06




考えてみれば以前から片鱗はあった。
時々見え隠れする程度、地続きに連続してではなかった所為で、間抜けな私は気付けなかったのだ。
今年の春から育てる花を減らすと静かに語り、急用が出来たとお昼ご飯の約束がなくなった。てっきりテニス部の練習だと思っていたらラケットバッグを背負っていない。珍しいな、不思議だな。たったそれだけ心で呟き、疑問すら抱かず綺麗に素通り。
受験生だろうともっともらしい訳を並べた精市くんは、俺達、とは言わなかった。
、自分の立場をわかっているかい』
始めから私の事しか指していなかった。
何故と沸き出でる問いの数々は一つの事実で片がつく。
早くて夏休みが始まる前、遅くても秋、彼は立海どころか日本にいないから。
点と線が結び付いた途端いとも容易く解決し、やり場のない怒りの込み上げるスピードを上回る速さでむしろ腑に落ちていく。疑心暗鬼に駆られ引き際を見失い、散々繰り返したくせしてあれもこれもと遡ってしまう。
いつだったろう、定期検査を受けた翌朝、とんでもなく早い時間に電話を掛けて来た。らしからぬ物言いに一瞬で背筋が伸び、もしかして病院で何かあったの、不吉な胸騒ぎに身を固くしていたら、柔らかに微笑んでいるのがスピーカー越しでもわかるのんびり口調で返され杞憂だったと緊張を緩めたのだ。
忙しくない時期の方が少ない人だから、一緒の時に先生から呼び止められる事はしょっちゅう、数え切れない程。
私は気にも留めなかった。
精市くんがテニスに掛かりきりで朝に夕にと部活に励み、部を率いる者として先輩や担当教諭と何事か交わしているのは当たり前の事で、ごく有り触れた光景だった。どんな話をしていたのと尋ねた覚え等なく、小耳に挟んだ記憶すらない。
いい加減に、熟考せず、よく見もせずに、そういうものなんだと受け流していた。
この有様でよくもまあ何か出来るとか頑張りたいなんて意気込んだものだ、過去の自分を引っぱたきたくて仕方がない、自惚れと勘違いもいい所すぎる。
大馬鹿以外に何と言うのが相応しい、凄まじい自己嫌悪に駆られると同時、頭上に鈍色の重たい雲が広がる感覚に捕らわれていく。
足元が揺らぎに揺らいで一向に定まらない。
行きたくないとぐちゃぐちゃになった心が叫ぶ。

どちらにしろ話をしなければならなかった。
感情の整理もろくに出来ぬまま顔を突き合わせたいわけはなかったが、精市くん本人に乞われた以上、無視という選択肢は残されていない。
あまり長文での連絡をして来ない彼らしい、文字だけ見れば異変や変哲もない、端末に浮かんだ黒の小さな羅列。
そこに宿る温度がなんとなく違うよう感じてしまうのは、私の思い込みなのだろうか。







会いに行くまでの時間がこうも憂鬱だった事なんて今までに一度もない。
ほとんど上の空で一日を過ごし、いまだ僅かに痛む人差し指に絆創膏を貼りもせず迎えた放課後、ただ待っているだけなんて耐えられないと悟った私はひたすら歩を進めていた。
息を吸って吐く。
何にかはわからないが細心の注意を払って、ゆっくり丁寧に深呼吸をし、半開きの扉に手を掛けた。
窓側から数えて二列目、後ろから三番目の席。
5月のまだ涼やかな風の吹き込む室内で、机に向かって書き物をしている精市くんは、何回見直してみても、どんなに目を凝らしてみたって、いつも通りだった。
少し癖のある髪がガラス窓から注ぐ陽射しにふち取られているのも、集中している時に俯く角度と鼻筋にかかる淡い影も、閉じられた唇の形や伏しがちになった瞳も、何もかもがそのままだった。
急に別人になるはずがないのだから当たり前だ、独りごちた直後、あまりにも変わらない姿にお腹の底が掻き乱される。
私だけが右往左往して、みっともない。
また透明な薄い膜が張られている心地に陥り、やっぱり違う世界に住んでいる人なのだと嫌でも思い知らされてしまう。
振り絞った勇気を早速奪われながらもドアレールを跨いだ瞬間、ふと精市くんが顔を上げた。
途端つま先にブレーキが掛かってしまう。肩が竦む。心臓が鷲掴みにされたみたいに縮んだ。

