05




受けたショックが大き過ぎて、あの後どうやって精市くんと別れたのか覚えていない。
私は日誌を職員室まで提出しに行ったはずだし、彼だってそのままぼうっと座っていたわけではないだろう、にもかかわらず何一つ鮮明に思い出せなかった。
いつものよう昇降口で靴を履き替え、普段通りの通学路を歩いて、常とそう変わらぬ時間に帰宅したのだけは確かだ。玄関の鍵を開けた感触や、部屋までの階段を上った時の足の重さ、放り投げた鞄が床とぶつかった鈍い音だってちゃんとしたのだと思う。
ご飯の味がわからなかった。
TV画面から流れる天気予報も頭に入って来ない。
布団を被って全然眠くないなと呟いて、真っ暗な壁を見つめながらいつまでもやって来ない眠気を待ち、だけど気付いたら朝だった。
怠くてはっきりしない頭を何とか起こして、サイドチェストの上に置きっぱなしの端末を取る。
……連絡はない。
瞬間こみ上げた嫌な苦味を消す為、一番上に掛けた毛布ごと蹴っ飛ばす勢いで膝を伸ばすと、外気に触れた足の裏が少しだけ縮こまった。
目覚ましが鳴るより早く起きた私に対し、お母さんはぎょっとした表情で言い放つ。

「えやだ何、怖い怖い、どうしたの何かあったの? 怒らないからどんな失敗したのか言って早く」

やらかした事前提で矢継ぎ早に問い詰められて出せる答えなんかない。
なぁによ、朝から目が死んでるんだけど、続けざまに詰られ、

「あーぁ、ハイハイわかった。幸村くんとケンカでもしたのね?」
「……してない」

強がりや言い訳ではなく真実だった。
口にした直後、私はケンカもさせて貰えなかったんだ、とより一層深く悟り、本当にもう何も言えなくなってしまった。
爽やかに晴れ渡った空の下、裏腹にどんより落ち窪む私の目には、降る光の眩しささえ届かない。明るいはずの朝の明度がまるで感じ取れず、ずっと靴先ばかり見ていたような気がする。
学校へ近付けば近付くほど鉛と化す両足を引き摺りながら辿り着いた昇降口、たまたま鉢合わせた友達二人はこちらの顔色があまりにも冴えないものに映ったのだろう、どうしたのなんかあったの、各々心配そうにお母さんとほぼ同じ事を聞いてくれた。
いつもならそこまで表に出やすい己のわかりやすさを嘆くところ、深く考える余力もなくつらつらと端的に事情を語るや否や、

