03




「こういう遊び、小さい時した事ある?」

あれはいつの春だったろう。
高等部にはもう入っていたはずだから、二年を目前にした頃だったかもしれない。
その時からというか、中等部から入院期間以外はずっと忙しい精市くんの久しぶりのオフだった。
一緒に行こうと約束していた水族館は休日ともなると恐ろしい混雑具合を見せる為、朝早くに待ち合わせたのも覚えている。
早起きに慣れ切っている現役運動部部員に比べ、どちらかといえば苦手な私は行きの電車で眠気と戦う破目となったが、隣に座るその帳本人が絶妙なタイミングで起こしたり、かと思ったら華麗に見逃したり、確実に面白がっている事間違いなしのちょっかいを掛けて来たので、本格的にうとうとするというたわけた失態を犯さずに済んだ。
予想と情報通り早い時間の水族館はそう混んでおらず、大きな水槽もゆっくり回れたし、多分中学の春休みぶりに見たイルカショーも目一杯楽しんだ。
子供の頃に家族と行ったきりかもしれないな、と前日に懐かしんでいた精市くんは年甲斐もなくすごいすごいと連呼する私に柔らかく相槌を打ってい、次に向かったカピバラのご飯やり体験ではなんというか、異様にモテていた。カピバラに。
あまりにも集まって来るので本人としては笑うしかなかったのだろうけど、その笑顔にも ‘おや、どうしたのかな…フフ’ 言わんばかりの王者の風格と余裕が見え、この人ほんとに動物にも伝わるオーラとか何かしらの特殊な空気を纏っているのでは、真剣に疑う。
私がマメに日記を記すタイプだったら書き留めていたであろう盛り沢山な出来事を後にして、近くのお店で少し遅めのお昼ご飯を食べ、本日は晴天なりの文言が似合いの恵まれたお天気、江ノ島まで足を延ばしても良かったのだが、人手が多そうな場所は避けてのんびり歩こう、という事になった。
駅は目指さず、大通りから外れた道を選び進んでゆく。
どこにいても変わらずありのまま、悠然とした佇まいの彼は、目的もなくただぶらぶらする時間を意外にも良しとてくれる。
一分一秒でも惜しいとテニスへ打ち込む姿を目にしている身としては不思議に思えて、中学の頃はちゃんとは知らなかった事だとぼんやり振り返る。
閑静な住宅街を横目に、綺麗に舗装された散歩道みたいな所を通る。
野鳥のさえずりが降って来、穏やかな春を歌っていて、柔らかな陽射しは地面をほのかに滑って留まり、あたたかい。風は時々吹くのを思い出したよう揺らめき、雲一つない青空が道に沿って植えられた木々と電線や屋根の間から覗いている。
アトリエを少しリフォームしたら次は温室を作ろうかな、と冗談かそうでないのかが非常にわかりにくい計画を口にして笑う精市くんの頭上を、小さな花びらが舞って後ろ側へと落ちた。この近くのどこかで咲き誇っているのだろう、桜だ。
首を巡らせ大元を探すと道路を挟んだ斜め向かい側、更に奥まった場所で薄めた紅色の花房がちらと見える。
また降って飛んで来た一枚目掛け、両手を打ち合わせた。
ぱんっ! と神社のお参りめいた動作に音がついて結構響く。
精市くんが微かに目を丸くしていて、掌を開き空振りを示した私はひと言。
こういう遊び、小さい時した事ある?
不連続且つ不規則に宙を泳ぐ桜の花びらを追い掛け、見事キャッチ出来た人の勝ち。
子供らしさ溢るるルールを説明しながら小走りになって右往左往し、ひたすら両手を打ち鳴らしていたら、笑いながら眺めていただけの人がぴたと立ち止まった。
と、見計らったようなタイミングで空気が強めに流れて、幾つもの薄い色の花びらが前方から巻き込まれて舞い散り、わあと歓声を上げた私の目の前で、精市くんはジャケットのポケットに片手を入れたまま、もう一方のあいた手で(くう)を横に切る。
シャッ! とかスパッ! とかいう効果音がお似合いの、ものすごいスピードだった。そういう拳法かと思った。
唖然と見入る私へ向き直った微笑みの主が、