「あれ、

耳に馴染んだ声音、穏やかな口調、ちょっとびっくりした表情。

「随分早かったんだね。最後の授業は滞りなく、無事に終わったのかな」

嫌味を言われているのかと疑いたくなるほど普段のままだった。
不変、不惑、鷹揚かつ豪胆。
かつては褒めそやす言葉として浮かべたものが、私の中で錆びてボロボロ欠けてゆき、冷たく重く沈み込んで来る。
一秒だけ奥歯が擦れてカチッと鳴った。力いっぱい噛み締めなかっただけ自分は偉いと思う。胸の奥が気持ち悪い温度に濡れている。

「……うん」

ひと言を絞り出すのがやっとだった私へ向かって、変わる事のない彼が手際よく前の席の椅子を引き、どうぞ、と小首を傾げてやんわり微笑んだ。
無造作に伸ばされた腕は長く、遠目から見ても意外なくらい太くて、スポーツに打ち込んでいる人らしく筋張っているし、何より見慣れた仕草だった。
本当に変わらず優しくして貰っているのに、素直に喜べない。
溜め息をつきそうになるのを必死で耐え、可能な限り普段と同じよう足を動かし、導かれるまま横向きに腰を下ろす。
上履きの底で床を押しながら座る位置を決めていたら、精市くんが持っていたボールペンと上から下までびっしり文字の詰まった数枚の紙を隅の方へよけたのが目の端に映った。
最早、なんの書類なのと聞くまでもない。
尋ねる気力さえなかった。

そうは言っても、ただ黙って座っているだけではここにいる意味がない。

と、意を決して口を開きかけたら、彼がごく落ち着いた様子で話し始めて挫かれる。
出だし早々に意気地を打たれた私は両手の置き場に困ったまま、事務的にも聞こえる‘報告’と‘決定事項’を淡々と受け入れるしかなかった。
目線がどうしても下向いていく。スカートの裾を通り越し、上履きの先までをじっと見詰めた。高等部へ進学した春、買い換えた時はまっさらな色をしていたそれは、重ねた年月を感じさせる変化を遂げていて、進歩のない持ち主とは大違い。
自分の無意味さを少しでも覆したかったのに、結局のところ完全に無駄な悪あがき、余計に真実味を増しただけだ。
紛れもない事実に体の芯を潰され息が詰まる。
差し込む陽射しでつやつやと滑るような光に染まる机上で、まるでずっと年上の先生みたいに軽く手を組んだ人が、

「……?」

訝しげとも不思議そうとも判断しきれない、静かな声音で慎重に尋ねて来る。
聞いているかい、付け足されるかと身構えたが続きはなかった。
鼓膜を刺す沈黙が走る。
他の人の気配は近くではしないけれど校舎には確実に誰かがいる、遠いさざなみめいた空気に腕の肌をじわと押された。
喉は枯れていないはず、にもかかわらず言葉を繋げられる気がしない。仕方なしにやや首を傾け様子を窺うと、つい数日前までは身近な存在だった関節の目立つ指がゆっくり解かれる所だった。
精市くんと違って出っ張っていない私の喉仏の内側が鳴る。

「………うん。それは、わかった。昨日も聞いたし」

今度はこちらが指と指を組み合わせ握り締める番だった。
ぐっと力を籠めれば知らぬ間にうっすら汗をかいている事に気付く。くっついた皮膚が変に張り付いて鬱陶しく、紙で切った傷跡が染みて痛い。
今さっき私の名前を呼んだ彼が心持ち背筋を伸ばしたのがなんとなくわかったけど、身じろぐだとか簡単なリアクションも叶わず、どんな反応も出来なかった。
代わりに呼吸を忘れないよう心掛ける。
薄い酸素を吸って吐く。
心臓が大いにざわついて肺と気管を押し上げる所為で苦しい。

「わかったけど……でも、それで、」

こめかみの血管が音を立てて異常を主張する。
そういう話はしてないってまた切り捨てられたらどうしよう、どうしよう、ばかりが延々と巡る脳に影響を受けた脈がはやまり危うく喘ぎそうだ。