「ええーっ今更?」
「ちょっと前から海外行くんじゃないかって噂になってたじゃん!」

胸の奥深くにまで達する刃物で刺され、一瞬呼吸が止まってしまう。ぐっと詰まった喉元を無理くり動かした後、そうだよ今更だよ、全部私が悪いんでしょ知ってるよ、沸き上がる暗い言葉と一緒に唾を飲み込んだ。
眼前にて居並ぶロッカーが色を失い、文字通り気が遠くなる。押し黙るしかない唇があっという間に渇いて固まる。肩に掛けた鞄の紐を握り締めた指の感触もよくわからない。額の辺りに鈍いもやがかかっているみたい、上履きの裏が床へ沈む錯覚に駆られ全身が重く冷たくなっていく。
余程ひどい有様だったらしい、初めは驚愕や呆れ、なんでっていつもそうなのといった感情を隠さずにいた友達も『い、いやまあ仕方ないよ』『う、うん、わかっててもわかってなくてもショックだよね? それは当たり前だって』と慰めになっていない慰めの言葉を掛けてくれはしたものの、本当に今流れている音に聞こえない自分に嫌悪が増すばかりだ。
何もかもが遠い。
嘘じゃないのに嘘のよう響く。
昨日、肌で感じた現実味のない白昼夢に似ていた。
強張った肩に手を置き教室まで一緒に行こうと言ってくれる存在は有り難かったけれど、『でももう覚悟してんだと思ってたよ』『平気そうにしてたから余計にさあ』続いた当然と言えるのであろう指摘の数々はいつまでも心のふちでわだかまり消えていかない。
(覚悟ってなに)
好きと言って貰えて嬉しかった。
私も精市くんの事が好きだった。
一緒にいると大体振り回されている気がしたけど楽しくて、知らなかった事を隣で知っていくのも面白くて、それしか考えていなかった。
保障なんかどこにもない、永遠に今が続くなんて有り得ないのに、彼との毎日はずっとそこにあるものだと勘違いしていたのだ。
朝の澄んで乾いた空気を淡く鈍く反射する廊下を踏み締める都度、上履きの底が得体の知れない粘つきに憑りつかれて本当に重い。もう歩けないと口に出す寸前で幾度耐えたか。目眩は感じなかったが視界に映るもの全部が薄れて自分一人だけ違う世界にいるよう。
覚悟、覚悟と二文字を壊れた機械みたいに脳内で無意味に繰り返す。
衝撃の大きさで引いていた思考の波が一気に押し寄せて体中を駆け巡りやまない。
病院の検査結果を聞き、電話越しで柔らかに笑いながら大丈夫だよと告げられた日。あれも嘘だったのとかつての精市くんへ向かって投げ掛け、違う、とすぐさま否定する。尋ねたとしてもきっとその時点では大丈夫だったとはぐらかされるだけだろう。
大事なことはいつも遅れて知る。
病気が重いもので、手術とリハビリを乗り越えて復帰した夏、のん気な私はお見舞いでじゃあもう退院だね等と平気で口にした。
定期検査の日にちも教えられず、前もって言って欲しいと頼んだが別に大事な事じゃないからとけんもほろろに突き返された。
あれもこれもと数え上げては深みへ落ちていく。
話して貰えない理由は二つに一つ。信用されていないか、真実を告げるに値する相手と思われていないかのどちらかだ。
そんな風に考えるしかない人間の気持ちを考えた事はあるの。
意志の強さが窺える彼の背中を心に浮かべてみっともなく詰ってしまう。
私なんかにどうにか出来るなんて天地が引っくり返っても思えないけれど、ひどくみじめだった。
フラれたわけでもないのに特に必要はないとあっけなく跳ねのけられた感覚に襲われ、今まであっさり通り過ぎて来た様々が無数の針と化して狙いすましたかのよう胸の中心を射る。
海外行きなんて栄転でしかなく、そもそも精市くんほどの人なら遅過ぎるくらいで、考えなしに平気で付き合っていた方がおかしいのだ。
幾度となくすごい人だと感嘆の溜め息をついておきながら、傍で見てわかっていたはずの事をこうも気楽に忘れるだなんてバカ以外の何者でもない。
証拠に、私は将来だって真面目に考えていなかった。
受験勉強を頑張ってはいても、それはエスカレーター式の私立学校へ入った以上、他大学へ進学するよりは確実且つなんとなくそうするものと思い込んでいたからで、好きな科目はあっても情熱を持って学びたいとまではいかず、大学を卒業したら多分他の人と同じよう就職をして、と漠然と描いていただけだ。
就きたい仕事もぱっと浮かばない。
私には何もない。
ただ一つやりたい事、テニスの為に日本を飛び出していく精市くんと比べ――、いや比べるべくもないのだ、そういうレベルに達してさえいなかった。
本当はもっと夢ややりたい事をしっかり持ち、目標へ向かって頑張っている子の方がお似合いで、彼にとっても良いんじゃないのか。
思い悩んだ瞬間がないと言えば嘘になる。
実際、校内でも名の通った才女と精市くんが話している場面を何度となく目撃し、立海は県内でも有名な私立校だからあからさまな意地悪をされたりはしなかったけれど、えっまさか幸村君の彼女ってさんなの、言わんばかりの表情を向けられたり、なんであの子が? 隠さず訴える視線をぶつけられた経験はあって、その時は気持ちが元気だったから、だよね、私も不思議、そう思う、等と心の中で同意し納得もしていた。
けれど今はとんでもない重石と化し、胸の奥から表層までくまなく食い荒らしていく。
海を越えた先の世界なんて遠過ぎる。どんな事を指すのかもわからない覚悟なんて出来るわけがない、その方法だってまるで考えつかなかった。
自分の命やこれからの人生をかけてやりたい事なんて、些末な問題にも無い知恵を絞り必死で奮闘している、目の前の事だけで精一杯な私にはない。単なる想像すら叶わない。途方もなさ過ぎて思考能力が追いつかないのだ。
ない、ない、ない、ない。
ないの連続ばかりで、いつの間にか始まっていた一限の内容がちっとも耳に入って来なかった。
終業のチャイムが鳴り響き、シャーペンをケースへのろのろ仕舞う。
ざわつく教室内は昨日とさして変わらず、休憩かトイレにか颯爽とドアから出ていく人、友達と賑やかに話している女子、机に残り参考書を開き前の席の生徒と何やら確かめ合う男子達、それぞれが自分らしく過ごしていた。
書き写しはしたものの黒板をただなぞるだけに等しかったノート上の文字の羅列が、空っぽの脳みそに語り掛けて来る。
『お前は何の為にここにいるんだ』
例えば精市くんがテニスプレイヤーとして世界で戦う将来へ邁進するのだとして、私に一体何が出来るというのか。
自分自身の事も満足に把握し切れていないのに、どんな言葉を掛けどんな風にどんな表情で応援するのだろう。上手に声を掛けられる自信なんか微塵もなく、その資格自体ないと思う。
いつだって見詰めて来た人の背中がぱっと脳裏に蘇る。