「俺の勝ち」

掌中の可愛らしい花の欠片を披露して言う。
何しろ先程まで懸命に追い掛けていたのだ、大きな手の内でそっとひらめく勝利の証を見間違えるわけがない。

「何今のどうやったの!?」
は無闇に動き過ぎるんだ、落ちて来るものを待った方がいい」
「待ってたってそんな上手に取れないと思う……」
「あはは、花の軌道を予測して、その上で手を素早く動かさないと逃げられてしまうからね」
「柳くんみたいな事言ってる」
が花びらを上手く掴めない確率、100%だ」
「モノマネしなくていいし! ていうか100パーなの? せめて80とか90とか」
「なら試しに俺と勝負してみるかい?」
「………精市くん負ける気なくない?」
「あれ、知らなかった? 俺はいつでも真剣だし、何事にも全力で挑むタイプなんだけどなぁ、フフ」

つまり手加減を知らない、しない、という事である。
真田くんでももうちょっと手心を加えてくれるんじゃないか、よぎる疑念が打ち消せずちょっと、いやかなり怖気付く。
物柔らかな笑顔に底知れぬ何かを秘めた神の子が、単なる人の子たる私へ歩み寄り口の端をあまく緩ませた。

「さぁ、。俺の勝率、何%にまで下げるつもりだい」
「……きゅ、97くらい……?」
「はは! 3%しか変わっていないじゃないか」
「1%変えるだけでも頑張らなくちゃいけない事あるでしょ! 3%だって結構大きいよ」
「うん、それはその通りだね、たかだか1%でも変える為にはたゆみない努力が必要だもの」
「…それは私に努力が足りてないとかそういう事を言いたいの?」
「こら、曲解しない。俺は単に、君の頑張りが見たいと言っているだけさ」

大変わかりにくい遊びのお誘いだ。
でも私は中学生の頃から今に至るまで考え無しの愚かなる民草なので、立海が誇る至宝の仕掛けて来た勝負には自覚の有る無し関わらず、大抵乗ってしまったように思う。
この時もそうだった。
よく考えればあまりにも無謀な挑戦だというに、言いだしっぺの自分を差し置いてルールも知らなかっただろう精市くんに勝ちを持っていかれたままではなんとなく釈然としない、と提案を受け入れる。
せめて一回でいいから先に取る、と準備運動代わりに掌をグーパーさせて、

「精市くん私より背が高いんだから、私の手が届かない頭の上まで腕を伸ばすのはなし!」
「構わないよ? ハンデはそれだけでいいのかい」

唇に綺麗な半月型を浮かばせた人のそつのない返答に眉根を寄せた。対戦相手はこちらのしかめっ面など意にも介さず、緩やかに笑っている。おのれ、と演劇じみた台詞が漏れ出す寸前どうにか引き締め堪えた。

はたして、よーいスタートの一声で始まった勝負がどうなったのか、あえて詳しく語るべくもない。
努力を怠ったり手を抜いたつもりは一切なかったのに、私は1%の厚き壁を越える事は叶わず、くたくたのよれよれになって絶対王者の絶対的な勝率を思い知ったのだった。







