い一方の気持ちに荒らされた心が丸みを帯びて艶めいていく。
感謝と尊敬の念が折り重なり、大切な友達だと認識を深めるしかなかった。
なにも伝えられぬまま終わった恋があった。
耐えきれずに、人目も憚らず泣き濡れた。
一途に走り向かっていた頃もあった。
ひょんなことから巻き込まれたそのひとは、軽くなく重くもない助言をし、いつだって話を聞いてくれた。
撫でる声。
ミネラルウォーターや二人分の上履き、立ち尽くす私の手首を掴む、掌の温度や大きさ。雨の香りに混ざる髪のにおい。
伸び盛りなのか見るたび広さを増していく背中と、すっきりして無駄のない筋肉がついた腕、年がら年中ラケットを握っているにも関わらず美しく伸びる指先。笑った時の唇がたおやかに曲がる。
という自分にとって慣れ親しみ過ぎた苗字も、彼を通せばなにか特別なものへ思うようになったのは、いつからだったのか。

形なきアルバムのページをめくる指がはたと止まり、過ぎゆくばかりであった回想も同様の動きを見せた。
遡り尽くした記憶が現在へ向かって矛先を変え、まばたきするかしないかの間にあるワンシーンを探し出す。



今年の夏休み前だったと思う。
休日に図書館で友達と勉強をするという名目で集まり、だが結局は集中できずにお喋り大会と化して早々にファミレスで食事となったその帰りだった。
駅のホームで電車を待っていれば、視界の隅に見知った人影が映り込み、はっとして首を傾ける。
階段を上りきり、電光掲示板の下で携帯電話を眺めているひとの肩には、相変わらず重たげなラケットバッグが下がっていた。
制服で佇むところへ、白石くん、呼びかけて躊躇する。
近くにいた同じ年頃の女子、大学生風の女のひと、全員とまではいかないがかなりの注目を浴びていた為、馴れ馴れしく駆け寄ることなどできそうにもなかった。
手元へ下がる彼の眼差しは、常のようにゆるやかではない。
棘のある鋭さこそ堂々出していないが、周囲のざわめきを拒んでいるのは明白、散々目にしてきたひとの好さを失くした表情はどう頑張っても近寄り難かった。
だから、熱の籠もった視線を送りささめく彼女たちも、それ以上の行動を取らないのだろう。
携帯端末を手にしているのだから気づくはずだし、メッセージを送ってみようか。
考えながら鞄をまさぐったその時、次の電車がいつ来るのかを調べようと頭上の掲示板を仰いだ彼が私を見つけてくれた。
一瞬目を丸く開き、すぐさま相好を崩す。

雑踏の中ではしっかり聞き取れなかったのだが、唇はそのように紡いでいた。
包帯のまかれた左手を軽く上げながらこちらが動くより先に歩み出し、長い足で以ってさっさと距離を埋めてくる。
どこかほっとした顔色をしているのがおかしい。そんなに女の子の視線を受けるのが苦手なのだろうか。

「偶然やな、どっか出かけた帰りか?」
「うん。友達と図書館行っててん」
「おお、エラいやん。流石は受験生」
「……まあ、でも、途中からご飯食べてお喋りしてただけなんやけどね」

勉強中あるあるを地でいっとるなぁ、微笑ましげにこぼす彼へ、ていうか白石くんかて受験生やん、同い年やねんから、油断なくツッコミを入れた。
周りから降り注ぐ視線の束を、あえて気にせず会話を続ける。

「お休みやのに、部活してたん?」
「大会近いからな、日曜なんかあってないようなもんや」
「ほかのみんなとは一緒やないんやね」
「家族に買い物頼まれてもうた俺だけ別行動。……なんや、一人やったら不服か?」

ううん、単純になんでやろて思ただけ。
そない四六時中一緒におるつもりないんやけど。
なんとなくイメージがあったんや、テニス部はみんな仲ええなっていう。
まあ、悪くはないやろな。
あくまでぼかす物言いに笑みが転がったとほぼ同時、電車が来たことを告げるアナウンスが天を駆け巡る。
床に描かれた停車位置のラインへと寄り、髪を弄ぶ風と共にホームへ入ってきた車体を見るでもなく眺め、そば近くにいても声が掻き消されてしまう轟音をやり過ごしてから、冷気の溢れる中に乗り込んだ。
エアコンのよく効いた車内は天国みたいに涼しくて、それまでじわじわと滲んでいた汗も瞬時に引いていく清涼感を覚える。
夕暮れ時だ、茜さす空が窓の向こうに広がっており、舞い込む光はオレンジがかって眩しい。
席が埋まる程度には混雑している、示し合わせたわけではないが、互いにドア近くへと進んでいった。
独特の音を鳴らしつつ、扉が閉まる。
ゆっくりと走り出した車体はがたごととやや喧しく唸っていた。

