04




耳を打つのは精市くんの声以外の何物でもなく、鼓膜が捉えているのは紛れもない日本語なのに、何を言われているのかまるでわからない。

早くて夏休みが始まる前辺りに日本を発つ、例え遅くなったとしても秋まではまず掛からないだろう。
行けば滞在が長くなるか短くなるかは未定。
もしかしたら、そのままアメリカでテニスに打ち込むかもしれない。

もっと順序立ててあって途切れ途切れになっていなかったはず、だけどあまりの展開に脳が追いついていけなくて箇条書きのよう聞こえた。
私は苦手な授業中みたいに闇雲に、想像上のノートを取る。
頭の中で繰り返す。
ばらばらに散っていきそうな話をどうにか繋ぎ合わせて、出来る限りの整理をし、つまり彼が何を言わんとしているのか掴み取ろうと思考回路をフル稼働させ、しかし呆然としてしまって、書き掛けの日誌を無意味に見詰めた。
見慣れた自分の字が白面へ雑に並んでい、軽く握ったままのシャーペンは使い込んでいる所為で所々小さく塗装が剥げており、先の芯はぷっつりと折れている。力を入れたつもりはなかったのだが、どこかでぐっと押しでもしたのだろうか。
目の前が真っ暗になったりは一切しなかった。
陽射しはさっきと変わらずに窓を光で濡らし、床や机も艶めいていっそ眩しく、5月の陽気は少し暑いくらいだ。
呆れる程に世界はそのまま動いている。
うすぼんやりしている自覚なんかない私の意識は、何故か勝手に時を遡ってゆく。



昨日の帰り。
自習室を一緒に出た後、施錠すると言う先生とすれ違って、お馴染みの注意を受けた。
、頑張るのは良いが無理はするな。ああでもちょっとは幸村を見習え、迷惑を掛けたりするんじゃないぞ。
お母さんからも似たようなお小言を頂戴した旨を述べると、先生と精市くんの二人に笑われて正直あまり面白くなかった。
遠くの廊下や周囲の教室は灯りが落ちてしんと暗く、階段と踊り場の電気が異様に明るく目立っている。
連絡してくれれば精市くんのとこに行ったのにと呟いた私に、隣で段を下りる人が僅かに首を傾けた。

「勿論、したよ」
「え!?」
「その様子じゃ全く気づかなかったようだね。、君は勉強中だからと電源を切っていただろう。妙な所で真面目なのも変わらないな、フフ」

自ら連絡について言い出したくせに、指摘を受け初めて自習室へ入ってすぐ電源を落としていた事を思い出した。
愕然とする。
どうしていつもこうなのか、両肩ががくりと下がって重力に引き摺られた。

「ごめんなさい……」
「あはは! どうしたの、そこまで落ち込んだ声を出す事じゃないよ」
「私にとっては出す事だよ………」
「なら、そんなマイナス思考は今すぐ捨てるべきだね。時間の無駄だもの。俺が気にしていないんだからそれでいいじゃない」

言葉や口調、何もかもが強すぎる。ちょっと呆れた。というか引いた。
我が道を行く人だとずっと以前から知ってはいたけれど、節々で間近に感じると気圧されて頷くしかないような気がして来、溜め息すら封じられて出て来ない。

「…そうだけど、でもじゃあ気にしないって言っちゃダメだと思う」
「ふうん?」

興味深げな瞳で軽く覗き込まれる形で見下ろされ、指に掛けた鞄の紐が滑りそうになった。

「駄目とは言うけれど、? 仮に君が気にしないでいたら誰かに叱られでもするのかい」
「………しない」
「そうだろうね」
「しないけど! でもなんかダメ! 精市くんだってここで私がじゃあ気にしないーとか言ったらなんだこいつって思うでしょ?」
「俺? いいや、俺は今駄々をこねられている気分だな」

鮮やかに微笑まれても返せない。
これは馬鹿にされているのでは、一瞬考え、だけど断じて口にはすまいと顎ごと引き締める。どうせ即座に否定されて、私では到底思い付かない殺し文句で丸め込まれるだけだ。
二人分の足音と跳ねる鞄の音が交差し、人気のない階段に反響している。
念の為転ばないよう注意して一段一段下ってゆき、これ以上しょうもないだだっ子だと思われたくない私は後ろ手に下げていたバッグを引き上げ、肩へしっかり掛け直した。