お昼ご飯の約束がなくなった。
いつも通り精市くんと食べる為に席を立った瞬間、携帯端末が新規メッセージを知らせる。
昼休みが始まった途端にざわつく教室内、座りもせず棒立ちで確かめると、短いながらも誠実な謝罪の言葉に加え、埋め合わせをさせて欲しいと記されている。
別にいいのに、精市くんて時々すごく律儀だなあ、思いつつ、気にしないでいいよ、いつも大変だね、お疲れ様、と彼がなるべく気に病まないような文面で送る。
受信時刻から察するに彼の方に用事が入ったのは三限前辺りだ、移動教室に間に合うよう早歩きをしていた私に端末を弄る余裕はなかった。
行き場を失い、すとんと椅子に腰を下ろす。
三年生になってからの精市くんは、今までで一番と言ってもいいくらい本当に忙しい。
通常授業だけでなく受験の準備もあるだろうし、テニスだって勿論欠かせない、さっきみたいな先生からの呼び出しへの対応、それらの合間を縫って私と過ごしているのだから、余程時間の使い方が上手いのだ。多分本とか出せるレベル、心の内で呟いたのちお弁当の包みをあけた。
机の足が床に擦れてがたつく音やたくさんの話し声が幾重にも重なって反響し、教室の扉はひっきりなしに開閉して騒がしい。
昼日中の陽射しは窓の方から差して来、カーテンのクリーム色をもっと淡くさせる。屋上で食べるならまだ必要な日が多いブレザーは室内だとちょっと暑いくらいで、男子の何人かはさっさと取っ払いワイシャツ姿になっている。
5月の陽気が夏を彷彿とさせたお陰で、ひょっとして勉強を見て貰っている場合じゃないのでは……と、今更過ぎる気付きを得、からあげに伸ばしていた箸がにわかに止まってしまう。
もう少し、やり方を見直すべきなのかもしれない。
精市くんに頼りきりというのも良くないし、一度同じクラスになったよしみで柳くんに頼んでみようか、教室が端と端に離れた精市くんと違って隣のクラスに在籍している参謀のすっきりとした顔立ちを脳内にて引き出し、いやちょっと待て柳くんだって受験生な上テニスがあるだろう、考え直す。良くない甘え癖だ、気を引き締めなければ、と背筋を正す。
結局からあげから卵焼きへ目標を変えた所で購買に行っていたらしい友達が、あれどしたの幸村君は、パンやカフェオレを抱えて隣のあいている席に座り声を掛けて来た。

「うん。なんか用が出来ちゃったんだって」
「ええーまた? マジで最近忙しいんだね?」
「同じ人間とは思えない」
「いやどーいうことよ」
「なんか既に社会人みたいで……」
「わかる。しかも疲れを見せないのがすごいよね、私達とは体力気力精神力ぜんぶ違うんだってすんごく思うよ、あんたから幸村君の話聞いてると」
「通り名、神の子だしね」
「あーダイレクトに神さまの子供かーお母さんとお父さんの子供でしかないもんねうちら」

精市くんだって精市くんのお父さんお母さんの子供なんだけど、と幾度となくお世話人なったお二人を思い浮かべ否定するより早く、ねーねー卵焼きいっこちょうだい、ねだられ箸先にて掴んでいたものをそのまま向かい側の口へ運び、

「えっヤバ、今普通に食べちゃったけどこういう事は幸村君としなよ!」
「しない!」

はからずも、はいあーん、状態となった事を揶揄されうやむやになった。
そうして昼休みが終わる頃には渦中の人からの丁寧な返信を受け、やっぱり律儀で礼儀正しい、舌の上で独り言を転がし、ついさっきの友達にあげたおかず一品を何気なく回想した私は、じゃあ前作って作ってくれた卵焼きまた作って、とお言葉に甘え彼の埋め合わせとやらに乗っかろうと決めたのだった。


家にいても夜までだらだらしてしまう未来が見えていた為、つつがなく今日の授業を終えたその足で自習室へ向かう。
お昼を一緒に食べた友達は部活に出るらしい。推薦を狙えるくらいの実力者ならそこまで勉学に励まなくとも済むのかもわからないが、全般的にも一芸にも秀でていない自分はとにかく可能な限り落第を避ける努力をしなくてはならないのだろう。
元々、勉強に向いていない意識があるから気が重い。ついでに足も鉛めいて重かった。今はすっかり治った怪我の所為じゃなく、合っているのかどうかもわからぬ手探りの方法で予習復習模試対策を延々こなすのが辛いのだ。
夏が来る前から勉強漬けで本番までの長い期間、いいペースやモチベーションが持つのかかなり不安である。
その内ノイローゼになりそう、精市くんとかテニス部の人達ってどうやって息抜きしてるのかな、真田くんはそういうのしなさそうだけど、それもう修行僧じゃん、つらつらと余所事へ意識を遣り、階下へと流れてゆく人波に逆らい、静寂の保たれた自習室のある階へと辿り着く。
音を立てぬよう気を付けてドアを横へ滑らせると三年生と思しき生徒がちらほらと席を確保してい、静まり返った室内でノートや参考書をめくるもの、ペンを走らせる音が淡々と空気を打っていた。
自然と息を詰めてしまう。
足音にも注意を払い、後ろ手に扉を閉めて、誰の邪魔にもならない位置へと席を定める。
さて始めよう、気合を入れる前にちらと横目で眺めた窓の外は快晴。運動部にとって絶好の部活日和だろう。
上履きの裏がもどかしさに撓んだ。
テニスしてる所を見に行きたい、遊びたい、帰って寝たい、ちょっとでいいから話したい。
無数に湧いてはごちゃ混ぜとなる煩悩と表すべき様々は、どことなく張り詰めた部屋の雰囲気と全く似つかわしくない。
特別に大きな問題や引っ掛かりを抱えているわけではないけれど、何とも言い難い薄いもやのようなものが胸から抜けていかないのは確かだった。
(けど多分)
わからない事だらけなのがまずいけないのだとは思う。
自分の勉強方法や時間の使い方、本当に大学に受かるのか、この先今の調子でやっていけるのか否か、何一つはっきりとしていなかった。全て初めての経験だし、手応えが得られずとも致し方なく、当たり前の事なのかもしれない。
精市くんは初めて挑戦する時ってどうするんだろう、どんな時も悠々と構え、体格の良い真田くんとは異なる強さを感じる鋼鉄のような背を瞼の中で描く。
断ち切って、呼吸を整えた。
とりあえず私が真っ先に対面すべきなのは、今日の分と決めた問題集だ。
昨日の続きまでページをめくりすべらかな机へ押し付けて開き切る。
もしつまずく箇所があったら、多忙な精市くんを頼らず先生に聞きに行こう。なんでか彼や柳くんの方が教えるのが上手だけど、とちょっとした決意を唱え視線を手元へ落とした。