「……最初、やてわからんかった」

おもむろに開かれた唇が呟き落とした声により、耳の上部が俊敏な反応を取る。
目線を遣れば、白石くんは静謐を帯びながら私を見下ろしていた。

「制服とちゃうし、雰囲気違て見えたから」

なるほどそれで、と腑に落ちる。
丸く膨れた瞳と、どこか安堵したような表情の訳が窺い知れたのだ。

「着とるんは違うても、中身は変わらへんよ?」
「変わったら困るわ。俺も、も」

目を細めて破顔するひとが、つり革に手を通して少々背を屈めた。

「けど言われてみれば、学校の外で会うんは初めてやったね」
「なんやかんやでほぼ毎日顔合わせとるのにな」

それはそれですごい話だ。
きっと白石くんみたいなできたひととは、たまたまクラスが同じで、たまたま大泣きの場面を目撃されでもしていなければ、知り合うことも難しかったに違いない。
奇跡の確率でこうして隣に立っているのだと思うと、自然と背筋も正しく伸びる。

「そこ、寒ない?」

クーラーもろに当たるやろ。
指摘を受けて天井を見上げる、なるほどたしかに冷風直撃コースである。気づかなかったのだから問題はないがしかし、白石くんの目にはノースリーブのシャツが寒そうに映ったのかもしれなかった。
平気、大丈夫。
偽らず答えると、ならええけど、冷えたら遠慮せんとすぐ言うんやで、年頃の男子らしからぬ配慮に満ちた声が降って、頬がゆるんだ。
そんなやり取りをしたのもつかの間、次の停車駅でどっと増した人波のおかげで、結局涼を浴びる位置から離れざるを得ず、二人して隅へと追いやられてしまう。
満員電車一歩手前となりつつある車内の狭さに窮し、つり革から手を離した白石くんが体の向きを変え、背中を座席のほうへ預けた私とは自然向き合う形になった。
どやどやという擬音が似合いの騒がしさに包まれるさ中、尚も詰め入る人々を避ける為にドア側へと体を近づけたら、手摺を掴む左手とやわい接触を起こして肌が粟立つ。
喉は鉛みたいな息のだまで詰まった。
自覚症状がなかっただけで実際は冷えていたのか、剥き出しの肩に触れた彼の指が熱い。もしかしたらびくと首を竦めていたのかもしれず、ややあって熱源が静かに失せた。
けれどこの持ち主が気を遣ったゆえかと考えるだけで、感触は異様に長く尾を引いた。
背を縮こまらせてちいさくなっていると、今度は反対側の肩近くをよぎる腕から体温が放たれ、直接さわっていなくとも空気を伝うのだから動けない。
仰ぎも俯きもしない目線が白石くんの胸元のみを確認し、数字にしてわずかであろう距離を知りたくもないのに知らせてくる。
日常生活では起こり得ない接近に動揺したらしく、にわかに騒ぎ始める心臓が疎ましかった。この近さでは聞こえやしないか気が気でないのだ。
静まれ、呪文のように繰り返して息を飲んだ時、内緒話に似たトーンの囁きが鼓膜へ染みた。
エラい急に混んできよったな。
か細い響きで体の軸が揺れる。
…そやね、なんかあったんかな、イベントとか。
震えるなと念じてどうにか紡いだ声が、我ながらとても頼りない。
日曜やし、元々混む駅なんかもしれん。俺この路線よう使わんから詳しくないねや、わかるか。
私もあんま使たことない。それに、お休みやと余計にわかれへん。
互いに聞こえるか聞こえないかの音量で行き来する言葉はごく普通の内容だ、でもどこか不自然で落ち着かない。
常と異なる響きの所為かもしれないし、日常の内の非日常が織りなす妙な違和感が所以かもしれなかった。
そうか、淀みなく答えた白石くんは首から上を窓の外へと傾け、ぼんやりと彼方を眺めている。
眼差しが絡まないのをいいことに、そっと見上げながら来るか来ないかわからぬ続きを待った。
おさまらない鼓動が胸を叩き、呼吸し辛くさせる。
過ぎていく一方の時間を数える余裕もない。
がたんごとん、と一定の間隔で足下から響く音に合わせて骨がぶれ、数多の人が押しこめられた熱気に頬が火照った。
傾いて、あとは沈むだけの夕陽を浴びた彼の髪が綺麗に透けている。
同じくらい美しい横顔。
通る鼻筋と、結ばれた唇が静々と息づく。
隆起した喉仏に濃い影が落ち、首筋に儚さからほど遠い陰影を生み出す。
前髪の奥の瞳は差し込む灯りの色に染まり、長い睫毛には細やかな光の泡が宿っていた。
それぞれが煌めいて止まず、車体の動きにつられてほんの少し揺らいでいる。
息が詰まった。
鞄の紐を握る指先に力が籠もる。
なんでもいい。
なにか話して、お願い。
心臓と肺とを掴む熱の塊が渦巻いて、舌は苦しげに撓んだ。
声が出せない。出せたとしても、なにを話せばいいのかまるでわからなくなっていた。
こんなことは初めてで、思考が右往左往してどうしようもない。
ただ、早く降りる駅に着けばいいのにと祈るばかりだった。