「でも精市くん、よく私がいるとこわかったね」
「この所、図書室か自習室かで勉強していただろ? 君の下駄箱には靴があったしね、十中八九どちらかにいると思ったんだ」

ものの見事に看破されている。
私がアホみたいにわかりやすいのだろうけれど、精市くんの鋭い読みが冴え渡っているからというのも大いに有り得る、というかほぼそれのお陰だ。
最後の一段をやや弾みをつけ飛び降り、蛍光灯の真下とその周辺だけ爛々と明るい、だだっ広いホールを横切る。
そういえば松葉杖が手放せなかった頃、あそこに座らされたな。
何気なく首を振り遠巻きに眺めた長ソファは薄暗がりへ埋まっていて、春先ほどの色味はない。
(…なんだか)
同じ事を繰り返しているみたい。
心の中で呟き落とし、今さっきのやり取りだって前にした気がするし、何なら一度や二度に留まらず何回もしたんじゃ、段々と予感が確信に変わって来た所ですぐ隣にいる人を窺うと、真っ直ぐ前を向いた横顔が在った。
通った鼻筋へは灯りから離れるごとにほのかな影が這う。睫毛の上に光の微かな欠片が残っていて、前髪の細い筋越しにちらつき、男の子っぽく余分な肉のない頬には鼻先に比べ幾らか濃い暗が乗っかっていた。
中学生の時よりしっかりとしたつくりに思える顎のラインと、すぐ下の出っ張った喉仏。
首筋に浮き出た血管の太さに、ちょっと怖気付くのとドキドキするのが混ざったみたいなよくわからない気持ちになってしまい、私のもこんなに見やすく皮膚に出てるのかな、うわついた心臓を誤魔化そうと自分の首元へ手を遣った時、視線に気付いたらしい精市くんがふっとこちらを向いた。
思いっきり目が合ってしまい、突然の事に左手で喉の脈を測っているようなポーズを崩せずにいたら、まなじりの優しく溶けた微笑みを向けられる。

「何をしているんだい」
「……なんでもないです」
「首に何か付いちゃった?」
「なんでもない」
「見せてごらん、俺が取ってあげる」
「だからなんでもないってば!」

こんな感じの問答も前にした覚えがあって、私は進歩がないし精市くんは目敏い上に頑として譲らないのだ。
ぐんと近付かれて反射的に後ずさる。そう逃げる事ないじゃないか、目を柔らに細めて笑う人は容赦なしに私の右手を取り、さながら華麗なエスコートの如く引き寄せようとする。あまりにも自然な仕草だったので逆に息も止まらなかった。
別に何があるわけでもない左の掌を退ける事が出来なくなってしまい、かといってもう一方の手を振りほどけるかというと不可能、予期せぬ窮地に追い込まれる。

「なんにもない隠してないちょっと気になっただけ」
「そう。それはそれとして俺も君の左手の下が気になるんだ、もう少しこっちに来て?」
「でっ…、でっきない!」
「フフ……そんなはずはないだろう、もっと近くにいた事だって何度もあるのに」
「今そういう話してないぃー!」

既視感があり過ぎるのに恥ずかしくてツッコめず、結局わかっていながら繰り返すしかなかった。
精市くんが心底楽しそうに距離を詰めて来、私は必死の抵抗をする。
真田くんがいたら一喝されるであろう騒ぎを二人の間で続け、最終的には上手く丸め込まれて元通り、だ。
本当に私達は何も変わらない。



つい昨日まで、そう、思っていたのに。



薄い耳鳴りがして、ぶれていた意識が戻って来る。
唇をこじ開けようとする無数の感情達は絶えずせり上がってうるさい。視界に入るノートの線がたゆたい始め、綴られた文字も震えて見えた。焦点は定まっているのに何かが揺らいでいる気がする。
息も出来ている。
指先が冷たくなったりはしていない。
心臓は速まらずにいつも通り拍を打っており、私は往生際悪く自分の聞き間違いを疑って、すぐに挫けた。
淡々と、連絡事項のように言葉を紡いだ彼の、逸れていかない瞳が常と同じに強くて真っ直ぐな光を湛えている所為だった。

「……いつ頃…来てた話なの」

絶対に掠れてしまうと思っていた声は意外にも普段通りに近く、ちょうど私と精市くんの間辺りに転がり落ちる。
そもそもまだリハビリと調整が必要な段階だったのか、続けざまに問い掛ける寸前、何故だか喉が詰まって叶わなかった。その分が胸の真ん中にまで落ち込んできつく差し込む。思わず唾を飲んだ。
(だって私には大丈夫だって言ったじゃん。病院の検査結果を聞いてもいつもそう言ってたよね)
みっともなく感情的になじって泣き喚くなんて絶対にしたくない、離すタイミングを見失ったシャーペンごと掌を強く握って堪える。