さて一時間後、小休憩を取ろうと廊下に出て伸びをして水分補給。
更に時間が経過した頃、小腹がすいたのでやっぱり部屋の外で持参したチョコを口にする。
もっと後になり、陽が和らいで来たな、自習室の椅子が硬めなお陰でやや痛むお尻を気にしながら、青々とした晴れ模様から微かに夕暮れへ傾く空を見、またシャーペンを取った。
誰がつけたのだろう、いつの間にか蛍光灯の光が燦々と降っている。
一人、扉を開けて出て行った。
あと少ししたらまた休憩して答え合わせをしようかな、そこで疲れを感じたら帰ろう、紙面へ向き直って、それから。
――それからはあまり覚えていない。
容赦なく襲い来る眠気と死闘を繰り広げ、両足を軽く伸ばし回した記憶は有り、しかしいつどこでどのタイミングでかは知れないが己との戦いに完全敗北、思いっきり寝こけたらしかった。気付いた時には机へ突っ伏し、付いて組んだ腕の間へ片頬を預けていたのだ。
うっすらと目が開いている。
起き抜けでぼやけた視界に見慣れたブレザーの色彩が入り込み、けれどよくは見えない。
何度か瞬きを繰り返し、たっぷり数十秒使ってようやく、制服と背景の区別が付き始めた。
……肘だ。
根拠もなく判断する。
誰かの肘。私の隣で机と接している。教室のそれと違い長方形で地続きのような作りで、余分な空白がない分、幾らか掴みやすい。
今度はゆっくり睫毛を震わせれば、おぼろげな生地の色味でしかなかったものが腕の形を結ぶ。

「おはよう」

瞬間、傍で付かれた私のものじゃない肘と肘の間へこてんと落ちて来た顔が、優しく穏やかに微笑んでいる。やたらと整った中性的な顔立ちである事はわかるけれど、斜めがかった角度の所為ですぐには気付けなかった。
一拍の間。
流れた前髪の幾筋かの奥からこちらを見澄ます目元がほの甘く滲んで、、と密やかに囁かれる。
もう体の全部が逆立った。

「せっ…!」

起き上がってすかさず両手で口を顎ごと覆う。冷や汗で背中が凍る錯覚に陥り、鳥肌が立つ所だった。
ゆったりとした仕草で背筋を伸ばした彼――精市くんが、

「大丈夫、俺達以外は誰も残っていないよ」

トレードマークたる常の微笑を湛え、落ち着くようにと諭して来る。
言われて辺りを見渡せば、それなりに広い自習室内に人影はない。煌々と灯る人工的な明かりに照らされた長机が濡れて光り、しんと静寂に満ちていて、窓越しの空は真っ暗になっていた。色なんか黒以外無きに等しい、暗さのあまり鏡状態と化したガラスは間抜けそのものといった私の表情を映し出す。
惰眠をむさぼる間に張り付いたらしいノートがぺりぺりと手から剥がれてゆき、指先で唇の周りをさすって、まさかよだれ垂らして寝てないよね、慎重に確かめ、ひとしきり済んだのち、頬杖を付きながらのんびり私を見詰める人へと体の軸を傾けた。