割れんばかりの歓声の中、強烈な光の差すテニスコートへ悠然と歩んで行き、真夏の太陽に晒されてるにもかかわらず無汗のよう、特有の高気温をも意に介さぬ涼しげとすら表現出来る顔つきのまま、試合前の握手の為にネット越しの相手へ差し出された掌の優雅な動き。
だがひと度審判のコールが響けば雰囲気は様変わりし、思わず誰もが呼吸を潜める静けさののちにテニスボールのインパクト音が鼓膜を貫いた。
時に有無を言わさぬ力の差を見せつけ圧勝、時に右に左にラケットを持ち替えて難敵に応じ、とてもじゃないけど届くとは思えなかった位置へ叩き込まれた小さな黄色を拾い上げ、ものすごい勢いで相手側へと打ち返す。
驚きと感嘆の叫びが巡り回る圧巻。
シューズと地面が激しく擦れ合う音に心拍数が煽られ、知らぬ間に胸の前で両手を握り締めてしまう。じりじり肌を焦がす陽射しと爆発寸前まで昂ぶった心臓の所為だ、動き回ってもいないのにこめかみと言わず背中と言わずほぼ全身が汗でびっしょり濡れており、いっそう力と熱の籠もる手が滑ってしょうがない。
精市くんが勝っていようが押されていようが私は大抵はらはらしてい、酷いと息をするのも忘れるくらいだった。
あんまりにも切羽詰まった表情をしていたのか、どうしていつもそんな顔をしているんだい、俺はそこまで勝てないような選手に見えるのかな、おかしそうに聞かれたいつかの日。
熱戦激戦を終えたその人は右手の甲で額辺りの汗をぐいと拭いながらベンチへと戻って来、傍で見守っていた仲間や褒め称える観客に迎え入れられた。ついさっきまで恐ろしく集中し時々刺すような視線で正面を強く射抜いていたとは思えない程ゆったりと目元を緩ませ、真田くんや柳くん達と言葉を交わし穏やかな様子だ。
茹だる熱さを多分に含んだ空気の渦に頬や腕の側面を焼かれ、知らない内に押し殺していた息が戻らない。
ふと不思議な間があく。
次の瞬間、精市くんはがっちり組んだ掌をほどき忘れた間抜けな私を真っ直ぐに見上げて来た。
何かで洗い流されたみたいに澄んだ瞳が、微笑みに揺れている。あちらこちらできつく乱反射するおびただしい数の光に埋もれ掛けながら。
訳もなく込み上げ、ぐ、と喉が絞られる。
いよいよ本格的に呼吸が止まった。
体の底から駆け上がった熱の塊に押され、目の下が震えて零れていく。
精市くんが少しだけ肩を竦めるようにして、こちらへ向かって破顔する。
私は本当にどうしてかわからないけど泣けて泣けて仕方がなくなって、たくさんの人や夏に輝く風景の全部が溢れた涙で滲んで見えなくなってしまったのだった。