「話自体は去年の内に来ていたよ。尤も、本格的に決まり始めたのは年が明けてからになるけれどね」

そうして絞り出した意気地を丸ごと蹴散らしたのは他でもない、私の前の席に座る精市くんだった。至極冷静に、何でもない事のよう平然と、日常を語る口調と声音で、真実を叩き付けて来る。
右の人差し指が跳ねた。
目の下の薄いところがぴくと反応し、肌の表面があっという間に冷えて体の中身だけが無闇に熱い。
心臓と肺が縮んでは膨張してを間断なく繰り返し本来あるはずの隙間を埋めていってかと思えば頭の芯は凍りつく。だけど視野は狭まらない。有り触れた日誌と爪先が白くなる程に力を入れてしまっている自分の拳と、何一つ変わらない彼を映している。
全身の血液が燃え盛り勢いを増しわなわなと唇が震え叫び出しそうだ。
(だって、)
だってそれは、そんな未来に大きく関わる事をここに至るまで黙っていられて、何ヶ月も前に決まっていた話を今になってされるとか、私なんていてもいなくても変わらないようなもので、ずっと嘘をつかれていたのと一緒じゃないか。

「………どうして。どうしてもっと、早く話してくれなかったの?」

悲しい涙とは違った潤いを得る角膜が細かく揺れて、まばたきの間に乾く。首から上が凶暴な熱を持ち納まりがつかない、わからないのに存在だけは強烈な感情が渦巻き内側から肉と皮膚を破ろうとして来、それだけの質量にもかかわらず吐き出せないから突然呼吸が止まりそうになる。
何、なんで、とたった二つのセリフのみが脳内を駆けずり回って引っ掻いて傷を作っていった末、ようやく気付いた。

「精市くんにとって私ってなに。いま…、今までの事も、ずっとなんだったの……」

これは怒りだ。憤りと呼べるかもしれない。
私は今怒っている。
それも人生で一番と表現しても過言ではないくらい、味わった覚えなんか一度もない程に。
すぐにでも暴走しかねない情動の激しさとは裏腹に、妙に冷静に判断する自分もいて、体がばらばらになって引きちぎられるんじゃないか、ごく真剣に危ぶむ。
心の真ん中に底無しの真っ暗な穴があいたみたい。内側の奥から引き摺られてどんどん重たくなっていく錯覚は眩暈すら呼び込み、この世の全てが遠くなる。
脆さを露呈した現実の中、精市くんだけがしっかりとした意志で私を刺して来た。

「今、そういう話はしていないよ」

信じられないくらい冷静な正論を紡ぐ声音は信じられないくらい落ち着いている。
語尾に軽い溜め息が付いてきそうでもあり、優しく言い聞かせているようにも聞こえ、私は自分の感覚の何もかもがわからない。
目の前にいる彼が急に遠ざかってまるで知らない人になった。
今までの全部ががらがらと音を立てて崩れていく。
そんなはずはないのに、私と精市くんの間に透明な薄い膜が張られている感じがして仕方ない。テレビを見ているみたい。こちら側と向こう岸では時間の流れや状況が違っていて、当然ながら私の気持ちは精市くんに伝わらず、また逆も然り、通じない。教室の風景だけが穏やかな所為で余計に現実味が薄れ白昼夢のようだ。
……誰だろう、この人は。
降って沸いた素朴な疑問が異様に冷めて体に響き渡る。
今までずっと見て来て、こういう人なんだと考えていた、精市くんは何だったのだろう。私は一体、誰の事を言っていたんだろうか。いつから? いつどこで彼はこの彼になったのだろう。
それとも。

「………話すほどの、事じゃないって意味? 私には、別に…言わなくてもい、いいって?」

それとも私の思う幸村精市という人は、初めからどこにもいなかったのか。
シャーペンの筒が掌の肉に食い込んで痛い。さっさと離して剥がせば良いものを何故だか動かせない。
言葉と感情と記憶の全てがぐちゃぐちゃになって混ざって質量を増し暴れ回る。
そんなに大事なこと言わないで黙ってて昨日まで平気な顔して笑ってたの? どうしてなんで、なんで私に話してくれなかったの。ちょっと考えればわかるだろうに頭の足りていないお前が悪いってみんなに怒られるのかな。でもだって精市くんはいつも精市くんで普通だったし、聞いてみても大丈夫だよとしか答えられなかった、なんにも言われてない、私。
カッと頬に血が集った。
誰へ向かって弁解をし、何の為に言い訳しようとしているんだ。意味がなさ過ぎる恥ずかしい。好きな人の事なのに、だって、だって、が無限に沸いて来、みっともない事この上なかった。
知らなくてもしょうがない、気付けなくたって自分は悪くない、話してくれなきゃわかんない、今度こそ本当に小さな子供じみた駄々を無限に繰り返そうとしてしまう中、その先にある直視したくない事実がちらつき始める。