「…起こしてくれて良かったのに」

壁に掛かった時計は六時半をとうに過ぎた位置を示している。

「ああ、そうしても良かったのだけれどね。随分気持ち良さそうに眠っていたからさ」

面白がっているのか気遣いなのか微妙な所だ。
どちらにしろ私の失敗、やらかした事に変わりはないだろう、肩を落としてノートと参考書を閉じた。最早溜め息も出ない。

「ごめん、精市くんに迷惑」
「掛けられたとは思っていないよ、変な気を回さないように。それに、どちらかというと遅くまで無理をしたあげく、一人でこんな所で眠ってしまった事こそ謝って欲しいかな」

危ないだろう、と続いた声に多少の鋭さが含まれてい、肩や腕が縮こまる。

「す、すみません……いやでも寝ようとして寝たんじゃなくて、気付いたら精市くんが隣に」
「へえ、じゃあ隣に来たのが俺以外の奴だったらどうするつもりだったの」

返す言葉もなかった。

「………以降気を付けます」
「そうしてくれ。…本当に、気をつけて。これから段々日が長くなっていくけれど今はまだすぐ暗くなってしまうんだ、帰り道の事も考えて勉強をした方がいい」
「うん、わかった」
「正しい返事は?」
「…イエッサー!」
「フフ。はい、よく出来ました」

地味にへこんでしまったのを素早く察したのか、相好を崩した精市くんがわざとふざけた口調を差し込み、乗っかった私の返事に笑ってくれる。
この人は本当に何でも出来るのだ。わかりにくく横暴で強引だけど、最後には赦しを施すのだから到底敵わない。
お父さんお母さんの子供であり、神の子でもある。
複雑怪奇な二重構造に完璧についていける人が存在するのかは疑わしいものの、しかしテニス部の面々であれば可能なのかもしれない、感嘆の息を吐き筆記用具の類を仕舞っていたら、帰ろう、と精市くんが何でもない事のよう自分の鞄を手に持って立ち上がった。なんと軽やかな事か。
椅子の足がすれる音も出さない、優雅な身のこなし。
何も知らない新入生が王子様みたいな先輩と色めき立つのも無理はない。事実とかなり異なる噂であっても説得力は相当ある。
数歩先をゆく憧れの人枠である精市くんの後を追い、敷居を跨いで廊下へ出た。

「……ていうか部活は?」
「それって普通、俺に気づいた時にすぐ聞く事だよね。君は本当に相変わらずだ」

遅れに遅れた疑問をぶつけると、楽しげに揺れた肩が夜に程近い空気を切って進んでいく。

「言っておくけど褒めているから、遠慮しないで誇りに思うといいよ」
「全然褒められている気がしないんですけど…」
「フフ…そうかい? 俺としては最大の賛辞だったんだけどな」

だったら普通に褒めて欲しかった。
とは言わずに黙々と床を踏む。何故なら藪蛇、口にしたが最後とんでもない褒め殺しが飛んで来るに違いないからだ。
いつか精市くんをお化けと見間違えた真夏の闇がふっと脳裏によぎって、浸る間もなく消え去ってしまう。
今は湿気のない季節で暗さの種類も違うし、似ても似つかない。
あの日味わった瞬間的な恐怖は影も形もないのに、どうして思い出したりしたのだろう。
後ろ手にぶら下げた通学鞄が歩く都度、膝裏へ当たり弾かれてを繰り返す。
ぽんぽん、と小気味良い音色は他に誰もいない廊下を滑り転がって、壁を薄く撫でながら私達の行く先へとさびしく響いた。
一部消灯された廊下のずっと奥の方に、ぽっかりと口を開けたような深い漆黒がわだかまっている。