「それ…を、こうなりましたって聞かされて、私、なんて返せばいいの?」

いつまでも引きずっていないで、そうなんだ、向こうでも頑張ってね、笑えば済む話なのかな。
どんどん冷えていく心の片隅で考えてみてもピンと来ず、むしろ違和感のみが先立つ。ありきたりなエールを口にする自分も、穏やかに受け入れありがとうと返す精市くんも思い描けない。
ついに細かく震え出した掌を下向きにずらして握り締める。
捉えようによっては誠実に包み隠さず話してくれているのかもしれない、だけどそこに私は存在していないだろう、と一方的な恨み言が肥大してゆきどうしようもなかった。
嫌な弾みが心臓の下で生まれる。
圧された声帯が破裂するよう震え、すぐに無理矢理締め付けた。

「ごめん。やっぱ…り、同じことしか言えない」

だからおかしな発声になった。

「なんで、もっと早く話してくれなかったの? いっぱい考えたけどわかんないよ……」

喉の表にも奥にも上顎にも高熱の膜が張り付いたみたいで話しにくい。

「い、今更言ってもしょうがないってわかってるけど、でも、ほんとになんにも言えない。精市くんのこれからの話を、今されても、私…できない」

混乱が混乱を呼び、目の前がぐらつく錯覚をこれでもかというほど味わう。きちんと言葉にしなくてはと思うのに、全部が上手くいかなかった。
どういうわけか焦りは生まれず、空回る鼓動だけが速度を上げていく。頭の中が真っ白に染まる感じだ。

「だって……、わからない。わか…ない、から。…なんで、ってなる」

行き場がない。頼れるものが何もない。心細い気もしてどうしようもない。

「ずっと話してくれなかったのは、私がバカでどうせ気づきっこないって、放っておいたから? 言ってもしょうがなかった? ……どうでもよかったの?」

口にすればするだけ取って返す刃と化し全身が窮屈になって胸の真ん中が裂けるよう痛み、だけど即座に消え失せた。

「違う!!」

私自身が言い終わったか終わっていないかも感じられない速さで、精市くんが今まで聞いた事のない激しさで叫んだと同時に握り込んだ右手で思い切り机を叩いたのだ。筋肉と木がまともにぶつかった音の直後、金属製の四つ足ががたついて教室内に響き渡る。
突然の出来事に両肩をびくっと跳ねさせてしまい我を忘れて発信源を見遣ると、言って初めて自分の声の大きさに気付いたらしい表情の人の、見開かれた揃いの瞳とかち合った。
竦み上がっていた心拍が急に戻って来る。
腿が左右とも怯え震えた。
ド、ド、ド、とひどく乱れながらはやまる一方の脈を、ここに来てようやく怖いと思った。
いや、それとも破裂寸前の心臓じゃなくて、本当は違うものを恐れたのかもしれない。
――細く長い息を吐いたその人を。
私は初めて、怖いと。
(わからない)
こくりと唾を飲んでスカートを掴む。
精市くんは密やかに目を伏せ、こちらが息をつく間もなく上向かせる。
陰らぬ光の通る目だ。眼差しはひたむきに強かった。

「君を煩わせたくなかったんだ」

置いてけぼりの私と違い持ち直したのだろう、かの人は掌を緩ませつつ静々と続ける。
こんな時でも声の響きは真っ直ぐで迷いがない。
尚更もっとわからなくなってしまった。

「…私を、そういうこと聞いて、煩わしいってなる子だって思ってたの」

違うとそこまで否定するのならどうして、なんで、黙っていたのか。

「……思っていないよ」

同い年とは信じ難い落ち着きを保ち、けれど微かに悲しそうな笑みを向けられ胸が詰まった。
制服の布がしわくちゃになる強さで握り込む。
(わかってる。精市くんが私をそういう子だって思ってない事くらい、私だってわかってるよ)
なのに体の内がふつふつと煮え、どす黒い感情の細かな飛沫が心にこびり付いて重たく滴り、決して表に出したくはない濃い霧になっていく。結んだ唇をほどいたが最後、毒を吐いてしまうんじゃないかと本気で考える。せり上がって今にも溢れ出しそうだ。息の根を止めて貰った方がいっそ楽かもしれない。薄れていたはずの視野が徐々に赤く変異する幻を見た。

「受験勉強を、頑張っていただろう? 大事な時に余計な心配をかけたくなかったし、俺の事情で悩ませたくなかったんだ。にはそのままで……変わらないまま、笑っていて欲しかった」

ひと際大きく鼓動が跳ね、頭のてっぺんから足の爪先までをあっという間に刺すのは激情だ。首から上の隅々にまで血が上って皮膚が毛羽立ち力いっぱい掴まれたよう気管が狭まる。もういい加減に堪えきれなくなって沸き上がる暴力的な勢いに任せ口火を切った。