意識が回想を振り払い、電車の情景は砂と消え人気のない教室へ様変わりする。
白石くんはまだ数歩ほど距離を残しており、おかげで思い返している時間がほんのわずかだったのだと知った。
ひときわ大きく心臓が悲鳴を上げ、気管の途中で空気が固まってしまう。

「あ」

声にするつもりはなかった。
だから上手く繕えずにひどく掠れて響き落ち、落ち切る前に白む視界がなにも映さなくなった。
ぼろとこぼれた雫が机上のプリントに大きな染みを作る。
初めはわからなかった。どうして頬が濡れているのかも、目蓋が熱い理由も、途轍もない質量に捻り曲がった喉が苦しいのかも。
――ああ、そうか。
溜め息に似た嘆きが、吐き出される空気へと音もなく混ざって自覚に至る。
じっくり追う間も与えられず、後から後から溢れる涙になにもかもを奪われてしまった。
アホだ。馬鹿だ。ありえない、なんで、どうして、今なんだ。
どうして放っておいたままにして、こんなところまで来たのか。できが悪いにも程がある。
頭の中で生まれて鼻の奥を下り、胸元あたりでない交ぜになっていく数々の罵詈雑言、ぶつけ所のない苦悶が皮膚を内側から掻き毟った。
いくつものひっかき傷が治らずに増えていく。
痛い。重い。耐えられない。
もう嫌だ、誰か助けて、乞おうとし、無意味なのだと思い知らされ絶望する。
私が辛い目に合い、ひとの支えを知らぬ間に求めていた時、いつだって手を差し伸べてくれたのは白石くんだった。
まさかその聖人に打ちのめされるなんて考えもしなかった。



たった名を呼ぶだけでこちらを案じているのがよくわかる声に、涙腺が腫れ上がって膿む。
口をつくのは無駄な謝罪だ。

「ご…め、白石くん、ごめん、なさ……」

ほかに言うべきものが見い出せない。
嗚咽に途切れる言葉の羅列を、他人事のように聞いていた。
体も感情もすべて自分のものだというに、思う通りに動いてはくれなかった。
いきなり泣き出したりなんかしてごめんなさい。
気づかないでいてごめんなさい。
気づいてしまって、ごめんなさい。
声も続かない。
いつもなら降るはずの、謝るな、という優しさのこめられた否定は訪れず、代わりに椅子を引く音が間近で鳴った。
顔が上がらない。
両手で眉より下を覆って耐えるしかできない。
ひしゃげる唇から、は、と短く切れた息が転がり、ぐずってだだをこねる鼻をみっともなくすする。
どれだけ強く押さえたところで涙は枯れなかった。
一度溢れたものは引かず、馬鹿のひとつ覚えに垂れ流されるばかりで、泣き止みたくてもコントロールが効かないのだ。
薄い影の落ちる気配がする。
肘を預けた机が、しんなりとかすかに沈んだ気がした。
閉じていた目の幕を掌中で開け、弾みでこぼれた雫が指の肉を濡らす。