受験生だろうが何だろうが日直は平等に回って来る。
休み時間を上手く利用し日誌をこまめに書く事が出来なかった私は、授業が終わってからまとめてやろうと考えていたにもかかわらずすっかり忘却の彼方、迎えた放課後、図書館へレポートを作成する為の資料を探しに行ってしまい、貸出受付カウンターで鞄を開いてやっと存在に気が付いた。
おっちょこちょいとかいうレベルではない、愚かにも程がある。
なんで……と脱力し、そののち観念して自分のクラスへきびすを返した。
自覚はまるでないのだが、慣れない勉強時間で疲労が溜まっていたが故のミスかもしれない。やり方や時間の使い方を誰かに聞くなりして変えてみるべきか、己の駄目さ加減を省みつつ空っぽの教室へ舞い戻る。
負傷していた日々はあんなに苦労した席までの道も滞りなくすり抜け、同様にスムーズに席につき、ちょうど半分くらいまで他の日の書き込みのある日誌を開いた。
ええと一限目の授業は確か、と朝の記憶を手繰り始めた所で、



耳に馴染んだ声音で呼ばれ鼻先を持ち上げると、前方のドア近くに意外な人物が佇んでいる。

「精市くん。どうしたの?」

テニス部は、言い掛けて、ラケットバッグを背負っていないのが見えて押し留めた。
教室の真ん中辺りの列に座る私の元へと歩んで来た彼は、勝手知ったる振る舞いで一つ前の椅子を引いて腰を落ち着かせる。
今更ツッコミを入れたりはしないが、どうして知らないクラスでこうも堂々としていられるのか。
見習いたいような見習っちゃいけないような、不可思議な感覚を抱く。

「日直?」
「あ、うん。いま日誌を書こうと…」

横向きに座る彼の声が届く距離や角度が、無性に懐かしかった。
同じクラスだった中学生の頃を彷彿とさせる所為かもしれない。

「なるほど。本当は休み時間ごとに書こうとしていたのを、綺麗さっぱり忘れちゃったんだね」
「…………」
「当たりだろう?」
「その通りですすみませんねわかりやすくて」
「あはは、怒らない怒らない。他意はないよ」

あったら困るし、なきゃないでじゃあ真意はなんだと心の中でのみ反論する。
背もたれ上部の細い部分へ肘を掛け、手の甲側に右頬を預けて柔らかに微笑む精市くんのウェーブがかった髪は、窓辺から差す陽射しで微かに透けており、きらきらした細かな光の粒が後頭部へ寄り添い、とても綺麗に縁取っていた。
向けられる視線はたおやかに甘く、静かに息づく瞳が瞬きをする度、一層深まるようだった。
なんとなく恥ずかしさが込み上げて来て、乱暴でも重苦しくもない、ひたすらにあたたかな空気にどうしてか負けてしまい俯く。
たとえば手を握られたわけでも頬に触れられたわけでもない、ただ見詰められているだけでこうも顔が熱くなるものだろうか。脈が緩やかに速度を上げて、指先にまで震えが走った。
いつまで経っても慣れないのもどうなの、やっぱ一年の子が王子様だなんだと間違えるのもしょうがない、というか意味もなく見ないで欲しい、絶対私が精市くんに同じ事してもこんな風に動揺しないんだよ、確率100%、心臓に毛が生えてるんでしょ。
支離滅裂に胸の内で暴れながら書き途中の日誌へ向き直る。
気を散らす為に一限目一限目と呪文のよう重ねに重ね、授業風景と内容を是が非でも思い出さんと努力をし、必死の思いで三限目まで記した時、ずっと離れていかない視線に顔の輪郭を優しく焼き尽くされた。
肺に上手く酸素が入っていかない。
掌をシャーペンごと握り込み、決意と共に背筋を正す。

「………あの、精市くん」
「うん?」
「あんまり見ないで」

しかし差し向けられる眼差しに潜んだ熱に即打ち負かされ、再び鼻先を僅かばかり落とした。
ふ、と呼吸がほのかに笑んだ気配がする。誰のって、精市くんが零したものだ。

「どうしてだい」
「ど、どうしてって…普通見ないでしょ? ただ日誌書いてるだけのとこなんて」
「そうかな」
「そうだよ」
「普通かどうかは俺にはわからないしどうでもいい事だから置いておくけど、君が書く字だもの、俺は見るよ」

張りのある真っ直ぐな声でそこまで言われて、一体この世の誰が平然と続きを書けるというのか。少なくとも私には無理だ。
情けない事に手の中にうっすら汗を掻いて来ている、とくとくと鳴るこめかみの血管や心臓が若干やかましく、沈黙はごくあまやかなのに耐え切れない。