「私が足捻挫した時はずっと心配してたくせに自分はされたくないって、そんなの誰が納得して言う通りにするの?」

一ヶ所もつかえず言い連ね出すと止まらない。
次から次へと湧いて溢れて唇を閉じていなければ端から零れるし、反対に開いていたらいたで好き放題に飛び出していく。泣きたくなんてない、心の底から死ぬほど念じていても視界が弱々しく潤むのが嫌で嫌で仕方がなかった。
したかった事や本音が剥き出しとなり、なのに散々重ねた自己嫌悪をよりにもよって精市くん本人に肯定されたあげく、少しはマシな自分になれたのかもしれないと抱いていた希望を真っ向から否定されたよう感じてしまい、自分が怒っているのか悲しいのか悔しいのか恥ずかしいのかすらわからない。回る口と舌と感情だけが渦を巻き揺れる。

「できない事でも頑張るつもりで、もしなにかあるなら協力だってしたかった」

彼にぶつけたって意味のない我が侭としか表す他ない声だけが威勢よく私の体から離れていく。

「煩わしいとかっ……どんな時に笑うのかとか、嫌か嫌じゃないかなんてそんなの私が決める事だよ! 人の気持ちを勝手に決めないで。精市くんはいつも正しくて頭もいいから間違わないのかもしれないけど、なんでも自分一人で判断して進んでっちゃうまでは言わないよ、言わないけど、でもせめて…アメリカに行くって、そんな大事なことは……」

助けにならない相手になんか早い段階で話すわけがない。
体の裏側で冷静な自分が囁き背筋が張り詰めた。
動かしようもない現実を突き付けられてしまっては首を絞められるのと一緒だ。考えるほどに己のしょうもなさを自覚し、話せば話すだけ精市くんから遠ざかる。こんな感覚は初めてだった。何もかもが上滑りしていく。端っこに指先を掠める事さえ叶わない。
数え切れないくらいの記憶とそれに伴う感情、思い出が束となって心の中に消えない傷をつけて回る。

じゃあ今年のバレンタインはなんだったの。
のが一番欲しいな、俺は。貰えたら嬉しいし、好きだよ。年に一度くらいはちゃんと俺のものだと確かめたい』
お正月に自分がなんて言ったか覚えているよね。
『あけましておめでとう、今年もよろしく』
数ヶ月前の誕生日。
『明日からも俺の傍にいて欲しい』

時間を巻き戻し数え上げる過程であれもこれもと拾っては打ち砕かれ今までの全部が壊れていく。
精市くんは人の事を面白がってからかいはしても、嘘をついたりしない。絶対にそういう人だと知っているのに、大事な所は外さないと思っていたのに、矛盾が多すぎて考えがまとまらず無茶苦茶になる。私一人では抱えきれず崩れ落ち倒れてもおかしくない。
彼を心から信じていた分だけ辛かった。

「…………勝手だよ」

地の底にまで落下した声が無機質に転がり急激に冷める。

「別に私じゃなくたってよかったんじゃん。余計なことに首をつっこまないで、能天気にへらへら笑ってる子だったら気楽でよかったってことでしょ?」

違う、言うな、やめて、精市くんに対する侮辱だ。
いくらか残っている理性が抑え込もうと叫んでいるがなめらかに繋がる言葉は留まる事を知らない。

「なんにも知らないでただ笑っててって、そんなの…そんなの、あんまりだよ……。精市くんは同じこと言われたら、納得できるの」

手助けどころか心配もさせてくれないのか。
私の事なのに。精市くんの事なのに。
何もせず事情も知らずすぐ傍にいる人の気持ちもわかぬままいつも通りでいろだなんて、却って横暴だ。気遣われたようになんて全く感じられない、そもそも気遣いや配慮なのかさえ私には判断出来ない。
決定的にすれ違っている。
むごいくらいの差を前にして、埋められる自信も気力もなかった。
限界まで膨らんだ風船が弾けて一気に萎んだ心地に陥り、肺が縮んで血液を送る心臓は一拍ごとに力強さを失う。目の焦点が合わなくなっていき、しかし心だけが無闇に熱く、体の温度と感覚をまるごと奪われるさ中、異様に際立ち苦しみを生む。