「……ごめんな。思い出させてしもて」

今までで一番優しくて、一番悲しげな声色に、下がる途中の手が止まる。
視界の端には、軽く握られた拳が映り込んでいた。
白石くんのものだ。
日に焼けた跡の残る、大きな手だった。
私の前の席に腰を落ち着かせ、ちょうど旋毛の上を覗き込んでいる形なのだろう、音の降る位置が如実に物語る。
時間にしてつい数分前、体感だと相当に過去、自ら発した言葉を反芻した。
おまけに白石くんがおんなじようなこと言うから、余計にびっくりや。
前も今も、急に聞かされて。
しゃくり上げる喉ではお話にならない、必死に首を振って訴える。
違う。そうやない。
だけれど肝心の相手はそれを私の意地か遠慮かと受け取った様子で、そっと髪を撫でる声音で呟きこぼした。

「ええよ、もう無理すんのやめや。やない。タイミング悪いんは、俺のほうやねんから」

二度三度、同じ動作で重ねて否定をし、弾みで涙の粒が空を切っていく。
彼は私の傷が癒えていないと思っているのだ。
過去の恋を捨てられず、かつての辛い経験に今さっきの情景を擦り合わせてしまい、ろくな返答も寄越さないで泣き濡れているのだと思い違いをしている。
再度、繰り返す。
違う。
間違うとる、白石くん。
口にしようとして、私のことを自分の傷みたいに扱う白石くんの声、それから仕草や空気を感じ取り、勇気が潰える。傍から見れば涙を流す側こそ深手を負っているよう映るだろうが、このそばにいる、背負わなくていいものを自ら背負ってしまうひとこそが傷つているように思えてならない。
慰められているはずなのに痛々しく、安らかになるはずの心は暴れ、恥も外聞もなく尋ねてしまいたくなる衝動を抑えるのに精一杯だ。
やはり彼は恋をしていた。おそらく叶わぬ可能性が高いのだろう。
だから、同じような境遇に陥った様を見捨てられなかった。
自分の経験を重ねていたからこそ、私が受けた優しさもあるに違いない。
(ねえ、そうやったんやろ?)
答えを得れば絶対に傷つくくせに、問いたい気持ちが隙を突いて転がり出そうだ。
どうにかして堪えることが、途方もなく苦しかった。
不連続にこみ上げる息を噛みしめながら芸もなく溢れこぼれる一方の涙を茫然と眺め、揺らぐ眼前できつく握り込まれた掌が浮かび立つ。
どこにもいけない憤りを手中で砕こうとしているような、言い知れぬ激情を静かに抑えている様子だった。
もしかしなくても、白石くんはいつも忍んで耐えてきたのかもしれない。
好きな子の為に、好きな子を想って。
そうして強い意志を感じる都度、私の胸は凍えていく。

何故今、あの日と同じようなシチュエーション、言葉が居並ぶ中で、気づいてしまったのだろうか。
こんなことで自覚するなんて、四天宝寺中一、いや大阪一のアホとしか言いようがない。
何度繰り返せば学習する、だからダメなんだ、本当にダメだ、好きなひとの気持ちを思い遣るどころか、自分のことさえままならない。
気づきたくなかった。
気づかないままで卒業できたら、どんなにか気持ちのよい三年間だったと清々しく学び舎を後にできただろう。
ばらばらになりそうな心臓は最早痛みを通り越してなにも感じられない。
こめかみあたりで疼く血管が血の流れを有し、えずく喉奥から苦味の混じる唾液が滲んで顔を顰めるも、すぐさま馴染んで境が消えた。
腫れた目蓋はかさばって、熱いのか冷たいのかわからぬ両頬が見るも無残に掠れている。目の端から端までを覆う水の膜が溢れ返って止まらない。

白石くんが好きだ。
親切なクラスメイトとしてでなく、大事な友達としてでなく、どうしても好きだった。
気づいていなかっただけで、きっとずっと前から。

想いをたしかな言葉にするだけで、肌をひた走る雫が想定外の熱量を放つ。
好きからはじまる、たくさんの気持ちを飲み込むしかないことが、おかしくなりそうなくらいに辛い。
自覚と共に失われたも同然の恋が切なくて、ただただ泣いた。





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