「……ねえ、一度ノートから手をどけてくれないか、。誤字脱字がないかチェックしてあげよう」

心から愉快だと語るそのひと言が引き金となり一気に破裂した。

「もう! そうやってすぐからかう! 私で遊ぶのやめて!」
「フ、はは、あははっ!」
「笑い事じゃないし!」
「ごめんね、俺は自分の気持ちに正直なんだ」

あいた口が塞がらないとはまさしくこの事、今の流れで言う台詞じゃ絶対にない。
いけしゃあしゃあでふてぶてしい、私が精市くんより年上だったら遠慮なく指摘している所だ。
逆立ちしたってそんなもしもの世界は訪れたりしないけど、この人自分が一、二年の時先輩に対してどういう口きいてたの、とは考えてしまう。強豪校の運動部だから上下関係が厳しくてもおかしくないだろうに、今まで一緒に過ごす中で見た数々の場面や表情、言動を加味すると、神の子は生まれたその日から神の子のような気さえして来た。

「昨日私の事相変わらずって言ってたけど、精市くんだって変わってないよ」
「そう」
「うん、今だって中学の時みたい。席が近かった時こんな感じで話した事ある」
「…ああ、そんな頃もあったな」
「でも呼び方は違ったよね、幸村くんだった。あ、有名人なのはそのままだけど」
「ただの一生徒に有名人も何もないだろ、フフ」
「いやただの一生徒かどうかは……」

ものすごい注目度や人様からの色んな意味で熱い視線に何故ここまで無頓着なのか、時々本気で謎だ。いくら慣れっこだとしてももうちょっと何か感じていそうな部分を見せて良いのでは、と素で提案してみたくなる。
だけど不変の人だからこそ、彼は神の子であり幸村精市で在り続けているのかもしれない。
生まれ持った才能ってやつかなあ、私はだめな意味で変われてないのに、自省を口の奥で閉じ込め、黒板の方を眺める彼の顎や耳朶を見、また日誌へ目線を落とした。
話している内に心身共に落ち着きを取り戻したらしい、ペンもなめらかに進んでいく。
静かだった。
遠くで部活の準備や既に走り込みなんかを始めている気配だけがうっすらあって、風もなく、ガラス窓から注がれる陽の光が机と椅子の影を床一面へ伸ばしている。
残るは本日の総括欄のみとなり、精市くんが前に話していた花壇の様子を書いてみようかな、勿論精市くんの名前は伏せておいて、と考えをまとめていたら、不意に名前を紡がれた。いつも通りの穏やかな声だった。

「アメリカに行く事になった」
「え、そうなの?」

中等部時代から日本代表合宿だU−17の試合だととにかく世界基準でテニスを続けて来た人なので、特に驚きはない。
それとは別口でご家族で海外旅行をするようなお家の生まれだという事も知っている、そういえば欠かさずお土産も買って来てくれた、在りし日が連鎖して蘇る。
たまにいい加減っぽいな所もあるのになんだかんだで丁寧なのが精市くんだ。

「また代表選抜とかそういうのなんでしょ? ほんとに大変だね、忙しそ…って、あごめん、勝手に決め付けちゃった、じゃなくて普通に旅行?」

どちらにせよ予定が詰まって暇もないのは事実に違いないだろう、そろそろ多忙の二文字で片付けられない段階へ突入しているし、助けて貰うのも本格的に控えなければならない。
自分の席じゃない席をまるきり己の物のよう扱う、かつて自ら作りあげた座につく王様であると複雑ながらも賛辞を送った相手を見詰め、軽く首を傾げたら。

「いや……そうじゃない。治療だよ。正確には最終的なリハビリと調整だから、大きく括ればテニスの為と言っていいのかもしれないな」

え?
きちんと言葉に出来ていたのかどうかあやふやで何もわからない。
もう一度聞き返そうと唇を開いたと同時、横を向き廊下側へ目先を遣っていた精市くんがなめらかな仕草で私の方を見た。
なんて、嘘だよ。驚いたかい。
動揺を見透かした瞳でいたずらが成功した子供みたいな言い方をすると思ったのに、彼は笑っていなかった。





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