「それとも、できなくても…普通に送り出せばよかった? 今みたいに余計なこと言わないで、なんでって聞きたいの隠して精市くんの思う通りにしてればそれで、」

想像もつかない。
同じ思考をひたすら繰り返して幾度となく辿り、しらみ潰しに探してみても見つからない。今の状況のまま精市くんの隣で笑っている自分がどうしても思い浮かべられない。
無為に時間を費やしている内にも、刻一刻と彼が立海からいなくなる日は近付いて来てい、気持ちだけじゃなく物理的な距離まで離れやがて顔さえも直には見られなくなるのだ。
こんなに何もかもが遠い人と、ずっと付き合っていくなんて。

「自信ないよ。そんな風に、頑張れない………」

(だってただでさえ精市くんのことわかんなくて信じられないのに)
言葉にすれば確実に終わる、初めの一文字が舌先まで迫って来たのを必死で耐えた。
絶対に言っちゃだめだと唇を引き結び、指先が白くなるまで掌を握り込んで、しらずしらず浅くなっていた呼吸を整え深く息を吸う。
く、とお腹に力を入れたのち出来るだけ乱暴にならないよう静かに席を立つ。

「…ごめんなさい。なんか色々まとまんない。ちょっと頭冷やしたいから、今日もう帰る」

かろうじて残っていたなけなしの気力を総動員し、なるべく落ち着いた声でと懸命に平常心を心掛けた私に対し、

「……そう。わかった」

返って来たのはいつになく輪をかけて冷静な承諾。
心臓が止まるかと思った。
まともに頷けたかどうかも定かではない、傍らに放っておいた鞄を引っ掴み、本当は全力で走りたいのを我慢してちゃんと歩いて扉に手を掛ける。背後の気配へと神経が集中しようとするのを堪える為、無理くり意識を反らし打ち付けた。
教室を出るや否や風紀委員がいたら100%叱られるスピードで廊下を駆け出すと息がぐにゃぐにゃにひしゃげて弾む。
過ぎていく窓の外の風景やあたたかな陽気、目に優しく和やかな日常が私を追い立ててやまない。
喉笛を噛み切られたような呼吸の乱れ方が鬱陶しい上に酸欠を招く。う、とも、ふ、とも判別のつかない言葉以下の呻きが唇の裾から零れて辺りへ散らばり、跡形もなくすぐさま消えた。
一度だけ上履きの先と磨かれた廊下がつっかかって転びそうになり、それでも止まらずひた走る。異常な速さの心音が回り巡り骨や肉とぶつかって全身に響く。
もう何も考えたくない。
ひと欠片だって思い出したくないし、感情が爆発しそうになっているのもすごく嫌だ。
(私、私ばっか、私だけ、いつもわかんなくていつも助けられてて頼ってた。私がなにを言っても取り乱したりしない。精市くんは変わらない。私がいてもいなくても)
救いようのない虚しさで胸に大穴をあけられ両足が力尽きた。
立ち止まったそこは階段の踊り場だ。
春の頃には苦悶しながら上り、逐一数まで覚えていた段が、下の階へと続いている。明かり取りの窓から降る陽の光と影が交互に織り込み、音もなく行き先を照らす。
跳ね転がった荒い息を殺しながら、来た道を振り返った。
誰もいない。
人の気配もなく、廊下は晴れやかな日光を浴びて煌めいていた。
瞼と目の下がぴりついて思わず擦ってしまう。

追いかけて来もしない。
携帯にだって連絡は入らないのだろう。
考えがまとまらないから今日は帰ると言えばすんなり受け入れ、もし私が明日にでもまた話したいとお願いすればきっといいよと頷いてくれる。つかず離れずの距離を置いて、きちんと考える時間を与えようとしてくれているのだ。
私なんかに何も言えるはずがなかった。
じゃあもう無理だからやめたいと伝えたらどうするのと聞けるわけもなかった。
生きている次元の違う、恐ろしく出来た人。才能も人望も人気もあってなんでも一人で決める事を叶えられる人。それだけの努力と実績を重ねて来た人。
だけど。
その冷静さと高校生らしからぬ精神力、行動力を尊敬してもいたけれど、今はとても――思えない。

姿の見えない彼を恨みがましく睨んでしまう自分は本当にちっぽけな、つくづくどうしようもない底の知れた人間で、いかに誰にとっても相応しくないかの証拠でしかなく、手加減なしの現実に打ちのめされる。
渇いた喉と目の表面が空気に擦れてにわかに痛む。
取り巻く現状から目を背け、階段を蹴飛ばすように走り下っていく。二度は振り返らなかった。





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