眩しく煌めいていた光景が幻のよう消え去った直後、遠ざかっていた現実が急に舞い戻る。
次の授業の準備をしなきゃ、思うのに動けない。
耐え切れずうずくまってしまいそう、空気が重量を増したのではと本気で疑う。時間がいくら経った所で治りそうもない。
膿んだ心が感情や思い出をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて台無しにする。吐き出したいのに何一つ紡げず、こんな所でも不出来な己を呪った。
この先もずっとこういう事が続くのかな。
大事なことほど後回し。一番最後に話されて、だけど精市くんみたいにすごい人だから仕方ないと自分に言い聞かせ、離れている間も黙って従い、ただ待っているだけ。みじめになっても、傷ついたとしても、無神経だと怒りたくなったとて、世界を相手に戦う偉大なる人に迷惑なんか掛ける訳にはいけないから我慢するしかないのか。
――そんなの出来ない。私には無理だ。
一緒にいる為にしなくてはいけない、大変な事が多過ぎる。現実感も抱けない。頑張り方がわからない。
不意に右人差し指の腹がじくじく唸り始め、すんなり動かない目線を遣ると、ノートか教科書をめくる時に切ったらしい、細く赤いひと筋の線が走っている。
親指で擦って隠す。離してもう一回。そのままぐっと押し込めば嫌な鈍痛が神経に障り、当然だが痛かった。
(ついていけない)
もし私がそう口にしたら、彼はどうするのだろう。
悲しいけれど君が無理だと言うなら仕方ない、常日頃と変わらず、あっさり割り切ってどんどん先に進んでいってしまうんじゃないか。そこまで薄情な人じゃない、首を振って否定したくなる、でもテニスだけを選ぶ人である気がしてならなかった。
だって精市くんとテニスは絶対に切り離せないものだ。何も知らない、出来ない私は想像するしかないが、きっと彼の体や命、人生の一部なのだから。
(じゃあ、私は……)
『精市くんにとって私ってなに』
感情のままにぶつけた言葉が生々しい質量を持って再生され、すぐさま唇を噛み締め自惚れを恥じた。
今の今まで思い出しもしなかった中3の冬が急に近付いて揺れる。
初詣に行こうと誘われ、上手く言えない気持ちに振り回されていた私はそれでも了承し、やけに真剣な精市くんと一緒に願掛けをした。
少し歩こう。
当時から既に指揮官じみた貫禄のあった人に海まで連れて行かれ、冷え症の自分一人だったら絶対に来ない凍れる海岸を並んで歩いた。
湿ってぬかるむ砂地で離れ過ぎないよう歩調を合わせてくれるのに、聞きたい事には頑として答えてくれない。
真冬の風の吹き荒ぶ海辺で声が届く距離を保っておきながら学校でよく目にした笑顔はなく、訳の知れぬ不安に駆られた私はあろう事か幸村くんと一緒にいたくない等というたわけた思考に支配された。
間抜けぶりを発揮し転び掛けた所、どうぞと手を差し出して来る。
手袋をしていない精市くんの掌はあたたかく、私の冷え切った人差し指を包む硬い指の感触。
、これはないよ。冷たすぎ。もっといい手袋買いなよ。
今振り返ってみれば笑われてほっとしたあの時、初めて手を繋いだのだった。
勿論彼氏のはずもない同級生の男の子に手の甲まるごと握られ、驚愕と困惑しきりだった私が固辞するも頑なに許して貰えず、攻防を繰り広げる。
一人で歩けるよ。駄目だ、信用ならないな。
食い下がっても温もりが消えていかない。
転ばない、転ぶ、絶対転ばない、絶対なんてない。
親子か良くて兄妹、つまり小さな子供そのものである未熟さに溜め息が出、とっくに芽生えていた特別な想いに気付いてもいなかった私は、胸に苦い痛みを覚え喘いでいた。

同じ事だ。
約三年前と変わっていなければ進歩もない。
ただし比べものにならないくらい、今の方がずっと苦しかった。

幸村くんは――、精市くんはあれほど頑なに拒んでいたくせして、道行く女の人からはさぞ子供っぽく映ったであろう己の姿が恥ずかしくてしょうがなかった私の事なんて知りもせず、砂地から上の道へ戻った途端さっと解放する。
自分がこうと決めたら一瞬で覆す。
あっけなく後腐れなしに、潔く手放すのだ。
あの感覚を、思い出したくもないのに思い出す。
手袋越しでも伝わる高い体温が失せて吹き込む氷めいた海風で指が凍えた。まるで灯が消えたように。大きな掌の形も離れればうやむやになる。振り払われるより辛かった。もう必要ないよと離されたみたいだった。

思い出す。
決してゆっくり辿りたくない記憶と纏わる感情を丁寧になぞってしまう。
何度も繰り返し思い出す。
なんでも出来て気遣いの上手な優しい人は、だけど自分勝手だ。


精市くんにとっての私ってなに。
今までの事もずっとなんだったの。





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