相談どころか話してすら貰えない存在が重いか軽いかなんて、論じるまでもないだろう。
仮にも付き合っているのにその片鱗も見せてくれない。
そういう話はしていないとあっさり突き放される。
いつでも――こんな時でさえ、彼は決して揺らがずに彼らしいまま。
動揺も葛藤も慮る眼差しも罪悪感も何もないとばかりに振る舞い、動かしようのない真実のみを押し並べ、一定の距離から私をじっと見遣るだけだ。
そんなの、これからも一緒にいるつもりの彼女にする事じゃない。

じゃあつまりどういう結論なのか、と思考がある一点へ辿り着きかけた所で胸が潰されるような錯覚に捕らわれ、想像だにせぬ苦しみに喘いでしまう。
息が詰まる。
一瞬酸欠状態に陥って目の前がちかちかして眼前の机もよく見えない。
得体の知れぬ圧に押された喉元は唾を飲み込むのがやっとだった。
浅い呼吸でやり過ごしたのち必死に声を紡ぐ。

「そ…そういうの、が、続くとか……私、無理。できない、そんなの」

耐えられない。
最後までしっかり口に出来たかわからなかった。
いつの間にか尋常じゃない速さで脈打つ鼓動がろっ骨を打って痛い。
どんなに言い募っても私には話してくれない、きっとこの先も傍にいたら増えていくに違いない事で多分全部事後承諾、いや承諾すら求められていないのだ、こういう訳でこうなったから、と報告だけされておしまい。
別に自分に出来る事はたくさんある等と大言壮語を吐くつもりはない、でも一緒にいる意味がちゃんとあるようにはとてもじゃないけど思えない。

「……なんでそうなるんだ」

違う世界に住んでいるみたいに遠く、断じて表情を曇らせなかった人がここに来て初めて怪訝そうに眉を顰めた。声音は訝しげなものではない、単純に疑問を抱いているといった風で、元よりささくれ立っていた心が一気に棘を持つ。悪気なく、本当にわからない、としか思っていないと私でも感じるから、全身の血が煮えて肺が燃えた。無神経だと勢いに任せてなじる寸前だった。
怒りたいのか泣きたいのか自分自身の感情に判断がつかない。
形にならない言葉達が無数に浮かび集まって、消えていけばいいのに延々と回り続け、私を攻め立ててぐらぐら揺さぶる。


だったら私にもなんでそうなったのか教えてよ。
上手に躱したりしないで話してくれなかった理由を言って。
意味が分からないなんて顔に出さずに、順番に説明して欲しい。
それで精市くんはどうしたいの。
もう決まっている事を今更話して何があるの? 何もないでしょ。だって話さなくても良かったからついさっきまで黙ってたんじゃん。その程度でしかない私なんかに何を言いたいの?
日本で待ってて?
……別れよう?
絶対に聞かなくちゃいけない事だ。でも聞けない。怖くて口も手も指も動かせない。どっちにしたって私は動けない。待ってて欲しいと言うなら今の今まで明かしてくれなかった理由がわからないし、もう一つの方は、考えるだけで体中が凍る。可能性が高いのはそちらだろうと囁く自分もいて、違うと振り払えるだけの自信も根拠も全てが崩された後では残っておらず、ほんの少しでも抗えば息をつく間もなく突き付けられるんじゃないかと強張る。
(いてもいなくても大して変わらない存在なくせに)
悩んで怖気付くのだけは一人前だ。
一方的に私だけがみっともなくじたばたしている。


己に向かって突き立てた刃物めいた言葉が胸の奥に深い傷を作るのと同時、聞き慣れたチャイムが頭上から降って来た。
終わりを告げる合図。
いい加減日誌を提出しなければならないし、多忙な精市くんだって行かなくちゃいけない所があるはずだ。
にもかかわらず電子の鐘の音が鳴り終わっても教室内はのどかな静寂を保ち、物音一つしない。彼も私も身動きせず、ただただ黙って椅子に座っている。
カーテンがはためいて淡い影模様を床へと落とす。視界の端にも引っ掛かっていなかったが、移り変わる光の形でなんとなくわかった。
黒板には今日の日直が記されている。。白いチョークで書かれた自分の名字。消し切れていない最後の授業の跡。
野球部だろうか、硬球が金属バットで高々と飛ばされる音がうっすら鼓膜を揺らす。グラウンドを走る掛け声も同様、遠ざかったり近付いたりしながら、遠くの方から伸びて来ていた。
5月の風に乗った外のにおいが流れてそよぐ。
木々の緑の気配がする。
私はそれらを、まるきり他人事のようぼんやりと捉えていた。





  ×